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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑷)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索を使って、「鵠沼」の「よみ」の変遷を、更にと見てきました。この話題の記事がよもやこれほど長くなるとは想定していませんでしたが、今回でまとめに入りたいと思います。


2.4. 大正年間後期以降の傾向


基本的には明治30年代(1897年〜1906年)以降に既に「鵠沼」の「よみ」は「くげぬま」で定着したことは前回見ました。この状況はそれ以降変動は見られませんが、「デジタルコレクション」の検索結果を確認していて何点か気付いた点を紹介したいと思います。



明治30年頃から小説などの文学作品の出版物では逐語的にルビを振られる様になることを前回紹介しましたが、大正10年(1921年)頃からその様な出版物が減ってきます。無論、ルビが全廃された訳ではなく、難読の漢字や通常とは異なる「よみ」をさせたい漢字には引き続きルビが振られているのですが、地名にはルビを振られなくなっているものが多数を占めています。それらの例の中で、一部の地名にはルビがあるものの、「鵠沼」にはルビがないものが少数ながら見つかりました。

一體に相模灣の沿岸は風光頗る明媚なる上に、氣候亦溫和なるを以て夙に療養地としてしられ葉山、逗子、鵠沼、茅ヶ崎、大磯、國府津等の名邑が所在にある。

田浦町(二萬)には海軍水雷學校があり、又海岸追濱(オツパマ)には海軍飛行場の設がある。秦野(ハダノ)町(一萬)の附近一帶は葉煙草の產が多い。

(「地理教材の敷衍と附説 尋常科 第5学年 改訂」島田牛稚 著 大正13年・1924年 目黒書店 62〜63ページ)

用事もあつたので義兄を逗子驛に送ると連れの二人と別れて逗子の町へ出た。…ふと十數年前の子供の頃鵠沼の松原で迷兒になつてシクシク泣き乍ら歩いた時のやうな情󠄁無い心持になつたのだ。

質實な父も姉の病の重ゐのを見ると急いで用宗(もちむね)に和風の立派な別荘を建てた。…

私が床の上に起き上つた頃、ある日用宗から電報が來た。

(「姉の死と罰金のこと※」杉野 昌甫 著、「短篇 第2輯 第2冊」大正15年・1926年 短篇社 所収、26〜27ページ)


こうした例の中には、「鵠沼」にルビがない理由を必ずしも察しにくい資料も数点存在していました。それに対し、上記2例の場合は「追浜」「秦野」「用宗」の様に比較的知名度が低く難読と見做される地名にのみルビが抑制的に振られ(「用宗」の場合は初回出現時のみルビが振られ、同ページに再び「用宗」が登場する際にはルビが振られていない)、既に知名度があると見られる「鵠沼」などの地名にはルビが省略されていることが窺えます。特に「地理教材の敷衍と附説」は教育向けの資料であるだけに、「鵠沼」は既に「憶えておくべき地名」と著者や編集者が考えていることが見て取れます。「短篇」も著者や編集者が「用宗」の様な扱いは「鵠沼」には必要ないと考えているからこそ、「鵠沼」にはルビを振らずに済ませたのでしょう。

そして、「鵠沼」にはルビが振られていて他の地名にはルビがない例は、「デジタルコレクション」中を検索して見つけられたこの時期の資料の範囲内では見当たりませんでした。こうした傾向からは、「鵠沼」の知名度が相応に上がり、ルビを省略しても察してもらえると、出版関係者が認知していたことが垣間見えます。

こうした傾向もあって、「鵠沼」の検索結果は引き続き増加傾向にあるにも拘わらず、「よみ」が記された資料の件数は頭打ちになっています。



大正12年(1923年)9月には関東大震災が起こり、鵠沼一帯でも建物倒壊や津波によって大きな被害を出します。翌10月頃から震災関連の出版物が「デジタルコレクション」の検索結果でも目につく様になってきます。同年以降の出版物の「鵠沼」の出現数を押し上げる要因の中に、この関東大震災が含まれていることになります。

しかし、鵠沼に関する記述の大半は、同地を訪れていた皇族に犠牲者が出たことを伝えるもので(例えば「大正大震災大火災※」大日本雄弁会講談社 編 大正12年10月1日発行 大日本雄弁会講談社)、鵠沼の被災状況を仔細にレポートした資料が意外と多くありません。

今回「デジタルコレクション」上を検索してヒットした中で最も仔細に鵠沼の被災状況をレポートしていると考えられる文章は、阿部 良夫の「関東大震災特に鵠沼海岸別荘地の状況」(「科学雑話」 大正15年・1926年 興学会出版部 所収)でしょう。寺田寅彦の薫陶を受けている著者は、鵠沼の自宅で震災に遭ったその約2ヶ月後に、鵠沼海岸の別荘地一帯の被災状況を彼なりの目で観察してレポートしています。津波の浸水地域が地図で示されていたり、土地の亀裂の発生箇所の特徴や建物の倒壊方向が東南や反対の西北方向に揃っている点などの観察に科学者らしい視点を感じられます。その様な中で、明らかに別荘地一帯で液状化現象が起きていたことが、何故か「補遺」として本文から分けて書き記されています。

地震のために井戸は殆とすべて濁つた。其翌日飮料に用ひ得る井戸は大變少數であつた。土地の一部から水のふき出す處もあつた。自宅の前の道路にも一ヶ所直徑約四、五寸の穴が出來、ブク/\と水が湧き出て居つた。自宅の庭では地震の一年ほど前にポンプ井戸をうめたのが、地震のために土が噴き出し、其穴から白濁した水があふれ出て、庭の一隅凡三四十坪を六、七分位の深さに浸した。

(278ページ)


「ふじさわの大地」より
鵠沼及び周辺の地形分布
(「ふじさわの大地」
藤沢の自然編集委員会 編 2002年
藤沢市教育文化センター より:再掲
鵠沼一帯は砂丘地帯や境川(片瀬川)・引地川沿いに発達した低湿地帯であり、海岸が近いこともあって地下水位がかなり高いと考えられるため、震災時には液状化現象が起きやすいことは現在では容易に想像がつきます。しかし、関東大震災当時はまだ液状化現象が一般に知られている現象ではなく、以前このブログでも紹介した様に建設途中だった馬入橋で沈めたケーソンが浮き上がったり馬入橋の中世の橋脚が浮き上がったりするなどの現象が観察されているものの、これらの現象を起こすメカニズムが「液状化現象」という用語で統一的に理解される様になるのは、まだ後年のことになる様です。


関東大震災での建物の倒壊は、阿部 良夫自身も観察している様に、建物の躯体が急な揺れに対抗し切れずに潰れてしまうケースが多かった様です。それだけ当時の建物に関東大震災クラスの強い振幅に耐えられる強度を有した躯体になっていないものが多かったことになります。その様な状況下では、地盤の緩さは問題となっていなかった訳ではないものの、液状化現象が建物倒壊の主要な要因として注目されるまでには、まだ他の課題の方が優先的に見られていたことになるのでしょう。阿部 良夫が鵠沼で観察された一連の液状化現象を付帯的な記録だけに留めた背景には恐らくその様な状況があったと考えられ、実際のところ、当地の液状化現象の規模や影響度を体系的に調査して記録する様な動きは起こりませんでした。

関東大震災における鵠沼の液状化現象が建物の倒壊要因に多少なりともなることがなかったかどうか、今となっては検証する術はありません。しかし、1点気になる記述が「デジタルコレクション」の検索結果の中に含まれていました。

根津權現の後ろから本鄕千駄木に通ふ崖道で團子坂寄りの部分(卽ち森鷗外博士の觀潮樓の塀添いの道)わ、七分通り缺けて谷に落ち、僅に四五尺幅の小徑となる――とあるからその前あの邊わ三間幅ぐらゐの大道であつたものと見ゆる。その道を負うて建てられた花園紫泉亭の茶亭わ、當然谷え崩れ落ち三階の母屋の方わ何事も無かつた。あづま屋が道もせに散つて來るのだから一驚の外わ無い。今囘の强震で相州鵠沼某別莊のあづま屋が屋根を地にし、四柱を空に向けて眞ッ倒樣に直立したのと好一對の秀逸である。

(「地震ごよみ」矢田 插雲 著、「地から出る月」 大正13年・1924年 東光閣書店 所収 230〜231ページ、插雲独自の仮名遣いについては「凡例」参照のこと)


矢田 插雲がここで主題にしているのは幕末の江戸での震災の様子で、団子坂付近の店の倒壊の様子を関東大震災での鵠沼の東屋のそれと比較しようとしている文章です。插雲自身が関東大震災で被災した際には、「女の鳥打帽󠄁」(1ページ)の記述から東京・大森の自宅にいたことがわかりますので、鵠沼の状況については插雲自身が後日現地を訪れて見ていない限りは、伝聞であることになります。插雲の震災後の行動について記した資料も探してみましたが、見つかりませんでした。


ですので、鵠沼の東屋の建物が原型を留めたまま180度転倒したとするこの記述を、字義通りに受け取って良いものかは別途資料を探し出して検証する必要は残っています。とは言え、この記述の通りならば、東屋のこの建屋は強震に耐えつつも土台の脆弱さ故に転倒したことになりますので、新潟地震で転倒した鉄筋コンクリート造の団地の様に液状化現象の影響を受けた可能性が出てきます(他の要因でバランスを失って転倒した可能性もあります)。なお、東屋が関東大震災の際に具体的にどの様な被害を受けたかを仔細に書き残した資料も見つかっていません。

何れにせよ、鵠沼の液状化現象について震災直後にまとまった調査が行われていれば、震災関連の報告書に「鵠沼」の地名が登場する機会は、更に増えていた筈と思われます。



鵠沼に数多くの文化人が滞在したり在住したりしていたことは既に触れましたが、その文化人の中に芥川 龍之介も含まれています。彼の短編小説「蜃気楼」の中でも「鵠沼」や「東屋」(小説中では「東家」)の名が登場しますし、随筆「鵠沼雑記」では鵠沼滞在中の龍之介の身辺が描かれています。また、「悠々荘」ではこれらの地名は出て来ませんが、末尾に「(大正十五年十月二十六日・鵠沼)」とやはり鵠沼での作品であることが記されています。(この節のみリンク先は「青空文庫」)。

