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【旧東海道】その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道に補足

相変わらず復帰できない状況が続いていますが、その間にこんなものを書き溜めたので、ひとまず置いておきます。次回…何時になるとも知れません。



以前、茅ヶ崎付近の砂丘について取り上げた際に、「牡丹餅立場」についてこんなことを書きました。
旧東海道:「牡丹餅立場」のガイド
「牡丹餅立場」ガイド
旧東海道:「牡丹餅立場」のガイド(部分)
ガイドに引用された「東海道細目分間之図」

最近になって茅ヶ崎市が立てた「牡丹餅立場」のガイドには、「東海道細目分間之図」が引用されていますが、この絵図の中にこんな文言が見えています。

此へんふかき砂地/風にて砂ふき上候ゆへ
時々道かハる/子供中がへりいたし/申候

最後の1文が意味不明ですが(まぁ、この絵図は旅行者向けのガイドなので洒落なのでしょう)、街道の両側に松並木が植えられていてもその程度では砂が舞い上がるのを防ぐのには大して役に立たなかったのでしょう。


この「子供中がへりいたし/申候」を最初に見た時、「なんだこれ?」と口に出てしまったのが正直なところです。どういう意味なのか皆目見当がついていませんでした。何やら冗談めかして書いている様に見えたのでこんな記事になったのですが、その後紀行文・道中記を調べて廻っている最中に、偶然この「子供中がへりいたし/申候」に関連する記述を見つけたので、改めて調べ直してみることにしました。

その記述は、「茅ヶ崎市史4 通史編」の中にありました。近世の東海道についての章の冒頭で、土御門泰邦という人の「東行話説」(宝暦10年・1760年)中の南湖の立場から牡丹餅立場付近までの様子が引用されていました。その箇所をここに抜き出してみます。

中嶋村に上り、今宿も過ぎて、相模が淵のみなみなる橋は何といふぞ共、あいだはですぎぬおとしつ。町屋つゞきに行て、なんこ(南湖)茶屋に休みて、是より輿(こし)を下りて歩行しつ。面白き左右は林にて、松一色の台の物見るがごとく、道高砂にて白(砂)糖の上ゆくがごとし。家もなければ、誰に心を(沖)津風吹寄波の音はすれど、朝まだき日影静かにて、行足もとにころりころりとこけ廻るは、四ツ五ツより十ばかりまでの子供なり。是も世渡る一ツにて、物とらせければころびやみけり。平砂の上なれば怪我はすまじきなれども、骨定まらぬをさなき身の、かゝる所為を見るにも、(ふ)と我が子の事を思ひ出して、胸こはり、往事を計るに、限りなく出くる涙は止る所なし

(同書223ページ、傍注、ルビは原文通り、強調はブログ主)


つまり、これは子供たちの小遣い稼ぎの「芸」なのです。砂丘で宙返りしても大して怪我もしないので、それをいいことにアクロバットを道行く人の前で披露しては、小遣い銭をせびっている訳です。

因みにこの「東行話説」は「随筆百花苑 第十三巻」(中央公論社、1979年)に収録されているとのことなので、そちらも併せて参照しました。筆者の土御門泰邦はその氏名が象徴する様に公卿で、この旅は京から江戸まで、九代将軍徳川家重の右大臣任官の宣旨を携えた勅使の随行をしていた時のものです。泰邦にとってはこれが最初の江戸行きだった様ですが、その様子を「土佐日記」の筆致を真似て書いた紀行文なので、子供の宙返りに我が子を思い起こす一節が続いたりする訳ですが、それはさて置き。

この引用箇所を見つけた時、最初はつい「そうか、これが『元ねた』か」と思ってしまいました。この紀行文を読んで絵図に反映したのか、と一瞬考えてしまったのです。しかし、この紀行文が書かれたのは上記の通り宝暦10年であることに気付いて、そうではないことに気づきました。「牡丹餅立場」のガイドに掲載されていた「東海道細目分間之図」はいわゆる「東海道分間絵図」と同じもので、但しこの東京国立博物館所蔵のものは手彩色が施されています。「国立国会図書館デジタルコレクション」に収蔵されているものは同図書館が所蔵しているもので彩色はありませんが、内容は同じものでどちらも初版本、出版は元禄3年(1690年)、つまり絵図の方が「東行話説」より70年も前なのです。もし両者の間に引用関係があるとしたら、「東行話説」の方が「東海道分間絵図」を参照してこれを書いたことになります。

