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「遠藤民俗聞書」柳田國男の序 雑感

藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」)中で紹介された「遠藤民俗聞書」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊)の内容の分析は前回で一段落したのですが、「聞書」の序についてはもう少しその内容を見ておきたいと感じ、別に1回記事を起こすことにしました。


その1」で「藤沢の資料」を引用した通り、「聞書」には柳田國男が口述した序が添えられています。「聞書」の編集を担当した丸山久子が口述筆記を担当しています。見開き2ページに及ぶその序の日付は昭和36年(1961年)4月、柳田は翌昭和37年8月に没しますが、口述で対応したところを見ると、既に自ら筆を執ることが難しい状態だったのかも知れません。実際、「聞書」序が収録された「柳田國男全集33 昭和30年〜昭和37年」(筑摩書房 2005年 486〜487ページ、改題671〜672ページ、以下「全集」)には晩年の文章がまとめられているものの、昭和36年以降は大半を談話、もしくは口述を編集する、あるいは過去の講演録など自ら筆を採らない形の文章が占めています。因みに「聞書」序は当初出版された「定本柳田国男集」(筑摩書房刊、以下「定本」)には収録されませんでしたが、今知られている中ではこれが柳田にとって最後の序文という位置付けになることを、「藤沢の資料」のみならず「全集」の改題でも記しています。

丸山の経歴について、「藤沢の資料」では次の様に解説しています。

丸山が19歳の時、父親が子どもたちの健康を案じて鵠沼海岸に別荘を建て、夏の間を過ごすようになった。近くには、柳田國男の弟で元海軍大佐の松岡静雄が住んでおり、自宅を神楽舎(ささらのや)講堂と名付け、若者たちを集めて古典や国語学、民族学など、さまざまな分野の講義を行なっていた。丸山も松岡静雄の長女雪子と東京府立第三高等女学校の同窓だった縁で、講義に通っている。柳田の学問を知ったのは、このころのことと考えられる。

1938(昭和13)年、丸山は柳田の「国語の将来」の講演を國学院大学の夏期講習会で聴講する。自身の略歴には、これを契機に柳田門下に入ったと記している(『評伝柳田國男』1979)。数年後には、手紙の代筆や原稿の浄書、資料カードの作成などを任されるようになった。戦時下も東京に残って成城の柳田邸に通い続けたが、1945(昭和20)年5月の空襲で麻布の自宅が全焼する。鵠沼海岸の別荘に移り住んだのは、翌年の初春であった。戦後は、柳田邸に開設された民俗学研究所の所員となり、柳田の著書の編集等を担いながら研究を続けた。

(「藤沢の資料」45ページ)


「炭焼日記」中「丸山(久子)」の登場する日:(リンク先は全て「デジタルコレクション※」、括弧付きは姓のみ表記、なしはフルネーム表記、木曜会欠席の分は含めず)
実際のところ、丸山が足繁く柳田の下へ通ったことが、柳田の「炭焼日記」(昭和33年・1958年初出)に収められた昭和19〜20年の日記に見えます。第二次大戦中のことだけに柳田の周囲でも次第に世情がきな臭くなり、交通の便も滞りがちになる中、丸山は平均して月1回以上のかなりの高頻度で柳田を訪れています。木曜会という研究会への参加のほか、時には柳田の代理で慶應義塾の図書館から書物を借り出し、また返却をしたり、更には原稿を持参したり書籍の編集の相談をするなどの所用を、この頃から既に頼まれていたことが読み取れます。丸山の家も戦災で焼け落ちてしまって鵠沼に疎開してからも、成城まで訪れて自身の戦災を報告するなど、柳田との交流を途切らせない様にしていたことが窺えます。そして昭和20年12月21日の項に「正月から此方の仕事をすることになる。」とあり、これが民俗学研究所所員の話に繋がるのでしょう。

更に、この別巻の後半には書簡集が収められていますが、その中でも丸山久子の名が登場するものが1通含まれています。

三五三昭和二十五年十一月十日 京都下鴨西半木町四十五
平山敏治郎樣侍史 東京世田谷區成城町 柳田國男

先日ハ處々方々を引張りまはし御迷惑之限りと存し候、先つ/\無事に歸宿のち二日ほと風を引き申、 御挨拶もおくれ申候、柴田氏へハ葉書を出し候、その他の諸君には貴兄よりよろしくねかひ上候、 なほ御面會の折たしかめるのを忘れ候が、丸山久子さんの家の日記のことは前に申上置候や如何、短い旅日記などの雜然たるものに候へとも、それを見て行くといろ/\と百年前の信濃農村の狀況がわかり申候、同女史は目下少し健康をいため鵠沼に引込ミをり候へとも、一度誰かに見てもらひたしと申、小生は中途にてやめ申候、御兩親片瀨御在住中だつたら便利なりしに、 今では手渡しの方法も無く、ちよつと不便に候、君に一閱の思召あるならば何とか方法を考へ可申、或は小包にて送つてくれぬとも限らす、御一考被下度候、寶貝の問題は可なり張合ひのあるテーマと存候、小生はそのプランをのみ兼󠄁て誰か興味をもつ若い人に引き繼き度候、 鼠は南山大學の研究所に託し有之、共うち御一讀被下度、狐はちようど頃合ひニ付アテネ文庫にでも書かうかと存し居り、先日の話ハ一斑に過ぎず候、 令室によろしく御傳へ給ハるべく候

(「定本」別巻 第4 1964年 606〜607ページ、「デジタルコレクション※」より)

丸山の先祖の日記がその後どの様な扱いになったのかは定かではありませんが、少なくとも丸山が民俗学へと傾倒していく動機のうちに、彼女自身の出自への関心が含まれていた可能性はありそうです。

また、柳田の方も丸山の活動を高く評価していた様で、例えば「昔話の研究について」(「女性と経験」第2巻第3号 昭和32年10月20日刊、「全集」所収 223〜228ページ)の中で丸山が収集した佐渡の昔話の録音採集について紹介したり、丸山をはじめとする女性の民俗学活動グループにしばしば招かれて講演で話したりしていることが、「全集」に採録されたいくつかの講演録で確認できます。

この様な丸山との繋がりがあって柳田が「聞書」に「序」を寄せることになった訳ですが、その前半はこの様に記されています。

相模という国は東京には近く、東海道は早くから通じているのでよく知られているところのように見えるが、実際には鎌倉や小田原などの歴史的に有名な二三の地を除いては、まだよくわからないところが内陸部には多いのである。

昭和の初め、幸い小田急電車線が通じ、同時にこの沿線に移り住むことになってから、この線を利用して埋もれている土地を見きわめ、それについて書き残しておくことを一つの任務のように思い定めて計画を立てていた。それを実行に移せたのは、昭和十四五年頃からで、殊に遠出の出来なかった戦争末期には、配給の乾パンを持って小田急線の駅々でおりては歩くことを、毎週の行事のようにしていた。あるときは小田原行きと江の島線との分れるところの三角形の間の地を歩いてみたが、おもには境川に沿った古い道をたずねて、今では戸塚区となっている柳明という村では、折柄の梅を楽しんだこともある。こうして境川については、岩の斜面から一滴々々したゝり落ちる水源から、中途ではすっかり水が涸れているような所も辿り、しまいには片瀬川となるまでを見究めた。また川の両岸に同じ地名のあることにも興味をひかれて、いずれは「境川の水」という名で本をかくつもりであった。

それより以前、曽我物語の研究をしていた頃に、曽我から鎌倉までどういう道をとったかを考えてみたことがあって、平塚から馬入川を越えて茅ケ崎の方へ歩いた記憶はある。ここから境川までの中間地帯の奥、すなわちいまの藤沢市の北の方までは、とうとう行ってみたことがなかったが、もともとこのあたりには、詳しい記述もなく空白となっているので、馬入から鎌倉までの間はもっと近いような気がしていた。たゞ樹木の多い台地が拡がっているという漠然とした考えから、あるいは鎌倉の政策として、久しく原野のまゝ残されていたのではないかという、疑いを抱いていたのである。

(「聞書」ページ数表記なし:「『遠藤民俗聞書』の発刊に寄せて」の次)


