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2016年04月の記事一覧

【史料集】「新編相模国風土記稿」三浦郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回は三浦郡を取り上げます。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第5巻三浦郡図説今考定図
「風土記稿」三浦郡図説
(卷之百七 三浦郡卷之一)の
「今考定図」
(「国立国会図書館デジタル
コレクション
」より
該当箇所を切り抜き
北が上になる様に回転)
三浦半島の全域が郡域と重なる三浦郡の場合、その地形の関係から郡内を通過して更に他郡へと抜けていく道が存在しないのが特徴です。半島には金沢と鎌倉から入ってくる道筋が2本あり、これらが半島南端の三崎へ向かう途上で合流しています。また、半島内には東西方向に断層が幾筋も走っている関係で、半島内部の山々もどちらかと言うと尾根筋が東西方向へと向いています。このため、内陸部を南北へと抜けようとするとアップダウンの激しい道になってしまうことから、半島を南北に抜ける道は基本的に海に近い場所を通っています。

また、相模湾と江戸湾を隔てる位置にある関係で、江戸時代には三崎や浦賀に番所が置かれるなど要所として機能したことから、交通網もこの2つの町へ到達する道が主に使われる様になり、それらの道に沿って継立が編成されました。

その結果、「風土記稿」の三浦郡図説に取り上げられた道は、半島の西側と東側の海岸近くを南北に向かう道と、三浦半島断層群の北側に沿って無理なく半島を横断出来る「浦賀道」の3本に留まっており、極めてシンプルな道路体系になっていると言うことが出来ます。三浦郡図説の「今考定図」でもこの3本の道筋が描かれるに留まっています。なお、三浦郡図説の記述では「往還二條」となっており、3本目の「浦賀道」は西側を走る道からの「岐路」と記し、副次的な位置付けと認識していることがわかります。因みに、三浦郡図説ではこれらの道に明確な名称を付けていませんが、ここでは便宜的に「金沢・浦賀・三崎道」「鎌倉・三崎道」「鎌倉・浦賀道」と呼び分けることにします。また、これを機に「各郡の街道の記述」の三浦郡の各街道の名称もこちらに合わせることにしました。


「風土記稿」三浦郡の3本の街道と継立場
「風土記稿」三浦郡の3本の街道と継立場(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ただ、浦賀や三崎を拠点とするこれらの道は、三崎付近や浦賀付近、そして小坪付近でお互いに比較的長く重複しており、「風土記稿」のこれらの区間の村々の記述の中にはこうした状況を反映したものもあります。他方で、街道に関する記述がない村があったり、2本の街道が存在する筈の村に片方の記述が欠けていたりと、必ずしも記述が安定しないため、こうした箇所には適宜注釈を加えながら取捨選択を加えることにしました。

今回は、金沢から三崎への道のみを取り上げます。横須賀から大津にかけては天保14年(1843年)に海岸沿いを進む新たな道が通されましたが、「風土記稿」編纂時点ではまだ横須賀から内陸に進んで小矢部村の法塔十字路で鎌倉からの浦賀道と合流する道筋でした。ここでの地図もその道筋を反映しています。

「風土記稿」では全般に、継立の終着地と目される町については継立先などの記述を行わない方針を採った様で、そうした町の1つであった西浦賀にも継立に関する記述が見られません。しかし、浦賀の場合は他方で三崎からの継立については中継地でもあった筈で、その点は上宮田村(現:三浦市南下浦町上宮田)や横須賀村の記述から補って読み解くことになります。

金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(北半分)
金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(北半分)

金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(南半分)-2
金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(南半分)(何れも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明

金澤

浦賀

三崎道
浦ノ鄕村百九(三)往還一條浦賀道なり西北の方武州六浦村より入る、幅二間、村南に岐路となる三崎道と唱ふ幅二間、山徑崎嶇にして三の峠あり、其中北方にあるを傍爾堂と呼び南方にあるをがらめきと唱ふ、

※この「岐路」がどの道を指すのかは不明。

田浦村百十五(九)武州より浦賀への往還係る幅一間餘
長浦村百十五(九)浦賀道村の西南に係る、里俗半ヶ濱通りと云半ヶ濱は當所の小名なり、山徑崎嶇にして、最も難所なり、
◯坂三 平見坂浦賀道にあり田之浦坂登各二町川尻坂登一町、等の名あり
逸見(へむみ)百十五(九)浦賀道係る、
◯坂四 關屋阪・高札阪・芦川阪・日去り阪等の名あり登各一町
◯三浦安針墓 浦賀道の傍山上にあり、二墓相並ぶ高各七尺一は妻女の碑なり、安針恒に云、我死せば東都を一望すべき高敞の地に葬るべし、さあらば永く江戸を守護し將軍家の御厚恩を泉下に報じ奉らんと、則其遺言に任せ、此山上に葬れり安針が卒年傳を失へり、村内鹿島社寛永十三年の棟札に大檀那三浦安針と記せば、其頃尙現存せし事知るべし、山北は海面を隔て武州金澤・神奈川・羽根田の邊を眺望す、

※現在の「逸見」の読みは「へみ」であるが、「風土記稿」ではこの読みを「倍無美」としていることから、左のルビもこちらに合わせた。

横須賀村百十五(九)浦賀往還の繼立場なり西浦賀へ二里、武州金澤町屋村へ三里繼送れり、
◯小名 △坂本 △鹽入 △賀横須 △楠ヶ浦 △塔ヶ谷泊船庵跡の邊にあり、往古三重塔ありし跡と云ふ、… △堂ヶ塚村北海濱にあり、… △長峯 △泊り
深田村百十四(八)金澤より浦賀への往還、村の中程を貫く、
公鄕村田津→下記公鄕村参照
中里村百十四(八)村の中程に武州金澤より浦賀への往還係る、

※現在の横須賀市の町名からは完全に消失しているこの村は、「東、深田村、西、不入斗村、南、佐野村、北、横須賀村」と接していたと「風土記稿」に記されている。現在の不入斗公園の東側、鶴久保小学校前の交差点付近に位置していたと思われる。

(佐野村)百十五(九)鎌倉より浦賀への往還係る幅一間餘、

※安浦経由の道が開かれるまではこの村を経由していた筈なので、この記述は金澤と鎌倉を取り違えたものと考えられる。

(小矢部村)百十三(七)浦賀より鎌倉への往還係る道幅一間餘、

※「浦賀道見取絵図」や「迅速測図」の表記から、法塔十字路があったのは小矢部村と考えられ、「風土記稿」編纂時にはまだここで鎌倉と金澤の「浦賀道」が合流していた筈だが、上記の記述では鎌倉からの道のみが記されている。

公鄕村百十四(八)往還二條あり一は鎌倉より浦賀へ達す、一は武州金澤より浦賀への道なり、
◯小名 △田津【倭名鈔】鄕名の遺名なり 事は村名の條に辨す、 △宗源寺曹源寺邊を云ふ、每歳臘月十九二十日の兩日、此地に市あり、 △神金加里加禰 △山崎 △堀内

※金沢からの道筋は深田村の先で田津(現:横須賀市田戸台)を経由しているので、この記述はその点を指していると思われる。

大津村百十五(九)鎌倉より浦賀への往還係る道幅一間餘、
◯小名 △馬堀 △矢ノ津 △竹澤原 △蛇沼 △山下 △根岸 △井田 △池田 △宿
(東浦賀)百十三(七)◯小名 △新井町 △洲崎町 △新町 △大ヶ谷町以上通衢の名なり、道幅二間半、

