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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その3)

前回は、平塚市博物館のWEBサイトに記された、平塚宿の成立事情について検討しました。今回から、大磯宿と平塚宿の成立の歴史を振り返って、その位置関係を考えていきたいと思います。

江戸時代の東海道の成立事情について考えるのであれば、一番重要なのはその直前の時期にどうであったか、つまり戦国時代末期の状況がどうであったか、を見るべきでしょう。律令時代にどれだけ栄えた場所であろうとも、時代を下った頃に寂れてしまっていたのでは、新しい支配者がその歴史に感ずる所があって敢えて再興の梃入れを企てない限り(と書いておきながら、具体例を思い付いていないのですが)、基本的に顧みられることはありません。例えば鎌倉は、江戸時代の後期には古都としての歴史をウリにした観光地としての賑わいこそ取り戻したものの、最盛期には人口5万とも10万とも見積もられる都市としての景観を取り戻すことはついになく、鶴岡八幡宮の参道である段葛も南の方は田畑に囲まれている有様だった訳です。鎌倉でさえこれですから、今はさておき律令時代には宿場だったから、というだけの街では、伝馬朱印状が発給されてくることはなかったでしょう。その点では、本来なら出来るだけ戦国時代当時の様子を重点的に説明する方が良いと感じています。

しかし、今までの東海道筋の各地でも同様の傾向はあったのですが、戦国時代や室町時代辺りまで遡ろうとすると、途端に史料の乏しさという制約が立ちはだかってくるのは、平塚宿や大磯宿の場合でも例外ではありません。そういう中では、より古い時代の歴史、特に両宿の興った頃の歴史や、周辺の動向なども織り交ぜながら説明を試みる手法を採るしかなさそうです。こうなるとまたしても話が長くなりそうですが、どうぞお付き合いを。

まず、現在知られる史料に先に名前が登場するのは大磯の方です。「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」では、正倉院の御物銘に

(相模国余綾)郡大□郷大磯里の戸磯部白髪(いそべのしらがみ)(いた)す調(あは)せて庸の布一端 天平十年(九月)

(同書47ページ、明らかに誤植と思しき箇所を訂正、強調はブログ主)

と見えるものが史料の初出としています。天平10年は西暦に直すと738年、奈良時代の聖武天皇の頃まで遡れることになります。また、「新編相模国風土記稿」の大磯宿の項では

【倭名鈔】鄕名の部に、伊蘇磯長等の名を載す、是當所の舊名ならん歟、後區別し大小をもて分ち唱ふる事も、やゝ舊き事にや…【源平盛衰記】【平家物語】【東鑑】等に其名散見せり、且古くより相繼で驛路たる故、行客の事跡も又諸記に往々見えたり、

(卷之四十一 淘綾郡卷之三、雄山閣版より引用、…は中略、強調はブログ主)

と、「倭名類聚抄」にその名の元が見えることを指摘しています。これに従えば、平安時代末までには、大磯の町場が成立していたと見て良いでしょう。

ところで、大磯のその後の発展については、「大磯町史」にこんな記述があります。

当時(注:「曾我物語」の虎御前が大磯宿で遊女となった頃、鎌倉幕府の成立する建久年間の辺り)の大磯宿は、鎌倉と京都を結ぶ京鎌倉往還の宿場町として、高麗寺(こうらいじ)の門前町として賑わっていた。大磯宿の繁栄は、治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵の後、鎌倉に本拠を置いたことにより、京都と鎌倉を結ぶ街道が重要視されたことによる。また、源頼朝は寺社への信仰心が深く高麗寺に対してたびたび祈禱が命じられており、当時の大磯宿は高麗寺を中心とした門前町としても栄えていた。宿駅には幕府の命令によって早馬なども整備されており、宿泊施設や遊郭などもあった。

(「大磯町史6 通史編 古代・中世・近世」124ページ「第2章 中世/第1節 鎌倉・室町時代の大磯」より、強調はブログ主)