沿線に移り住む」とは柳田が昭和2年(1927年)成城に居を構えたことを指していて、ちょうどその年に小田急線が開業し、直前に現地に移転していた成城学園の誘致で「成城学園前駅🗾」が設置されます。ですから交通の便という点では申し分ない場所に住んだことになる訳ですが、実際は「それを実行に移せた」という昭和14~15年頃まで12年以上の間、思うように時間が作れなかった様です。その頃には柳田は既に64~5歳になっていたことになります。

最初に挙げられている「小田原行きと江の島線との分れるところの三角形の間の地」というのは、現在は大規模な車両基地が展開している辺り🗾のことを言っていると思われます。この車両基地が設置されたのは昭和37年(1962年)のことですから、柳田が訪れた頃にはまだ当時の地形図に見える様に桑畑や樹林が広がる景観だった筈です。柳田が関心を持つ様な伝承が何かしらある場所とは思えないのですが、そんな場所を敢えて訪れた意図をこの文章の中から窺うことは困難です。


大沼・小沼と相模大野駅の位置関係
地形図は大正10年測量のものだが小田急線が書き加えられている(「今昔マップ on the web」)

しかし、柳田の過去の記事の中に、「ダイダラ坊の足跡※」(初出:「中央公論」42巻4号 昭和2年(1927年)4月、「定本」第5巻 1962年 所収 306〜327ページ)や「ぢんだら沼記事※」(初出:「讃岐民俗」1号 昭和13年(1938年)12月、「定本」第4巻 1963年 所収 405〜410ページ)と題した、「デイダラボッチ」の伝承を紹介するものがあります。これらの記事に登場する「大沼」と「小沼」は、昭和13年に開業した相模大野駅(当初は「通信学校駅」)から直線距離で1kmあまりと比較的近場にあり、現在は埋め立てられましたが駅の東側を大沼や小沼から流れ出す「深堀川」が流れ下っていました。「地理院地図」の「数値地図25000(土地条件)」では、相模大野駅を貫く様に「盛土地・埋立地」が描かれていますが、これがかつての「深堀川」の跡です。

「ぢんだら沼記事」では横浜線の淵野辺駅から「東南へ小一里のところ」としていますので、この記事のための取材の折にはまだ淵野辺駅からのアクセスしかなかったのでしょう。柳田はあるいはこのデイダラボッチの伝承の地が新規に開業した駅から比較的近い場所にあることに思い至り、伝承に繋がりそうな情報が更に見つからないか、周辺を探索してみようと思い付いたのかも知れません。


一方、「聞書」序の「柳明」(現:横浜市泉区上飯田町、「上飯田」バス停付近)に関して語ったくだりは、もう少し掘り下げて考えてみたい話が含まれています。

柳明神社
鳥居脇のガイドは2022年時点でもそのまま残っている
ストリートビュー

八王子道と神奈川道の道標
2010年の時点では残っているが、2015年には撤去され
柳明神社境内の消防団の車庫脇に移されている
ストリートビュー

「聞書」の序では梅を楽しんだことのみが書かれていますが、この訪問の折のことは雑誌に連載した「水曜手帖」という随筆風の文章に認めています(昭和16年4月「民間傳承」6卷7號、「定本」第3巻※ 1963年 所収 5〜7ページ)。この中で、この集落の家々の庭木に古いものが多く、石井直吉という人の家の庭に生えている梅の大樹が2本あり、更には元禄より古いという黄梅も咲いていたという話を書いています。

この集落の辺りには現在も「柳明神社」が残っているのですが、その境内に残っているガイド(リンク先はGoogleマップ内の写真)には次の様に記されています。

柳明(やなみょう)神社

廃寺(はいじ)になった鎌倉郡観音24番札所大石寺(あと)に、村境の伊勢山(いせやま)(まつ)られていた神明社(しんめいしゃ)(うつ)したものです。昭和50年に柳明神社と改められました。

大石寺が廃寺になったとき本尊(ほんぞん)の観音像を阿久和(あくわ)村の観音寺に(あず)けました。その後、村に不幸がが()こったため、境内に観音堂(かんのんどう)を建て観音像を安置(あんち)しました。神社(うら)の道の分岐点(ぶんきてん)には、八王子道(鎌倉道)と神奈川道の道標が立っています。神社前には柳明天満宮(てんまんぐう)もあります。


このガイドでは「柳明」に「やなみょう」とルビを振っています。しかし、「水曜手帖」の記事では柳田は「やなぎみやう」とルビを充てています。

柳明(やなぎみやう)といふ村だけは、一度諸君にも見せたい。斯ういふ古くて美しくて、人に知られて居ない村も珍しいからである。いつの時代の宛て字か知らぬが、ヤナギミャウのミャウはもと開墾地の「名」であらうのに、住民ももう其意味を忘れて居るのである。現在の行政區劃は是でも横濱市戸塚區上飯田町の一部になつて居るが、近い頃までは鎌倉郡中和田村大字上飯田のうちで、新編風土記にはもう上飯田の小名となつて出てゐる。しかし地形や隣部落との距離から考へて、家は三十餘りしかないが、やはり獨立した昔の一領だつたと思はれる。さうしてそれを立證すべきあらゆる文書資料が、今は悉く失はれて居るのである。

「定本」第3巻※ 5ページ)

この中で「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)を参照したことが明記されているのですが、その「上飯田村」の項(卷之百二鎌倉郡卷之三十四、リンク先は以下も含め雄山閣版)の小名には「△柳明 也奈美也宇」とあるので、「やなみょう」という読みを書き取っていることを柳田も見ている筈です。それにも拘わらず記事では「やなぎみやう」と書いたのは、あるいは柳明の人が「やなぎみょう」と呼んだ例を柳田が聞き取ったためにそちらを優先したのかも知れません。少なくとも単なるミスではなかった可能性を考えてこの記事を読む必要はありそうです。



「水曜手帖」記事関連の地図
地形図は昭和29年修正後のもののため、高座渋谷駅の位置は桜ヶ丘駅開業後に現位置に移った後のもの
江ノ島線開業当初は現位置より600mほど北側にあった(現:大和市渋谷2丁目あたり)
(「今昔マップ on the web」)

ともあれ、「柳明」の「(みょう)」の読みに関連して「もと開墾地の「名」であらう」と柳田は判じている訳ですが、そうなると併せて考えたい地名が境川を挟んだ対岸の地域に存在していることに気付きます。「外記明(げきみょう)」(現:大和市福田3丁目付近、福田三丁目バス停周辺)と「善光明(ぜんこうみょう)」(現:大和市福田4丁目付近、福田1号公園周辺、何れも江戸時代には高座郡福田村内)です。

どちらも境川よりも西の引地川に近い辺りに残る地名で、この辺りの新番地表記が実施される以前の地形図にはこれらの地名が表記されていたことが、「今昔マップ on the web」で地形図を切り替えていくとわかります。これらの地名について、「大和地名考」(富沢美晴著 昭和57年・1982年 神奈川新聞社)では次の様に解説されています。
  • 外記明 外記とは律令制における官職名で、太政官の少納言の下にあって詔勅や上奏文を起草し除目叙位などの公事を行った人のこと。廣瀬外記という人が開墾開発をした所。徳川時代の開発は、部落が協力して開発した場合は、上に部落名が冠せられ、個人で開発、開墾した場合は上に個人名が冠せられた。また、名とは先祖代々伝わった田畑を名田と云った。外記の開発した名田であったと思われる。
    現在の給食センターの下に外記屋敷跡と呼ばれる所があり、この屋敷より開墾地にかよって開墾し、後、外記(ママ)に移り住んだ(廣瀬外記は廣瀬前八か?)。
  • 善光明 飛行場になった所に常泉寺の分院があった。この分院に僧善光という人がいて、開発をした所と言われている。名は、前記外記明に同じで、古くは外記名、善光名であったという。また、この地は免租であったという。

(160〜161ページ)