※街道に関する直接の記述は見られない。上記小名に道幅に関する記述が見えるため、ここに採録した。

(西浦賀)百十三(七)◯小名 △濱町 △虵畠町 △紺屋町 △宮ノ下町 △谷戸町 △田中町以上市廛のある所なり、道幅各二間、

※横須賀村や上宮田村の記述に西浦賀への継立について記されているが、その点も含め、街道に関する記述はない。上記小名に道幅に関する記述が見えるため、ここに採録した。

西浦賀分鄕百十三(七)村の南方に三崎道係る道幅八尺
◯小名 …△久比里村南の惣名なり、元祿の改には西浦賀村之内久比里村と載す、相傳ふ鎭守若宮社に納むる石より地名起れり、 …△馬場先 △馬隠し場 △御船藏古船藏ありし跡と云以上久比里の屬、

※地形図上、この道筋上に「久比里坂」の名が見えている。

久里濱村百十三(七)浦賀より三崎への往來係る幅九尺、
◯坂二 共に南方三崎道にあり、一は白砂坂登一町餘一は稻荷坂登一町餘と唱ふ、
(野比村)百十五(九)

※久里浜村から野比村域内に入ってくる筈だが、関連する記述が見当たらない。因みに、久里浜村から野比村に入ってくる辺りに、地形図上は「尻コスリ坂」の地名が記されているが、野比村の項に記述された小名や坂の名に該当するものは含まれていない。この坂は現在は周辺地ともども削平されており、当時の地形を留めていない。

(長澤村)百十二(六)

※野比村からこの村に入ってくる筈だが、街道に関する記述はない。

(津久井村)百十二(六)

※長沢村からこの村に入ってくる筈だが、街道に関する記述は見えない。

上宮田村百十一(五)村東三崎より浦賀への往來係れり濶一間、人馬の繼立をなす近隣十六村にて其役を助く、三崎へ二里、浦賀へ二里半餘の道程なり、
下宮田村百十一(五)村の中間三崎道係る、

※どちらの道を指すかについて明記がないが、「村の中間」という記述からは鎌倉からの道を意識しているものと思われる。金沢からの道は菊名村との村境を進んでいたものと考えられる。

菊名村百十二(六)三崎より鎌倉への往還係れり、

※三浦郡図説ではこの村の中で金沢から来た道と鎌倉から来た道が合流していることが記されているが、ここでは鎌倉からの道についてのみ触れられている。なお、この道は上宮田村・下宮田村との境を進んでいたものと見られる。

金田村百十二(六)村の西界に浦賀より三崎への往還係れり、
小網代村百十一(五)三崎道係れり濶三間、

※金田村との境を走っていたものと思われる。

二町谷村百十二(六)村の東南に鎌倉より三崎に至る往還係る濶三間、

※この村の他、向ヶ崎・東岡・中之町岡・原・宮川は何れも三崎町から分村したものであることが「風土記稿」の三崎町の項に記されている。明治8年(1875年)にこれらの村々が合併して「六合村」となり、現在は三浦市の町名に「三崎町六合」として残っている(但し原村は「原町」、東岡村は「東岡町」として独立した町名になっている)が、これらの村々の中で三崎への道について記しているのはこの二町谷村と東岡町のみである。諸磯村と境界を接していることがどちらの村にも記されているので、恐らく現在の三崎町六合の西側が「二町谷村」であったと考えられる。しかし、肝心の二町谷村の項に諸磯村が「東」にあるとする点が辻褄が合わない。また、上記の「村の東南」も西界を走っている筈の三崎道の記述としては実情を表記している様に見えない。因みに諸磯村の項には二町谷村は「南」にあると書いており、何れにしてもこれらの記述は読解に際して取捨選択が必要である。

諸磯村百十一(五)三崎道東界に係る幅一間、
東岡村百十二(六)鎌倉及浦賀より三崎への往還係る當所にて人馬の繼立をなせり鎌倉道は和田村浦賀道は上宮田村行程各二里、東岡・原・宮川・毘沙門・松輪・菊名・城ケ島の七村にて其役を助く、
三崎町百十一(五)◯切通 村の中程にあり登二十六間、幅八尺、

※相模湾沿い・東京湾沿いに南下してくる三崎道の終着地である筈だが、直接的な記述は見られない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は三浦郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「三浦郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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短信:リンク集に1件追加しました

先日公開された「神奈川県郷土資料アーカイブ」をリンク集の「参考資料」に追加しました。

このサイトは神奈川県立図書館のサイト内に新たに開設されたもので、「このサイトについて」に記されているところによれば、「収録している資料は当館で所蔵するものもありますが、大部分は所有者(団体・個人)から協力をいただいて公開しているもの」とのことで、現時点で収録されている「相州大山」も元は産業能率大学が作成し同大学のサイト内で公開されていたものです。県立図書館のサイト内には既に「神奈川デジタルアーカイブ」という良く似た名称のサイトもありますが、こちらは県立図書館や県公文書館の所有する資料をデジタル化して公開することを主眼としており、その点で相互に棲み分けられている様です。

掲載されている画像などの資料には個別に「許諾範囲」が記されており、中には連絡不要で自由に使えるとしているものも含まれています。委細は上記「このサイトについて」で解説されています。現時点では上記の「相州大山」のみが掲出されている状態ですが、今後適宜コンテンツが追加されるとのことです。
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【小ネタ】将軍の炭風呂を沸かすのに必要な炭の量は?

前回までの「新編相模国風土記稿」に記された炭についての話を受けて、小ネタを少々。相模国には全然関係ありませんが。

Haichi1.jpg
江戸城の門と櫓の配置(内郭)
「西丸大奥」の文字が中央やや左手に見える
(By 甲良若狭 Tateita
- 原書房「図解 江戸城をよむ」より投稿者が作成。
CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons
ものと人間の文化史71 木炭」(樋口 清之著 1993年 法政大学出版局、以下「ものと人間」)には、「木炭史話」と題したエピソード集が併録されています。ここには雑誌のために書いたものから文化史的なトピックを中心に選りすぐったものを収めていることが「はしがき」に記されています。

その中に「炭風呂」と題した一稿があります。今は「炭風呂」と書くと木炭を湯に入れる方を指す様で、Googleで「炭風呂」で検索してもヒットするのはこちらの方です。が、この場合は炭で風呂を焚く方で、江戸時代の江戸城大奥の燃料が風呂も含めて炭であったという話です。何とも贅沢な話ですが、煙が出ないこと、そして防火上の必要があってのことであったと「ものと人間」では書いています。確かに多数の人間が狭い空間で共同生活を営んでいることから、その配慮が必要であったことは理解出来ます。

江戸時代、江戸城大奥の燃料は、炊事も、風呂も、暖房も、すべて炭であった。それは炭の無煙、無焔性と、温度の持続性によって、大奥の清潔と防火を考えたからであった。

江戸城大奥は、将軍の私邸であり、正夫人の住宅でもあるが、ここは男子禁制で、上は老女から下は端女(はしため)まで、多いときは二〇〇〇名からの女子が長局に住んでいた。そのうち、将軍の側妾に当たる御中﨟(おちゆうろう)はもちろんのこと、御目見得以上の女はいずれも、自分の部屋(四室一組)で炊事や入浴をしていた。この燃料もすべて炭であった。こんなに大量の炭は、伊豆天城山の御用林で焼かれたが、六貫五〇〇匁俵で年に一〇万俵、六五万貫の炭を焼いて、その中から冥加として差出す御用炭と、勘定所が民間から買い上げる佐倉炭や佐野炭で賄われていた。その中でも炊事に次いで大きい用途は、浴用燃料としての炭の消費であった。