鵠沼郷土資料展示室 運営委員の渡部 瞭氏による芥川龍之介の年譜によれば、龍之介が鵠沼を最初に訪れるのは明治43年のことでしたが、大正3年(1914年)に後に妻となる文の親戚の別荘を訪ねて以降、鵠沼へはしばしば足を運んでいます。しかし、上記の3作品が執筆されたのは龍之介が自ら命を断つ昭和2年(1927年)の前年の大正15年以降のことで、何れも当時龍之介が苦しんでいた精神状態が反映された作品になっています。

大正15年以降に龍之介が滞在したのは東屋ですが、関東大震災で東屋も全ての建物が損壊する被害を受けたものの、早期に再建されて龍之介が訪れるまでにはその痕跡はなくなっていた様です。この頃はまだ迅速に経営再開出来るだけの良好な経営状態を保っていた様です。但し、東屋の再建に関する詳細な記録も現在見つかっていません。

「デジタルコレクション」上でヒットした芥川龍之介の著書では一部にルビがあり、「鵠沼」には何れも「くげぬま」と振られています。これまで見てきた様に龍之介が最初に鵠沼に訪問した明治43年までには既に「くげぬま」の読みが定着していますから、これも当然のことではあります。妻・文の実家山本家も本家は東京にありましたから、元から鵠沼に関係があった訳ではなく、龍之介や山本家が鵠沼の「よみ」が「くぐいぬま」からの転訛であることを知っていたかどうかは定かではありません。

  • 「芥川龍之介全集 第4巻※」昭和2年・1927年 岩波書店:
  • 「芥川龍之介全集 第5巻※」昭和3年・1928年 岩波書店:
    • 」(末尾に「鵠沼(くげぬま)にて淨書(じやうしよ)」)
    • 鵠沼雜記
    • 晚春賣文日記」(5/2、5/4に妻の鵠沼行きの記録)
  • 「芥川龍之介全集 第7巻※」昭和3年・1928年 岩波書店(書翰集):

また、「デジタルコレクション」上では龍之介が鵠沼で詠んだ俳句3句短歌1首がヒットします(どちらも「梅・馬・鶯 : 芥川竜之介随筆集※」大正15年 新潮社。なお、後年の「龍之介全集 第5巻」にも掲載)。特に「鵠沼/春雨はふりやまなくに濱芝の雫ぞ見ゆるねてはをれども」の短歌は、「浜芝」と龍之介が見立てた植物に鵠沼の砂丘や湿地の自然景観を見出して詠んだのかも知れません。

但し、「浜芝」とは「シバナ」の別称とされていますが、神奈川県内では

シバナ Triglochin asiatica

河口や内湾などの塩湿地に生える.北海道,本州,四国,九州;北半球の温帯に広く分布する.県内ではかつて横浜の平沼が干潟だったころの標本が残されているが,1915年(大正4年)に埋め立てにより絶滅した(牧野 1917 植研 1:154).『箱根目58』に芦ノ湖とあるがこの標本は確認していない.『神RDB95』によると1980年ごろに一時的に川崎市川崎区東扇島に生じたことがあるという.『神RDB06』では絶滅と判定された.北海道や東北地方を除いて産地,個体数ともに少なく,『国RDB15』では絶滅危惧Ⅱ類にされた.

(「神奈川県植物誌 2018 電子版神奈川県植物誌調査会編 2018年 神奈川県植物誌調査会 265ページ ※印刷版とはページ番号が異なる)

とされています。龍之介自身が「浜芝=シバナ」と見立てたか、もしくは彼が東屋の従業員など地元の人に訊いて「浜芝」という名を得たのかは定かではありませんが、何れにしてもその植物は別の種の植物だった可能性が少なくありません。これがもし本当に「浜芝=シバナ」だったとすれば、神奈川県下でのシバナの貴重な記録ということになり、龍之介の宿泊した東屋の庭園がシバナの生息できる塩湿地だったことになるのですが、相模湾岸での観察事例が報告されていないことから、その可能性はかなり乏しいと言わざるを得ないでしょう。

何れにしても、龍之介が滞在した東屋は昭和14年(1939年)9月に廃業します。関東大震災の被災から迅速に再建してから僅か16年足らずしか経っていないことになります。廃業の理由について、当時の経営者だった長谷川 欽一氏は自らの「経営の不向き」さを挙げていますが(「私の鵠沼」1990年 「鵠沼」第55号所収)、前々年の日中戦争開戦に端を発する戦時色を強める世相、昭和4年(1929年)の小田急江ノ島線の開通など交通の利便性向上に伴う鵠沼海水浴場の位置付けの変化などを考えれば、鵠沼の位置付けも東屋開業の頃とは少なからず変貌を遂げていたことは確かでしょう。

その点で、龍之介が「悠々荘」で描写した鵠沼の人気のない洋館の姿は、後知恵とは言え何やら鵠沼の将来を予感していたかの様にも私には読めてしまいます。鵠沼を訪れた一連の文化人の中で、龍之介の存在は1つの時代の終わりの象徴となっていると言えるでしょう。

2.5. 鼻母音の問題


さて、今回「デジタルコレクション」上でヒットした資料を点検していく中で、「よみ」の問題に関連して気になる記述を見つけました。

一、鼻音を含むもの。

  • エンニン(延引)
  • ゼンナク(善惡)
  • サンミャク(山脈)
  • ナガサキ(長崎)
  • クギヌキ(釘抜)
  • コグスリ(粉薬)
  • クゲヌマ(鵠沼)
  • ビンゴカッパ(備後合羽)
  • の類

(「国文朗読法」日下部 重太郎 著 大正2年・1913年 丁未出版社 62ページ)


この記述は「第三節 發音練習の事」中「◯父音を主とする練習」の項目の1つに挙げられたものです。「鼻音」は発音の際に鼻に呼気が抜ける状態になる音を指しますが、挙げられている例のうち「ナガサキ」より後は「ガギグゲゴ」つまり「ガ行鼻濁音」の発音を指しています。この発音が「/ŋaŋiŋuŋeŋo/」の様になるべきと指摘していることになります。

「ガ行鼻濁音」の有無は現在は地域差があり、基本的には東日本から中京にかけての地域で使われる発音ですが、東京や大阪では西日本からの移住者の多さなどもあって「ガ行鼻濁音」を使う人と使わない人が混在していると認識されています(「明解日本語アクセント辞典 第二版」金田一春彦監修・秋永一枝編 1981年 三省堂 裏見返し図による)。その点では、長崎を含む九州は鼻音を使わない地域に入っているので、「ナガサキ」が一覧に入っているのは現地での発音の実態に合わないことになります。

しかしながら、日下部 重太郎はこの著書の「まへがき」で「今後は東京語を我が國の標準語として全國にひろめるため、學校では勿論、一般の読書界でも、口語文朗讀の風が盛に行はれることを望まねばならぬ。」(2ページ)と明確に宣言しています。つまり、この著者は他の地方でも東京地方のガ行鼻濁音を使う方向で統一されるべきで、九州では「ガ行鼻濁音」が使われていない実情を関知していなかったか、知っていたとしても改められるべきと考えていたことになります。

その点では、出版当時に鵠沼の現地で「/kuŋenuma/」と発音されていたことを、日下部 重太郎のこの記述を根拠に断定することは出来ません。しかし、後年の研究で鵠沼一帯も東京地方と同じ鼻音を使う地域と見做されているおり、その傾向が一朝一夕に変化していたとは考えにくいので、恐らくはこの頃もガ行鼻濁音を用いて発音されていたと考えられます。

同様の記述は、もう少し時代が下った頃の「現代読方教育の動向と実践※」(橘 正薫 編 昭和10年・1935年 東宛書房)でも見られます。

鼻音となる場合は助詞の「ガ」の他

  • ニゲタ
  • ナゲル
  • ヒゲ
  • キゲン
  • クゲヌマ
  • コゲル
  • サゲル

等何れも他の音の下につく場合は鼻音である。

(207ページ)


これらの資料の記述が当時のいわゆる「標準語」制定の流れに呼応して生み出されたものであることは間違いないところでしょう。その是非はさて置くとして、そうなると1点辻褄が合わない様に見える課題が浮き上がってきます。

前回見た通り、大正年間に入って辞書の「鵠沼」の項目の中では「くげぬま」が「くぐいぬま」の「転訛」であることが知られる様になっていました。実際、「鵠」の訓読みとしては「くい」「くぐい」等が知られているのに対して「くげ」を挙げるものは見掛けません。「くげ」は飽くまでも「鵠沼」という地名でのみ現れる「標準的」とは言えない「よみ」であるにも拘わらず、上記の2著者は何れもその点には気付いていない様に見受けられます。

地名に関してはその「よみ」が「標準的」なものではない場合でも容認されると考えていたのか、その辺りの考え方については定かではありませんが、「転訛」であることが既に知られていた「よみ」を「標準語」の朗読の訓練の例として挙げている矛盾に気付けないほどに、「くげぬま」という「よみ」が日本国内で周知のものとなっていたことを示す1つの例と言えるのかも知れません。



3. まとめ


「鵠沼」の「よみ」の変遷を「デジタルコレクション」の検索結果から追うという、比較的シンプルな課題の割には、随分と時間を要し、話が膨らんでしまいました。最初にこの件について調べ始めたのは今年の2月頃でしたので、この最後の記事をアップするまでかれこれ8ヶ月ほども掛かったことになります。

こうなってしまったのも、「デジタルコレクション」上でヒットした資料が件数が多いだけではなく多岐に亘ったために、それらの資料の多彩さに多少なりとも触れる必要があると考えたからです。これでも触れられなかった話題が少なくなく、鵠沼に在住した政治家たちを揶揄する文脈で「鵠沼」の地名が引き合いに出されたり、鵠沼を含む一帯で軍事教練が行われた記録が出て来たりといった興味深い例も見つかったのですが、「よみ」が記されている資料が殆どないために触れる機会がありませんでした。