実際、「大和市の地名 大和市文化財調査報告書第90集」(2005年 大和市教育委員会)では、福田村に伝わる延宝年中(1673~81年)の「山帳・御縄入後改」に挙げられた地名を一覧化して紹介していますが(42~43ページ)、ここに挙げられた地名から「名」のつく地名をピックアップすると
  • 和泉名
  • 市右衛門名
  • 金左衛門名
  • 久左衛門名
  • 内蔵之助名
  • 郷左衛門名
  • 五郎左衛門名
  • 五左衛門名
  • 重郞右衛門名
  • 除地山下名
  • 治左衛門名
  • 治兵衛名
  • 善光名
  • 八兵衛名
  • 兵左衛門名
  • 平右衛門名
  • 平左衛門名
  • 孫右衛門名
  • 孫左衛門名
  • 杢之助名
  • 杢兵衛名
  • 弥左衛門名
  • 與五兵衛名
とかなりの数挙げられており、多くは個人名に「名」が付されていることが窺え、その中に「善光名」という表記が見えています。また、同書には併せて文政8年(1825年)の福田村の「地誌調書上帳」に挙げられた地名も一覧化されていますが、ここでは「外記名」と「名」表記となっており(「善光明」の方は「明」表記)、何れも「大和地名考」の記述を裏付けるものとなっています。この「地誌調書上帳」は「風土記稿」のために昌平坂学問所へ提出されたものの控えですが、その「福田村」の項(卷之六十三高座郡卷之五)では「善光名」「外記名」と「名」の方で統一されており、昌平坂学問所が編集に当たって福田村から上がった報告をどの様に判じて表記を統一したのかも気になるところです。

柳田が「外記明」や「善光明」について何かしらの記事を執筆した記録は確認できませんでした。「水曜手帖」の記事によれば柳田は高座渋谷駅から柳明を目指したとしていますが、この頃には小田急江ノ島線の桜ヶ丘駅はまだありませんでした(昭和27年・1952年開業)。その帰り掛けに「宮久保」(現:大和市上和田、宮久保橋〜上和田2号橋付近)という集落へ渡る橋のもとで葱を洗っていた女性に橋の名を訊いたことが記事に見えますが、女性が橋の名が無いと答えているため、どの橋を経由したのかはわかりません。とは言え、柳田はここから更に「下瀨谷の北村」(現:横浜市瀬谷区北新附近)を経由したことを書いていますので、柳田は帰りは大和駅(当時はまだ「西大和駅」と称していたと考えられる)から小田急線に乗った可能性が高く、恐らくこの時には「外記明」や「善光明」を訪れることはなかったものと思われます。

とは言うものの、小田急江ノ島線の車窓から柳明までは流石に距離があり過ぎて、当時であっても車窓からの眺めでその景観に気付いて思い付きで列車を降りた、とは考え難いものがあり、事前に地形図の様な資料に当たって取材地を決めていた可能性の方が高いと推測できます。その点で、当時の地形図上には「外記明」も「善光明」も記載されていたことを考えると、柳明を訪れる際に地形図で位置関係を確認していれば、柳田がこれらの地名の存在に気付く機会はあったとも思えます。柳田は「聞書」の序で「川の両岸に同じ地名のあることにも興味をひかれて、いずれは「境川の水」という名で本をかくつもりであった」と述べていますが、それであるならば境川を挟んだ両岸に「柳明」と「外記明」「善光明」という、同じ様な由緒を孕んでいそうな地名が伝わっている点に、着目できた筈ではなかったか、とも考えてしまいます。

因みに、柳田は柳明の南北に伸びる集落を貫く村路について「中古の往還ではないか」と書いています。現在は原位置から撤去されてしまいましたが、以前は八王子道と神奈川道の交わる辻に道標(地神塔)が残されていました。ただ、柳田が書いている道筋とこの辻道とが重なっていたかどうかは不明です。

「水曜手帖」では、「柳明」の記事の前に「深見」(昭和15年11月「民間傳承」6卷2號、「定本」第3巻※  所収 3〜4ページ)についても書いています。これも境川流域に含まれる地の1つではあり(現:大和市深見他)、ここでは附近を走る鎌倉古道と境川の位置関係を確かめに訪れたことが記されています。しかし、「鶴間」をはじめ境川の両岸に同じ地名が存在する地域について柳田が書いた文章については、今回私が「デジタルコレクション」上の「定本」中を探し得た範囲では見つかりませんでした。その他、境川流域について断片的にでも触れたものとしては、次のものが挙げられる程度です。

「獅子舞考」(大正五年一月、鄕土研究三卷十號)

雜賀貞次郎氏の報ぜられた獅子舞の起りに關する故老の物語は(鄕土研究三卷四七三頁)、必ずしも單に古渡の童話の類として取扱ふことは出來ぬやうである。先づ第一に唐獅子の身體が三つに裂けたのを三國三處に分取したと云ふ話は、形を色々に變へて弘く行はれて居る。例へば近世の俗說であらうが、源三位賴政の射殺した怪獸は其身首手足を()つて堺の海へ流した所が、それ/\゛各地へ漂着して猿神犬神蛇神等の根元を爲したと云ふ。前年自分は武藏相模の境川の沿岸を旅行した時、八王子線の淵野邊停車場の附近に於て土地の人から下總龍角寺の緣起と頗るよく似た昔話を聽いて珍しく感じたことがある。

「定本」第7巻 1962年 所収 443ページ+499ページ、「デジタルコレクション※」)


「地藏木」(明治四十四年六月、考古學雜誌一卷十號)

國境に地藏を祀ること其例決して少なからず。今其一二を擧ぐれば、武藏と相模との境堺は、低丘起伏の間に在りて極めて不明瞭なるに、一の路線每に堺の地藏あり。

一 相模高座郡鶴間と、武藏南多摩郡雜色との間に、地藏堂あり。俗に此地を境木村と云へり。

二 相模鎌倉郡川上村大字平戸の地と、武藏橘樹郡保土ヶ谷町の地との境に國境の榜示杭あり。此地に小さき地藏堂あり。

三 武藏久良岐郡六浦莊村大字釜利谷と、鎌倉郡との境にも、街道の北に岩に切付けて堺の地藏あり。俗に之を鼻缺地藏と云ふ。

以上は共に武藏演路卷四に見ゆ。之を新しき二萬分一地形圖に就きて檢するに其地名見えず。唯東海道(舊道)保土ヶ谷、戸塚の間なる國境に境木と云ふ地名あり。是れ右の第二の者に當れり。然らば此地藏の地にも、亦第一と同じ稱ありしことを知るべき也。

「定本」第11巻 1963年 所収 148ページ+499ページ、「デジタルコレクション※」)


「東國古道記」(昭和二十四年一〜三月、雑誌「旅」所収)中「江戸以前の東國」

たとへば鎌倉のまだ衰へてしまはなかつた時代に、そこを目ざして東國の各地から、近よつて來た路筋は見出し得られる。その主要なものは境川の流れにからんで、股野飯田澁谷深見といふ風に北進するもので、それが町田のあたりで甲州路に分れ、右に折れて府中久米川と、ちやうど眞字本の曾我物語にあるやうに、武藏の西部を上州へ通つて居る。

「定本」第2巻 1962年 所収 263ページ+485ページ、「デジタルコレクション※」)


また、境川流域のうち、現在の横浜市瀬谷区・泉区や大和市、藤沢市域には「サバ神社🗾」として知られる社が12社ほど固まって存在していることが知られています。これについて、柳田の「石神問答」に掲載された書簡の中で

一〇 柳田より白鳥博士へ

以上の神々の外 水神田ノ神などは何れの地方にも少しづゝ有之候へども 何等特殊なる點を見出し不申 又頒布の一段と地方的なるは過日も申上げ候ひし

(十) 相模の左馬(さば)明神又は鯖明神

の類に候 此等に關して多少知り得たる廉有之候へども あまり事長く候に付重ねて可申出

「定本」第12巻 1963年 所収 51ページ、「デジタルコレクション※」)

と触れているものが1通あります。「石神問答」自体は1910年(明治43年)に刊行されており(「定本」に収められているのは1941年に再刊されたもの)、柳田が比較的早い時期から「サバ神社」について多少なりとも認知はしていたことがわかります。しかし、その後の著作の中で改めて「サバ神社」について触れたものは一切見当たりません。柳田が柳明を訪れた際に帰り掛けに下瀬谷方面へ向かっていたことから考えると、その先で橋戸の左馬神社に立ち寄ったり、あるいは高座渋谷駅から柳明へ向かう途上で下和田の左馬神社に立ち寄ったりしていても不思議ではないのですが、それについて何処にも書かれていない以上は推測の域を出ません。

