- その1:江戸時代の馬入の渡しの分担について
- その2:明治11年の馬入橋架橋の経緯
- その3:明治16年の馬入橋架橋が木製トラス橋であったとする説について
- その4:明治20年の東海道線馬入川橋梁について
- その5:明治42年の馬入橋架橋までの経緯
- その6:馬入橋と馬入川橋梁の関東大震災の被災と復興まで
今回は元々、六郷の渡し→六郷橋の流れと比較する意図が強くありました。そこで、両者を比べて相違点・共通点などを挙げてみます。
相違点として一番目に付くのは、行政の関与の度合いの差でしょう。六郷橋の方は鈴木左内の申し出以降、架橋の動きはほぼ地元の有志の働きに限定されていて、国や府県、更には村などの行政単位が前に出ることがありませんでした。最終的には京浜電気鉄道(後の京浜急行)が買い取って補修した上で国に寄贈している所まで行っていながら、その橋が最終的に国や府県の費用負担でアーチ橋に生まれ変わるのに大正15年まで時間がかかりました。
これに対して、馬入橋の場合は費用負担こそ地元馬入村の負担で動いていた面が強かったものの、当初から足柄県や神奈川県の働きかけが強く、明治30年代からは費用負担の是非を巡って長期にわたって議論が続けられています。現時点では裏付けになる資料がないとは言え、明治16年という非常に早い時期に木造トラス橋が建設されていたということになれば、これは神奈川県の働き掛けが強くなければ実現しなかった可能性が高く、六郷橋の様な地元有志のか細い経済力や技術力では到底考えられないことであった筈です。
東京と横浜の間に位置する六郷橋が何故か行政から関与されなかったのは、何だか妙な感じもします。その理由として考えられるのは、1つには東京府(当時)と神奈川県の境に架かっているために、両府県の関係調整が必要な微妙な位置づけに置かれていたからという点も挙げられると思います。しかしこれは、国が調整役として入ることで推進することは出来たとも考えられるので、やはりそうしたモチベーションを強くは持っていなかったということになりそうです。
今ひとつ考えられるのは、当初に鈴木左内が積極的に事業化を志したことが、却って「六郷橋は民間の事業」という意識を行政側に持たせてしまい、結果的に道路行政の風向きが変わってくるまで行政側が関与しようという意識を削いでしまったのではないか、という点です。ただ、この辺りはまだ裏付けになる資料を見つけていないので、飽くまでも私の推測に過ぎません。
他方、馬入橋の場合は、江戸時代の周辺5ヶ村が役割分担して維持していた渡船場の枠組みが解体し、馬入村1村が架橋の負担を担う格好になってしまったため、より上位の行政府から問題視されやすかったのでしょう。国からは一定期間内での通行料徴収で架橋費用の調達を指示されていたものの、手持ちの架橋技術で果たしてその様な枠組みで本当に維持出来るのか、疑問も強かったのではないかと思います。実際、明治11年に架橋した橋が早々に落ちてしまったということは、次の架橋のための資金を通行料で賄い切ることが出来なかったことを意味しており、その点では通行料徴収という方法が早々と破綻していたことになります。
一方、共通点としては六郷川・馬入川共に砂地の川底であったことが技術上の難点となっていた点を挙げることが出来るでしょう。これまで何度も引用している江戸時代の善兵衛の残した
の言葉から、こうした川には伝統的な工法ではなかなか太刀打ち出来なかったことが窺えます。六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ
善兵衛自身は江戸で隅田川の長大な架橋を手掛けている当時の技術者ですから、この言葉は江戸時代当時の架橋技術の水準を反映していると見ることが出来ると思います。その当時の技術者にとって、「砂川」は架橋困難な川の1つであったという認識が持たれていたことになります。
そして、そのことを裏打ちするかの様に、当時の最新の土木建築技術が何とか行政の予算で賄える様になるまでの約50年間、伝統的な工法による木橋は幾度と無く流失・破損しては交通が途絶するということを繰り返していた訳です。因みに、その様なこともあって、明治時代にはこの様な木橋は全て「仮橋」と呼ばれていましたが、江戸時代の渡し場で冬場限定で架橋され、春には撤去されていた「仮橋」とは明らかに位置付けが違うもので、その点では用語の整理が必要です。
基本的に江戸時代のことを取り上げるこのブログが、架橋の話になると時代を下っているのは、1つには江戸時代以降の流れを追うことによって、逆に江戸時代には技術的に困難であったことをあぶり出したいという理由からでもあります。ここまでの事例を見る限り、江戸の架橋技術では砂地の川底に対処することが出来なかった、ということは言えるでしょう。この点については、東海道を更に西に進んでみた時に改めて考えてみたいと思います。
なお、今回は相模川の水運と渡船の兼ね合いについてごく簡単に触れることしか出来ませんでしたが、多摩川でも上流から河口まで丸太を流す筏下りはありましたから、各所の渡船との間に同様の問題があった筈です。ただ、多摩川の水運についてまだ詳しいことを知らないので、何れ改めてこの問題については調べてみたいと考えています。
おまけ:
一連の話の流れの中で使えずに残ってしまった写真をまとめて置いておきます。

この敷地にひょっとしたら大正15年の架橋の遺構が残っているかと思いましたが、橋台も含めて綺麗に撤去されている様です。


スーパービュー踊り子号
現在使用されている東海道線の馬入川橋梁が、大正15年から使われていることは既に紹介した通りですが、この際の橋脚の位置は、明治の橋梁の橋脚の位置のすぐ上流側に揃えられています。このため、径間も28と完全に同一のものになりました。下り線は昭和41年に架け直されているのですが、この架橋の際にも低水路上では明治時代の橋脚跡のすぐ下流側に橋脚が置かれています。これは何か意図があって揃えられているのでしょうが、大正15年の橋はともかく、昭和41年の橋まで同様にされているのはどういう意図なのでしょうね。


