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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その3:「白旗勘定」について)

当初の予定ではこの話題で複数回の記事を書く予定ではなかったのですが、藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」)中で紹介された「遠藤民俗聞書(ききがき)」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)の内容を検討するうちに、つい長くなってしまいました。既に「聞書」や「昔の生活」の方に入り込み過ぎて「藤沢の資料」から離れた内容になってしまっていますが、記事タイトルは基本的に前回を引き継ぎました。


前回引用した「聞書」の「三崎街道」の解説の中では、この街道が遠藤と藤沢の繋がりを深める役目を果たしていたことが窺える記述も見えています。その中に「白旗勘定」という言葉が出てきます。

米を売ったり、肥料を買い入れたりには、藤沢の白旗まで出かける。毎年七月の白旗神社の祭礼の時に勘定をする習慣が近年まであって、これを白旗勘定といった。

(「聞書」27ページ:再掲)


「昔の生活」では「白旗勘定」についてもう少し長く記しています。

金肥(カナゴエ)の購入先は多くは藤沢の白旗横町であった。白旗横町は(八王子街道の起点で)肥料問屋以外に農具商、種子屋が古くからあり、澱粉工場、精米所も出来ていた。

農家は肥料問屋から肥料を帳面につけておいて貰って来て、収穫した穀類(麦、豆等)を現物で肥料代として納入した。毎年七月二十一日が白旗神社の祭礼に当り、この日に支払をした。

これを白旗勘定といった。これは大正十年に廃止された。

(45ページ、ルビは直前の記述にある同一の単語に振られているものをブログ主が転記)



「白旗横町」と各街道の位置関係
「白旗横町」と各街道の位置関係(再掲)
1960年代の空中写真を合成
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

現在の白旗横町と厚木道の分岐点
行く手に白旗神社の鳥居が見えている
ストリートビュー

上の地図で示した通り、「白旗横町」は東海道藤沢宿から白旗神社(源義経を祀る)に向かう横町やその付近の集落を指す名称です。かつて「白旗横町」で代々米穀肥料店を営んでいた山本 半峯(悦三)氏による「白旗横町の今昔」(昭和54年・1979年 私家本、以下「今昔」)によると、

元来は、現在の藤長パン店の角を左折し、諏訪神社(小田急本町駅前)から大庭坂下までを白旗横町といい、諏訪神社がその中心であった。つまり旧東海道から白旗神社に向って入り、さらに横へ曲った町であるので白旗横町と誰れいうともなく唱えたものである。

ところで、かっては白旗横町を一括して横町と称していたが、第二次大戦後になって、諏訪神社を中心にした附近は諏訪町と称し、白旗横町は藤沢町田県道沿いの二百メートル位の間をいうようになった。

(「今昔」5〜6ページ)

としていますので、「白旗横町」の範囲については時代による変遷が多少あった様です。

「藤長パン店」は2015年頃には閉店し、現在は跡地でコンビニエンスストアが営まれていますが、厚木道はこの角から西へ逸れる道筋でした。「今昔」に従うと以前は厚木道をかなり先まで進んだ辺り(現在「修道院下」バス停がある辺り、その先の坂道が「大庭坂」)までを「白旗横町」に含んでいたことになりますが、何れにしても厚木道を経て藤沢宿へ向かってくる遠藤地区の人々は、最初に「白旗横町」に入ることになります。


「白旗横町」の様子について、「今昔」では

白旗横町の商売が盛んになったのは、幕末以後、明治・大正時代の約六十年位である。現在の藤沢町田線は、かって八王子往還道と呼ばれ、道の両側には農家にとっての営農必需物資である肥料・飼料・種苗・農具など、さらに農家の生産物である米・麦・雑穀などを取扱いまた売買もした。なかでも麦類の取扱数量は県内一であった。しかもその取扱う米穀肥料商が軒を並べ競い合っていた。

大正末期に戸数僅か二十数軒の中で、米穀肥料商が十軒近くもあったことは特筆しておかねばならない。思い出すまゝに店名を記録してみることにする。小林商店、神保商店、江戸屋森商店、水谷鴻輔商店、高梨商店、山本商店、飯塚商店、種藤古川商店などの他に峯尾精麦、飯塚澱紛など十指を数えることができる。しかし今も営業継続している店は、一、二軒しかない、うたた荒涼淋しい限りである。

(「今昔」6〜7ページ)

と書いています。遠藤地区の人々も、そこで干鰯や豆粕、油粕の様な「金肥」を買い求めてもと来た厚木道を帰っていったことになるのでしょう。その売掛を白旗神社の夏の祭礼の日に農産物で支払う習慣があったので、それを「白旗勘定」と呼んでいたというのです。

因みに、「昔の生活」では厚木街道の発展について次の様に記しています。

遠藤における厚木道の沿線には昔は人家がなかった。二間巾の道であったが、厚木町道であったのが県道となって、後に道路が整備され、バスが藤沢・用田間に開通すると北部遠藤では藤沢との交渉が多くなった。六地蔵はじめ沿道に商店や人家ができるようになり、戸数が増加するのは関東大震災以後である。

遠藤停留所は、遠藤の東北端で藤沢・厚本線の県道と茅ケ崎・長後線の県道の交叉する所にある。はじめ六地蔵と共に人家はなかったが、藤沢・厚木間のバスの開通で停留所が設けられ、遠藤停留所が略されて遠藤となり人家もふえた。

(「昔の生活」167ページ)


かつての遠藤村、後の小出村から見れば、厚木街道は村境を進む道であり、水利に有利な谷戸底に比べれば人家がなかなか建たなかったのも理解は出来ます。そして、「昔の生活」では藤沢との往来が増えてくるのはバス開通後の時代のこととしています。

しかし、厚木道を往来する乗合自動車の記録を探してみると、「神奈川県自動車案内」(現代之車社 編 大正10年)に「美榮堂自動車」という事業者の名前があり、ここが藤沢から用田までの間で1日3往復の乗合自動車を運行していたことが記されています。この乗合自動車事業が何処まで時代を溯るのか、明確な裏付けが見出せていませんが、以前箱根の富士屋ホテルが自動車事業を始めた事情を検討した際に参照した「全国自動車所有者名鑑 大正4年4月1日現在」(東京輪界新聞社 大正4年)の「神奈川縣」の項に挙げられている全176台の自動車の所有者の中には、藤澤町を含む高座郡の在住者が皆無です。従って、藤沢〜用田間の乗合自動車運行を行う事業者が登場したのは、少なくとも大正4年よりは後のことということになります。


年度名称幅員
明治20年吉野三崎間往還
從厚木町至大町村
[最廣]3.0間
[最狭]2.0間
(この間変動なし)
明治44年度吉野三崎間往還
從有馬村至藤沢町
[最廣]3.0間
[最狭]2.0間
(この間変動なし)
大正3年度吉野三崎間往還
※区間別廃止される
[平均幅員]2.40間
大正4年度與瀨三崎縣道[平均幅員]2.33間
(この間変動なし)
大正9年度厚木藤澤縣道[一般幅員]2.5間
[最狭有効幅員]1.5間
大正10年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.5間
(大正11年度なし)
大正12年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.2間8厘
大正13年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.2間
(この間変動なし)
昭和6年厚木藤澤縣道[一般幅員]4.52m
昭和7年厚木藤澤縣道[一般幅員]4.50m
[最狭有効幅員]3.60m
(この間変動なし)
昭和12年※この年から府県道が主要なもののみとなり、番号による呼称に変わる。厚木藤沢線は含まれていない模様
※[ ]内は表見出しから、単位は適宜補充
「昔の生活」では厚木道の幅員の変遷についても触れられていますが、「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎間県道」、あるいは「厚木藤沢県道」の幅員については、各年毎に作成された一連の「神奈川県統計書」にその幅員が記されてはいます。しかし、それらを追っても何時頃どの程度拡幅されたのか、意外に見え難くなっています。右の表にその変遷をまとめてみましたが、どちらかと言うと統計の集計方法の変更によると見られる数値の変動は目立つものの、大筋では拡幅工事が施工されたことによって幅員の数値が変動した様に見える箇所が現れていない様に見えます。唯一昭和6年(1931年)に「4.52m」に変更された箇所では、その前までの「2.2間(=約4m)」に比べて若干拡幅された影響が出ている様にも見えるものの、これだけでは明確に昭和6年に拡幅事業が行われたと断じるのは苦しいところです。ただ、大筋では目立った数値の変動が見えていない傾向から、県が厚木道を含む区間を県道として管理する様になってからも、拡幅事業にはなかなか着手されなかった様には見受けられます。

