そもそも、この区間は昔からこんな区間を進む道だったのでしょうか。

(「地理院地図」上で作図したものを
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と、かつての街道がこちらであったことが示唆されています。按ずるに、いまの海道は、後世に開けしものにて、古へは、丘の上通りを通路せしなれば、さもありなんかし

(「地理院地図」上で作図したものを
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当時の街道の道筋の「常識」に合うのは、この鎌倉街道下道の方です。足場の悪さを避ける観点から、多少の高低差には目を瞑り、尾根道や巻き道など、水の被りにくい場所を進むのです。その頃はまだ海岸線がもっと内陸側にあったとも言われ、恐らくは海沿いは街道が進むには適さない道であった筈です。
ただ、品川には既に古くから湊が開かれ、交易の中枢になっていました。この品川から内陸の府中・武蔵国府まで、「品川道」によって結ばれており、古代には武蔵国府の国府津であった可能性が指摘されています。南北朝時代から室町時代にかけては、神奈川湊とともに入港する船から関銭を徴収し、鎌倉府のもとで鎌倉の寺院の修造費にあてられていました。こうした歴史を裏付ける様に、現在も品川宿内には品川寺をはじめ創建の古い寺社が数多く残っています。
この品川から鎌倉街道へ出るにはやや遠回りになるため、品川から海沿いを進む道自体は江戸時代よりも前から存在はしていたようです。但し、これは飽くまでも地元の住民たちが使う性質のもので、鎌倉街道とは使い分けられていたはずです。農民・町民は海沿いを進むが、武士たちは山沿いを進む、という風に。
なお、鎌倉時代から「品川宿」は存在していた様ですが、当時の宿場がどこに存在していたかは今のところ不明とのことです。江戸時代の海岸スレスレに伸びる品川宿とは異なる場所であった可能性があるということですね。その見立ての通りならば、かつては品川湊の集落と宿場の集落が別々に存在していたことになりそうです。
鎌倉末に成立したとされる真名本『曽我物語』を紐解くと、鎌倉時代の初めに品川宿の名が登場する。…この宿は、宿泊施設を中心とした近世の品川宿とは異なり、在地領主の支配の下で、居館の周辺に形成された武家地をもとにした集落の性格をもつものであったと考えられる。
当時、大井氏・品河氏の支配は、元暦元年(1184)に品河氏が雑公事を免除された品川郷だけでなく、多摩川左岸を境として立会川上流部まで含む広範な大井郷に及んでいた。鎌倉時代の品川宿の所在地は不明であるが、中世の東海道・鎌倉道に面した大井地域の交通・軍事の要地に宿が設けられたと想定することが出来る。
(品川区立品川歴史館「特別展・東京湾と品川―よみがえる中世の港町―」図録25ページより引用)
それを、徳川幕府はどう見立てて官道を海沿いの道に指定したのでしょう。
続きはまた次回に。
参考:芳賀善次郎「旧鎌倉街道・探索の道―下道編」さきたま出版会
岡野友彦「家康はなぜ江戸を選んだか」教育出版
追記:
- (2013/11/25):レイアウトを見直しました。
- (2017/09/04):ルートラボの地図を貼り直しました。
- (2019/07/07):ルートラボの廃止に備え、「地理院地図」上で作図した地図へ貼り替えました。