以上の様に、境川流域に触れたと言える柳田の著作の点数は少なく、流域全体のまとまった論考には出来ていないと言わざるを得ません。また、「柳明」の取材は「聞書」の序にある昭和14年頃以降のものと言え、比較的関連度の低い「東國古道記」はそれよりは後の記事ですが、それ以外はむしろそれより前のものと言えます。「聞書」の序から察する限り、柳田が境川流域全体を巡った折には恐らくは何かしらの見聞を新たに得て、1冊の書物にまとめられるだけの手応えを感じていたのでしょうが、残念ながら大半が活字になることがないまま生涯を閉じたということになるでしょう。

柳田が「聞書」のための序を口述するに当たって、「境川の水」の計画について最初に触れたのは、丸山が藤沢市という境川流域の河口部を占める市で民俗を研究するグループを指揮する様になったことを汲んで、柳田自らでは手掛けることなく終わってしまいそうな境川流域の論考の計画を、彼女らに託したい思いがあったのかも知れません。そうであるなら、柳田が境川流域を巡った折のメモ書きなど何かしらの記録の所在について、丸山に明かすことはなかったのだろうか、などということもつい考えてみたくなる、そんな思わせ振りな序文ではあります。
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【武相国境】まとめ

ここまでかなり時間をかけて武相国境を辿って来ました。今回は当座のまとめをします。まず、関連記事をひと通りリストアップしておきます。





大筋として、前半は峠村の例外を除くと武相国境が相模湾と東京湾の分水界をかなり正確に辿っていたということ、その西側の柏尾川や、東側の大岡川の流路に地殻変動の痕跡を見出す話を中心に据えました。境木で武相国境が東海道と交錯することから、鎌倉街道から東海道へと道筋が切り替わる話を地形との兼ね合いで展開してみました。もっとも、この区間については律令時代や戦国時代まで経緯の掘り起こしが充分ではなかったと感じていますので、そこは今後の宿題にしたいと思います。

他方、後半は境川を武相国境が辿る様になった経緯を歴史的に追い掛けてみました。実のところ、文禄3年の検地を契機に国境が定まったとされているものの、それ以前の実情については私も今回まとめてみるまで今ひとつ釈然としない所が多く、今回自分でまとめてみて多少は理解が進んだかな、とは感じています。

もっとも、文禄の時点で良くわからなくなっていた律令時代の国境が、現代から見返して明瞭になるとしたらそれは文禄の時代に見落とされていたものがあったことになるので、それが具体的に見出されない限り、恐らく今後も「律令時代の国境は本当はどちらだったのか」という問いに答えが出ることはないと思います。今となっては「文禄時点で何故あの様な判断に至ったか」という問題を解くのが精々でしょうし、またそうすべきなのだろう、と考えています。



さて、ここまで見てきて、まだ私の中ではあまり上手く解けていない問題が2つ残っていると感じています。一連の記事のまとめの代わりにそれらを記して差し当たりの締めにしたいと思います。

1つ目は「峠村や境川の様な事例があったにも拘わらず、それ以外の区間では何故律令制の時代に引かれた国境が後世まで温存されたのか、あるいは維持されたと考えられているのか」という問題です。少なくとも、多摩丘陵内の国境が律令時代以降に変更されたことを伝える記録はありません。

無論、この区間は比較的明確に分水嶺を辿ることが出来る、という地形上の特徴はあります。それに比べると町田付近では分水「嶺」と呼べる様な明確なピークがなく、歴史的に辿ると小山田荘がその区域で境川筋までを所領としたと考えられることが、同区間の国境の混乱に手を貸したと思われるという説明をしました。しかし、それより西の小山・相原付近では境川の分水嶺は比較的明瞭で、そこが所領の細分化などによって国境に複数説が立つ状況となり、太閤検地を経て境川筋に国境が再定義されたと説明してきた訳ですが、では同様の状況が何故多摩丘陵内では起きなかったのかの説明がないと、片手落ちになってしまいます。

電子国土:武相国境柏尾川付近
柏尾川付近の武相国境。
各河川は国境から離れる方向へ流れる
私としては、これも地形面の特徴の違いから説き起こすことも一応可能だろうとは考えています。相模国内では相沢川よりも東の境川の各支流は大半が武相国境付近に端を発して国境から離れていく方向へ向かっています(北へ向かうほど国境と並行する所が増えますが)。武蔵国内の帷子川・大岡川の本支流についても同様のことが言えます。このため、分水嶺の他に付近に国境として有力な「線」がなかったと言うことが出来ると思います。

電子国土:武相国境相原付近
相原付近。境川と分水嶺が近接する
しかし、小山・相原付近では境川の分水嶺から発する支流が殆ど無く(一応ごく小さな沢はあるものの、現在では大半が暗渠になっています)、分水嶺と境川が比較的近い位置で並行して進むので、境界線たり得る「線」が並行していたことが国境の混乱の背景にあった…という言い方は一応可能だろうと考えています。

ただ、それが歴史上の事象にどう影響したかを具体的に挙げるとなると、事例が乏しいのが実情です。榛谷御厨が二俣川から保土ヶ谷にかけての帷子川流域に展開したらしいというというのが目ぼしい所で、その意味では榛谷御厨と国境を挟んで展開していたと思われる渋谷氏や俣野氏の所領について、あまり詳しいことがわかっていないのが厳しいところです。

また、律令時代の国境が近世に変更された事例を、武相国境以外から拾ってその変更の原因を比較してみることも重要と思います。

例えば良く知られている所では、江戸の街の拡張と利根川下流域の大規模な改修事業の進展に伴って、江戸時代初期に下総国の葛飾郡の一部が武蔵国に編入された事例があります。これなどは、元は武蔵と下総の辺境の地に過ぎなかった江戸の発展史を考える上では興味深い事例ではありますが、国境の変更という観点で考えると、江戸の拡張によって国境が変更に至った様な事例は他に類を見ないのではないかという気がします(私が不案内なだけかも知れませんが)。幕府の所在地でなければこの様なことは起こらなかったのではないか、ということです。

それ以外の事例としては、「境川(その6)」では「領域支配の展開と近世」(杉本史子著 山川出版社)にある児島湾の事例を紹介しましたが、こうした事例毎に原因を洗い出して整理することで、近世まで受け継がれた律令時代の国境がどの様な意味合いを持っていたのかを解き明かす切っ掛けに出来るのではないか、と思います。もっとも、私自身が他の地域の事例に不案内なので、現時点ではとてもそこまで手が出せませんが。



もう1つの問題は「そもそも、何故武相国境は相模湾と東京湾の分水嶺を綺麗に辿っていたのか」という問題です。今回の一連の記事で紹介した様に微視的に見れば、なるほど確かにこの筋に従って国境があったとしても不思議ではない様に思えてきます。律令時代にあっては口分田が集落の構成の重要なバックボーンになっており、それらが国郡制という枠組みの中でまとまっていく上では、灌漑などの関係で流域内の上流と下流の集落が関係を深めていくということは充分に考えられ、それが結果として流域単位のまとまりを生み出した…と解説が出来れば実に収まりの良い綺麗な説明が成立します。


甲相国境と相模川の交差する付近地理院地図


道志川と国境の交差する辺り地理院地図
しかし、実際は相模国内でさえ、国境は必ずしも流域界とイコールではない箇所があります。例えば、相模川の本流は甲斐と相模の境でその名を変え、その上流では「桂川」と称します。その名を変える地点に合流する川の名前は「境川」、甲相国境はこの合流地点から暫くの間、この境川を辿っています。


他にも、相模川の支流にも道志川をはじめ甲相国境と交差するものが複数あります。道志川では月夜野付近で川筋を国境が進む区間もあります。


相駿国境と鮎沢川の交差する付近地理院地図
また、その南では山北町内の世附(よづく)に端を発する世附川の流域界を国境が走り、甲相駿の国境が交わる所に「三国山」があるのですが、その世附川が現在の丹沢湖を経て合流する酒匂川(鮎沢川)は駿河国内、富士山麓に端を発し、現在の御殿場線駿河小山駅の東側で国境を越えています。この様な地形があるため、古くから箱根山を迂回するのにこの川筋が使われ、「矢倉沢往還」として今に伝わる訳です。勿論、旧東海道線である御殿場線もまた東名高速道路も、この地形を利用して箱根を迂回するルートを採った訳ですね。