一方、昭和13年度の内務省土木局による「国道及重要府県道交通情勢調査表」では厚木道途上の海老名村河原口(現:海老名市河原口)と御所見村用田(現:藤沢市用田)で幅員4.5m、藤沢町内では同5.5mとされていますので、それまでにはある程度の拡幅が行われたことが窺えます。

何れにしても、「白旗勘定」が廃止されたのが大正10年頃ですから、「白旗勘定」という言葉が遠藤の地で言い伝えられている状況から考えて、物流量の問題はさておき、藤沢〜用田間を結ぶ厚木街道の上で乗合自動車が運行され、その通行量への対応が本格化するよりも前から、この厚木街道が遠藤と藤沢との物流で重要な役割を果たしていたと考える方が自然ではあります。

課題は厚木街道を流れる物流量がそれぞれの時代でどの程度であったかというところですが、「聞書」や「昔の生活」は民俗調査の成果ですから年代を示す証言が乏しく、語られている農作業や生活の実情が果たしてどの程度時代を溯るかは必ずしも明確ではありません。その点は農産物の統計など他の史料を探る必要があるのですが、残念ながら「デジタルコレクション」上で見られる当時の統計は精々郡単位に集計されているものばかりで、村単位で集計されているものを見つけることは出来ませんでした。その様なデータが残っていないかは今後機会があれば探してみたいと思います。

少なくとも、上記の「今昔」にある様に白旗横町に商家が集中する様になったのが幕末からということであれば、それよりも前に既に「白旗勘定」の風習があったと考えるのは難しいところです。「白旗横町」という地名そのものは、「新編相模国風土記稿」の高座郡坂戸町の項(卷之六十 高座郡卷之二)の小名の中に見えてはいるものの、明治初期には道幅が僅か1間であったということから考えても、その時分にはこの横町に人や物資が集中する様な状況は想定されていなかったと見るべきでしょう。それでも元は自給自足が主だったという遠藤地区にとっては、白旗横町まで往復する機会自体は当初は多くはなかったにしても、貨幣経済が浸透していない地域としては少量の取引でも売掛にしてもらう必要があった、と読み解くべきかも知れません。

「白旗勘定」の様な風習は他の地域では見られなかったものなのか、それとも「白旗横町」に全く独自のものであったのか、その点を考える上では、「聞書」や「昔の生活」よりやや後発の民俗調査である「神奈川県民俗調査報告 17 (境川流域の民俗)」(神奈川県立博物館 編 1989年)の以下の記述が参考になりそうです。「境川流域」を調査対象地域としていることから、その中に遠藤地区は含まれていないものの、文献目録に「聞書」や「昔の生活」が含まれていることから、この項を執筆する際に両書が参考にされている可能性は高いと思います。但し、それ以外の地域の事例に触れられていたり、「白旗勘定」廃止後の動向も垣間見える点が両書に見えない部分と言えるでしょう。

肥料屋 肥料は人糞・緑肥・推肥・米糠・鶏糞などの他に金肥を購入した。 干鰯・油粕・豆柏も使った。 また、昭和のはじめには硫酸アンモニア・カリなどの化学肥料を使うようになった。これらの肥料は主として藤沢市の白旗横町の肥料屋から購入した。 白旗横町とは、 白旗神社が祭祠されているところからよばれた通称で、 17~18軒の殻屋・種屋・苗物屋・肥料屋などがあつまっていた。ここでの買いものも、やはり後払いが多く、品物をつかったあとでツケ払いする。 このため養蚕や稲の収穫があったあとに白旗横町の商人たちが周辺の農村を歩く姿がみられた。 このような支払いを総じて 「白旗勘定」 といった。

また、長後や保土ヶ谷にも(ママ)屋があって、 米穀類を出荷していた。 これらの店々は種や肥料がおいてあって出荷したときに求めることができた。 ときには米や大豆と肥料をかえてもらう、物々交換の形をとることもあった。またこれら金肥の他に人糞のくみあげは、それぞれの農家で懇意な家などに頼んでくみにいった。 リヤカーで厚木・横浜などにくみにいく。 野菜を売りにいって知りあったトクイ先などに頼んでくませてもらった。 こうしたときにはお礼としてキュウリやナスの2〜3本程度の野菜もおいていった。

カイコバライ 養蚕が終えたあとには魚代・日用品代などさまざまなツケを支払うことがあり、これをカイコバライといった。 そのため昭和初期に養蚕の値の変動の激しかった1時期は死活問題でたいへんな苦労をした。 それまでは「カイコバライ」 というと絶大な信用があったが、昭和2年から5年にかけての没落により、 一気に信用がうしなわれた。 そのころからツケウリもきかなくなったという。

(88ページ、「デジタルコレクション※」より)


やはり白旗横町以外にも、農村との流通の拠点として機能していた町があったと見るのが妥当な様です。また、大正10年頃から売掛を認めなくなっていった最大の要因は、やはり生産物による後納では対価を確実に回収できないリスクが高まってきたからなのでしょう。養蚕が奮わなくなるのは1929年(昭和4年)の大恐慌や化繊の登場によるもので、「白旗勘定」の廃止よりはやや後のことにはなりますが、こうした貨幣経済の変調によってそれまで貨幣経済の十分に浸透していなかった農村地帯にも次第に影響が及び、農村もそれまでの様には貨幣に頼らなくても良いという訳には行かなくなっていった、という動きが垣間見える様に思います。

その点を念頭に置くと、藤沢町の昭和初期の地誌である「現在の藤澤」(加藤徳右衛門著 昭和8年・1933年)で「白旗勘定」の廃止を「惜しい」と書く意味が見えてくると思います。

美しき慣習「白旗勘定」 今は行れず

我藤澤町には古來「白旗勘定」と稱して肥料商人と農家の間に不文律な最も美しき慣習が行はれた。其れは毎年七月廿一日白旗神社の例祭に當り近在の農家は大小麥を今日を晴れと其取引店に搬出し多きを誇りとせば商店また其の俵を店頭に積み上げ恰も俵の富士山が各店頭に現出し農作を物語ると同時に各店共に其多數を以て取引の擴大さを示すものとし誇りとした。斯くして一ヶ年の取引勘定は必ず決濟されて互に重荷を下すので極めて美しき慣習であった。この日農家は其の荷を馬に車に一家擧つて付隨し來り取引店に於て酒食の馳走を受くるものたれば各商店共に共臺所は天手古舞の有様でこれ等の人々は今日一日を飽迄お祭り気分に浸されて享樂に耽けるのである。而してこの美風も漸次經濟思想の惡化によりて決濟に異算を生ずると共に商店また店員待遇上の缺陷たりとして大正十年頃より商店自からこの例を廃止したるは惜き次弟である。

