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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その3)

旧東海道:網一色八幡神社
網一色の八幡神社
江戸時代の東海道はこの神社の
参道前を通っており、その道筋は
明治時代中頃まで維持された
前回は酒匂川の渡しの江戸時代までの様子を見ました。今回から明治時代以降の架橋の歴史を追います。

馬入橋の場合も明治時代の歴史がなかなか追い切れなくて難儀しましたが、酒匂川の場合もまとまった資料があまりありません。「小田原市史」も酒匂川の渡しや架橋の歴史については殆どと言って良いほど触れていませんし、関連しそうな資料もなかなか出て来ません。それでも何とか見つかったものを繋ぎ合わせてみたいと思います。あるいは未見の史料との齟齬を来たしている場所があるかも知れませんが、その点は御指摘を戴ければ幸いです。


酒匂橋、つまりかつての酒匂川の渡しに最初に架橋された経緯について、比較的詳しく語っているのは「大日本國誌」かも知れません。

酒勾橋

足柄下郡酒勾村字道南ニアリ酒勾川ニ架シ網一色村ニ通シ東海道ニ係ル長百九拾八間(注:傍らに「四尺」と追記を施した様に見える)幅三間木製明治十四年辛巳本村及ヒ網一色山王原三村ノ人協議シテ民費を以テ之ヲ架シ同十五年壬午二月ヲ以テ成ル

 …

明治ノ初メ三木橋ヲ架ス東端長拾七間水深壹尺許中間長九間深八寸許西端長七拾間深壹尺ヨリ六尺ニ至ル幅各貳間半同十四年ニ至リ更ニ之ヲ改造シテ今ノ一長橋ヲ作レリ大ニ行旅ニ便ス

(相模国 第一巻 ゆまに書房版375ページより引用、…は中略、強調はブログ主)


東海道分間延絵図:酒匂川仮橋
「東海道分間延絵図」酒匂川の「仮土橋」(再掲)
つまり、前回も触れた様に、当初は渡し場時代の仮橋をそのまま常設化した様な形で架けたのですが、その後かつて渡し場を運用していた酒匂村、網一色村と山王原村が相互に出資して酒匂川全体を越える橋を架けたのでした。

最初に江戸時代までの仮橋を常設化したのがいつ頃なのかははっきりしません。ただ、「明治小田原町誌」(片岡永左衛門編著 小田原市立図書館郷土資料集成)の明治6年(1873年)8月28日の項にはこう書かれています。

両陛下宮之下温泉より還幸、当駅行在所ニ御着。

 天皇陛下は午後二時御出門。御乗馬に而足柄県庁及ひ裁判所に臨幸あり。酒膳料を賜る。夜に入り天候一変し大風雨となり酒匂橋流失し、為に廿九日御駐輦被仰出、三十日船橋を架し御通過あらせらる。…

(上記上巻173ページより引用、強調はブログ主)


旧東海道:小田原宿片岡本陣跡・明治天皇本町行在所跡
小田原・明治天皇本町行在所跡碑
旧片岡本陣の跡地でもあり、編著者の
片岡永左衛門はその明治時代初期の当主
後に小田原町の助役を勤めた人物
ここで言う「酒匂橋」がもし明治天皇の通行を意識して架けた仮橋であれば、恐らく「酒匂橋」という表現にはならず、「仮橋」などの表現になるのではないでしょうか。つまり、この時点では既に橋は常設化されており、それがタイミング悪く天皇通過直前に流失してしまった、ということになるのではないかと思います。とすると、かなり早い時期に常設化を果たしていたことになります。明治政府が架橋促進に向けて橋銭徴収等の指針を出したのが以前も触れた通り明治4年のことですから、酒匂川の渡し場を運用する各村もそれを受けて逸早く常設化に動いたのでしょう。

なお、「皇国地誌残稿」の「酒勾村」中、「酒勾川仮橋旧川越塲」には次の様な一節があります。

サテ宝永四年富岳焼碎砂礫障塞セル以來ハ水路時々變遷シテ定マラザリシガ明治初年ニ至り漸次川瀬モ定マレルニ因リテ三假橋ヲ架セリ而シテ其營繕ノ如キハ都ベテ三ヶ村ノ民費ナレバ行客一名ヨリ金五厘車馬等之ニ準ズノ橋料ヲ收ム

(「神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻)神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 154ページより引用)

これを字面通りに解釈すると、明治時代に入ったと同時に架橋運用をスタートさせたことになります。「酒勾村」の項の奥付は「明治十八年十月一日稿」とあり、「總閲/神奈川県令 沖 守固」と一通りの編集を完了させた状態のものであることが確認出来ますので、ひとまずの精度のある記述ではあると思われるものの、「明治初年」を「明治元年」と同義と解釈してしまうと、上記の橋銭徴収の許可など制度面で問題のある不整合が出ますので早過ぎると考えます。この場合の「明治初年」は「大日本國誌」にもある通り「明治初期」位の意に解するのが妥当かと思います。なお、この頃から酒匂川の流路の変遷が収まってきたという指摘が成されているのが注目されます。

因みに、「小田原市史 別編 年表」では明治11年(1878年)9月15〜16日の項に

暴風雨、酒匂川・中村川堤防決壊による洪水被害、酒匂橋が流失

とありますが、時期的に見てこれも最初期の橋だったことになります。前年にも7月25〜26日に暴風雨によって河川橋梁はじめ多々被害が出たことが記されており、「酒匂橋」の名称こそありませんが状況から見て流失などの被害があった可能性は十分に考えられます。元々が「流失已む無し」という構造の橋ですから、この程度は想定のうちだったとは思いますが、その都度早急な再架橋が必要ですから、例年の様にその負担が必要になることを考えれば、なるべく早い時期により高度な架橋へと切り替えたいという願いは当初からあったでしょう。

