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「春日局から稲葉正則宛の書状に見られる「雲雀」を巡って」再考

以前、春日局から稲葉正則に出された書状に見られる「雲雀」と「鮎ずし」をめぐり、主に正則の鷹狩について検討しました。この書状が出された寛永20年(1643年)には正則はまだ20歳という若さでしたが、この「雲雀」を得るためには鷹狩をしたと考えられるものの、実際に正則がこの年に鷹狩を行ったことを裏付ける史料は他に見当たらないことを指摘しました。

Kasuga no tsubone.jpg
春日局(再掲)
麟祥院所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
Inaba Masanori.jpg
稲葉正則(再掲)
稲葉神社所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons

しかし、正則がこの時点で鷹狩を行ったとすると、ある問題点に突き当たることについてはこの記事中で検討していませんでした。今回はその問題点を改めて取り上げて、この書状の持つ意味をもう一度考えてみたいと思います。

ある問題点というのは、江戸時代には基本的に鷹狩は将軍の許可なく行い得ず、そのための鷹場を拝領する必要があったことです。「江戸幕府放鷹制度の研究」(根崎 光男 2008年 吉川弘文館)では、江戸時代初期、特に寛文期の鷹場の下賜について、仙台藩伊達氏の事例を挙げて次の様に指摘しています。

慶長六年(一六〇一)九月、伊達政宗は諸大名に先駆けて家康から恩賜鷹場を下賜され、その領域は武蔵久喜地域の一〇〇余か村であった。徳川氏の関東領国に恩賜鷹場を下賜されたことは、伊達氏が徳川氏の鷹場支配権の一端を担い、上下関係として編成されたことを意味する。政宗はこの鷹場でたびたび鷹狩を行い、幕府・将軍に「鷹之鶴」をはじめとする諸鳥を献上したが、一方で大御所や将軍からは鷹や「御鷹之鶴」などを下賜された。…また、伊達氏は豊臣政権下において鷹献上大名の一人であったが、徳川政権発足後も松前氏に次ぐ鷹献上大名として位置づけられ、近世中期以降も同様であった。

政宗は寛永十三年(一六三六)五月二十四日、七十歳で死去し、忠宗が二代藩主となって遺領を継いだ。このなかで、久喜鷹場はどのように推移したのであろうか。同年十二月二日、仙台藩江戸宿老古内主膳正重広らが国元の宿老石母田大膳宗頼らに送った書状によれば、「昨日朔日御登城被成候処、久喜御鷹場御直ニ如陸奥守(伊達政宗)代被遣之由被 仰出、其上早々参候而鷹ヲモ遣可被申候由、色々御懇之上意共申も愚ニて候、箇様之御仕合、其元ニ御座候御親類衆・御一家・御一族衆、宿老衆へも、何も可被申聞之由 御意候」とあり、登城時に将軍家光より久喜鷹場を政宗のときと同じように下賜され、早々に出かけて鷹狩をするように仰せがあったことを親類・一家・一族へ申し伝えよ、との忠宗の意向があったことを報じていた。このように、忠宗には政宗時代の久喜の恩賜鷹場が下賜されたとはいえ、改めて将軍から恩賜鷹場の下賜が執行されており、そのまま世襲しえるものではなかったのである。

鷹場の下賜が属人的要素により執行されていたことは、四代藩主綱村の代になると、よりいっそう明瞭となる。万治元年(一六五八)七月十二日、忠宗が亡くなり、そのあとを継いだ綱宗が同三年に幕府から逼塞を命じられたことで、その子綱村(幼名亀千代丸)が二歳で遺領を継ぎ、四代藩主となった。寛文元年(一六六一)十月六日、幕府奏者番太田資宗は亀千代丸の後見人である伊達宗勝・田村宗良に、「亀千代殿御幼少之御事候間、久喜之御鷹場被指上可為御尤由御沙汰承候間、御老中迄一往御断被仰上可然存候、御成長之時分ハ定面亦被遣ニ而可有御座候、唯今ハ右之御断一段御尤之儀与拙者式も存事候、為御心得如是御座候」という内容の書状を送った。ここでは、亀千代丸が幼少であるため、久喜鷹場を返上せよとの幕府の「御沙汰」があったことを伝えていた。この事例では、恩賜鷹場の返上が幕府老中たちの評議により決定し、亀千代丸が成長したさいには再度下賜されるだろうとの見通しが述べられていた。幕府が藩主の幼少を理由に恩賜鷹場の返上を命じていたのは、この下賜が個人を対象としていたことを示すものであり、その人物が恩賜鷹場の下賜条件を満たしているかどうかを検討して決定していたのである。

…伊達家の事例は、寛文期でも恩賜鷹場の下賜が個人を対象としていたことが明らかである。この時期、家格の確定や幕府職制の確立という社会状況にあったことは確かだが、恩賜鷹場を下賜される対象者を家格や幕府役職という枠組みで説明することはできない。恩賜鷹場を下賜された大名の顔ぶれをみると、将軍家と血縁関係にある大名、家格の高い大名、幕府重職を務めた大名が多いとはいえ、その基準を満たした大名がすべて等しく恩賜鷹場を下賜されていたのではなく、やはり属人的要素で執行されていたといわざるをえないのである。

(114〜116ページ、以下も含め、傍注も同書に従う、注番号は省略、…は中略、強調はブログ主)


つまり、先代の藩主が拝領した鷹場は次の代に無条件に相続される性質のものではなく、特に次代が幼少の場合には一旦返上を命じられることさえあったということになります。稲葉正則が寛永11年(1634年)に家督を継いだ時点では数え年で12歳、元服したのは寛永15年(1638年)と後年のことですから、伊達氏の事例と重ねればやはり鷹場は一旦返上して幕府内で相応の実績を上げなければならなかった筈ということになります。事実、正則自身が鷹場を直々に拝領したのは老中首座に就任した寛文6年(1666年)のことでした。

更に同書では、下賜された鷹場での鷹狩は飽くまでも本人にのみ認められたものであり、本人以外は利用を認められていなかったことを細川忠興の事例を挙げて指摘(117〜118ページ)した上で、次の様に結論づけています。

恩賜鷹場の下賜は、家格を基礎としながら、原則として家に対してではなく、属人的要素により執行されていたのである。恩賜鷹場を下賜された大名の場合、それが後継者に引き継がれず、一代限りで終わっていたことが多いのは、そのことを如実に示しているといえよう。「大猷院殿御実紀附録」には「鷹場賜る事は、三家又は老臣にかぎれば」とあり、御三家は家に対して、そのほかは幕府・将軍に長年奉公した老臣に限られていたとあり、そのことを裏づけている。もちろん、これは全体的な傾向であって、この傾向から外れている事例もあり、厳密にいえば藩主に限らず、隠居した元藩主や藩主の嫡男をも対象としていたのである。…恩賜鷹場は家格を意識しながらも、徳川家および大御所・将軍との個人的な関係のなかで下賜されていたのである。

このように、恩賜鷹場の下賜儀礼は、大名の徳川将軍家への奉公に対する御恩の一環として、「慰み」や「養生」のために執行されたものであり、まさに恩賜鷹場と称しうる性格を有していたのである。この鷹場は、近世前期においては、関東ばかりでなく、畿内近国にも位置づき、公儀鷹場の一角を占めていた。その意味で、恩賜鷹場を下賜された大名らは、江戸・京都滞在時における鷹狩の場を保障されると同時に、公儀鷹場の支配権の一端を担うことになったのである。

(120〜121ページ)


