…と、いきなり横山党の名前を出してしまいましたが、「町田市史」では同氏について次の様に説明しています。
市内の小山田荘を除く小山・相原・山崎・成瀬等の地は、横山党の勢力下にあった。嫡流横山氏は元来八王子市内の横山、船木田荘を拠点とし、かねてから隣接する町田・相模原市域へその勢力をのばしていた。
横山孝兼には多くの子供があり、嫡男時重は散位権守、粟飯原氏を名のり、二男孝遠は藍原二郎大夫と称し武州相原にその居を構えた。その子孫は市内に勢力を伸ばし、孝遠の子義兼は野部三郎といって矢部に住し、その子兼光は山崎に居した。また孝遠の孫、鳴瀬四郎太郎も成瀬に居住したらしい。三男忠重は甲斐国古郷を領した。後年その子孫保忠・忠光父子は、和田の乱で横山氏と運命を共にする。四男経孝は小山、あるいは小倉を称し、小山および津久井小倉にその居をおいたものと思われる。その他女子は秩父重弘の妻として小山田有重を生んだ女をはじめ波多野・荻野・渋谷・平子等に嫁している。
ところで相原・小山の地名が境川をはさんで市内および相模原市にわたっていることよりすれば、両方にまたがる地帯が、かれらの所領であったものと思われる。
(「町田市史 上巻」384ページ)
上記文中に現れる「船木田荘」について、別の本から引用して補足すると、
従って、横山氏も前回登場した小山田氏同様、牧の経営管理から興り、多摩郡内を南下して勢力を広げてきた在郷氏族ということになります。…当地域(注:多摩地区)では、由比牧・小野牧などを中心とし、その周辺の山地部を含めた広大な地域が摂関家領の船木田荘 となった。そして、その立荘には、武蔵国府の在庁官人であった小野氏の系譜を引く横山党の横山氏が関係していた。こうした西武蔵の武士団の長が、当地域の開発を主導し、軍事力を背景に政治的にも活躍して、牧の荘園化にも深く関与していたのである。
…
ちなみに船木那翔の呼称は、荘園領主側の文書や記録類に登場するもので、在地では横山荘と呼ばれていた。…このことを裏づけるように、『新編武蔵国風土記稿』には横山荘という郷地名は登場するが、船木田荘については、郷荘としての記述は一切みあたらない。
(「地域開発と村落景観の歴史的展開―多摩川中流域を中心に」原田 信男 編 思文閣出版 2011年 142ページ、…は中略)
西側の東西に細く伸びた地域が相原・小山
なお、それぞれ南の相模原市域に同じ名前の地域が見出せますが、相原の方はその後橋本や川尻といった村が分村していったため、現在の地図上からは当時の所領との関連性は追い難くなっています。また、小山の東隣には同じく横山党の矢部氏が、やはり境川の両岸に所領を構えていたのですが、今はその地名は相模原市域のみに残っています。境川の北側の矢部は室町期には「小山田保下矢部郷」と記された資料が残っており、その頃までに小山田庄に取り込まれていたことが窺えるものの、その経緯については不明です。
しかしながら、粟飯原氏・小山氏をはじめとする横山党一族は、建保元年(1213年)に和田義盛が執権北条義時の挑発に乗って合戦に臨んだ際に共に挙兵し、敢え無く敗れてしまいます。和田義盛の妻は横山時重の娘であり、更に義盛の子である常盛の妻は時重の子である時広の娘という、深い姻戚関係にあったために出兵した訳ですが、これによって領主を失った横山荘は大江広元に与えられています。その後横山荘の一部は九条家や一条家領として譲られたり、天野氏をはじめ鎌倉幕府後期の御家人に分け与えられたりしているのですが、「町田市史」ではその天野一族の中での所領争いの例を紹介した上で次の様に解説しています。
つまり、この地域では鎌倉時代の末期までには、早くも領主の所領関係も領民も分散化する傾向が現れていた、ということです。以上によってわかるのは、第一にこの地が武蔵国由比本郷といわれて横山荘内と記されていないことから、横山荘内の少なくとも一部は国衙領に編入されて北条氏の直接支配下に入ったと考えられること、第二に鎌倉末期の南多摩地域の農村には、…旧来の在家の中からより小規模な在家農民が分立しはじめており、農民層の成長が認められること、第三に分割譲与によって御家人の所領が細分された結果、血を分けた兄弟姉妹の間でさえ激しい相続争いが行われたこと、第四にかれらは幕府の仲裁・保証によって和解に達してもなお郷や村のみならず在家や炭竃まで分割するという一層錯綜した領有関係に追い込まれ、したがって幕府の裁定に決して満足しえなかっただろうことなどである。現在の八王子市域におけるこのような状態は、隣接する町田市域内も同様に群小の在地領主層の錯綜した所領に分かれていったことを想定させる。