ところで、馬入川の場合には足柄県の時代から県が積極的に関与していましたが、酒匂橋の場合はその様な積極的な県の関与があったことを示す文書などが見当たりません。無論、県の積極関与を示す文書などが今後発見される可能性もありますが、現時点ではその点を具体的に知る手掛かりはありません。確かに馬入川の方が長大な橋が必要ではありますが、重要度という点では酒匂川も引けを取らず、難易度もさほど変わらないと思えるにも拘らず、こういう差が出たということは、六郷橋の事例の様に地元が積極的に事業化する機運を見せていたからということになるのでしょうか。それとも、馬入橋の場合は馬入村1村で長大な橋を賄うことになってしまったのに比べれば、酒匂橋では3村に負担が分散されるので多少負担が軽い点を考慮したのでしょうか。


迅速測図上の酒匂川河口付近(「今昔マップ on the web」より)
なお、上記「皇国地誌残稿」の記述から、明治初期から橋銭徴収が行われていたことがわかります。まだ仮橋の状態でしたが、この状態でも国から橋銭徴収の許可が得られたということなのでしょうか。ただ少なくとも、その後の経緯を見ると、なるべく早く人力車等の交通の多様化に対応した橋を架けようという意識が当初からあったのは確かでしょう。資金が足りないので当初は仮橋と変わらない水準のままで橋銭を集め、以後の架橋の際に少しでも足しに出来れば、というところでしょうか。その様な動きであったとすれば、地元の「やる気」を見て県の方は手を引いた可能性は確かにありそうです。ともあれ、明治14年から工事を始めた新橋は、晴れて翌15年に竣工、供用開始しました。「迅速測図」には恐らく、この頃の状態が反映されていると思われます。酒匂川の河口に多数の中洲が出来ているのが良くわかります。また、中洲や付近の海岸に「礫」の字が記されており、前回見た通り礫の勝った川底であったことが裏付けられます。

もっとも、その際に地元の村々が架橋時の技術的な課題をどの様に考えていたかは気になります。酒匂川の場合は冬には毎年架橋していたとは言え仮橋ですし、万一冬場の橋が流された場合は再架橋はしない運用でした。それで実際に冬場に橋が流された事例がどの程度あったかは不明ですが、少なくとも夏場の増水時に橋を耐えさせた経験はなかった筈です。明治15年に架けた橋がどの様な構造であったか、委細がわからないので馬入橋との単純な比較は出来ません。

敢えて酒匂川の架橋上有利な点を探すと、それは水運の有無でしょう。馬入川の場合は明治時代初期にはまだ水運が健在でしたから、橋の下を舟が通れる様に嵩上げしなければなりませんでした。これに対して酒匂川では、前回触れた様に渡し場の差し障りになる様な水運はありませんでしたから、橋の下を通過する舟のことを配慮する必要がありません。少なくとも馬入橋に比べれば、橋脚の高さを満水時の水位以上に大きく引き上げる必要はありません。但し、増水時に流木などの浮遊物が流れて来る可能性に配慮すると、あまり極端に桁下を低く抑えるのは考えものです。

地元の「酒匂八区公民館」編、川瀬速雄氏著(恐らくペンネームと思われ、記述中相互の齟齬から複数名の方の可能性もありますが、何れも地元在住の方の子孫の様です)の「酒匂歴史散歩 第一集」という私家版の資料があります。これによると、

…通橋料一名八厘を徴収した。筆者の父(明治四年生、昭和十九年卒)の話によると、此の橋出水の時は橋杭に「流木」や「ごみ」が引かゝり堰のようになり、しばしば通行止めになった、橋番が絶えず見廻り、通橋の可否を決めていたと、そして、毎年修理補強がなされたいた(ママ)と云ふ。

(同書2—124ページより引用)

この時期の橋の径間数などが不明ですが、この増水時の状況から見てもやはり橋桁下を低めに抑えていて流木などを流し難い構造だったかなという気がします。それでも何とかもってはいたものの、かなり心許ない状態ではあった様です。

次回はこの橋が架け替えられていく事情を見ていきます。



追記:
  • (2018/04/18):「迅速測図」を「今昔マップ on the web」の埋め込み地図で表示させる形に変更しました。
  • (2021/11/08):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。

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この記事へのコメント

貴重な研究成果 - 北岡正敏 - 2015年06月29日 15:02:49

鎌倉在住ですが、ほとんどの記事を読ませていただきました。心から感謝を申し上げます。よく研究されたものです。貴重な資料の原典にあたられ、内容も深く、信頼のできる成果です。私も定年をして、やり残した研究をすすめるうえで大変参考にしていただいております。やはり体力の重要さを知りました。お体にはくれぐれも注意してますますの研究の発展と健勝をお祈り申し上げます。

Re: 北岡正敏 さま - kanageohis1964 - 2015年06月29日 18:43:40

こんにちは。コメントありがとうございます。

私の記事では典拠となる史料を可能な限り紹介する様に心掛けています。私個人の見解はさておき、どの様な史料が参照可能なのかを示すことで、お読みになった方々のその後の調査に役立つ局面があれば、と考えています。今後ともよろしくお願いします。

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