(上記書212ページより)


因みに、65万貫は約2437.5トンに相当します。長局の2000名以外にも江戸城には様々な人がいた筈ですから、上記の数字を単純に頭割りにする訳には行きませんが、それでも1人当たりの炭の消費量も相当なものだったことになるでしょう。

そして、将軍が連日食前に必ず入浴していたことを記し、その入浴の折の一連の様子を事細かく書き記していますが、浴槽については

湯は今でいう五右衛門風呂の構造のもので、湯槽は方形、総檜造、流し場も檜の厚板張りで、二方の窓はガラス板がはめてあり、いわゆるギヤマン風呂であった。それは将軍入浴中は庭から御庭番(世にいう忍び衆で、服部半蔵に率いられる伊賀衆、甲賀衆を指す)が警備していて、浴室内で不慮のことがあってもすぐ庭から見えるように考えてあった。

(上記書213ページより)

としています。ただ、浴槽の大きさについては記載がありません。なお、1回の入浴に際して使われたものは全て使い回すことはせず、御小納戸の所得として払い下げられるとしています。当然沸かした湯も将軍が入浴したらそれで抜いてしまうのでしょう。

個人的に気になったのは、この将軍の「炭風呂」を沸かすのにどれだけの炭が必要だったのだろう、ということでした。そこで、お遊びでざっくりと概算を試みることにしました。無論、計算に必要な値を全て推量しての計算ですから、精度は全く期待出来ませんが。

まず浴槽の大きさから不明ですが、流石に地位の高い人の入る湯ですから、一般的な浴槽よりはやや大きめと想定します。現在造られている五右衛門風呂の浴槽の大型のものに、満水で490リットルという製品をネットで見つけました。当時もこれに近い容量があったと仮定し、400リットルとして計算してみます。

次に、沸かす前の水の温度と、適温になった湯温がどの程度だったかが数字として必要です。これも井戸水を使うか、それとも地表水を使うかで変わってきますし、後者の場合は季節変動もありますから振れ幅がかなり大きくなります。江戸には神田上水や玉川上水といった上水道を使って地表水を配水していましたから、現在の東京の地表水の平均水温が必要ですが、あまり適切なものがないのでこちらに掲載されている東京都の年間の上水道の平均水温を使うことにします。これによれば年平均16.2℃となっていますが、概算なので小数点以下を外して16℃の水を沸かすと仮定しました。風呂としての適温はこれも人によって異なりますが42℃くらいとすると、26℃上昇させる必要があることになります。

すると、大元の定義によって400リットルの水は400kgであり、これまた当初の定義に従って1グラムの水を1℃上昇させれば1カロリーですから、26℃上昇させるにはおよそ

400kg×26℃=10,400kcal

の熱量が必要ということになります(今はそれぞれの単位を違う形で定義しますが、概算ということで簡略な方法を採っています)。次の計算で必要なので、カロリーをメガジュール(MJ)に換算すると約43.51MJという数字になります。

一方、必要な炭の量を求めるには発熱量が必要ですが、こちら(リンク先PDF)に各種燃料の単位発熱量がまとめられているので、今回はこれに従います。これによれば、木炭の単位発熱量が1kgあたり15.3MJとされています。因みに、木材(薪)の単位発熱量はこれより少し低く1kgあたり14.4MJになっていますから、価格はともかく重量だけを見れば炭とそれほど差はないことになります。

そして、炭の発した熱が全て浴槽の水に移る訳ではなく、その一部は周辺の大気などを暖めて逃げていってしまいますから、その分を割り引く必要があります。それには風呂釜の「熱効率」が必要なのですが、当時の五右衛門風呂の熱効率がどの程度だったのかも不明です。一応、ここに薪燃料を使った風呂の熱効率を55%として計算した例がありまので、今回はこの数字を仮に使って計算することにしました。

すると、

43.51MJ÷0.55÷15.3MJ/kg≒5.17kg

という計算が出来ます。繰り返しますが仮定だらけの計算ですから精度は全くありませんが、おおよその目安にはなるかと思います。先ほどの熱効率の数字を拝借したページでは、前提とした数値に多少の差があるものの、薪で風呂を沸かす場合の必要量として約6kgという計算結果が出ていますので、薪と炭の単位発熱量の違いを考えるとそれほど隔たっていないとは思います。が、当時の五右衛門風呂の熱効率が果たしてこの程度で収まったかはかなり微妙なところですから、その分を踏まえるともっと炭が必要だったかも知れません。また、警備のために外から見える様に、当時としては珍しくガラス張りになっていたという浴室は、熱効率という点ではあまり有利とは言えませんから、これも炭の必要量を押し上げていた可能性もあるでしょう。

先ほど引用した「ものと人間」では1俵を6貫500匁(約24.375kg)で計算していますので、今回の計算では1俵で将軍の入浴5回分弱といったところになります。年間で78俵ほどの量ということにになりますね。なお、大奥の風呂は全て炭で焚かれていたとしていますが、風呂の数は200を超えていた(200ページ)としていますから、その全てを沸かすだけでも大変な量の炭が必要になったことは確かでしょう。ただ、炭の場合は熾火にすることが出来る関係で冷め難いのが特徴ではあったので、将軍以外の風呂では幾らかメリットもあったかも知れません。また、こうした保温効果の良さが炭で沸かした風呂を最上のものとする見立てにも繋がっていた様です(214ページ)。

「ものと人間」では、一般的な武士や町民の当時の燃料代の占める割合について、文政8年(1825年)の「刑罪随筆」(橋本敬簡著)や「柳庵雑筆」(栗原信充著)を拠り所に、炭代が全所得の3%程度、薪が8%程度と算出しています(197〜200ページ)。これで炭や薪が何俵くらい買えるかが問題ですが、残念ながら精確なところを明らかにしようにも炭俵の容量も不統一で、また炭の品質や年代などによる価格変動が大きく、目安を示すのが難しいとしています(116ページ)。とは言うものの、武家や商家であっても燃料の基本は薪の方であったことがこの比率からも見て取ることが出来ますから、将軍以下大奥に詰める女中衆まで炭で沸かした風呂で入っていたという江戸城の炭の消費が、多分に当時の燃料消費の実情からかけ離れていたことは確かでしょう。

火災への配慮からこの様な措置になったということは、恐らくは家康が江戸入りした当初から炭を使っていたのではないのでしょうが、その防火対策による維持管理コストは大変なものになっていた様です。その割に江戸城も幕末まで幾度となく火災に見舞われ続けていたのですが…。
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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その8)

前回まで「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見て来ましたが、今回は関連する話題をもう少し取り上げた上で、ここまでのまとめをしたいと思います。

相模原市のホームページには、「大沼の土窯つき唄」という仕事唄の歌詞と音声(MP3)が掲載されています。これは大沼新田で炭焼用の土窯を築く際に音頭を取るのに唄われていたものです。


