ここまで、馬入の渡しや初期の馬入橋に関しては、現地にその痕跡を残すものがあまりなく、特に歴代の木橋については殆どこれといったものがなかったのですが、東海道線の馬入川橋梁の場合はその橋台や橋脚跡がまだ残っています。まずはそれらを簡単にご紹介します(後日関連する写真などを改めて載せたいと思っています)。

相模川右岸側の橋台です。こちら側はフェンスから橋台まで若干距離がありますので(その割に落書きされてしまっていますが)、委細を観察するには倍率の小さな双眼鏡などがあった方が良いでしょう。南側(下り線)の橋台は上部まで煉瓦積みで形作られています。

橋脚の痕跡は大半が水中にありますが、一部は水面の上に出ており、カモ類やオオバン、カワウなどが羽を休めるのに使っています。他方、高水敷にも数箇所痕跡が残っており、その断面が間近に観察出来ます。


さて、六郷橋の場合、鉄道の開通の方が先に立っており、これが六郷橋の架橋の可能性を鈴木左内に知らしめたのではないかという見解を以前お見せしましたが、馬入橋の場合はその点では鉄道の架橋が後になったことになります。無論、六郷川の鉄橋については馬入橋の関係者間でも事情は伝え聞いていたでしょうが、その様子を実際に見に行った人がいたかどうかは、神奈川県の役人以外は微妙なところです。恐らく、鉄橋の姿を見るのは初めてという人が大半だったでしょう。
他方、官設鉄道の立場として考えると、六郷川の鉄橋で一通りの実績を積んでいることから、技術的にはその応用で行ける箇所が多かったのではないか…と考えたくなります。課題は予算で、相変わらずの財源不足の中で切り詰めた予算内で如何に早く開通させるかが課題でしたから、その中でコストを押し上げる要因になる長大な架橋を如何に簡素に仕上げるかは、当初から問題だったのではないかと思います。
六郷川の初代の橋梁が低水敷にはトラス橋を作り込んだのに対し、馬入川の鉄橋は多径間のプレートガーダー橋になったのは、1つにはその様な背景の中でコスト削減を狙ったのではないかという気がします。設計と橋材を共用化出来れば、大量に生産する過程でコストの圧縮効果が期待できるからです。
しかし、実際の所は必ずしもすんなりと工事が進んだ訳ではなかった様です。まず、予算が少なかった割には工期の設定がかなり短く、些か無茶なスケジュールで施工を行った様です。「平塚市史 資料編」に掲載された一連の新聞報道で辿ると、神奈川駅〜小田原駅間の実地見分が明治19年4月、翌月から測量が行われました。土地の収容などの手続きがあったでしょうから、着工が翌年になったのは概ね理解できるスケジュールでしが、問題は実際に着工してからの期間です。
そもそも2月に起工して夏には完成させようというスケジュール自体が驚きですが、当時と今とでは基礎工事に掛ける工数が違うのでしょう。人足さえ調達出来れば工期の短縮は比較的容易だったのかも知れません。◯馬入川の鉄橋工事 東海道鉄道線路中馬入川の鉄橋は、弥よ来月5日起工式を挙行する筈なりと云ふ
(「毎日新聞」明治20・1・19)
◯東海道鉄道は来る五月中に神奈川ゟ小田原まで通ずる見込のよしなれど、或る技術手の説には通常線路は落成するも、橋梁建築に日子を費せば、六月下旬か七月上旬に至るべしといふ
(「毎日新聞」明治20・3・6)
(「平塚市史 5 資料編 近代(1)」1987年 848ページ)
しかし、突貫工事で5月には出来上がった馬入川橋梁が問題を抱えていたことが、試運転で発覚してしまいます。
◯馬入川の架橋 東海道鉄道線路中馬入川の架橋は、砂地なるゆへ最初木の枠を土台にして積立て、夫より練瓦にて築きしが、此程略ぼ竣工し、機関車に荷車・客車丈けの重サを附け運転を為せしに、凡一尺五寸もめり込みたりと、尤も同所受負人高島嘉右衛門氏は、最初より三度まで架け直す見込なりといへり
(「毎日新聞」明治20・5・31)
(同上 849ページ、強調はブログ主)
