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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その2)

前回は、平塚宿と大磯宿の「近さ」について紹介しました。今回からその理由について見ていく訳ですが、このブログでは以前にも神奈川宿〜保土ヶ谷宿の距離を問題にしています。その際には、伝馬朱印状が各宿に配布された江戸時代初期の時点で、この2つの宿場が比較的拮抗した力を持っていたのではないかという観点から、それ以前迄の両宿場の歴史を探ってみました。今回も基本的には同様の検討をします。平塚宿と大磯宿の場合、伝馬朱印状発給時点ではそれぞれどの位栄えていたのでしょうか。

ただその前に、まず平塚市博物館のWEBサイトに掲載されている、この記事から見ていきます。今回の私の記事と基本的には同じ課題を設定されているので、やはり触れておくのが筋と考えました。

ひらつか歴史紀行 第2回 平塚宿の成立事情



中原御殿の位置Googleマップ

中原小学校前の中原御殿蹟碑
中原小学校前の中原御殿蹟碑
ここではまず、徳川家康が東海道各宿場に伝馬朱印状を発給する前に徴発した伝馬の記録を2つ取り上げ、大磯に比べて平塚が必ずしも伝馬を徴発されていないことから、大磯よりは一段低い扱いであったことを指摘しています。その上で、それでも朱印状が平塚に発給された理由を中原御殿の存在に求めています。中原は平塚の北側約1km程の場所にあり、江戸転封後に家康がこの地でしばしば鷹狩を行った際の宿泊場として御殿が設けられ、更に相模国内の幕府直轄領を支配した中原代官の陣屋も御殿に隣接して設置されていました。こうしたことから、この御殿の前を南北に走る道沿いに街が出来、やがて宿場を名乗る様になっていったのです。「新編相模国風土記稿」では、中原上宿・下宿の住民が元はその北方の豊田村の住民であることを伝えています。豊田村には当初家康が宿泊に使った「豊年山清雲寺」があり、ここがある時水に浸かってしまったところへ宿泊に訪れた家康が、近隣の金目川の治水に尽力したことへの謝意として御殿の地として砂丘の上にある中原を見たてたことが、この村の名主家に伝わっています(この辺りの経緯も、「ひらつか歴史紀行」の別の回に紹介されています)。

この同博物館の記事をもう少し掘り下げてみるために、まず、当時の平塚の扱いが大磯より低かったことが窺える資料を、継立関連以外から数件補足します。

1つ目は江戸時代初期に描かれた国絵図です。慶長年間に作成されたとされる国絵図をまとめた「江戸幕府撰慶長国絵図集成」(川村博忠編 2004年 柏書房)という大判の本があります。これに所収されている一連の絵図の中に、「日本中洲絵図(山口県文書館毛利家文庫所蔵)」という、東日本の絵図が含まれています。この絵図は各地大名から提出された国絵図を元に編まれたと考えられています(同書の「解題」によれば、寛永年間前半期の編集と推定されています。とすると、原図は慶長の国絵図ではなく、より後期の絵図が用いられた可能性もありますが、ここでの話では重要ではありません)。生憎この元になったと思われる相模国の絵図は見つかっていません。と言うより、残念ながら大半の国絵図が発見されていませんので、該当箇所が元絵図でどの様に表現されていたかはわかりません。が、元図がどうであったとしても、この東日本の絵図では「大磯」の名は含まれているのに対し、「平塚」は書かれていません。つまり、より大局的な絵図の中で主な拠点が取捨選択される場合に、大磯は選ばれるが平塚は選ばれないことがある、という位置付けであったことになります。

2点目ですが、戦国時代末期に八王子分国を支配した北条氏照の書状に、「牧庵」なる人物が佐野へ下向する際に自分の領分内を無事通過できる様に、宇野二郎右衛門尉という人間に命じているものがあります。

牧庵佐野へ御越すに付いて、道筋の儀、当領分御留め申し付け候、その筋目候、一段申し越し候き、定めて参着すべく候、然るに屋形様より仰せ越せらるのごとくんば、岩付(注:現埼玉県岩槻市)通り仰せ付けらるの由候、左様に候得ば、猶以て相違なく候、その方清戸(注:現東京都清瀬市)迄の儀と先段申し越し候、大磯・座間・府中・清戸四ヶ所の儀は、兼日申し付け候、…

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」290〜291ページより、読み下し文を引用、…は後略、強調はブログ主)


