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【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その1)

以下の記事は大分前から書き溜めていたもので、下書きの状態で「塩漬け」になっていたものですが、いい加減寝かしておいても進展がなさそうなのでひとまずこの状態で公開します。

旧東海道:小田原宿内
江戸時代の小田原宿の範囲
山王の江戸方見附〜板橋の京方見附(赤マーカー)
青マーカーは片岡本陣の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」等を合成:別ページで表示
旧東海道のシリーズ、今回は小田原宿を取り上げます。

当初この回は、江戸を発って最初の城下町である小田原の、宿場と城の成立の関係を追うだけの記事にする予定で、「海嘯(かいしょう)」の2文字はタイトルにありませんでした。しかし、酒匂川の渡しや酒匂橋のの歴史を調べる過程で明治35年(1902年)の「小田原大海嘯」の歴史について初めて知り、そこである大きな疑問に突き当たり、この件について触れない訳には行かないと感じたため、急遽タイトルに「海嘯」を加えることにしたものです。

もっとも、そもそも今は「海嘯」という言葉自体、耳にする機会があまりないと思います。まずはこの言葉の説明から始めないといけないですね。


「嘯」という漢字を漢字辞書で引くと、「口をすぼめて息を吹く様」といった大元の意味が最初に出て来ます。「フー」とか「ヒュー」とか音を鳴らして息を強く吹きつける感じですね。そして、そこから派生した幾つかの意味の中に「ほえる」「うなる」といった言葉が現れ、そこに用例として「海嘯」という言葉が出て来ます。つまり、元々は海が荒れて唸りを上げる様を表現したものであることがわかります。

しかし、実際は「海鳴り」の意味の他に、「高潮」や「津波」の様な大波を表現することが多く、特に過去の文書で用いられている場合は「高潮」あるいは「津波」と同義であることが良くあります。今はアマゾン川のポロロッカの様に河口を遡上する潮津波を「海嘯」と呼ぶケースが多い様ですが、それ以外では専ら「高潮」や「津波」といった言葉を使う様になったので、「海嘯」という表現をあまり見なくなりました。

これには防災上の知識が世間一般に浸透したことが背景にあります。今は「津波」と「高潮」が本質的に違うものであり、その発生原因や避難の考え方・方法が根本的に変わってくることが広く理解されていると思います。「Tsunami」に至っては今や国際的にも通用する言葉になりました。しかし、数十年前には津波と高潮の違いが専門家以外にはあまり正しく理解されておらず、しばしば両者が混用されていました。今回の件で資料を漁っている最中にも、こんな用例を見つけてしまいました。

…それは明治三十五年(一九〇二)の小田原大海嘯と大正十二年(一九三七)の関東大地震であつた。小田原を初め西湘一帯の海岸には毎年夏期になると土用浪といつて、海が荒れて激浪が襲来するのは常のことであり、またその一帯は地震、大風などに倶なつて海嘯をおこし、人畜に被害をおよぼすこともあつた。元禄十六年(一七〇三)地震のときの大海嘯は記録の上にも顕著である。

(「小田原市史料」1966年 388ページ「四 明治の大海嘯と大正の大地震」より)

前半では明らかに「高潮」のことが語られており、それが途中から「津波」の話へと変わってしまっています。この時代はまだその程度にしか理解されていなかったのでしょうから止むを得ない面もありますが、知識の浸透した今はこういう水準で解説するのはあまり好ましくないと思います。実際、「小田原大海嘯」の場合は台風に由来するものですから明確に「高潮」なのですが、これを「津波」と誤って紹介している書物(概ね昭和30年代出版のもの)も幾つか見ました。Wikipediaの「小田原大海嘯」の項でも、こうした事例を考慮して津波と解するのは正しくない旨記されています。


歴史的事象の話をする際には、当時の史料等との整合性を損ねない様に、なるべく当時の述語を用いるのが仕来りになっていますので、本来ならば「海嘯」で通すのが「正式」なのでしょう。しかし今回は上記の様な誤解を回避する方を優先して、引用文中で「海嘯」としている場合と、「小田原大海嘯」の様に固有名詞として定着しているものは基本的にそれに従いますが、それ以外の箇所ではタイトルを除き「高潮」「津波」と適宜置き換える様にします。



旧東海道:小田原宿片岡本陣跡・明治天皇本町行在所跡
小田原・明治天皇本町行在所跡碑(再掲)
明治時代は片岡永左衛門助役邸
「海嘯」の意味が理解出来たところで、「小田原大海嘯」の紹介に移りましょう。先ほども触れた様に明治35年の9月28日に、小田原を中心とする相模湾西岸一帯を折からの台風による高潮が襲い、多大な被害を出しました。

この日の様子を、当時の小田原町の助役(当時の小田原町長は空席だったため、実質的に市長代理として災害対策の陣頭指揮を執っていた)片岡永左衛門が当日の日記にかなり仔細に記録しています。またしても長くなりますが、当日の雰囲気が良く伝わる文章なので、当日分全文を収めます。

