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「東海道」カテゴリー記事一覧

【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回から鎌倉郡を取り上げます。やはり分量が多いため、今回は東海道だけになりました。

今回も宿場の継立に関連する記述については以前まとめた記事に譲り、ここではそれ以外の記述を拾っています。なお、他の宿場の記述では最初に宿場としての共通の事項をまとめ、その後に宿内の各町の記述が続く、という構成になっているのに対し、戸塚宿ではその位置付けの違いからか、吉田町と矢部町の記述は戸塚宿の記述から独立して取り上げられています。この2つの町にも継立に応じた地子免の記述があるため、先日の記事にこの分を書き加えました。

また、吉田町が街道中で2箇所に分かれて存在する様になった経緯が記されていることに鑑み、以下の地図では吉田町・矢部町と戸塚宿の位置関係を色分けして表現してみました。

小名は1つでも街道筋に関連のあるものを含んでいる場合はその全てを書き出しています。必ずしも街道が係っていない小名が含まれていることに御注意下さい。今回も由緒にまつわる古典の引用は基本的に省略しましたが、「影取」の伝承にまつわる引用については意味が通り難くなるため、敢えて含めました。


東海道:鎌倉郡中の各村の位置(北半分)
東海道:鎌倉郡中の各村の位置(北半分)

東海道:鎌倉郡中の各村の位置(南半分)
東海道:鎌倉郡中の各村の位置(南半分)
(以上どちらも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
東海道品濃村百一
(三十三)
村の東界に東海道係れり幅三間、
◯小名 △西之谷 △道喜谷 △淸水谷 △立野谷 △七次谷奈々都義也止 △荒井ノ谷 △とぶ谷 △谷宿谷 △椎ヶ谷 △瀧ヶ谷 △品濃臺
◯燒餅坂 東海道往還中にて平戸村の接地にあり下一町半坂側に茶鄽ありて熬糕を鬻ぐ、故に名づくと云へど【回國雜記】に蚤くもちひ坂の稱呼見えたるは果して此坂の事にして最舊き唱へなり曰、…又同じ記に摺子鉢坂の名あり曰、…記載の順次を考ふるに此近きあたりと覺ゆれど正しき遺名の考據なし、◯谷宿坂 燒餅坂の南にあり、小名谷宿谷の名に據りて此稱呼あり林羅山、… ◯品濃坂 谷宿坂の南にあり下二町、
◯一里塚 谷宿坂の南にあり雙堠なり、南、吉田町、北、保土ヶ谷武州橘樹郡の屬、の里堠に續けり、
平戸村百一
(三十三)
東海道西方村界に係る幅五間、
◯坂三 一は燒餅坂、一は谷宿坂、一は品濃坂と呼ぶ、皆東海道往還中にありて品濃村界に値れり、名義等彼地に據れば總て彼村の條に詳載す、
前山田村百一
(三十三)
村の巽界に東海道係れり幅三間、
◯赤關川 村の南界を流る幅三間餘南隣上柏尾村にては永谷川と呼ぶ、東海道の係る處に土橋を架す赤關橋と唱ふ此橋上柏尾村に跨れり、彼村の條併せ見るべし、
上柏尾村百一
(三十三)
東海道村の中ほどを東西に貫く幅三間、立場あり、字挑灯立場と呼べり、
◯小名 △赤關 △臺畑 △中ノ町 △鄕ノ前 △さがり下 △流市場出口 △大橋 △小橋
◯永谷川 東北村界を流る幅三間半前村[永谷上村]馬洗川の下流なり、東海道係る所土橋を架す長五間、赤關橋と呼べり赤關の名は、當村小名に因て起れり鄰村前山田にては此川名をも赤關と稱呼す、
下柏尾村百一
(三十三)
東海道南北に通ず幅四間半海道の中程にて西北に岐路を別つ、大山道と云ふ
◯小名 △市場 △宮ヶ谷 △臺 △池ヶ谷 △藥師下 △寺下 △幷木下
◯坂二 東海道に在リ、一は臺坂登一町、一は池ノ谷坂登一町十五間と云ふ
◯川 舞岡村より流れ來る小流なり幅三間半故に或は舞岡川など呼ぶ、東海道を横ぎれり、爰に土橋を架す五太夫橋と云ふ長三間半、ことは吉田町に詳かなり