上記書729ページ、リンク先は「デジタルコレクション」※)


それまでは「白旗勘定」という風習によって、まだ必ずしも十分には貨幣経済が浸透していない農村コミュニティとの結節点として白旗横町が機能していた構図が、その廃止によって崩れてしまったこと、そしてそれによって商業地として発展してきた白旗横町と農村との関係も次第に良好なものではなくなっていくことを評して、徳右衛門は「惜しい」と書いたたのでしょう。

その意味では「白旗勘定」という言葉は、農村コミュニティが貨幣経済とやり取りする際の言わば「インターフェース」としての風習を、見えやすい形で示してくれる一例と言えるのかも知れません。今のところ同様の風習を指す言葉を私は知りませんが、恐らくは「白旗勘定」が廃止される大正10年頃までの時期には、他の地域でも同様の風習があった筈でしょう。

それでも、厚木道(や旧滝山道)が「白旗横町」という農産物や農村の生活物資の流通拠点とを結び付けるルートとして重要な役割を果たしていたことは、「白旗勘定」廃止後も変わらなかった筈です。それだからこそ、第二次大戦中に藤沢飛行場の滑走路によって断ち切られてしまった厚木道が戦後に復活するということが起きたのでしょう。

そして勘繰れば、「聞書」に記録された「三崎街道」という呼称も、あるいはこの道の重要性を少しでも強調するべく、より遠方に向かう道として「箔付け」したいという思いを、遠藤地区の人も持っていた証なのかも知れません。
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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その2)

前回紹介した藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」、別記ない場合は最新刊を指す)について、今回は同書で紹介された「遠藤民俗聞書(ききがき)」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)に見られた少し意外な内容について検討してみたいと思います。


「遠藤民俗聞書」遠藤地区の地図
「聞書」中の遠藤地区の地図
意外な内容とは、江戸時代の遠藤村の東から北を経由する「厚木道」について、他では見ない別の名前が「聞書」や「昔の生活」に記録されていたことです。まず、右に掲げた「聞書」冒頭の最初の地図(ページ数表記なし:柳田国男の「序」の次のページ)中、「厚木道」として知られている道筋の脇に右の様に「三崎街道」という名称が記入されており、「厚木道」の名称が記されていません。

そして、「聞書」の本文中でも次の様に「三崎街道」の名称が記されている箇所が見つかります。ここでも「厚木道」の名称は出て来ません。

遠藤は山・畠・田がつりあっているので、ほとんど自給自足の生活で、日常の暮しは楽であったようである。炭焼は以前は今よりも多く数軒はあったときいた。醤油しぼりをする人も芹沢にいて、フネや袋を持ってしぼりに来たという。醤油は秋にしこむと春にしぼりに来る。しぼってから一年くらいおいてから使用するという。味噌も自作で、三年くらいしこむとおいしくなるという。油は菜種子や胡麻をしぼるところまで持って行ってたのんだ。酒・砂糖・菓子・煙草の類の店もあったので酢などは買ったそうである。行商としては金物屋、いかけ屋が来た。かご屋、桶屋、屋根屋も以前からあったという。盆暮の買物にはかつぎざるをかついで、藤沢・厚木間の三崎街道を、歩いて藤沢に出たということである。かつぎざるをかついだ男親にくっついて子供も行き、買物の時の番の役をした。米を売ったり、肥料を買い入れたりには、藤沢の白旗まで出かける。毎年七月の白旗神社の祭礼の時に勘定をする習慣が近年まであって、これを白旗勘定といった。平生でも麦などをのせた手車をひいて、藤沢まで急いで行って帰って午前中はかゝるが、日に二回は往復したという。藤沢間の道はほかにもあったというが名が明らかでない。茅ケ崎にも出たようだが、藤沢が主だったらしい。いまはバスも便利に走っているので、平塚に買い物に出る人が多いということである。

(「聞書」27〜28ページ)


一方、「昔の生活」でも次の様に「三崎街道」についての記述が見られます。

藤沢宿を起点として、白旗横丁から、大庭・石川村を経て遠藤の境界線をつくりながら、長後からの大山道と合流して用田村の辻では平塚からくる中原街道と交叉して進み、海老名から相模川を渡る厚木街道の終点は厚木宿である。厚木街道も厚木の人からみれば藤沢へ出る藤沢道であった。厚木は県央部の交通の要所で、藤沢道の他に矢倉沢往還が通り、北へは甲州街道と通じ甲府盆地へ出る。厚木街道を用田の辻からまつすぐ北上すれば座間・上溝を経て御殿峠、片倉を通り八王子ヘと通じる生糸の道である。厚木街道は甲州街道ともよんだというが、その理由はこうした道を通じての交渉があったことを語り、養蚕、製糸業の盛な地帯を横断する道であった。

厚木街道は又、三崎街道ともよぶ人があった。今回の調査ではその理由を聞き取ることはできなかったし、いまでは三崎道とよばれていた事を知る人も少くなった。昔、海老名に国分寺のおかれていた古い時代に、相模の内陸部の国府から、三浦半島の三崎に通じる道の開けていたであろうことが、日本武尊の東征の道からも考えられる。しかし古代まで溯ることをしなくても、江戸時代に山と海の生産物の交易路としての働きをしていた事を三崎道のよび名はうかがわせるものである。

三崎道は、東海道の藤沢宿、保土ケ谷、戸塚の三点から分岐して三崎港へ通じる道をいう。三崎に通じる道は浦賀港への道ともかさなる。三崎は江戸初期に海関奉行所のおかれていた所、浦賀港は一七二〇年海関奉行所となってから急激に発達した港で、米・塩・酒・煙草・干鰯(ほしか)の問屋が軒をならべて仲つぎ貿易港として繁盛したと県史六に記されている。

(「昔の生活」166〜167ページ)


こちらでは基本的には「厚木街道」と呼ばれていることを記した上で、「厚木街道」の別称として「三崎街道」の名前を挙げつつも、「昔の生活」の聞き取り調査ではその裏付けを十分に得ることは出来なかった様です。しかし、この記述の中では「三崎街道」の持つ意味合いについて何とか積極的に評価しようとする記述になっています。

遠藤村に伝わる「三崎街道」に該当する道筋
旧遠藤村に伝わる「三崎街道」に該当しそうな道筋
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
実際には「聞書」「昔の生活」以外にこの道筋を「三崎街道」または「三崎道」と呼称している事例はなかなかありません。「昔の生活」の編集に携わったメンバーが手掛けた「藤沢市史 第7巻 文化遺産・民俗編」(以下「藤沢市史」)でさえ、「厚木道」が「三崎道」「三崎街道」と呼ばれていたことへの言及は見られません。「藤沢の資料」でもこの道は「厚木道」と記されていて「三崎道」と記された箇所はありませんでした。その他、「藤沢の地名」(1987年 日本地名研究所編 藤沢市刊)や「地図に刻まれた歴史と景観Ⅰ―明治・大正・昭和 藤沢市」(1992年 児玉幸多・古島敏雄監修・高木勇夫編 新人物往来社)など、藤沢市関連の地名や歴史を取り上げた書物も当たってみましたが、この道筋を「厚木道」と記すものはあっても「三崎道」と称するものは見当たりませんでした。