大沼新田の明治39年測量の地形図
ほとりに「大沼神社」が建つ沼が大沼、東に小沼
(「今昔マップ on the web」)
大沼新田(現:相模原市南区西大沼・東大沼その他)は江戸時代には淵野辺村の一角で、水の得にくい相模野にあって地下に宙水があり、その上に「大沼」が出来て深堀川という境川の支流の源流地となっていた地域でした。今はこの大沼も、その東にあった小沼も埋め立てられて宅地と化していますが、現在の区画の形状にはかつての沼地の存在を窺う事が出来ます。

元は境川対岸の武州木曾村との入会地でしたが、元禄年間に知行替えによって代官支配になったのを切っ掛けに新田開発が行われ、宝永4年(1707年)に検地が行われて「大沼新田」が成立しました。しかし、土地が痩せていて耕作には不向きだった様で、「相模原市史 第二巻」では大沼新田の開発経緯について各種の文書を引いて解説した上で、次の様に記しています。

…上矢部新田村に比較すると、一戸あたりの平均所有反別は約三倍以上、一名あたりの耕作反別は約二倍以上となり、嘉永三年反別書上による場合は、なおこの二倍近くになるのである。これだけを見ると、大沼新田入植農民は恵まれているようにも見えるのであるが、大沼新田の場合はすべて見取り畑なのである。土地の伝承によると、開墾当初は肥料を与えなくても作物がとれたが、いく年かたつと土地が瘠せてくるのでそこを林畑として放置し、また新たに開墾したといっている。したがって嘉永六年(一八五三)の村高書上帳にも、烏山大久保領三九九石五斗九升一合中、本村出百姓分の四一石九斗七升三合は永荒引となって年貢の対象からはずされている。このように荒地が多かった上に、地味も瘠せていて、反収麦が四斗ぐらいしか収穫できなかった。田圃は大沼の池を利用したが雨が降らないと作れず、田植をしないで、ばら蒔きをする有様であった。

こんな状態だから、いきおい農間余業に頼らざるを得ず、養蚕や植林からの薪炭材の伐採その他が生業の主要なものとなっていた。

(上記書276〜277ページより、…は前略)


相模原市史 第二巻」では続いて薪炭材を得るために植林が進められ、麦蒔きが終わった農閑期に炭焼が行われていたとしていますが、その炭焼で使用する炭窯の構築については次の様に記し、その過程で「土窯つき唄」が唄われたことを紹介しています。

…庭の適当なところに深さ約一メートル、縦五メートル、横四メートルぐらいの矩形の穴を掘り、その中に一・五メートル(約五尺)に二・三メートル(約七尺五寸)の楕円を描いて、それに「ごず」(炭のくだけ)を五寸から一尺の厚さに敷き(これは土地の湿度の状態によって加減する)それに茅をのせる。そしてその上に一尺二寸に切った薪を二段に積み上げ、なおそれに「なぐり」(かさま・さしこみともいう)と称する細い薪を一〇把ほど一尺二寸から三尺ぐらいの厚さに積み重ねる。それらの全体には本町田・図師辺から買って来た粘土を約五寸ほどの厚さにすっぽりとかぶせる。ただ短辺の入口には積んだ薪のおさえとして二尺四、五寸の松その他の雑木の薪を立てかけて下には土管を置いて火口とし、反対がわには煙出しにする型をはめこんで置く。そして土がまつきがはじまる。部落のものがおたがいに奉仕しあって三〇人ぐらい集まり、手製の杵を逆手にとって、「おばばなーよ、どけえ行く、三升ざるをさげて、このえんやらやあ、よめの在所へ孫だきに、えーえんやーこのえんやらやあ」と土がまつき唄を謡いはやしながら周囲をめぐって、力をこめてつき固める。

(上記書277〜278ページより、傍点を下線に置き換え、…は前略、強調はブログ主)


この「相模原市史」に掲載された「土窯つき唄」は「木炭の博物誌」にも引用されています(154ページ)。歌詞が相模原市のホームページに掲載されているものと異なり、囃子詞も合いませんので、同一の唄か否かをこれだけでは判断出来ませんが、あるいは同じ節で歌詞を替えているだけかも知れません。なお、「神奈川県民謡緊急調査報告書」(神奈川県教育庁文化財保護課編 1981年)にも大沼の「土窯つき唄」は収録されていますが、炭窯の構築に際して唄われるとされているものは他には採録されていませんでした。

大沼新田の「土窯つき唄」の発祥を考える上では、同地で炭焼を行う様になる過程で、炭窯の築造技術がどの様に入って来たのか、特に土窯を使った炭焼が当初からのものであったのかどうかが気になるところです。ただ、前回まで見た津久井や宮ケ瀬の炭焼と比較した場合、少なくとも大沼新田の平坦な土地では横穴式土窯を掘れる様な斜面は存在しないことは明らかです。境川の河岸段丘面にはその様な斜面も存在しますが、ここは新田の地域の外にありますから、何れにしても横穴式土窯が津久井県から伝播してくる可能性は皆無だったと見て良いでしょう。他方、津久井の「ボイ炭やき」は手軽に大量に炭を焼くには良くても、単価が安くなることは避けられませんから、特に植林した林から炭材を伐り出せる様になった初期の頃にはそれほど豊富に炭材が採れたとは考え難く、あまり規模の大きくない大沼新田の炭焼には向いていなかったのではないかと思います。つまり、この地域に関しては当初から土窯を築いて炭焼を行った可能性の方が高いのではないかという気がします。それであれば、「土窯つき唄」はこの地で炭焼が開始されて早々に唄われ始めたのかも知れません。

もっとも、炭窯を造る際にはいざという時のためにも水が近くにあることが必要でしたから、大沼新田で炭窯の適地と言えるのは大沼から近い地域に限られていたことになります。「相模原市史」で炭窯が庭で造られていたと記すのも、水利の限られた土地では集落に近い場所で炭焼を行わざるを得ない事情もあったのでしょう。「木炭の博物誌」では炭窯を築く場所について「人家に近いところでは炭がまの煙が迷惑になる」(143ページ)としていますが、そこは事情を忍んで煙いのを耐えていたということでしょうか。

因みに、「相模原市史」は炭窯構築に必要な粘土を境川の対岸にある武州本町田村や図師村(どちらも現:町田市)から運んでいたとしています。富士山や箱根火山が過去に噴出させた火山灰土が分厚く堆積する相模原台地上では粘土が得難いことから、粘土層が露出している地域まで台地を降りて求めに行かなければならなかったのでしょう。炭窯の構築技術の変遷を考える際には、築造に必要な素材の有無も念頭に置く必要がありそうです。



愛甲郡の5ケ村の「御炭山」について見た際に、中荻野・下荻野両村が祀っていた「東照宮」を取り上げました。これらの村が神格化した家康を祀っていたのは、炭焼そのものへ成功を祈願するものと考えるよりも、家康がこの地に齎した恩恵への謝意に基づいたものと考えるべきでしょう。その点では、炭焼に関連した信仰の事例としてはやや特殊と言えそうです。

炭焼にもう少し直接的に関係しそうな信仰としては、「津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」(津久井郡文化財調査研究会編 1988年)が記す「山の神」が挙げられるでしょう。