※字の「池ヶ谷」と坂の「池ノ谷」、当欄の「五太夫橋」と吉田町の「五大夫橋」は何れも原文ママ。

舞岡村
(三十二)
東海道北界に繋る、
吉田町九十九
(三十一)
當所は即戸塚宿三箇町の一なり、…萬治二年便宜のため、彼[戸塚]宿内往還の地を裂賜はりて村民多く彼所に移住す、故に今の村落は矢部町を夾ておのづから區別せるが如し、されば本村の地を呼て元吉田町と云ひ、或は吉田町の内元町とも字せり、…東海道東西に通ず幅四間、又鎌倉への捷徑あり大橋邊より南に分れ柏尾川堤上を經て、上倉田村に至り、本路に合す、
◯一里塚 東海道路傍にあり、雙堠なり、南方は原宿村、北方は品濃村の里堠に續けり、
◯柏尾川 西北の方矢部町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す長十一間大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄防あり高一丈、此餘東境に舞岡村より東海道を横ぎり北流して此川に沃ぐ小流あり幅三間許往還に値りて土橋を架す、五大夫橋と名く、相傳て東照宮當所通御の時石卷五大夫某旗下の士、七郎左衞門某が祖と云ふ、と云ふもの此橋邊に出て迎へ奉り、恩命を蒙りて中田村を賜へり、夫より橋名は起ると云ふ按ずるに、…
矢部町九十九
(三十一)
當所は即戸塚宿三箇町の一なり、…東海道村東を通ず幅四間、
◯柏尾川 東方吉田町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す、大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄あり高九尺、
戸塚宿九十九
(三十一)
當所及び隣村吉田・矢部兩町を加へ戸塚三ヶ町と唱へ、東海道五十三驛の一なり、古は富塚と書す、今の文字は正保の改に草創す、中古は町と稱せり…、專宿と書記する事は元祿已後の事なり、…戸数二百六十五數内、本陣、臺宿に一戸、中宿に一戸、脇本陣臺宿に一戸中宿に二戸、旅舍大十九戸、中小各二十戸あり、東海道東西に貫く幅凡四間許、鎌倉道中小名田宿より東に分れ、上倉田村に達す幅七尺、
◯小名 △上宿 △中宿 △臺宿 △天王町 △八幡宿 △田宿 △西ノ久保
◯坂二 海道中南にあり、一番坂登一町餘二番坂登三十町餘、と唱ふ、此餘間道の小坂三あり、矢澤坂登三十間宮ノ谷坂・和田坂登各一町餘、等名づく、
◯柏尾川 東界を流る幅五間、…鎌倉道の係る所板橋を架す長八間、高島橋と稱呼す、此餘天王橋・西久保橋・第六天橋・坂上橋など名づくる小橋あり、共に東海道中の小渠に架す、總て官の修理なり、
汲澤村百三
(三十五)
東海道村の南界を通ず幅四間餘、
原宿村百三
(三十五)
東海道村内の中程を貫く幅四間長廿町二十間、當所は立場なり、字臺と呼り戸塚宿へ、三十三町、藤澤宿へ一里三町
◯一里塚 双堠なり、塚上に松樹を植う、東方戸塚宿西方藤澤宿の里堠に續けり、
東俣野村百四
(三十六)
東海道東西に係れり幅凡五間、
◯小名 △殿久保 △大塚又甲塚とも云ふ、 △代官山 △下鄕地 △北原 △大谷 △比尻谷比茲利也都、 △上屋鋪 △中原 △草木佐宇母久 △中町 △堀込 △鐡鉋宿
◯坂二 一は堂坂古名は道場坂と云へり、遊行道場高座郡西俣野村に有し時、其道場への往來なればかく呼べり、今の地に移りてより唱を改むと傳ふ、一は赤坂と呼ぶ各登一町半幅五尺、

※東海道中の坂ではないが、関連する由緒が書かれているため、ここに採録した。

山谷新田百四
(三十六)
東海道村の西界を達す幅三間より四間半に至る、立場あり、字影取立場と呼り藤澤へ二十六町戸塚へ一里十町村北に古道あり城廻村より、東俣道を横切、東俣野村に通ず、昔鎌倉より武州多摩郡木曾町、及び甲州邊への道と云傳ふ、
◯小名 △影取此所に纔の淸水流る、土俗傳て、昔は池あり、池中に怪魚すみ夕陽に旅客の影、池中に投ずるを喰ひしより、影取の名殘れりと云ふ、按ずるに五行傳曰、蜮如鼈三足、生於南越一名射影在水中、人在岸上影見水中投人影則殺之、故日射影、盖當所の池中に住るも、此類なるべし、 △下原 △上どんと △下どんと △杉並 △中町
大鋸町百三
(三十五)
高座郡藤澤宿三箇町の一なり、此地境川を隔て當郡に隷すれど宿驛に預る事は藤澤宿に屬したれば總て彼所に詳載す、四隣廣袤住民の戸数等も彼宿の條に併記したれば此には分記せず…東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、每年七月十一日に市あり、
◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
◯境川 南方郡界を流る幅五間より七間に至る東海道の係る所板橋を架す幅十二間大鋸橋と唱ふ、
西村百三
(三十五)
東海道村の東南を通ず幅三間、
◯道場山 諏訪社の後にあり、◯道場坂 東海道中にあり、

※藤澤宿の一里塚が大鋸町と西村に跨って存在した筈だが、記述はない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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「国立国会図書館デジタルコレクション」上の歌川広重の東海道画集

ふとした思い付きで手慰みにこんな一覧を作ってみました。どのくらい需要があるかわかりませんが、私自身にとってのメモを兼ねています。

国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「国図デジコレ」)に収められた歌川広重の錦絵については、これまでも何度かこのブログで記事を書く際に活用してきました。「東海道五十三次細見図会」については南湖の鮟鱇について取り上げた際に、藤沢以外の絵も含めて検討する際に「国図デジコレ」に収められているものを中心に、欠落分をネット上で探して参照したりしました。

「国図デジコレ」には他にも江戸時代の錦絵が多数収録されていますが、基本的には国会図書館に寄贈されたコレクションがデジタル化されているものの様です。今回は東海道についての修景作業等にに使えそうな作品ということで、初代広重の作品を中心に画集中の絵が比較的揃っているものを一覧にまとめました。各画集のサムネイルとしては日本橋の絵を使うことも考えましたが、江島道の検討の際に大鋸橋脇の道標の本数などについて検討した経緯もあり、その構図の比較にしたい意向もあって、敢えて藤沢の絵をサムネイルにしました。なお、広重の東海道に関するものとしては他に双六が数点「国図デジコレ」に収録されており、他にも東海道中のごく一部の風景を描いた錦絵が収められていますが、今回は一覧に含めませんでした。「東海道五十三対」については初代ではなく2代目の広重のもので、更に藤沢の絵については2種類描かれていますがどちらも広重以外の絵師が描いていますが、幕末期の東海道や周辺地の風景が多数描かれていることから、ひとまずこの一覧に含めておくことにしました。

将来、該当するものが「国図デジコレ」に追加された際には、この一覧に付け加えたいと思います。また、広重以外の東海道の画集や、東海道以外の画集についても、追って一覧をまとめられればと考えています。

因みに、歌川広重の作品集という点では、「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」中の「高橋誠一郎浮世絵コレクション」にかなりの点数がまとめられており、今のところ「国図デジコレ」に収録されていない「行書東海道」「隷書東海道」「美人東海道」「五十三次名所図会(竪絵東海道)」といった画集もこちらには含まれています。

表題著者年代藤沢のページ
東海道五拾三次
[保永堂版]
[歌川広重(初代)]
(解題に記載)
[天保年間]
(解題に記載)
「保永堂版東海道五十三次」藤澤
東海道五拾三次
[狂歌入り東海道]
一立齋廣重
[歌川広重(初代)]
[天保年間]「狂歌入り東海道」藤澤
東海道五十三次細見図会広重
[歌川広重(初代)]
(記載なし)
[弘化年間]
東海道五十三次細見図会:藤沢
東海道五十三次図絵
[人物東海道]
安藤広重
[歌川広重(初代)]
嘉永年間「人物東海道」藤澤
東海道風景図会一立斎広重
[歌川広重(初代)]
(記載なし)「東海道風景図会」藤澤
東海道五十三対
合本になっていないもの
歌川国芳
歌川広重(初代)
歌川豊国(3代)
(記載なし)「東海道五十三対」藤澤
東海道名所風景[歌川広重(2代)
他 全15名]
(記載なし)
「東海道名所風景」藤澤遊行寺

