この時の高潮被害は確かに甚大なものではありました。しかし、この被害を齎した台風については、「神奈川県災害誌(自然災害)」(横浜地方気象台監修 1971年)が以下の様にまとめています。
〔概況〕
マリアナ諸島に発生した台風は27日父島を通過し、28日朝八丈島の西方を過ぎ、房総半島南端に上陸、東京湾を北上し、関東地方を経て、新潟付近から日本海に入り北海道に再上陸後オホーツク海に達した。
これとは別に21日ルソン島に現われた台風がゆっくり北上して28日午後紀伊半島東部に上陸し、夕刻福井を通って日本海に出、樺太方面に抜けたが、この台風の被害は県内では殆どなかった。
〔県内の状況〕
横浜では28日早朝より強風となり、以後次第に強まって8時には34.1m/sを観測した。
気圧は720.5mmHg(960.6mb)となり、風向は順転して変わったが29日夕刻まで36時間もの長時間連続して吹きまくった。雨量は少なく、県内でも多い所で70mm前後、とくに県西部では少なく、40mm以下であった。しかし風害は甚大で、とくに、湘南方面の高潮では死者60人、負傷者369人行方不明12人を出し、家屋流失773戸、浸水は床上床下合わせて1,660戸に及んだ。
船舶の流失も136隻、破損423隻で全隻数の約半分に被害を出し、この被害は、大磯より西方一帯に集中し、とくに国府津以西は最もひどいものであった。
波高は酒匂川以南は、激浪が海岸をこえて、4〜5町の遠きに達した。国府津が被害の分岐点で、これより東では次第に低く、大磯では一丈余と言われた。
(測候所雑纂・気象月報・横浜開港50年史・足柄下郡史)
(上記書88ページより引用、気圧数値は正誤表反映済み)

(「神奈川県災害誌
(自然災害)」より)

(「神奈川県災害誌
(自然災害)」より)
なお、上記は神奈川県の文書であるため他地域での被害について触れられていませんが、この台風は更に足尾で大きな被害を出したため、最近になって「足尾台風」という通称も用いられる様になりました。典型的な風台風であったところに、別の台風が接近して進んだために進行速度が速まり、更に強烈な風を発生させた(「藤原の効果」と呼ばれています)ために、被害が拡大する結果になったのでしょう。
この高潮の浸水地域は前回引用した片岡助役の日記にも出て来ますが、小田原町の東側が特に酷かった様です。その市街地のうち、特に旧東海道筋ではどの辺が水に浸かったかを具体的に特定したいと考えたのですが、浸水域を色塗りした様な詳細な浸水域図などは作られていない様です。多少なりとも手掛かりになる様な史料をと探したところ、当時の浜町に在住していて被災した福山金兵衛氏が、22点の絵に当時の様子を描いた「小田原大海嘯全図」の存在を知りました(「小田原大海嘯が110年、啓発に被害状況記録した絵巻物を活用へ」神奈川新聞 2011年12月30日付)。この画集は未出版で、2012年9月にこの全画を含む図画展が小田原市民会館で催されていたのですが、生憎とその開催を知らず見逃してしまいました。幸い、この時配布されていた展示概要が入手出来たので、これを元に描かれた箇所の地名を書き出すと、
現地の標高が写っている。「6.5m」は南側の
東海道筋よりも一段低い値
- 「山王」
- 「中島」
- 「小八幡」
- 「国府津」
- 「◯宮小路/唐人町」
- 「◯小田原城」
- 「真鶴岬」
- 「吉浜」
- 「◯万年町」
- 「◯万年町一丁目旧鍋町」
- 「新玉」
- 「旧誓願町」
- 「◯松原神社/新玉新道」
波高は酒匂川以南は、激浪が海岸をこえて、4〜5町の遠きに達した。」は、こうした被災状況を指しているものと言えるでしょう。
それでは、小田原町の被害が何故これ程までに大きくなってしまったのでしょうか。それは、片岡助役の名前で神奈川県に提出された「請願書」の中に記されています。
請願書