これに従えば、いわゆる「御三家」以外の大名については、飽くまでも将軍との個人的な関係にあった人物にのみ鷹狩の場が保証されていたことになります。

そうなると稲葉正則の場合は、春日局からの返礼の書状が示す様に寛永20年という早期に鷹狩に臨んだと見られるのは、相当に「異例」であったと言わざるを得なくなります。更には、正則自身が自身の鷹場を拝領するまでの間に、主に御厨で鷹狩を複数回行ったことが窺える史料も以前の記事で紹介しました。もう1つ更に、正則が鷹場を拝領した後のことになるとは言え、子の正道がまだ江戸での役職を得る前から御厨へ鷹狩に行っているのも、正則には断りを入れいてるであろうにしても、本人以外に鷹狩が認められていなかった原則に照らせば外れていることになります。

こうした事情を具体的に説明できそうな史料は今のところ私は見ていませんし、どの様な説明を付けるのが適切なのかも判断しかねているのが正直なところです。ただ、確実に言えそうなのは、どの様な説明になろうとも、「御三家」に匹敵するかの様に見える厚遇が実現可能となるには、正則が3代将軍家光とは「乳兄弟」という間柄であったという事実、つまり両者の共通の乳母である春日局の存在を抜きにして語ることは不可能であろうと考えられることです。鷹狩の扱いが飽くまでも正則個人の「属人的要素」によって説明されるしかないとすれば、彼にとって特筆されるべき要素として挙げられるものは、やはり大奥を掌握し、老中をも凌ぐとさえ評価される実権を握っていた春日局との直接的な血筋ということにならざるを得ないでしょう。

以前の記事では、正則が雲雀を春日局に贈った意味を

この雲雀は正則が小田原藩主としていよいよ「独り立ち」する年齢となり、その手筈が整ったことを局に対して「報告」するのに、最良の選択肢であったと考えることが出来るのです。

と読み解きました。しかしそうであってみれば、この雲雀には、春日局抜きには正則には成し得なかったであろう地位に対する謝意が込められていたとも読み解けるのではないか、という気もしてくるのです。




南足柄市塚原の位置(Googleマップ
さて、以前の記事では「小田原市史」に掲載されていた小船村や網一色村の寛文12年(1672年)の村々の明細帳から鷹狩に関する箇所を抜粋して掲載しました。今回は「南足柄市史2 資料編 近世⑴」に掲載されている塚原村(現:南足柄市塚原)の同年の村明細帳を紹介します。この明細帳について、同書では次の様に解説しています。

この年の村明細帳は稲葉氏が領内の年貢・諸役その他の実態・旧慣を把握するために差し出させたものである。一般に◯筋◯村の表紙がついた美濃判二折のものであるが、当村のは横半帳に細字で書かれており、「村中覚書之事」を付加して宝永五年(一七〇八)以降に写書きされたものである。現存する市域の村明細帳中最も詳細な内容を持つ貴重な史料である。

(144ページより、以下も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)


実際のところ、この村明細帳は上記「南足柄市史」の127〜144ページまで、実に18ページを占めており、上下2段に100項目を超える記述が続きます。後ろに上記解説にある後年の追記が含まれているとは言え、ここまでの長さに及ぶ詳細な村明細帳は、現在の南足柄市域に限らず、旧相模国全域でもなかなか類を見ないものです。もちろん、江戸時代初期に作成されたあと明治に入るまで、この明細帳が事あるごとに参照されたり、然るべき役所などに差し出される非常に重要な資料でした。

ここまで詳細な明細帳になると、鷹狩に際して村が差し出した人足などの記述もかなり具体的になってきます。鷹狩に関する項目は次の様にかなりの数に上ります。

一御鷹匠衆御越被成候得、十月ヨリ三月迄之間寄馬又ハ人足ニ而も出申儀御座候、(130ページ下段より)

一御厨ヨリ御鷹部屋参候鳥もち壱桶宛、御厨御代官衆御配苻次第人足出シ、田古村村次仕候(131ページ下段より)

一御餌指(エサシ)方々ニ而取出シ候御鷹之餌、田古村又ハ岩原村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ(巣)鷹見分御越候節、馬壱疋宛出し村次仕侯、

一御鳥見衆御厨へ網張御越候節、馬壱弐疋宛出し上下村次仕侯、并御網之鳥切之通り申候、則田古村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ御鷹野御越候荷物附送り之人馬、上下共五六疋又ハ七八疋ほど宛出シ村次仕候、并御鷹之鳥節々通り申候、則田古村へ村次仕候、壱年中ハ上下度々之儀御座候(以上132ページ上段より)

一川村御拾分一之鳥もち、村次ニ而小田原青物町参候、此附送人馬六七疋、又ハ八九疋宛出シ田古村へ村次仕候、(133ページ上段より)

一御鷹部やヨリ和田川原筋ニ而(しぎ)網御張被成候節、御網之鳥田古村村次仕侯、

一御鷹前羽申儀御座候得、御鷹尋申人足出し申儀御座候、(以上133ページ下段より)

一御鷹部屋ヨリ鴫網張御中間衆被参、五日も十日逗留被致候得薪出シ申候、并御網之鳥田古村村次仕候、(135ページ上段より)


何れも「村次」つまり継立の用事であったことがわかります。鷹匠や配下の人々の移動もさることながら、鳥もちや獲物の鳥の運搬など、何かと鷹狩絡みの用事が発生して村民が忙しく使われていた様子が窺えます。また、鷹を使った狩だけではなく、鴫の猟には網(霞網か)が使われていたこともわかります。

また、この村明細帳には鮎に関する御用についても記載があります。

一川御奉行衆河内川筋、又ハ御厨川筋取らセ御越被成候御鮨之道具、并荷物持送人足拾五人・馬四疋宛上下出シ村次仕候、毎年夏中ハ上下度々之儀御座候、并川御奉行衆川筋御座候内ハ、間一日置御鮨箱弐箱宛通り申侯、此持人足四人宛出シ田古村へ村次仕候、自然壱箱宛参候儀も御座候、則御勘定所ヨリ明箱御(返)シ被成候間、人足弐人宛出シ怒田村又ハ関本村へ村次仕候、(132ページ下段より)

一狩川筋鮎盗申御番御足軽衆壱人宛九月ヨリ十月迄之間御付、当村居被申候、則宿薪出し申候、(135ページ上段より)


1つ目の項目には鮎ずしを作るための道具を収めた箱を持ち運ぶ人足を出したことが記されています。御厨までこれらの道具を運ばせていることから、御厨で鮎を獲って鮨を作らせていたことがわかります。春日局に贈った「鮎ずし」も、あるいは同様にして作られたものなのかも知れません。

また、2つ目の項目では酒匂川の支流である狩川に番人がついていたことが記されています。この川沿いには矢倉沢往還が並行しており、この川は藩の鮎の漁場として禁漁になっていました。この番人はその監視のために置かれたものですが、村からはその番人宛に賄いなどのための燃料である薪を差し出していたことが記されています。これも当時の小田原藩の鮎漁を巡る諸相の1つを物語る項目と言えるものです。正則が春日局に「鮎ずし」を贈った意味も、こうした藩の鮎漁の位置付けとも繋がっていると言うべきなのでしょう。
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「七湯の枝折」の「産物」:神習文庫本とつたや本の比較

今回は前回公開した「七湯の枝折」(以下「枝折」)の「神習(かんならい)文庫本」の産物一覧を受けて、「つたや本」との比較で気付いたことを挙げてみます。

その前にまず、「神習文庫本」についてもう少し掘り下げてみます。「枝折」の草稿とされるものがどうして無窮会神習文庫に収められることになったのでしょうか。「七湯の枝折」(沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会)の解説では「神習文庫本」について次の様に触れています。