「昔の生活」では「三崎道」の名称から、古代の東海道との関連や、藤沢以遠と遠藤地区の繋がりを見出そうと思いを巡らせています。また、「三崎道」が「浦賀道と重なる」と解していることから、遠藤から藤沢宿へと入った後、「江島道」か長谷への「継立道」を経て鎌倉へ向かい、そこから「浦賀道」を経由して浦賀に至り、更にここから三崎へ達する「三崎道」へと入る道筋が想定されているものと思われます。「藤沢町政要覧」(大正11年・1922年 藤沢町編集)では

町の中央を東北より西南に貫く東海道を幹線とし、左右に分岐線を出す、三崎街道、八王子街道、厚木街道、大山街道は其重なる道路にして、何れも県道に属せり、而して三崎街道は東海道より藤沢停車場に至る主たる道路にして、遠方貨物の本町に入るの関門たり。

(「藤沢市史資料 第38集」藤沢市教育委員会編 1994年 所収 26ページより、「デジタルコレクション」※より)

とあり、ここで言う「三崎街道」が「江島道」を指していることがわかりますので、「昔の生活」が「藤沢町政要覧」を参照していれば、あるいは藤沢から「江島道」を経て鎌倉へ向かう道筋を意識していたかも知れません。

しかし、「聞書」や「昔の生活」、更には「藤沢市史」や「藤沢の資料」で遠藤地区と三浦半島との交易に触れられている箇所はありません。「藤沢の資料」の「1御所見地区」では古代の街道の位置についての検討が試みられていますが(31〜33ページ)、その中で掲出されている地図上では古代の主要な街道が厚木道と重なったり近接したりする様な道筋は描かれていません。「藤沢市史ブックレット8 古代神奈川の道と交通」(田尾 誠敏・荒井 秀規 著 2017年 藤沢市文書館)でも遠藤地区が検討の対象になっていない点は同様です。こうした状況からは、「聞書」や「昔の生活」で採録されている「三崎道」という呼称が、検討されている様な裏付けを持ったものであるとは判断し難いものがあります。「聞書」「昔の生活」以外に古代の交通との関連に言及する書物が見当たらないのも、裏付けを得にくい現状を反映しているとも受け取れます。

遠藤地区とその周辺では直接「三崎街道」に繋がる記録をなかなか見つけられなかったので、もう少し範囲を広げて「国立国会デジタルコレクション」上の全文検索で「三崎街道」等の名称を探してみたところ、「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎街道」「与瀬三崎県道」といった呼称を検出することが出来ました。

「吉野三崎間往還」については、明治34年(1901年)の「神奈川縣告示第百六十五號」の中で次の様に記されています。

明治三十四年三月神奈川縣告示第三十八號市郡連帶及市郡各部單獨ノ縣費ヲ以テ維持保存スル道路及河川海岸ノ名稱區域左ノ如シ

明治三十四年七月七日    神奈川縣知事 周布 公平

郡部縣費維持保存ノ道路線名及區域

一 吉野三崎間往還

相模國津久井郡吉野驛地内第拾六號國道ヨリ分岐シ同郡長竹村同國愛甲郡愛川村厚木町同國中郡相川村同國高座郡六會村藤澤大坂町同國鎌倉郡鎌倉町同國三浦郡田越村葉山村ヲ經テ同郡三崎町ニ至ル迄

(「神奈川県会史 第3巻神奈川県議会 編 1955年 所収 902〜903ページ、「デジタルコレクション」※から)


「白旗横町」と各街道の位置関係
「白旗横町」と各街道の位置関係
1960年代の空中写真を合成
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置(再掲

ここで示されている経由地の中には遠藤地区を含む小出村の名前も、その西隣に位置する御所見村の名前も出て来ないため、これだけではこの往還が「厚木道」を含むものか判然としません。しかし、この告示中の街道一覧の他の場所に

一 藤澤大和間里道

相模國高座郡藤澤大坂町吉野三崎間往還ヨリ分岐シテ同郡澁谷村ヲ經テ同郡大和村地内東京府境迄

(「神奈川県会史 第3巻」904ページ、「デジタルコレクション」※から)

とあることから、この里道が「滝山道」の道筋に相当することに気付きます。そして、上の地図に見る通り「厚木道」はこの滝山道から分岐していることから、「吉野三崎間往還」の区間の中に「厚木道」が含まれていることがわかります。「吉野」はかつての甲州街道の宿場の1つであった「吉野宿」(現:相模原市緑区吉野)を指します。

「与瀬三崎県道」の呼称については、大正2年(1913年)の「神奈川縣告示第二百三十號」に次の様な記述が見えます。

明治三十四年七月神奈川縣告示第百六十五號中縣費ヲ以テ維持保存スル道路ノ名稱及其ノ區域左ノ通改定シ大正三年度ヨリ之ヲ施行ス

大正二年十一月二十三日  神奈川縣知事 大島久滿次

郡部縣費維持保存ノ道路線名及區域

一 與瀨三崎縣道

與瀨停車場ヨリ津久井郡日連村串川村愛甲郡愛川村厚木町高座郡海老名村御所見村藤澤町鎌倉郡鎌倉町三浦郡逗子町葉山村ヲ經テ同郡三崎町迄

(「神奈川県会史 第3巻」907〜908ページ、「デジタルコレクション」※から)


これによって、「厚木道」の区間は神奈川県庁ではそれまでの「吉野三崎間往還」に代わって「与瀬三崎県道」の名前で呼ばれることになった訳です。「与瀬」とは「吉野」と同様、甲州街道の宿場の1つであった「与瀬宿」(現:相模原市緑区与瀬)を指しています。

「吉野三崎間往還」の方は、後年の「横須賀市史」※(横須賀市史編纂委員会 編 1957年)の中で(274〜275ページ)、明治17年(1884年)には「吉野三崎間街道」の名前が「県統計書」の「道路ノ坪数及延長」の表中に現れること、更に明治20年(1887年)には神奈川県知事から郡役所に対して発せられた訓令の中で「吉野三崎間往還」の名が登場することが指摘されています。このことは、「神奈川縣告示第百六十五號」の明治34年以前からこの呼称が神奈川県庁の関連役所内では使用されていたことを示唆しています。しかし、「吉野三崎間往還」または「与瀬三崎県道」の様な呼称が神奈川県関連の資料(統計表など)以外で一般に用いられる例は、以下の「デジタルコレクション」の全文検索で見出される例を見る限り、やはり明治34年よりは後に出版された資料の中です。

  • 愛甲郡誌」(村瀬米之助 著 明治43年・1910年 竹村書店)

    吉野三崎間往還(靑山村より愛川村迄)二里十九町二十九間/(愛川村より荻野村迄)一里三十四丁四十四間/(厚木町より有馬村迄)一里九丁二十五間」(27ページ)

  • 帝國地名辭典 上卷」(太田爲三郎 編 明治45年・1912年[購求年] 三省堂)

    (「サガミ-ノ-クニ(相模国)」項中[交通]の中で)「…吉野三崎間街道(津久井郡吉野より厚木・藤澤を經て三崎に達す)…」(709ページ)(「カナガワ-ケン(神奈川縣)」の項中にもこれに近い記述あり)

  • 神奈川県誌」※(大正2年・1913年 神奈川県)

    (「第五節 交通及土木/三 橋梁」中)「其の他國縣道に沿へる、多摩川、中津川及び相模川の流域に於て、渡船に依り交通に便しつゝある者は左の五ヶ所とす。/…/岡田渡船|吉野三崎間往還|中郡相川村高座郡有馬村|同(相模川)|約一二〇(間)|仝(明治)十二年十一月許可/反田前渡船|同(吉野三崎間往還)」|津久井郡吉野町同郡日連村|同(相模川)|約五〇(間)|仝(明治)十二年四月許可(169ページ)

