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【江島道】「見取絵図」に沿って(その9:七里ヶ浜―1)

前回は満福寺まで進みました。今回は七里ヶ浜を進みます。


江島道見取絵図:腰越付近修正
江島道見取絵図:腰越付近(再掲)


江島道:小動交差点
小動交差点
江島道:小動の漁船
小動の漁船

小動交差点の位置
現在は国道134号線が七里ヶ浜沿いに整備されていますが、かつては小動(こゆるぎ)交差点の辺りから浜へと降りていたのだろうと思います。今は消波ブロックで防波堤が築かれ、その中に小さな漁船が数艘並んでいますが、江戸時代も舟の並ぶ傍らを旅人が行き交う風景だったのでしょうか。

なお、「見取絵図」ではこの付近に「六地蔵」や「伊勢宮」を描いていますが、現在は現地にありません。その行方についても未確認です。

江島道:小動交差点脇を進む江ノ電
小動交差点脇を進む江ノ電
江島道:腰越側から七里ヶ浜の眺め
腰越側から七里ヶ浜の眺め
この浜辺から国道134号や江ノ電が走る場所を見上げると、意外なくらい高低差があるのが良くわかります。最初はもっと下の方から撮っていたのですが、状況が分かりにくいので幾らか斜面の上に上がって撮っています。

ともあれ、ここからしばらくはこの長い浜伝いに次の磯に向かって歩くことになります。「新編鎌倉志」の紹介はこの様になっています。

◯七里濱 七里濱(シチリバマ)は、稻村崎より、腰越までの間を七里濱と云ふ。關東道七里有以六町爲一里。故に名く。古戰場なり。今も太刀・刀の折、白骨など、砂に雜て有と云ふ。此濱に鐵砂(クロカ子スナ)あり。黑き事漆の如し。極細にして、いさゝかも餘の砂を不交。日に映ずれば輝て銀の如し。庖丁・小刀等をみがくに佳也。又花貝とて、うつくしき貝あり。兒女拾て作り花にする也。櫻貝とも云。櫻色なる故なり。

(卷之六、雄山閣版より)


稲村ヶ崎付近の黒っぽい砂浜

江島道:稲村ヶ崎付近の砂浜
稲村ヶ崎付近の砂浜
周辺に黒っぽい箇所が見えている
この記述はどちらかと言うと東側の稲村ヶ崎寄りの様子が中心になっていると言って良いでしょう。古戦場についての記述は新田義貞の稲村ヶ崎の古戦場のことを指しているのでしょう。また、砂鉄が混じった砂が採取できることを書いていますが、これは上空からの写真の方がわかりやすいかも知れません。砂浜が黒っぽく見えている箇所が砂鉄の多い場所です。どちらかと言えば稲村ヶ崎寄りの浜に黒い部分が多く、腰越側はむしろ白っぽい砂浜になっているのがわかります。

この砂を刃物の研磨剤に使っていたことを窺わせる記述がありますが、これについては別の場所で改めて出て来ます。

「桜貝」と言われているのは特定の種類の貝を指すものではなく、サクラガイ、モモノハナガイ、カバザクラなどピンク色の貝殻を持つ貝の総称だそうです。基本的には冬場にこの付近の海岸に姿を現すので、江戸時代の参拝シーズンと丁度重なって見られることになります。今はむしろ夏場に海辺に出る人が多いですから、その点では行楽客の目には触れにくいものになっていると言えるかも知れません。

江島道見取絵図:行合川付近修正
江島道見取絵図:行合川付近(再掲、一部加筆)

ファイル:19 - The Seven Ri Beach.jpg - Wikipedia
歌川広重「富士三十六景」
(安政5年(1858年))より
「相模七里ヶ濱」
Wikipediaより)
七里ヶ浜を行く旅人が残した紀行文・道中記は以前の記事で2編ほど紹介しました。例によって「藤沢市史料集(31)」から七里ヶ浜を進んだ紀行を更に拾ってみました。
  • 「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」天保9年(1838年)か 著者不明(甲斐国)

    一直ニ七里ケ浜江懸り波打際を通行、その気色至極宜敷、前夜の酔眠一時二退散

    一伝右衛門、江之嶋前より鎌倉迄乗馬

  • 「手前味噌」安政6年(1859年) 中村鶴蔵

    極楽寺の切通しより稲村ケ崎の茶屋に、多吉・万吉やすみゐるを連れ、七里ヶ浜へかゝる。南風つよく皆々波に追れるを面白がり、砂をけたてゝ駈けあるき、女連れはまた砂を掘り酢貝を拾ふ。腰越の浜通りは波をうちつけて通られず。片瀬村より浜へ出て江の島へ入る。

(踊り字は適宜置き換え)

以前引用の2件の道中記もそうでしたが、この2件でも旅人は波打際を進んでおり、その景色を楽しんだり、波と戯れたり落ちている貝を拾ったりしてこの長い砂浜を歩いています。景色で「昨夜の酔いが覚めた」などという称賛まで見えています。こうした様子はまた浮世絵の題材としても数多く取り上げられ、「みゆネットふじさわ」のこちらのページには、七里ヶ浜を題材にした浮世絵が44点も紹介されています。右の歌川広重の「相模七里ヶ浜」もそうした浮世絵の1つです。

