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【旧東海道】その12 国府津〜小田原間の砂丘と酒匂

旧東海道:国府津〜小田原宿
国府津〜小田原宿間のルート(実線)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:別ページで表示
旧東海道:国府津〜小田原宿標高グラフ
左のルートの標高グラフ
(「地理院地図」の「断面図」機能にて作図)
その11」で見た様に、旧東海道は国府津まで大磯丘陵の南端に連なる海岸段丘とその上に発達した砂丘上を進んできます。国府津を出るとなだらかな坂を下り、標高10m前後の道になりますが、その際に内陸側(京都進行方向の右側)を見ると、東海道が周辺より一段高い場所を進んでいることがわかります。例によってルートラボ上に国府津から小田原までの旧東海道筋を描いてみました。この図上をクリックするとルートラボのページに移動しますが、そちらで標高グラフを確認してみて下さい。


ここは足柄平野の海岸沿いに発達した砂丘帯に当たっています。

海岸沿いには標高8〜10m程の砂丘が発達している。酒匂川より供給された砂礫物質が相模湾の沿岸流によって浅海底に堆積し、ほぼ東西に細長い沿岸州を発達させた。その後、海退に伴い、基底砂州層は陸化し、沿岸流により運搬された砂礫等は、風の営力によって風成砂層を堆積していった。砂丘堆積物は小礫混りの粗砂である。

(「土地条件調査報告書(小田原地区)」国土地理院 昭和56年(1981年)12ページより。リンク先は該当書のPDF)



地理院地図」で「明治前期の低湿地」を重ねて表示

この地図は国土地理院の「地理院地図」に「明治前期の低湿地」図を重ねて表示させたものです。この「明治前期の低湿地」は「迅速測図」に表示された水田や海浜などを色分けしたものですが、旧東海道筋である国道1号線(赤で表示されている道)の周辺が着色されておらず、砂丘の分布がおおよそで確認できると思います。大磯丘陵端の海岸段丘に比べると標高は下がりますが、それでも低地を抜けていく道筋としては比較的条件の良い地形が存在したと言えそうです。

ところで、国府津から酒匂川へと向かう途上に「酒匂(さかわ)」という地があります。上の地図でも、「酒匂神社」の南辺りに多数の寺院記号が見えていますが、この中には
  • 酒匂神社(旧駒形社):由緒では奈良時代まで遡る。源頼朝の馬を献上したとされる
  • 上輩寺(時宗):永仁2年(1294年)建立
  • 南蔵寺(真言宗):旧福田寺とされる。「吾妻鏡」の頼朝の政子安産祈願の記事にその名が見える
  • 法船寺(日蓮宗):文永11年(1274年)日蓮の滞在に纏わる縁起を持つ
など、古い由緒を持つ寺社が多数存在する地域です。また、鎌倉時代には頼朝に仕えた「酒匂太郎」という御家人の本拠地であり、酒匂川の石を鶴岡八幡宮の礎石として鎌倉まで船で運ばせた記録が残っているとのことです(「小田原市史」通史編 原始 古代 中世)。島津氏と共に薩摩に下向した「酒匂(さこう)氏」の名はこの酒匂の地に由来するという説もあります。

この地は鎌倉時代には宿場であったことが幾つかの書物に記されています。
  • 【源平盛衰記】曰、(注:治承四年、1180年)八月二十五日、和田義盛、三百餘騎にて、鎌倉通を腰越・稻村・八松原・大磯・小磯打過て、二日路を一日に、酒匂の宿に着けるが、丸子川の洪水いまだ減ぜざれば、渡すこと不叶して、宿の西の外れ、八木下と云ふ所に陣をとる、…
  • 【十六夜日記】…曰、(注:弘安二年、1279年)丸子川といふ川を、いと暗くて躘踵(りょうしょう)渉る、今宵は酒匂と云所に止る

(「新編相模国風土記稿」卷之三 山川「酒匂川」より、雄山閣版より引用、注、ルビ、強調はブログ主)



酒匂の宿が鎌倉時代以前の何時頃まで遡れるかどうかは定かではないものの、源頼朝の建久元年(1190年)10月の上洛に際しては、この酒匂の地に宿泊して関本から足柄路を通って西へと向かっています(「吾妻鏡」)。一方、上記「十六夜日記」では箱根山中を湯坂路を経由して越えて酒匂川(丸子川という名で記されている)を渡って酒匂宿に辿り着いており、この宿場が当時は足柄峠越えと箱根越えの2つの道の分岐点になっていたことが窺えます。古代には箱根山を迂回していた街道が、後に箱根山の中を抜けてくる道へと変遷するのですが、その2つの道が合わさる東側の宿場が酒匂であった、ということが言えるでしょう。

ここまで古い時代に遡ると、それぞれの時期に何の辺を通過して足柄峠に向かっていたのか、今ひとつ詳らかではない面もありますが、こうした古い宿場が海岸沿いの砂丘の上に設けられていた点は、街道の変遷を考える際には1つのポイントになるのではないかと思います。

旧東海道:小八幡の一里塚跡
小八幡の一里塚跡のガイド
小田原宿の江戸方見附にも一里塚があった
江戸時代には、関本へは小田原城下で甲州道に分岐する道や、国府津から分岐する道の方が主流になったため、酒匂の地は専ら東海道の酒匂川の渡し場としての役目を果たすことになりました。その様なこともあって、街道歩きの際にはこの区間は割と素通りし勝ちなのですが、時間に余裕があればここで少し足を留めてみるのも良いかも知れません。小田原までまだ1里あまりを残す地(小八幡の一里塚もこの区間にある)で、日暮れが迫って先を急ぐことになりやすい区間ではありますが。



追記:
  • (2019/10/04):本文中にも記した通り、「ルートラボ」廃止に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替え、標高グラフを追加しました。

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