九月廿八(明治三五年)日 日曜 午前四時頃より降雨に風を加へ七時頃よりハ追々烈しくなりしも非常の風雨と言にも非す、十時頃よりハ余程平穏となりたれは午後は外出に困難は来たさゝる可しと外出の心算なりしに、拾時半頃役場当直より俄に波濤起り非常の報告に接したれハ万年町海岸に役場出張所設置をなし、洋服に着替し役場に至りしに、警察署長より救護の為め消防組に出場を通知すへき命に接し直に警鐘を乱打なさしめ、幸海岸に出張せしに波濤は海上に山岳の湧出せしか如くに、既に六、七拾の潰家を現出し、是か復旧にはと呆然たるに際し、俄然襲来したる大波に巻込れんとし漸く逃延ひ万年町に至れハ、惨状甚しく益々其多を加ふ、小路に漁舟を引揚け往来に不便なれは国道に引移しを指揮をなし、古新宿に至れは海岸は六七分の潰家に、弐筋の道路に沿ひたる両側の家屋は破潰をなし、其上を波浪の打越し甚た危険なり、種々注意を与へ新宿に廻り見れは非常の浸水に、床上二、三尺に及ひ、難を屋上に避けし者をは国道に舟を浮へて救助なすに至れり、夫より出張所に至り負傷者の収容避難所設置等を指揮をなし、幸町より十字町、新久を巡視せしに、予想の外なる被害に筆紙に尽し難く、先年三陸海嘯の絵画を見しに、或は俗に言画空事ならむと思ひ居りしに、今日此の惨状を見て始て其の事実なるを覚えたり、夜に入り避難所八ヶ所を廻り帰所をなし、各新聞社員の来訪に接し、其外種々雑多の指揮をなし、午前二時は高潮との事なれハ此上如何になり行やと憂慮したり

(「小田原市史 史料編 近代Ⅰ」819〜820ページより。なお、同書では出典を「明治小田原町誌 下」としていますが、「小田原市立図書館郷土資料集成3」に収められた該当書には見当たらない文章であり、恐らく「片岡永左衛門日記」の誤りであろうと考えます。)


片岡助役の足取り
当日の助役の足取り(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「土地条件図 - 数値地図25000(土地条件)」等を合成
別ページで表示
地元の方でないと、この時の片岡助役の足取りを思い浮かべるのは難しいでしょう。無論、この記録だけでは微細にわたって足取りを再現し尽くすのは無理ですが、被害地域を想定しやすい様に出て来る地名を頼りに概略を分かる範囲でルートに書き起こしてみました。夜まで8ヶ所の避難所を巡ったと記している辺りは、各避難所の具体的な場所が特定できないので含まれていません。

※2019/10/13追記:「ルートラボ」の終了に備え、ルート図を「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。その際、ルート図中の「コメント」(バルーンをクリックするとコメントが表示される)については同様の機能が「地理院地図」には現時点では存在しないため、マーカーのアイコンを「0」から「10」まで使用してルート上の順番を追える様にしました。「別ページで表示」のリンクから「地理院地図」上で該当地図を表示出来ますので、そこで各マーカーをクリックすると、コメントの内容を表示することが出来ます。


海岸沿いに出て自らも浪を被りそうになった後、東の古新宿(こしんしゅく)町、新宿(しんしゅく)町へと向かったのは、そちらの被害が既に大きくなっているのが見て取れたからでしょうか。この図と上の小田原宿の範囲を重ねると、かつての宿場町の東半分を主に巡って適宜指示を与えていることがわかります。西の方は街道筋が海から幾らか離れるので(町名は内陸のかなり広い範囲を含んでいる)、恐らく海沿いの寺院が並んでいる辺りを主に巡っている筈と考えてこの様な図に起こしました。


死亡12
負傷184
全潰144
半潰69
破損550
流失293
1,056
浸水床上300
床下700
1,000
(上記書明治35年10月16日の項、中巻282ページより、項目や集計は原文ママ、漢数字は算用数字に置き換え)
何れにせよ、この日の高潮は小田原の町のかなりの範囲を水浸しにして、東海道に舟を浮かべて救助活動を行う様な状況となり、多数の家屋を倒壊させて死傷者も多数出す惨事をもたらしたことがわかります。この時の小田原町の被害の実態については、「明治小田原町誌」に右の表の様にまとめられています。この町誌も当時の片岡助役が後にまとめたものですが、明治年間の小田原史の信頼度の高い史料として、今も頻繁に参照されているものです。なお、「その13・その3」でも紹介しましたが、片岡家は代々本陣を営んだ名主家です。

少々長くなりそうなので、この海嘯を齎した台風の話から次回は始めることにします。



追記:
  • (2019/10/13):本文中にも記載しましたが、「ルートラボ」終了に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。

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