信仰の対象は、山の神である。山の神は田の神が収穫が終わると山にのぼって山の神となると、言われるが、田の少ない津久井ではこうした伝説はない。山の神の縁日は一月十七日で、この日には「日待(ひまち)」を行い、山仕事に従事する者や猟師は山に入ることを禁じた。現在でも「山の神日待」を実施している地域があるが、最近では自治会の会合や新年会を兼ねて一年の計画をたてるという方法に変っている。また毎月の十七日に山入りを禁じている家もある。

山入りの行事は、二本の竹筒を水引きで結び中に酒を入れて山に供える。炭焼は、初山入(火入)の日と最終日(掃抜(はきぬき))には同じ行事をして簡素な祝を行う。

(上記書95ページより)


類似の信仰について記録がないか、神奈川県内の各市町史に付属する民俗編をざっと探してみたのですが、あまり記述を見出すことが出来ませんでした。ただ、意外にも「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」に同様の記述を見付けることができました。特に、縁日に山入りが禁忌されている点に共通する点が見られます。

山仕事をする人達は山の神を祀り、山の神様に仕事をさせていただいているという心持ちであった。毎月七日は山の神の命日だから山へ入ってはいけないといい、一般の人も薪採りで山に入る事をさけた。山の神の命日を八日だとする所や一七日とする所もあり江の島では八日・一八日・二八日は山に入るなといっている。

遠藤打越の炭焼きをしていた家では山の神のオヒョウゴを掛けて山講を行った。同じ遠藤神明谷には山の神の祠があり、二月一四日にオタキアゲといって正月の内飾りを燃やし、御馳走を供えた。また春は一月一七日、秋は一〇月一七日に山講を行い、この時薪や炭の値を決めた。部落によっては山仕事をする人々で太子講を持ち、一番年長者をカシラと呼んでカシラの家で寄合いをした。

(上記書335ページより)



藤沢市遠藤・打越の地形図と空中写真
現在も笹久保谷戸を中心に雑木林が残る(「地理院地図」)

どちらかと言うと炭焼に限定せず山仕事全般の神様という側面が強く、特に江の島では流石に炭焼は出来なかったでしょうから、木を伐る場合でも薪か木材だったでしょう。それでも、丹沢山地北部の津久井と相模原台地南端の藤沢市域に共通した信仰が見られることから、その間に位置する各村でも山仕事に従事する人たちの間で幅広く信じられていたものと思われます。ただ、こうした信仰が何時頃まで遡るのかといったことも含め、今回はあまり深く掘り下げることが出来ませんでしたので、機を改めて資料を集められればと考えています。



今回は近代以降の事情については詳細に触れる余裕がありませんが、ここまでの話に関連して2点ほどエピソードを取り上げます。

1つは「佐倉炭」についてです。例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」の出品目録には、旧相模国域からは
  • 足柄上郡谷ヶ村
  • 同郡川西村
  • 津久井郡鳥屋村
  • 足柄下郡沼代村
からの炭の出品が見られますが、この最後の沼代村(現:小田原市沼代)の炭は「佐倉炭」と名乗っています。当時の神奈川県域からは他に武蔵国多摩郡桧原村の炭が同じ様に「佐倉炭」と称して出品されています。

元は下総国佐倉藩の取り仕切る炭であった「佐倉炭」が出品されるとすれば、元来ならば明治以降の行政区画で言えば千葉県ということになる筈で、実際千葉県庁の出品物の中にも「佐倉炭」が含まれています。しかし、旧相模国域や武蔵国域で生産された炭が「佐倉炭」と名乗る例が示されている点からは、この頃には既に「佐倉炭」が地域を示すものというよりも一種の「ブランド」として独り歩きを始めていたことが窺えます。実際、時代が下って大正14年(1925年)の「愛甲郡制誌」でも

林產製造の中見るに足るべきものは所謂「相模の白炭」で古來「幕府の御用炭」と稱せられ名聲頗る高いものがあつた宮ヶ瀨村、煤ヶ谷村、愛川村等の奥山に多くを產し里山では黑炭を多く產出する、製炭法の當否は炭質の良否、燒步に深い関係のあるのは云ふまでもないことで先年白炭、黑炭(佐久良炭)の製炭法の講習を各所で開催して以來着々好成績を擧げつゝある。

(上記書208〜209ページより、強調はブログ主)

の様に、「佐倉炭」がその本来の地名から離れて表記まで変わってきている例が見られます。

「木炭の博物誌」では、現在の「佐倉炭」の産地は茨城や栃木で、特に従来からの製炭法を維持しているのは茨城県鉾田付近のみとしています(207ページ)。こうした記述からは、江戸時代に名を馳せた同地の炭焼がその後関東一円に広まる過程で、その名を引き継ぎながらも製炭法の方は更に各地で改良を受けていったものと思われます。「内国勧業博覧会」の例はその様な動きが明治初期には既に存在し、更に「愛甲郡制誌」の例は、かつて「御用炭」を産出し、その「佐倉炭」の発祥に際して技術を輩出した側の土地でも製炭法を「逆輸入」する流れがあったことを示しているのかも知れません。

もう1点は、神奈川県内の各市町史を点検する過程で、炭焼を養蚕や製茶と結び付けている記述が幾つか見られたことです。何れも相模原台地の上に位置する各市の「民俗編」に見られ、特に「座間市史」が比較的詳細に事情を書き記しています。

炭は主に商品として出荷することを目的に焼かれたが、ヤマを持つ人が材料の木材を提供し手間賃を払って炭を焼いてもらうこともあり、これを「賃焼き」といった。このような炭は養蚕の温暖育、すなわち蚕室を温めることに用いられたが、窯で一回焼くと、一年分の燃料として使うことができたという。

(「相模原市史 民俗編」74ページより、対象は旧津久井郡との合併前の市域が対象)

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、特に、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして蚕室の保温を行った。こうした意味において、養蚕とヤマとの関わりは深かったという。大正時代になると、座間宿に石炭屋が出来て、練炭を売るようになり、燃料は木炭から練炭に変わっていった。また、昭和十二年(一九三六)に陸軍士官学校が移転し、ヤマが減ってしまったため、養蚕組合では一時、麻溝台・大沼・谷口(相模原市)あたりのヤマを買って、薪炭を取りに行ったこともあったという。

養蚕組合が一番最後まで炭を焼いていたというが、炭よりも練炭の方が安く手に入るので、養蚕用の燃料も徐々に木炭から練炭へと変わった。その後、養蚕組合でも、粉炭を買って練炭の製造を始め、レンタンブチと言って、練炭を共同で作ったという。」

(「座間市史6 民俗編」219~220ページより)

家庭用の炭は、たいていはゾウキ(補注:ハンノキなどの雑木を焼いて炭にしたもの)で、良質なカタズミ(補注:クヌギ・ナラ・カシを焼いた堅炭)は、養蚕やお茶作り用に使われた。深見あたりでは、とくにお茶作り用にホイロ(焙炉)で使う炭を買いに来る人が多かったという。

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、ことに、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして、蚕室の保温を行った。春蚕(はるご)の時期は、二眠くらいまでの稚蚕期には、蚕室の炉の中へ炭を伏せ込んで暖をとるため、炭の需要が高かったという。しかし、マイシン(埋薪)という、薪も一緒に伏せ込む方法が採られるようになってからは、炭の需要は減ったという。

(「大和市史8(下) 別編 民俗」434ページより、補注は同所の別の箇所を参照の上ブログ主追記)

