FC2ブログ

江戸時代の相模川の「川下り」(その1)

相変わらず復帰ままならず…の状況ですが、取り敢えず書き上げたものを置いておきます。


最近、江戸時代の東海道の様子を調べるために、江戸時代の紀行文・旅日記を折に触れて色々と探し回っているのですが、「県央史談」という郷土史研究会の機関誌(厚木・県央史談会編)に伊勢参宮の旅日記が掲載されているのを幾つか見つけました。その中に、相模川を舟で下ったという、当時としては珍しい記録がありましたので、備忘にブログに書き留めておきます。この旅日記はかつての下溝(しもみぞ)村に伝わるもので、同村の田名辺治右衛門という人が記したもの。出発日は文久2年(1862年)の正月2日です。

一正月二日立、夫より上溝村八幡宮にて篭上を致す 是より当麻川原迄行く 此所にて送りの人返ス、同行廿壱人にて船に乗り一之宮中飯いたし四之宮迄行、此所にてあがり、是より大磯宿へ行く 泊り

一、二日 大磯宿 百足屋(ムカデヤ)弥左衛門泊り 代弐百七拾弐文 右川よろし

三日 小田原宿 中飯いたし

三日 一箱根宿 油屋三四郎泊り 代三百廿四文 右川わろし

(「県央史談 第十一号」昭和48年11月 9ページより引用、ルビも原文通り)



旧下溝村の位置(Googleマップ
(一部新住居表示に伴い範囲外になっている)

上溝・亀ケ池八幡宮(ストリートビュー
かつての下溝村は現在の相模原市南区の西側、相模川と接する地域に当たります。上溝(かみみぞ)村はその上流側に当たり、その点ではこの人は若干「遠回り」したことになるのですが、恐らく周辺の村々からも伊勢参宮に参加する人が上溝八幡宮(亀ケ池八幡宮)に集合して出発したのでしょう。

江戸時代の相模川川下り:当麻→四之宮
当麻→四之宮の相模川の水路
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込んだものを
スクリーンキャプチャ)
ルートラボで仮に当麻(たいま)から四之宮まで線を引いてみました。当麻の出発点は仮に現在の昭和橋としましたが、当時はこの辺りに「当麻の渡し」があり、厚木から当麻を経て八王子方面へと向かう街道を渡していました。舟はこの渡し場のものだったのでしょうか、それとも当時の相模川水運で使っていた河岸場所有のものを転用したのでしょうか。どちらにせよ、一行総勢21人が搭乗出来る船ですから、それなりの大きさではあったでしょう(複数の舟に分乗した可能性もありますが、この川下りのために舟が出払ってしまうと「本業」に差し支えますから、精々2艘程度だったのではないでしょうか)。

早朝に下溝村を発ち、途中上溝で道中の無事を祈願していますから、当麻から船に乗った時には冬場とは言え既に日もかなり高くなっていたでしょう。当時の距離などを正確に知ることは今となっては不可能に近いですが、仮に当麻から一之宮まで現在の地図上で辿るとざっと18km、これも仮に朝9時頃に舟に乗り、一之宮に正午過ぎに着いたと仮定すると所要時間は約3時間、平均6km/h程度という、歩くよりも若干速い程度のゆったりしたクルージングだったことになります。勿論これは仮定した数字同士の計算ですから誤差は多々ありますが、何れにせよ先を急ぐための水運というよりは、流れに身を任せたのんびりした遊覧川下りだったと見て良いでしょう。途中に厚木や戸田などの渡し場があることを考えても、相互の安全確保の観点からもそれほどの速度は出せなかったと思います。

江戸時代の旅では陸を行くのが基本で、船は基本的に川や海上を「渡す」ためのものでした。海上を行く例としては東海道では宮〜桑名間の「七里の渡し」がありますし、浜名湖の入り口を渡す「新居の渡し」も1里と比較的長距離でしたが、「遊覧」を気取るには海の波に揉まれることもあって少々厳しかった様です。その意味では、比較的水面の穏やかな川面をゆっくり下る相模川下りは、当時の伊勢参宮の道中ではあまり見られないもので、相模川の中流域を起点とする地ならではのものだったと言えるでしょう。