ただ、これまでは「デジタルコレクション」に限らず図書館の検索システムが飽くまでも資料を探し出すためのものでしかなかったものが、今回全文検索機能を備えたことによって分野を限定しない数多くの資料をまとめて探し出すことが出来る様になった結果、その件数を集計して統計的な分析を行うという使い方が出来る様になった点が大きいと思います。今回はそれが上手く機能した例になったと言えます。

但し、現時点では「デジタルコレクション」のOCRの精度がまだ十分ではないため、今回はヒット件数をそのまま鵜呑みにせずに個々の資料を一通り確認せざるを得なくなりました。その件数は膨大ではありましたが、それでも資料の該当箇所へのリンクをクリックすれば内容の確認が行えるのは大きな前進です。この様な作業は全文検索機能が無ければ書架上の全ての本を片っ端から閲覧して廻ることになり、個人では到底無理なことでした。

また、国立国会図書館は日本の歴代の出版物のかなりの部分を蔵書しているとは考えられるものの、それが日本国内の出版物の「すべて」ではない点、更には出版物「以外」の資料が必ずしも網羅されていない点にも注意が必要です。今回は「くげぬま」という読みが定着した時期が明治29年頃とある程度見極められる程度には資料を見つけることが出来ましたが、更なる資料が他に見つかればこの年代ももう少し遡る可能性は残っていますし、役所などが公的に「くぐいぬま」を「くげぬま」に切り替えた時期については、国立国会図書館が対象としない資料を更に探る必要があると考えています。

「鵠沼」の場合は海水浴場開場に端を発する開発・発展の経緯と、もう1つ近代的な出版文化の発展が上手く合わさったことによって、その推移が見えやすい形で資料の間に現れて来る環境があったと思います。その点で、地名の変遷についてこの様な手法が何時でも有効に使えるわけでは必ずしもないでしょう。ただ、今回の記事の中では「液状化現象」の用語の初出を探し出す際にも「デジタルコレクション」の全文検索機能を活用しましたし、全文検索機能によって用語の初出や変遷の時期を絞り込む必要がある際にはかなり有効に使える機会は多いと思います。

「デジタルコレクション」の全文検索機能を使ってみる記事は今回でひとまず終わりとしますが、今後の調査では大いに使っていくことになるのは言うまでもありません。
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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑶)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索を使って、「鵠沼」の「よみ」の変遷をと見てきました。今回も引き続き、「鵠沼」の「よみ」の変遷について「デジタルコレクション」から読み取れることを書き連ねてみたいと思います。


2.3. 明治30年代〜大正年間初期の傾向


以下の記事では、前々回掲出した検索結果の集計一覧を適宜参照下さい。

この頃になると「鵠沼」の名が登場する出版物の点数が飛躍的に増えてきます。それと共に「よみ」を「くげぬま」と記す資料の比率が大幅に上がってきます。一方で、「くくいぬま」系の「よみ」や、それ以外の誤植や誤謬の可能性が高いものの件数には大きな変動が見られません。こうした検索結果の件数の変化から見て、基本的には「くげぬま」の「よみ」が世間的に定着したのはこの時期と考えるべきでしょう。

流石にこの件数になると全てをここで紹介する訳には行きませんので、どの様な傾向が読み取れるかを幾つかサンプルとして取り上げながら紹介することとします。

「くげぬま」が定着した理由のうちには勿論、鵠沼が別荘地、更には高級住宅地として世間に認知されてきたことが関連あるでしょう。当初は鵠沼を含む湘南一帯に、温暖な紀行を見込んで保養施設が造られたこともあり、病を得て転地療養に訪れる人が目についていました。その中には斎藤 緑雨の様な文筆家も含まれており、「デジタルコレクション」でヒットした資料中にもその著作や関係者による記録なども散見されます。

鵠沼(くげぬま)よりしたるわが手柬(しゅかん)の一(せつ)を、(しも)抄記(せうき)すべし。…

(「長者短者」明治35年・1902年、「緑雨全集 : 縮刷※」斎藤 緑雨 著 大正11年・1922年 博文館 所収 719ページ)

君が痩のわれにまされる春の朝とりて別るゝ手と手の寒さ(くげぬまに綠雨君を訪ひて

(「むらさき」与謝野 寛 著 明治34年・1901年 東京新詩社 16ページ)


しかし、鵠沼はやがて政界や財界の有力者や文化人が居を構える地へと変わっていきます。それに伴っていわゆる「紳士録」の様な名簿類での住所としての「鵠沼」の登場回数が増えていきます。実際、「デジタルコレクション」上でヒットした資料のうち、かなりの点数をこうした名簿類が占めています。但し、これらの多くは地名にルビを振らないケースが多く、こうした資料で地名の「よみ」を知ることが出来るケースは稀です。珍しい例として「横浜繁昌記 : 附・神奈川県紳士録」(横浜新報社著作部 編 明治36年・1903年 横浜新報社)では前半に横浜周辺の名所案内が掲載されている中に「鵠沼」や周辺地の紹介があり、それらには「くげぬま」のルビが付されています。しかし、末尾の紳士録では「鵠沼村」をはじめとする地名にルビは付されていません。

一方、前回紹介した通り明治19年に開場した鵠沼海水浴場は日本の主要な海水浴場として定着し、多くの海水浴客を集める様になります。また、明治35年(1902年)には江ノ電も開業し、東京からの交通の便が更に向上します。その様な状況に相俟って、当時の観光案内や衛生案内書の類でも鵠沼海水浴場を紹介するものが数多く見られる様になります。

鵠沼(くげぬま)海水浴  藤澤停車塲より半里余海波静かに潮水淸く風光亦江の島に讓らず故に婦人小兒の浴塲に適す旅館には鵠沼館、待潮館あり宿料甚だ廉なり

(「通俗衛生顧問」岡崎 亀彦 編 明治35年・1902年 築地印刷所 52ページ)

鵠沼海水浴塲  江の島と相對(あひたい)し、大磯(おほいそ)に至る海岸(かいがん)なる鵠沼(くげぬま)は、西南に豆相(づそう)連山(れんざん)相對(あひたい)し、海氣(かいき)淸涼(せいりやう)なれば、海水浴塲に適當(てきたう)す。東屋(あづまや)鵠沼館(くげぬまくわん)待潮館(たいちやうくわん)、三井樓等の旅館(りよくわん)あり、宿泊料(しゆくはくれう)比較的(ひかくてき)(れん)なり。此地藤澤驛(ふぢさはえき)を去る二十町、電車(でんしや)の便あり。江の島よりは渡船(とせん)便(べん)あり。

(「日本漫遊案内 上巻」坪谷善四郎 編 明治36年・1903年 博文館)



それに伴って、これらの資料にありがちだった間違いと言わざるを得ない「よみ」の例も明治30年代にはまだ多少見られるものの、時代が下るといわゆる「誤植」に属するものが増え、現地を訪れることなく編集を行ったと疑念を抱かせる様なものが減ってきます。当時は活版印刷ですから、例えば

飄吉(へうきち)――やあ、(きみ)は、鵠沼(くげぬさ)()()たんだね。

(「少年膝栗毛」黒田 湖山 著 大正2年・1913年 博文館 186ページ)

と1文字だけ違っている様なケースは単なる誤植と見られ、実際同書の別の場所では「飄吉(へうきち)――…走太君(そうたくん)()てば鵠沼(くげぬま)()、」(190ページ)の様に正しく表記されています。この資料の場合は他が合っていますので「くげぬま」の方に計数しましたが、

(すこ)(とほ)くなりますが片瀨(かたせ)鵠沼(くげぬた)あたりで小松原(こまつばち)(うち)()ころんで雲雀(ひばり)(こゑ)をきいたこともあります。

(「婦人週報 第貳卷 第五號※」大正5年・1916年 婦人週報社 6ページ)

の様に資料中に誤植1件のみが出現するケースは「その他」に計数しましたので、その分取材不足を疑わざるを得ない様な事例は減っていることになります。それだけ「くげぬま」の「よみ」が世間に浸透してきた傍証とも言えます。

また、次の例は鵠沼を訪れた外国人が書き記した文章で、ここでは「Kugenuma」とローマ字で「よみ」が記録されています。

避暑として目下は有名になり貴紳の別莊が數多建てられました相州鵠沼は、私が最初參りました頃に宿屋が一軒しかなく、從て日本人も杖を曳くもの少なく誠に寂しい地でした、…

Kugenuma, a little village in Sōshū, is now a well-known place, boasting its many inns and villas of the wealthy; but when I first went there it was a extremely quiet and lonely (sea-side) resort. There was only one inn there, frequented by very few travelers, and the whole place had a solitary look.