武蔵国と上野国境付近。利根川筋を進む地理院地図
山深い地域の国境を武相国境の様な洪積台地の比較の対象にするのは相応しくないでしょうか。ということであれば、隣の武蔵国で比較しても良いでしょう。武相国境を別にすると、上記でも触れた様に下総国との境は東京湾に河口を持っていた利根川(現中川)でした。江戸時代に上記の様に国境が変わりましたが、国境の変遷先も江戸川(旧江戸川)ですし、今でも多くの区間で利根川の本流や分流を国境が走っていた痕跡を埼玉県境に見出すことが出来ます。関東平野ではむしろ利根川の様な大きな河川の畔の方が辺境化する傾向が強かったとさえ言えるかも知れません。

そして、改めて武相国境を眺めてみると、その両側に相模川と多摩川という、利根川ほどではないにしても比較的大きな河川が2本あり、特に多摩川の方は明治時代に至って東京府と神奈川県の境として使われる様になりました。つまり、近隣に国境になってもおかしくない規模の川があったのに、律令時代には相模川も多摩川も精々郡境となるに留まり、国境になったのはその間の丘陵地帯だった、ということになります。

では、何故相模川や多摩川は国境にはならなかったのでしょうか。個人的には、「相模川や多摩川は律令時代の土木技術でも何とか手懐けて周辺の土地を利用することが出来たものの、利根川流域はもはや手に追えなかったために律令制の中では辺境化してしまった」という線で説明する方向になるのではないか、と予想はしているものの、これもまた裏付けが乏しいところです。多摩郡が広大な未開の地を抱えていたにも拘わらず、多摩川の段丘上に当たる府中に国府が置かれているなど、多摩川の中流域が重用されていたことが窺える状況はあるものの、利根川流域について私がまだ不案内なので、そこまでの説明がまだ出来ません。寺伝に推古天皇36年(628年)の創建と伝わり、発掘調査でも奈良・平安時代の遺構が出土している浅草寺が武蔵と下総の国境に位置しているなど、反証になりそうな事例も考慮に入れなければなりません。

電子国土:相模国中心部
相模川下流に律令時代の国府・郡衙・寺社が集中する
相模国内の河川の多くは南流する
ただ、相模川に関しては、河口に近い大住郡に一時期国府があったと「和名類聚抄」に記録され(後に余綾郡に移ったと考えられている)、今でも一之宮(寒川神社)や四之宮(前鳥神社)が存在し、最近ではそこからそう遠くない位置に高座郡衙が発掘されるなど、ここが相模国の中心地であった証拠が多数存在します。海老名に相模国の国分寺が存在したことも、こうした「証拠」の1つに入れることが出来ますね。前鳥神社の付近で発掘された遺跡は大住郡に国府があった頃の関連施設と推定されていますし、海老名にも国府が存在したという説も存在しますが、何れにしても相模川本流を近傍に望む位置である点は共通しています。

また、高座郡は境川と相模川の間の台地に沿って南北に大きく伸びた形をしていますが、大住郡や余綾郡は比較的小さな郡にまとまっています。当時は一定の人数の集落を単位にしていましたから、人口密度が高い所ほど郡面積が小さくなる傾向にありました。つまり、律令制制定後の相模国にあっては、この相模川右岸の河口付近が最も人口密度が高かったことを意味しており、これも相模国の中心地であったことの傍証になり得ます。

相模川の西岸やその西側の金目川(花水川)の流域には、今でも水田が広く残っており、この広大な平野に早くから水田が開かれた可能性はかなり高そうです。裏を返せば、それに比べて細谷戸が中心でまとまった水田が出来難い多摩丘陵は、相模国の中心からは「扱い難い」土地と見做されていたのではないか、という気がします。

それでも、境川の下流や引地川、あるいは目久尻川などの相模川の下流で合流する支流は、何れも相模川と並行する様に南流する傾向が強いことから、陽当りが比較的良好でかつ利水に恵まれた土地がまとまっていると言えます。こういう地域が相模国側に属し、それより北側が武蔵国に属しているのは、何やら示唆的な感じもします。後に榛谷御厨を開拓する榛谷氏が牧の経営から身を起こした秩父氏の流れを引いているのも、もしかするとこの帷子川の流域に秩父の牧と地形面での共通点を見出したからなのかも知れません。

無論、これもまだ裏付けが乏しい中での私の想像に過ぎません。しかし、関東平野の南部にあって、周囲とは異なる丘陵内の分水嶺を辿るという武相国境の特徴は、その地形が過去の歴史に与えた影響を色々と考えさせてくれる、良い題材ではあると思うのです。



今回を以って「武相国境」のシリーズはひとまず終わりますが、今後新たに書き留めたいことが出て来た時に、その都度追記していきたいと考えています。最後までお付き合い戴きまして、誠にありがとうございました。

<了>


※このアイコンの付いた地図3点は、何れも 国土地理院の電子国土Webシステムの色別標高図にマーカーや河川名を追加したものを用いました。


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橋本の寺社より【武相国境余談】

前回の記事で橋本の寺社が室町〜戦国時代に遡るとされていることに触れました。今回はそれらの寺社の写真をまとめておきます。

◯神明大神宮
橋本・神明大神宮:参道より拝殿
神明大神宮参道より拝殿

神明大神宮の位置Googleマップ

JR橋本駅から線路沿いの道を相原方面へと向かうと、「大山街道」の名を冠した踏切があります。この道がかつての八王子通り大山道です。ここを右折して暫く行った所に、神明大神宮の一の鳥居があります。大山道からの参道は170mほどもあります。

橋本・神明大神宮:境内の広場
境内の広場
橋本・神明大神宮:夫婦榧
御神木の夫婦榧

由緒を刻んだ境内の石碑にはこう書かれています。

(原文ママ)十二年一月ノ創立ト申傳フ

當神社ニ関スル諸記錄ハ天保年間當部落大火ノ為メ燒失シテ知ルコト能ズ然レドモ古来ヨリ當境内地ヲ御伊勢ノ森ト称シ樹齢四五百年ノ松杉参道ヲ覆イ神嚴ナル淨域ナルヲ見ル時往古ヨリ境内地トシテ爰ニ奉祀シアリタル事ヲ想像スルモノナリ


神明大神宮付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
迅速測図」で現地の明治初期の様子を見ると、やや不鮮明ながら確かに当時から参道沿いに並木があったことが窺えます。御神木の夫婦榧(めおとかや)は樹齢300年とされていますが、それより古い木が参道沿いに並んでいるということになるのでしょうか。なお、現在は大鷲神社と天満宮が合祀されています。

その周囲は畑や桑畑になっていた様ですが、現在は小学校の校庭にも使えそうなほどの広さを誇る境内になっています。本殿の後背は現在は国道16号線ですが、この国道から直接入る口はなく、広場の入口に廻り込むことが出来るのみです。参道を通りぬけに使わない様に立て札が立っているのですが、流石にこれだけ広いと境内を抜けていく地元の方が少なくない様で、写真を撮っている間にも複数の方々が境内を通り抜けていきました。

◯橋本山香福寺
橋本・香福寺山門
香福寺山門

香福寺の位置Googleマップ

神明大神宮の前から八王子通り大山道を北へ進むと、「香福寺前」の交差点で国道16号線(旧道)が左から合流してきます。空中写真を良く見ると、香福寺の敷地が大山道へと続く線で斜に切れており、現在は複数の石碑が安置されるこの区画がかつての大山道の跡であることがわかります。

香福寺の山門もやはり大山道から脇に入った場所にあります。香福寺のある辺りが台地の平坦面の際に当たり、この辺りから大山道は境川へ向けて坂を降りていきます。

橋本・香福寺本堂と高野槇
本堂と高野槇
橋本・香福寺高野槇と石塔
石塔と高野槇

橋本・香福寺:高野槇と芝
高野槇と芝
前回も触れた通り、香福寺境内の高野槇は樹齢400年以上と伝わります。流石に戦国時代まで遡るかどうかは微妙なところですが、それでもこのお寺の歴史の古さを窺い知ることの出来る存在であることは確かでしょう。