  • 三浦郡志」(神奈川県三浦郡教育会 編 大正7年・1918年 横須賀印刷)
    • 「葉山村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は海岸に沿ひて南北を縱貫す。縣道より分岐して横須賀市及衣笠村に至る里道堀内及一色に在り。兩道は一色の中央に於て一致し、上山口を經て木古庭に入り、衣笠村及横須賀市に達す。」(94ページ)
    • 「逗子町」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は鎌倉より名越の隧道を過ぎて久木に入り、町の西部を貫きて葉山村に入る。逗子、金澤間の縣道、逗子、田浦間の縣道は本郡東西の海岸を連絡し、與瀨三崎縣道に合す。」(101ページ)
    • 「南下浦村」の[交通]の項)「三浦縣道は菊名の海岸に於て、西に折れて高臺に上り、三崎町引橋にて與瀨三崎縣道に合す。」(115ページ)
    • 「三崎町」の[交通]の項)「半󠄁島の東部海岸より來れる三浦縣道は町の東北部にて、西部海岸より來れる與瀨三崎縣道に合し、町の中央を貫通して三崎港に達す。」(120ページ)
    • 「初聲村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は長井村より入り、天王坂を越えて南に過ぎ、三崎町に於て東部海岸の三浦縣道に合し三崎港に至る。」(140ページ)
    • 「長井村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は武山村より入り、本村の東部を過ぎて初聲村に通ず。本村の主要街區は皆縣道より離れ、西部の海岸地方にあるが故に、縣道より此等海岸地方に至る里道を生ず。」(146ページ)
    • 「武山村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は西浦村より來り、西部の海岸を通じて長井村に入る。横須賀市深田に起れる豐嶋武山縣道は衣笠村より村のほゞ中央を通じ、林に於て與瀨三崎縣道に合す。」(149ページ)
    • 「西浦村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は葉山村より來り、長者崎の鞍部を通じ、海岸の絶壁に沿ひ、秋谷に入り、芦名、長坂を經て武山村に入る。平坦なり。」(154ページ)
  • 相模国分寺志」(中山毎吉・矢後駒吉 著 大正13年 海老名村)

    「今海老名耕地の條里につきて詳記すれば、此の耕地を眞直に東西に横ぎる四條の著明なる道路がある。北にあるものを東京厚木縣道(俗に一大繩といふ)と云ひ、次は中新田の村道(東半部は欠く)をなし、次は大谷今里の村道(一部用田(「藤澤」の書き込みあり)厚木縣道)をなし、南にあるものを元吉野三崎縣道(一部は今藤澤厚木縣道)をなして居る。」(203ページ)

  • 炉辺叢書 9 相州内鄕村話」※(鈴木 重光 編 大正13年・1924年 郷土研究社)

    (「相州内鄕村/位置」項中)「そのうち吉野三崎往還が村の中央を通ずる樣になり、道志川には鐵橋が架せられ、全く面目を一新し、大正五年(ママ)には此往還が與瀨三崎縣道と改稱せられ、與瀨に通ずる釣橋が相摸川に架けられてから、更に/\趣を改めたものである。」(2ページ)

  • 大島家史と其郷土誌」※(大島正徳 編 昭和8年・1933年)

    「…同年(注:大正二年)十一月二十三日假定縣道矢倉澤往還は武相縣道と改稱、厚木横濵間里道は愛甲縣道となり、鶴峯溝間里道、御所見座間間里道の縣費支辨を廢し、與瀨三崎縣道(從來厚木町、相川村經由、有馬村に通ぜしもの、)及び埼玉縣道(從來厚木町より依知を經由して麻溝村に通ぜしもの)を本村經由に變更された。/大正九年四月一日道路法に依り村内を經由する左記路線。/厚木東京線、(從來の武相縣道)、厚木横濵線、厚木藤澤線(從來の與瀨三崎縣道)座間戸塚線、厚木調布線、座間寒川線、厚木戸塚停車場線。/を縣道に認定され、同十二年四月一日更に座間茅ヶ崎線を縣道に認定された。」(294〜295ページ)

  • 郷土神奈川 第1巻第6号(6)」※(昭和17年・1942年6月 神奈川県郷土研究会)

    (「津久井郡に於ける信玄道」長谷川一郎 著 記事中)「明治時代に至りては甲州街道の分岐点吉野町を起點として三浦三崎に到る相模国を縱貫する道路を總稱して「吉野三崎往還」と云つてゐたが、中央線與瀨驛の設けられしよりは現在の名稱を「縣道與瀨愛川線」と云つてゐる。/以上は所謂「信玄道」に關する歷史上の變遷である。」(22ページ)

  • 藤沢志稿 : 市勢振興調査結果報告書」※(昭和30年・1955年 藤沢市総務部市民課)

    (第2図 藤沢大富町略図中)「吉野三崎間仮定県道/役場より村岡境まで8丁」(江島道ではなく長谷へ向かう鎌倉道に記されている)


「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎県道」の具体的な道筋を示した地図などの情報は今回見つけることは叶いませんでした。しかし、上記の各資料から、与瀬から厚木へは「津久井道・信玄道」を経由すること、当初吉野起点であったものが与瀬へと移されたのは、明治34年(1901年)の官設鉄道(後の中央本線)開業に伴って与瀬駅(現在の相模湖駅)が設置されたことに伴うこと、厚木からは「岡田の渡し」を経て有馬村(現:海老名市有馬)から厚木道へと入るものの、その道筋は変遷があったことが窺えること、藤沢から鎌倉へは「江島道」ではなく長谷へ直接抜ける「鎌倉道」が選ばれていたこと、そして三浦半島内では葉山からそのまま三浦半島の西岸に沿って南下して三崎へ向かう道筋を経ていたこと、などが見えてきます。

この名称は大正9年(1920年)4月1日に発せられた「神奈川縣告示第百二十二號」(リンク先は「現行神奈川県令規全集 : 加除自在 第2綴 改版」昭和11年・1936年 帝国地方行政学会)によって「神奈川県道厚木藤沢線」と再び改称されますので、この時点で大正2年の県令で定められた一連の名称は廃止されたことになります。「吉野三崎間往還」は約12年間、「与瀬三崎県道」の名称は約7年間だけ有効だったことになるため、公的に「三崎」の名称が冠されていたのは都合20年足らずの期間だったことになります。

どの様な理由でこの様な呼称が使われていたのかを直接的に表明している資料には今回は行き当たりませんでした。個人的な見解ですが、あるいは道路の整備に県費を支出する法的な整備がまだ進まない時代には、これらの道筋の整備に県費の出動を少しでも促すためには、より遠方の拠点間を結ぶ主要な道筋であることを庁内に示す必要があったためではないか、と考えています。これらの呼称が大正9年に廃せられたのも、前年の大正8年の(旧)道路法制定によって県道の法的な裏付けが出来たことで、当時の道路交通の実情に合わない呼称を敢えて用いる必要が失われたためではないかと思われます。

こうした背景を鑑みるに、「聞書」の調査時には、あるいは話者にはこの「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎県道」と呼ばれていた期間のことが念頭にあったのかも知れません。当時の調査カードが残っていれば、「三崎街道」の呼称がどの様な機会に聞き取られたのかを確認したいところです。ただ少なくとも、既に県道の呼称としても実質的に廃止された後にも、更に「三崎街道」の呼称を好んで使いたがる人が、その多寡はともかく遠藤地区に存在していたことの記録であることは揺るがないところなのでしょう。