従って研究というものも更になく、ようやく昭和年代に故金沢支庫長関靖博士が曙光を投ぜられたにすぎない(箱根七湯の枝折を訪ねて、神奈川文化箱根特輯号昭和十五年)。

箱根町は関博士が認定した著者浄書本を同町重要文化財に指定した、所謂「つたや本なな湯の枝折」がこれである。当時の私の解説を同町長沢教育長の許可を得て引用すると(箱根の文化財第二号昭和四十二年)―今より一五〇余年前の昔、文化八年(一八一一年)に成った「七湯の枝折」は江戸期箱根七湯の案内書中の自眉とも言うべきもので、書写本も少くない。故金沢文庫長関博士が発見された無窮会神習文庫本所蔵の一本は、これが草稿本と目されるもので、現在でも健在の由である。

(上記書3ページ、強調はブログ主)


ここで紹介されている雑誌「神奈川文化」中の関靖氏の文章から、特に「神習文庫本」について記されている箇所を拾い上げると、

この神習文庫珍藏にかゝるものは、井上賴圀博士の舊藏であつて、而かも是が著者の草稿本であることも知り得た。

前にも述べた通り同文庫の目録によると、『箱根熱海温泉名勝圖繪』、一卷附圖九本、齋藤縣麿自筆一冊九軸』と載せてあるが、之は「箱根七湯栞」を齋藤縣麿自筆の「温泉名勝圖繪」の附圖と看做した爲めの誤りであつて、實はこの一冊と九軸とは別のものである。…

然し博士の舊藏にかゝる「箱根七湯栞」は、十卷十軸の内、その第五卷の宮の下部の一軸を缺いてゐるのが遺憾であるが、その文章や繪圖が澤山に訂正されてゐる點、それを淨書する上の注意書が諸所に挿入されてゐる點、紙背に澤山の見取圖が書寫されてゐる點などから、この九軸は弄花と文牕の草稿本であることが確認され、之こそ「箱根七湯栞」中一番貴重なものであることを認めた。

每卷、首に「井上頼圀藏」「井上氏」の外に「無窮會神習文庫」の朱印が捺してある。

神習文庫にあるものが、その草稿本であることは動かない所であるが、筆者は之を淨書する場合に、その稿本通りに書寫することをせずに、書寫每に多少の新機軸を加へたり、圖柄の上にもその人物の形態やら數やらを變へて描いたものらしい。だから二つの系統の間には、その記載事項の順序や題名の變更があり、その繪圖の上にも取捨選擇された跡が見えるのである。跋文に「遊鷗」の署名が第二系に屬するものに見えるのもその結果であろう。

(「「箱根七湯栞」を訪ねて」關 靖、「神奈川文化 十二月號・箱根特輯号」神奈川縣文化研究會 所収 5、6、11ページ、「国立国会図書館デジタルコレクション」より(図書館・個人送信資料)、「…」は中略)

「神習文庫本」の旧蔵者として「井上頼圀」の名前が挙げられています。

Inoue Yorikuni.jpg
井上頼圀肖像
(不明 - 『明治肖像録』、
明治舘、1898年。
国立国会図書館
デジタルコレクション:
永続的識別子 1086063,
パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
による)
井上頼圀は天保10年(1839年)生まれの幕末から大正にかけての国学者です。この人物の蔵書が無窮会の文庫に収まるまでの経緯については次の様な証言が残っています。

同図書館(ブログ主注:無窮会図書館)の林正章氏(賴囶門人田邊勝哉の門下生)は大正四年四月半蔵門の賴囶宅から書籍を運んだ一人で、…たまたま賴囶の蔵書が売却に出たのを同人(平沼騏一郎、河村善益、秋月左都夫ら)が皇道闡明の資に供せんと無窮会を組織して、大正四年四月、三万四千九十六冊、百九十八折、二十八帖、三十六軸、九百三十四枚の蔵書を購入、平沼邸の傍らに会館及び書庫を建て、五年七月完成、賴囶の斎号をとって神習文庫と称した、と当時の模様を語られた。

(「近代文学研究叢書 第十四巻」昭和女子大学近代文学研究室 1959年 465ページより、「…」は中略)

つまり、神習文庫の母体となったのが頼圀の蔵書であった訳です。

文窓や弄花が「枝折」を著したのは文化8年(1811年)ですから、その頃には頼圀はまだ生まれていなかったことになり、後年に頼圀の手許に「枝折」の草稿が渡ったことになります。が、訂正箇所の散見される状態で明らかに草稿であることが見て取れる状態の軸物が、何故頼圀の手に渡ったのかは今のところ不明です。

「枝折」が俳諧に通じる側面を持つことについては以前分析しましたが、国学者である頼圀がその様な地誌に興味を持ったとしても不思議ではありません。実際、「近代文学研究叢書 第十四巻」には頼圀の著作の一覧が掲載されていますが、その中には自身の和歌を含め、歌人などに関する著作も複数含まれています。しかし、そこに見られる著作の表題から判断する限り、頼圀が箱根や温泉を掘り下げて研究した痕跡は見当たりません。その様な人物が、「枝折」の草稿のみを単発で買い求めたと考えるには、そこにどの様な動機があったのか測りかねる面があります。

むしろ、頼圀の蔵書が一括で買い求められて文庫の根幹になったのと同様に、頼圀が別の人物の蔵書を一括で購入した中にたまたまこの草稿が含まれていたと考えた方が自然です。となると、蔵書の全部ないし一部を、直接にせよ間接にせよ、一括で受け渡しする様な何らかの関係が文窓や弄花と頼圀の間にあった可能性があるということになります。

頼圀が収集した蔵書はその過程で火災などに遭って一部が失われていますので、最終的に神習文庫に入った蔵書がその全てという訳ではないのですが、上手くすれば、それらの蔵書の中に、現在委細が不明のままになっている文窓や弄花のプロフィールを探る手掛かりがまだ残っているかも知れないという期待も感じてしまいます。



先程の関靖氏の文章にもあった通り、「神習文庫本」から「つたや本」の清書が作られる際には、「神習文庫本」の文字を「つたや本」に一字一句書き写したのではなく、各巻の構成や記すべき内容のあらましを「神習文庫本」の上で一通りまとめた上で、改めて「つたや本」を書く際には「神習文庫本」を脇に置きつつ改めて文言を選び直しながら書いていった跡が見られます。それは「産物」の一覧でも同様であり、取り上げられた産物は1点を除き共通で、その並び順も多少の入れ替えはあるものの大筋では共通ではあるのに対し、文言は基本的には同様のことを語りつつも細部は異なる言葉に替えられています。「神習文庫本」は「つたや本」を清書する前の言わば「筆馴らし」であったと言えるのかも知れません。

草稿をそのまま清書として書き写さず、改めて文章を起こしていく様な手法で、10巻にも及ぶ大冊を短期間に仕上げてしまったことからも、文窓や弄花が「枝折」の様な地誌をかなり「書き慣れて」いたことが窺えます。この点は以前にも指摘したことがありますが、この草稿もその点を裏付ける存在と言えます。

「神習文庫本」に取り上げられた項目のうち、「つたや本」では唯一省略されたのは根府川の「飛石」です。根府川石をはじめとする足柄下郡の石については以前「新編相模国風土記稿」の足柄下郡の石に関する記述を見ていった際に取り上げました。その中でも根府川石の現在の用途の中に飛石も含まれていることを記しましたが、「神習文庫本」が項目として「飛石」と書いたのは、「枝折」が編纂された頃には既に飛石として切り出されることが多くなっていたことを示しているのかも知れません。

