
江戸時代の東海道はこの神社の
参道前を通っており、その道筋は
明治時代中頃まで維持された
馬入橋の場合も明治時代の歴史がなかなか追い切れなくて難儀しましたが、酒匂川の場合もまとまった資料があまりありません。「小田原市史」も酒匂川の渡しや架橋の歴史については殆どと言って良いほど触れていませんし、関連しそうな資料もなかなか出て来ません。それでも何とか見つかったものを繋ぎ合わせてみたいと思います。あるいは未見の史料との齟齬を来たしている場所があるかも知れませんが、その点は御指摘を戴ければ幸いです。
酒匂橋、つまりかつての酒匂川の渡しに最初に架橋された経緯について、比較的詳しく語っているのは「大日本國誌」かも知れません。
酒勾橋
足柄下郡酒勾村字道南ニアリ酒勾川ニ架シ網一色村ニ通シ東海道ニ係ル長百九拾八間(注:傍らに「四尺」と追記を施した様に見える)幅三間木製明治十四年辛巳本村及ヒ網一色山王原三村ノ人協議シテ民費を以テ之ヲ架シ同十五年壬午二月ヲ以テ成ル
…
明治ノ初メ三木橋ヲ架ス東端長拾七間水深壹尺許中間長九間深八寸許西端長七拾間深壹尺ヨリ六尺ニ至ル幅各貳間半同十四年ニ至リ更ニ之ヲ改造シテ今ノ一長橋ヲ作レリ大ニ行旅ニ便ス
(相模国 第一巻 ゆまに書房版375ページより引用、…は中略、強調はブログ主)

最初に江戸時代までの仮橋を常設化したのがいつ頃なのかははっきりしません。ただ、「明治小田原町誌」(片岡永左衛門編著 小田原市立図書館郷土資料集成)の明治6年(1873年)8月28日の項にはこう書かれています。
両陛下宮之下温泉より還幸、当駅行在所ニ御着。
天皇陛下は午後二時御出門。御乗馬に而足柄県庁及ひ裁判所に臨幸あり。酒膳料を賜る。夜に入り天候一変し大風雨となり酒匂橋流失し、為に廿九日御駐輦被仰出、三十日船橋を架し御通過あらせらる。…
(上記上巻173ページより引用、強調はブログ主)

旧片岡本陣の跡地でもあり、編著者の
片岡永左衛門はその明治時代初期の当主
後に小田原町の助役を勤めた人物
なお、「皇国地誌残稿」の「酒勾村」中、「酒勾川仮橋旧川越塲」には次の様な一節があります。
これを字面通りに解釈すると、明治時代に入ったと同時に架橋運用をスタートさせたことになります。「酒勾村」の項の奥付は「明治十八年十月一日稿」とあり、「總閲/神奈川県令 沖 守固」と一通りの編集を完了させた状態のものであることが確認出来ますので、ひとまずの精度のある記述ではあると思われるものの、「明治初年」を「明治元年」と同義と解釈してしまうと、上記の橋銭徴収の許可など制度面で問題のある不整合が出ますので早過ぎると考えます。この場合の「明治初年」は「大日本國誌」にもある通り「明治初期」位の意に解するのが妥当かと思います。なお、この頃から酒匂川の流路の変遷が収まってきたという指摘が成されているのが注目されます。サテ宝永四年富岳焼碎砂礫障塞セル以來ハ水路時々變遷シテ定マラザリシガ明治初年ニ至り漸次川瀬モ定マレルニ因リテ三假橋ヲ架セリ而シテ其營繕ノ如キハ都ベテ三ヶ村ノ民費ナレバ行客一名ヨリ金五厘車馬等之ニ準ズノ橋料ヲ收ム
(「神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻)」神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 154ページより引用)
因みに、「小田原市史 別編 年表」では明治11年(1878年)9月15〜16日の項に
とありますが、時期的に見てこれも最初期の橋だったことになります。前年にも7月25〜26日に暴風雨によって河川橋梁はじめ多々被害が出たことが記されており、「酒匂橋」の名称こそありませんが状況から見て流失などの被害があった可能性は十分に考えられます。元々が「流失已む無し」という構造の橋ですから、この程度は想定のうちだったとは思いますが、その都度早急な再架橋が必要ですから、例年の様にその負担が必要になることを考えれば、なるべく早い時期により高度な架橋へと切り替えたいという願いは当初からあったでしょう。暴風雨、酒匂川・中村川堤防決壊による洪水被害、酒匂橋が流失
ところで、馬入川の場合には足柄県の時代から県が積極的に関与していましたが、酒匂橋の場合はその様な積極的な県の関与があったことを示す文書などが見当たりません。無論、県の積極関与を示す文書などが今後発見される可能性もありますが、現時点ではその点を具体的に知る手掛かりはありません。確かに馬入川の方が長大な橋が必要ではありますが、重要度という点では酒匂川も引けを取らず、難易度もさほど変わらないと思えるにも拘らず、こういう差が出たということは、六郷橋の事例の様に地元が積極的に事業化する機運を見せていたからということになるのでしょうか。それとも、馬入橋の場合は馬入村1村で長大な橋を賄うことになってしまったのに比べれば、酒匂橋では3村に負担が分散されるので多少負担が軽い点を考慮したのでしょうか。
もっとも、その際に地元の村々が架橋時の技術的な課題をどの様に考えていたかは気になります。酒匂川の場合は冬には毎年架橋していたとは言え仮橋ですし、万一冬場の橋が流された場合は再架橋はしない運用でした。それで実際に冬場に橋が流された事例がどの程度あったかは不明ですが、少なくとも夏場の増水時に橋を耐えさせた経験はなかった筈です。明治15年に架けた橋がどの様な構造であったか、委細がわからないので馬入橋との単純な比較は出来ません。
敢えて酒匂川の架橋上有利な点を探すと、それは水運の有無でしょう。馬入川の場合は明治時代初期にはまだ水運が健在でしたから、橋の下を舟が通れる様に嵩上げしなければなりませんでした。これに対して酒匂川では、前回触れた様に渡し場の差し障りになる様な水運はありませんでしたから、橋の下を通過する舟のことを配慮する必要がありません。少なくとも馬入橋に比べれば、橋脚の高さを満水時の水位以上に大きく引き上げる必要はありません。但し、増水時に流木などの浮遊物が流れて来る可能性に配慮すると、あまり極端に桁下を低く抑えるのは考えものです。
地元の「酒匂八区公民館」編、川瀬速雄氏著(恐らくペンネームと思われ、記述中相互の齟齬から複数名の方の可能性もありますが、何れも地元在住の方の子孫の様です)の「酒匂歴史散歩 第一集」という私家版の資料があります。これによると、
この時期の橋の径間数などが不明ですが、この増水時の状況から見てもやはり橋桁下を低めに抑えていて流木などを流し難い構造だったかなという気がします。それでも何とかもってはいたものの、かなり心許ない状態ではあった様です。…通橋料一名八厘を徴収した。筆者の父(明治四年生、昭和十九年卒)の話によると、此の橋出水の時は橋杭に「流木」や「ごみ」が引かゝり堰のようになり、しばしば通行止めになった、橋番が絶えず見廻り、通橋の可否を決めていたと、そして、毎年修理補強がなされたいたと云ふ。
(同書2—124ページより引用)
次回はこの橋が架け替えられていく事情を見ていきます。
追記:
- (2018/04/18):「迅速測図」を「今昔マップ on the web」の埋め込み地図で表示させる形に変更しました。
- (2021/11/08):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
貴重な研究成果 - 北岡正敏 - 2015年06月29日 15:02:49