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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その5)

前回は平塚宿が黒部宮と共に現在地に移転してきた可能性について紹介しました。今回も引き続き中世の平塚宿について考えます。

平塚市史9 通史編 古代・中世・近世」(以下「平塚市史 通史編」)では、この頃の平塚の発展の経緯について、少々独特の説を展開しています(同書92〜96ページ、以下の同書引用は全てこの内から)。かなり長いので全文引用する訳には参りませんので、なるべく簡潔にまとめながら、この説に対する私なりの見立てを付記します。神奈川県内でも当巻を蔵書している図書館は何故かあまり多くありませんが、興味のある方は当書に実際に当たってみて下さい。

まず、「三浦氏の平塚開発」と題して、

当初、三浦氏は相模国府(大磯町国府本郷)に近く、高麗寺門前で東海道から諸方へ通ずる往還の分岐点でもある大磯に重きを置いていたようである。文治元年(注:1185年)十一月二十九日の駅路の制発布によって、公領の大磯郷に大磯駅を設置したのは、相模守護である三浦義澄であった。

と書き出して、三浦氏と大磯の関連について指摘しているものの、続いて

義村が平塚の地に目を向けたのは、ここが商品流通・交通の要地であり、相模川の渡渉地点を控え、田村にも近く、多くの寺社を擁し広大な後背地をもっていたからである。義村は頼経の東下に成功し、将軍頼経の権威をいただいて、幕府内における勢力拡大を計っていた。田村別荘や大磯宿の振興もその一つであったが、義村は平塚の開発を通じて商業の利益掌握を狙ったものと思われる。

更に

三浦氏は相模・土佐・河内・紀伊・讃岐の守護職をもっており、鎌倉—大坂湾—南海道—瀬戸内海—西国へと海上交通の実権掌握に乗り出していた。平塚開発はこうした三浦義村や泰村が海外交通・商品や貨幣の流通を見込んで行った手段であろう。相模川河口は渡渉地点というだけでなく、須賀を湊として、重要視していたのではないだろうか。

と、平塚の開発に力を入れたとしています。しかし、大磯の方は「駅路の制発布」と具体的な手法について記述されているのに対して、平塚の方には手段についてこれといった指摘はなされていません。

そして、続く「北条氏の平塚支配」では、

こののち平塚は北条氏勢力下に、より一層発展を続け、大磯宿をしのぐ繁栄を見せるのである。北条氏は鎌倉後期、海上交通の要衝を支配下に収めており、博多—瀬戸内海の海上交通路は鎌倉へ直結していた。かつて義村が開拓した貿易品獲得のルートは北条氏支配の中にくり込まれたものと思われる。宝治合戦後、宗像社領が北条氏宗領となったように、平塚も同様の運命をたどったであろう。

鎌倉を経由して唐物・宋銭・文物が関東一円に流通していた。輸入陶磁器や宋銭などが市内の各遺跡で出土しているのも、鎌倉を経由した流通圏の中に平塚が含まれていたからに外ならない。鎌倉に屋敷地をもつ御家人たちがこうした物資や文物・貨幣を流通させたことが考えられるし、平塚に数多い寺社を巡行する僧侶・聖・巫女たちの活動もあっただろう。しかもこれら商品や貨幣流通をささえたのは、二毛作や換金作物などの生産を通じて力をもち始めた農民の成長があったからであろう。

と書いています。もっともここでも、こうした輸入品が須賀や平塚を経由したことを示す史料などの具体的な裏付けについては、特に紹介されていません。

色々と興味深い説ではあると思います。最近の研究では、中世の物流が年貢以外にも様々なものを運んでいたことが、発掘調査によって出土した遺物で明らかになってきているので、上記の記述もそれを前提にしていることはわかります。

ですが、この説を平塚や須賀の江戸時代頃の実情等と照らした時に、どうも色々と噛み合わない部分が出て来ると感じているのも事実です。中世についての最新の研究成果を盛り込もうとするあまり、現時点で地元についてわかっていること、考えられていることと上手く噛み合う様には、今はまだ語り起こすことが出来ない内容が混ざってしまっている様に見受けられます。