では、「東海道分間絵図」は別の先行する紀行文や旅日記、道中記などを参照して「子供中がへりいたし/申候」と書き付けたのでしょうか。その場合、「東行話説」もその古い記録の方を参照してこの箇所を組み立てた可能性もあります。つまり、「東行話説」のこの部分はフィクションの可能性もあるということです。

しかし、こと「東海道分間絵図」に関する限り、その様な記述が入り込む隙はありません。改めてこの絵図を頭から終わりまで、書き込みの部分をチェックしてみましたが、名所の謂れについて記した箇所は確かにありますが、飽くまでもその土地に実際にあるものを記述するための説明であって、紀行文などから引っ張ってきたと思しき情景を組み込んだものは1つもありませんでした。何しろ序文で製作者である遠近道印(おちこちどういん)

…東海道五十三次道法分間に顕し、而所々の景、村付ケ、馬次、家並、名所、旧跡、山川、海道、微細に考え

(「東海道分間絵図 上」1960年 中央公論美術出版 解説より引用)

と、自ら仔細・正確を心掛けたことを序文に書いていて、嘘か誠か怪しげな伝聞を書き足す様な姿勢は皆無です。その様な中にあって、「子供中がへりいたし/申候」の一言は、絵図中では随分と「浮いた」存在なのです。

となると、この「子供中がへりいたし/申候」も、やはり実際に現地の子供たちがやっていたことの記述ということになるのでしょうか。

そこでもう一度、「藤沢市史料集(三十一) 旅人がみた藤沢⑴」を隅から見返してみたところ(以前も紹介しましたが、この冊子は本当に重宝しています)、他にもこのことに触れた旅日記を見つけました。安永6年(1777年)、参勤交代の国許への道中に、姫路藩主の酒井忠以の記した日記です。

…此所に休、南湖てふところなり、此辺なへて砂深し道平かなり、処のおさなきが群出て砂の上にかへりまろふもおかし、

(「酒井忠以参勤道中日記」、上記書15ページより引用、強調はブログ主)

まさか殿様の日記にこんな他愛もないことでわざわざフィクションを書く訳がありませんから、これは確かに…って、参勤交代の休憩中とは言え、殿様の前で宙返りですか。よほど「名物」になっていて子供も大人も慣れっこだったんでしょうか。こういう場合でも殿様御一行から御褒美をもらえたりするんでしょうかね。

子供が小遣い稼ぎの目的で旅人にまとわりついてくる例としては、江戸時代では江の島が割と有名でしょうか。こちらの場合は観光案内をするからという名目で旅人が到着すると子供たちが群がるという姿が、時折江の島の紀行文中に書かれています。

江の島へ趣く道にて、小兒ども多くむらがり付てうたふ。

御道者御道者、お江戸の道しや、錢もちて、一貫ざしの口をぬきて、おいづのお山の、白鷺なんどが舞まうやうに、はらりはらりとおまきやれさ、蒔たる種ははゆべきぞ、まかなひ種ハはへまいぞ

と、うたひうたひて、數十人むらがりつきて、錢をもとむ

(「東海濟勝記」三浦迂齋 宝暦12年(1762年)、「随筆百花苑 第十三巻」151ページより引用)

どんな節を付けて歌った歌かは解りませんが、まぁこれも教育の一環だから投資をよろしく、ということなんでしょうか。それにしても「自分で言うか、それ?」とツッコミたくなる様な囃子口上には笑ってしまいます。

他にも江の島で子供の案内役の語ったところとして由緒が書かれている紀行文や、案内銭として6〜20文ほどの支出が記載された道中記が「藤沢市史料集(三十一)」には複数記録されています。後者については必ずしも全てが子供の案内ではないと思われるものの、複数名に何文かずつ配った様に書いてあるものは状況から見て子供のガイドでしょう。他方、この例は必ずしもガイドではなく、旅人を囃し立てて銭を波打ち際で投げさせてそれを拾っている様子。これで投げ銭を取れるというのは、どういう囃子口上なのでしょうか。

浜辺の浪打ぎはを過るに、片瀬浜のわらは多くむれ来りて、銭を乞ふ。あられぬことどもいひのゝしり、かほつけて波をくぐり、おかしきさまにて浪にうちいり、なげたる銭をとりぬ。又はせんをまけよと、うるさき迄につきしとふ。まけばうちむらがりてひろひ、其ひまにあし早にこゝを過るに、亦女わらはも打むれ、みどり子背ほひたるもありて、口そろへ、ふしつけて、何やらん長き事いひてしたゐ来る。銭まけばうち寄てひろいぬる。