※各項目とも基本的には「国立国会図書館デジタルコレクション」に倣ったが、識別の助けとなる様に適宜注を[]内に補った

※配列は基本的に年代順としたが、記載のないもの、更に合作ものは後ろに置いた。同一年代の場合は表題の読み順とした



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藤沢橋の架橋にまつわる経緯

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

記事ネタがないので、正月恒例の箱根駅伝に因んで、コースになっている東海道の変遷にまつわる話題を取り上げます。

箱根駅伝の開催当初は、江戸時代からの東海道に近いコースを走っていました。第1回の箱根駅伝(四大校駅伝競走)が開催されたのが大正9年(1920年)ですから、関東大震災の3年前に当たります。

神奈川県内の自動車保有台数の変遷については、以前に大正4年大正12年の自動車所有者名簿を紹介しましたが、この時点では一部の地域を除いて自動車が頻りに行き交う状況ではなく、まだロードレースに当たって自動車交通への配慮がそれほど必要ではなかった時代です。


(左上)明治期迅速測図、(右上)大正10年測図・大正14年発行地形図、
(左下)昭和29年二修・昭和32年発行地形図、(右下)現地理院地図上の
大鋸橋(遊行寺橋)と藤沢橋の位置
下2枚に藤沢橋を通過する新たな道が見えている
マーカーは地理院地図上で合わせたため、他の地図では誤差によって位置がズレている
(「今昔マップ on the web」より)

この頃は、藤沢の辺りではまだ旧来の道筋が東海道の本道として残っており、遊行寺坂を降りてきたところで枡形を2度折れてから遊行寺橋を渡り、更に右折して旧藤沢宿の街並みの中を走って行く道順でした。また、藤沢宿の外れには引地川が流れていますが、そこでも道筋は一旦現在よりも北寄りに進み、そこで一旦左に折れてから引地橋の袂で右に折れていました。従って、今よりも細かく折れる道を走り抜けなければならないコースだったことになります。当時は今ほどの速度では走っていなかったことが記録から窺えるとは言え、高速で走り抜けるにはなかなか厄介なコースだったと言えるでしょう。

大正13年(1924年)の第5回の駅伝は前年9月の震災後4ヶ月ほどしか経っておらず、まだ震災の爪痕が多く残っていた筈ですが、中止されずに決行され、記録も残っています。一部の区間で前年とはルート変更を余儀なくされた様ですが、具体的な影響ははっきりわかりません。

ただ、藤沢付近の曲折の多い道筋については、関東大震災以前から懸案とされていた様です。それが震災によって一帯が壊滅的な被害を被ったのを逆に機会と捉え、江戸時代からの曲折の多い道筋を多少なりとも変更して自動車が走りやすい道筋に変更する工事が敢行されました。その竣工に当たって書かれた記事にその経緯が記されています。

言ふ迄もなく本路線は所謂帝國の最大幹線たる東海道にしてこれが改良擴張は多年の懸案なりしが、大正八年内務省が全國道路政策の確立に際し時の内務技師牧博士は其計畫の資料として全國の國道行脚を實行せられ、本縣に於ても同博士の實地踏査を受けたるが其當時に於ては國庫の財源關係上急速の實施は期待し得られざるの狀態にありき。

然るに突如として襲來せる大正十二年九月一日關東地方の大震災は其慘害の絕大なりし丈却て本縣下に於ける國縣道改良事業の促進に絕好の機會を與へたるが、而も此の前古未曾有の大震害に直面せる本縣土木當局者は其難局を救治すべく絕大の苦心と努力を拂ひたるは勿論、別して高田土木課長は全く空前の難局に際し非常の英斷と大なる決心とを以て轉禍爲福の大計畫を樹立し以て道路改良に對する理想の一端を實現せられたるは全國土木行政家の等しく讃嘆せる處にして、多數縣民の感謝措かざる處なりとす。

(「藤澤町國道工事の概要」神奈川縣道路改良事務所長 網谷安次郎 「道路の改良」第七卷第九號 54〜55ページより「土木学会図書館」所収PDFより)


実際は高田課長が立案したとする道路改良事業は予算の都合で多少縮小せざるを得なかった様ですが、工事費に対して国庫補助が2/3ほど拠出され、大正13年度から実施されました。そしてこの時に遊行寺橋東側の枡形が解消され、藤沢橋が新たに架橋されたのでした。また、同じ工事で引地橋東側の曲折も解消されています。

一 路線は同町西富地先(ママ)行寺裏を起點として舊國道を一直線に字大鋸に至り同地先にて舊國道の屈曲部を抛棄し半徑六十間の曲線を以て右折し民地を貫通して同所に介在せる境川を横斷(藤澤橋架設)縣道藤澤鎌倉線に合し半徑六間の曲線を以て右折同縣道に沿ひ北進大鋸橋畔にて再び國道に合し…同町字石名坂地先に於て半徑百間の曲線にて左折し舊國道より分岐して民有地を通過し、起點より壹千二百五十間の處に於て在來國道に再會し同所を流斷せる引地川を經て(引地橋架設)更に一直線に北進し…

(「藤澤町國道工事の概要」56〜57ページより、「述行寺」は「遊行寺」の誤りと思われるが原文ママ、…は中略・後略)


こうして竣功した藤沢橋の委細についても「藤澤町國道工事の概要」に建設中や竣工後の写真と共に記されていますが(59〜62ページ)、鉄筋コンクリート製の下部にアーチを組み入れた構造とされ、橋面にはアスファルト舗装が施されました。この橋はその後70年にわたって使用されていましたが、平成2年(1990年)に折からの増水によって落橋し、平成4年に護岸工事と河底の掘削に合わせて再架橋されて現在に至ります。