大磯・化粧井戸
大磯・化粧井戸
大磯宿の江戸方見附から600m程東側には、現在でも化粧(けわい)井戸の跡が残されており、傍らの案内掲示(設置者や設置日の明記はないものの、大磯町章が刻み込まれていることから、大磯町が設置したものと思われます)には

「化粧」については、

高来神社との関係も考え

られるが、伝説によると

鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。

当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み

朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名が

ついたといわれている。

(改行も現地文ママ)

と記されています。虎御前の化粧の伝説の信憑性はさて置くにしても、高麗寺門前から西に400mほど進んだ場所にある化粧井戸のこの案内も「大磯町史」の説に従って記されていることになります。また、大磯宿が北側に高麗山から連なる山地に隔てられているにも拘らず、厚木方面など内陸への交通の結節点として存在し、江戸時代になっても平塚宿ではなく大磯宿が内陸への脇往還の継立の出発点となっていた事実も、かつての宿場がもっと東寄りの、高麗山で山並みが途絶える辺りに位置していたと考えると、何となく納得の行く話に見えてきます。

しかし、それであれば大磯の街はその後も引き続き高麗寺の門前を中心とした地域に留まって発達していってもおかしくありません。ましてや、前回見た様に大磯が内陸への交通の分岐点としても機能していたのであれば、そこからわざわざ遠くなる方向へ町が移動していったというのも奇妙な話です。高麗寺は江戸時代にも御朱印地を100石も賜っており、その地がやがて「高麗寺村」として独立していったことから見ても、時代が下って大きく衰退した訳でもありません。それにも拘らず、街の中心が高麗寺を離れて西へと移っていったとするならば、その動機は一体何だったのでしょうか。

以下は全く個人的な推論になるのですが、大磯が当時その名を広く知られた名勝地であった、ということから推して考えると、それに相応しい立地に宿が移転していったのではないか、ということも考えられそうな気がします。

大磯の浜辺を含む相模湾の西部砂浜一帯は「こゆるぎの浜」と称され、古代から和歌などの題材として数多く取り上げられてきました。「新編相模国風土記稿」では淘綾郡の図説でこの「海」について詳しく取り上げ、古代から中世にかけての和歌を43首も載せています。その中で最も古いと思われるものはやはり「万葉集」のもので、「風土記稿」にも次の様に紹介されています。

海 汀砂色麗しく鮮明にして愛すべく、風光他に殊なり、されば古くより名苑に入て、【萬葉集】に、餘呂伎能波末と見え、又世々の歌集に、小餘呂伎の磯ともある、卽此海邊を云へるなり、…

東歌

相模治乃(サカミチノ)余呂伎能波麻乃(ヨロキノハマノ)麻奈胡奈須(マナコナス)兒良久可奈之久(コラクカナシク)於毛波流留可毛(オモハルルカモ)【萬葉集】◯按ずるに、相模國歌の一なり、作者を注せず、

(「新編相模国風土記稿」卷之三十九 淘綾郡卷之一 雄山閣版より、強調はブログ主)

他の歌まで取り上げていくと長くなってしまいますので、ここではこの歌のみに留めますが、この様に古代から歌に詠まれる景勝地としての高い評価が更に後世の人を呼び集め、そこで新たに詠まれた歌が更にその名声を高め…という循環の中に大磯があったのは確かでしょう。その伝統の先に、あの西行の「心なき身にも哀はしられけり鴫たつ澤の秋の夕暮」の歌があり、これが江戸時代の鴫立庵の設立へと繫がっていくことになると言えるでしょう。

そもそも「大」という地名自体が海辺を意味する漢字を1つ含んでおり、数々の歌の齎すイメージと相俟って、この街が海辺の名勝地であるという認識が、その名を知る人々の間で確乎たるものとして当初からあったのは当然でしょう。とすれば、そういう街が宿場として晩に宴を催すのに相応しいのは、やはり山裾よりは海に近い、夜陰から潮の音が届く場所の方でしょう。海岸線よりは一段内陸に入り、高麗山の麓に展開する門前町では、宴の席で海のイメージを歌に詠み込んでも、今ひとつしっくり来ない部分があったのかも知れません。門前町より宿場として大磯が発展したのであれば、やがてそのイメージに従って宿が海に近い方へと移ってしまったとしても、不思議ではなかったのではないでしょうか。


