「江島道」カテゴリー記事一覧
今回は前回 の記事に続いて「七湯の枝折」の「禽獣類」の続きを書く予定だったのですが、もう少し時間が掛かりそうなので、先に別の記事の補足を簡単に記して間を稼ぐことにしました。以前 「江島道」について「江島道見取絵図」に沿って検討を重ねた際に、ラフカディオ・ハーンの「江の島行脚」(「日本瞥見記(原題:“Gilimpses of Unfamiliar Japan” )」所収、明治23年・1890年)の記述をいくつか取り上げました。その際、ハーンに同行していた「アキラ」という青年について、「何者なのか不明」と記しましたが、この「アキラ」について少しだけ新たな情報を得ましたので、その話をもとにもう少し掘り下げてみます。原文「Glimpses of Unfamiliar Japan 」中で 「アキラ」が庚申堂のことを知っていると ハーンに告げる箇所 ここでは「My guide 」と表記しているが、 日本語訳では「アキラ」と意訳している (Googleブックスより) ハーンは「日本瞥見記」の中ではこの青年については「Akira」としか記していません。これを受けて「全訳・小泉八雲作品集」(平井 呈一 訳 1964年 恒文社)でも「アキラ」とカタカナ書きで統一しています(一部に「My guide 」などアキラのことを指す別の表記を「アキラ」と意訳した場所も含む)。フルネームも不明であった訳ですが、昨年発行された「藤沢市 史ブックレット11 幕末・明治、外国人の見た藤沢 」(小風 秀雅 2020年 藤沢市 文書館)の中でガイド役の真辺晃 が、庚申の堂なら藤沢村にあると教えてくれた。その庚申の堂は、本街道に面した境内の中にあった。
(上記書83ページ、強調はブログ主、なお、以下とフルネームの漢字表記が異なっているが原文ママ)
と漢字でフルネームを記していたことから、これを手掛かりに関連する資料を探してみました。 その結果、次の論文がCiNii上で公開されているのを見つけました。「ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時 」永田 雄次郎(2012年2月 「人文論究」61巻4号 1~21ページ)
この論文中で、「Akira」が「真鍋晃」である根拠については次の様に紹介されています。
「テラ」とチャの叫ぶ声がして、ハーンはついに日本の寺院を横浜で目のあたりにし、石段をかけ登り、山門に歩を進める。富士山と寺院の景観の取り合わせに感激しながら、本堂に彼を招き入れた一人の若い僧侶に出会っている。後に、ハーンの松江赴任にまで同行する「アキラ」こと真鍋晃である。ハーンにとってアキラは、「とても卓越した英語を話す(exclams in excellent English )」人物として、驚きを持って迎え入れられた。東京で学んだというアキラの英語を、「少し妙なアクセントではあるが、上品な言葉を選んで使っている」ともハーンは評している。もちろん、英語を使用する民族に属し、文学に精通する者には当然備わった理解力であるが、この評価は、日本における英語教師として活躍する彼の資質の高さを示していよう。
真言宗の僧、真鍋晃こそは、ハーン来日直後、多大な影響を与えたと言ってもよい人物なのであるが、従来の研究書では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない。詳細な伝記的記述がないにしても、真鍋晃の重要な役割は、本稿で次第に明らかになれば幸いであると祈ることにしよう。
アキラは、一八九〇年(明治二三)の「千家宮司邸日記」で、「九月十三日夜、一、同日英国人ラフカジオ・ヘルン通辯人真鍋晃大社参拝候」と記されているところにより、今日、「真鍋晃」と多くの研究書で紹介される。 だが、ハーンの著書では、すべて「アキラ」と記される。
(上記書3ページ、注番号省略、強調はブログ主)
この「千家宮司邸日記」については、注に示されている「へるん先生生活記 」(梶谷 泰之 1998年 恒文社、1964年 松江今井書店版の再版)中に次の様に解説されています。九月十三日夜 一、同日英国人ラフカヂオ・ヘルン通辯人真鍋 晃( アキラ ) 大社参拝候。御当館ヘモ参殿、御家宝、御書院ニテ拝見許サル。正五位殿、管長殿、御面会、茶菓ヲ饗セラル。
(千家宮司邸日記)
これは…大社の千家宮司邸の日記の記載であるが、…ハーンが初めて杵築(この町名は、大正十四年に大社と改称)の出雲大社を訪問した記録である。ハーンは着任後、二週間目、早くも出雲大社を訪問したのであった。
(上記書67ページ、ルビも同書に従う、…は中略)
つまり、出雲大社の宮司の日記にハーンとアキラが訪問した折の記録が残っていた訳です。初出が1964年ですから、既に50年以上前にアキラの氏名だけは特定できていたことになります。 ただ、上記の論文や文献でも、アキラ青年の経歴は残念ながら不明のままです。「【江島道】「見取絵図」に沿って(その2) 」では私は「アキラがそもそも何者なのかがハーンの記した文章からでは不明なので、あまり有名だったとは思えない庚申堂のことを何故アキラが知っていたのかわかりません 」と書いたのですが、これだけアキラの委細が不詳なのであれば、寧ろ逆にアキラが「庚申堂」を知っていた点をアキラの人物像推定に使うべきではないか、という気がしてきました。庚申堂(再掲) 境内に並ぶ庚申塔群(再掲)
