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全国自動車所有者名鑑:富士屋ホテルの自動車を巡って

twitterで先日こんな情報がリツイートされてきました。
この大正4年(1915年)の「全国自動車所有者名鑑」(東京輪界新聞社編)、私はこのツイートで初めてその存在を知ったのですが、調べてみると当時の自動車の普及状況を調べたレポートなどで時折引用されているものの様です。内容は前半に「自動車取締規則」が掲載され、後半に全国の自動車のナンバーとその所有者の一覧が住所と共にリストアップされるという構成で、自動車に関連する会社の広告が30件近く添えられています。

今は「個人情報保護法」などもある位の時代ですから、この様な出版物が大っぴらに出回ることなど考えられないのですが、当時は自動車を所有すること自体がステータスでもあり、そもそも車の所有者が極めて少ない中では、街中を走り回っている車が誰のものか、隠し立てするまでもなく周知になってしまうという事情を考えれば、こういう出版物が災いを齎すような状況は考え難かったのでしょう。お陰で当時の状況を調べる貴重な資料にとして残っている訳です。なお、国立国会図書館に類似の名鑑が存在しないか検索してみましたが、調べた限りでは見当たりませんでした。前後の年の名鑑が存在すれば、その間の推移を追うことが出来たのですが、今のところそれは叶わない様です。同社の出版物もこの名鑑以外に国立国会図書館に見当たらないので、同社が見込んだ程にはこの名鑑は売れなかったのかも知れません。

創業当時の富士屋自働車の貸自動車 - Wikipedia
創業当時の富士屋自働車の貸自動車(再掲)
Wikipediaより)
これを見た時に真っ先に思い出したのが、先日酒匂川の渡しについて取り上げた際に簡単に紹介した、箱根の自動車業者の話です。大正元年以来次々と貸自動車事業を始める会社が現れ、激しい競争を繰り広げることになった訳ですが、大正4年であれば当然それらの業者が所有していた自動車のナンバーが掲載されているでしょう。右の写真には富士屋自働車の2台の車のナンバー「K31」と「K169」が見えており、それらをこの「名鑑」で調べると何れも「足柄下郡温泉村(底倉)」の「山口 正造」の所有と掲載されています。この人は富士屋ホテルの創業者・山口仙之助の婿養子に入り、後に同ホテルの専務や支配人等の要職に就いて手腕を発揮していくのですが、この人が「富士屋自働車」を創業して社長に就任します。車が彼の個人名義になっているのはそのためかと思います。なお、「K79」では「山口 正蔵」と字が異なっていますが、やはり同社の所有であったことは「トヨタ博物館だより No.90」の10ページに掲載されている写真(リンク先PDF、左の写真に写っている3台の自動車のうち左の車のナンバープレートに注目)でも確認出来ます。

他方、「名鑑」で小田原や箱根のナンバーを探すと、「K73」「K113」及び「K132」の「足柄下郡湯本村」「松本安太郎」の名があります。この人は大正元年に創業した「エム・エフ商会」の代表者です。こちらもやはり温泉街の関係者であった訳ですね。「エム・エフ商会」の1年後に自動車事業を始める「小田原電気鉄道」のナンバーは「K124」「K147」「K148」に見えています。つまり、何れの会社も大正4年当時は3台ずつ所有して貸自動車事業を行っていたことがわかります。

さて、気になるのはこのナンバーの順番です。今の様にナンバーを選べる時代ではありませんから、恐らくこの順番は登記順ということになるのでしょう。ところがそうすると、この3社では最後発で創業した「富士屋自働車」のナンバーが一番若く、最初に登記されたことになります。2台目の「K79」も小田原電気鉄道のナンバーよりも若く、「エム・エフ商会」の「K73」に近い時期に登記されていることになりますね。これは一体何を意味するのでしょうか。

考えられる可能性は2つあると思います。1つは、山口正造、または富士屋ホテルの誰かが比較的早い時期から自家用車または社用車として車を保有していた、というものです。先ほどのトヨタ博物館のブログによれば、「K31」と「K73」が大正元年(1912年)にリリースされたアメリカ車ということなので、それより早いということはあり得ませんが、既に多数の外国人旅行者を宿泊させていて自動車に関する情報も豊富に得ていたであろう同ホテルが、まずは送迎用途以外で使用するために車を購入していたとしてもおかしくはありません。それであれば如何にもこのホテルらしい、ということになるでしょう。

もしそうであれば、こちらの「ホテル コンシェルジュ」のページで紹介されている

大正2年(1913)の夏のこと、ホイットニーというマニラ駐在の米国陸軍少佐が富士屋ホテルに滞在しました。その帰りの日、ハイヤーを頼んでおいたのですが、一向にやって来ません。国府津発の列車に乗り遅れると、大変なことになります。少佐は結局、人力車で山を下り、事なきを得ましたが、折角の思い出が台無しになってしまいました。

そこで、少佐は「一流のホテルは車を持つべきだ」と手紙を書き、正造に送ったのです。正造は納得し、早速、これまで世話になっていた人力車夫や駕籠(かご)人夫からも出資を仰ぎ、富士屋自働車株式会社を設立しました。

というエピソードの頃には、既に自動車はホテルにあったことになり、ただそれを宿泊客の送迎には(恐らくは事業者としては未認可だったために)使えなかったことになります。ホテルに既にあった車を転用したのであれば、事業化のために必要な作業が比較的少なくて済んだということになるでしょう。

ただ、その様な用途の車を1台ではなく複数持つというのは過剰という印象もあります。また、大正4年時点では事業者として「山口正造」の名前で登記されるのはおかしくありませんが、購入時点ではまだ娘婿でしかなかった筈(富士屋ホテルの専務に就任するのが大正3年)の彼が敢えて自動車を購入したというのも不自然なので、当初は創業者など他の名義だった可能性もあります。その場合は貸自動車事業に使用する際にその代表者となった正造に登記を移したことになります。

もう1つ考えられるのは、「富士屋自働車」が新たに事業を起こすに当たって、少しでも早く自動車を調達するために、中古車を譲り受けた可能性です。中古と言っても当時の2〜3年前のモデルのことですから、調達時点ではまだそれほど走り込んではいないでしょう。それで2台とも同じ車種で揃えることが出来たというのも妙ですが、離日する外国人などの伝が上手く付いたのかも知れません。こちらであった場合、富士屋ホテルが自動車事業の創業をかなり急ぎ足で進めた、ということになるだろうと思います。

どちらであったのか、あるいはその両方であったのかは、上記のツイートを受けて俄に調べた程度では資料に行き当たることが出来ませんでした。ただ、何れにしても大正時代に入ってからの自動車事業の展開が急ピッチで進んだことの傍証ということは言えそうです。また、「K31」が大正元年のモデルの車であるということは、明治時代中に神奈川県(そのうち欠番以外が全て横浜)で登記された自動車は30台以下に過ぎなかったということになり、これも本格的な自動車の浸透が大正時代になってからであることを意味していると言えるでしょう。



追記:
  • (2021/04/19):「トヨタ博物館ブログ」が削除されてしまったため、「トヨタ博物館だより」の記事を探し出してリンクを張り替えました。その際、新しいリンク先ではPDFになってしまったため、注記を加えました。また、「ホテル コンシェルジュ」のサイトは消滅してしまい、移転先を見出すことが出来なくなってしまったため、該当ページへのリンクは撤去しました。

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