(「鎌倉日記」扇雀亭陶枝 文化6年(1809年)、上記書35ページより引用)

この場合は流石にかなり煙たそうですね。

江の島以外でも

…次に藤沢宿…白旗明神の社東の脇に真言宗荘厳寺という別当寺にて子供をかり案内を乞ふ

(「小田原行」高山彦九郎 安永5年、「藤沢市史料集(三十一) 旅人がみた藤沢⑴」14ページより引用)

こちらは当時藤沢宿の白旗神社の別当だった荘厳寺(明治時代の神仏分離令に伴い現在の地に移転したので、この紀行文とは位置関係が合いません)で子供に案内を頼んでいます。この頃には江の島から藤沢にかけての一帯の観光ガイドは子供の小遣い稼ぎとして定着していたと見て良いでしょう。

この江の島周辺の場合は観光ガイドという割と具体化した「サービス」だったからでしょうか、さして取り締まられたりすることもなく、江戸時代にはかなり良く見られた光景だった様です。しかし、茅ヶ崎の「宙返り」の場合は砂埃の中で道中にいきなり芸を見せられて小遣いをせびられる訳ですから、これはあまり良くは受け止められなかったのでは…と思うのは、案外現代的な発想なんでしょうか。

それにしても、これを何故遠近道印が敢えて絵図に収録しようと考えたのか、他所でも見られる様なものであれば、殊更に茅ヶ崎の宙返りだけを取り上げなくても良さそうなもので、ならば意外と珍しいものだったのか、なかなかその意図を理解するのが難しい一節です。

また、先ほども書いた様に、「東海道分間絵図」と「東行話説」の間には70年もの隔たりがあります。酒井忠以の日記は更にその17年後、「絵図」からは87年も後です。勿論その頃には遠近道印の前で宙返りしてみせた子供は既に天寿を全うされたか人生最期の頃でしょう。「四ツ五ツより十ばかりまで」の子供の所業となれば、その間の世代の入れ替わりは更に早いことになります。その間ずぅっと同地の子供達の間でこの「風習」が受け継がれてきたことになります。土御門泰邦は「土佐日記」風にパロディにして「涙は止る所なし」と書いていますが、これだけ受け継がれているということであれば、これは半分「子供の遊び」の領分に入ることなのかな、という気もします。単なる小遣いせびりなら、こんなには続いていないのではないでしょうか。

因みに、宝暦2年(1752年)には桑楊という人の手で「東海道分間絵図」の縮刷本(と言っても今の影印を光学的に拡大・縮小するのとは違って一から版を起こし直すのですが)が編み直され、その際に情報が古くなった箇所を割愛したり更新したりしています。「道中記全集 第九巻」(今井金吾監修 1996年 大空社)所収の監修者所蔵版の該当箇所では、「子供中がへりいたし/申候」の文言を含む一文は削除されているのに対し、菱川師宣が描いた侍の前に子供が群れる絵は、図柄は変わったもののコンセプトはそのまま受け継がれています。縮刷によるスペース上の制約からあまり重要でない文言を外さざるを得なくなったものの、まだこの風習が続いていることを桑楊が知っていて絵柄を何とか残したのかも知れません。


今のところ、同地に関して見つかっている史料は他にこれと言ってありません。出来れば他に旅人と地元の子供の関わりを書いた事例がないか、また見つけたら報告したいところです。

さて、この「東行話説」、先ほどの引用だけ見ているとそれほどでもないのですが、実はこの紀行の書き出しを

袖ひぢむすぶ注連の内、十四日の朝霞、立場に供先の奴茶をのみて、はや喰ひ物の穿鑿をなんしける(藍「伊勢物語初段の詞をもてかける也」)。

(「随筆百花苑 第十三巻」63ページより引用)

などと始めてしまう辺りに窺える様に、食べ物に関してはかなりの言いたい放題を書き連ねてあります。褒めてあるところはまだ良いのですが、貶すとなったら酷い文言が連ねてある箇所もあって、例えば有名な丸子(鞠子)のとろろ汁の箇所では

味噌のあしきに、鼻も開きがたく、舌もちゞみて、そら音をはかる咽の關も是はゆるさぬ斗也

(同書99ページより引用)

