「小田原大海嘯」の被害を、昔はもっと浜が広かったからという要因で説明しようという説も見掛けましたが、現在の宿場の南側の漁師町が高潮に対して脆弱であることの説明としてはまだしも、宿場の主要部が水を被りやすいことへの説明としては不足だと思います。「小田原大海嘯」の際に松原神社まで、更にその北側まで潮水が来たという事実は、漁師町が更に浜沿いに展開したことと関係なく、あの位置まで何時でも潮水が上がり兼ねないことを示唆しているからです。
因みに、河川の治水工事や砂礫採取で海岸への砂の供給が減って来るのは、小田原大海嘯のあった明治35年よりも後の時代の話で、事実大正時代くらいまでの写真では、国府津などの海岸には十分に砂浜があったことが確認出来ます。つまり、この時の被害はこうした地形改変の影響によって齎される様になったのでもありません。
むしろ、地殻変動などの影響で、宿場の標高が過去に遡った時にどうだったかを考える必要がありますが、今のところ高潮の際に潮の遡上する範囲に影響が出る様な大規模な地殻変動は、小田原周辺では確認されていないと思います。
海岸方面を向いているが、そちらに向かって
緩やかな上り坂になっている
国道1号線周辺の標高が約5m、中心が古新宿で約8m
海岸沿いは更に標高が高い
この砂丘の代わりになりそうな微高地が近傍に見当たらないので、かつての街道筋がこの砂丘を大きく外れて別の標高の高い場所へと向かっていたとは考え難いところです。そうすると、当初の小田原宿は、旧東海道筋のもっと標高の高い区間に展開していた可能性の方が高いのではないか、ということになるのではないでしょうか。但し、筋違橋町より西側では、もう少し山裾に近い場所を進んでいた可能性はありそうです。勿論、その辺りでは現在より標高の高い場所を求めて進んでいたことになります。実際、江戸時代初期の道路遺構が今の国道1号線の北側で発掘されており(筋違橋町遺跡第Ⅰ地点、第Ⅲ地点など)、何らかの理由で北側の敷地を広げ、街道筋を南に移す工事が行われた可能性が窺えます。「筋違橋町」が橋の名前に由来する町名を持っているにも拘わらず、該当する橋の存在が特定されていないのですが、「東海道名所記」など江戸時代初期の紀行文では筋違橋を渡ったと記すものも散見されることから、あるいはこの道の付け替えに際して水路が整理され、「筋違橋」が廃止されたのかも知れません。
右手が東海道、左手が熱海道
それは、この南町付近に熱海道との分岐点があることです。以前見た様に、鎌倉時代に源頼朝以降歴代の将軍・執権が伊豆山と箱根の「二所詣で」を行っていたことから、鎌倉からこれらの権現社へと通う道筋が整備されたと考えられているのですが、それであれば、当初の宿場が出現するのはやはりこの2本の道が交わる辺りが中心になる方が自然ではないでしょうか。以前の引用文中に「
称名寺文書の某書状に、二所への「御まいりの人ハ、をたわらと申候にとゝまり候しに候」」とある点も裏付けになると考えています。但し、(その3)で見た様に小田原の宿場の成立は鎌倉幕府の「二所詣で」よりは大分遅れましたので、この時間差が何故生じたかについては、もう少し何らかの説明が必要な課題と思います。
一方、松原神社の東側には東海道と甲州道の分岐点がありますが、この甲州道は小田原と甲斐国や滝山城(後には八王子城)との間を結ぶ道です。北条氏が小田原に拠点を置いた後、八王子には氏照を養子入りさせて関係を深めたり、甲斐国とは一時期甲相駿同盟を結んだりしたため、その頃には重要度の高い道になっていたことは理解出来ます。しかし、それ以前の時代には、鎌倉とこれらの土地との往来には関本から酒匂・国府津方面に下りる道の方が近道で便利であり、小田原にようやく宿場が出来た頃に敢えて甲州道から小田原を経由していたかは疑問です。そうなると、街道の交通量が先に伸びてくるのは熱海道の方の筈であり、集落が発達しやすいのも熱海道との交点の方ということになってきます。