藤沢宿から江の島道沿いにやや南に下った辺りに位置する「庚申堂」は、少なくとも江戸時代の江の島詣などで外部からの旅行客が訪れる様な知名度のあるお堂ではありませんでした。「新編相模国風土記稿」や「江島道見取絵図」の様に包括的な調査を行った結果作成されたものであれば「庚申堂」の記載はありますが、それとてほぼ名前だけの記録です。明治時代も半ばまで進んでハーンが「江の島行脚」で詳細に書き留めるまで、この「庚申堂」の前を通っていると思しき道中記・紀行文で「庚申堂」の名前を記したものは、私が見た限りでは見つかっていません。外部の人々にはほぼ知られていない存在だったと言って良いでしょう。 他方、藤沢宿周辺の江戸時代から明治時代の住民にとっては、「庚申堂」の名は単にこのお堂そのものを指すだけではなく、小川泰堂が「我がすむ里」(「藤沢市 史料集」(2)所収)で「庚申堂あり、町の名とす、 」と記す通り、お堂周辺の集落を指す「字( あざな ) 」としても用いられていました。実際、同じ泰堂の明治6〜10年の日記である「四歳日録」(「藤沢市 史料集」(22)及び(23)所収)でも「庚申堂」の名前は字として頻出します。それであれば、藤沢宿や、宿内に足繁く通う用事があったであろう周辺の村々の人々にとっては、「庚申堂」の名前はその所在地周辺を指し示すものとして周知のものになっていたでしょう。 ですから、もしアキラ自身が初めからこの藤沢宿の「庚申堂」を知っていたのであれば、彼の出身は藤沢宿内か、もしくはその周辺であった可能性が極めて高いと考えるのが妥当ということになるでしょう。 そして、「江の島行脚」の明治23年時点で青年であったアキラが、幼少の頃には廃仏毀釈運動を目の当たりにしている筈にも拘らず仏教に強く帰依した人間として書かれていることから、彼の家系も僧職かそれに近い家柄だったのではないかと推定されます。そうなると、「真鍋晃」という実名共々、アキラについての史料を探す範囲をかなり絞ることが出来るのではないかと考えられます。 但し、「江の島行脚」には脚色を意図した多少の省略があったことは以前の分析 でも示しましたので、他の部分に脚色を意図した改変が全く皆無であったことを前提には出来ないと言わざるを得ません。例えば、実際はアキラが人力車の車夫たちに庚申塔をまとめて安置してある場所を知らないか問い合わせて、その結果をハーンに伝えた可能性もないとは言えません。人力車の車夫であればその性質上から一帯の地理については当然の如く熟知していた筈でしょう。それをハーンが記述をシンプルにするために、アキラが車夫とやり取りしていたことを省略して、アキラ自身が庚申堂の存在を知っていたかの様に書き改めている可能性もありそうです。となれば、上記の「藤沢宿内もしくはその周辺出身」というアキラの人物像は成立しないことになってしまいます。 とは言え、史料が極めて限定されている現状では、こうした推定に基づいて更なる史料の探索を行うことには意義があるのではないかと思います。既にこの様な推定の下で行われた調査があるのかも知れませんが、私が探した範囲では該当する調査結果を見出すことが出来ませんでした。機会があればその様なフィールドワークを試みてみたいものです。 因みに、アキラはハーンに従って松江へ赴いたあと、程なく姿を消してしまいます。その事情は詳らかではなく、具体的に辞去した日も明確にされていませんが、ハーン自身が「日本瞥見記」に記しているところでは、一八九一年七月二十日 杵築にて
アキラはもはやわたくしの身辺にはいない。仏教雑誌の編集をするのだといって、神聖なる仏教の都、京都へ行ってしまった。——自分は神道のことは何も知らないから、出雲にいても大してお役に立つまいと、再三辞退していたのであるが、さて、いなくなられてみると、わたくしはすでに迷い子になったも同然の感がする。
(「第十一章 杵築雑記」冒頭、「全訳・小泉八雲作品集 」平井 呈一 訳 1964年 恒文社 326ページ)
と、仏教に帰依する人としては神道の地では活路を見出だせないことをハーンに対して話していた様です。これについて「ラフカディオ・ハーンと石仏の美 」では、ハーンとアキラの仲違い説も存在することを紹介しつつも、時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。
(上記書10ページ)
と評しています。ハーンの通訳としての仕事が無くなって辞去した後に、東京など関東方面に戻るのではなく京都へと向かっている辺りも、ハーンの記述通りであればアキラの置かれた立ち位置などを推定する際に使うことができそうです。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-544.html 「【江島道】「見取絵図」に沿って(その2) 」補遺:「アキラ」について
このブログで「江島道見取絵図」に沿って現状との照合を試みたのは2013〜2014年のことでした。その後も「江の島道印石」の移設等の変化が認められた際に改めて記事を追加してきました。これらの記事についてはまとめの記事 からアクセスできる様にリンクを集めてあります。馬喰橋の上流側(再掲 ) (ストリートビュー ) 2014年撮影のもの 今回ふとした切っ掛けで江島道途上の「馬喰橋( うまくらばし ) 」付近のストリートビューを参照したところ、その景観が大きく変わっていることに気付きました。
現在の馬喰橋付近のストリートビュー この記事作成時点の最新のストリートビューは2020年12月撮影となっていますが、これまで馬喰橋左岸側を覆っていた屋敷とその敷地内の樹々が全て撤去されて広大な更地となりました。その前の撮影は2019年3月となっていて、そちらのストリートビューではまだ更地化される前の状態が維持されていますので、更地となったのはその間ということになります。ただ、更地の中に生えている草の広がり方から、更地となってから既にかなり日数が経過したものと考えられ、従って上記期間の比較的早い時期に更地化が実施されたことになります。馬喰橋付近の1945~50年頃(左)1961~69年頃(右)の空中写真(地理院地図 ) 以前の記事 でも触れた通り、江戸時代の景観を直接伝える史料はなかなか見つけられずにいるのですが、「地理院地図」上で参照できる過去の空中写真を見ると、1960年代まではこの付近はまだ水田と思しき耕地が多く残り、建物は江島道沿いに多少見える程度であったことが窺えます。1970年代に入ると次第に耕地が宅地へと転換されていき、2000年に入るとほぼ住宅で埋め尽くされます。そうした中で上記の屋敷と思しき建物は1945~50年の空中写真にも写っており、その頃からの景観を伝える存在であったことが確認できます。 今回の更地化によって、第二次大戦後頃から維持されてきた馬喰橋付近の景観が最終的に消失した、ということになりそうです。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-534.html 【江島道】馬喰橋の景観に変化がありました