現在の藤沢橋上の様子(ストリートビュー
ということは、大正13年の第5回の駅伝大会の際にはこの工事が竣工する前でしたから、恐らくはまだ旧東海道に沿ってコースが設定された筈です。あるいは翌年の第6回大会でも竣工が間に合っていなかったとも考えられ、そうすると現在の藤沢橋を通過するコースに変わったのは少なくとも第7回以降ということになる筈です。

他方、遊行寺橋(大鋸橋)も震災によって橋の中央に穴が空き、辛うじて徒歩でのみ渡れる状態になりました。翌年1月の駅伝の頃までには修繕が完了していた様で、震災復興後の写真(リンク先PDF)でも当時の遊行寺橋のポニートラスの姿が写っています。ただ、震災の数ヶ月後ではまだ仮橋だった箇所も多かった筈で、この回のコース設定ではそうした問題をどの様に解消したのか、気になるところです。

因みに、現在の箱根駅伝のコースでは、この藤沢橋を渡った先で国道467号線(かつての県道藤沢鎌倉線に相当)を渡り、その先で「湘南新道」と通称される県道へと進みますが、この区間は昭和36年(1961年)5月に新たに設けられた道路で、駅伝のコースもその開業に合わせて変更された様です。

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【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」の各村の記述に現れる街道の記述を、ここまで足柄上郡足柄下郡淘綾郡と一覧にしてきましたが、今回は大住郡の一覧を取り上げます。

足柄下郡では東海道の分だけでもかなりの分量になったので、それ以外の脇往還とは分けて提示しました。大住郡の場合、東海道の通過する距離が相対的に短く、沿道の村が宿場を含めて3つと少ないので、分量的には別立てにする意味はあまりなさそうですが、それ以外の街道の記述が多いこと、更に以下に述べる様な問題があって一覧をまとめるのに時間が掛かりそうなので、敢えて東海道の分だけを先に出してしまうことにしました。

なお、小田原宿の時と同様、平塚宿についても宿場の継立に関する記述は以前まとめたものに譲り、ここではそれ以外の記述に限定しました。

ここで名前が登場する村や宿場の位置関係をプロットしてみました。

東海道:大住郡中の各村の位置
東海道筋の大住郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)


また、馬入の渡しの記述に登場する助郷の村々の位置関係を示すと次の様になります。定助郷については須賀・柳島以外は必ずしも相模川沿いの村が受け持っていた訳ではないので、飽くまでも人足を出していたのに対して、大通行の際には船が不足することになるので、必要に応じて船を出せる相模川沿いや海岸沿いの村々に応援を頼むことになっていたことがわかります。また、中にはかなり遠方からの出張を強いられることになった村が含まれていたことも窺い知ることが出来ると思います。厚木から馬入の渡しまでで約12km、鎌倉・材木座から浜伝いに馬入の渡しまでは20km近く隔たっています。

馬入の渡し:助郷の村々
馬入の渡しの助郷の村々、青が定助郷、緑は大通行時の加助郷の村々
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、合成の上でリサイズ、
「色別標高図」「明治期の低湿地」を合成)



「風土記稿」の説明
東海道馬入村四十三(二)東海道往還、村内を東西に貫く、道幅三間餘、爰に一里塚、高六尺、上に榎樹あり、東方は高座郡、茅ヶ崎村、西方は淘綾郡、大磯宿への一里塚なり、あり、又北方に、東海道古往還と稱する小徑あり、幅二間、往古は今の渡馬入渡、より、五町許、川上を渡りて、往來せしと云傳ふ、其頃の海道なり、按ずるに、此地舊くより、海道にして、相模川の係る所なれば、古書に、相模川を渡りしなど記し、或は相模川合戰とあるは、皆當所の事なるべし、故に今爰に載す、
※この「東海道古往還」について、具体的にどの道筋を指すのか、またこの言い伝えの是非等について不詳。
◯相模川 村の中程を流る、幅七十間餘、當村にては馬入【豆相記】馬生に作る、川とも唱ふ、…◯渡船場 相模川にあり、東海道の往還にて、馬入渡と唱ふ、渡幅七十間餘、是平水の時なり、常は船六艘渡船三、平田船二、御召船と稱する一を置、但一艘に水主三人宛なり、是は當村及定助鄕の村より出す 其村々は、高座郡、萩園・下町屋・今宿・松尾村等なり、又郡中須賀村、高座郡、柳嶋村も定掛りにして、獵船二艘を出せり、を置、往來を渡す、蓋通行多き時は、助鄕の村々高座郡、田端・一之宮・門澤橋・中新田・河原口等五村、當郡、戸田・大神・田村三村、愛甲郡、厚木村、鎌倉郡、材木座・坂之下二村等なり、但大神・田村の兩村は、五年づゝ、相替て勤むと云、より、若干の船を出せり、當所渡守へ、二十石の畑七町六畝五歩、地を賜ひ又寛文年中より、船頭等に月俸十口を賜ふ、川會所一宇あり、川年寄と稱し、渡船の事に與る者、爰に在て、其指揮をなす、
平塚新宿四十八(七)本宿の東に續けり、此地は慶安四年、八幡村を割きて本宿に加へられ、宿驛の事を勤めしめらる貢税等其地に係る事は、おのづから別にして、本宿には與らず、されば當時は八幡新宿或は新宿村と稱す、今の唱へに改めし、年代詳ならず按ずるに、正保國圖に、八幡新宿、寛文五年の水帳、及元祿國圖は、新宿村と載せ、元祿十六年の割付の書に、始て今の唱を記せり、…東海道は東西に通じ、其左右に民戸百十九内二十四戸は本宿に住す、連住す家並長四町五十七間、…海道中に市立り、歳首に用ゐる諸物を鬻ぐを以て、餝市と稱す、
◯小名 △西町 △東町
平塚宿四十八(七)東海道宿驛の一にして、江戸日本橋より十五里半、…此地宿驛となりし、始め詳ならざれど、古書に往々所見あれば舊く置れし事論なし、後世正保元祿の頃は平塚村と稱す正保元祿國圖其後宿と改めし年代詳ならず按ずるに、元文中の物に平塚町と記せしあり、…慶安四年當宿困窮なるに依て、平塚新宿を以て宿内に加へられ、役夫傳馬等は勿論、都て宿驛に與る事は本宿と同く勤めしめらる、…東海道往還は東西に貫く幅四間一尺より六間に至る、民戸二百八十九、多くは往還の左右に、連住す宿の家並、九町五間、本陣脇本陣及旅籠屋四十八二等あり、中十五、小三十三、あり、
◯小名 …△二十四軒町新宿の民廿四戸爰に移る、故に此唱あり、 △十八軒町二十四軒町より東方の民戸十八爰に移る、依て名とす、 △柳町 △西仲町 △東仲町
◯花水川 西境を流る幅十三間より十五間に至る、南原村にて新川と稱する川筋なり、宿の乾の方山下淘綾郡の屬、德延村等の境にて、金目川・玉川の兩新川落合ひ、是より花水川の名あり流末海に注す、…但此川もとは今の流より少く南にありしが、水流不便なる故、寶永六年堀改めらる、古の川蹟今に細流幅一二間、あり、古花水川と呼ぶ、末は丸池に入、夫より花水川に沃ぐ、土橋一、古花水川に架す長六間、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