炭の用途は火鉢などの家庭用と、養蚕での部屋の保温や茶揉みに使うものがあった。中心は養蚕用でああったため、蚕が始まる前は忙しかったという。

(「綾瀬市史8(下) 別編 民俗」137〜138ページより)

炭焼きもまた冬から春にかけての小遣い取りの仕事であったが、大正時代の養蚕の盛んな頃には需要も多く、七、八月を除いてどこでも冬の間だけでなく一年中焼いていた。その頃には年平均三〇俵位は必要だった。それ程養蚕をしなくても、製茶には一俵位必要だし、普通年に一五俵もあれば充分だった。」

(「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」332ページより)


高座郡は明治時代に入って神奈川県内でも特に養蚕の発展が著しかった地域の1つです。同郡の村々は江戸時代には冬場の農閑期に炭焼を行っており、相模国西部の山間の様に年間を通して炭を焼いていた訳ではありませんが、こうした地域が寧ろ明治時代以降の養蚕の隆盛に伴って、その下支えとなる燃料として炭を自給する様になる傾向を示したことになります。「相模原市史」の場合だけ少し傾向が異なりますが、これは大沼新田の雑木林がこの頃には広大になり、外販用の炭焼が盛んになったことが背景にあります。「座間市史」の記述には、同時期に廉価で入手出来る様になってきた石炭との競合が指摘されていますが、石炭の場合は閉鎖空間での燃料として用いるには脱硫したものを使う必要があることから、その加工の手間で必要となる労力や経費を合わせた時にはまだ自前のヤマで焼く炭にも分があったということでしょう。「大和市史」では堅炭を養蚕などに用いる傾向があったことを記していますが、これは長時間蚕室を暖める必要があるために火持ちの良い炭が必要だったからだろうと思います。

近代に入って化石燃料の利用が増えていった中でも、炭は家庭用としてだけではなく、産業用途としても引き続き使われる局面が多々あり、そうした背景の下でなお盛んに炭焼が続けられていた、ということになるでしょう。



当初は4回程度でまとまるかと想定していましたが、思った以上に書くべきことが増えてしまい、今回を含めて8回になってしまいました。改めて、ここまでの記事の一覧を掲げます。


「風土記稿」が愛甲郡の各村の炭焼を取り上げたのは、明らかに小田原北条氏や「御用炭」の由緒を重視したものと言って良いでしょう。山川編で取り上げられた足柄上郡や足柄下郡の炭焼は、相模国全体で炭焼の盛んだった地域を考えると必ずしも地域の選択が妥当であったとは言い難い側面もありますが、相模国も山岳地域を中心に江戸の膨大な炭需要を下支えする地域の一角であったことは確かです。特に穀類の生産に乏しい山間にあっては、炭が村の稼ぎの主力となっていた地域が多く、荒川番所や川村関所でも貢税の対象として重視されていました。

その炭焼も白炭と黒炭に大別され、更に「御用炭」の様に将軍の茶の湯に用いられるものや、鍛冶炭の様に当時の産業用途のものといった種類に応じて炭が焼き分けられていたことも、伝えられている文書類によって明らかです。宮ケ瀬で発掘された「横穴式土窯」や、同地で行われていたと言い伝えられる「ボイ炭やき」の存在からも、相模国で焼かれていた炭が単一なものではなく、必要に応じて炭焼の方法を変えていたことを窺わせます。ただ、現状では当時のその具体的な技術を明らかにするには、史料がまだ充分とは言えない様です。

また、小田原の旅籠・小清水からの発注に見られた様に、炭焼では一度に生産される量が膨大となり、その運搬に必要となる労力も大きく膨れ上がる傾向にありました。つまり、当時の物流にとっても主要な運搬品目のひとつであったことがわかります。その様な品目が「日本木炭史」が指摘する様に運搬し難い性質を持っており、足柄上郡24ケ村が駄賃稼ぎの横暴を訴えた際の文書からも、炭の運搬が陸運にとって「難題」となっていた状況が垣間見えます。江戸時代当時の物流や交通事情を考える上では、こうした荷物の性質についても勘案する必要があると言えます。

江戸時代の相模国の炭については今回でひとまずの区切りとします。後日何か追記すべきことがまとまったら改めて取り上げたいと思います。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その7)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回は、「風土記稿」で取り上げられた地域に隣接するかつての宮ケ瀬村周辺で大量に発掘された、江戸時代の炭窯遺構について紹介します。

宮ケ瀬ダムの建築に伴って水没することが確定した地域で大規模な発掘調査が行われた件については、以前漆を取り上げた時に紹介しました。今回もこの発掘調査の報告書の1つと、この発掘調査を受けて執筆された次の論文を元に今回の記事を組み立てます。更に、参考資料として津久井郡の民俗調査の一環でまとめられた資料を併せて参照します。

  • 神奈川県立埋蔵文化財センター調査報告21 宮ケ瀬遺跡群 2 ナラサス遺跡ナラサス北遺跡」 神奈川県立埋蔵文化財センター編 1991年 (以下「報告書」)
  • 近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)—宮ケ瀬遺跡群検出炭窯の歴史的背景を中心として—」 武井 勝著 「神奈川考古 第25号」(1989年5月 神奈川考古同人会)所収 251〜264ページ (以下「予察」)
  • 津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」 津久井郡文化財調査研究会編 1988年 (以下「文化財」)


現在の清川村宮ケ瀬の位置(Googleマップ
今更ながら、改めて宮ケ瀬村の位置を地理的な側面も含めて確認しておきます。昭和31年(1956年)に煤ヶ谷村と合併して清川村宮ケ瀬となったこの地域は清川村の北西側半分を占めており、宮ケ瀬ダムが出来る前は中津川渓谷沿いの河岸段丘上に中心集落がありました。旧煤ヶ谷村域からは辺室山中腹に端を発する川弟川(かわおとがわ)が流入して中津川(「風土記稿」では「布川」と称しています)に合流していますが、煤ヶ谷村の中心集落は小鮎川沿いに展開しており、煤ヶ谷から宮ケ瀬へ抜ける甲州道はその途中土山峠でこの2つの川の分水界を越えます。他方、宮ケ瀬村の北側は津久井県鳥屋村や青山村(現:相模原市緑区)等に接していますが、中津川沿い宮ケ瀬村の集落から鳥屋村への道は段丘崖に斜に付けられた比高差100m以上の急坂を登る必要がありました。この鳥屋村の中心集落も中津川には合流しない串川沿いに展開していますが、この集落の辺りは山中にしては意外に広い平野になっており、これはかつては串川に合流していた早戸川が河川争奪によって中津川に合流する様になったことによって下刻が進み、旧来の河川敷が取り残された結果出来た地形と見られています。

つまり、宮ケ瀬村は中津川渓谷の作り出す地形によって南北の村と分水界によって隔てられている場所に位置しており、村域から流出する中津川の急流が作り出した急峻な渓谷と相俟って「秘境」の様な景観を有する村となっていました。この地に新田義貞の家臣であった矢口信吉が落ち延びて密かに富を蓄えていたという落武者伝説が伝えられているのも、こうした地形と無関係ではないでしょう。