今のところ、この説を裏打ちする明確な証拠はありません。ただ、この南町で比較的古い時代の井戸が発掘されている(御組長屋遺跡第Ⅱ地点)点は、あるいはこの説を裏付けてくれるかも知れないと考えています。小田原の市街地の発掘調査は必ずしも進んでいるとは言えないものの、掘れば何かしら出そうな雰囲気が多々ある地域だけに、今後の調査に特に期待したいところです。
また、韮山に本拠を置いていた筈の伊勢新九郎が外郎家を小田原に招聘した際に、定着した場所がやはり南町の付近であったという点も、元はそちらが小田原の中心地であったが故ということになるのかも知れません。

松原明神の由緒書きは火災で失われているものの、口伝によれば、天文年間に海中から出てきた十一面観音像を松原からこの地に移して祀ったと伝えられています。前回取り上げた嫡子の北条氏康の大亀の吉兆からも、この社と海との深い関わりが窺えます。
更に、(その1)の最初に掲げた小田原宿のルートマップの標高グラフを良く見ると、松原神社の参道入り口を境にして、その東側は急に標高が下がっていることに気付きます。もちろんこれは現代の標高ですから、江戸時代以前に遡った時にもこのままとは限りませんが、微高地の基本的な傾向はそれほど変わっていないと思われますので、松原明神社がより水を被りやすそうな場所との境に立地しているとも言えそうです。
穿った見方ですが、私は氏綱が、新たな街場を拡げるにあたって、元からの町よりは水に浸かりやすい区間を使わざるを得なくなったために、その対策の一環として水に纏わる由緒の深い松原明神社を重用し、水難除けの神様として宿場の鎮守に据えたのではないか、という気がします。勿論、宿場の町人もその辺が水難という点ではあまり使いたくない場所であることは承知していたでしょうが、城主がそこまでして担保してくれるならと、その土地に住まうことを次第に了承していったのでしょう。当然、その頃から防潮のための土塁築造などの高潮対策は既に始めていたのに違いありません。
また、一説では松原明神社自体がかつてはもっと東寄りの、山王松原の辺りに位置していたとも言われています(「新編相模国風土記稿」)。この説の通りなら、氏綱が水難除けのために松原明神社を現地に遷座させた可能性も出て来ます。
旧宿場町周辺は砂丘、その北側は「埋立地」に
分類されている
小田原城は元々は山城としてその姿を現しましたが、その後城を巨大化する際には平地を目指して拡がっていきました。これはその足元に宿場があったことも関係するでしょう。その過程で城と宿場を拡充するうちに、土地が足りなくなって条件の悪い土地も利用せざるを得なくなっていったのでしょう。湿地を埋め立てたり、海岸に土塁を築いたりしなければ、これほどの大きな町を作り上げることは到底出来ない土地だった、ということです。とはいえ、そればかりでは城下が整理出来ませんから、宿場にも協力を要請して街道筋を東へと伸びていく様に造り替えていったのでしょう。宿場の方も小田原城との依存関係を深める過程で、城主の土木面の支援なしには成立し得ない姿へと変わってしまったのではないでしょうか。
そのため、小田原城が開城し大久保氏に引き継がれた後も、宿場を取り込んだ城は基本的にはそのまま維持せざるを得なくなっていたのでしょう。稲葉氏の時代になって宿内が整理され、近世の宿場らしい姿に変わっても、基本的にはその道筋は大きく変わることはなく、宿内が水難に遭わないように例年気を遣わなければならなくなったのは、そのためだろうと思うのです。でなければ、宿場をもっと山側の風水害に遭いにくい場所に移す選択肢もあり得た筈です。
何れにしても、「小田原大海嘯」の被災範囲を見ていると、どうしても「そこが最初から宿場だったとは思い難いなぁ」という気がして仕方がないのです。無論、現時点ではこんなことを考えているのは私くらいでしょうから、どの位賛同されるか、大々的に反論を浴びることになるのかわかりませんが…。
追記:
- (2016/01/13):ストリートビューを貼り直しました。