このところ、「石上の渡し(山本橋)」絡みの記事が多くなってしまっていますが、今回で取り敢えずひと区切りの予定です。もうひとつ、山本橋への架け替えについて考える上で重要と思われる史料を紹介します。 この史料は「神奈川県 史料 」(1965年 神奈川県 立図書館 刊)に掲載されているものです。これは「かながわの歴史文献55 」(リンク先は「刊行物 | 神奈川県立の図書館 」上で公開されているPDFの目次ページ)によれば明治政府の命により神奈川県 が維新以来の県の沿革等を編纂した「県史(誌)」。対象期間は明治元年(1868)から同17年までだが一部文久慶応年間を含む。内容は主として県布達や規則、文書等の原史料を分類細目別編年にそのまま収録したもので、明治初期同時代に編纂された稀少な文献資料。
(上記ページのPDF 164ページより)
とされています。この時期の神奈川県の行政資料については「大正震災等で多く亡失している (同前165ページ)」とのことから、この時期の地方史料の双璧である「皇国地誌(郡村誌)」(#48)が、関東大震災の際一部を除き焼失したことを勘案すれば、唯一の同時代編纂史料であり、その価値は近代地方史研究の隆盛とともに、真価を発揮してくるものと考えられる。
(同前167ページより)
としています。特に、当時の行政文書がそのまま転載されている点では殆ど唯一の存在と言えるでしょう。神奈川県内の各公立図書館に、国会図書館が保有している原本を元に翻刻したものが蔵書されています。 この史料集に、「石上の渡し」に架橋するに当たり、その建築や修繕のための費用を徴集する目的で橋銭を取っても良いか、神奈川県権令( ごんれい ) (県令に次ぐ地位)が大蔵省に意見伺いを行った際のやり取りが記録されています。片瀬川亦鎌倉道ナリ初メ渡舟ヲ以テ行人ヲ通セリ然ルニ大雨暴潮ノ時往々行人ヲ阻スルコトヲ免レス是レ架橋ノ議起ル所以ナリ六月伺ヒアリ
指令
書面片瀬川舟渡ノ場所今般自費ヲ以架橋ノ儀ハ便利ノ筋ニ候得共入費消却ノ為橋銭取立ノ儀無年限ニテハ難聞届候条相当ノ年限取調更ニ可伺出事
大蔵省事務総裁
明治六年七月九日
参議大隈重信
管下相州高座鎌倉両郡境片瀬川ノ儀ハ古来ヨリ渡場ニテ藤沢駅ヨリ江島鎌倉辺エノ往来ニ有之川左右鵠沼片瀬両村持合渡舟差出往返ノ者ヨリ賃銭受取来候処出水ノ毎度通路差支候而已ナラス平常共往来ノ不便不一方甚難渋ノ趣相聞候ニ付テハ今般更ニ舟渡相廃橋架渡候ハヽ近村ノ者ハ勿論往来人民ノ便益不少儀ニ付其段両村エ説諭及候処別紙書面ノ通願出候間尚夫々取糾候処更ニ故障ノ筋無之候間願ノ通御許可相成候様致し度尤右片瀬川ノ儀ハ平常ハ格別ノ水丈モ無之侯得共降雨ノ節ハ水勢俄ニ相増川瀬モ時々変遷致シ侯儀ニ付向後架橋ノ保方如何可有之哉確卜見据モ難相立ニ付 橋銭ヲ以入費支消ノ予算不相立且架替修営等ノ入費モ有之候間先右取立方ハ無年季ニ申付総テ右橋ノ儀ハ両村ニ為相任置候ハヽ上下両便ノ儀ニ付願書相添此段相伺申候以上
明治六年六月二日
神奈川県権令大江 卓
大蔵省事務総裁
参議大隈重信殿
橋税取立ノ儀無年限ニテハ難聞届旨御指令ニ付猶又再応伺ヒ十年ヲ限リ候様八月九日 御指令アリ
(「神奈川県史料 第2巻 」170〜171ページより、強調はブログ主)
以下、この記録から読み取れることを列挙してみます。 まず、この記録からは、当然のことですが、「山本橋」の架橋については地元の片瀬・鵠沼両村のみではなく、神奈川県も関知していたことになります。橋銭徴集の可否については他にも相模川などで同様に問い合わせが行われており、基本的に明治政府に認可を取る必要があったということでしょう。 但し、ここでは飽くまでも橋銭徴集の可否のみが問い合わせされており、その具体的な金額については触れられていません。一方で、徴収期間については無期限では許可出来ない旨大蔵省から回答されており、これを受けて10年間の期限付きで再度申請して受理されています。しかし、それであれば架橋後10年を経た明治16年(1883年)には徴収期限を迎えていることになり、以降は橋銭徴集を止めているか、期間延長の申請を行っている筈です。ところが、今のところどちらについても記録がなく、県が山本橋を架け替えるまで橋銭徴収が続けられたことのみが伝えられています。 次に気になるのが、この意見伺いが最初に行われた日付です。明治6年の6月初頭に大蔵省に提出されたことになっています。一旦大蔵省から返事が来るのが翌7月、再度の問い合わせに対する回答が8月です。山本橋の開通は同年の10月説と12月説があります が、どちらにせよ開通の2〜4ヶ月前という、かなり差し迫った時期に了承を得たことになります。工事の費用に関する重要な問い合わせの回答を待たずに先行して着工したとは考え難いので、山本橋の工期もこの期間内だったことになるでしょう。 一方、意見伺いの2ヶ月弱前の4月16日の小川泰堂の日記「四歳日録」には、こんな記録が見えます。十六日 晴て風ふく。けふは皇上( くはうじやう ) を拜( おがま ) んと江の嶋路( みち ) にいたる。午後三時御行幸( ごぎやうかう ) 龍馬( りうめ ) に駕( が ) し洋服( ようふく ) を召( めさ ) せらる。騎兵( きへい ) 二十騎ばかり警衞( けいえい ) し奉れり。路傍( ろぼう ) に拜( はい ) する艸民( そうみん ) 等( ら ) 跪禮( きれい ) ・匍匐禮( ほふくれい ) を禁( きん ) じて皆( みな ) 立禮( りつれい ) なり。これは人王四十代天武( てんむ ) 天皇( てんわふ ) の朝( てう ) に復古( ふくこ ) ありて、壬申( じんしん ) 正月元日より立禮( りつれい ) となる。此夜( このよ ) 淸淨光寺( しやうしやうくはうじ ) ヘ御行在( ごあんざい ) なり。
(「藤沢市 史料集(二十二) 小川泰堂「四歳日録」(上) 」藤沢市 文書館編集・発行 25ページより、ルビも同書に従う)