一番問題なのは須賀と平塚の関係ですが、少なくとも江戸時代までには、両村の協力関係はあまり見られなくなっており(実際はそれ以前の時代についても具体的な協力関係を示すものは見出せていませんが)、それぞれが独立した立ち位置を確保していた様です。以前「馬入の渡し」について見た際にも、渡船場に須賀村が船を出すなどの関与をしているのに対し、平塚宿は特に関与はしていなかったことを見ました。文献でも、須賀村との密接な関わりが読み取れる史料は見つかっていません。単に史料が見つかっていないだけという可能性は残るにしても、基本的には川から海への結節点として機能していた須賀港が、川から陸路への載せ替えではそれほど注目されていない点は考えなければなりません。

平塚・須賀村への道
「東海道分間延絵図」平塚八幡宮付近
八幡宮一の鳥居の東隣、厚木へ向かう道の
向かい側から須賀村への道が伸びる
(東京美術版より引用・加筆)
平塚:須賀〜東海道の道
平塚・須賀から平塚八幡宮への道(赤線)
点線は東海道、右下が須賀湊
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:別ページで表示
平塚駅連絡地下道(南口)
平塚駅の連絡地下道(南口)。
壁面などはメンテナンスされているが、
コンクリート製の高欄に古い年代の様式を残している
かつてはもっと道なりに八幡方面に抜けていたと思われ
駅前の区画が整理されて道筋が消えているものと思われる
そもそも、江戸時代の平塚宿の宿内からでは、須賀湊は離れ過ぎているのが実情でした。陸路と水路の結節点を目指すなら、平塚宿はもっと東寄り、例えば平塚八幡宮の門前町を核として発展してもおかしくなさそうです(この一帯が平塚宿の加宿となったのは慶安4年(1651年)になってからでした)。実際、平塚八幡宮の南から須賀村への道が出ていたことが「東海道分間延絵図」でも確認出来ます。この道が須賀からの主要道であったことは、現在の周辺の土地の区画が北西から南東にかけて伸びるこの道に並行していることからも読み取れます。また、この道を東海道線が横切る辺りには、現在は連絡地下道が作られて南北の往来を確保していますが、この地下道が作られたのも比較的時代が古く、それだけ古くから使われてきた道筋であることを物語っています。

無論、鎌倉時代には須賀村と平塚宿の間にもっと密接な関係があった可能性は否定出来ませんが、仮にそうであったとしても、その後の歴史と照らし合わせた結果としては、その関係は後世には受け継がれずに終わった、と指摘することになるでしょう。では何故そうなってしまったのか、を考えてみなければならなくなります。まして、現時点では鎌倉時代の須賀に関する記述自体がありませんから、関連を解き起こす以前の状況でしょう。

他にも、例えば「平塚は北条氏勢力下に、より一層発展を続け、大磯宿をしのぐ繁栄を見せるのである。」としている点は、「(その2)」で平塚市博物館のウェブ読み物を検討した際に指摘した、大磯の方が平塚よりも何かと優先される存在であり続けた、という点と噛み合いません。平塚と田村の近さを指摘する点も、既に見てきた様に大磯宿が内陸への継立の権利を占有していた歴史を考えれば、どんなに近接していても意味がありません。