この水没域で大規模に行われた発掘調査では、かなりの件数の近世の炭窯跡が発見されました。特に、対象地域の北側に位置している「ナラサス遺跡」「ナラサス北遺跡」「上原遺跡」の3箇所で、計48基もの炭窯跡が発見されています。他に、これら3箇所からはやや離れた、宮ケ瀬村の本集落に近い「北原遺跡」でも、16基の炭窯跡が発掘されました。


1974〜78年頃の空中写真に見る該当地(「地理院地図」)
水没前の地形については
今昔マップ on the web」も参照のこと

「ナラサス」の地名は現在は
湖岸を走る道路に設けられたトンネルや橋に残る
(トンネル上部の扁額に注目)
遺跡はこの辺りから標高差100mほど下の湖水中
ストリートビュー

「報告書」では「ナラサス北遺跡」の位置や地形について次の様に記します。

本遺跡は、津久井郡津久井町大字青山字南山2145―46他に所在し、一部愛甲郡清川村宮ケ瀬字ナラサスにまたがり、宮ケ瀬遺跡群のダム水没区域内において最北に位置する遺跡である。

丹沢山塊に源を発する中津川は、宮ケ瀬の落合で早戸川と合流した後、流路を北東方面にとって流れるが、本遺跡はその合流点の北東約400mに位置する。ナラサス遺跡の北東に隣接する本遺跡は、中津川の浸食作用により形成された四段の段丘面のうち最上位(宮ケ瀬Ⅰ面)に立地し、同じ段丘面上のナラサス遺跡上段面とは南西部で中津川の支流によって形成された沢によって分断されている(第1・2図)。

遺跡の現地表面に見る地形は、標高230m前後の緩い傾斜の平坦地をなし、南側に流れる中津川の曲流部に当たる部分は浸蝕を受け若干オーバーハングした崖状を呈している。これに対し、関東ローム層上面での地形をみると、本遺跡は北から南方面へ比高差数mほどの緩斜面をなしており、南西部と北東部に比較的平坦な面が見受けられる。

(「報告書」311ページより、付図は省略)


カタカナで書かれているために外国語然として響く「ナラサス」という小字については、今回調べ得た範囲ではその由来を突き止めることは出来ませんでした。元文2年(1737年)の文書では「奈良さす」と記した例もあるものの、これも宛て字である可能性がかなり高そうです。ただ、「奈良」だけ宛て字とする語感からは「ナラ」に意味を含んでいる様にも見受けられ、あるいは「楢」に関連があるのかも知れませんが、これまた憶測の域を出ません。ともあれ、小字「ナラサス」は宮ケ瀬村の北辺で青山村と隣接し、中津川渓谷が北向きから東向きへ流れを変えた先の段丘の上にある地域でした。

「ナラサス遺跡」からは江戸時代前期と推定される炭窯が4基(うち1基は稼働痕跡がなく、構築中の状態で放棄されたと見られています)、「ナラサス北遺跡」からは江戸時代中期から後期と推定される炭窯が36基も見つかりました。「ナラサス遺跡」から出土した炭化物からは炭焼に使われた樹種として「ハンノキ属、クマシデ属、ブナ属、コナラ節、アカガシ亜属、ケヤキ、ナツツバキ属類似種」(「報告書」9ページ)が検出されており、これらの遺構が確かに炭窯であったことが確認出来ます。特徴的なのは、これら40基が何れも「横穴式土窯」であるということです。「ナラサス北遺跡」の炭窯について「報告書」は次の様に記します。

…ナラサス北遺跡においては合計36基の炭窯が検出された。わずか100mあまりの崖面に東西にひしめきあうようにして存在する。炭窯はいずれも、基盤層である関東ローム層をトンネル状にくりぬいて構築された、いわゆる横穴式土窯である。1基の炭窯において幾度となく炭焼きが繰り返されたことは、内部の土層の堆積状態によって明らかであり、使用に(ママ)えられなくなった炭窯は放棄され、新たに奥へ奥へと構築されていったことが、遺構の配置から考えられよう。

炭窯内部からの出土品は極めて乏しく、唯一9号炭窯の覆土中より出土した近世陶磁器の破片が、操業年代を類推する資料となろう(第11図)。この破片は肥前系の茶碗で、高台の外径4.8cmを測り、接合しない同一個体の破片1点が他に存在する。18世紀後半から19世紀初頭にかけての所産と考えられる。

炭窯の中には、炭化室の床面積が10㎡をこえる巨大なものも存在し、したがって規模は大小様々であるが、炭化室の最大幅が1.8m前後のものが多く、ことによると1間という単位で幅が設定されたことも考えられる(第33図)。

特定の地域に密集して炭窯が存在することは、宮ケ瀬地域内においてもこの地が炭焼きを操業するにあたって最適の諸条件を満たした場所であったことを物語っている。立地的には炭窯の構築された崖下約50mには中津川が流れており、川面を南から北に吹き上げる川風が、炭窯用部の燃焼効率を高めるうえで大きく寄与したであろうことは、想像するに難くない。また炭窯群の背後には鬱蒼とした雑木林が生い茂り、木炭の原料となる原木を容易に入手することが可能である。さらに炭窯群のすぐ西には、中津川の支流である小川が流れ、小さな沢を下れば水を確保することが可能である。以上の諸条件を満たした地であったからこそ、この地に固執して操業が繰り返されたのであろう。

(「報告書」340ページより、…は前略、付図は省略)


炭窯の設置に適した場所については、「木炭の博物誌」は「炭材を集めやすく、水に便利であること、風当りが少なく、乾燥地で岩石の少ない、緩やかな傾斜地」(143ページ)と記します。他方で、「文化財」でも適地の条件に「陽地で乾燥している所」を挙げるものの、「乾燥しすぎている所では冷却に時間がかかり、その反対は未炭化を生じる。」(54ページ)としており、乾燥してさえすれば良いとは考えられていなかった様です。その「文化財」も「強風の当たらない所」を条件の1つに挙げており、その点では「報告書」の指摘は必ずしも妥当ではない様にも見えますが、川から程近い、水を得やすい場所である程度乾燥した空気を得るには風通しが悪くても湿気が抜けませんから、程々の通風は必要だったとも言えそうです。


この「横穴式炭窯」については、「予察」では次の様に指摘しています。

まず、炭窯自体の特徴とそれに関する問題点について考える。第一に、宮ケ瀬遺跡群で検出された炭窯はいずれも土窯で、崖斜面のローム層や下部の礫層をトンネル状に掘り込み、奥に立上がりの煙道を掘る横穴式の簡単なものである(図2)。これは、県内や多摩地方などにおいて検出された炭窯が、一旦地山を掘り込み、その後床面・窯壁・天井部を構築するいわゆる半地下式の構造を呈するものとは根本的にことなっている。こうした横穴式の炭窯は全国的にも希少なものと思われ、管見したところでは青森県東津軽郡田町大平の「清水股沢」遺跡で発見された「ホリガマ」と称される炭窯(図4)と同形式のものではないかと思われる。このような希な構造を有する大型の炭窯が、宮ケ瀬遺跡群で数多く検出されるのは何に起因することなのか、時期差か地域差かによることなのか、横穴式の形態・構造を呈する炭窯資料を多く収集し、他の構造のそれと比較検討することが今後の課題となろう。

(「予察」262ページより)


「近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)」図2
「予察」図2(252ページ)
「近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)」図4
「予察」図4(262ページ)