とは言え、箱根外輪山の麓に位置し、当時は関所も設けられていた根府川に、箱根七湯に滞在する宿泊客がわざわざ訪れたことを記す道中記や紀行文には、今のところ私はお目にかかったことはありません。「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(原 正興 天保10年・1839年)の様に熱海と箱根の両方に訪れる場合には、小田原と熱海の間で根府川を経由することにはなるものの、基本的には関所越えの地として認識されることが殆どで、「玉匣両温泉路記」でも

「道おくれたりけん」と急ぎゆくに、祢府川(ねぶかは)(根府川)村にいたる。

茶うる家にて休。光興ぬしもかごより下りて取つくろひ、御関所へ行て切手を出し通る。前後にかぶ(冠)木門有。右に番所あり。藤丸に大字の紋の幕打たり。小田原の(さと)しろしめす殿(大久保氏)よりかためさせ給ふ也。関もる人は多くも見えず。前に唐銅(からかね)鉄炮(てつぱう)五挺、台にすゑて有。百目筒と見ゆ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 145ページより、ルビも同書に従う、編者による章題は省略)

と、関越えの前に茶屋で休憩をとった以外には特に立ち寄る場所もなく先に進んでいます。

こうした状況を考えると、根府川の産物を箱根七湯の地誌に含めるのはあまりにも関連が薄過ぎます。文窓や弄花が当初根府川の「飛石」を項目として加えようとした理由は定かではありませんが、最終的に外したのは恐らくは箱根との関連の希薄さを考慮してのことでしょう。

一方、「神習文庫本」と「つたや本」の個々の記述を仔細に確認すると、その違いには単に文言を練り直しただけではない検討がなされた痕跡が散見されます。「神習文庫本」にはなく「つたや本」には見られる記述が含まれている項目を拾い出すと次の様になります。
  • 箱根草

    「茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく」

  • 一輪草図

    「此草ハ一茎一葉一花なり花形白梅のことく少しく青色ありて花ひら委ことくかゝえひらく」

  • 釣鐘躑躅

    「是も又芦湯ニ多し」

  • 湯の花

    「他國ニくらふれハ此所の湯花白甚タ白し功能硫黄ニ似て少し異なり湿瘡ニよし湯本臺の茶や辺ニて是をあまた見せ先ニひさく」

    ※「神習文庫本」の該当項目が断片的であるため、ほぼ全面的に書き足されている

  • 山梨

    「或ハ硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也」

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 68〜72ページより適宜抽出)


特に「箱根草」や「一輪草」は「神習文庫本」では見られなかった草の姿の仔細な記述が書き加えられています。あるいはこれらの草の標本が「つたや本」清書時にも引き続き手許にあり、それらを見ながら新たにこうした記述を書き足した可能性もありそうです。「神習文庫本」の翻刻を掲載している「企画展図録 七湯枝折」(箱根町郷土資料館 2004年)では絵図が省略されており、「つたや本」と絵図の比較を行うことが出来ていませんが、文章と同様に絵図も草稿を下図として使うのではなく、改めて手許の標本を見て描き直したのかも知れません。

また、「湯の花」や「山梨」の記述の増え方からは、「神習文庫本」から「つたや本」の間に文窓や弄花が更に取材してきたものが書き足された可能性が考えられます。その点で、「神習文庫本」が記されてから「つたや本」に取り掛かるまでの間には、追加の取材のために何日か措いているのかも知れません。

もっとも、「禽獣類」の項を検討した際に「神習文庫本」と「つたや本」では挙げられた禽獣類に若干の差し替えがあることを指摘しました。こうした根本に関わる記述の変更が、「䱱魚」つまり山椒魚の項に見られます。
  • 神習文庫本(103ページ):

    「男子にハ女魚を用ひ、女子にハ/男魚ヲ用ゆ、」

  • つたや本(68~69ページ)

    「但し男子にハ雄魚を用ひ女子にハ雌魚を服さしむ」


草稿と清書で、書いてあることが全く真逆になってしまっています。念のために、箱根町立郷土資料館に該当箇所が原本でこの通りになっているかを確認して戴きましたが、確かにどちらもこの通りになっているとの返答を得ました。


元よりハコネサンショウウオ自体に薬効が確認できている訳ではありませんので、「神習文庫本」と「つたや本」のどちらの記述が薬学的に「正しい」のかを確認することには意味がありません。ここで重要なのは、当時の箱根での山椒魚の利用について地元の人たちの言い伝えがどの様なものであったかという、民俗学的な検討と照らして「神習文庫本」と「つたや本」のどちらに合致するかという点です。

しかし、山椒魚の雄と雌を男女で使い分けるとする用い方について「枝折」以前に記しているものは、実際には他に見つかっていません。「枝折」と双璧を成す箱根の地誌である「東雲草」(雲州亭橘才 文政13年・1830年)でさえ、

山椒(サンシヨ)の魚と云へる薬魚あり

里人に問、湖水近辺に[扌助]す三月頃南の風大に吹す、二三人立合夜に入松明を燈し、極入谷一二リ奥山椒の木有、細川都へ尋行魚火に寄、又は木にのほり根によるを手して捕へ腰に竹筒を用意し夫へ入る事也、夜明宿へ帰り串に刺て陰干とす、二三日は死せすと也、小児むしるいにせうゆ付あふり食さしむ、功能に速也、又生うにて細末とし疧薬に用ゆ、辺へひさきあるく物、豆州辺より出るものにして真にあらす、功能大にうすしと云

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 347〜348ページより、[ ]内は字母を拾えなかったため字の構造を示す)

と、山椒魚の雄雌による用い方の違いについては触れられていません。「枝折」以降の箱根に関する記述の場合、「枝折」自体を参照している可能性が少なくないため、その影響下で記された可能性を念頭に置かなければなりません(下記「イモリと山椒魚の博物誌」もその1つと言えます)が、「枝折」以降の著作でも、山椒魚の雌雄によって何かしら用い方を変える用法について触れているものは、私が参照した範囲では見つけることが出来ませんでした。

従って、「神習文庫本」と「つたや本」のどちらが、当時の箱根での山椒魚の用いられ方の実情に合っていると言えるのか、判断する材料が現時点では全くありません。雌雄の使い分けの委細については、当時の箱根でも一定していなかった等、様々な可能性が考えられるものの、今は全く不詳と考えるべきでしょう。更に紀行文などを探索して裏付けとなるものがないか探すよりなさそうです。更には、「神習文庫本」から「つたや本」への記述の変化が意図的なものであったのか、それとも単なる誤りであったのかについても、判断材料は今のところありません。

とは言え、「神習文庫本」と「つたや本」のどちらでも、前段で子供向けの疳の虫の薬としての他に、いわゆる強精剤的な使われ方が仄めかされていること、委細に差異があるとは言え雌雄の使い分けられていることを記していることは違いありませんので、何らかの形で使い分けられていたこと自体には、ある程度の確度があったと見て良いのでしょう。以前紹介した「イモリと山椒魚の博物誌―本草学、民俗信仰から発生学まで」(碓井益雄著 1993年 工作舎)には

燻製としたものは、右記事(ブログ主注:朝日新聞の記事の引用)にもあるように、二〇匹を束にしてあって、一〇匹は雄、一〇匹は雌だともいわれる。前に、箱根山椒魚について、男子には雄魚、女子には雌魚を用いるという考えがあったことをみた。生きているものでは雌雄の見分けはつくが、燻製では確かめにくいような気がするけれども、はたしてあらかじめ雌雄を区別した上で燻製にしているものだろうか。雌雄としてあるのは、イモリの黒焼の場合にも似ていて、おそらく強精ということにかかわるのだろう。