(「外国紳士滑稽実話」エフ・ダブリュー・イーストレーキ(Frederick Warrington Eastlake) 著 明治36年・1903年 金刺書店 65〜67ページ)

この様な文章も、「鵠沼」の「よみ」が外部から流入する人々には最初から「くげぬま」として受け入れられていたことを支持するものになっています。この文章はまた、鵠沼が海水浴場や別荘地として開発されてから外部からの流入者の増加までの間に多少の時間が必要だったことを証言するものにもなっています。

こうした人々の定着や往来が増えてきたことが背景となって、文学作品の中で「鵠沼」が登場する機会が増えてきます。特に当時の小説の中に鵠沼を舞台とするものが多数見られます。


因みに、明治30年代頃から小説などの文芸作品の出版物では、数詞など一部の例外を除いてほぼ全ての漢字に逐一ルビを振ることが増えてきます。その結果、個々の地名にも都度ルビが付されることになり、当時の地名の「よみ」の確認には有力な存在になっていきます。

松村(まつむら)には是非(ぜひ)ゆつくり()ひたいが、松村(まつむら)近邊(きんへん)(おそ)ろしい(もの)一人(ひとり)ついて()る(であらふと(ぼく)(おも)つた、(しか)松村(まつむら)には(あえ)(その)有無(うむ)()はなかつた)(うへ)に、(ぼく)明治(めいぢ)評論(へうろん)()めに夏期(かき)附錄(ふろく)編輯(へんしう)手傳(てつだひ)をして()たので、三()にあけず鵠沼(くげぬま)松村(まつむら)()つたのは鵠沼(くげぬま)であつた)から今日(けふ)()明日(あす)()いと()()(こと)松村(まつむら)催促狀(さいそくじやう)にも、曖昧(あいまい)返事(へんじ)ばかりして()たが…

(「思出の記」徳富 蘆花 (健次郎) 著 明治34年・1901年 民友社 430ページ)

いたつきは おこたりぬれど/()のやせの まだしるき()の/この(ころ)を なぐさめばやと/鵠沼(くげぬま)に いざなひゆけば/あまつ(そら) (くま)なく()れて/朝凪(あさなぎ)に (うみ)はしづけし…

(「うた日記」森 鷗外 著 明治40年・1907年 春陽堂 466ページ)

(きやう)さんは廂髪(ひさしがみ)黑縮緬(くろ)のお羽織(はおり)、こぼれ()緋縮緬(ひぢりめん)(ふり)(なま)めかしく、流石(さすが)鵠沼(くげぬま)美人(びじん)(おと)にきこえた煙󠄁草(たばこ)()看板娘(かんばんむすめ)

(「スヰートホーム」内藤 千代子 著 明44年・1911年 博文館 38ページ)

江の島に遊びて岩本樓にやどりける時

くげぬまの燈火みえてくれそむる江の島凉しいざ一夜ねん

(「大和田建樹歌集 : 一名・待宵舎歌集」大和田 建樹 著 明治44年・1911年 待宵会 183ページ)


その他枚挙に暇がないほどの文学作品が「デジタルコレクション」上で見つかります。これらはまた、別荘地・保養地としての鵠沼の風景や、そこに集うようになった人々の諸相を窺わせてくれる側面も持っています。


他方、公共の出版物でルビが振られているケースは非常に珍しく、特に「鵠沼」の地名の出現する頻度がそれなりに高い「官報」では殆ど「よみ」を見出すことは出来ませんでした。そういう中で例外的にルビが見られたのは、明治39年(1906年)3月23日の「第六八一六號」に掲出された郵便局設置に関する告示です。郵便局設置の告示で必ずしも常にルビがある訳ではないので、この時に限ってルビが付された理由は定かではありません。

逓信省告示第九十七號

本日ヨリ左記三等郵便局ヲ設置ス但郵便物集配事務ヲ取扱ハス

鵠沼(クゲヌマ)郵便局 神奈川県高座郡鵠沼村

(14ページ)

こうした事例が極めて少ないため、公的機関が何時頃から「くげぬま」を正式に使う様になったのかを確定することは出来ませんが、この官報の事例から、少なくとも明治39年頃までには公的機関でも「くぐいぬま」ではなく「くげぬま」を「鵠沼」の「よみ」として使用する様になっていたことになります。

また、「高座郡地誌」(川上 安二郎編 明治40年・1907年 廣文堂川上書籍店)では

鐵道ハ鎌倉郡ヨリ來リ、本郡藤澤ニ入リ鵠沼(クゲヌマ)、明治、茅ヶ崎、鶴嶺ノ諸村ヲ()テ中郡平塚(ヒラツカ)ニ達ス、是レ即チ東海道線路ニシテ明治二拾年六月ノ布設(フセツ)ニカヽル、

(3ページ)

と「クゲヌマ」の「よみ」が採用されています。編者兼発行者の川上 安二郎は奥付によれば藤沢の人であり、地元で書店を営んでいた様です。「藤沢市史資料 第30集※」(藤沢市教育委員会 編 1986年 藤沢市教育委員会)によれば、鵠沼の賀来神社の社殿階段据柱を明治36年に奉納した藤沢大坂町の有志者の名前中に、「川上 安二郎」が含まれています。そういう人物が藤沢町の隣接地である「鵠沼」の「よみ」を「クゲヌマ」と記していることからも、この時点で既に地元の人々にも「くげぬま」の「よみ」が広まっていたことが窺えます。

こうして「くげぬま」という「よみ」が定着していく中、これまで制作されてきた「新旧対照市町村一覧」では明治36年版(1903年)に「ク々イヌマ」の「よみ」が記されているのを最後に、「くくいぬま」系の「よみ」を記した対照表がなくなります。この数年後に鵠沼村が藤沢町に吸収される格好で合併し、以降は藤沢町の大字の1つとして「鵠沼」が登場することになったこともその原因の1つではありますが、明治28年頃には既に「くげぬま」が定着し始めていたことを考えると、この様な資料の改訂に際して「よみ」の部分までタイムリーに更新されていたかどうかは疑問が残ります。

その様な中で、この時期以降「くくいぬま」系の「よみ」が記されている資料の多くを占める様になるのが、辞典の類です。

書名編著者出版年出版社「鵠沼」の項の記述
実用帝国地名辞典大西 林五郎
  • 1901
  • 増補版2版:
    1903
吉川 半七 他くぐいぬま 鵠沼村 相模―高座
帝国地名大辞典富本 時次郎1902~3又間精華堂
  • 第1卷鵠沼(クヾヒヌマ) 神奈川縣相摸國髙座(カウザ)郡にあり、村役塲を本村に置けり、
  • 第4卷鵠沼(ク々ヒヌマ)海水浴(カイスヰヨク) 神奈川縣 相摸國高座郡鵠沼(ク々ヒヌマ)村の海濱に在り、…
難訓辞典井上 頼圀, 高山 昇, 莵田 茂丸 合編
  • 1907
  • 2版:1933
啓成社鵠沼 クグヒヌマ 地名。相模國高座郡――村。
大日本地名辞書吉田 東伍
  • 二巻・再版:
    1907
  • 1922~3
  • 1937
冨山房中巻※:鵠沼(クグヒヌマ) 今鵠沼村と云ふ、引地川と片瀨川の間にして、藤澤驛の南二十餘町、海濱の沙丘の間に在り、…(鵠は白鳥の古名、クグヒなり、方俗訛りてクゲヌマと唱ふ)…
日本百科大辞典三省堂編輯所 編1908~19(該当巻は1910)大日本百科辞典完成会第參巻※:くげぬま(鵠沼) 神奈川縣相模國高座郡の海岸に在る海水浴場。正しくは「くぐひぬま」といふ。
帝國地名辭典太田 爲三郎 編1912三省堂上卷クグイヌマ(鵠沼) 【神奈川】相模國高座(コウザ)鵠沼(クゲヌマ)」を見よ
クゲヌマ(鵠沼) 【神奈川】相模國高座(コウザ)郡に在りし村。明治四十一年藤澤町に合す。…鵠はクグヒと訓むを正しとす。今誤󠄁りてクゲヌマと呼ぶ。
言泉:日本大辭典落合 直文
  • 改修版:
    1921~22
  • 1927~28
大倉書店くぐひぬま 鵠沼【名】〔地〕くげぬま(鵠沼)を見よ。
くげぬま 鵠沼【名】〔地〕『くぐひぬま(鵠沼)の訛』相模國高座(カウザ)郡藤澤町の大字。…
※初版の「ことばの泉 : 日本大辞典」(1898年)には「鵠沼」に関する項目なし。
※索引の記述は省略

これらの辞書では何れも「くくいぬま」系の「よみ」で項目が立てられるか、「くくいぬま」系の「よみ」が「くげぬま」へ転訛したことが説明されていることがわかります。「難訓辞典」と「大日本地名辞書」が刊行された1907年、つまり明治40年が転訛についての記述が追加される1つの境になっている様にも見えますが、その間に具体的な契機が何か存在したのかは今のところ確認できていません。ただ、それまでは文献に見られる「くくいぬま」系の読みを飽くまでも「正」とする姿勢だったものが、この年以降に刊行される辞書類では実情を追認する様になったことは確かでしょう。

一方、旅行案内で「くくいぬま」系の「よみ」について記したものは、今回「デジタルコレクション」上では次の1件のみしか見つかりませんでした。

鵠沼と砥上ヶ原 停車場(ていしやば)より(しばら)(すゝ)めば、線路(せんろ)左側(ひだりがは)沿()ひて人家(じんか)三々五五點在(てんざい)せり、此邊(このへん)を一(たい)鵠沼(くげぬま)といふ、(いにしへ)はクグヒヌマといひしが、(なま)りてクゲヌマと()ぶに(いた)れり、

(「東海道旅の友車窓の名勝観」神谷 市郎 (有終) 編 明治42年・1909年 博文館 26ページ)

「大日本地名辞典」よりは2年ほど後の刊行になりますので、この編者が辞典から探し出してきて改めて記述したものかも知れませんが、そもそも「よみ」の変遷について触れていない案内書が大半を占めていた中で、この様な知見を見つけ出してきただけでもかなり珍しい存在であったのは確かです。

またこの頃に記された紀行文でも、「くくいぬま」系の「よみ」を掲げたものは次の1点のみでした。

鵠沼こはくゝひぬまの略稱鵞鳥のごとく白き大鳥なり村は藤澤停車塲をさること凡そ十八町ばかり…

(「明治三十六年一月 神奈川縣見聞錄」[李家 隆彦 著] 1903年 長島 格 70ページ)

著者は奥付に明記がありませんが序文から判断しました。「略称」と記した意図はわかりませんが、既に江ノ電が開業していたことは江の島について記している箇所に記述が見えますので、鵠沼駅などの呼称から「くげぬま」と呼ばれていることは察知している筈と見られます。そうであれば、あるいは「転訛」の意で「略称」という言い方を用いたのかも知れません。

更に、文学作品中でも「くくいぬま」系の「よみ」が用いられているものもなかなか見当たりませんでした。前回紹介した江見水蔭の「廃船万里号」もそうした例の1つですが、詩句でも次の例を挙げられてる程度でした。

小林吉明君を相州鵠沼にとひ參らせける時

嗣滿

くゝひぬまともにはるはるおりたちてあさるや深きえにしなるらん

(「裏錦 第八卷 第九十六號※」明治33年・1900年 尚絅社 所収 「鵠沼雜詠 八月三十日」52ページ)

