もっとも、この間の架橋については引き続き「茅ヶ崎市史」の記述にあった
が、ほぼ唯一と言って良い記録になってしまっています。この明治36年、37年、40年の経緯についても裏付けとなる資料が見つかっていません。かつての馬入村の地域にお住まいの方々がまとめた「馬入の歴史」(馬入の歴史再発見事業活動委員会編 2008年)という冊子に、当時の「横浜貿易新報」(当初は「横浜貿易新聞」、後に「神奈川新聞」に吸収)に掲載された同地域に関する記事の一覧が載っているのですが、そこにはこれらの架橋の経緯を指摘した記事は含まれていません。他方で明治38年7月には増水により破損して修理していた馬入橋が復旧していた旨の記事があり、こうした小破に伴う修理は更に多かったと思われます。その後も三十六年(一九〇三)、三十七年と架橋を繰り返し、明治四十年(一九〇七)の大出水の翌年に至って永久橋が建設された。
(「茅ヶ崎市史 第四巻 通史編」1981年 414ページ)
但し、何れにせよ安心できる状況では全く無かったことは、県会でも馬入川の架橋に関する議案が討議され続けていることからも窺えます。上記の「馬入の歴史」を頼りに明治36年10月の記事を探し出して来ました。次年度の通常県会で議案に上りそうな項目を幾つか取り上げている中に、馬入川の架橋に関するものが含まれています。
「数年来の問題にしてしばしば議にのぼれる」というのですから、明治30年代前半からこの問題が県会の俎上に乗っていることが窺えますが、それ以来却下され続けていたのでしょう。県の予算が「百万円内外」の時代に馬入橋1本架橋するのに最低でも「四万円内外」が必要、つまり県予算の4%を持って行くとなれば、流石においそれとは出せない金額であることは理解出来ます。◯明年度の縣會に就て
通常縣會に附する明年度豫算は目下縣廳に於て審査中なるが毎年の例として地方より種々の請求を爲すもの多く道路改修に橋梁架設に教育勧業等の補助の如き枚擧に遑あらずと雖ども縣の歳入僅々百万圓内外に過ぎざるが故に一々其の請求に應ずること能わず併し緩急を圖りて完成すべきは序を逐ふて設備を加ふるの方針にて立案編製する筈なりと云ふ就中
△酒匂川の堤防 …
△馬入川の新橋梁 は數年來の問題にして屢々議に上ぼれるのみにて着手に至らざりしが明年度には計上することゝなるべし元來三大川中橋と云ふほどの橋なけれど馬入の如きは國道にも拘はらず昔しのまゝの渡船の不便に賴る次第にて如何に小縣なれバとて餘りに不体裁不都合に堪えざれば愈よ架橋の設計に着手することゝなりし由なるが其の豫算は木造にても四万圓内外を要すへけれは縣參事會が此大金を一時に出すべく縣會に請求するや否や目下の一疑問なり
(「横浜貿易新聞」 明治三十六年十月一日 二面 …は中略、ルビは一部を除いて撤去、変体仮名は置き換え)
果たして、翌11月に県会に掛けられた馬入橋架橋の議案は敢え無く廃案になってしまいます。
この廃案の理由については、同じページの「馬入川架橋問題」と題した論談に◯昨日の臨時縣會
午前十時五十分開會総員三十六名出席…軍司部連帶土木費繼續年期支出の件即ち馬入川架橋費ハ番外堀内參事官原案維持に力めたるも六番中村瀨左衛門、卅五番大井鉄丸氏等の質問交々起りたる結果終に總起立にて參事會決定通り第一次會にて廢案と決せり、…
(「横浜貿易新聞」 明治三十六年十一月十一日 二面 …は中略、ルビは一部を除いて撤去)
と記されており、その様な他に優先されるべき事業が本当にあるのかと批判する論説になっています。而して其理由とする處ハ縣費多端の折柄到底縣民の負擔し能はざる處にして、他に更に急須を要するの事業頻々之れ有ればなりと
(同上)
その様な世論の高まりもあってか、翌年から少しずつ予算が通り始めます。以下、「馬入の歴史」の「横浜貿易新報」記事一覧から該当するものを拾うと、
因みに、国の方でもこうした状況へ対応するべく法律を制定しようとする動きがなかった訳ではないのですが、それが陽の目を見るのは大正8年の「(旧)道路法」までありません。他には橋梁に関連する法律としては明治29年に制定された「(旧)河川法」があるものの、より上位の行政府の負担で道路や橋梁を維持する前提となる法律としては根拠が弱く、そうした中で県費からの拠出の是非を巡って議論のために長い時間を費やす、という構図に陥っていた様です。
- 明治37年11月30日 馬入酒匂橋追加予算(県費) 馬入川仮橋予算は2,578円62銭2厘、…大体に於いて認められた。
- 明治39年12月7日 馬入川架橋費決まる 馬入川架橋費は一次会で異論なく原案を可決し、続いて二次会を開き佐藤某氏より永久に持続するよう設計を変更して原案より1万円余を増額し51,741円27銭8厘(内40年度支出32,536円92銭2厘 41年度支出19,204円35銭6厘)に修正を発議し、大井某氏より調査委員会に於いても同意見なりと報告に併せて賛成した。