さて、ここまでの一覧を作るに当っては、基本的に各郡図説の街道の記述を参照しながら、各村の記述に見える街道の記述を振り分けていくという手法で作業を進めました。街道内の順序を決める際には、各種地図を参照して位置関係を把握しながら、各村の四隣に現れる村の名称や記述を照合して判断していました。足柄下郡には一部「小田原道」の記述に図説中にない道筋を指すと考えられるものが若干含まれていましたが、それ以外は大筋で照合に問題を感じる点は少なかったと感じています。

これに対し、大住郡の各村の記述はかなり「混乱」している様に見えます。例えば図説中には全部で5本の「大山道」が示唆されていますが、各村の「大山道」の中にはその5本の何れにも当て嵌まらない道筋を指しているものが多数見つかります。また、図説中にはない名称の街道も多数見つかりますが、これらの中には「大山道」と別称されているものも含まれている様でもあり、これが更に照合を難しいものにしています。更に、明らかに村域を通過している筈の街道の記述が抜けているケースも幾つか存在しています。大住郡図説に掲示されている「今考定図」と照合しても、各村に記されている街道が図上には見当たらないものも少なくありません。

このため、大住郡の街道の照合には「風土記稿」以外の資料を参照しながら判断する必要がある箇所が多く、果たしてこれらをどこまで整理し切れるかが課題になってきます。また、ここまで見てきた各郡に対して大住郡の記述が何故この様な状態になっているのかも、「風土記稿」の記述の性格を考える上では重要な手掛かりになるのではないかと考えています。

次回は東海道以外の街道の一覧を掲げる予定ですが、もうしばらく時間が必要になるかも知れません。

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【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄下郡各村の街道の記述(その1)

前回に続いて、「新編相模国風土記稿」内の各村の街道に関する記述を拾って一覧化する作業を続けています。今回は足柄下郡の各村の記述を拾いました。

東海道の場合、他の街道に比べて記述が厚くなっており、特に宿場や渡場、更には山中の各坂の記述が厚めになっています。そのうち、宿場の継立に関する記述は以前まとめたことがあります。そこで、問屋などに関する記述はそちらに譲り、ここではそれ以外の街道に直接関連する記述のみを拾いました。また、由緒に関する記述や高札場の札書きには興味を惹かれるものも少なくないのですが、分量が多いため大半は割愛せざるを得ませんでした。それでも東海道だけで相当な分量になるので、それ以外の街道の記述は次回に廻すことにしました。

今回東海道分だけになりましたので、ここで名前が登場する各村の大凡の位置をプロットした地図を添えます。出来れば同様の地図を他の街道について準備出来ると良いのですが、道筋をはっきり掴んでいない道も多いので、差し当たっては一部の街道に留まりそうです。

東海道:足柄下郡中の各村の位置
東海道筋の足柄下郡中の各村の位置(概略)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)