小川泰堂邸と山本橋等の位置関係 (再掲) (「地理院地図 」上で作図したものを スクリーンキャプチャ別ページで表示 ) ここには明治天皇が江島道を騎乗して行幸したことが記されています。泰堂が江島道のどの辺りで行幸を見送ったかが記されていないので、当日の天皇が素直に江島道を片瀬海岸から藤沢まで辿ったと言えるかどうかは判断を留保しないといけませんが、『明治天皇鎌倉行幸御事蹟 』(相羽清次編 私家本 1928年、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵)に「江ノ島 藤澤 五十丁 御馬 此関石上 川 」(27ページ「鎌倉行幸日程」、強調はブログ主)とあることから見ても、この際に石上の渡しを経由したと見てほぼ間違いないと考えられます。 架橋前の石上の渡しでは舟橋として運用されていた ことが知られていますが、その点を考え合わせると、この行幸の折に明治天皇がどの様にこの渡しを越えたのかが気になります。境川には河口から藤沢宿付近までの舟運がありましたから、その艀の通過の都度、舟の間を掛け渡していた板を撤去しなければならなかったでしょう。そうなるとあまり重さのある板を渡しておく訳に行きませんから、騎乗したままの馬を安全に渡せる強度が確保出来ていたのか、あったとしても落馬につながる様な不安定さはなかったのかが問題になる筈です。当日風があったことが泰堂の日記に見えていますから、尚更足場の不安定さは不安要素だったでしょう。板を足したり船の舫い方を補強したりして、騎乗のまま無事に渡れる様にしたとも考えられますが、場合によっては、この時だけ舟橋を解いて馬と人を舟で渡す、更に安全を見越した方法が採られた可能性も考えられます。 当然ながら、神奈川県も天皇の行幸に際して、通過が予定される村々に対して、事前に相応の指示をしていたと考えるのが自然でしょう。とすれば、県が石上の渡しの実情について具体的に認識したのは、あるいはこの行幸が切っ掛けになった可能性があるのではないでしょうか。その後の架橋に向けての動きについても、県が両村に働き掛けたり相談に乗ったりしていた可能性も十分に考えられるでしょう。 残念ながら、藤沢市 文書館によれば、この年の片瀬村や鵠沼村の文書のうち、この折の石上の渡しにまつわる経緯を記したものは、同館が所蔵するものの中には今のところ見当たらない様です。従って、現状では飽くまでも「可能性が考えられる」以上の裏付けを行うことは出来ません。勿論、架橋の話を県と地元のどちらが先に持ち掛けたのか、等の委細の部分も全く不明です。神奈川県が橋銭以外の件で架橋に関与していたのかどうかも、現時点で存在が知られている史料からは明らかに出来ません。更なる史料が出て来るのを待つしかなさそうです。 しかし、行幸から僅か2ヶ月足らずで県権令が動いていることから見て、行幸が発端となった可能性を考えてみる価値は十分にあると思います。また、その山本橋に関する「皇国地誌残稿」の記述が片瀬村と鵠沼村で食い違う ことから、両村の合意が必ずしも容易なものではなかったことが窺い知れます。このことと、石上の渡しが、行幸から僅か6ないし8ヶ月で山本橋へと切り替わったことを重ね合わせてみると、この僅かな期間の間に片瀬村と鵠沼村、そして場合によっては神奈川県の間で、かなり頻繁なやり取りが重ねられ、時には両村間での意見の食い違いの調整に時間を費やしつつも、架橋をかなり急いだ実態が想像出来ます。 さて、この意見伺いの権令の説明の中でもう1点注目したい箇所があります。それは、石上の渡しの運用の実情の一片が記されている箇所です。つまり、普段はそれ程の水深ではないものの、ひとたび雨が降ると俄かに水位が増し、川瀬もそれによって付け変わってしまうことがあったとしています。そして、増水時には「川支え」として交通が途絶することが記されていますが、これは高山彦九郎「富士山紀行」(安永9年)にも実際に渡しが止められた実例が記されて います。 片瀬川の流路が付け変わった水害を具体的に伝える史料は今のところ見当たらない様ですが、この年表にも見られる様に 、境川がしばしば氾濫して藤沢宿が水に浸かる被害が出たことは確かです。渡部 瞭氏はかつての郡界に境川の旧流路が反映していると推定しています が、これに従うと迅速測図に残る片瀬川の流路より更に激しく蛇行していた時期があったことになります。当然ながら、その時期には石上の渡しもまた別の場所にあったことになるでしょう。※「新編相模国風土記稿」の鎌倉郡片瀬村の項には「河涯に堤防を設く高六尺餘 」(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七 雄山閣版)と堤防が築かれていたことが具体的なサイズと共に記されているのに対し、「皇国地誌村史残稿」の片瀬村の稿には「堤防無之 」(「藤沢市 史料集(十一) 村明細帳・皇国地誌村誌 」藤沢市 文書館編集・発行 183ページ)と堤防は無かったと記されています。「風土記稿」や「皇国地誌」の鵠沼村の項には堤防に関する記述が全く見られません。特に鵠沼側は江戸時代には大筒稽古場に使われる様な田畑に使われていない土地が広がっていたこともあいまってか、流路を固定する様な治水対策はあまり積極的に行われなかったのかも知れません。
そして、この意見伺いでは、その様な場所に新たに架橋することになることから、「向後架橋ノ保方如何可有之哉確卜見据モ難相立ニ付 」つまり今後橋を維持するのにどれ程の費用が必要になるのか見積が立てられないことを、橋銭徴収を申請するに至った理由として挙げています。 片瀬川の氾濫に関するこうした見立てが実際にどれ程片瀬・鵠沼両村に共有されていたのかについては、更に検証が必要と考えます。とは言え、少なくとも神奈川県が水害の恐れのある地に史上初めて架橋を試みるリスクについて、認知していたことは確かと言えるでしょう。県が橋の流失に繋がる程のリスクはないと判断していたら、これ程早くに政府に意見伺いを行うとは考え難いからです。 このことは、翻って考えると、石上の渡しが江戸時代を通じて架橋が行われなかった理由のひとつである可能性もあるでしょう。片瀬川自体はそれ程の川幅がある訳でもなく、しかも江島道は藤沢宿から江の島への主要道である上に、周辺の砲術稽古場への連絡路でもありましたから、渡しを廃して架橋を求める声が上がっていてもおかしくなかった筈です。それを跳ね除けて「渡し場」が(実質的には舟橋であったとは言え)維持されていた理由を求めるとすれば、やはり水害による橋の流失への懸念ということになるでしょう。現時点では、この意見伺いがその点を指摘する唯一の資料と言えるのかも知れません。 実際は、山本橋は神奈川県が明治33年(1900年)に架け直すまでの間、水害などによって再架橋を余儀なくされる様な破損を受けた記録は見当たりません。その割に、山本橋については単に「木橋」とのみ記すものが専らで、この橋がが近代西洋の建築技術を取り入れる等の水害対策を施された橋であったことを示す記録もありません。相模川の馬入橋の場合は木製のトラス橋を試みた時期もあった 点を考えれば、石上の渡し場は架橋困難と判断されていれば、場合によっては県から技術的な支援を検討する道もあった筈です。 飽くまでも結果としてではありますが、少なくとも初代の「山本橋」にとっては、片瀬川は比較的「穏やか」だったと言えるのかも知れません。