私の手許には、それを藁苞(わらづと)に入れたものもあって、ついている荷札様のものに、次のように記されている。

強精、山椒魚荷札 〈品名〉山椒魚(ピンコタチ)二十尾一把(オス十尾、メス十尾)  〈届先〉酒席線媚味駅行、御得意様 〈発駅〉深山会津 〈荷送人〉福島県会津若松市N屋

(蒸気書180〜181ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主)

と、箱根以外の例ではありますが、強精剤としての用途を意識している燻製で雌雄を明示された商品が紹介されています。この製品の出どころである会津で具体的にどの様に雌雄を使い分けていたのかについては記されていませんが、何かしらの使い分けが存在している(あるいは、していた)可能性を裏付けるものと言えそうです。この様な箱根以外の地域での山椒魚の利用の事例も、あるいは箱根の事例を検討する際の一助となるかも知れません。

「神習文庫本」は「つたや本」だけでは明らかにならないことを示してくれる存在には違いありませんが、現時点では両者を比較する研究者に更に多くの課題を突き付ける存在でもある様です。
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「七湯の枝折」神習文庫本の「産物」

「七湯の枝折」の「産物」の検討もかなり進んできましたが、この「七湯の枝折」の草稿と見做されているものが、無窮会(むきゅうかい)神習(かんならい)文庫(以下「神習文庫」)に所蔵されていることは、「禽獣類」の検討の過程で紹介しました。しかし、この時は禽獣類の記述の比較のみで終えてしまったので、他の項目の草稿との比較はまだ行えていない状態でした。また、前回までの「蛇骨」と「木葉石」の検討でも、「神習文庫本」のこれらの項目の記述については触れずじまいでした。

そこで、今回は「神習文庫本」の「七湯の枝折」から、産物の一覧を書き出し、以前作成した「産物」一覧との対照が出来る様にしました。なお、これまでの「産物」一覧は作者の文窓や弄花の直筆の清書と目されているもので、底倉にかつてあった「つたや」という湯宿に伝えられていたことから「つたや本」と称されることが多く、以下でも「つたや本」と称することとします。


なお、「神習文庫本」についての解説や「つたや本」との産物の比較については次回に廻します。

品目記述つたや本

䱱魚
又山椒魚共書
箱根の産也

小児五かんの妙薬也、世人専/知る所なれバ功能ハ略ス、/男子にハ女魚を用ひ、女子にハ/男魚ヲ用ゆ、

此魚取頃、弥生の末より卯月初つかたを専らとす、きわめて澗谷の清水に生す、小石の下或ハ岡にも出、木なとへも登る、人音に形チヲひそむ是を取るに法あり、大かた夜分ヲ良しとす、小雨ふる夜殊ニよし、蓑笠に出たち松明一ないヲ持て、魚入る籠ハ大かた竹筒也、筒の上に小サキ穴ヲ明ケてしかとせんヲかい、壱つく此穴ヨリ入て又せんヲする也、至て早くはい出るとのゆへ斯の如し、先是ヲ取んと思ハヽ彼の松明ヲ水の面へ木抔ニ立かけ置きててらし其身ハ片かけに潜ミ居る也、此火に魚寄る事夥し、己ハ岩石の上にかヽまへ居りて是ヲつかむ、女男大かた等分ニ有るもの也、皆彼の筒に入て帰り、大き成鉢やうのものへ入て是に塩ヲ入ルとこと/\く死す、是ヲ竹串にさして日に干しかわかして売買す、当山にて取ルヲ地魚といひて形ち大キクして功又ばつくん也、又此近辺大山辺ヨリも出ル、是ヲ旅魚として形チ小クして功も少く薄き也、価又異也

䱱魚図

箱根草

都而箱根の山中に生ス/効能甚有り、又此じくを/箒に用ひて茶席に懸ふ/いと雅なるもの也

効能

此草はせんして/疾かたヲ■で/類ヲ主とす/其外都て/そうどく/類によし

筥根草ノ図

一輪草図
一名梅草花草ともい
ふ、芦の湯の産也

花ハ秋也、近世是ヲ押花にして賞翫す、或ハ扇ニ打込或ハ婦女のもよふ抔に染ていとしゆしやう也、矢背のしのふ高雄の紅葉にもおさ/\不負東都専是ヲ弄ふ

一輪草図

明礬
芦の湯の産也

明ばん山ヨリ出ルか、此石に明礬湯のことくたまきり上り涌出る、此流れに有、附キて花のごとし、石岩等にこび附りて花のことし、しかし明はんの製法ハ別に有、此わき出ル湯ヲ桶に()取りせんじつめてかため、さらす白石のことし

明礬

蛇骨

底倉の産也/世に箱根蛇骨と云/是也

蛇骨の効能/同出かた世に知処/なれハ効能ハ爰に略す

筥根蛇骨

湯の花
芦の湯の産也、
他国より色白し

硫黄より生る処、/功少し、異也/湯の花の製

湯の花

木の葉石

色赤シ/姥子の産也/木の葉石余国より品類出ルといへとも

石和らかにして、葉形/あさやかならす、姥子の/木のは石ハ形メンミツにして/石又甚堅し

木葉石

※「山梨」の下

山梨実

箱根の産也/能酒毒ヲ/解ス塩漬/にして用ゆへし

山梨

虎班竹

箱根の産也、太細有といへとも大かた煙管竹位之処多し奇竹也

虎班竹

クサミクサ

芦の湯の産也/是をもみて鼻に/入るにクサメ/出ること/妙也/此草/上州草津温泉/山よりも出る、香気甚強し

くさめくさ

鉈袋

箱根の産也、樵夫の器也/藤もて作れるもの也/至て雅物にして掛花/活抔に用ゆ、往古有と/いへとも今ハ甚希也

鉈袋

研石袋

樵夫の器也、縄にて/あミたるもの也

砥石袋

[太布]

太布ハ猟師の着ものにして、藤もて織れるもの也、

是を着して山へ入るに、芒棘にさかれす強き事甚し、染色大かた鼠色多し

太布

すね当

是も猟師の用ゆるもの也、藤にて作る

上は熊猪の皮にて作る

すね當

◯ 瓦石類

飛石

ねぶ川といふ所より出る、小田原近在なり

(該当なし)

火打瓦

宮城野より出る、石のはだ細密にして色黒く、の出る事(ママ:「火」欠か)常の火打石より多し、くらまの火打石ト同物といふ

火打石瓦

※「木石類」として「神代杉」の後ろに

◯ 植物類

米躑躅

明はん山にあり

米[酋阝]躅

釣鐘躑躅

枝葉は常のつゝしのことくして細かく花形かくのことくつりかねの形あり故に名とす、花の色は白し

釣鐘つゝじ

※「明礬」「蛇骨」の下

馬酔木

あせみといふ、葉ハ細かく花形◯かくのことし、花ハ白くして花ひら五ツにひらく、到而あしの湯に多し

馬酔木

[遅さくら]