詩句に「くくいぬま」系の読みが詠み込まれていたのは今回検索した中ではこれが唯一でした。この中井 嗣滿が詠んだ短歌への返しとして小林 吉明が詠んだ「おり立ちてあさるえにしはの名のくゝひの首の長くあらなむ」という短歌も、「くくひぬま」の読みが前提にあって初めて成立する歌になっています。


以上の様に、この頃の資料からは「くげぬま」の定着に伴って「くくいぬま」系の「よみ」が「過去のもの」という位置付けに変わっており、実用から外れていることを読み取ることが出来ます。「くくいぬま」系の「よみ」が文学作品で殆ど用いられなかったのは、やはりそれらが執筆された頃には使われなくなっていたからと考えるのが妥当でしょう。「廃船万里号」が「くゞひぬま」を敢えて採用した理由は引き続き不明ですが、上記の短歌の例は通常は用いられなくなった呼称を敢えて友人との間で用いることで、何らかの「特別さ」を演出したかったのかも知れません。

もっとも、以前「鎌倉郡川口村郷土誌」に掲載された同地の転訛に「i」音が「e」音に変わる傾向が見られることを紹介しましたが、これが鵠沼を含む一帯の古くからの傾向であったのだとすれば、「くくいぬま」の様に表記していた時代でも実際の発音は「くげぬま」に近いもので、移住者が増える過程でその発音を写し取った「くげぬま」の方が表記でも定着していった、ということなのかも知れません。残念ながら今のところ明治初期以前に実際にどの様に発音されていたかを記した資料が見つかっていませんので、現時点ではこれも推測の域を出ません。



今回もかなり長くなってしまいましたので、続きは更に回を分けたいと思います。

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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑵)※追記あり

前回を受けて、今回も「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索で「鵠沼」の「よみ」の変遷を検討します。今回は前回の最後に掲げた「よみ」の件数分布を受けて、どの様なことが言えるかを例を挙げて考えてみます。


2. 明治〜大正年間


以下の記事では、前回掲出した検索結果の集計一覧を適宜参照下さい。

なお、前回触れ損ねましたが、今回の集計の対象は「デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」資料と「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」資料です。「国立国会図書館内限定」資料は国立国会図書館に赴かないと参照が出来ないため、今回の集計の対象に入れることは出来ませんでした。基本的には「国立国会図書館内限定」資料の件数は今回の集計対象としている出版年にはあまり多くはないため、こちらまで集計対象とした場合に大きく結果が変動する可能性は少ないと見ていますが、まだ未確認の資料はそれなりに残っているということでもあります。

2.1. 明治初期(明治元〜20年)の傾向


「デジタルコレクション」中で、明治に入って最初に「鵠沼」の「よみ」を曲がりなりにも記しているのは次の出版物です。

車田(字くるまだ) 藤澤町鵠沼(こくぬま)村入合の縄手にして凡そ三町程なり

(「箱根熱海温泉道案内」橋爪貫一 編/加藤清人 画 橋爪貫一 明治10年・1877年 13丁)


この出版物の奥付によれば、著者や画家、出版を引き受けた書店何れも東京の人であり、鵠沼の外部の人物によって記されていることになります。そうした中で記された「鵠沼」の「よみ」は「こくぬま」と、現地で実際に使われたことが確認できないものになっています。現在の様に地名の「よみ」が地方公共団体によって規定されるより以前においては、地名の「よみ」の「正誤」は容易に決することは出来ないものではあります。しかし、外部の人物によって出版物に記された地名が現地で実際に使用されている痕跡が確認できない場合は、やはり現地での確認作業を経ていない可能性を疑わざるを得ません。

因みに、「神奈川文化  第2巻第2号」※(神奈川文化研究会刊 出版年不詳)所収の「箱根溫泉と其案内書に就いて」(關 靖 著)中で、同じ橋爪貫一著の「箱根熱海温泉道案内」が明治4年刊であることを記しています。この明治4年版は参照できていないため明治10年版との差異は不明であり、「車田」の項の記述が明治4年版でどの様になっているかも未確認です。ただ、この案内書は恐らくは改定と出版を繰り返し、相応の販売実績を上げたものと思われます。なお、神奈川県立図書館にも同書の蔵書がありますが、そちらの書誌情報も明治10年になっています。


「箱根熱海温泉道案内」は基本的には江戸時代の旅行案内である「道中記」に良く見られた横に長い判型で、筆書き風ではないものの活字ではなく行書で彫られているなど、江戸時代までの出版の流儀に従っている点が特徴的な出版物です。まだこの頃は新たな活字印刷ばかりではなく、従来型の出版物と入り混じった形で書籍が流通していたことが窺えます。恐らくは出版物の内容についても江戸時代までの流儀を引き摺っていると考えられます。

明治元年から20年までで「よみ」が見られたのは上記1件のみですが、そもそもこの20年の間の国立国会図書館の蔵書自体点数が少なく、傾向を追うのは困難です。「鵠沼」が見られるもののルビが振られていない他の資料では「神奈川縣地誌略」※(川井景一 著 池田眞七 1875年)など神奈川県全域を対象に含む地誌が目立ち、包括的に神奈川県を取り上げるなどの機会がなければ「鵠沼」に注目する機会が少なかったことが窺えます。

2.2. 明治21〜30年の傾向


この頃から「鵠沼」の名が記載された資料が増え、それに伴って「よみ」が掲載された資料の点数も増えます。この頃から国立国会図書館の蔵書の点数自体も増えていますが、「鵠沼」に触れる資料の増加の理由はそれだけに留まらないと考えられます。

明治18年(1885年)に大磯に海水浴場が開場したのに続き、翌19年に鵠沼で海水浴場が開場します。こうした動きを意識してか、この頃に「鵠沼館(こうしょうかん)」(明治19年開業)や「東屋(あずまや)」(明治25年開業)等鵠沼を代表する旅館が開業し、やがて一帯の別荘地の開発へと繋がっていきます。

検索結果からはこうした動きを受けて観光案内書の類に「鵠沼」の地名が登場する機会が増えていることが窺えます。しかし、「くくいぬま」系9件、「くげぬま」系9件、その他8件とそれぞれに拮抗していることからわかる通り、この時期にはまだ「鵠沼」の「よみ」は必ずしも世間に認知されているとは言えない状況が見えています。比較的件数が少ないので、この26件は一覧として掲出します。

「くくいぬま」系「くげぬま」系その他
  • 年は和暦で統一、元号は省略。なお、明治21年=西暦1888年。
  • 資料の中には版を重ねたと考えられるもの、別の資料をほぼ転記に近い形で再出版したと見られるものなどが少なからず含まれているが、それらを1つにまとめることなく別々にカウントしている。

「くくいぬま」系の「よみ」が掲載されている資料は「新旧対照市町村一覧」が6種もあり、明治22年の第1版から幾度も版を重ねて出版され続けたことがわかります。その「著作の趣意」に市町村制の施行(明治21年)に伴って旧町村が合併したりした所が多いため、その新旧対照の便宜を図ることを目的として作成したこと、それを警察部内に留めず外部に頒布することで便宜を図ったことが記されています。当時はこうした政府の機関が作成した資料を頒布目的で出版するケースも少なからずありましたが、その様な資料に「くくいぬま」に属する「よみ」が記されたということは、こうした政府機関ではまだ従来から伝えられる「くくいぬま」に属する「よみ」が引き続いて使われていたことを意味しています。「大日本市町村名鑑」「市町村一覧」も「新旧対照市町村一覧」と基本的に同種の著作で、大半がこの種の資料で占められていることになります。

一方、それらの資料に先立って明治22年の「教育週報」という雑誌では

◯神奈川縣通信。=耕餘塾同窓會。神奈川縣高座郡羽鳥村なる同塾にては、毎年一回同窓會を開き、新舊生徒職員其他同塾に關係ある人々が會同する由なるが、去る三日第八回同窓會を鵠沼(くゞひぬま)待潮舘に開きしに、來會者八十名、野外演習ベースボール綱引等の諸遊戯あり…

(「教育週報 第一號※」教育週報社 1889年・明治22年4月20日 13ページ)

鵠沼に出来た「待潮舘」という旅館で催された同窓会の報告記事が掲載され、その「よみ」は「くゞひぬま」とされている点が注目に値します。この「待潮舘」は後に「對江館」と名を変えますが、当時まだ開業したばかりの頃に当たり、ここで「耕餘塾」の同窓会が持たれたのは、この塾が鵠沼村の隣の羽鳥村にあったことから、地元でのこうした新設旅館の動きを逸早く知り得たからでしょう。この文章は従って近隣住民の報告と考えられることから、彼らはまだ「鵠沼」の「よみ」は「くゞひぬま」であると認識していたことになります。


これらに対し、明治23年8月2日発行の「女学雑誌 第224号」に掲載された「きよめぬ庭 其十九 夏のそら」(洒落齋主人)では
さらば鎌倉(カマクラ)、かしこはよろしからず。いで()(しま)はよかんめれ、されど此所(こゝ)()あきぬ。そがもよりの鵠沼(くげぬま)、かしこもさほどのところにてはあらず。

(19ページ・合本679ページ)

と「鵠沼」の「よみ」を「くげぬま」と書き取っています。今のところ「デジタルコレクション」中で「よみ」を「くげぬま」とする資料の中では、これが最も早い出版物という位置付けになります。しかし、著者の「洒落齋主人」という人物については「デジタルコレクション」上での検索結果でもこの「女学雑誌」の連載が大半を占めており、今のところ委細が不明です。他の資料に「東京府 洒落齋主人」とあるものの、「女学雑誌」上の人物と同一である裏付けがありません。ただ、この人物の文章は何れも「戯文」と呼ぶべき内容で、問題の文章も各地の名所への旅行を画策する中で「鵠沼」が候補の1つとして挙げられる内容となっていることから、この人物と鵠沼との関係を匂わせる要素が希薄です。とすると、この「くげぬま」の「よみ」は鵠沼の外部の人間によって書き取られたもの、と考える方が良さそうです。しかし、この人物がどの様にして「くげぬま」という「よみ」を知ったかについては確認する術がありません。