試運転列車が通過したら橋脚が40cm余りも沈んでしまった、というのです。鉄道の開通日が7月1日に決定したと同月12日の「毎日新聞」が報じているのも、上記資料編の同ページに掲載されています。つまり開通まであと1ヶ月しかないというのに、失敗する可能性は織り込み済み、などということを言い放ってしまうとは、当時は豪気な人が多かったのでしょう。今こんなことをネット上で書こうものなら大炎上間違いなしですね(笑)。
実際は、この事件にも拘わらず無事に7月初旬に開通を果たしていますので、恐らく問題を起こした橋脚は多くはなかったのではないかと思います。とは言え、その後もこの橋梁の改修を繰り返している様なので、課題を抱えながらの開通ではあった様です。なお、当初は単線での開業で、複線化が果たされるのは11年後の明治31年のことでした。
それはさておき、官設鉄道は東京―横浜間の鉄道で六郷鉄橋を架橋した経験がありながら、相模川の架橋ではこういう事態を招いている訳です。その背景には上記の様な無理なスケジュールが影響している可能性もありますが、川底の様子を見極めながら適切な施工を行うほどには、技術水準がまだ十分ではなかったのでしょう。六郷鉄橋の場合はイギリス人技師の指導下で行われていますが、彼らは当然六郷川の川底の様子について相応の理解をして施工にあたったであろうことは、六郷橋梁の方では「橋が沈んだ」などという事故の記録が残っていないことからも窺えます。
ここで思い出すのは、六郷川について江戸時代の善兵衛の残した
の言葉です。これは飽くまでも六郷川についての見立てですから、そのまま相模川に適用出来ると短絡的に考えるのは正しくありません。しかし、相模川の川底がやはり砂地であったことが上記の記事の中にも見えていますので、その点では馬入川も六郷川と同様の傾向を持っていた可能性は考えて良いでしょう。砂地の川底にどの様に施工したら鉄橋が沈まないのか、馬入鉄橋を請け負った高島の会社にはまだ良くわかっていなかったことになるでしょう。高島の会社の技術水準が明治20年頃の業者の中でどの程度であったかは不明ですが、海外からの技術移転が浸透するには今しばらくの試行錯誤が必要だった、という事なのかも知れません。六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ
そして、隣の鉄橋でもこの様な事態になっていることから考えると、明治16年の木造トラス橋(「明治工業史 土木篇」の記述通りであったとして)もやはり、砂地に対して十分配慮した橋脚を立てられなかったことが、長持ちしなかった原因なのではないか、という気がします。多分、明治11年の橋が落ちた時に、関係者がより長持ちする橋を望んだ際には、具体的にどの様な課題を新しい技術によって克服するか、という所までは見えていなかったのではないかと思います。ただ、トラス橋が六郷鉄橋で具体的な成果を挙げていることは神奈川県も知っていた筈ですから、ならば馬入橋もトラス橋にすれば良いのではないか、と発想してしまったのではないかと思えるのです。
実際は、橋をトラスにするかどうかといった問題(専門的には「上部構造」と言います)よりも、橋脚を如何に川の中で安定させるか(「下部構造」と言います)の方が問題だった訳ですが、そのことに気付いたのは架橋後8~9年で落橋してしまった後だったでしょう。その後は予算の調整などで手間取りながら、明治44年の架橋に繋がっていくのですが、その話はまた次回に。
追記:
- (2020/10/21):「Yahoo!地図」を「地理院地図」と差し替えました。
- 住兵衛 - 2013年02月06日 08:46:13
いつも当方ブログにご訪問いただきありがとうございます。
貴「地誌はざまに」にもたびたび寄らせていただいていますが、
いつもながら緻密にして詳細な検証で感心することしきりです。
気のきいたコメントを残せるといいのですが、
地誌の知識(ダジャレです)がさすがに不十分なので、
それができるようになるまでは、
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