中村某氏より工事に関する質問あったが、採決の結果佐藤某氏の修正案に決まった。(「馬入の歴史」(馬入の歴史再発見事業活動委員会編 2008年 126ページ〜)
こうした紆余曲折を経て、更に翌年もう1度議会の予算審議を経てようやく明治41年の着工に漕ぎ着けた新しい馬入橋ですが、この工事がまた一筋縄ではなかった様です。再び「馬入の歴史」の記事一覧によれば
何と、工事の請負人が夜逃げしてしまったというのです。何があったかについては開通当時の記事に記載があります。明治41年12月12日 馬入川橋工事
中郡秦野町、梅原某の請負に係る東海道馬入架橋の大工事については1万円以上の損失の見込まれた。
梅原某は何れへか逃亡したため資本家の榎本某、奥村某の両氏が継続して工事を進めたところ、大いに進展し、1月初旬に開通することになった。
(同上、一部脱字補充)
どうやら、競争入札に応札する際にダンピングしてしまった様ですね。それで資金不足を資材の質を下げることで乗り切ろうとした所が、バレてしまったために夜逃げをしたということの様です。まぁ、明治36年の時点で最低でも「四万円内外」が必要と予算を弾いていたものに対して、その7割ほどの価格で応札している訳ですから、相当な無理があったことはその時点で見えていたのではないかと思うのですが…何だか今でもありそうな話ではあります。事実、総支出金額は、本来拠出の必要なかった金額が含まれているとは言え、ほぼ当初の見込みに近い価格に収まっている訳ですから、結果として見れば予定価格が相応に妥当なものだったことがわかります。明治42年1月25日 馬入橋開通
馬入橋開通は地元の人が熱望して止まないが県経済が許さず、日露大戦のさなかであるが、今や時として合わなく、41年度県会において架橋費を決議支出にいたる。
負競争入札により延長612m幅5.4mの県下第一の架橋は28,500円、4月から7月31日までに落成の約束で、中郡秦野町請負業、梅原某請負い、昨年5月に工事を着手したが、請負金額では完成の見込みがないため、材料木の変更を出願し優等材をいつわり、下等材を使い、当局職員をごまかそうとするがついに見破られ、大失敗の結果請負人は8月13日夜いずれかに逃亡。
一時当該県官も困惑し、梅原某の資本主の秦野町の榎本某、桐山某、奥村某の諸氏はこの状況を捨て置いては、自己の損害は工事落成するも癒える見込みなく県民及び当局者にたいしても気の毒の次第と心痛み折、県当局者よりも相当便宜又は保護を与えて工事を進行するようにといわれた。
これにより奥村某氏は心を大きくし、この交渉に応じ、栗原某氏を工事監督とし、一回の経験もないのにこの大工事竣工の責任を一身に引受け、工事を継続してこの間職人の苦情種々の困難をのりこえて、今回の開通式を迎えることが出来た。
その支出金を聞くに総支出37,020円にして…(以下略)
(同上)
ともあれ、肝心の橋は明治42年に渡り初めを迎えた訳ですが、出来上がった橋は橋桁に鉄骨を組み込んでいるものの基本的には木橋でした。ここまでの経緯を一通り見た上でこの姿を見ると些か妙な感じもします。永久橋とするために予算増額を認めてもらいながら、その結果がこれだったということなのでしょうか。予算額を見る限り、極端な価格の増減がある様にも見えませんので、当初からこの方針であった様に思えるものの、これで十分馬入川の中で長期にわたって耐え続けてくれる、という見込みだったのでしょうか。
もっとも、大正10年から再び馬入橋の架替工事が始まり、今度はコンクリート製の橋脚を立て始めているので、僅か12年で再架橋の決議がなされたことになります。そうなると、この明治42年の橋はどういう位置付けであったのか、今ひとつ腑に落ちません。一応、上記で触れた大正8年の「(旧)道路法」の制定によって、国費の補助が見込める様になったので、それを見込んでより丈夫な橋へ交換しようという発想になったのかも知れないとは考えられるものの、この明治42年の橋の姿の一体何処に、長期にわたって持ち堪えてくれるという見込みを持っていたのか、不思議な感じがします。
とは言え、この橋は大正12年の関東大震災が来るまで、大正6年4月のタバコの火によると思われる火災などの被害はあったものの、水害による流失からは免れていた様です。その点ではこの橋は当初の目論見を何とか果たしていたと言えそうです。このまま地震が来なければ次世代の橋に無事バトンタッチ出来たのかも知れません。
そこで、次回はこの関東大震災の馬入橋や馬入川橋梁の被害の記録を見ながら、両者のその後を見たいと思います。