客月廿八日当地方激浪ノ際民家ノ破潰セシモノ四百、半潰六十九、浸水家屋千戸、死傷百余ノ多キニ上リ振古未聞□災害ヲ蒙リ幾多ノ生霊ヲ荼毒致候ハ全ク海岸堤防ノ決潰ニ外ナラサル儀ト確信仕リ候抑当海岸ノ地大久保氏所領ノ当時ハ年々多大ノ費金ヲ仕出シ之カ堤防ノ修築ヲ為シ来リ候為メ何レモ漁民ハ安堵生業ニ罷在候処廃藩置県ノ後ハ堤防漸ク破壊シ明治十年の激浪ニ遇ヒ完ク其本体ヲ没シ現時僅カニ其旧態ノ一部ヲ留ルノミニ有之故ニ風波起レハ忽チ浸水ノ災危ヲ被リ其都度直接利害関係者ニテ一部姑息ノ防波工事ヲナスノミニシテ数十年間曽テ堤防修理ヲ加ヘタルコト無之殊ニ当地ハ大半其生業ヲ漁獲ニ仰キ此地唯一ノ産業ニモ相成居候儀ニ有之今ニシテ堅牢ナル築堤工事ヲ施サ丶ルトキハ沿岸ノ地徒ニ空漠タル砂礫ニ変シ小ニシテハ小田原ノ衰微ハ勿論大ニシテハ国家ノ利害ニモ関係致シ一日モ猶予致シカタク候若シ仮ニ之ヲ町民ニ負荷致候モ到底民力ニ堪エ難ク目下民心恟々トシテ昼夜寝食ヲ安スルモノ無之閣下曩ニ御巡検有之親シク被害ノ状況ヲ了セラレ候通実ニ築堤ノ事焦眉ノ急務ト存候間特別ノ御詮議ヲ以テ至急相当ノ御保護アランコトヲ茲ニ町会ノ決議ヲ経謹テ奉請願候也
明治参拾五年拾月廿日
小田原町長代理助役 片岡永左衛門
神奈川県知事 周布公平殿
(「明治小田原町誌 中」同年10月20日の項、中巻283〜284ページより引用、強調はブログ主)
江戸時代中は、小田原藩主であった大久保氏が防潮堤を維持するのに例年多大な出費をして来たと言うのです。確かに「新編相模国風土記稿」には
と記されていて、全長2.2kmにも及ぶかなり大掛かりな築堤があったことが窺えます。しかし、この堤防の普請について、「小田原市史」の「史料編」「別編 城郭」に何か関連しそうな江戸時代の史料が載っているか確認しましたが、見当たりませんでした。東古新宿町濱より西山角町境まで、長千二百三十間餘、町裏に添て浪除堤あり、堤下より浪打際まで幅七八十間…
(卷之二十四 小田原宿上 「海」の項より)

旧片岡本陣の跡地(再掲)
一方、請願書は明治時代に入ってこの堤防の修理を行うことが出来ないまま、高潮の度に崩壊するのを座視せざるを得なかった、とも書いています。それまで藩が普請していたのに、それに代わる費用負担の枠組みが明治新政府によって用意されなかったために、沿岸の集落のか細い財力では修理にかかる費用を負担し切れなかった訳ですね。実際、「明治小田原町誌」にはこの明治35年の高潮の前にも、幾つか大きな被害を出す高潮の記録が残っています。
- 明治10年(1877年)7月26日「近年希なる激浪にて流失家屋拾五戸全潰六十五戸半潰参拾四戸大破廿五戸に及ひ義捐金二百八拾円を被害者に分配す。」
- 明治13年(1880年)10月4日「大風雨大浪にて死傷二十人に及ひ、市中の破損も少ならす。」
- 明治17年(1884年)9月15日「大風雨にて市内の破損甚しく、概況の上申書を左に掲く。」
暴風雨概況
過ル九月十四日夜ヨリ微雨翌十五日午前九時頃ヨリ東南風襲来リ漸ク其勢ヲ逞シ随テ雨勢之ニ加リ同十一時頃ヨリ最モ猛烈ヲ極メ或ハ家屋ヲ顛倒シ或ハ樹木塀墻ヲ転覆シ甚タシキニ至リテハ負傷スル者アリ其惨憺タル景状勝テ不可云而メ海浜ニ至ツテハ怒濤砂ヲ巻キ陸地ニ充散セシメ其堆積スルモノ尺乃至六七寸ニ至ル故ニ瀕海田歩之害ヲ被ムルニ至レリ午后三時頃ヨリ風雨西方ニ転シ猶猛烈ナル…其ノ被害左ノ如シ
負傷四人 潰崩弐拾弐戸 半潰百五拾戸 破損千七拾五戸
小田原駅幸町外四ケ町…
- 明治25年(1792年)9月12日「激浪あり、海岸の住民は驚愕して避難をなしたり。」
- 明治32年(1899年)10月7日「激浪襲来し死亡二人、負傷二十人、家屋の全潰八戸、半潰五十戸を出せしに依り義捐金を募集し被害者に分与す…」
- 明治35年(1902年)9月5日「大浪に而家屋の半潰拾戸、破潰四戸、浸水百戸軽傷者数名を出したり。左に片岡助役の日記を掲く。」