追記(2022/05/08):「かながわの歴史文献55」が
神奈川県 立図書館のサイト内の別の場所に移されましたので、関連するリンクを付け替えました。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-513.html 山本橋の橋銭徴収に関する神奈川県権令の意見伺い:「神奈川県史料」より
先日の記事 の追記で、服部清道氏が山本橋の橋銭を「3文」と記述している文献を引用しました。その際にはまだ服部氏が何を典拠にしているのかわかっていなかったのですが、その後その典拠が見つかりましたので、補足として改めて記事を起こすことにしました。 典拠は「現代の藤沢 」(加藤徳右衛門著 昭和8年・1933年)という、昭和初期に藤沢町の町会議員を務めていた人物の手による地誌です。ひとりの著者の手による地誌としては800ページに近い大冊で、特に著述された頃の統計が数多く盛り込まれており、当時の状況をかなり仔細に知ることが可能です。現在は、昭和55年(1980年)に「藤沢郷土誌」として復刻刊行された版で読むことができます。 この中で、山本橋の橋銭に関する記述が見られるのは、次の2箇所です。藤澤驛附近 今をさる四十有五年前までは藤澤宿より江の島道が一本あるのみ。而も人家は庚申堂で盡き右に小高き丘の松原は松汀松原と稱し桃咲く野道で砥上ケ原の里に續いた寂莫たる地點。砥上には農家點々として境川を以て盡き片瀨に隣れるもの。境川は渡船場であつたを明治十二、三年頃架橋し山本橋と稱したは付近一帶の地が片瀨の大地主山本家の所有であつた爲め名付けられたものたるとか。架橋費は山本家と鵠沼村の負擔で渡橋賃を取つたもの。人一人が文久錢一文馬が五文、車も駕も四文であつた。 縣道となりて沙汰止みとなつた。架橋されても江の島行の渡船營業は暫らくの間行はれたものたりし。(513ページ) 境川沿岸石上に屬する地點(現在の湘南水通の水源地脇)目標とされた一本の松がありしと、今は河線の變更されて舊川敷其儘に殘壕として空しく荒れ果てける。茲が明治十年頃は砥上の渡船場であつた、以て高座、鎌倉が連絡され其渡し錢は五文であつた。江戸粹人の江の島詣の行程に頗る旅情の纒綿たる處、前面にある川名、片瀨の無名たる連峰の翠綠は決して價なさものでなかつた。就中この風光を眺めつゝ渡し場より水路江之島詣の通路もまた風情たるもの。この川は潮の剌引の利き滿潮を利用して荷足船の出入多く藤澤商業の波上場であつた。藤澤より三浦半島に送る貨物、總房(ママ) よりの鹽干魚も茲に陸上され藤澤に非常な便利を與へた地點は渡船場より下流幾許でもなかつた。其川岸に六左衛門川岸と稱するものありしは鵠沼の豪農六左衛門(現在の齋藤保氏の祖)專用たるものあつたと、蓋し六左衛門は農業のかたはら肥料輪入或は材木其他の輸出入に手を染めたものとか。 この渡船場も時代の要求に架橋さることゝなり而もそれは有料で渡橋料は三文であつた。 而してこの街道も縣道に指定され縣費によりて架橋され料金は徹廢されたのである。(731〜732ページより) (何れも「藤沢郷土誌」(「現代の藤沢」改題)より、傍注はブログ主)
前者の記述では山本橋の開通時期を「明治12、3年頃」と書いていますが、これは「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」や小川泰堂の示す「明治6年」からはかなり隔たりがあります。「名付けられたものたるとか」という書き方からは、古老などからの聞き取りをそのまま記したものと見受けられます。少なくとも、過去の地誌取調の結果を参照した様には見えません。 服部氏はこの2箇所の記述のうち、後者の記述を採用して「3文」と書いたと言えそうです。何故こちらを選んだのかは不明ですが、明治12年頃には更に新通貨である円が普及していたであろうと考えられますから、どちらの記述も他の史料との照合を経ずにそのまま使うのは問題ありと考えます。特に新通貨の普及事情については、「現代の藤沢」内で関連のありそうな章を一通り探してみましたが、明治時代をかなり下っても江戸時代の旧通貨がその額面のまま通用していたことを示す記述は見当たりません。徳右衛門が何故その点に何も疑問を抱かずに山本橋の橋銭について書いたのか、少なからず気になる問題です。 強いて考えれば、明治初期にはまだ江戸時代の銭貨が補助貨幣の代用として通用していた実情があり、「現代の藤沢」の記述にはその様な当時の実情が反映している可能性も考えられます。もっとも、Wikipediaに一厘貨幣としては寛永通寳銅一文銭が依然その役割を果たしていた。また、寛永通寳真鍮四文銭は二厘、文久永寳銅四文銭は一厘半、天保通寳當百銭は八厘(明治4年太政官布告第658号)、寛永通寳鉄一文銭は16枚で一厘、および寛永通寳鉄四文銭は8枚で一厘として通用した(明治5年太政官布告第283号)。このうち寛永通寳鉄一文銭および鉄四文銭は明治6年12月25日(正式には1897年の貨幣法施行時に廃止)に、天保通寳は明治24年(1891年)末をもって通用停止となった。鉄銭の通用制限額は五十銭、銅銭は一圓と定められた。
(「日本の補助貨幣 1. 歴史的経緯 」より)