遅さくら 芦の湯の桜を称す、花細かく芳野桜の類にて四月を盛とす

遅さくら

◯ 薬品にてハ

柴胡

箱根山中より出る、味苦く奥熱をのそき、庭疾を治す、薬店これを鎌倉柴胡といふ

細辛/柴胡

※1つにまとめられている

細辛

同断 羊渇そて頭痛風湿をはらふ

胡黄連

同断味苦く小児庁症驚風によし

胡黄連

(朱字) 植物類にのるへし」

神代杉

仙石原より多く出る、欄間杉戸の類会席たはこぼん等に作る、杢細かにして見事也、巾五六尺に及ふもあり

神代杉

◯ 魚虫類

鱒魚

筥根湖水よりあかる、形大にして味美なり

鱒魚

腹赤

同所より出る、形他国より異に大にして、味美なり

土人是をあかつぱらと呼ふ

腹赤

かじか蛙

堂が島にあり、声面白くしてひくらしの啼に似たり形常の蛙より平らかなり

かしか蛙

底倉をよしとす、形ち大きく光り毎につよし

ほたる

◯ 禽獣類

鶯 時鳥 雲雀 鹿 猿 兎 猪

右之類いつれも多し、取わき鹿の腹篭を上品とす

鶯 時鳥 雲雀 山鴫 鹿 猿 兎 鷹

※この間に「湯花の製法」「明礬の製方」が挟まる

(朱字)の部類に出スべし」

◯ 野菜類

秦の大根

はた野といふ野に生す、此大根種を蒔すとて自ら生ス、世はたな大こんといふハ是なり

秦の大根

狗脊

箱根一山いつ方ニても生スといへとも、わきて宮城野之方よりおびたゝ敷出す

狗脊

わらひ

右同断

企画展図録 七湯枝折」箱根町郷土資料館 2004年 103〜104ページより
項目の並び順も同書に従うが、上下2段に分かれている箇所はそちらの順を優先する
打ち消し線も同書に従うが、線描は<s>タグの描画仕様に従う(同書上では二重線)
細かく改行が入っている箇所は「/」に置き換え
項目の名称が明示されていないものは[]で囲って示す
傍注も同書に従うが、(ママ)はブログ主
※注はブログ主による


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「七湯の枝折」の「産物」から

前回、「新編相模国風土記稿」の箱根の温泉村の記述に、「七湯の枝折」の影響が窺えることを紹介しました。折角なのでこの「七湯の枝折」に掲載された箱根の「産物」を、「風土記稿」同様一覧にまとめておくことにしました。

「風土記稿」にも記述があるものについては「◯」を記してあります。既に別の記事で取り上げたものもありますが、今後「風土記稿」の産物を取り上げる際に改めて「七湯の枝折」も参照しながら紹介することになると思います。なお、「山川編」あるいは足柄下郡の図説のどちらかで取り上げられていれば「◯」としましたが、箱根を産地としないもののこれらの一覧に含まれている産品については括弧付きで◯を付けました。

Umebachisou.JPG

ウメバチソウ(Wikipediaより)
こうして見ると、「七湯の枝折」で取り上げられた産物のうち、主要なものは「風土記稿」にも採録されているものの、あまり代表的なものとは言えないものについては「風土記稿」では割愛されたと見て良いでしょう。例えば「一輪草」つまりウメバチソウ自体は箱根に限らず日本の山間でも比較的普通に見られるため、「風土記稿」では箱根の産物としては除外したのではないかと思われます。もっとも、「七湯の枝折」のこの産物一覧の特徴として、「太布」「すね当」あるいは禽獣類など、自然や風物に属するもので必ずしも部外に移出することを意図しているとは考えられないものも多数含まれているので、こうしたものは「風土記稿」でいうところの「産物」には当たらないと判断されて除外されているのかも知れません(はその点では「風土記稿」でも取り上げられたのはかなり異例ではあった訳ですが)。

また、「風土記稿」の産物の並びが当時の本草学で使われていた諸物の並べ方に概ね従っていたのに比べると、「七湯の枝折」の産物の並びはあまり整理されていません。特に主要なものを取り上げた前半部分はほとんど順不同といった風情になっています。以下の表では順序は整理せず出現順に並べてあります。

以前紹介した「山椒魚」がその冒頭に来て記述も特に長くなっていること、絵図が比較的大きく配置されていることから考えると、この「七湯の枝折」自体が箱根の温泉宿に訪れた上客に閲覧させて楽しませることを前提に作成されたことを示しているのかも知れません。「くさめくさ」の何とも奇妙な紹介も、その点では「山椒魚」のやや俗な感じと対をなすものと言えそうです。他方、「柴胡」は既に何度か取り上げた通りですが、他にも「石長生」「箱根蛇骨」など薬用を意識して効能を記しているものが幾つか含まれており、箱根が元来「湯治場」であることを思い起こさせられます。鹿の胎児が取り上げられているのもその一環と言えるでしょう。

その他、茶道の生花に用いる「鉈袋」が取り上げられていたり、その鳴き声から和歌の季語にもなっている「かしか蛙(カジカガエル)」が紹介されているなど、様々な興味を掻き立てられるものが含まれている一覧である様に思います。

「七湯の枝折」産物の図2「七湯の枝折」産物の図1
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色(沢田秀三郎釈註書より)

品目記述神習
文庫本
風土
記稿
関連
記事

䱱魚図
又山椒ノ魚とも書く
註4黒魚(さんせううを)

小児五疳の妙薬なり功能世人の知る所なれバ略之但し男子にハ雄魚を用ひ女子にハ雌魚を服さしむ此魚のとれる比ハ弥生の末よりう月はしめ比をさかりとす其ある所ハ溪谷清水の流れに住む或ハ丘にもあがり木なとにも登る是をとるに法あり大かた小雨降る夜なと松明をともし身ニハ蓑かさうち着て扨溪川の岩間に右の松明を本のえた杯に立かけいかにもしつかに身をひそめおれバ松明のあかりに付て魚集りよるとそ其時石をとりのけ手つらまへにして竹の筒に入れ持帰る也此竹筒といふハ節一つをこめて切りロヘ少さく穴を穿ち是へせんをさし置也右とりたる魚ハ塩をふりかけて殺し日に干し乾すなり此魚当山ニとるを地魚と唱へて形大キク功尤よろし又大山辺にてとるを旅魚とて形少サく功も又うすし求る人よくよく弁ふべし

䱱魚

1/2

筥根草ノ図
石長生(はこねさう)

筥根山中に生すすへて湿瘡るいニ此悼を煎じて蒸しあらヘバ邪毒を去りかわかすとぞ茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく至て美事也是をすきや箒木に結ハせて用るに甚タ雅なる者也

箱根草

1/2

一輪草図
又梅草梅花草ともいふ芦の湯に限り生す
(うめばちさう)

此草ハ一茎一葉一花なり花形白梅のことく少しく青色ありて花ひら(コト)ことくかゝえひらく但し秋草にて仲秋の比をさかりとす近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也

一輪草図

明礬
芦の湯明凡山より出ル

芦の湯明ばん山の半腹に明ばんわき出ル所あり其近辺の小石ニ花のごとくまとひ付てあり色ハ少し黄にして青白こもこも交り其製別に出ス

明礬

1/2

釣鐘つゝじ

枝葉ハ常の註5躅躑のことく花形つりかねのことく皆下に向てひらく是も又芦湯ニ多し

釣鐘躑躅

※「米躑躅」の後ろ

筥根蛇骨(硅華)

底倉より多く出ル功能血をとゝめ湿瘡なとに麻油ニて解付てよしとす

蛇骨

1/2/3

湯の花
芦ノ湯産也

他國ニくらふれハ此所の湯花白甚タ白し功能硫黄ニ似て少し異なり湿瘡ニよし湯本臺の茶や辺ニて是をあまた見せ先ニひさく

湯の花

山梨
筥根山の産なり

是を塩ニつけて貯ふニよく酒毒魚毒ヲ解ス或ハ註6硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也

山梨実

※「木葉石」の後ろ

木葉石
色赤し姥子ヨリ出ル

他国ニある所の木葉石といふものハ石質和らかにして木葉の形たしかならす當山ニ出ルハ石甚タかたく木葉の跡あざやかにして至而面白し

木の葉石

1/2/3

虎班竹

筥根山中生ス是太細ありといへとも大概烟管竹位のふとみなり甚奇竹也

虎班竹

鉈袋大小あり

藤かつらにてあみたるものなり樵夫是ヲ腰ニつけて鉈をいれ山路を往来ス茶人此中へかけ筒して花活ニ用ゆ甚タ雅也

鉈袋

くさめくさ

是ヲ干してもみ鼻ニ入るゝにくさめ出ること妙也

クサミクサ

砥石袋

樵夫の具也繩ニてあみたるもの也

研石袋

太布(タフ)