「風土記稿」の説明
東海道羽根尾村三十七
(十六)
東海道巽方に係る、幅五間、
◯塔臺川 西境に在、幅五間許、土橋を架す、長七間、古は板橋なりしと云、當村・川勾兩村の持、
※羽根尾村の位置関係から考えると、塔台川はむしろ東境になっている区間の方が長いが、恐らくは東海道の掛かっている飛地の位置関係で見られているものと思われる。なお、羽根尾村の飛地と前川村の間に淘綾郡川勾村飛地が挟まっているが、上記では川勾村が淘綾郡の属であることが書き漏らされている。
前川村三十七
(十六)
東海道村南を貫けり、幅五間、
◯小名 △車坂海道中にて、西に下れる一町許の坂あり、按ずるに、太田道灌の平安紀行に、車坂の里と見えしは此處なり、曰、車坂と云里にて、夕立頻に降きそへば、鳴神の聲も頻に車坂轟し降る夕立の空、又韓使來聘の時は、此地の路傍に、休憩の茶屋を建るを例とす、其間口百三十間餘と云う、
◯塔臺川 東に在、幅三四間、當村に手は羽根尾川と呼、羽根尾は上流の村名なり、當村にて海に沃ぐ、◯西川 西に在、幅六尺、村内民家の背後より出、水末直に海に入、土橋一あり、西橋と呼、 ◯澤三 西谷津橋幅七間半、下流は櫻川と唱ふ、土橋を架す、長五間、櫻橋と云う、 東澤幅五間、下流を關ノ下川と唱ふ、以上二流は東海道を横切海に入、…等の名あり、
國府津村三十七
(十六)
東海道南に係る、幅五間、
◯小名 △市場東海道中の西、親木橋詰を云、驛家たりし遺名なるべし、今は市あるに非ず、
◯森戸川 村西を流れ、幅三間半、直に海に入、東海道の通ずる所土橋を架す、古は板橋にて高欄有しといふ、親木橋と唱ふ、長十二間四尺、幅二間半、橋上にて西望するに富嶽まほに見ゆ、因て此邊にては、富士見川とも呼ぶ、◯逆川佐加左可波 酒勾堰の末流なり、幅三間半、親木橋邊にて森戸川に合す、…
小八幡村三十六
(十五)
東海道村の巽方を貫く、幅五間、路の左右に松の並木あり、此地立場なり、上は小田原宿、下は淘綾郡山西村小名梅澤立場まで、各一里、
◯一里塚 東海道中の東にあり、左右相對せり、高二間、鋪六七間、塚上に松樹あり、上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅澤の一里塚に續けり、
酒勾村三十六
(十五)
民戸百十八、東海道側に連住す、……東海道村の東西に貫く、幅五間、當村川越の役を勤むるを以て、小田原宿の助鄕は免除せらる、
◯小名 △はんべ東海道の通衢にて、西の方長一町餘の所を云、…
◯酒勾川 西界を流て直に海に入、◯川越場 酒勾川にあり、東海道の係れる所なり、當村及び對岸網一色村山王原村の三村にて、歩行人夫を出し、其役を勤む、人夫は三百十九人を定額とし、數内當村百六十四人、網一色村六十二人、山王原村九十三人、日々二十人東西涯各十人、河涯に出、赤體行人を肩して渡せり、又輦臺越をもなす、人夫四人にて舁り、輦臺壹挺の價は、人夫二人の雇錢に換ふ、輦臺の數、三村にて凡七十五挺を定額とし、又高欄を附たる輦臺三挺あり、こは諸家の通行に備ふる所なり、往來繁劇の時は、定額の人歩を悉出し、尙足ざれば、河涯の村々に課して人歩を出さしむ、網一色村舊家四郎左衛門家藏文書曰、兩村にて不叶と見及たる時は、中島・町田・今井三ヶ村之人足も加、往還衆遅々なき樣に川越可仕と、急度手形取置可有之候 以上、巳九月二十六日、高松與三右衛門殿、小野甚太夫殿、藤井惣右衛門殿、町田六右衛門殿、御勘定所、此配符一色村四郎右衛門所に御置候樣に御渡し可被成候云々、按ずるに、寛永中稻葉丹後守正勝所領の頃なるべし、人歩の定價は、一人にて平水水中深さ一尺八寸を云、三十五文、水增せば水の深さ二尺三四寸を云、四十八文を定とせしに、彼三村水火の兩災に罹り、人民困厄せしをもて、文政元年十月官に願ひ、五年の間增錢を許可ありしより、平水四十六文、增水六十二文を定額とせられし後は、期年に至り又許可ありて今に然り、凡水の深さ三尺三四寸に至れば三合水と云、往來を留む、川明の差も是に倣ふ、山村に川瀨踏を司どる夫二人ありて、水の淺深を試み、往來を通ず、但川留川明の時々宿繼を以て道中奉行に達す、十月五日より明年三月五日に至るの際は、土橋を設け往來を便す、土橋の費用は、領主より與へ、造作の人夫は、近村に課す、… △高札場 川越の掟を示す所なり 高札凡四枚あり、其一曰、… △川會所 高札場の向にあり、間口七間、奥行四間、川越の事を司どるもの名主・組頭・川頭・岡居役・小頭の五等なり、日々爰に出て、其指揮をなせり、對岸網一色村にも、亦川會所あり、
◯菊川 西方を流れ、村南にて海に入、幅四五間、末は十間餘に至る、東海道の通ずる所に土橋を架す、長十二間、横二間半、傳ヶ橋と呼ぶ、此橋邊、【盛衰記】に見えし…
網一色村三十三
(十二)
民戸五十三、東海道往還の兩側に住す、…東海道村南に係る、長六町四十三間、幅五間、古は海濱を通せしと云、當村は酒勾川越の役を勤む、故に諸役免除せらる、舊家四郎右衛門藏、元和中磯部源五郎・上村忠左衛門等の下知狀に、寛永中の文書に、其鄕中河越仕候に付、諸役可爲赦免者也とあり、又寛永四年、御代官八木次郎右衛門重明の下知狀に、あみ一色之村、酒勾川越に付諸役不仕候由、前々之御地頭衆、御代官衆より之任證文、私等も指置申候云々と載す、
◯高札場一 酒勾川越の掟を示す、事は酒勾村に詳なり、
◯川會所 酒勾川越の事を指揮する所にて、山王原村と組合持なり、間口五間、奥行六間、川越の事を進退する事は酒勾村に辨ず、
◯酒勾川 東堺を流る、幅五町二十間、海道中渡場あり、對岸酒勾村、及隣村山王原村と組合て、川越の役を勤む、事は酒勾村に辨ぜり、
◯橋二 東海道中用水堀に架す、千貫橋と唱ふ、長二間、横二間半、欄干あり、古は板橋なりしを延寶七年石橋となす、其費千貫目に及り、故に名とす、一は埋橋なり、長二間、横二間、共に領主より修理せり、
山王原村三十三
(十二)