とある通り(この経緯は「明治財政史. 第11巻 通貨 」(1905年・明治財政史編纂会 編、リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」)等で確認可能)、天保通宝でさえ1銭に満たない極めて低いレートで兌換されていたことが記録されています。となると、「現代の藤沢」の記述通りに寛永通宝を3枚出しても、たった3厘としてしか受け取ってもらえなかったことになってしまい、泰堂が橋銭として支払った「1銭」には遠く満たないことになってしまいます。従って、「藤沢の現代」に見られる橋銭の価格は、少なくともこの通りに江戸時代の文銭を出したということではないと考えることになりそうです。※泰堂の「四歳日録」では、お金の支出等に関する記述があまり見られませんが、先日の記事で引用した明治6年12月の「代金七兩( えん ) 」(「藤沢市 史料集(二十二) 小川泰堂「四歳日録」(上)」(藤沢市 文書館編集・発行)71ページ)以外では、例えば
(注:明治七年十一月)九日 …途( みち ) に唐密柑( とうみかん ) 二顆( か ) を八釐錢( りんせん ) に償( あがな ) ひ得( え ) て苞苴( いへつと ) にす。
(同上133ページ、…は中略、強調はブログ主)
の様に、表記には独自性が見られるものの、既に新通貨での決済に馴染んでいた様に見受けられます。ただ、「八釐錢」はちょうど「天保通宝」1枚に該当する価格であることから、あるいは泰堂はこの時1厘銅貨8枚ではなく天保通宝を使った可能性も考えられます。
何れにせよ、藤沢界隈での通貨事情を考える上では更に多くの事例を集めて検証しなければなりませんが、橋銭の様な少額の決済がいつまでも旧通貨でも行われていたと考えるのは、やはり不自然な面があるのは否めません。その点では、山本橋の橋銭については泰堂の「1銭」の方に信憑性があると言えそうです。但し、その後のインフレ事情を考えると、飽くまでもこれは山本橋開通時点の記録として考えておく必要があると思います。「現代の藤沢」の方の旧通貨での橋銭の記述については、上記の様な注釈付きでの紹介に留めるべきではないでしょうか。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-511.html 「石上の渡し→山本橋の記録:小川泰堂「四歳日録」より」補足
前回の記事 で、小川泰堂の「四歳日録」(以下「日記」)中に記録された、「石上の渡し」の「山本橋」への切り替えの経緯について、課題と思われる点を幾つか挙げました。その際に泰堂の地名の表記についても挙げようと考えたのですが、文量が多くなりそうなのと、「石上の渡し」の話題からはやや逸れることから、前回の話題からは外しました。今回はこの地名表記の問題に関してまとめてみたいと思います。 まず、「日記」の該当箇所の引用を再掲します。なお、以下「(上)」「(下)」はそれぞれ「藤沢市 史料集(二十二) 小川泰堂「四歳日録」(上)」及び「藤沢市 史料集(二十三) 小川泰堂「四歳日録」(下)」(以上 藤沢市 文書館編集・発行)を指します。(注:明治六年・1873年 十二月)八日 晴、片瀬へゆく。石神の渡( わたし ) 口 、橋となる。昨七日より人を往來( ゆきゝ ) せしむ、橋錢( はしせん ) 一人一錢なり。こは區長( くてう ) 山本莊太郎の發起( ほつき ) 丹誠( たんせい ) によるといふ。橋番( はしばん ) の男に橋名( はしのな ) をとへばいまだ聞( きか ) ずといふ。我れ心中に龍口山( りうかうさん ) 下( か ) の山本氏起立( きりつ ) せしゆゑ、龍本橋( りうほんきやう ) などありたしと思へり。
((上) 67ページより。以下を含めルビも同書に従っているが、何れも原文に付されているもの。漢字表記も異体字を用いている箇所と現行の漢字を用いている箇所が共存しているが、Unicodeで表記可能な限り同書に従う。括弧内の注と強調はブログ主。なお、以下の「日記」の引用では西暦併記は省略します)
石上(現:鵠沼石上)付近の明治20年測図の地形図(左)と現在の地形図 何れも表記は「石上」で統一されている(「今昔マップ on the web 」より) 「江島道見取絵図」石上村付近(再掲) 2ヶ所に「石上」の表記が見え 「石神」は見当たらない 一般には「石上の渡し」と表記される鵠沼の字(現:藤沢市 鵠沼石上)を、泰堂はここで「石神」と書いています。この表記について「日記」の他の箇所での表記を探したところ、以下の例を確認出来ました。
最初の4件は何れも「石神」と記しています。その一方、最後の1件は「石亀」で、同日の記述では2ヶ所で同じ表記を用いています。 泰堂は弱冠16歳の頃(文政13年・1830年)に、藤沢宿とその周辺の地誌である「我がすむ里」を書き上げています。こちらでも同様にこの地名の表記例を洗ってみると、凡例(3ページより):…一 東は戸部川首塚、辰己は石神 固瀬川、南は一本松の古塚、未申は砥上が原大庭の古城、西は白旗明神、戊亥は本入台、北は新八谷( やと ) にいたる
砂山観音堂(39ページより):…これより木部や(屋) ・蔵前をすぎて庚申堂あり、町の名とす、十町余にして石神 の渡船場にいたる、むかしの固瀬川と云も、この辺より海までをいふ
石神 大明神(39ページより):渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像なり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る、石神 の船渡より越行て、左りに駒立山、右に義経の隠れ井戸あり、往還の馬くらい橋ハ馬鞍置橋なり、おきの反切( かへし ) いとなる、此辺ハ、文治のむかし義経腰越の宿にて討手の切脱(ぬけ)、こゝに身を逃れし跡とて其名のこれり
固瀬川(52ページより):水源二流なり、一流ハ藤沢喜久名橋を流れ、音なし川といひ、一流ハ戸塚より戸部川となり、二流川名橋の辺に会し石神 を経て固瀬川とて海に入る、
(以下も含めいずれも「藤沢市 史料集(二) 我がすむ里・鶏肋温故」藤沢市 文書館編集・発行より、「…」は中略、強調はブログ主)
と、やはり「石神」の表記は見えるものの「石上」は見当たらず、また「日記」に1例だけあった「石亀」も見当たりません。 泰堂が地元の地名表記にどの様な拘りを持っていたのか、その全てをここで検討する余裕はありませんが、ここでどうしても外せないのが「鵠沼」のルビの問題です。件数が多いので全ての例を引用出来ませんが、ここでは出現パターン毎に集計を試みることにしました。その結果が以下の表です。くゝいぬま 38件 明治六年:1/7 1/26 2/1 2/19 3/28 6/1 6/16 9/2 10/25 11/16