北条氏照が案内したルート(案)
北条氏照が案内したルート(案)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:
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戦国時代の道筋が江戸時代の道とどこまで同等であったかは不明ですが、江戸時代の道筋を参考にして、この時の大磯から座間までのルートを推測してみたのがこの地図です(座間側の道筋については「座間市史 通史編」の記述を参考にしました)。この道筋を行くとすると、恐らく平塚から厚木へ出て、そこで相模川を渡り、当時本郷村(現:海老名市本郷)付近に存在した外記宿という宿場を経て座間宿へと向かう道筋であったと思われます。平塚からは田村に向けて北東方向、後に中原街道として知られる様になる道、若しくはその近隣の道を進んだ可能性もありますが、何れの場合でも平塚が東海道筋からの分岐点になる可能性が極めて高く、道なりから考えると平塚の名前が出てもおかしくないのですが、この書状で挙げられているのはやはり大磯の方でした。

そして3点目、大磯・平塚とも文献上の登場時期は古くに遡ることが多いのですが、これが紀行文ということになってくると、主だった紀行文で付近の道筋を示す際に登場する地名としては明らかに大磯の方が多くなります。その周辺の地名としては「懐島」(現在の茅ヶ崎市、鳥井戸橋から鶴嶺八幡宮にかけて)や「もろこしが原」(平塚から大磯にかけての海岸付近、これについては後述します)などが見えますが、意外と「平塚」の登場回数は多くありません。強いて言えば、戦国時代の軍記物になると、より綿密な進軍ルートを記述する必要からか、「平塚」の登場回数が増える傾向がある様に見えます。
  • 源平盛衰記:
    • 治承四年(1180年)「八月廿五日、和田義盛三百餘騎にて、腰越・稻村・八松原・大磯・小磯打過て、酒勾の宿に着にける、」
    • 文治元年(1185年)「内大臣下向、大磯・小磯・唐ヶ原・相模川・腰越・稻村、打過て、鎌倉に着給ふ、」
    (以上「新編相模国風土記稿」から)
  • 東関紀行:
    仁治三年(1242年)「この宿(箱根湯本)をもたちて鎌倉に着く日の夕つかた、雨俄に降り、みのかさも取あへぬほどなり、急ぐ心にのみさそはれて、大磯、絵嶋、もろこしが原など、聞ゆる所どころを、見とゞむるひまもなく打過ぬるこそ、心ならずおぼゆれ。…」
    (「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」215ページ)
  • 海道記:
    貞應二年(1223年)「大磯の浦小磯の浦遙々と過れば、雲のかけはし浪の上に浮みて、鵲の渡し守天ツ空に遊ぶ、哀れさびしき旅の浦かな、ながめ馴てや人は行らん、大磯や小磯の浦の浦風に行とも盡ず返る袖かな、」
    (「新編相模国風土記稿」から)
  • 日蓮聖人註畵賛:
    「九月八日午刻、出身延山云々、十六日平塚
    (「新編相模国風土記稿」から:何れも雄山閣版より引用)
最後の「日蓮聖人註畵賛」の場合は、日蓮の入滅(弘安五年・1282年)後200年ほど経過してこの画賛が編まれる際に、各地の寺社の由緒を拾い集めて最期の足跡を編纂しており、その際に平塚の要法寺の由緒を拾い上げた様です。そうなると、宿泊したという事情がなければ平塚が経由地として記されなかったかも知れない、ということも考えられます。

勿論、私がここで挙げた事例は何れも直接伝馬に関わるものではありませんし、道中記の方は大分時代を遡るものまでが含まれていますが、総合的に見ても、この頃までの大磯の知名度が平塚に優っていたことの傍証にはなるでしょう。

もっとも、小田原から大磯までが既に遠いのですから、平塚・大磯の2つの宿場のどちらか一方から馬を徴発しようというのであれば、小田原に近い方が選ばれるのは自然なこと、という見方も出来なくはありません。その点では、元々大磯の方に地の利で分があった、ということも出来そうです。とは言え、幕末の「宿村大概帳」などに見える各宿場の規模で比較しても、平塚宿の家数443軒、人口2,114人に対し、大磯宿は同じく676軒、3,056人と、1.5倍程の規模の差があったのもまた事実です。江戸時代初期、ないしそれ以前の規模が必ずしもこれと同等であった保証はありませんが、ここまでの状況を照らし合わせると、この関係が一時的にせよ逆転していた時期を想定するのは難しくなってきます。

