予算がどんどん膨れ上がっていくためにその調整で着工が遅れていたことがわかります。折からのインフレの影響などもあると思われますので、工費の膨張の原因を鉄筋コンクリート化にのみ求めるのが難しいところです。とは言え、当時まだ施工事例が十分に多いとは言えない総鉄筋コンクリートの架橋ですから、ある程度の影響はあったと思われます。
- 大正9年8月24日 馬入橋予算30万円県会へ提出
馬入橋改築は10年度に着手する事となり本年度通常県会に経費予算の提出をする予定。規模が大きいので工費は30万円を下回らないとされた。
- 大正10年1月15日 馬入橋架換申請
橋梁換工事は10年度より12年度に至る3ヶ年継続事業として着手する予定。県会の議決を得たので許可申請を内務大臣に提出した。
- 大正10年3月17日
馬入橋総延長612mの改修工事は2ヶ年計画にて総工費60万円を計上し、県より技師が出張し測量。今年夏頃より工事に着手。
- 大正11年3月30日 馬入橋架換工事着手
馬入橋の架換は大正9年からの継続事業であるが、その後予算修正に手間取り、ようやく架換工事に着手する運びになった。
- 大正11年4月7日 工事請負入札広告
馬入橋改修事務所その他新築工事。
4月11日11時より入札。
- 大正11年8月12日 馬入橋架換工事近日着手
県事業40余万円の馬入橋架換工事が着手される予定で、事務所が河畔に建設された。
12月以降着手する事となった新橋梁は幅7.2m長さ648mの総鉄筋コンクリートで、完成は大正14年中頃の見込み。経費は39万6千円の予算であるが、セメントその他の材料高騰のため超過は免れられない。工事は県直営で職工は最も多い時で400余名に達する。大工・鍛冶屋・平工夫等で、既に須馬青年団では雇人の申込みを提出した。
(同書131ページ)
ともあれ、当初の予定から2年近く遅れて着工した馬入橋の工事は、大正12年の9月には橋梁工事はまだ橋脚や橋台の工事を行なっているところでした。同月1日に関東大震災が襲ったのは丁度その最中だったことになります。
ところで、現在茅ヶ崎市文化資料館にて「写真とことばが伝える茅ヶ崎の関東大震災」という特別展が催されています(3月17日まで)。この記事を書いている最中ということもあり丁度良い機会なので足を運んでみました。なお、簡単な展示解説を配布していましたが、図録の販売はありません。
ここで「震害調査報告」(復興局 1927年)と記した調査報告書から一部の図面が掲示されていたので、何処かで閲覧できないか探してみたところ、「土木学会附属図書館」のデジタルライブラリーにその全文のPDFと掲載写真が展示されていました(付図を含まず)。そこで、これを使って馬入橋や隣の馬入川橋梁の破損状況を確認してみます。
まず、馬入橋については工事中の橋の方について次の様に記しています。
ロ馬入橋 (寫眞第三十六及び第三十七並びに附圖第二十三参照)
本橋は國道第一號線神奈川縣中郡須馬村地先(茅ヶ崎、平塚間)に於て馬入川に架したるものにして大震當時は工事施工中なりしが全長342間、有効幅員24尺を有し徑間各36尺の鐵筋混凝土丁桁57連より成りその構造は(1)の酒匂橋と略々同一なり、當時兩岸の橋臺及び左岸寄橋脚6基を完成し橋脚基礎の井筒も42本据付けその一部は既に沈下工事を了りたりしが大震に因りこれ等の工事に多大の損害を被りたり、右岸橋臺は高28.3尺、底幅12尺、上幅8尺の混凝土工にして杭打基礎上に築かれたるものなるが著しく川方に傾きその傾斜12度に達せり、左岸のものは高21尺にして川方に約4度の傾斜を爲し被害稍々輕し。
3柱より成れる橋脚は未だ何等の荷重を受けざりしに拘らず混凝土の硬化未だ充分ならざりしと震動激烈なりしとに依り凡て水平連結桁の端に於て挫折せり(寫眞第三十六参照)既に据付又は沈置せる井筒は何れも甚だしき傾斜、浮上り移動等を爲して河床に散亂し地動の如何に强烈なりしかを追想せしむ(寫眞第三十七参照)。
(「大正12年関東大地震震害調査報告書 第三巻」第一編「橋梁」32~33ページ、ルビはブログ主)
橋脚はこの時点でまだ6基しか完成しておらず、残りは土台となる井筒の設置工事中だったことがわかりますが、何れも何らかの形で破損しており、事実上全面的にやり直しが必要な状況になったと言えそうです。この井筒(今では「ケーソン」という言葉を使う方が多い様です)は周囲からの水の侵入を防ぎながら中を堀って沈下させた後、中にコンクリートなどを詰めて基礎とするためのものですが、工事の過程で中が空洞になるために浮力が利いてしまい、液状化現象が起きた時に地表に浮き上がってしまったものですね。この報告書ではまだ「液状化現象」という言葉を使っていない点が注目されます。
なお、明治42年架橋の木橋の破損状況については特に記されていませんでした。特別展で展示されていた写真の中には、この木橋の破損状況も1枚含まれていましたが、ほぼ全域にわたって橋桁が落ちていることを確認できる以外、詳細はわかりませんでした。ただ、この橋が通信線を渡す目的でも使われていたことが、傍らに垂れ下がる電線で確認出来ました。人車を渡すだけではなく、現在「ライフライン」として認識されているものを渡河させる目的でも橋が利用され始めていた訳ですね。勿論、橋の倒壊で通信も途絶えていたことになります。
他方、東海道線の馬入川橋梁の方は、全線中でも特に破損が大きかったためか、かなりの紙数をこの橋梁の記述に割いています。そのため、その全部を引用することは出来ませんが、まとめると
- 橋台は側面に亀裂が生じ、最大で2フィート川に向かって移動、傾斜
- 上り線の橋台は4基は地盤の下で切断して摺り動くのみで転倒を免れたが、残りは切断転倒、基礎部にも切断が生じたもの多数
- 下り線は復旧作業のため地盤下の状態は未確認だが、6基は倒壊を免れたものの残りは転倒
つまり、橋脚が折れた位置の高さが共通しており、そこが橋脚が地震で揺すられた時に一番力の掛かりやすい場所であったことを指摘している訳です。馬入川橋梁は上り線及び下り線に對し各徑間70呎單線鋼鈑桁28連を單線用橋臺及び橋脚上に架設せるものなるがその橋脚の基礎工は槪ね井筒工を施し橋脚の軀體は2種又は3種均等斷面を有する煉瓦造なり。而して破壊狀態を見るに橋脚部の罅裂は井筒との連結部附近又は斷面の變化せる箇所附近に多く又井筒部に於ける罅裂は井筒の上部よりその長の1/4〜1/3附近に多きを認む(第二卷鐵道之部附圖参照)
(同書第三巻第一編「橋梁」57ページ、ルビはブログ主)



左手が大正15年完成の上り線と貨物線
右手は昭和41年再架橋された下り線
川の中にかつての橋脚の根元が見えている
さて、馬入の渡しが明治時代から大正時代にかけて架橋される歴史を一通り見てきた訳ですが、また例によって話が散らかって分かり難くなってしまった様です。次回はここまでの経緯を改めて振り返ってまとめてみたいと思います。
おまけ:

追記:
- (2015/08/14):特別展「写真とことばが伝える茅ヶ崎の関東大震災」のリンク先が変更されていましたので修正しました。併せて、その際に配布されていたパンフレットのPDFを見つけましたので、そちらへのリンクを追加しました。