民戸百一、東海道側に連住す、…村の艮方より坤方へ貫ける一條は東海道なり、長六町十九間、幅五間、古は海濱を通じ、小田原古新宿町へ達せしと云、今此道同所新宿町へ達せり、村民酒勾川越の役を勤むるを以て諸役を免除せらる、網一色村名主四郎左衛門家藏、元和寛永中の文書に、其免除の事見えたり、
◯蘆子川 西を流る、久野川の下流にして、村内に入初て蘆子川と唱ふ、幅二十間、村の巽方にて海に入、…
◯山王橋 東海道中蘆子川に架す、板橋なり、長十八間、幅三間、山王社に近ければ、かく名づく、領主の修理なり、
小田原宿二十四
(三)
郡の南方海岸に傍て平衍の地なり、東海道五十三驛の一、江戸日本橋より行程二十里十町三十八間、小淘綾里と唱ふ、當宿の地形、小田原城の東南を擁せり、城下町都て十九町の内、東海道の大路に値れる所を通町と稱す、其長東西二十町五十六間、道幅五間、其町々は新宿・萬・高梨・宮ノ前・本・中宿・欄干橋・筋違橋・山角の九町なり、
…かく繁榮の地なれど、市廛皆茅屋なりしを、天正十七年、北條美濃守氏規上洛の時、洛中の町作り皆板葺なるを見て、歸國の後、其由氏直に聞えあげしかば、やがて命じて當所大路の比屋に板庇をかく、【北條五代記】曰、…今は市中瓦屋もあれど、多くは板屋なり、其製他に異なり、是を小田原葺と唱ふ、
…宿内本陣四宮ノ前町、欄干橋町各一宇、本町二宇、建坪二百二十九坪半より二百九十七坪半に至る、脇本陣四宮ノ前町、中宿町各一宇、本町二宇、建坪、八十四坪半より百八坪に至る、旅籠屋九十五凡三等、上十六宇、中二十三宇、下五十六宇、且茶肆市廛軒を連ね、繁富の地なり、されど田圃なく農事の稼なければ、行旅の休泊に活計をなし、海濱の漁業をもて生產を資く、故に今は宿高はなく、地子錢を領主に貢ずとなり、元祿の改には、高五百七十一石二斗七合、小田原府内と載す、今も府内谷津村は、別に村高あり、又竹花町に少許の持添地あり、
◯一里塚 江戸口の外 南側にあり、高六尺五寸、幅五間許、塚上榎樹ありしが、中古枯れ、今は松の小樹を植ゆ、古は雙堠なりしに、今隻堠となれり、盖海道の革まりし頃、一堠は海中に入しならん、此より東は小八幡村、西は風祭村の里堠に續けり、
◯新宿町江戸口の内にあり、當町より以下山角町に至るまで次第に西行して東海道の大路に連れり、
◯蹴上ヶ坂 東海道中にあり、僅のなだれなり、
◯高梨町大路より北に折るゝ横町は、甲州道の岐路なり、
◯宮前町◯舊家金左衛門 本陣なり、淸水を氏とす、…慶長中町大名主或は町代官とも稱す、を勤む、夫より今の金左衛門が父の時迄、町年寄名主役を勤めしとなり、
◯本町◯舊家甚四郎 久保田氏なり、…寛永の頃より町年寄役或は名主役を勤む、今は本陣にて宿老を兼ぬ、
※戦国時代以前の由緒に関する記述は基本的に省略したが、江戸時代時点の景観に関するものは史料の引用箇所を外した上で残した。
板橋村二十六
(五)
今も府内の西に續き、東海道側長五町餘、に民戸連住す、…東海道東西に貫けり、幅四間餘、
◯山二 村の西北にあり、御塔山於多布也麻、名義は妙福寺の條に出す、…と唱ふ、 ◯御塔坂 西方東海道にあり、御塔山の麓なり、登三十間、降五十間許、
風祭村二十六
(五)
東海道村中を貫けり、道幅二間、或は三間、當場は立場なり、東方小田原札ノ辻より二十六町、西方湯本茶屋へ一里、
◯一里塚 東海道側に雙堠あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、圍各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里堠に續けり、
入生田村二十六
(五)
東海道東西に通ず、道幅二間より三間半に至る、
◯駒留橋 東海道中湯本村界の淸水に架す、石橋なり、長三尺、幅二間、兩村の持、橋上に賴朝卿馬蹄の跡と云あり、旅人此橋に足痛の立願す、此餘二の小石橋あり、宮澤橋淸水橋と稱す、皆海道中の淸水に架す、
湯本村二十七
(六)
東海道村の中程を貫く、幅二間、…又海道中小名中宿より北へ下り、二町餘にて當村溫泉へ至る道幅六尺、あり、
◯小名 △駒留入生田村境の小流に架せる駒留橋の邊なれば、この名あり、 △山崎 △三馬橋 △下宿 △藪ノ内 △中宿 △早雲寺前 △堂ノ前地藏堂前を云、以上東海道中にあり、
◯土橋 三枚橋と呼ぶ、東海道中早川に架す、長二十二間幅一丈餘、元は板橋なりしと云、領主の修理なり、此所より西折溫泉場への岐路ありて、橋邊茶鋪軒を連ねり、湯本細工及米饅頭を鬻げり、橋を過れば、道次第に崎嶇往來甚艱めり、路の左右峯巒層見疊出、加之早川の流噴迫して水聲琅然、頗る山中の勝地なり、
湯本茶屋二十七
(六)
東海道の往還係れり、幅四間、當所立場にて、下は風祭村立場、上は畑宿立場へ各一里、休憩の茶鋪あれば、村名となれり、古は湯本村の内なり、元祿の改には、湯本村内湯本茶屋と載す、里俗に臺の茶屋と呼は、湯本村より坂を登り、地勢漸く高險なればなり、
◯觀音坂 海道の西方に在、登り二町許、此邊を字古堂と唱ふ、古觀音堂ありし故の名と云、板橋村の傳には、村内地藏堂、昔當所にあり、故に古堂の名ありと云、 ◯葛原坂 是も海道中、須雲川村堺に在、登り一町許、
◯一里塚 海道の西邊左右に並べり、高さ五尺餘、塚上に榎樹あり、圍六尺五寸許、当方は風祭村西方畑宿の一里塚に續けり、
◯ 一盃水 海道にあり、山間涌出の淸水なり久旱と雖ども涸ることなし、往來の旅人嶮岨艱難の路を經、爰に至て一杯の水を掬し渴を凌ぐべし、故に此名あり、
◯土橋 海道中の小流に架す、猿澤橋と名づく、長二間、幅八尺、
◯鎗突石 往還西の方に在、大さ一間餘、石上に曾我五郎鎗にて突しと云痕あり、
須雲川村二十七
(六)
村の中程を東海道貫く、幅四間、