大磯・高来神社
高来神社(旧・高麗寺)の一の鳥居。
後背に高麗山とそれに連なる尾根が見える。
(2007年撮影)


高来神社(旧・高麗寺)の位置Googleマップ
一方の高麗寺の立場としても、本来が権現社であり、修験の場としての後背の高麗山が聖地として何より重要だった訳ですから、海を志向する宿場とは何処かで相容れないものがあり、その点で宿場町とは袂を分かっていかざるを得なかったのかも知れません。もっとも、これは「大磯町史」の見立てに従った場合の話であり、当初から宿場と門前町が分かれていた可能性もあり得るとは思います。とは言え、例えば当初は大磯が門前町、小磯が宿場町であったものが、やがて大磯も宿場を営む様になり、小磯の方へと町の中心を移していき、小磯と一体となって規模を大きくしていった、といった見立ての方が、近隣に宿場が幾つも立ったものが時代が下るに連れてまとまっていったと考えるよりは、よりすっきりした流れになりそうです。

その際大磯にとって都合が良かったのは、この辺りから西の地形が海沿いに街が出来るのに大変都合が良かったことです。これは稿を改めて解説しますが、大磯から二宮にかけては海岸段丘の上に砂丘が乗っており、海沿いに標高20m前後の台地が細長く連なっています。このため、海沿いにも拘らず街の中心地が高潮に襲われ難く(漁師町の様に一段標高の下がった辺りの集落はさておき)、宿場の機能を維持しやすい一面を兼ね備えていました。こうした立地が、古くからの「海沿いの宿場」というイメージに支えられながら、流通の中継地として足場を固めていくのに一役買ったのかも知れません。

無論、以上の話は市史・町史などの記述から私が想像を逞しくして考えてみたことですから、「こんな可能性もあるのではないか」という以上のものではありません。このレベルでは流石に「裏を取る」のは難しそうですし、どの程度信憑性があるのかは何とも言えませんが、この町について書かれていることを参考にその成り立ちを組み立てるなら、こんな風にも考えられるのではないか、という一例として敢えて記しました。

大磯・照ヶ崎海岸
現在の照ヶ崎海岸の岩礁。アオバト飛来地として有名
(2007年撮影、この時はアオバトは 
飛来していませんでした)
大磯宿の江戸時代の磯
「東海道分間延絵図」の大磯の海岸。
今は見られない岩礁が描かれている
(東京美術版より引用、加筆)
出来ればそのイメージに合いそうな写真を添えたいのですが、何分今は西湘バイパスが海沿いを走り、更に相模川や酒匂川からの砂の供給が減って痩せる砂浜をテトラポットが守り…という有様では、とても「汀砂色麗しく鮮明にして愛すべく、風光他に殊なり」な写真になり難く、今ではアオバトが潮水を飲みに飛来するスポットとして有名になった(「こまたん」の紹介ページ)照ヶ崎の写真を代わりに使うことにしました。

もっとも、アオバトが江戸時代にも変わらず潮水を飲みに飛来していたのかどうかは不明です。また、この海岸は関東大震災の際に1.6mも隆起しており、それ以前から地震の際に隆起を繰り返していることが知られています。となると、時間を江戸時代まで巻き戻した時には、今とは大分異なる岩礁が並んで見えるのでしょう。実際、「風土記稿」では当時の磯の岩礁として「長磯、爼磯、或は烏帽子岩など(卷之四十一 大磯宿より)」といった名前が挙げられ、また「東海道分間延絵図」でも大磯宿付近の磯にこれらの磯の姿が描かれています。

次回は平塚宿の成立の歴史を追いたいと思います。



追記:
  • (2020/10/25):「Yahoo!地図」を「Googleマップ」と差し替えました。

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