以下、「くげぬま」と「よみ」が記された資料の筆者を一通り確認してみると、石川 千代松山田 美妙(びみょう)など、名前の明確なものの多くは鵠沼の外部の出身者であることがわかります。匿名と考えられる文章の場合でも、何れも外部から鵠沼へと訪れた様子を書いており、鵠沼やその近隣在住の人物の手によると考えられる文章は殆ど含まれていませんでした。

その中で「三浦郡及神奈川県地誌」を編纂した「三浦郡教育会」は奥付によれば横須賀・汐留に拠点があり、既に現在の横須賀線に当たる鉄道も開通していましたので、鵠沼からそれほど隔たっているとは言えません。そうした地で学校向けの教材として編纂された地誌に

勝地 …高坐郡ノ鵠沼(クゲヌマ)ハ、桃花ノ名所ナリ、

(7〜8折)

と記している点は、あるいはこの地誌が編纂された明治29年頃には、「くげぬま」の「よみ」が定着し始めていたことを示すものかも知れません。

また、「雪月花 第一輯」に収録された「水鞆繪(みづどもゑ)」を著した江見(えみ) 水蔭(すいいん)については、出身は岡山ですが「雪月花」が世に出た明治29年に東京・牛込から鵠沼の隣の片瀬に居を移していました(リンク先は「水蔭叢書 (名家小説文庫 ; 第7編)」所収の「自序」)。その点を考慮すると「水鞆繪」の中で

して(また)(みぎ)(はう)(まなこ)(てん)ずれば、鵠沼(くげぬま)(ちか)指呼(しこ)(あひだ)()つて、人家(じんか)點々(てん/\)(かぞ)へつべし。

(35ページ)

と「鵠沼」の「よみ」を「くげぬま」と書き取っているのは、居を移した現地で聞き取ったものである可能性が高くなります。従ってこれも「くげぬま」の「よみ」が定着してきていたことを示す資料の1つに挙げられそうです。


ところが、同じ水蔭が12年後の明治41年(1908年)の「廃船万里号」では

先刻(せんこく)大森(おほもり)停車塲(ていしやぢやう)出會(でくわ)した女優(ぢよいう)美壽江(みすえ)に、學士(がくし)(はじ)めて()うたのは、鵠沼(くゞひぬま)海水浴塲(かいすゐよくぢやう)東屋(あづまや)であつた。

(後編 129ページ)

と、「鵠沼」の「よみ」を「くゞひぬま」と書いています。上記「自序」にある通り、水蔭は明治31年には「神戸新聞」の「三面主任」に任ぜられたのに伴って神戸へと転出していますので、片瀬には2年弱しか居住していませんでした。それからかなり年数が経ってから著した新たな小説の中では、「鵠沼」の「よみ」を旧来のものに転換したことになります。

次章で後述しますが「廃船万里号」の頃には既に「鵠沼」の知名度が上がり、それと共に「くげぬま」の「よみ」も定着してきていた頃に当たります。その頃になって一般には知られていたとは言い難い「くぐいぬま」の「よみ」を敢えて採用したのは、水蔭の中でどの様な判断があってのことだったのか、今回調べた中では明らかに出来ませんでした。ただ、「水蔭叢書」中の「自序」の記述を見ると、片瀬での2年弱は水蔭にとってはあまり印象深い期間ではなかった様にも見えますので、あるいはその周辺の地域にもあまり印象がなく、後年に改めて小説で「鵠沼」の名を使う際には別の資料に当たって旧来の「よみ」を見出したのかも知れません。

※2023/08/20追記:この点については下記に追記をしました


そして、「こうのぬま」「こくぬま」「くがぬま」など、何れも鵠沼では使用されていない「よみ」を記した資料の点数は、「くげぬま」と記した資料の点数とほぼ拮抗しています。このことからは、明治20年代当時はまだ「鵠沼」が一般にはあまり知られていなかった可能性が高いと考えられます。併せてこの頃には、何かしらの資料に当たって確認を取るにも、まだその様な資料も充実していなかった時期であることは念頭に置く必要はあります。こうした中では、江戸時代にも「難読」と目されていた「鵠沼」の「よみ」は、現地に赴くか、現地の事情を良く知る人物から指摘を得ることがなければ、知る術がなかったということになるでしょう。

今回「デジタルコレクション」上で見つかった資料からは、鵠沼が海水浴場や別荘地として開発が始められた時期と、「くげぬま」という「よみ」が現れる時期にある程度の相関性があることが見えてきます。しかし、「くげぬま」が用いられる様になった経緯を窺わせる様な資料はなく、飽くまでも「よみ」の現れ方から推し量ることが出来る範囲に限られています。この時期の未見の資料を更に探してみる必要は残っています。

ここまででも既にかなり長くなってきましたので、明治31年代以降の状況については、回を改めて続けることとします。

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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑴)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索を使って、「その1」、「その2」と2本記事を書きました。それらに引き続いて、当初は今回の記事を「その3」として公開する予定だったのですが、調査すべき分量の多さから「その3」には先に「箱根の蕎麦」を題材にして出しました。しかしそれでも難航し、他の話題の記事をアップしながらこちらの記事も並行して手掛けていたのですが、結局「その3」からでも4ヶ月も遅れることになってしまいました。

今回は「鵠沼」の「よみ」の変遷を窺い知れる資料が「デジタルコレクション」上で更に見つからないかどうかを検索して確認することにしました。これについては小川泰堂(たいどう)の「四歳日録」中の地名表記について取り上げた際、泰堂自身は「くく(ぐ)いぬま」に準じた「よみ」に徹していたこと、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)でも「久々比奴末牟良(くくひぬまむら)」とその「よみ」を記していることを紹介しましたが、その時には他の史料を見つけられずに終わっていました。

そこで今回「デジタルコレクション」で「鵠沼」やその「よみ」で検索を試みたのですが、一部の検索キーでは想像以上にヒット数が多く、それらの扱いに手間取ったために、ズルズルと時間がかかる結果になってしまいました。

今回はその結果を、江戸時代以前と明治以降に分けて検討したいと思います。


1. 江戸時代以前


まず、天文20年(1551年)10月の「道者売券写」という文書が、「厚木市史」と「平塚市史」の資料編に収録されているのを見つけました。これは「伊勢神宮文庫」の「三方会合(えごう)記録」に収録されているものです。


定 永代賣渡申御道者之事

さかミ(相模)の國

あつき(厚木)かうり(郡)一圓とハ申共、其内も在所小名付申候一圓

一とむろのかう

一高森かう

一ゑひなのかう

一さまのかう

一あいきやうのかう

一はせのかう

おの野(マヽ)のかう

一なゝさわのかう

一い山のかう

一おきのかう

一とかいのかう

一岡さきのかう

一大上のかう

一すかのかう

一柳嶋のかう

くゝいぬまのかう

一吉岡のかう

天文廿年辛亥十月吉日    宮後 南倉藤次へ弘幸書判

岡本鳴子や善兵衞殿    口入 下馬所 藤二兵衞

〔読み下し〕

右、この御道者当知行相違無きもの也、然りと雖も、急用あるに依り、直銭三十五貫文、岡本鳴子屋善兵衛殿へ永代売り渡し申す処、実正明鏡なり、末代相違有るべからざるものなり、同じく天下大法の徳政ややもすれば乱れ行うとも、この道者の儀、別して申し合わす子細候間、相違すべからざるものなり、以後に違乱の儀候はば、我ら罷り出で、その裁き申すべきものなり、

(「厚木市史 中世資料編※」535〜536ページ、「平塚市史 1 (資料編 古代・中世) 本編※」では183〜185ページに同じ史料が掲載されている)


この文書がどの様な性質のものであるかについては、「厚木市史」では次の様に解説しています。

中世においても伊勢神宮への参拝は盛んであり、参拝にあたっては御師が介在し、道者の世話をして金品を得ていた。そのため道者は(しき)つまり利権として把握されていた。南倉弘幸は厚木郡の利権を三十五貫文で鳴子屋善兵衛に売り、徳政があっても権利を主張しない旨を約束したのである。なお、当時厚木という郡名は使用されておらず、おそらく遠く離れた伊勢の住人南倉弘幸が、愛甲郡と間違えたものであろう。

(537ページ)


「道者売券渡」に登場する地名
「道者売券渡」に登場する地名
(「地理院地図」上で作図したもののを
スクリーンキャプチャ)
この文書の中に「一くゝいぬまのかう」が見えており、この地名について「厚木市史」では注に「藤沢市鵠沼(くげぬま)」と断定を避ける書き方をしているのに対し、「平塚市史」では「藤沢市鵠沼」と特に疑問を挟まない書き方をしています。「厚木市史」が断定を避けた理由はわかりませんが、「くゝいぬま」が他の地名を指している可能性がないかを検証するために、この文書に挙げられている地名がどの程度の範囲に広がっているのか、地図上でプロットしてみました。

結果は右の通りです。大半の地名が相模川の本支流流域に位置しており、「くゝいぬま」と「とかい(2市史とも「砥上」かと解釈している)」の2地点が境川河口付近に位置する分布になっています(「岡さき」は金目川水系の鈴川沿い)。大筋で現在の神奈川県中部域に固まっていると言える分布ですが、この文書がこの地に在住しない人物同士での権利譲渡に関するものであることから、この範囲外に大きく外れた地域を念頭に置いている可能性は極めて低いと思われます。

そうすると、この文書が対象とする現在の神奈川県中部域内で、「くくいぬま」の様な読みになりそうな、そして遠方の住人が話題にする程度に比較的広い地域を指し示す地名があるかという問題になります。私が知る限り、その様な「よみ」になりそうな地名としては現在の「鵠沼」以外は見当たらないと思います。従って、「くゝいぬま」が現在の「鵠沼」を指し示している可能性は極めて高いと考えられます。

そうであるとすれば、この文書は「鵠沼」の「よみ」を書き残した、現時点では最古の史料である可能性がかなり高そうです。

因みに、「鵠沼」という地名を伝える最古の史料として知られているものは、現時点では「天養記」とされています。これは天養年間(1144年2月〜1145年7月)に伊勢神宮の所領となっていた大庭御厨(おおばみくりや)に関する神宮側の記録です。その中に次の様なくだりがあります。