もっとも、時にはこの七里ヶ浜を含む区間を歩かず、周辺の浜から舟に乗って江の島へ向かう旅人もいた様です。
  • 「江島紀行」寛政9年(1797年) 斉藤幸雄

    ひるま過ころなん杜戸(注:森戸明神)にいたりぬ 帰りにはそこの葉山てふ浦よりふねにのりつぐ 真帆引あげて行に追手よければとかふするまもなく腰こへてふ里につきぬ 此さとは海人の家居おほく魚をひさぐをわざとす 人々さかなもとめんと物するにそこの所はこゆるぎの磯ともいへるよし

    こゆるぎのいそがぬはるの旅なればさかなもとめてやどやからなん

  • 「伊勢参宮道中記」文化9年(1812年) 著者不明(陸奥国)

    此所ニはせノくわんおん有、…、下向ニるいが浜(注:由比ヶ浜の事)より舟ニのり、江ノ嶋ニ付舟道二り有、壱人分弐十四文宛

  • 「伊勢参宮日記」天保12年(1841年) 著者不明(武蔵国埼玉郡)

    一江 島 弁財天/三社参詣      下宿比野屋伊右衛門

    五十弐文          船賃

    はせ寺より江島迄舟二乗ル

  • 「東武下向諸事記」嘉永2年(1849年) 今泉辰助

    夫より由井浜出船賃三百札也、七里か浜伝ひ雪ニて路あしけれハ也、此海上風景いとめつらし

    相州三浦ミさき、荒崎南ニ当り大嶋ほのかにミゆ西ニ当り箱根山其先ニミゆる、高山是ヲ伊豆のあまきといふ稲村の崎いえかアリ、えの嶋近くミゆ稲村か崎ノ西ノ大手也、是より四十二丁、七里カ浜六丁一里也、鮑を見付る、漁舟あり袖か浦、八王子、大種権現、土崎ニアリ、腰越村義経弁慶此処にて状を書とミえたり、南への寺アリト、えノ嶋着船江戸屋忠五郎ニて昼餉料弐分計ニて頼置…

(何れも「藤沢市史料集(31)」より、…は中略)

最後の例では「七里か浜伝ひ雪ニて路あしけれハ也」と、足元が雪で悪くなっているのを嫌ってのことであったと書いていますが、雪の寒い中を冷たい海に足を洗われる様な痩せ我慢をわざわざしたい人は当時もいなかったということでしょう。先ほどの例でもこの区間で馬に乗っていた人もいましたから、多少お金に余裕があれば舟を雇ってしまう人も多かったのかも知れません。

さて、「見取絵図」ではこの七里ヶ浜から海に流れ出る川が3本描かれています。これを腰越側から順に見て行きましょう。

江島道:鎌倉高校前付近の暗渠からの流出
鎌倉高校前駅付近の暗渠からの流出
「金洗沢」はこの東隣の暗渠

現在の金洗沢暗渠の出口、
江ノ電の「峰ヶ原信号場」が上に見えている
「見取絵図」では、一番腰越寄りの川を「矢沢流レ」と記しています。「新編相模国風土記稿」では

◯金洗澤 七里濱の内行合川の西方を云ふ、土俗傳て昔黄金を鑿得たり、故に名づくと云へり以上【鎌倉誌】所載壽永元年四月將軍賴朝江島參詣の歸路、此地にて牛追物の擧あり、下川邊行平・和田義盛・愛甲季隆等箭員あるにより各賜物あり【東鑑】曰、四月五日…、按ずるに、今此邊に、生ヶ窪・矢澤山等の字あり、若くは其遺名にや

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七「津村」の項、雄山閣版より、…は中略、強調はブログ主)

とあることから、「見取絵図」では何らかの判断で「金洗沢」の名を採用せず、「矢沢山からの流れ」という意味でこれを記した様です。因みに、「新編鎌倉志」では

◯金洗澤 金洗澤(カ子アラヒザハ)は、七里濱の内、行合川の西の方なり。此所にて昔し金を掘たる故に名く。【東鑑】に、養和二年四月、賴朝、腰越に出、江島に赴さ還り給ふ時、金洗澤の邊にて牛迫物ありと有。又元年六月六日、炎旱渉旬。仍今日雨を祈ん爲に、靈所七瀨の御祓を行ふ。由比濱・金洗澤・固瀨河・六連・柚河・杜戸・江島龍穴とあり

(上記同書より)

と紹介しています。「金を掘りたる故」とあるのは、個人的にはどうも先日の下和田村の「巌窟」の話との共通点を感じてしまうのですが…。この近辺の横穴墓の存在については報告されたものがない様ですが、周辺には中世の「やぐら」に混じって古代の横穴墓もある様なので、あり得ないとは言えなさそうです。