と、本当に文字通り糞味噌にこき下ろしています。まぁ、当時の道中になぞらえて「のどの関」と洒落たつもりはあるでしょうが…。一応鞠子の名誉のために言っておきますが、飽くまでも江戸時代に通り掛った公卿の一証言に過ぎませんので、念のため。私も一度ここでとろろ汁を食べましたが、存分に堪能しました。安倍川餅を食べてからそれほど時間が経っていなかったので、とろろ汁を完食したら食後がきつかったですが。


時には悪口雑言を辞さないこの様な書きっぷりは、南湖の先の牡丹餅立場のこの記述にも良く現れています。これについては以前のブログでは読み下し文の方を紹介しましたが、こちらが出典ということになります。

あゝまゝよ、へちまの皮のだん袋、かたげて行鋤も鍬も京にはかはる小畑村(小和田)といふ所に休む。(ここ)にぼた餅あり。砂糖は海道の砂よりも黒く、旅人の蹴揚の塵にむさきこと限りなし

(「茅ヶ崎市史 通史編」224ページより引用、強調はブログ主)

前のところで砂を白砂糖に喩えたのでその比較になるように「黒く」と書いたのでしょうが、牡丹餅を不味いとは書いてないものの巻き上がる砂埃に相当に参りながらの休憩だったのは確かですね。

まぁ、この「東行話説」は笑いながら話半分に読むのが良さそうです。でも、子供の宙返りは結局本当だった様ですが、正直酒井忠以の日記を見つけるまで信用していませんでした。何故ってやっぱり、こういう文章だとつい…(笑)。



上の文章を一旦完成させた後、Thunberg(日本語では「ツュンベリー」「トゥーンベリ」「ツンベルク」等々と表記されている)の「江戸参府随行記」(高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫、原文はスウェーデン語)を参照していて、こんな記述を見つけました。なお、この道中は西暦で「1776年」と記されていますが、和暦に直すと安永3年ということになります。4月23日の道中についての記述です。

吉原では、すでに何日か前からその頂上を見せていた富士山が、旅の間中で最も近くに見えた。…

この辺りでは砂っぽい道に沿って、何人かの少年が手と足を使ってでんぐり返しをしているのが見られた。それは我々から小銭をせしめるためである。そのため我々はあらかじめ、少年に投げ与える銅貨の両替をしておいた。

その後、夜遅くなって真っ暗ななかを、提灯(ちょうちん)松明(たいまつ)を灯して宿に着いた。

翌日、箱根(はこね)山と呼ぶ難儀で険しい山越えの旅が、我々を待っていた。

(上記書149ページより引用、ルビも原文通り、…は中略)

敢えて長めに引用したのは、肝心の子供たちの宙返りがどの辺で見られたのか明記されていないからです。翌朝箱根に向けて出発していることでもわかりますが、夜遅くまで掛かって到着した宿泊地は三島であることが別の場所に書いてあります。従って子供たちの宙返りは吉原と三島の間で見たことになりますが、「砂っぽい道」ということから考えると、恐らくは原宿を中心にその前後に連なる砂丘列の上を行く区間の何処か、ということになるでしょう。

すると、茅ヶ崎の宙返りと道の環境が極めて良く似ていたことになります。であれば、東海道中で、あるいは他の街道でも似通った地形の場所ならば(もっとも、海沿いでないとなかなかこの様な砂丘帯は望めませんが)、何処でも子供たちの宙返りが見られたのかも知れません。しかし、そうなるとますます、「東海道分間絵図」で殊更に茅ヶ崎でのみ「子供中がへりいたし/申候」と書き付けたのは何故なのか、不思議に見えて来るのです。それとも、宙返りのルーツはやはり茅ヶ崎で、その後街道筋を経て他の地でも子供たちの小遣い稼ぎとして広まっていったのでしょうか。トゥーンベリも宙返りのことを記したのはここだけで、茅ヶ崎では特に何も記していませんでした。

なお、シーボルトの「江戸参府紀行」(斎藤信訳 1967年 平凡社東洋文庫、原文はドイツ語)でも、大磯と藤沢間の描写の一節で

旅行者の慰めに六歳から一二歳ぐらいの少年少女が上品とはいえないトンボ返りをしていた

(上記書134ページより)

と記しています。1826年の江戸行きで和暦では文政9年に当たります。これも具体的に地名は明記されていませんが、位置関係から考えて、多分茅ヶ崎付近で見かけたものだろうと思われます。そうだとすると、子供たちのこの風習は幕末まで続いていたとも考えられそうです。なお、原注には「越後獅子」と記されているとのことですが、恐らくは実情が呑み込めなかったが故の推量なのでしょう。



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