官宣旨 ◯天養記

左辨官下伊勢大神宮司

應任先宣旨、停止源義朝濫行、且令召進犯人、且任大神宮例、祓淸致供祭勤、相模國大庭(高座郡)御厨神人寺訴申、以高座郡字鵠沼郷、恣巧謀計、今俄稱鎌倉郡内致妨間、淸原安行字新藤太䓁、打破伊介神社祝荒本田彥松頭、打損神人八人身及死門事、

天養二年二月三日

右大史中原朝臣(宗遠)(花押影)

少辨源朝臣(師能)(花押影)

(読み下し)

左弁官下す 伊勢大神宮司

まさに先の宣旨に任せ、源義朝濫行を停止し、且は犯人を召し進ましめ、且は大神宮の例に任せ、祓い清め供祭勤を致すべし、相模国大庭御厨神人等訴へ申す、高座郡字鵠沼郷をもって、ほしいままに謀計を巧らみ、今俄に鎌倉郡内と称へ妨げを致すの間、清原安行字新藤太等、伊介神社祝荒本田彦松の頭を打ち破り、神人八人の身を打ち損じ、死門に及ぶ事、

(「神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(2)」伊藤 一美著、「藤沢市文化財調査報告書第42集」藤沢市教育委員会 2007年 所収 3〜4ページから、原文は「神奈川県史 資料編1 古代・中世(1)」からの引用 資料番号778)


大庭御厨自体は元は平景正(鎌倉景正)が開墾した私領を伊勢神宮に寄進して成立した「寄進型荘園」ですが、その一角に「鵠沼郷」があったことがこの文書から読み取れます。原文は上記の通り全て漢文で書かれていますので、当然ながら当時「鵠沼」をどの様に読んでいたのかについては記載がありません。「くゝいぬま」の「よみ」が示された「道者売券写」までは400年あまりの隔たりがあります。


その他に今回の検索で新たに発見できた史料は、次の2点でした。

1つめは「神奈川県史」に掲載されていた「寬永五年十一月 羽鳥村総百姓年貢減免等訴状」という文書です。

乍恐申上候事

一当年近郷辻(堂)三ツ七分ノ取、くゝいぬま(鵠沼)四ツ壱分ノ取、大庭弐百石ノ高ニ而弐百卅(俵)と定納御座候処、羽鳥田畠共六ッ半被仰付候事めいわく仕候、其上近年(取)りを御出、役束御付くりや御させ候事めいわく申候、当年ゟ三ツ半御定被成、取そん処御座候間、けそん御引候て可被下候事、

右之段あら/\申上候、仍如件、

たつ(寛永五カ)ノ十一月七日

羽鳥村

相百姓中

ほしの作兵衛様御申上候、

(「神奈川県史 資料編8 近世5上※」807〜808ページ)



羽鳥村と鵠沼村の位置関係(「今昔マップ on the web」)
羽鳥村は鵠沼村とは引地川を挟んで西隣に位置しています。この史料では最初の項目で羽鳥村の年貢の割合が近隣の村々に比べて高いことを訴えており、その中で鵠沼村も引き合いに出されているのですが、その際に「くゝいぬま」とひらがなで表記された訳です。この訴状では引用した中でも他に「たつ(辰)」「ほしの(人名のため特定困難:星野か)」がひらがな書きになっていますが、引用しなかった中にも「さこ(雑魚)」「とうし(湯治)」「あたみ(熱海)」など、全体的にひらがな書きになっている箇所が目立ちます。恐らくはこの文書の作成者があまり漢字が得意ではなかったためにひらがなで書き留めた箇所が多いのでしょうが、結果的に「鵠沼」の「よみ」が書き留められる貴重な例となりました。

言い方を変えれば、その様な事情がなければなかなか「よみ」が文書に書き留められる例を見出すのは難しいということになりそうです。

もう1点は高橋景保(かげやす)の編纂した「地勢提要」(リンク先は「早稲田大学古典籍総合データベース」)中の記述です。この著書がいつ頃著されたか正確なところは不明ですが、リンク先の写本には文政7年(1824年)の跋があることから、それよりは前に著されていることは確かです。同年には「風土記稿」の編纂のための調査が開始されたばかりですから、景保は「風土記稿」を参照することなく「地勢提要」を書いたことになります。因みにこの書は景保が指導した伊能忠敬の全国測量結果を元に編纂したものですので、その測量の完了よりは後に書かれていると考えられます。

「デジタルコレクション」では「古事類苑 地部4」(神宮司庁古事類苑出版事務所 編 神宮司庁刊 明治29〜大正3年)に採録された相模国の記述がヒットしましたが、念のため出典元を確認したところ、「古事類苑」には基本的にはルビも含めて採録されていることがわかりました。但し、一部に表記の異なる箇所も見えているため、以下は出典元の方から引用しました。

相摸 [高㘴郡]鵠沼(クヽイヌマ) [陶綾郡]國府(コフ)本郷 [足抦下郡]酒匂(サカハ)村 神山村 風祭(カサマツリ)村 [足抦上郡]苅野岩(カノイワ)村 [大住郡]馬入(バニウ)村 [津久井縣(ツクイケン)千木(チキ)良村

(赤枠は[]にて代用、「淘綾」「足柄」など通常とは異なる漢字が使用されている箇所も同書に従う)


この一覧が掲載されているのは「郡邑島岐一竒名異称」の中であるため、景保としてはここに掲げられた村々の名称については「難読」と見立てたということになるのでしょう。その中に「鵠沼(クヽイヌマ)」も含まれていた、ということになります。忠敬が鵠沼村を含む一帯を測量のために訪れたのは享和元年4月22日(1801年6月2日)のことでした(リンク先は鵠沼郷土資料展示室運営委員・渡部 瞭氏「鵠沼を巡る千一話」)。その記録から景保がこの地名を見出した、という流れになりそうです。

今回の「デジタルコレクション」の全文検索では新たに3件の事例を追加出来たに留まりましたが、それらは何れも「くくいぬま」に準じる「よみ」であり、「くげぬま」に準じる「よみ」を記したものを見出すことはありませんでした。因みに、試験中ながら古典籍資料の全文検索が出来る「次世代デジタルライブラリー」でも「くげぬま」「くくいぬま」等の「よみ」で同様に検索を試みていますが、古典籍資料の中にこれらの検索でヒットしたものはありませんでした。

2. 明治〜大正年間


国立国会図書館に所蔵されている蔵書の冊数という点では、どうしても近代的な出版事業が社会に広まってからの方が出版点数が多くなる関係で、明治以降の出版物の方が検索点数という点でも大きくなります。このため、今回の検索でも結果の検証の中心は明治以降の出版物ということになります。

とは言え、「デジタルコレクション」で「鵠沼」を検索すると約21,000件、「くげぬま」でも約1,300件と、ヒットする件数があまりにも膨大なため、今回は明治元年(1868年)を起点に10年刻みに大正年間を含む昭和2年(1927年)までの「よみ」の傾向を集計し、その推移を追う方法を採りました。大正年間までとしたのは、その頃までには現在の「くげぬま」の「よみ」が定着していることへの考慮です。また、基本的には出版時時点の「よみ」が採録されている可能性が高い資料でないと計数の意味がありませんが、時代が下ってしまうと過去の「よみ」の変遷を振り返る様な記述が増えてくる点でも「よみ」定着後の件数を追う意味が薄れていくと判断しました。

「デジタルコレクション」上で今回の検索を実施する際に考慮しなければならない問題の1つが、「デジタルコレクション」では「ルビ」がOCR対象として検出されていないケースが多いことです。「次世代デジタルライブラリー」でOCRの対象になった行の分布を見ても、ルビの箇所を行として正しく認識したケースが少ないことが窺えます。このため、「デジタルコレクション」上を検索する際は「鵠沼」等の漢字表記で検索を行った上で、ヒットした資料を個別に点検してルビが振られているかどうかを確認する必要があります。

もちろん、読みを本文中に取り込んで表記しているケースもありますので、そちらも別途検索しなければなりません。その場合は「くげぬま」「クゲヌマ」の様にひらがな・カタカナの両方での検索が必要になりますし、「くくいぬま」「くくひぬま」「くぐいぬま」の様に濁点や表記の揺れも一通り検索する必要があります。

そこで今回はまず、「くげぬま」「くくいぬま」等の読みでの検索を考え得る限り様々なパターンで試し、更に「鵠沼」で検索してルビなどの形で読みが示されているものを探索しました。以下はそれらの検索結果を集計したものです。参考までに出版物での登場件数の推移を併せて見られる様にする目的で「鵠沼」の検索結果の件数を併せて掲出しましたが、これでわかる通り、ルビなどの形で「よみ」が示されているものはその一部に留まっています。

年代 (10年刻み)「くくいぬま」系「くげぬま」系その他参考:「鵠沼」件数
1868~1877 (明治元~10)0016
1878~1887 (明治11~20)00012
1888~1897 (明治21~30)998140
1898~1907 (明治31~40)189211440
1908~1917 (明治41~大正6)72044748
1918~1927 (大正7~昭和2)918421348
  • それぞれひらがなとカタカナ、及びローマ字の表記を合算している。なお、「沼」については「よみ」のブレが見られないため、「鵠」の方にだけルビが振られている例についても計数の対象とした。
  • 「くくいぬま」系には「くくいぬま」「くぐいぬま」「くくひぬま」「くぐひぬま」の検索結果を合算している。因みに「デジタルコレクション」では繰り返しの「ゝ」などは自動的に直前の文字と置き換えて検索するため、結果的に「ゝ」などを使わない表記と同一件数になる。
  • 同一の資料中に「くくいぬま」系と「くげぬま」系両方が登場する場合は、両方に計数している。

「デジタルコレクション」自身のOCR精度の問題も引き続きありますし、何度か同じ検索キーを指定して検索を繰り返すと、その間に検索結果の表示順序が変わってしまうという現象も確認しましたので、計数の精度を確保するのにかなり難儀しました。上記の結果はOCRが正しく認識しなかった分も加算して調整していますので、「デジタルコレクション」にそれぞれの検索キーを指定した結果よりは多くなる傾向にあります。その調整作業自体のミスなどによって多少の誤差を含んでいる可能性が少なからずありますが、大筋での傾向はそれほど外れていないと思います。