中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」
御林と化した敷地の中央に東照宮が祀られている
元絵は天保14年(1843年)のもの
他方、平塚に伝馬朱印状が発給された理由を中原御殿に求める点について見てみましょう。江戸時代初期に設置された中原の御殿や陣屋は家康亡き後短命に終わり、何れも江戸時代前半までには引き払われます。しかし、周辺一帯には御殿の修築に使う材を供給する目的で設けられた広大な「御林(おはやし)」が残され、御殿蹟自体も中心に東照宮が祀られた上で御林に転換されました。これらの御林の管理に役人が江戸から定期的に当地に訪れていたことが、中原街道の小杉村の幕末の公儀継立の記録から窺えるのですが、平塚宿から御林の所在する村々へ役人などが詰める場合、平塚宿がその役目を担っていたことが、「文政八年五月 平塚宿地誌取調上帳」に記されています。

一御用方在方御通之節、南原村・中原村・八幡村へ人馬共継合仕候 但脇往還無御座候

(「平塚市史 2 資料編 近世⑴」から)


また、徳川家康を祀る「東照宮」が建立されたのはこの御殿蹟ばかりではなく(現在は付近の日枝神社境内に遷座)、平塚八幡宮や馬入の渡し付近の蓮光寺などにも「東照宮」があったことが「新編相模国風土記稿」に記録されています。八幡宮では今でも境内外社の神明社に家康を祀っています。平塚から田村にかけての地域一帯に、家康が放鷹に訪れていた頃の逸話が伝わる箇所が多いことと相俟って、この一帯が家康の「恩義」を多々感じていた地域であることは確かです。

ただ、東海道筋から内陸に向けての継立は、平塚宿ではなく大磯宿の方が江戸時代末期まで変わることなく握っていたという事実があります。平塚から厚木を経て八王子に達する「八王子街道」の、あるいは中原を起点とする「中原街道」の継立の起点は、何故かこれらの道の起点がある平塚宿ではなく、立地面では平塚より不利な筈の大磯宿が一括して取り扱っていたこと、それも平塚宿が記す様に「前々より仕来たり」であることが、両宿場の「地誌取調上帳」の記述から読み取れます。

文政八年五月 平塚宿地誌取調上帳

「一往還通、平塚宿西之端ゟ田村道唱、道幅六尺位、厚木辺之本道御座候、依之御下り方、厚木辺通行之人馬共当宿不抱、大磯宿ゟ田村継合仕候処、前々ゟ仕来御座候、尤道法弐里余有之候、勿論平塚新宿八幡宮大門より厚木・八王子・大山・波多野村々も通路有之候」

(「平塚市史 2 資料編 近世⑴」から)

享和三年十一月 大磯宿明細帳

「一当宿往還江戸之方ゟ右之方道九ヶ所…/一右同断江戸ゟ左之方道拾ヶ所…/外江戸ゟ右之方平塚宿地内八王()道/人馬継立之義大磯宿ゟ/田村 道法弐里/伊勢原 弐里半程/厚木 四里程/大山寺 五里程/何れ右道ゟ往返仕候/右之外陣屋・城下重立候道筋無御座候」

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」から)


これ自体、大磯や平塚の継立の歴史を考える上でヒントになりそうな史実ですが、平塚宿が何らかの理由で内陸向けの継立の権限が制限されている中で、それを覆す様な形で江戸幕府から平塚に朱印状が出されたとすれば、その後の大磯宿との継立運用に「しこり」を残しそうな措置だったと言えるのではないでしょうか。当然、幕府も現地のその様な実情については十分把握した上での朱印状発給でしょうから、その辺りの調整は付けた上での措置ではあったでしょう。

実際、上記の「平塚宿地誌取調上帳」の南原・中原・八幡村への継立の一節は、脇往還向けの継立はやっていないことを書いた次の段に書かれており、「脇往還と申すは無き御座候」などと断り書きが添えてあるのは、これは大磯宿との仕来たりに背く話ではありませんよ、ということをわざわざ断り書きしている訳ですね。

平塚宿がここまで大磯宿に「気兼ね」しながら継立の運営をする中で、近隣の御殿や陣屋、後には御林への中継地としての役目を請け負ったとなると、その背景にはもう少し複雑な成立事情が隠れていそうです。その点で、御殿が近くにあるから、というだけではない実情があったのかも知れないという気がします。となると、やはりここは、大磯や平塚が戦国時代までに辿った歴史を整理して比較してみるのが良さそうです。そこで、次回以降で一気に両宿の「興り」まで戻って、その経緯を追ってみたいと思います。



追記:
  • (2019/10/01):「ルートラボ」終了に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。なお、「ルートラボ」上で各地点に添えたコメントについては、「別ページで表示」させた際に各マーカー(赤い玉)をクリックすると表示される様にしました。
  • (2021/02/04):「Yahoo!地図」を「Googleマップ」と差し替えました。

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