こうした横穴を掘る炭窯は現在一般的に知られる炭窯とは大分異なる方式であることは確かです。これに関連して、「文化財」では次の様に、江戸時代の津久井県では鍛冶炭はそもそも炭窯を構築しない方式で焼いていたことを紹介しています。

津久井郡では昔から郡下一円で炭焼が行われていたものと思われる。その用途は、家庭用のほかに(なた)、鎌、庖丁(ほうちょう)、刀、槍などの鍛冶炭であったと言われる。鉈、鎌、などは農耕に製鉄器具が使用され始めてのことであるから相当に(さかのぼ)って鍛冶炭の生産がなされたものと思われる。神原家文書によると、正保五年(一六四八)子閏正月、津久井領の内牧野村名主次郎左衛門が代官に当てた青根山入妨げにつき牧野名主訴状に「炭釜五拾参口焼かせ」云々(別記)と、あることから青根山に於いて今から三四〇年前には木炭の生産がなされていたことがうかがえる。さらに津久井郷土誌によると、「古文書で見る限り当地の木炭は築窯(ちくよう)による白炭と、掘り窯による鍛冶炭(当地ではかんずみという)があり、明治になり大正時代となって鍛冶炭は種々改良され、現在の築窯による黒炭となったのである。鍛冶炭の製法について、鍛冶炭は地面を掘って下へ丸太を置き、炭木を横に並べて火をつける。一番上へもみそ(樅)の葉や枝ごみを置き、火をつけたままその上に土をかぶせる。大体炭になったら上から押しつけ消す。(中略)炭は軟かく、火持ちはよくないが、炭火への通気で火力の強弱を自在にすることができ、鉈、鎌、庖丁、刀槍などの鍛冶炭に使われた」と記述している。

津久井町鳥屋の荒井勇氏の談

鍛冶炭は枯らした栗の木を細かく割って、それを一定の場所に積み上げる。その上をスズ竹などで覆い、さらにその上に落葉などを乗せ、一番上を土で覆う。火を一方向からつけ、炭化したら押しつけて消すと出来上がる。江戸時代はほとんどこの製法の鍛冶炭であったようだ。この炭は火の起りが良く、使い良かった。明治時代になって現在の黒窯で焼いた軟かい松炭を使うようになった。

(「文化財」50ページより、傍点は下線に置き換え)


ここで記録されている様な炭窯を築かずに炭焼を行う方式については「木炭の博物誌」でも「ボイ炭やき」という名前で紹介しており、この方式で焼いた炭は「軟質で、もろく、火つきはよいが長持ちしない。そして細かくくだけた炭が多く、わが国では鍛冶炭、炬燵(こたつ)(うも)れ火、練炭・豆炭の原料などに使われていた。」(135〜136ページ)としています。津久井県の炭焼については先日紹介した通りですが、比較的廉価に生産していた鍛冶炭がこの様な方法で焼かれていたという証言は、当時の炭焼事情を考える上では重要な手掛かりとなりそうです。

「文化財」の記すこの「かんずみ」の製法が当時津久井県全域で行われていたのか、更には津久井県に隣接する地域にまで広がっていたのかは定かではありません。ただ、如何に渓谷で隔てられているとは言え、「ナラサス北遺跡」の位置が一部津久井県域にかかっており、すぐ隣が「文化財」で証言が紹介されている鳥屋村であることからは、この「横穴式炭窯」が出土した地域も通常は「ボイ炭やき」を行う地域と重なっていた可能性が高いのではないかと思います。

「予察」の指摘通り、神奈川県域での炭窯の発掘事例が少ない現状では、この地域に何故横穴式土窯が多数築かれたのかという疑問を解き明かすのは難しいのが現状でしょう。敢えて考えられるところを記しておけば、出土した炭窯が何れも土窯であることから、少なくとも「白炭」を焼くための窯ではなかった可能性が高いものと思います。「備長炭」に代表される「白炭」を焼く窯は石窯を使うのが基本で、これは最後の「ねらし」で一気に空気を送り込んで1000℃にも達する高温とする過程を含む関係で、黒炭を焼く様な土窯ではこの高温に耐え切れない虞があることによります。「報告書」を見る限り、こうした高温への対策のための石積みなどは炭窯跡から出土しなかった様ですから、焼かれていた炭は「黒炭」ということになるでしょう。

しかし、「黒炭」の一種である「かんずみ」を専ら炭窯を使わずに「ボイ炭やき」で焼いていた地域にあって、敢えてこの様な炭窯を造っていたということは、これらの炭窯では通常この地域から「かんずみ」として出荷している炭とは違う性質の炭を焼いていたのかも知れません。宮ケ瀬村の南隣の煤ヶ谷村では「御用炭」を焼いていたことは前回確認しましたが、その炭が白炭であったのか黒炭であったのかが確認出来る文書は残っていない様です。ただ、それが黒炭であった場合には、「かんずみ」の様な粗い炭が「御用」に耐えられるとは考え難いことから、炭窯を造って焼いていたのかも知れず、その場合に宮ケ瀬村の様な「横穴式土窯」が用いられていたではないか、という気もします。あるいは、かつての煤ヶ谷村域でも江戸時代には「横穴式土窯」が造られていたのかも知れません。

煤ヶ谷村とは違って宮ケ瀬村や津久井県の村々が「御用炭」を納めていたとする記録はないので、その様な「高級」な黒炭が焼かれていたとすれば、その旨の注文を何らかの形で請け取って焼かれていたことになるでしょうが、今のところその様な推察を裏付ける史料は見つかっていません。発掘された炭窯について、「予察」では次の様に記しています。

ところで、こうした歴史的状況において検出された炭窯の歴史的な位置付けは、どのように考えられるのであろうか。ナラサス遺跡で検出された炭窯については、元文2(1737)年4月の青山村との山論の際、その原因となった「奈良さすたいら」の畑内に構築された炭窯との関連が指摘できる。しかし、ナラサス遺跡の炭窯は宝永のスコリアとの関係から、1707年以前の年代が与えられており、時間的にずれが生じる。この矛盾をどう解決するのか今後の課題である。また、ナラサス北遺跡で検出された大規模な炭窯群は、当時の宮ケ瀬で炭の大量生産が組織的に行われたことを裏づける資料になるものと考えられるが、管見した近世文書にナラサス北遺跡の場所や炭窯群での炭焼きの内容を記したものがなく、推定の域をでないのである。

(「予察」263ページより)


とは言え、こうした多数の炭窯遺構が、この地域での炭焼が極めて盛んであったことを物語る存在であることには違いはありません。「予察」では宮ケ瀬村や煤ヶ谷村などに伝わる数々の文書を分析して当時の宮ケ瀬での炭焼について解き明かされており、この山深い秘境の渓谷に位置する村でも炭焼が江戸時代の主要な産物であったことが窺い知れます。この地域でどの様な炭焼が行われていたのかを考える上では、発掘された横穴式土窯はやや特殊な例ということになるのかも知れませんが、かなりの基数の炭窯が発掘されていることからは、ある程度の期間にわたって相当量の炭を量産していたことは確かです。その点で、これらの炭窯遺構から産出されていた炭が宮ケ瀬渓谷での炭焼の中でどの様な性質を持っていたのか、課題を投げ掛ける存在と言えそうです。


相模国の炭焼について、当初の予定よりも大分長くなってしまいました。次回相模野の炭焼と近世以降の動向を簡単に取り上げてまとめとする予定です。

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