(「町田市史 上巻」414〜415ページ、…は中略)
こうした傾向は恐らくその後も続いていたと見え、やがて戦国時代になって後北条氏が小田原から関東へと支配を伸ばした頃に作成された「小田原衆所領役帳」では、「油井領」の1つとして「粟飯原四ヶ村」が挙げられています。「相模原市史」では同市域に属する江戸時代の「上相原・橋本・小山・下九沢」をこの4ヶ村に含まれると判じていますが(第二巻532ページ)、この4ヶ村が現在の町田市域の相原や小山までを含んでいるかどうかは定かではありません。しかし、この頃には相原は分村化が進んでいたことは確かな様です。特に橋本は八王子と小田原を結ぶ街道沿いにあり、江戸時代には宿場が栄えた地区ですが、戦国時代に既に同地に瑞光寺や神明大神宮が建立されていることと併せて考えると、その頃には既に同地が独立した街場として発展しつつあった可能性は高そうです。

小山田氏始祖である有重を祀る
と指摘しています。なお、小山田氏の一部は甲斐国の郡内谷村に本拠を移し、戦国期には武田氏のもとで活躍することになります。南北朝時代の末から室町中期にいたる文書や金石文には、小山田荘の代わりに小山田保と記されている。保というのはがんらい国司の免判によって認められた一種の私領であったが、のちには「限り有る国保は勿論の公領也」(『吾妻鏡』文治三年四月廿三日条)といわれるように国衙領の一単位を意味しているから、小山田荘が小山田保とよばれるに至ったのは、それが南北朝末期には国衙領に編入された事実を明示するものであるといえる。したがって、小山田氏没落後の小山田荘は、やがて国務をつかさどる得宗家の支配下におかれ、のちには行政区画上の名称まで保と改められたのであろう。
(「町田市史 上巻」409ページ)
周辺には「公所」を冠する施設が他に数件残る
(Googleマップ)
とあり、「新編相模国風土記稿」の「上鶴間村」の項では永祿の頃は小山田彌三郎が知行する所にして、十六貫二百七十二文のよし【小田原家人所領役帳】に見へたり、又其比は小山田庄に屬せしことをも記したれど、今は其唱を失へり、
(卷之九十 多磨郡之二、雄山閣版より引用、強調はブログ主)
と論じられていることから、戦国時代には既に境川筋で村が分かれ、一部が小山田庄に含まれていたことによって、事実上境川が武相国境になっていた可能性が高いということのみです。又境川の對岸、武州多磨郡にも鶴間村あり、土人傳へて古は是も當國に屬して彼是一村たりしを、後國界變易して境川を限り、武州に屬せしより地域兩國に分れしなりと云ふ、其年代傳なくして知由なけれど、【北條役帳】に小山田彌三郎が采地の内、小山田庄鶴間と見えたれば既に此頃國界革りしと識るべし、小田原北条氏割據の頃は關兵部丞領す
(卷之六十七 高座郡之九、雄山閣版より引用、強調はブログ主)
こうした各地の所領の変遷にあまり深入りすると話の流れが見え難くなってしまいそうですが、武相国境との関連では、小山田氏や横山党の進出によって所領化された境川流域は、やがて度重なる相続の細分化や領主の交代などを経たことによって、ますます国境の見極めが難しいものになっていった、ということになるのではないかと思います。この様な状況のもとで戦国時代の末期に豊臣秀吉や徳川家康がこの地に登場してくる訳ですが、次回は彼らの行った検地とそれに伴う国境について見たいと思います。
追記:
- (2014/02/26):町田市の地図をGoogleマップに切り替えました。
- (2015/03/09):Googleマップの空中写真の表示では町域を表示しなくなって久しいので、諦めて地図表示に切り替えました。
- (2016/01/27):Googleマップを貼り直しました。
- (2017/12/10):大和市内の公所の位置が分り難くなったため、Googleマップ上の「公所浅間神社」の位置を示す地図に差し替えました。
- 徒然写真帳管理人 - 2013年03月03日 23:53:48
あのあたりの地形は、丘陵地帯で濃尾平野出身の私には、新鮮さがありました。
なんだか楽しく読ませてもらいました。