◯橋本山瑞光寺
橋本・瑞光寺本堂
瑞光寺本堂

瑞光寺の位置Googleマップ
香福寺前から再び大山道を北へ進み、左へ逸れると瑞光寺があります。戦国時代以前まで遡るという橋本の寺社が、何れも大山道沿いに入口があるという点が、この集落の成り立ちを裏付ける証拠である様に思えます。

このお寺も台地面に立地しており、山門へは数段の階段を登ります。本堂は数年前に改築されたものですね。

橋本・瑞光寺の榧
瑞光寺の榧の木
橋本宿周辺の過去の空中写真(古いものは1936年まで遡るが、1947年のものが比較的状態が良い)を見ると、宿場の周辺は屋敷林が多かった様で、この瑞光寺の周辺では北側に林が広く覆っていた様です。現在は周辺の開発に伴ってかなりの部分が消失しましたが、瑞光寺境内と山門前にはまだまとまった林が残っています。写真は境内の榧の木ですが、これもかなり樹齢は高そうです。


◯おまけ・横町橋
橋本・横町橋
横町橋

横町橋の位置Googleマップ

江戸時代の橋本宿は、大山道の東側に横町を持っていました。「新編相模国風土記稿」にも小字としてその名が記されていますが、現在はその面影は殆ど残っておらず、境川に架かる「横町橋」に辛うじてその名を留めています。

この付近では治水工事は最低限に留められており、蛇行の途上に横町橋が架かっているため、御覧の様なアングルから撮っても下流方面が画角に収まっています(画面中央奥のフェンスが下流の護岸の上)。

橋本・境川のモズ
境川のモズ
境川沿いを歩いている途上で見掛けたのは、モズでした。

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【武相国境】境川(その6)

先日来、当ブログのアクセスログに、「武相国境」のキーワードで検索されて来られる方が記録されることが多くなっております。アクセスどうもありがとうございます。この武相国境のシリーズもそろそろまとめに入る所まで来ましたので、もうしばらくお付き合いをお願い致します。

前回までに、現在の相模原市町田市境の武相国境周辺の歴史を大雑把に辿って来ました。今回は、戦国時代の終わりから江戸時代にかけて、現在の位置に武相国境が定まった頃の様子を見ていきます。

ここまでの歴史を辿るに当っては、「相模原市史」(昭和39年刊)「町田市史」(昭和49年刊)を主に参照、引用してきました。併せて必要に応じて「神奈川県史」の通史編(昭和56年刊)も参照しています。しかし、これらの市史・県史の何れでも、更には「東京百年史」(昭和48年刊)でも、検地と武相国境の変遷の関連を論じた箇所を見出すことは出来ませんでした。以前引用した様に、

当時(注:奈良〜平安時代)おそらく南多摩丘陵の尾根づたいや山巓(さんてん)見通し線などで相摸国との国界が定められ、現在の境川線より丘陵内部に入っていたと思われる。

(「町田市史 上巻」280ページ)

武相国境が境川を隔ててかぎられたのは、「武蔵通志」によると、文禄三年(一五九ニ)であって、それまでは境川が高座川と呼ばれたように、川の両岸は相州高座郡であった。千二百年以前の天平時代においてはもちろん相模国で、おそらく国境は多摩丘陵であったと思われる。

(「相模原市史 第一巻」299ページ)

と、古代の記述では国境の変遷が示唆されているのに、近世の段になるとその解説が成されないという、些かアンバランスな状態になっている訳です。

因みに、この「相模原市史」で指摘されている「武蔵通志」は河田(たけし)が明治22年頃に編纂した地誌ですが、未出版で東京都公文書館に行かないと見られない様です。閲覧する機会が出来たら改めて確認したいと思います。ただ、参照・引用される機会はかなり多い様です。

元より、こうした地方公共団体が作成する公的な市町村史や都道府県史の場合、様々な観点で議論が残っている事項についてはなかなか触れられない面があるとは思いますが、それはさておき武相国境に関して近世の記述が成されていない理由を探ってみましょう。まず問題なのは、肝心の江戸時代初期の検地の記録が、境川周辺に関しては残っていないことが挙げられます。「角川地名大辞典」では

文禄3年の洪水を契機に検地が行われ境川が武蔵・相模の国境とされたため、相模国相原村と武蔵国相原村(現東京都町田市)に二分され、上相原村とも称した。

(14.神奈川県「相原村(近世)」の項より)

としていますが、実際は外部の記録によって、徳川家康が江戸入りした後、所領となった関八州で検地を進めていたことが知られているのみで、その際の結果を記した当時の検地帳は、境川筋に限らずそもそも現地に残っていること自体が希少です。境川周辺の武相国境付近は徳川家康の江戸入り後早々に直轄領化されたものの、検地はやや遅れて行われたことがわかっていますが、その実態については充分に検証が出来ない状況にあります。

もう1点は、江戸時代において「国境(くにざかい)」がどの様な意味を持っていたのかについて、その研究が深まってきたのが上記市史が書かれたよりも後年であることが影響しているのではないかということです。そもそも、律令時代の支配体制は崩壊して久しく、国衙も郡衙もない中では国境にも郡境にもあまり意味はなかった筈ではないかと考えたくなりますが、実際は豊臣秀吉が天正19年(1591年)に全国の国絵図と御前帳(検地帳)を大名に命じて提出させ、これを禁裏に献納しており、実態はともかく枠組みとしては律令時代からの国郡制に倣っていることがわかります。しかし、

日本近世史研究のなかでは、七〇年代に入り、国家史研究の立場から国絵図・御前帳が注目され始めた。国郡という単位に立脚し、天皇の叡覧に供すという名目のもとで徴収された天正十九年絵図と御前帳が、関白政権というかたちをとった豊臣政権の性格を考える上で重要なものとしてクローズアップされてきたのである。ひとり豊臣政権のみならず、近世国家を考えるにあたって、領主制の視点だけでは捉えきれない先行国家の国制の枠組みが、いかに社会や国家の編制に影響を与え、当該期の権力がそれをどのようなかたちで機能させようとしたかという点が盛んに論じられ、国家論・朝幕関係・身分編制など諸分野の研究を刺激し、進展させた。こうして、近世初期を中心とした、政治史的観点からの国絵図・郷帳(国郷帳)の実証研究が緒に就いたのである。

(「領域支配の展開と近世」杉本史子 山川出版社 1999年 154ページ)

つまり、こうした研究が更に深まってくるのは70年代以降で、「相模原市史」や「町田市史」が書かれた時期よりも後のことです。その点では、特に津久井郡域を合併して政令指定都市化した相模原市の場合、市史の編纂から既に50年近くが経過していることもあり、武相国境の件に限らず編纂当時には明らかではなかった知見を加えて増補を行うことが検討されても良いのではないか、とも思います。

文禄3年の検地はこの天正19年の国絵図・御前帳提出よりも後のことですから、この検地の結果が反映されたのは慶長10年(1605年)頃の国絵図・郷帳作成の時だったと考えられます。天正の国絵図は残念ながら見つかっていません。また、慶長の国絵図については「江戸幕府撰慶長国絵図集成」(川村博忠 編 柏書房 2000年)が出版されているものの、

本書は江戸幕府が数次にわたり収納した国絵図および日本総図のなかから、現在確認されている慶長国絵図のすべてと江戸時代初期の日本総図を収録した資料集成である。

(同書 凡例より)

とされつつも、実際にこの本に収録されているのは
  • 和泉国
  • 摂津国
  • 小豆島
  • 越前国
  • 周防国
  • 長門国
  • 阿波国
  • 筑前国
  • 豊後国
  • 肥前国
  • 肥後国
そして
  • 奥州羽州全図
  • 日本中洲絵図
  • 山陰山陽四国九州絵図
  • 慶長日本図
これで全てです。相模・武蔵の慶長の国絵図は未発見ということの様です。

新編武蔵多磨郡正保図より
「新編武蔵風土記稿」正保改定図より

新編相模高座郡正保図より
「新編相模国風土記稿」正保改定図より
但し、上記の図中「日本中洲絵図」の武相国境付近を見ると、国境の線と境川と思しき川筋の線が重なって描かれ、更にその両側に「相原」の地名が書かれており、確かにこの時期には既に武相国境が境川筋に定まっていたことが窺えます。この本はかなりの大判本で重量があり、コピー機に載せると本を破損しそうなので断念しました。代わりに「新編相模国風土記稿」の高座郡の図と、「新編武蔵風土記稿」の多摩郡の図から、正保年間(1645~48年)改定図の境川付近を拡大したものを引用します。