更に、須賀自体が当時本当に海外との交易拠点であったかどうか、「平塚市史 通史編」では輸入陶磁器や宋銭の市内での出土を紹介しているものの、これだけでは平塚が鎌倉の経済圏の内にあったとは言えても、須賀がその上陸点であったとは必ずしも言えないでしょう。鎌倉時代の有力な湊としては例えば六浦(むつら)が近隣の代表的な湊として知られており、他にも品川(大井)、神奈川、三浦、下田などを挙げることが出来ると思います。そうした中にあって、須賀はこれまで中世の港湾拠点としてはその名を聞くことがなく、鎌倉を起点・終点と考えた時の海路のネットワークの中で具体的にどの様な位置付けがあり得たのか、少なからず疑問が残ります。相模川自体に古くから水運があったことは、遺跡の出土品の分布などから推測されていることではあり、河口の湊が当初から重要な役割を果たした可能性は当然考えられるものの、須賀湊は江戸時代には四百石積みの船までしか入れなかったという浅い港でもあり、鎌倉時代以降の富士山降下物などの堆積物の影響を考慮する必要があるとは言え、そういう浅い湊を大型船の入港が必須になる外港として使うだろうか、という疑問もあります。

この様な訳で、個人的にはこの「平塚市史 通史編」の説をそのまま採用して論を展開することに対して、少なからず躊躇しているのが正直なところです。ただその一方で、平塚が中世に幕府の有力者によって何らかの強い「使命」を与えられて開発されたとする説には、ある強い「魅力」を感じているのも事実です。それは、もしもこの様な事情で平塚が開発されたのであれば、大磯と平塚が近接して発展したことが割と無理なく収まるということです。

つまり、当初それぞれ別の役目を担って近傍で共存していた2つの町が、やがて平塚の担っていた「使命」が鎌倉幕府の衰退によって失われてしまったと考えてみてはどうでしょうか。梯子を外された格好になった平塚としては、自らの存続のために別の役目に活路を見出さなければならなくなってしまった筈でしょう。その様な中で、平塚が大磯と同じ役回り、つまり継立に進出したことで両者の関係が微妙になってしまい、領主を含めた関係者間で調整を図った結果が、内陸への継立は大磯が担い続け、平塚は関与しない、という落としどころだったのではないか、という「シナリオ」が書けるのです。

特に、海外貿易というのは経済的なバックボーンの太さだけではなく、異文化が接触する上で当事国間の政治面の信頼関係が不可欠です。そういう点で、鎌倉に幕府が存在し、その近所(と言ってもそこそこ距離はありますが)で外国船を迎え入れることが出来る須賀の立地条件は、確かにメリットになり得ます。そして、鎌倉幕府の衰退・滅亡となれば、貿易の窓口も近畿へ、つまり難波などの津へと移って行くのも自然なことではあり、それによって外港としての役目を失ったとなれば、これは「シナリオ」の補完には最適と言って良いでしょう。

しかし、「シナリオ」としての収まりがどんなに綺麗でも、その裏付けが乏しい、或いは史料から確認出来る所と合致しない部分が多ければ、それ以上のものにはなり得ません。平塚が大磯とは違う何らかの使命を帯びて鎌倉時代に開発された可能性は引き続き考えたい所ですが、現時点では「平塚市史 通史編」の説はまだまだ疑問点が多いと言わざるを得ない様です。また、仮に平塚が鎌倉幕府によって使命を与えられて開発されたという説が基本線で合っているにしても、平塚の商人などが鎌倉幕府衰退後に敢えて平塚に留まろうと欲した動機付けが他に必要です。さもなければ、衰退する街を見捨てて新天地に出て行く人々の方が多いでしょうから、何も継立事業で先行する大磯と敢えてぶつかる道を選ばなくても良かっただろうからです。

今回は飽くまでも「こんな風に考えてみることもできるのではなかろうか」という程度のつもりで、敢えてここで披露することにしました。元は別の役目を担っていた、性格の異なる2つの街が継立で競合する関係になっていった可能性はもう少し追ってみたいところですが、今のところは傍証に乏しいのが実情です。次回、余談の回を1回挟んで平塚宿と大磯宿の「近さ」についてまとめる予定ですが、どうもあまり上手くまとまりそうにないですね…。



追記:
  • (2019/10/02):「ルートラボ」終了に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。それに伴い、「ルートラボ」上のルート図に付していたコメントの一部をキャプションに移植しました。

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