とは言え、一般的にはこれらの呼称がその後も継続的に使用され続けている状況は確認出来ません。藤沢市のその後の各種資料でも取り上げられていない状況から見ても、「厚木道」について「三崎街道」という呼称を用いるのは、神奈川県の告示が有効だった期間の道路行政をはじめ当時のこの道の諸事情を指す場合以外では、適切ではないと言うべきでしょう。少なくとも、「昔の生活」に見られる様に「三崎街道」という呼称について古代からの交通を連携させて考察するのは、妥当ではないと言えます。

もっとも、「三崎街道」という呼称を挙げた話者の思いについては、もう少し考えてみる必要はありそうです。その点に関連して、更に検討したい記述が「聞書」や「昔の生活」に見えるのですが、今回も長くなりましたので「その3」に廻します。

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矢倉沢往還関本「村」の関本「宿」への昇格願書

史料探索のために「南足柄市史」の資料編を改めて確認しているのですが、エピソード的に取り上げてみたい史料を見つけました。今回はこの史料を中心に考えられることを書いてみたいと思います。

この史料の「南足柄市史」上での表題は「219 慶応四年八月 関本村を関本宿と改称の願書」となっています。

(表紙欠)

恐以書付申上

一当村人馬御継場之(儀)ハ、先年駿・甲・信右三ケ国之往来而、登り駿州竹之下村(静岡県小山町)迄、箱根山続足柄山打越、四里拾六(町)之大難所、下り小田原宿迄、弐里弐拾八町之御継立仕候、 御朱印・御証文御方様并ニ諸家・御藩御荷物継立仕候程之義而者、中古格別之御通行之、尤是迄諸御役方御通行之節、隣村相雇、助合人馬被差出、村名を以御伝馬御継立仕候、然ル処当今之御時勢至り、日々御通行弥増罷在、東海道筋往還同様始末、村方人足ニ而ハ御継立不相成節ハ、前(顕カ)申上候通り隣村相雇、御用人馬相勤メ、御定メ賃銭被下置候上ハ、聊道中筋ニ茂相振れ居り候義申、往々夥敷(おびただしく)御通上有(ママ)之候上、人馬御賄付、近村助合雇立候而茂、宿名有之候ハヽ、猶亦近村へ之聞江茂宜敷、尤雇賃銀不足等之分ハ、是迄当村方(ママ)罷在候程之義付、御伝馬御用御差支不相成様仕度、既重キ 御高札ヲも御建置被遊候程之義御座候間、何卒格別之以 御憐愍ヲ当村宿名御歎伺申上候通り、 御聞召被(遊カ)、宿名 御免被 仰付下置候様、御歎願奉申上候、右願之通り達 御聞下置候ハヽ、小前一同私共迄難有仕合存候、以上、

慶応四辰年八月

関本村

(「南足柄市史2 資料編 近世⑴」547ページより、返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)


関本村の位置
関本村の位置
大雄山最乗寺は関本の南西方向約4kmの山中
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

関本村の高札場跡
ストリートビュー

関本村(現:南足柄市関本・大雄町)はこれまで幾度かこのブログでも登場しましたが、矢倉沢往還が小田原からの甲州道と和田河原村で合流した先の台地の上に位置し、両往還の継立場となっていました。また、大雄山最乗寺への入り口に当たっており、参拝客の拠点となっていました。

この願書が書かれた慶応4年(1868年)という年は幕末も大詰めの時期に当たっていて、同年の4月には江戸開城に伴って徳川慶喜は謹慎となり、その後の会津戦争も8月には大詰めを迎えていました。そして、翌月8日には明治に改元することになります(以上何れも旧暦)。以下で示す様に関本村も次々と官軍関係者が通行する状況を目の当たりにしていますから、これまで長年培われてきた社会が大きく変動しようとしている様子を肌身で感じている最中に、この願書が書かれたことになります。

関本村にはこの様な状況下で、東海道に匹敵するほどの継立の負荷が発生したこと、そしてその過大な負荷に対応するべく、周辺の村々から助郷を調達して必要な人足を充足したことが、この願書には記されています。実際、慶応4年には足柄峠を越えてくる戊辰戦争の官軍関連の通行が急激に増えたことが、関本村の隣の継立場である苅野一色村(現:南足柄市苅野の一部)が翌明治2年にまとめた「継立人馬日締め帳」に見えています。


辰三月廿七日

一人足四人  御下り 関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭五百三拾文/増賃銭五百六拾六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

御総督御内/雀部八郎様

右同断

一人足四人  御下り 関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭五百三拾文/増賃銭五百六拾六文

肥後御藩中/岩男内蔵允様

右同断 御下り

一人足拾弐人 右同断

此賃銭壱貫五百九拾文/増賃銭壱貫七百六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

肥後御藩中/近藤左助様/仁保達三郎様

辰三月廿七日 御下り

一人足六人  関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭七百九拾三文/増賃銭八百五拾壱文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

御官軍御用/名倉千之様/川村周八様

辰三月廿九日 御下り

一人足九人  関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭壱貫百九拾弐文/増賃銭壱貫弐百七拾六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

御官軍御賄御用/柴田権次郎様

御手代/須田宇助様

(「南足柄市史3 資料編 近世⑵」482〜484ページ、以下の同書からの引用も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、「辰」は慶応4年を指す、一部改行を「/」に置き換え、「…」は中略、強調はブログ主)


これを受けて、東海道の宿場同然に関本も「村」ではなく「宿」を名乗り、高札などの施設を宿場に相応しいものに整備することを許可して欲しいというのが、この願書の趣旨です。

考えようによっては、関本村は一時的とは言えこの負荷を捌くために必要な人足の手配を「村」を名乗ったままでも行い得ている訳ですから、宿場を名乗れないことが継立を運営する上での制約となったとは必ずしも言えません。その点では、この願書はいささか行き過ぎたことを願い出ている様にも見えます。それでも関本村がこの機に乗じて「宿」への格上げを願い出ようと考えた背景として、ある近隣の村々とのトラブルが思い当たります。

「南足柄市史6 通史編Ⅰ」p542-図3-3
「峰通り概念図」(再掲)
(「南足柄市史6 通史編Ⅰ」ページより)
以前松浦武四郎「東海道山すじ日記」を分析した際、松田(現:松田町)から苅野一色村への道筋として、本来の矢倉沢往還の道筋を通らずにバイパスしてしまう「峰通り」というルートを使ってしまう問題があったことを紹介しました。関本村としては、本来同村を経由する荷物や通行人から得られた筈の利益を失うことに対して座視する訳には行かない立場でした。以前の記事でも紹介した通り、関本村と峰通りを使っている継立村との間での争議に絡む史料が、「南足柄市史」にも多数収録されています。

流石にその様なトラブルがあることを願書に直接書く訳にはいかなかったと思いますが、この機に「関本宿」を名乗ることが出来れば、あるいは「峰通り」を続けている近隣の村々に対しても、それなりに牽制となるのではと考えたのかも知れません。無論これは推測の域を出ないことではありますが、あるいは宿場という「箔が付く」ことで、近隣の継立場も勝手な判断をしにくくなるかも知れない、あわよくば罰則を課して歯止めをかけられるかも知れないという思惑が、「願書」の端に見え隠れする様にも思われます。

しかしながら、この「願書」には日付はあってもその「宛先」が記されていません。何しろ幕府が倒れてしまった直後ですし、まだどの様な政治体制が採られるのかもわからない中では、これまでの様に小田原藩に送り届けてももはや意味はなかったかも知れません。と言って、1つの村の願書を受け付けてくれる役所の様な組織がどうなるのかも不明な時期とあっては、これを何処に提出したものか、わからなかったのではないかと思われます。従って、この願書は何処にも提出されることなく、下書きのまま手許に措かれていた可能性も考えられます。表紙がない状態というのが本来あった表紙の跡が見えているのかどうかは不明ですが、下書きであったとすれば元からその様なものがなかったのかも知れません。