ところで、全国的に見ると国境を巡っては、例えば児島湾の干拓を巡って備前・備中の国境論争があったことが上記「領域支配の展開と近世」でも紹介されており、特に藩領では国境を巡る対立が後々まで続いていたことが窺えます。しかし上記でも触れた通り、境川周辺は何れも家康が直轄領とした訳ですから、この時点では所領を巡る諍いとは無縁の地になっていた筈です。従って、文禄3年の検地で国境が境川筋に決められたと言っても、それは飽くまでも現状追認が本来の目的であった筈でしょう。それが何故国境の変遷と結び付けられて語られているのでしょうか。

これを、同じ頃に武相国境が定まった、鎌倉郡峠村の例と併せて考えてみましょう。峠村の場合、元は人が定住しておらず、空白地帯の様になっていた所に出来た集落を、天正検地が追認した格好であることを、この時に解説しました。

境川周辺に関してはそれとは対照的に、これまで見てきた様に周辺の所領が細分化される等の経緯を経たため、所領関係が錯綜する傾向があったことが窺えます。こうした中では、後から当地を所領としたためにそれまでの経緯について明るくない領主にとっては、それまでの経緯については甲乙付け難いと判断せざるを得ないでしょう。そして、その様な状況に白黒をつけるには、過去の経緯はさておき現状で確定させる、という手段を採らざるを得なかったのではないでしょうか。

となると、文禄3年に国境が定まる以前は、境川筋と境川北側の分水界の両説が併存し、どちらとも言い難い状況に陥っていた可能性が高そうです。そこを改めて検地することによって、境川両岸に存在していた集落が独立した村としての性格を強めていることが確認され、結果として改めて境川筋に国境が定められたのではないか、と思います。

橋本・香福寺:鬼瓦の三鱗
香福寺本堂の鬼瓦に残る三鱗の家紋
正三角形のものは傍系が用いた
新編相模高座郡元禄図より
「新編相模国風土記稿」元禄改定図より
こうした経緯もあってか、相原の地はやがて正保3年(1646年)に分村し、橋本村や上九沢村、小山村が独立します(小山村については元は別の村だったものが一時期相原と合併していたのだろうかと「新編相模国風土記稿」では判じていますが、こうした経緯も錯綜した所領のやり取りの過程で起きた可能性は高いと思います)。その様子は、上記「新編相模国風土記稿」の2つの高座郡の図中でも変化になって現れています。

うち、橋本村はこの頃から八王子通り大山道の宿場町として発展していくことになるのですが、この地がそれ以前から集落を形成していたであろうことは、同地の香福寺(建長寺67世の蔵海性珍(応永18年(1411年)没)が開山と伝わる)、瑞光寺(戦国時代創建と伝わる)、神明大神宮(永禄12年(1569年)創建と伝えられる)と、室町時代から戦国時代にかけて創建されたとする寺社が複数存在することから窺えます。殊に香福寺には樹齢400年以上とされる高野槇が本堂前に聳え、この地に根差す古刹であることを物語っています。また、本堂の瓦などに後北条氏傍系の家紋である正三角形の三鱗(みつうろこ)が見られますが、これは前回触れた通り相原が油井領であったことに関連があります。油井領の当主は後北条氏の関東進出後、八王子を本拠とした北条氏照に引き継がれました。滝山城、後には八王子城を擁した氏照が、北条氏一族の本拠地である小田原との連絡路の途上、この橋本の地を中継の要地としていたことは充分考えられます。


両国橋の位置Googleマップ
「橋本」の地名はこの宿場が「両国橋」の畔から街道筋に連なっていることに由来するとされていますが、橋本の宿場はこの両国橋の南側、つまり現在の相模原市側にのみ展開していました。宿場が栄えたのは江戸時代になってからですので、この傾向が果たして戦国時代以前からのものであるかどうかはわかりません。しかし、橋の北側には町田街道との辻があり、交通の要衝となるのであれば双方の街道に沿って集落が拡がっても良かった筈ですが、そうならなかったということは、あるいは当初から集落が南側にしか作られなかったのかも知れません。この付近での境川は川幅はそれほどありませんが、かなり深い場所を流れていることから、あるいは氏照に思う所があって集落を境川の片岸のみに固めさせたと考えられなくもありません。何れにせよ、「両国橋」の名が付いたのは境川筋が武相国境に定まった後のことであることは明らかですが、橋本の集落はそれ以前から既に境川の南側にのみ展開し、武相国境がそれを追認する形で確定された可能性もありそうです。

橋本・瑞光寺山門
瑞光寺山門
もっとも、「新編相模国風土記稿」では瑞光寺の開基について

開基は瑞光月心と傳ふ俗稱を勘十郎と云ふ、天正十四年十月三日死す、武州多磨郡下相原村の民、五左衛門の祖なり

(卷之六十七 橋本村の項 雄山閣版より、強調はブログ主)

と、境川対岸の下相原村の人間であることを伝えています。集落としては分かれていても、実際は相原の地の中で少なからず交流があったことを窺わせる事例で、単に同じ地名を共有する以上の関連があったからこそ、「元は同じ村」ということが末永く言われ続けているのでしょう。

という訳で、現在の町田・相模原市境に当たる武相国境は、文禄の検地によって現在の位置に定まったとは言えるものの、それ以前は必ずしも境川の分水界に確乎として認知されていたのではなく、時代の変遷の過程でどちらとも定め難くなっていたと考える方が当時の実情に合っているのではないかというのが、ここまで紙幅を尽くして書きたかったことです。

次回は橋本の寺社の写真集を挟み、その次に三浦半島の付け根から延々辿ってきた武相国境全体のまとめ…と当座の完結に続けます。

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【武相国境】境川(その5)

前回は平安末期に登場する小山田氏の動きから、武相国境が混乱する要因の1つになったのではないかという話をしました。今回は同じく境川筋に展開した、横山党の諸氏の動きから話を始めます。

…と、いきなり横山党の名前を出してしまいましたが、「町田市史」では同氏について次の様に説明しています。

市内の小山田荘を除く小山・相原・山崎・成瀬等の地は、横山党の勢力下にあった。嫡流横山氏は元来八王子市内の横山、船木田荘を拠点とし、かねてから隣接する町田・相模原市域へその勢力をのばしていた。

横山孝兼には多くの子供があり、嫡男時重は散位権守、粟飯原(あいはら)氏を名のり、二男孝遠は藍原二郎大夫と称し武州相原にその居を構えた。その子孫は市内に勢力を伸ばし、孝遠の子義兼は野部三郎といって矢部に住し、その子兼光は山崎に居した。また孝遠の孫、鳴瀬(なるせ)四郎太郎も成瀬に居住したらしい。三男忠重は甲斐国古郷を領した。後年その子孫保忠・忠光父子は、和田の乱で横山氏と運命を共にする。四男経孝は小山、あるいは小倉を称し、小山および津久井小倉にその居をおいたものと思われる。その他女子は秩父重弘の妻として小山田有重を生んだ女をはじめ波多野・荻野・渋谷・平子等に嫁している。

ところで相原・小山の地名が境川をはさんで市内および相模原市にわたっていることよりすれば、両方にまたがる地帯が、かれらの所領であったものと思われる。

(「町田市史 上巻」384ページ)


上記文中に現れる「船木田荘」について、別の本から引用して補足すると、

…当地域(注:多摩地区)では、由比牧・小野牧などを中心とし、その周辺の山地部を含めた広大な地域が摂関家領の船木田荘 となった。そして、その立荘には、武蔵国府の在庁官人であった小野氏の系譜を引く横山党の横山氏が関係していた。こうした西武蔵の武士団の長が、当地域の開発を主導し、軍事力を背景に政治的にも活躍して、牧の荘園化にも深く関与していたのである。

ちなみに船木那翔の呼称は、荘園領主側の文書や記録類に登場するもので、在地では横山荘と呼ばれていた。…このことを裏づけるように、『新編武蔵国風土記稿』には横山荘という郷地名は登場するが、船木田荘については、郷荘としての記述は一切みあたらない。