猟師の着物也藤にて織れるもの也是を着して山ニ入るに茨棘も通す事あたわず至て丈夫なるもの也染色大てい鼠多し

[太布]

すね當

猟師の用るもの也右の太布打着し上ニすねの所へ是ヲつくり観世より又ハ熊の皮ニて作る

すね当

◯植物類

註7[酋阝]躅

明ばん山ニ多く生ス

米躑躅

馬酔木

あせみといふ葉ハ茶の葉のことく花ハ至て白く花ひら五ツあり芦の湯辺殊二多し

馬酔木

遅さくら

芦の湯の桜ハ高山故にや花こせて細かし四月ヲ盛とす大てい芳野多し

[遅さくら]

◯薬品類

細辛/柴胡

筥根山中より出ル功能謄疾をのそく薬店是をかまくら柴胡といふ

柴胡

※「細辛」は別項目

1/2

胡黄連

味苦く小児疳症註8驚風を治す

(後日注:「せんぶり」のこと)

胡黄連

神代杉

千石原より多く出る杉戸ニ用ゆ杢細密にて見事なり巾五六尺迄あり

神代杉

火打石瓦

宮城野辺より出る石質かたく色黒し火の出る事常の石より多しくらまの火打石卜同物也

火打瓦

◯魚虫類

鱒魚

箱根湖水より出ル他国より大キクして味ひよろし

鱒魚

腹赤

同断

腹赤

()

かしか蛙

堂ケ島の谷川ニアリ其声ひぐらしのことし

かじか蛙

ほたる

底倉尤よろし形大キク光至てつよし

(◯)

()

◯禽獣類

鶯 時鳥 雲雀 山鴫 鹿 猿 兎 鷹

右之類いつれも沢山なり取わき鹿の註9腹篭ニ上品あり

鶯 時鳥 雲雀 鹿 猿 兎 猪

1/2/3/
/4/5/6/
3補/7/8

◯野菜類

秦の大根

秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

秦の大根

(◯)

註10狗脊

筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

狗脊

1/2/3

同じく宮城野辺多し

わらひ

1/2/3

「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 (1975年 箱根町教育委員会)68〜72ページより、くの字点は適宜置換え、字母を拾えなかった漢字については[]内にその旁を示す

[註]:何れも同書より

  1. 黒魚(さんせううを))とあるは後人の補筆なり。以下(石長生(はこねさう))(うめばちそう)(桂華)も同じ。
  2. 躅躑=躑躅(つゝじ)。
  3. 硯ぶた=口取りざかなを盛るひろぶた。
  4. [酋阝]躅=躑躅(つゝじ)。
  5. 驚風=小児脳膜炎の類。
  6. 腹篭=胎児の意で薬用に供すか。
  7. 狗脊=ぜんまい。


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箱根の「蛇骨」と「木葉石」:「七湯の枝折」より(その3)

方円舎清親「内国勧業博覧会之図」から
方円舎清親
「内国勧業博覧会之図」から(部分)
(再掲)
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」から)
前々回及び前回の2回で、「七湯の枝折」(以下「枝折」)の「産物」に記載されている「蛇骨」と「木葉石」について検討しました。今回はその締め括りとして、明治10年(1877年)の内国勧業博覧会にこれら2点が出品された記録と、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)上のこれら2点の記述の有無について検討します。

このブログでは明治10年の内国勧業博覧会(以下「博覧会」)については事ある毎に取り上げてきました。特に、箱根から出品されたものについてはこちらの回で一括して検討しました。まず、その中から蛇骨と木葉石に関する部分を抜粋します。

◯粘土(三)蛇骨白色、底倉村、山田千代太郎(四)小涌谷、薄鼠色、仝村住吉傳右衛門(五)赤色、元箱根村杉山銕次郎木葉石(六)銕錆色、仝村片瀬才次郎

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)


以前箱根から出品されたものについてまとめた際には、板橋村の内野勘兵衛という人物が取りまとめを行ったと考えられること、そして出品する品目を選定するに際して「枝折」が参考にされた節が窺えることを指摘しました。その際、「枝折」の産物に記載された品目が全て博覧会に出品された訳ではなく、時代の動向に合わせて取捨選択が行われたと考えられることも、燧石とマッチの例を挙げて示しました。

そうした中でも、「蛇骨」や「木葉石」は出品品目として選択されました。しかしながら、「蛇骨」の方は「粘土」に分類されている点に興味を引かれます。これは一体何を意味するのでしょうか。

そもそも、この「博覧会」時点の「粘土」にはどの様なものが該当すると考えられていたのでしょうか。「博覧会」の「諸規則」を一通り確認したものの、出品品目の委細を定義した一覧は特に準備はされていなかった様です。「蛇骨」や「木葉石」が出品された「第1區」については、出品目録の冒頭で次の様に説明されています。
  • 第一區・礦業(ママ・冶)金術
    • 第一類

      礦石鑛物建築石材及匕礦業ノ產物

    • 第二類

      (ママ・冶)金術上の製物

    • 第三類

      礦山ノ土工雛形地面及匕截面圖式

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、表をリストに組み換え、傍注はブログ主)


品目の定義の説明に近いものとしては、個々の出品物に英訳を付すために準備された訳名のリストが準備されていましたが、この中では「粘土」は単に「Clay」の1語で対訳が示されているだけです。これだけでは当時「粘土」としてどの様なものが想定されていたのかを判断するのは困難です。

ただ、出品目録など「博覧会」関連の資料を読み込むと、土木については既にかなりの程度西洋近代の技術の移入が進み、それに則った分類が用いられていることに気付きます。明治政府は積極的に欧米から技術士を雇い入れた上で、東京を中心に新たな建築物を次々に建造していましたから、それに伴って新たな技術の導入と普及が急務だった筈です。上記の訳名のリストも、出品物には全て英訳を付する様に規則に明示していたことに呼応して作成されたもので、これは欧米の技術者にもこれらの出品物の評価を依頼していた点にも関係があるでしょう。ですから、出品物の分類についてもこうした近代西洋の知識に則ったものへと既に切り替えられていたと考えるのが妥当でしょう。

とは言え、その当時に「粘土」という言葉がどの様に理解されていたのかについて、もう少し掘り下げるための資料は私が探した範囲では見つけることが出来ませんでした。辛うじてそれに近いものと言えそうなのは次の「日本金石産地」でしょうか。これは明治12年に博物館が制作した資料で、当時の日本国内の鉱山や石材の産地をリストアップしたものです。その中で、「粘土」の項の冒頭にこの様な但し書きが見られます。

第十二属   粘土属

陶土(ヤキモノツチ)粘土(ネバツチ)陶土粘土ハ同物ナラザレトモ相似タルヲ以テ往々混稱セリ因テ今之ヲ分タズ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、一部現代カナ使いに置き換え、強調はブログ主)


現在でも「粘土」は

粘土/ねんど/clay 土粒子区分において最小粒径に区分されるもの.土質分野(日本統一土質分類)では5μm以下,地質分野(Wentworthら)では1/256mm以下,土壌分野(国際土壌学会法)では2μm以下の粒径の土粒子から構成されるものをいう.