現在の金洗沢は砂浜の中に暗渠を作って海まで誘導されているので、その姿を見ることは出来ません。恐らくはか細い流れではあるのでしょう。西隣には別の暗渠からの流出が砂浜を伝っていて、江戸時代の金洗沢もこの様な感じに砂浜に細やかな流路を作って海へ流れ出ていたのではないかと思います。この鎌倉高校前の暗渠が何処から流れて来ているのかは不明ですが…。江戸時代に同規模で存在していたのであれば恐らく「見取絵図」にも描かれていたと思われますので、少なくとも古いものではなさそうです。あるいは七里ヶ浜の住宅街が開発されたことによって新たに生じたものかも知れません。

江島道:行合川上流の様子
行合川上流の様子
江島道:行合川河口
行合川河口

行合川河口の位置
「見取絵図」で次に描かれているのは「行合川」です。「新編鎌倉志」では

◯行合川 行合川(ユキアヒガハ)は、山より海の方へ流出る川なり。日蓮、龍口にて難に遭給し時、奇瑞多きに因て、共由を鎌倉へ告る使者と、又時賴の赦免の使者と、此川にて行合たる故に名く。鶴岡一鳥居より、此川まで三十九町あり。

(上記同書より)

と、日蓮との縁を紹介しています。「見取絵図」では「日蓮雨乞供養石」が上流側にあったことを示しています。

江島道:行合川河口で崩れる砂
河口内で崩れていく砂
「見取絵図」ではこの川も洗い越しで橋などは特に設けられていなかった様に描いていますが、現在の行合川は意外に水量が多く、「こんな所を洗い越ししていたのだろうか」と思えるほどです。しかしこれは、上流の七里ヶ浜小学校の隣に「七里ガ浜浄化センター」という終末処理場があり、最大約74,000人分の下水を処理した水が放流されていることによるもので、そのため行合川に架かる橋の上では微かに塩素の匂いがするのがわかります。勿論これは江戸時代の頃の水量とは異なります。この程度の水量であれば、神戸川の例を考え合わせると、最低でも「飛石渡り」にはしたのではないでしょうか。

両岸を突堤で固められ、かつてよりも豊富な水量が流出しているためか、その中に溜まった砂が次々と崩れていくのが観察出来ました。恐らく満潮時には潮が運ぶ砂が突堤内に溜まり、干潮になると川の作用でそれが崩れ…という作用を繰り返しているのでしょう。生活排水の量は1日のうちでも当然上下しますから、その周期も関係しているかも知れません。何れにせよ、江戸時代の行合川の姿とは大分変わってしまっていることは確かな様です。

江島道:七里ヶ浜の音無川
七里ヶ浜の音無川
江島道:音無川が海に流れ出る
音無川が海に流れ出る
江島道:音無橋を音無川筋から見上げる
音無橋を音無川筋から見上げる
「見取絵図」で3番めに描かれている川には「勝福寺(やつ)川」と記されています。この上流側には「此辺音無滝」とあり、現在の「音無川」に該当することがわかります。再び「新編鎌倉志」には

◯音無瀧 音無瀧(ヲトナシノタキ)は、針磨橋を渡り、七里濱へ出れば右の方、沙山の松陰を廻傳て落る瀧なり。沙山なるゆへに、常に水音もせず。故に名つく。

と記されており、これは「新編相模国風土記稿」もほぼ同様です。砂に流れ落ちるために水音がしない滝であったとしていますが、残念ながらこの滝は既にありません。音無川を砂浜から辿って行くと、江ノ電や音無橋が架かる辺りまで遡ることが出来、そこに堰堤が築かれているのですが、勿論これは「音無滝」ではありません。一帯は大規模に開発されて住宅街と化しており、音無川も大半が暗渠化されているのが実情です。

「見取絵図」の「勝福寺谷川」は「聖福寺谷」が正しく、これも「新編鎌倉志」によれば

◯聖福寺奮跡 聖福寺(ショウフクジ)奮跡、極樂寺の西南にあり。大なる谷なり。此地に熊野權現の社あり。【束鑑】に、建長六年四月十八日、聖福寺の鎭守、諸神の神殿上棟、所謂神驗、武内・稻荷・住吉・鹿島・諏訪・伊豆・筥根・三島・富士・夷社等なり。是總じて、關東の長久、別して相州時賴の兩男聖壽丸/福壽丸息災延命の爲なり。因て彼兄弟兩人の名字を以て寺號とす。去る十二日に事始あり。相模國大庭御厨の内に、其地を卜すとあり。又【鶴岡記錄】に、八幡の御正體を、新熊野聖福寺に移し奉ると有。今按ずるに此地なり。

と、この谷にかつて寺が建立されたものの、江戸時代初期の時点で既に廃寺となっていて跡地のみが伝えられていた様です。今はその地と考えられる公園の片隅に鎌倉町青年団の石碑が立てられているのですが、場所については異論もある様です。

七里ヶ浜ではもう少し写真を撮ったものの、ここまでの紹介が長くなってしまったので、次回はそれらの写真の紹介に充てたいと思います。




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