(「地域開発と村落景観の歴史的展開―多摩川中流域を中心に」原田 信男 編 思文閣出版 2011年 142ページ、…は中略)

従って、横山氏も前回登場した小山田氏同様、牧の経営管理から興り、多摩郡内を南下して勢力を広げてきた在郷氏族ということになります。


町田市の範囲(Googleマップ
西側の東西に細く伸びた地域が相原・小山
現在の町田市域では、最も西寄りの地域の相原町が粟飯原氏の所領だった地域と考えられています。また、その東隣の小山町と小山ヶ丘(住居表示変更に際して旧相原町を一部編入)を合わせた地域が小山氏の所領でした。勿論、現在は土地の改変や区画整理に伴う市境の変更などによって当時の状況とは合わない部分が多くなっていますが、相原町や小山ヶ丘の付近では北側の市境がほぼ境川の分水嶺を通っており、粟飯原氏や小山氏らの所領がこの線を意識していたことが窺えます。つまり、この地域では当時まだ境川の分水嶺が武相国境と見做されていた可能性が高くなるということです。

なお、それぞれ南の相模原市域に同じ名前の地域が見出せますが、相原の方はその後橋本や川尻といった村が分村していったため、現在の地図上からは当時の所領との関連性は追い難くなっています。また、小山の東隣には同じく横山党の矢部氏が、やはり境川の両岸に所領を構えていたのですが、今はその地名は相模原市域のみに残っています。境川の北側の矢部は室町期には「小山田保下矢部郷」と記された資料が残っており、その頃までに小山田庄に取り込まれていたことが窺えるものの、その経緯については不明です。

しかしながら、粟飯原氏・小山氏をはじめとする横山党一族は、建保元年(1213年)に和田義盛が執権北条義時の挑発に乗って合戦に臨んだ際に共に挙兵し、敢え無く敗れてしまいます。和田義盛の妻は横山時重の娘であり、更に義盛の子である常盛の妻は時重の子である時広の娘という、深い姻戚関係にあったために出兵した訳ですが、これによって領主を失った横山荘は大江広元に与えられています。その後横山荘の一部は九条家や一条家領として譲られたり、天野氏をはじめ鎌倉幕府後期の御家人に分け与えられたりしているのですが、「町田市史」ではその天野一族の中での所領争いの例を紹介した上で次の様に解説しています。

以上によってわかるのは、第一にこの地が武蔵国由比本郷といわれて横山荘内と記されていないことから、横山荘内の少なくとも一部は国衙領に編入されて北条氏の直接支配下に入ったと考えられること、第二に鎌倉末期の南多摩地域の農村には、…旧来の在家の中からより小規模な在家農民が分立しはじめており、農民層の成長が認められること、第三に分割譲与によって御家人の所領が細分された結果、血を分けた兄弟姉妹の間でさえ激しい相続争いが行われたこと、第四にかれらは幕府の仲裁・保証によって和解に達してもなお郷や村のみならず在家や炭竃(すみがま)まで分割するという一層錯綜した領有関係に追い込まれ、したがって幕府の裁定に決して満足しえなかっただろうことなどである。現在の八王子市域におけるこのような状態は、隣接する町田市域内も同様に群小の在地領主層の錯綜した所領に分かれていったことを想定させる。

(「町田市史 上巻」414〜415ページ、…は中略)

つまり、この地域では鎌倉時代の末期までには、早くも領主の所領関係も領民も分散化する傾向が現れていた、ということです。

こうした傾向は恐らくその後も続いていたと見え、やがて戦国時代になって後北条氏が小田原から関東へと支配を伸ばした頃に作成された「小田原衆所領役帳」では、「油井領」の1つとして「粟飯原四ヶ村」が挙げられています。「相模原市史」では同市域に属する江戸時代の「上相原・橋本・小山・下九沢」をこの4ヶ村に含まれると判じていますが(第二巻532ページ)、この4ヶ村が現在の町田市域の相原や小山までを含んでいるかどうかは定かではありません。しかし、この頃には相原は分村化が進んでいたことは確かな様です。特に橋本は八王子と小田原を結ぶ街道沿いにあり、江戸時代には宿場が栄えた地区ですが、戦国時代に既に同地に瑞光寺や神明大神宮が建立されていることと併せて考えると、その頃には既に同地が独立した街場として発展しつつあった可能性は高そうです。

下小山田:大泉寺山門
大泉寺山門。
小山田氏始祖である有重を祀る
ところで、横山党が和田合戦で壊滅的なダメージを受けるよりも少し前、小山田一族であった稲毛氏や榛谷氏が、畠山重忠の乱で重忠を陥れた首謀者として相次いで謀殺されるということが起き、その煽りで小山田氏の所領も大きく縮小を余儀なくされた様です。その後の変遷については詳しいことはわかっていませんが、「町田市史」ではこの地域に主要な街道が通っていたことから直轄領へと組み込まれた可能性が高いとした上で、

南北朝時代の末から室町中期にいたる文書や金石文には、小山田荘の代わりに小山田保と記されている。保というのはがんらい国司の免判によって認められた一種の私領であったが、のちには「限り有る国保は勿論の公領也」(『吾妻鏡』文治三年四月廿三日条)といわれるように国衙領の一単位を意味しているから、小山田荘が小山田保とよばれるに至ったのは、それが南北朝末期には国衙領に編入された事実を明示するものであるといえる。したがって、小山田氏没落後の小山田荘は、やがて国務をつかさどる得宗家の支配下におかれ、のちには行政区画上の名称まで保と改められたのであろう。

(「町田市史 上巻」409ページ)

と指摘しています。なお、小山田氏の一部は甲斐国の郡内谷村に本拠を移し、戦国期には武田氏のもとで活躍することになります。


大和市下鶴間「公所浅間神社」
周辺には「公所」を冠する施設が他に数件残る
Googleマップ
なお、武相国境との兼ね合いでは、相原や小山同様に境川の両岸に跨って広がる「鶴間」の地についても併せて見なければなりませんが、同地については南北朝時代まで下らないと記録がなく、所領がどの様に移ってきたのかが良くわからないのが現状です。「大和市史」では鶴間の域内に「公所(ぐじょ)(現在は「ぐぞ」と読む)」という地名があり、南の上和田地区の「久田(くでん)(「公田」に通じる)」「善光名(ぜんこうみょう)」「外記名(げきみょう)」といった地名とともに、この一帯が国衙領であった可能性を指摘しているものの、裏付けが乏しいことを論じています。1つだけ言えるのは、「新編武蔵風土記稿」の「鶴間村」の項には

永祿の頃は小山田彌三郎が知行する所にして、十六貫二百七十二文のよし【小田原家人所領役帳】に見へたり、又其比は小山田庄に屬せしことをも記したれど、今は其唱を失へり、

(卷之九十 多磨郡之二、雄山閣版より引用、強調はブログ主)

とあり、「新編相模国風土記稿」の「上鶴間村」の項では

又境川の對岸、武州多磨郡にも鶴間村あり、土人傳へて古は是も當國に屬して彼是一村たりしを、後國界變易して境川を限り、武州に屬せしより地域兩國に分れしなりと云ふ、其年代傳なくして知由なけれど、【北條役帳】に小山田彌三郎が采地の内、小山田庄鶴間と見えたれば既に此頃國界革りしと識るべし、小田原北条氏割據の頃は關兵部丞領す

(卷之六十七 高座郡之九、雄山閣版より引用、強調はブログ主)

と論じられていることから、戦国時代には既に境川筋で村が分かれ、一部が小山田庄に含まれていたことによって、事実上境川が武相国境になっていた可能性が高いということのみです。

こうした各地の所領の変遷にあまり深入りすると話の流れが見え難くなってしまいそうですが、武相国境との関連では、小山田氏や横山党の進出によって所領化された境川流域は、やがて度重なる相続の細分化や領主の交代などを経たことによって、ますます国境の見極めが難しいものになっていった、ということになるのではないかと思います。この様な状況のもとで戦国時代の末期に豊臣秀吉や徳川家康がこの地に登場してくる訳ですが、次回は彼らの行った検地とそれに伴う国境について見たいと思います。

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