九月五日 晴 午前七時半出勤昨夜より大浪に而人家に浸水及破損の家屋ありとの報に接し直に出張せしに当町海岸の浪除土手は近年非常に破損したるも延長数十町なれハ止を得ず自然等閑になせし為浪は自由に家屋に打込半潰の家屋拾戸浸水百余戸其他物置等の破損四棟なりしも波も次第に平穏ならんとの事なれハ帰場したるに午後波浪の平穏ならざる報告に接し六時より海岸に出張し夫々指揮をなし避難所弐ケ所を幸町に設け拾時帰宅す…
(上記書各日の項より抜粋、…は中略)
「明治小田原町誌」の記述の精度は高いものの、片岡永左衛門自身の日記(初期は親族の日記なども活用している)などを基本に据えながら必要に応じて町の公文書から統計などを補充するといった構成になっています。このため、年度によって記録の粗密があるのは避けられないところで、このリストに明治20年代の記録が少ないのは、あるいは記録漏れである可能性も念頭に置く必要があります。また、特に初期の記録で簡素な記述に留まっている災害の記録の中には、あるいは高潮によるかも知れないと思われるものもありました。つまり、これ以外にも高潮の被害が数件出ていた可能性がある、ということです。
とは言え、基本的には被害の程度が次第に大きくなっており、特に明治32年や35年9月、つまり「大海嘯」の同じ月の初頭にも高潮の被害を出し、死者まで出る程の状況になっています。つまり、既に海岸の堤防は高潮を防ぐ能力を完全に失っていることが明白になっていたにも拘らず、当時の行政の枠組みでは自助原則でなかなか援助が出ず、修理をするにも義捐金を流用するなどの方法に頼らざるを得なかったのです。そんな折に、この「大海嘯」が起きて被害が大きくなってしまった訳で、その点ではまだ防災政策の枠組みが未整備だった時代故の災害だった、と言って良いでしょう。
そして、この明治35年の「小田原大海嘯」の後、改めて県に築堤工事を要請するものの、その後の進展も思わしくないことから、被災地が地区毎に義捐金や寄付金を元に自発的に応急工事を施していくことで、少しずつ築堤を進めていきました。最終的に県の補助が付いてコンクリート製の防波堤が着工した時には、元号も変わって大正2年(1913年)になっていました。
無論、現在は西湘バイパスと一体化した大型の防潮堤にその役目を譲っており(山王川沿いの辺りではまだ河川の堤防として現役ですが)、より内陸側に残るこのコンクリートの堤が波を受け止めることはもうありません。
「小田原大海嘯」の紹介はひとまずここまでとします。次回は一転して小田原宿と小田原城の成立の歴史を追います。
追記:
- (2014/07/10):Googleストリートビューの更新に伴い、唐人町付近の表示がズレてしまったため、調整し直しました。一方、旧防波堤の方はストリートビュー更新によって小口面が見えなくなってしまいましたが、キャプション等はそのままにしてあります。
- (2016/01/13):再びストリートビューを貼り直しました。
- (2016/03/05):神奈川新聞の記事へのリンクが切れていたため、張り直しました。また、再びリンクが切れた場合に備え、該当記事の見出しと日付を付記しました。
- (2020/11/13):「Yahoo!地図」を「Googleマップ」と差し替えました。また、1枚目のストリートビューはズームレベルを変更して標高を示す標識が見える様に調整し直しましたが、2枚めのストリートビューでは該当箇所のビューが削除されてしまっていたため、2015年のストリートビューを拾うことが出来た場所のビューに差し替えた上で、記事中の銘板の位置を「地理院地図」で示しました。
- (2021/04/17):再び神奈川新聞の記事へのリンクが切れていたため、張り直しました。
- (2022/12/17):旧防波堤のストリートビューが思う様に表示出来なくなったため、旧防波堤により近づける場所のストリートビューと差し替えました。その結果、銘板の存在する場所とは違う場所のストリートビューに変わっていることに御注意下さい。