明治七年:
明治八年:1/6 2/9 7/18 7/27 7/30 8/17 11/17 11/22 11/23 11/25
明治九年:5/19 8/2 10/21 11/13 12/9 12/17 12/18
明治十年:
くゝひぬま 2件 くゝゐぬま 3件 くくいぬま 1件 くぐいぬま 1件 (ルビなし) 10件 鵠村 (ルビなし) 1件 漢字部分は最後の1例を除き「鵠沼」で共通のため、ルビ部分のみ書き出した。 何れも「日記」の印字で判断しているが、一部印刷が不明瞭のため、表記から解釈したものを含む。
見ての通り、泰堂はルビを振っている全てのケースで、若干の表記のブレは見られるものの「くくいぬま」もしくは「くぐいぬま」と読ませており、現在地名として定着している「くげぬま」は1件もありません。 これに対し「我がすむ里」ではどうなのか、現在の唯一の翻刻本である「藤沢市史料集(二)」では永勝寺(50ページより):…この門前永勝寺横町ハ、鵠沼 村神明宮また固瀬・江の島それそれの通路にして、砥上が原、八松原の名所も茲より入を順路とす
神明宮森(51ページより):鵠沼 村にあり、森のうちに、神明天照皇大神鎮座まします、当社ハ、むかし奈須与市宗高、元暦の闘ひに扇の的を射る時、一心に天照太神を祈念し奉り、難なく其的を射て落し、誉れを一天にあげしより、常陸国真壁郡に母方の所縁あるに依て茲に太神宮を勧請せりと云伝ふ、
西之土居(59ページより):…これより引地橋まで、稲荷村分なり、南側同じく坂戸分、御並木九十四間にして、次引地橋まで、鵠沼 上村分也、この町屋を車田とよぶ、江の嶌脇道あり、中古まで、台町より車田の辺、多くハ風早とのみ唱へたるや、元政上人の身延紀行に、藤沢のこなた風早といふ處より入りて、龍の口にいたると見へたり
引地橋(59ページより):往還にかゝる土橋なり、鵠沼 ・稲荷・折戸・羽鳥四ケ村の預りなり、橋を渡り、右側すこし稲荷分、養命寺の辺にてハ折戸村なり、左り側四谷まで羽鳥村、この辺すべて大庭の庄と云ふ
(以下も含め、「くの字点」は適宜然るべき表記に展開)
に出現例があるものの、ルビはありません。ですが、その「凡例」には「㈣ 底本にルビがあっても最少限におさえた。 」と記されていることから、原本にはルビがあるのではないかと考え、編集と出版を担当した藤沢市文書館に問い合わせてみました。その結果、確かに原本には大半の漢字にルビが振られており、「鵠沼」には「くゝいぬま」「くぐいぬま」の例を見出したとの回答を戴きました。 従って、少なくともこの2例の地名に限っては、泰堂はほぼ生涯に亘ってかなり強い拘りをもって表記をしていたことが窺えます。それだけに、「石神」と拘ってきた泰堂が何故、最後に「石亀」と書いてしまったのかは、少なからず気になるところです。※泰堂があらゆる地名について同様の扱いをしていた訳ではありません。例えば、上記の「我がすむ里」では泰堂は「境川」のことを「音なし川」、「大鋸橋(現:遊行寺橋)」のことを「喜久名橋」と書いています。しかし、「日記」中では「音なし川」「喜久名橋」の表記を見掛けることはありません。大抵は「川」とだけ書いているのですが、
(注:明治七年九月)六日 …今日堺川( さかいかは ) に渡( わた ) せる新造( しんぞう ) の大鋸橋( たいきりはし ) 、わたり初( ぞめ ) ありしといふ。
((上) 117ページより)
と、明らかに「我がすむ里」とは異なる、当時より一般的であったと思われる表記を使っています(但し「堺」の字はあまり使われることはありません)。こうした使い分けを泰堂がどの様な「基準」で行っていたのかは、まだ見出せずにいます。
泰堂が「石神」を「石亀」と書いてしまった理由について、具体的な理由を記したり仄めかしたりしている箇所は「日記」には見当たりません。但し、この「石亀」と記される少し前の箇所に、「日記」には次の下りがあります。(注:明治十年三月)十五日 晴、寒計( かんけい ) 三十二度。舊( きう ) には二月朔日( ついたち ) なり。けふは大分に快( こゝろ ) よければ餘義( よき ) なき要用( ようよう ) ある故に鵠沼( くゝいぬま ) に試歩( しほ ) し齊藤六左衞門をとふ。家におらで其( その ) 歸宅( きたく ) をまつ。家人( かじん ) 洒をすゝめられしかども口中に熱氣( ねつき ) ありて味( あじわ ) ひ美( び ) ならず、依てのまず。主人のかへるを待( まち ) てこれに面( めん ) してかへる。此夕( このゆふへ ) 三畱( みとめ ) 勝( かつ ) を訪ひ要事を辨( べん ) じてかへりて臥( ふ ) す。
十六日 晴。
十七日 晴。
十八日 雨。
十九日 晴。
二十日 晴。
二十一日 強雨( がうう ) 。
二十二日 晴、東陽( とうよう ) の息( せがれ ) 小笠原錘( あつむ ) 來る。
二十三日 陰( くも ) る、戸塚驛( とつかえき ) 木倉屋( きくらや ) の母來る。
二十四日 雨ふる、庭の木瓜( ぼけ ) 花さく。
二十五日 晴、十六日我れ疾( やまひ ) 再發( さいはつ ) せして人事不省( じんじふせい ) なり 、人びと混雜( こんぞう ) せしかども覺( おぼ ) へす。夜の明( あく ) るやうに漸( ようや ) く物のあやめも譯( わか ) りて、人心地( ひとこゝち ) なりぬ。
((下)175〜176ページより)