◯女轉シ坂 海道中の西方にあり、登り一町許、昔婦人驛馬に乗り、此にて落馬す、故に此名ありと云、 ◯割石坂 是も海道中にて畑宿の境にあり、登り一町許、路傍に一巨石あり、長四尺、横三尺、厚さ五寸許、相傳ふ曾我五郎時致、富士野に參り向ふ時、此坂にて佩刀の利鈍を試んとて斫割れる石なり、其の半片は溪間に落しとなり、
◯須雲川 女轉シ坂の下にて海道を横ぎり、北方城山の麓を流る幅十間、水上には山生魚生ず、
◯土橋二 一は須雲川に架す、須雲橋と云、長六間、幅二間半、元板橋にて欄干あり、今假に土橋とす、一は村東の溪川に架す、二ノ塔橋と呼、長三間半、幅二間半
畑宿二十七
(六)
此地は東海道中の立場にて湯本茶屋へ一里、箱根宿へ一里八町、民戸連住し宿驛の如し、…東海道東西へ貫けり、幅二間餘、宿の上下入口二所に、海道を挾み石垣を築き、宿内長二町餘の界を定む、高八尺、長二間、幅九尺、正徳元年新築す、
◯小名 …△大平於伊多比羅◯二子山麓なり、危磴數所を攀躋り、此地に至て地勢稍平夷なり、故に此の名あり、爰に醴を鬻げる茅店五あり、土俗甘酒茶屋と云、凡山中所々にて是を鬻げり、
◯割石坂和利伊之佐加 須雲川村の界にあり、登り三町程、 ◯大澤坂 大澤川の邊にあり、登り三町餘、 ◯西海子坂佐伊加知佐加 宿外西の方にあり、以下次第して箱根宿に至、登り二町許、路傍に一巨石あり、沓掛石と云、方九尺、來由詳ならず、此坂山中第一の峗[山虗]にして、壁立するが如く、岩角を攀緣して陟るべし、一歩も謹ざれば、千仭の岩底に陷れり、◯橿木坂加志濃起佐加 登り五町許、峭崖に橿樹あり、故に此の名を得、… ◯猿滑坂佐留須部里佐加 登一町許、殊に危嶮、猿猴と雖どもたやすく登り得ず、よりて名とす、… ◯追込坂布都古美佐加 登二町半餘、 ◯於玉坂於佗磨佐加 登二町半餘、 ◯白水坂志呂美都佐加 登十二間餘、 ◯天ヶ石坂天無加伊志佐加 登七間餘、坂側に一巨石あり、方八尺餘、天ヶ石と云、天蓋石の訛なり、其形天蓋に似たればなり、此所箱根宿界にて、山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり、
※坂に関する由緒を記した部分は割愛。
◯千鳥橋 大澤川に架す、長幅各二間、古は土橋なり、寛政十年石橋となす、欄干あり、領主の修理なり、
◯一里塚 西海子坂の下海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、西は箱根宿の一里塚に續けり、
◯施行所 割石坂に在、文政七年江戸吳服町の商人加瀨屋友七なるもの、人夫驛馬嶮路跋陟の勞苦を憩しめんが爲に、施行所を此地に建んことを願上しかば、許可せられ、三百四十坪間口十七間、奥行二十間、の地を恩借せらる、よりて爰に施行所を建、間口六間に奥行四間、屋後別に小座敷あり、年每に金五十兩を出し其費に宛つと云、
元箱根 下二十九
(八)
賽ノ河原 湖水の東岸にて、東海道の係れる所なり、此處の敷地は小田原領の内にて、堂塔等は皆金剛王院の指揮に屬す、こは元文四年定らるゝ所なり、
箱根宿二十七
(六)
東海道五十三驛の一なり、正保及元祿の國圖、幷に箱根町と記す、相傳ふ此地宿驛を置れしは、元和以後の事なり、關西の諸侯朝觀往還の時、箱根山の嶮峻にして、且郵驛路遠く、仰を奉り山野を闢き、三島豆州の屬、・小田原兩驛の民を遷され、此地に新驛を置る、是を以て今宿内に三島町・小田原町の二名あり、 此時三嶋御代官八木二郎右衛門重明、小田原御代官中川勘助安孫等より、宿内驛馬の役を勤る輩に、夫食米三全俵を賑給ありしとなり、…民家百九十八、數内、本陣六軒、脇本陣一軒、驛舎三十九軒あり、田圃なく、無高の地なれば、地子は古より免除せらる、…東海道は東西に貫く、道幅四間、
◯小名 △三島町 △小田原町 △蘆川町 △新町 △新谷町志無夜末知◯以上宿内の小名なり、 △吉原久保 △三ッ谷 △賽ノ河原地は當宿に隷し、所在の堂塔及民家の如きは、皆元箱根の指揮に係る、故に彼條に詳載す、
◯權現坂 海道中東の方にて、箱根權現社地の前にあり、一に八町坂と云、畑宿界天ヶ石より西へ降る坂にて、長八町あり、故に名づく、此坂を降り盡て賽ノ河原に出づ、此所新道なり、昔は權現横大門の鳥居を入社地をすぎ、大鳥居を出て今の道に合せしとなり、 ◯向坂 蘆川町の西にあり、爰より次第に西行して挾石坂に至る、坂路頗る峻嶮にて老杉左右に駢列し、晴陰をいはず、常に烟霧多く、咫尺を辨ぜざる時あり、 ◯赤石坂 ◯風越坂加左古志左加 ◯挾石坂波左美伊志左加 此坂を陟り盡して、地勢漸く開く、傍示杭二本あり、一は豆相二州の分界を標し、一は御料と小田原領を分てる傍示なり、
◯一里塚 小名吉原久保の路傍左右にあり、高五尺八寸、幅二丈二尺、上に檀樹生ず、東は畑宿、西は山中新田豆州の屬、の一里塚に續けり、
◯蘆川 蘆川町の西にあり、鞍掛山より出、是も湖中に入、幅二間餘、石橋を架す、蘆川橋と云、…
◯箱根御關所 宿の東方にあり、世々小田原領主の預り警衛する所にして、【寛永譜】曰、…今大久保加賀守忠眞奉り、家士若干を置て守らしむ、此地は西面の要害にして、譏察尤嚴なり、建置の始を詳にせず、或は元和四年、箱根新驛開けし頃の事なるべしといへり、安國殿御家譜には、慶長十五年頃の事となす、
◯時鐘所 小田原町の東屋背にあり、鐘は寛保三年七月新鑄する所なり、小田原領主の置所にて、關門開閉の爲、時を報ずる所なり、

注:

※何れも雄山閣版より。字母を拾えなかったものについては[]内にその字の旁を示した。

※巻数中、括弧内は足柄下郡中の巻数。

※本文中、…は中略。大半は中世以前の由緒についての文献の引用。

※村の配列は、「足柄下郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がない場合でも街道筋にあることが判明しているものは可能な限り含めたが、遺漏の可能性なしとしない。


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