これらの検索結果から、どの様な傾向が読み取れるかについては、長くなりますので次回に譲ります。

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「【江島道】「見取絵図」に沿って(その2) 」補遺:「アキラ」について

今回は前回の記事に続いて「七湯の枝折」の「禽獣類」の続きを書く予定だったのですが、もう少し時間が掛かりそうなので、先に別の記事の補足を簡単に記して間を稼ぐことにしました。

以前「江島道」について「江島道見取絵図」に沿って検討を重ねた際に、ラフカディオ・ハーンの「江の島行脚」(「日本瞥見記(原題:“Gilimpses of Unfamiliar Japan”)」所収、明治23年・1890年)の記述をいくつか取り上げました。その際、ハーンに同行していた「アキラ」という青年について、「何者なのか不明」と記しましたが、この「アキラ」について少しだけ新たな情報を得ましたので、その話をもとにもう少し掘り下げてみます。

原文「Glimpses of Unfamiliar Japan」中で
「アキラ」が庚申堂のことを知っていると
ハーンに告げる箇所
ここでは「My guide」と表記しているが、
日本語訳では「アキラ」と意訳している
(Googleブックスより)
ハーンは「日本瞥見記」の中ではこの青年については「Akira」としか記していません。これを受けて「全訳・小泉八雲作品集」(平井 呈一 訳 1964年 恒文社)でも「アキラ」とカタカナ書きで統一しています(一部に「My guide」などアキラのことを指す別の表記を「アキラ」と意訳した場所も含む)。フルネームも不明であった訳ですが、昨年発行された「藤沢市史ブックレット11 幕末・明治、外国人の見た藤沢」(小風 秀雅 2020年 藤沢市文書館)の中で

ガイド役の真辺晃が、庚申の堂なら藤沢村にあると教えてくれた。その庚申の堂は、本街道に面した境内の中にあった。

(上記書83ページ、強調はブログ主、なお、以下とフルネームの漢字表記が異なっているが原文ママ)

と漢字でフルネームを記していたことから、これを手掛かりに関連する資料を探してみました。

その結果、次の論文がCiNii上で公開されているのを見つけました。

ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時」永田 雄次郎(2012年2月 「人文論究」61巻4号 1~21ページ)


この論文中で、「Akira」が「真鍋晃」である根拠については次の様に紹介されています。

「テラ」とチャの叫ぶ声がして、ハーンはついに日本の寺院を横浜で目のあたりにし、石段をかけ登り、山門に歩を進める。富士山と寺院の景観の取り合わせに感激しながら、本堂に彼を招き入れた一人の若い僧侶に出会っている。後に、ハーンの松江赴任にまで同行する「アキラ」こと真鍋晃である。ハーンにとってアキラは、「とても卓越した英語を話す(exclams in excellent English)」人物として、驚きを持って迎え入れられた。東京で学んだというアキラの英語を、「少し妙なアクセントではあるが、上品な言葉を選んで使っている」ともハーンは評している。もちろん、英語を使用する民族に属し、文学に精通する者には当然備わった理解力であるが、この評価は、日本における英語教師として活躍する彼の資質の高さを示していよう。

真言宗の僧、真鍋晃こそは、ハーン来日直後、多大な影響を与えたと言ってもよい人物なのであるが、従来の研究書では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない。詳細な伝記的記述がないにしても、真鍋晃の重要な役割は、本稿で次第に明らかになれば幸いであると祈ることにしよう。

アキラは、一八九〇年(明治二三)の「千家宮司邸日記」で、「九月十三日夜、一、同日英国人ラフカジオ・ヘルン通辯人真鍋晃大社参拝候」と記されているところにより、今日、「真鍋晃」と多くの研究書で紹介される。だが、ハーンの著書では、すべて「アキラ」と記される。

(上記書3ページ、注番号省略、強調はブログ主)


この「千家宮司邸日記」については、注に示されている「へるん先生生活記」(梶谷 泰之 1998年 恒文社、1964年 松江今井書店版の再版)中に次の様に解説されています。

九月十三日夜 一、同日英国人ラフカヂオ・ヘルン通辯人真鍋 (アキラ)大社参拝候。御当館ヘモ参殿、御家宝、御書院ニテ拝見許サル。正五位殿、管長殿、御面会、茶菓ヲ饗セラル。

(千家宮司邸日記)

これは…大社の千家宮司邸の日記の記載であるが、…ハーンが初めて杵築(この町名は、大正十四年に大社と改称)の出雲大社を訪問した記録である。ハーンは着任後、二週間目、早くも出雲大社を訪問したのであった。

(上記書67ページ、ルビも同書に従う、…は中略)


つまり、出雲大社の宮司の日記にハーンとアキラが訪問した折の記録が残っていた訳です。初出が1964年ですから、既に50年以上前にアキラの氏名だけは特定できていたことになります。

ただ、上記の論文や文献でも、アキラ青年の経歴は残念ながら不明のままです。「【江島道】「見取絵図」に沿って(その2) 」では私は「アキラがそもそも何者なのかがハーンの記した文章からでは不明なので、あまり有名だったとは思えない庚申堂のことを何故アキラが知っていたのかわかりません」と書いたのですが、これだけアキラの委細が不詳なのであれば、寧ろ逆にアキラが「庚申堂」を知っていた点をアキラの人物像推定に使うべきではないか、という気がしてきました。

江島道:藤沢庚申堂
庚申堂(再掲)
江島道:藤沢庚申堂境内に並ぶ庚申塔群
境内に並ぶ庚申塔群(再掲)

藤沢宿から江の島道沿いにやや南に下った辺りに位置する「庚申堂」は、少なくとも江戸時代の江の島詣などで外部からの旅行客が訪れる様な知名度のあるお堂ではありませんでした。「新編相模国風土記稿」や「江島道見取絵図」の様に包括的な調査を行った結果作成されたものであれば「庚申堂」の記載はありますが、それとてほぼ名前だけの記録です。明治時代も半ばまで進んでハーンが「江の島行脚」で詳細に書き留めるまで、この「庚申堂」の前を通っていると思しき道中記・紀行文で「庚申堂」の名前を記したものは、私が見た限りでは見つかっていません。外部の人々にはほぼ知られていない存在だったと言って良いでしょう。

他方、藤沢宿周辺の江戸時代から明治時代の住民にとっては、「庚申堂」の名は単にこのお堂そのものを指すだけではなく、小川泰堂が「我がすむ里」(「藤沢市史料集」(2)所収)で「庚申堂あり、町の名とす、」と記す通り、お堂周辺の集落を指す「(あざな)」としても用いられていました。実際、同じ泰堂の明治6〜10年の日記である「四歳日録」(「藤沢市史料集」(22)及び(23)所収)でも「庚申堂」の名前は字として頻出します。それであれば、藤沢宿や、宿内に足繁く通う用事があったであろう周辺の村々の人々にとっては、「庚申堂」の名前はその所在地周辺を指し示すものとして周知のものになっていたでしょう。

ですから、もしアキラ自身が初めからこの藤沢宿の「庚申堂」を知っていたのであれば、彼の出身は藤沢宿内か、もしくはその周辺であった可能性が極めて高いと考えるのが妥当ということになるでしょう。

そして、「江の島行脚」の明治23年時点で青年であったアキラが、幼少の頃には廃仏毀釈運動を目の当たりにしている筈にも拘らず仏教に強く帰依した人間として書かれていることから、彼の家系も僧職かそれに近い家柄だったのではないかと推定されます。そうなると、「真鍋晃」という実名共々、アキラについての史料を探す範囲をかなり絞ることが出来るのではないかと考えられます。

但し、「江の島行脚」には脚色を意図した多少の省略があったことは以前の分析でも示しましたので、他の部分に脚色を意図した改変が全く皆無であったことを前提には出来ないと言わざるを得ません。例えば、実際はアキラが人力車の車夫たちに庚申塔をまとめて安置してある場所を知らないか問い合わせて、その結果をハーンに伝えた可能性もないとは言えません。人力車の車夫であればその性質上から一帯の地理については当然の如く熟知していた筈でしょう。それをハーンが記述をシンプルにするために、アキラが車夫とやり取りしていたことを省略して、アキラ自身が庚申堂の存在を知っていたかの様に書き改めている可能性もありそうです。となれば、上記の「藤沢宿内もしくはその周辺出身」というアキラの人物像は成立しないことになってしまいます。

とは言え、史料が極めて限定されている現状では、こうした推定に基づいて更なる史料の探索を行うことには意義があるのではないかと思います。既にこの様な推定の下で行われた調査があるのかも知れませんが、私が探した範囲では該当する調査結果を見出すことが出来ませんでした。機会があればその様なフィールドワークを試みてみたいものです。

因みに、アキラはハーンに従って松江へ赴いたあと、程なく姿を消してしまいます。その事情は詳らかではなく、具体的に辞去した日も明確にされていませんが、ハーン自身が「日本瞥見記」に記しているところでは、

一八九一年七月二十日  杵築にて

アキラはもはやわたくしの身辺にはいない。仏教雑誌の編集をするのだといって、神聖なる仏教の都、京都へ行ってしまった。——自分は神道のことは何も知らないから、出雲にいても大してお役に立つまいと、再三辞退していたのであるが、さて、いなくなられてみると、わたくしはすでに迷い子になったも同然の感がする。

(「第十一章 杵築雑記」冒頭、「全訳・小泉八雲作品集」平井 呈一 訳 1964年 恒文社 326ページ)

と、仏教に帰依する人としては神道の地では活路を見出だせないことをハーンに対して話していた様です。これについて「ラフカディオ・ハーンと石仏の美」では、ハーンとアキラの仲違い説も存在することを紹介しつつも、

時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。

(上記書10ページ)

と評しています。ハーンの通訳としての仕事が無くなって辞去した後に、東京など関東方面に戻るのではなく京都へと向かっている辺りも、ハーンの記述通りであればアキラの置かれた立ち位置などを推定する際に使うことができそうです。
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