泰堂の子孫の方が執筆された「日記」の解説によれば、泰堂は脳梗塞を患っていたと考えられるとのことで、この9日間に及ぶ人事不省のあと4ヶ月ほどで「日記」の執筆を取り止めてしまうのも、病状の進行で体力的に困難になったからと推測されています。その間の日々の天気などの記事は、意識が戻った後に家人などにその間の出来事を尋ねて廻って後記したものでしょうが、やがて「日記」の字に手の自由が効かなくなった影響が出てしまっていることについて記すなど、日を追う毎に困難さが増しているのが窺えます。 「石亀」と書いてしまった日の記事は、そうした身体を少しでも「リハビリ」する目的で、妻と共に2年前に訪れた「山本橋」脇の温泉に出掛けたことを書いている訳ですが、こうした泰堂の病状の影響が「石亀」の表記に現れたのではないかと、つい考えてみたくなります。無論これは憶測の域を出ないことで、事実「日記」では人事不省後の7月4日に、以前と変わらず「鵠沼( くゝいぬま ) 」と記しているのですから、少なくとも泰堂の病気だけで全てを語ることは出来そうにありません。 ただ一つ言えることは、先日の記事 にも見られた通り、「石上」の発音は時に「石亀」の様に聞き取られていたのは確かであり、それは泰堂が何らかの事情でつい「石亀」と書き取ってしまう程に、強い転訛であったということでしょう。隣接する片瀬でも、後に編集された「鎌倉郡川口村郷土誌」(大正2年・1913年)の第2編第5章第3節「方言、訛言」に採録された例の中に毬彚 イガ(エガ) 煎える ニエル(ネール) 胡蘿蔔 ニンジン(ネンジン) 鳥居 トリイ(トリエ) 綿入 ワタイレ(ワタエレ) 襷 タスキ(タスケ) 銭 ゼニ(ゼネ) 銭入 ゼニイレ(ゼネイレ)
(何れも括弧内が訛言、本文中の出現順(イロハ順))
の様に「i」→「e」の転訛の例が見られます。今となっては、この地域でこうした転訛を聞くことは滅多になくなりましたが、当時はまだ転訛が多く聞かれる土地であったと言えるでしょう。 そして、その転訛の傾向はそのまま「鵠沼」の読みにも現れていたということになりそうです。この点について、鵠沼郷土資料展示室の運営委員であった渡部 瞭氏は次の様に書いています。1842(天保13)年に刊行された『新編相模國風土記稿』には「鵠沼村久久比奴末牟良」と万葉仮名の読みが記され、「くくひぬまむら」であったことが判る。あるいは「くぐいぬまむら」であったかも知れない。
これが「くげぇぬま」と訛り、さらに「くげぬま」になったと考えられるが、いつの段階から正式地名と認識されるようになったかは、明確な資料に出合っていない。あるいは『新編相模國風土記稿』の時代には既に「くげぬま」と言われていて、「そもそもこれは「久久比奴末」だったのだよ」と、わざわざ読みを加えたとも思われる。
(「鵠沼を巡る千一話/第5話 難読地名鵠沼 」より)
泰堂の「日記」はこの「風土記稿」の「久久比奴末」という記録を補強するものであると言えます。藤沢周辺では、「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所と深い関係を持っていた福原高峯が存在しましたが、泰堂が「我がすむ里」を書いたのは昌平坂学問所が相模国全域から地誌取調書上を集めていた頃(文政7〜8年)よりも後(文政13年)であり、昌平坂学問所が「風土記稿」を執筆していた頃には泰堂は藤沢を離れて江戸に拠点を置いていました(天保2〜15年)。こうした年代の「ズレ」を考慮すると、福原高峯とは違って「風土記稿」と泰堂の間の直接的な関係はなく、従って「日記」は「風土記稿」の記述については意識せずに書かれた可能性が高いと考えられます。それにも拘らず、「風土記稿」も「日記」も共に「くくひぬま」と記していることから、少なくとも鵠沼村の名主などの上層部では「くくひぬま」が正式な読みとして共有されていた可能性が一層高まります。 しかし、今のところ「くくいぬま」の音を伝える史料は「新編相模国風土記稿」と泰堂の「我がすむ里」「日記」のみであり、そもそも当時の鵠沼村の「音」を窺い知れる史料がなかなか見つからないのが実情です。江戸時代の紀行文や道中記では、「石上の渡し」の様には「鵠沼」の名が登場する機会が殆ど見られません。東海道は鵠沼村の北境を、江島道は村の東辺を通過していたものの、それらの土地を通過する際に登場する地名は「引地」「車田」そして「石上」といった字名の方が記されるケースが專らで、本村の名称である「鵠沼」が記されるケースが見当たらないからです。また、明治時代初期の公文書やこれに準じる文書では、ルビなどの形で地名の読みを記述するケースがそもそも乏しく、こちらも鵠沼村の「音」を見出す目的では使えません。 鵠沼が自村や周辺地域の記録以外の、外部の人々によって記される様になるのは、明治20年(1887年)の東海道線の開業後間もなく別荘地・保養地として開拓される様になってからのことです。「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められた観光案内書等で当時の記述を探っても、ルビがあるものは基本的に「くげぬま」とあり、「くくいぬま」の音を示しているものは見かけられません。それらの中で最初期に「鵠沼」の名が登場するのは明治25年(1892年)の「全国鉄道名所案内 」(野崎左文 著:リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」上の該当ページ)ですが、ここではルビはないものの「鵠ヶ沼」と「ヶ」を間に挟んだ表記が採られているのが目を引きます。通常は「か」や「が」の音を充てられる「ヶ」ですが、「くくいがぬま」という読みの記録は今のところ見つかっておらず、恐らくこの線は薄いと見られるでしょう。むしろ、「くげぬま」と読んだ際の「げ」が「鵠沼」の2文字中に上手く収まらないと著者の野崎左文が考えた故に、「げ」を収める先として「ヶ」を間に挟んだ様に見受けられます。 やがて江之島電氣鐵道が明治35年(1902年)に部分的に開通して「鵠沼駅」が開業すると、ますます多くの観光客が現地を訪れる様になり、その過程で「くげぬま」の読みが一般に定着していったのでしょう。その頃に「くくいぬま」の読みに固執する人が地元にまだいたかどうかは定かではありませんが、少なくとも藤沢近郊の外から鵠沼に訪れた多くの人々には、「くげぬま」以外の「本来の読み」が存在したことは、知られることはなかった様です。 泰堂の「日記」は、この様な藤沢や周辺の地名の変遷を考える上での、ひとつの資料としての側面もあると言えそうです。
追記(2021/12/16):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-510.html 小川泰堂「四歳日録」の地名表記の問題:石神(石上)、鵠沼(くゝいぬま)