(「応用地質用語集」日本応用地質学会 応用地質用語集委員会 PDF835ページより)

の様に、学術分野によって粒子の大きさの定義が異なります。これらのうち特に陶磁器やセラミックスの焼成に使われるものが一般に「陶土」と呼ばれる訳ですが、明治初期の段階で果たしてこれらの言葉の使い分けが何処まで成されていたかは定かではありません。「日本金石産地」の記述を見る限り、あまり厳密な使い分けが出来る段階にはなかったのではないかとも思えますが、恐らくは本来珪酸の塊である「蛇骨」に一般的に粘土が持つと考えられていた性格を何かしら見出して「粘土」として分類したのだろうと考えられます。

一方の「木葉石」の方はそのまま「木葉石」として掲出されていますが、出品目録では特に解説は付されていません。実際の展示では説明があったのかも知れませんが、果たしてこれだけで「博覧会」の来場者がこの石が何物なのか、理解できたかどうかは定かではありません。

そもそも、この「博覧会」は「内国勧業」と題している通り、殖産興業政策を支え得る資源や製品を発掘することが主な目的でした。そのことは「博覧会」の「出品者心得」の各条文にも明確に示されています。但し、第1条を見ると

第一條 (すべ)此會(くわい)(いだ)サントスル(もの)(その)品柄(しながら)精粗(せいそ/よしあし)多少(たしやう)(かゝ)ハラズ品物(しなもの)大槪(あらまし)帳面(ちやうめん)()(しる)(ひかえ)(とも)()(つふ)往復(おうふく)日數(ひかず)(のぞ)キ五十日(かん)取調(とりしらべ)本貫又ハ寄留(きりう)ノ管轄廳ヲ()テ本局ヘ願出(ねがひいで)(ゆる)シヲ()クベシ(もつとも)草木(さうもく)鑛石(かねいし)(とう)ニテ平日(へいじつ)無用(むよう)(おも)()タル(もの)鑑定者(かんていしゃ/めきき)吟味(ぎんみ)ニヨリテ(おおい)用立(ようだ)ツコト間々(まま)コレ()ルコトナレハ(かなら)一己(いつこ)意見(ゐけん/みこみ)()取捨(とりす)テベカラズ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビも同書に従う、左側に付されたルビも右側のルビの後ろに/を付して表記、変体仮名は適宜かなに置き換え、一部明らかに現存しない字があるが適宜該当すると考えられる字に置き換え、傍注はブログ主)

つまり、一般には資源としては有用性がないと思われている様な植物や鉱物であっても、出品者の一存で除外するべきではないことが記されています。

「木葉石」の出品に際してもこの「出品者心得」に記されている通りのプロセスを踏んだのだとすれば、「博覧会」側は「木葉石」にも何かしらの有用性があるものと判断したことになります。明治10年時点では箱根の「木葉石」に関しては「枝折」以外に紹介しているものは殆ど知られていなかった筈ですから、「博覧会」の担当者は飽くまでも自身の目で出品者が持ち込んできた現物を手掛かりに判定を下したものと思われます。具体的にどの様な有用性を見出したのかは全く不明ですが、基本的には賞翫目的のものと見做されていたであろう「木葉石」が「博覧会」への出品を認められたという事実はその点で興味深い選択だったと言えます。

また、この「出品者心得」に従えば、「蛇骨」が「粘土」に分類されたのも出品者の一存ではなく、「博覧会」の担当者の判断であった可能性が高くなります。これも「博覧会」の運用の一端が窺える判定と言えるでしょう。もっとも、その意味では箱根の「燧石」も他地域からの出品が認められている以上、箱根からの出品が差し止められる理由はなかったことになるので、こちらは「出品者の一存」で出品をしなかった、と考えるべきということになります。



さて、これまでこのブログで「枝折」の産物を取り上げる際には、最初に「風土記稿」の記述を確認する順番としてきましたが、今回は敢えて最後にその検討を持ってきました。

「風土記稿」の各郡の産物、更には山川編の産物の何れにも、「蛇骨」や「木葉石」の名は見られません。各村の記述を探していくと、「蛇骨」に関しては底倉村の項に「蛇骨野」や「蛇骨川」の記述が見られ、その中に「蛇骨」の名が見られます。但し、その説明は貝が凝集した様なものとあまり正確ではないものになっています。この部分については「枝折」を参考にしたのではないことが窺えます。

◯蛇骨野 村の西、陸田間を云、東西三十間、南北十五間許、此地を穿てば、貝の凝滯せし如きもの出づ、是を蛇骨と云り、…

◯蛇骨川 元箱根本宮山邊より出、村の西南を屈曲し、蛇骨野の下を流れ村西に至り、早川に合す、幅九尺、土橋一を架す蘆野湯道の係る所なり、

(卷之三十 足柄下郡卷之九、…は中略、強調はブログ主、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


村里部の中で名前が挙がりながら、産物にはその名が含まれなかったものとしては、箱根では「蕎麦」がありました。「蛇骨」についてもこの「蕎麦」同様に、産物に含める品目を「風土記稿」の編集者が意識的に取捨選択していたことを読み取ることが出来ます。しかし、「蛇骨」を産物から除外する判断の根拠が何処にあったのかまでは読み取れません。

一方、姥子の温泉については箱根権現の項の中に見いだせるものの、その記述の中に「木葉石」の名は登場しません。国図に「地獄湯」として登場することを確認していますから、こちらも「枝折」以外の情報との摺り合わせを行っていることがわかります。

姥子

西北の方足柄上郡仙石原村の界にあり、古は湖涯に傍ひ新宮山の麓をすぎ、此地に到りしに、此道廢せられし後は、東海道權現坂より北に入、元賽河原を過ぎ、蘆ノ湯へ出、底倉・宮城野兩村を曆、仙石原御關所を越て當所に至る、行程凡三里餘に及べり、

◯溫泉 湯戸二家ありて、湯槽六區に別つ、大湯方二間、と唱ふるもの、泉源にて尤熱し、其餘藥師湯方九尺、瀧湯など唱ふるあり、又屋内に槽を設けり、是を内湯と唱ふ、皆大湯より分派す、湧出の始を詳にせず、眼疾金瘡打撲紅爛等に効驗あり、然れとも僻處にある故に、遠く疾を輿して來り浴するもの鮮なし、正保及元祿の國圖に、地獄湯と載るもの是なり、

(卷之二十九 足柄下郡卷之八)


今回の件に限ったことではありませんが、こうした「風土記稿」の産物の取捨選択がどの様な判断の下で行われたのかは判然としないところがあります。「木葉石」が専ら賞翫される岩石であったことが産物にならなかった理由ではないかとも考えたくなります。しかし「風土記稿」で産物として取り上げられた岩石の中では「矢倉沢の蛤石」「道志川の貝石」更には「青野原の牡丹石」には賞翫以外の目的を見出だすことが出来ませんので、これは理由にはならないことがわかります。姥子は箱根の温泉地としては知られた存在ではなかったとは言え、「木葉石」の知名度が問題だったと考えるには、上記の3種のうち「たかね日記」(稲葉正通)に登場した「矢倉沢の蛤石」はまだしも、それ以外の2件は「木葉石」以上に知名度のあるものだったと言えるかは微妙なところです。実際、前回紹介した木内石亭の「諸国産石誌」には「石介(貝石)」の名は見られ、「矢倉沢」の地名も登場しますが、「青野原の牡丹石」に該当すると考えられるものは見当たりません。

「風土記稿」の産物については取捨選択の基準が何処にあるのか、このブログで取り上げ始めて間もない頃から何とか見出そうと探してきました。しかし、ここまでかなりの時間を費やしましたが、未だに統一的な基準が見出だせるところまで来ていません。この「蛇骨」や「木葉石」についても、「風土記稿」の産物の取捨選択の基準の不明瞭さを示す存在になっていると言えそうです。
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