実際のところ、関本「村」がその後関本「宿」となったことを示す史料はありません。上記の苅野一色村の締め帳は願書の翌年に書かれたものですが、この中でも「関本村」と記されています。一方で、関本村の積年の悩みの種だった「峰通り」の問題は、明治5年(1872年)になって5年前には思いもよらない形で決着を見ることになります。「南足柄市史」上で「陸運会社設立に伴う峰通りの通行公認書」と表題を付けられた次の史料が、その結末を現在に伝えています。

取替申一札之事

一今般郵便陸運枝道御開相成候付、私共村々御開御免許願立候処、字(峰)唱候間道通路いたし候より彼是差縫(さしもつれ)、然ル処平塚駅周旋人立入取扱ヲ以、両村示談行届合村いたし候、然上双方共故障無之御願通被 仰付、双方共(いささか)申分無御座候、依之後年至り異論無之証書して和熟対談左之通、

郵便陸運    関本村 仰付候、

陸運会社    矢倉沢村 仰付候、

陸運会社    神山村 仰付候、

一矢倉沢村より神山村(松田町)合村町屋通路間道往復之儀、全便利之地故、旅人之頼継立方取急候節、則間道附通し、刎銭(はねせん)して荷物壱駄付銭五拾文充、両村より関本村差出可申候事、

一間道筋旅人歩行立ヲ以通行致候者、矢倉沢村より手心ヲ以、関本村之往来通路之儀心附いたし可申事、

一関本村より曽屋村(秦野市)通、継通し之節、神山村合村町屋継場之廉ヲ以、往返共口銭差出可申、尤荷物壱駄付何程相定メ候義、駅々議定通差出可申事、

一此度示談行届合村いたし候上、両村境界内人馬口銭相互取遣いたし申間鋪候事、

右之通取極仕為後証取替一札差出申処、仍件、

明治五申年六月

足柄上郡/矢倉沢村/百姓代/桜井善左衛門(印)/組頭/桜井小左衛門(印)/名主/田代五郎左衛門(印)

神山村/百姓代/北村六右衛門(印)/組頭/北村源左衛門(印)/名主/田中六左衛門(印)

神山村合村/組頭/竹内半七(印)//竹内四郎左衛門(印)

前書之通立入取扱申候付、依之奥印いたし候、以上、

東海道平塚駅/枝道周旋方取扱人/加藤新兵衛(印)

関本村/御役人中

(「南足柄市史3 資料編 近世⑵」487〜488ページより、署名の改行は一部「/」にて置き換え、日付との位置を調整、強調はブログ主)


この史料の中でも引き続き「関本村」と書かれていることからも、5年前の願書に記された「昇格」はついに果たされることはなかったことがわかります。一方で、江戸時代以前から長距離の陸運を担ってきた「継立」の制度が新政府の下で「陸運会社」として改組されることになり、関本村も周辺の継立村共々新たな会社制度の免許を出願して無事認められています。そして、平塚駅の執り成しの下で「峰通り」問題の解決が図られ、この近道を使った場合には刎銭として荷物1駄(馬1頭分の荷物)に対して50文づつを関本村に支払うことなどの条件で合意を得ることが出来ました。


慶応4年時点で願書の草案を練っている際には、5年後に継立制度そのものが無くなってしまう未来など、草案の主はもちろん、「峰通り」問題に関与する村々の誰も全く予想だにしなかったでしょう。その様な中で作成されたこの願書は、江戸幕府から明治政府へと社会全体が変わっていこうとする中で、村の措かれた役割がどの様になっていくのか見えにくくなりつつも、その地歩を少しでも確保しようという動きが垣間見える史料であると言えるでしょう。
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「ルートラボ」終了対応:中原街道のルートに手を入れました

先日の「LatLongLab」の終了発表以来、「ルートラボ」で作成したルート図を「地理院地図」で作成した地図に差し替える作業を少しずつ進めています。「ルートラボ」では表現出来なかった複数ルートの表示や、「明治期の低湿地」や「陰翳起伏図」等との合成など、差し替えに際して多少情報を追加した地図もありますが、「ルートラボ」終了までの時間が限られていることもあり、基本的には作成したルート自体には手を加えることなくそのまま使用する方針で作業を進めて来ました。しかし、中原街道のルート図を差し替える段になって、少しルートに手を入れることにしました。

以前の記事で、「地理院地図」で過去の空中写真を重ねて表示させる機能について紹介しました。この機能を使って、中原街道の道筋のうち開発によって失われた区間について、多少なりともトレースし直してみる作業を、この差し替え作業を始める前から少しずつ進めていました。「ルートラボ」のルート図を差し替える作業を始めたことで、中原街道の作業は一旦中断せざるを得なくなっていましたが、この機に完成させて差し替えることにしたものです。

都心部から小杉付近までは1936年頃の古い空中写真を重ねることが出来ますし、そこから横浜市都筑区南山田町辺りまでは1940年代後半の空中写真が使えます。この区間では現在の国道1号線(第二京浜国道)や神奈川県道45号として大幅に拡幅される前の道幅が、都心部など一部先行して拡幅された区間を除いて見えています。


1936年頃の空中写真に見える、洗足池(東京都大田区南千束)の南を通過する中原街道(中心十字線、以下同じ)
東急池上線の洗足池駅との間が比較的空いており、将来この方向に拡幅されることがわかる
1940年代後半の写真でもまだ拡幅されていないことが確認出来る(「地理院地図」)


また、多摩川では昭和9年(1934年)に廃止された「丸子の渡し」に繋がる道筋がまだ見えており、右岸側(川崎市側)では堤防内がまだ田畑などに利用されていた状況を確認出来ます。今回の修正では基本的にこれらの道筋をトレースする様にしており、特に現在は失われてしまった道筋を特定するのに有効な手法と言えると思います。


1936年頃の空中写真に見える、多摩川河川敷を丸子の渡しへ向かう道筋
その南側の土地は畑として利用されていると考えられる
大正年間に堤防が出来るまでは渡しのすぐ傍らまで集落があった(「地理院地図」)

それ以外の区間では1960年代前半の写真のみになってしまいますが、この時点でもまだ拡幅工事を施される前の状況が見られます。また、特に横浜市都筑区の勝田(かちだ)・茅ヶ崎付近(旧:武蔵国都筑郡勝田村・茅ヶ崎村)では港北ニュータウンの開発によって周囲の地形ごと道筋が完全消滅した区間があり、その道筋を追う上では重要な手掛かりを与えてくれます。他にも保土ケ谷バイパスをはじめ各所に開発による地形の消滅の影響を見ることが出来、時代を遡る上でのヒントを得ることが出来ます。


1960年代の空中写真に見える、横浜市都筑区茅ヶ崎一丁目付近のかつての中原街道
かつては尾根筋を上っていたと考えられ、西側に沢筋が見えているが
現在はこの辺りの地形は大きく変わっており、街道の痕跡は地形共々全く残っていない(「地理院地図」)

なお、これらの写真は何れもモノクロで解像度が現在のものと比べてまだ粗く、特に屋敷林や建物などの影が被ってしまっている箇所では道筋を見極め難くなってしまっています。その様な箇所では無理に写真をトレースせず、現在の地形図と照合して補っています。

また、これらの空中写真では当時の技術的な限界から多少の誤差を含んでおり、「地理院地図」で重ねて表示させる上では各種の補正作業が施されていることについては、以前の記事でも紹介したこちらの論文で説明されています。ただ、こうした補正作業を経ても誤差が完全には取り除けておらず、特に写真の辺縁部では以下の様に道筋など繋がらなくてはならないものが繋がらない箇所が見受けられます。