勿論、今の相模川では上流のダムによって水量を抑えられており、また途中に固定の取水堰が3箇所も(磯部頭首工取水堰、社家・相模大堰、寒川取水堰)ありますから、当時の川下りを再現することは不可能です。


一之宮付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)

寒川社の一の鳥居(ストリートビュー)。
ここから境内に入るまで900m近くあるが、
江戸時代の宿場はここより更に600mほど南
一之宮(現・高座郡寒川町)に立ち寄ったのは中食、つまり昼飯目的であったことがこの日記に記されています。ここは中原街道と田村通り大山道の交点に当たる宿場であると同時に「田村の渡し」で相模川を越える拠点でもあり、特に大山詣での参拝客で賑わう宿場でした。今は寒川町の中心地であり、北側には初詣の際に県内有数の参拝客を集める寒川神社が祀られる地としてその名が知られています。

このため、この上陸はあるいはその寒川社への参拝も兼ねていたのかと考えたくなりますが、この旅日記ではそのことには触れられていません。当時の伊勢参宮では伊勢に到着するまでの間に複数の権現社などに参詣することが多く、特に箱根権現(現・箱根神社)への参拝は大抵組み込まれていたのですが、この日記ではその点にも触れられていないので、あるいはこの旅日記が参拝先をあまり積極的に記録していないだけで実際には寒川社にも詣でているのかも知れません。ただ、「迅速測図」にも見える様にかつての一之宮の宿場町は現在の「景観寺前」交差点の辺りから「一之宮小入口」交差点を経る道筋にあり、ここから寒川神社までの参道はかなり長いので、その距離を考えると立ち寄らなかった可能性の方が高そうではあります。田村の渡しの上流、寒川社の西辺りで上陸すれば歩く距離を幾らか短縮出来そうですが、明治時代の地図を見ると渡し場ではない場所に接続されている道は細い農道くらいしかありませんので、敢えて大人数の一行が上陸を試みるのは難しそうです。

因みに、寒川神社境内に掲げられた由緒書きによれば、江戸時代には寒川神社は寧ろ不遇の時期で各社殿の荒廃が進み、再興は明治時代に入ってからのことなのだそうです。江戸時代は寧ろ権現信仰が根強かったということになるのでしょうか。もっとも、寒川の地が東海道などから離れ過ぎていることも少なからず影響していたでしょう。その点を考慮しても、やはりこの伊勢参宮の途上に寒川社に立ち寄った可能性は薄いということになりそうです。

ところで、この伊勢参宮の一行21名が昼食に立ち寄ったということであれば、なかなかの大人数向けの膳を一之宮が賄ったことになりますが、そこはやはり大山講中の参拝客の団体を恒常的に受け入れていたために、それだけの収容力を一之宮が備えていたことを考えて昼食の場に選んだのでしょう。もっとも、正月早々に大人数で立ち寄っていることから考えて、この伊勢参宮の講中から予め一之宮に「先触れ」を送って手筈を整えてもらっていたのかも知れません。受け入れる側も相応に食材の手配などが必要なのは、言うまでもなく当時も一緒です。

後半が長くなりそうなので、今回はここで止めます。次回はこの川下りの上陸地点について検討してみたいと思います。



※追記(2014/02/26):旧下溝村の地図をGoogleマップに貼り替えました。また、併せて上溝・亀ヶ池八幡宮のストリートビューを追加しました。
(2015/03/09):Googleマップの空中写真の表示では町域を表示しなくなって久しいので、諦めて地図表示に切り替えました。
(2015/08/21):ストリートビューを貼り替えました。また、「ルートラボ」の地図を「地理院地図」上で作図したものと挿し替えました。
(2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを「今昔マップ on the web」の埋め込み地図と差し替えました。それに伴い、Yahoo!地図を撤去致しましたが、現在の地図は「今昔マップ」上で地図を切り替えることで表示可能です。


スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :