
(「地理院地図」上で作図したものを
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(「地理院地図」の「断面図」機能にて作図)
ここは足柄平野の海岸沿いに発達した砂丘帯に当たっています。
海岸沿いには標高8〜10m程の砂丘が発達している。酒匂川より供給された砂礫物質が相模湾の沿岸流によって浅海底に堆積し、ほぼ東西に細長い沿岸州を発達させた。その後、海退に伴い、基底砂州層は陸化し、沿岸流により運搬された砂礫等は、風の営力によって風成砂層を堆積していった。砂丘堆積物は小礫混りの粗砂である。
(「土地条件調査報告書(小田原地区)」国土地理院 昭和56年(1981年)12ページより。リンク先は該当書のPDF)
この地図は国土地理院の「地理院地図」に「明治前期の低湿地」図を重ねて表示させたものです。この「明治前期の低湿地」は「迅速測図」に表示された水田や海浜などを色分けしたものですが、旧東海道筋である国道1号線(赤で表示されている道)の周辺が着色されておらず、砂丘の分布がおおよそで確認できると思います。大磯丘陵端の海岸段丘に比べると標高は下がりますが、それでも低地を抜けていく道筋としては比較的条件の良い地形が存在したと言えそうです。
ところで、国府津から酒匂川へと向かう途上に「酒匂」という地があります。上の地図でも、「酒匂神社」の南辺りに多数の寺院記号が見えていますが、この中には
- 酒匂神社(旧駒形社):由緒では奈良時代まで遡る。源頼朝の馬を献上したとされる
- 上輩寺(時宗):永仁2年(1294年)建立
- 南蔵寺(真言宗):旧福田寺とされる。「吾妻鏡」の頼朝の政子安産祈願の記事にその名が見える
- 法船寺(日蓮宗):文永11年(1274年)日蓮の滞在に纏わる縁起を持つ
この地は鎌倉時代には宿場であったことが幾つかの書物に記されています。
- 【源平盛衰記】曰、(注:治承四年、1180年)八月二十五日、和田義盛、三百餘騎にて、鎌倉通を腰越・稻村・八松原・大磯・小磯打過て、二日路を一日に、酒匂の宿に着けるが、丸子川の洪水いまだ減ぜざれば、渡すこと不叶して、宿の西の外れ、八木下と云ふ所に陣をとる、…
- 【十六夜日記】…曰、(注:弘安二年、1279年)丸子川といふ川を、いと暗くて躘踵渉る、今宵は酒匂と云所に止る
(「新編相模国風土記稿」卷之三 山川「酒匂川」より、雄山閣版より引用、注、ルビ、強調はブログ主)
酒匂の宿が鎌倉時代以前の何時頃まで遡れるかどうかは定かではないものの、源頼朝の建久元年(1190年)10月の上洛に際しては、この酒匂の地に宿泊して関本から足柄路を通って西へと向かっています(「吾妻鏡」)。一方、上記「十六夜日記」では箱根山中を湯坂路を経由して越えて酒匂川(丸子川という名で記されている)を渡って酒匂宿に辿り着いており、この宿場が当時は足柄峠越えと箱根越えの2つの道の分岐点になっていたことが窺えます。古代には箱根山を迂回していた街道が、後に箱根山の中を抜けてくる道へと変遷するのですが、その2つの道が合わさる東側の宿場が酒匂であった、ということが言えるでしょう。
ここまで古い時代に遡ると、それぞれの時期に何の辺を通過して足柄峠に向かっていたのか、今ひとつ詳らかではない面もありますが、こうした古い宿場が海岸沿いの砂丘の上に設けられていた点は、街道の変遷を考える際には1つのポイントになるのではないかと思います。

小田原宿の江戸方見附にも一里塚があった
追記:
- (2019/10/04):本文中にも記した通り、「ルートラボ」廃止に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替え、標高グラフを追加しました。