空中写真の繋ぎ目で中原街道が互いにズレてしまっている箇所
横浜市都筑区池辺町付近の中原街道や、それ以外の道筋もかなりズレている(「地理院地図」)

従って、以前の街道の位置をこの機能によって完全に特定することは出来ません。街道の線形などから総合的に判断するのに留めた方が良さそうです。それでも、道路拡幅後に不自然な形で残った歩道や脇道が、かつての街道の名残であることを確認する程度には有効に活用出来ると思います。

中原街道・空中写真トレース版
中原街道・空中写真トレース版
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この様な形でルートを引き直した結果は右の様になりました。街道の性格を考え、江戸時代初期に小杉(現:川崎市中原区小杉陣屋町)と中原(現:平塚市御殿)の2箇所にあった「御殿」の位置にマーカーを打ってあります。

なお、空中写真では既に道筋を付け替えられた後の状態になっている箇所(厚木基地南側と「廻り坂」など)では、過去の地形図を参考に概略で線を引いています。相模川の西側についても既に失われた区間が多いとされていますが、こちらについては原則的に現道を元に線を引いています。

また、今回併せて寒川町が「中原街道」のガイドを立てている「別ルート」の道筋を破線で追加しました。これは「田村通り大山道」の宿場でもある一之宮を経由せずに、大蔵村(現:寒川町大蔵他)の辺りから直接田村の渡しへと向かう道筋です。幕末の一之宮村に伝わる「一之宮村外二十七ケ村組合麁絵図面」(「寒川町史15 図録」78ページ所収)ではこの道筋を「中原宿往來」と記しており、この時期の一之宮村ではこちらを本道と考える例があったことがわかります。もっとも、実際は継立を運用する上では一之宮村の本集落を通る大山道を経由する必要があったと考えられ、多くの絵図では田村の渡しから大蔵村への道筋を大山道などよりも細く描くものが目立ちます。その様な事情を考え、今回はこの別ルートは破線で描き入れるに留めました。


墓地の傍を通る細い道に
中原街道であることを解説するガイドが
寒川町によって立てられている
このガイドから南側30mほどの路傍に立つ
地蔵菩薩立像(寛延2年・1749年)の
右側面には「□(「田」と推測される)村道」と刻まれており
「田村の渡し」へと通じる道であることが確認出来る
ストリートビュー
中原街道・空中写真トレース版一之宮付近
中原街道・空中写真トレース版一之宮付近
1960年代の空中写真と合成
この時点で既に工場の敷地などによって
道筋が失われた区間が少なからずある

この「別ルート」も現在では工場の敷地になったり区画整理が行われたりしたことによってかなりの区間が失われており、1960年代の写真を頼りに線を引き、その時点で既に失われていた区間については大筋での推定をしています。

中原街道について後日仔細に検討する機会を持ちたいと考えていますが、この図についてもその機会に改めて見直したいと思います。それまでの暫定的な図とお考え下さい。

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「【史料集】『新編相模国風土記稿』足柄上郡各村の街道上の位置」その他の修正について

前回に引き続いて、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げる予定でしたが、その前に以前まとめた記事の修正を済ませておいた方が良いと思い立ちました。件の記事では「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)の各村の街道の記事を一覧にまとめ、それらの街道の位置を推定した地図を添えましたが、その中で矢倉沢往還の足柄上郡の部分に一部修正を加える必要があり、説明が長くなりそうなので、別建ての記事として予め公開しようと考えた次第です。

この修正を行うに当たり、参考にしたのは次の書籍です。

善波峠〜足柄峠 矢倉沢往還ウォーキングガイド」 2017年3月 矢倉沢往還に関する研究会編
2市3町矢倉沢往還探訪ウォーキング事業実行委員会発行(以下「ガイド」)



発行者の名称が示す通り、矢倉沢往還の沿道の市町である秦野市・大井町・松田町・開成町・南足柄市が協力して作成した詳細なガイドです。巻末には比較的詳細なルート地図が掲載されています。基本的には実際に現地を歩いてもらうための「ウォーキングガイド」ですから、同書の断り書きに見られる様に、このルートは現在安全に通行出来る道筋を選択しているため、当時の道筋からは逸れる区間を含んでいます。とは言え、沿道各市町で矢倉沢往還について研究されている方々の手によって、出来るだけ当時の道筋に近いコースに線が引かれており、これと「迅速測図」等とを照合することで、当時の道筋をかなり精度高く追うことが出来ます。

今回修正を加えたのは次の箇所です。
  1. 以前の足柄上郡の矢倉沢道の地図では、曽屋(現:秦野市曽屋、他)から千村(ちむら)(現:秦野市千村)を経由して四十八瀬川(川音川)沿いに降りて神山(こうやま)(現:松田町神山)へと向かう道のみを示していました。このまとめを作成した際には、「風土記稿」に曽屋から篠窪(現:大井町篠窪)を経由して神山へ向かう道筋が川音川の増水時の通行路であることの記述があるにも拘らず、これを矢倉沢道の別道と認識せずに解説をしていました。今回この別道を追記し、関連する記述を修正しました。

    また、大住郡の矢倉沢道の地図にも同様の追記を行い、併せて他の道を書き加えて位置関係を示しました。因みに、この篠窪経由の道は神山へ降りる区間を除いて「小田原道」と重複していますが、「風土記稿」の大住郡の各村の記述では篠窪へ抜ける小田原道(大山道)が矢倉沢往還の別道である旨の記述はありません。

  2. 以前の地図では神山から十文字の渡しにかけての道筋が正確ではなく、神山から町屋(現:松田町松田惣領、現在の地形図上にも「町屋」の字が記されている)を経由する道と松田惣領の本村を経由する道とを混同した道筋を描いていました。

    一方「ガイド」では、この区間の道筋を次の3通りに分けて紹介しています(22ページ)。

    • 神山・町屋コース:
    • 河内(かうち)・沢尻コース:
    • 松田惣領・庶子境道コース:

    また、「十文字の渡し」についても次の3通りの位置を紹介しています(32ページ)。

    • 元文時代(1736〜40年)の頃の位置:
    • 天保時代(1830〜43年)の頃の位置:
    • 「迅速測図」(明治15年・1882年)に描かれた位置:

    他に、享保年間(1716〜35年)以前の渡し場の位置については、右岸側のみ巻末の地図上に位置が示されています。

    以前の記事の地図は、基本的には「風土記稿」に記述された街道の大筋の位置を示す目的で描いたものです。その意味では、「風土記稿」時点では矢倉沢往還の道筋とは認識されていなかったであろう明治以降の道筋を示すべきではないとも考え、特に「十文字の渡し」については「風土記稿」成立の年代である天保年間の道のみに絞ろうかとも思いました。しかし、「ガイド」の解説からはそこまで時代を絞り切れるとも考え難いことから、今回は「ガイド」に示された道筋を一通り反映することとしました。「十文字の渡し」については、便宜的に元文の渡しの位置を矢倉沢往還を示す青線の中に取り込みました。

    基本的には、「ガイド」のコースを出来るだけ忠実に「地理院地図」上でトレースするものの、ウォーキングのコースとして史蹟などを巡るために付け加えられたと思しき区間は除外する形で線を引いています。

    矢倉沢道:松田付近解説用
    「ガイド」で解説された矢倉沢往還の松田付近のコース

これに伴い、「日記」の各記事で作成した地図にも同様の修正を逐次施します。
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