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「春日局から稲葉正則宛の書状に見られる「雲雀」を巡って」再考

以前、春日局から稲葉正則に出された書状に見られる「雲雀」と「鮎ずし」をめぐり、主に正則の鷹狩について検討しました。この書状が出された寛永20年(1643年)には正則はまだ20歳という若さでしたが、この「雲雀」を得るためには鷹狩をしたと考えられるものの、実際に正則がこの年に鷹狩を行ったことを裏付ける史料は他に見当たらないことを指摘しました。

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春日局(再掲)
麟祥院所蔵の肖像画
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稲葉正則(再掲)
稲葉神社所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
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しかし、正則がこの時点で鷹狩を行ったとすると、ある問題点に突き当たることについてはこの記事中で検討していませんでした。今回はその問題点を改めて取り上げて、この書状の持つ意味をもう一度考えてみたいと思います。

ある問題点というのは、江戸時代には基本的に鷹狩は将軍の許可なく行い得ず、そのための鷹場を拝領する必要があったことです。「江戸幕府放鷹制度の研究」(根崎 光男 2008年 吉川弘文館)では、江戸時代初期、特に寛文期の鷹場の下賜について、仙台藩伊達氏の事例を挙げて次の様に指摘しています。

慶長六年(一六〇一)九月、伊達政宗は諸大名に先駆けて家康から恩賜鷹場を下賜され、その領域は武蔵久喜地域の一〇〇余か村であった。徳川氏の関東領国に恩賜鷹場を下賜されたことは、伊達氏が徳川氏の鷹場支配権の一端を担い、上下関係として編成されたことを意味する。政宗はこの鷹場でたびたび鷹狩を行い、幕府・将軍に「鷹之鶴」をはじめとする諸鳥を献上したが、一方で大御所や将軍からは鷹や「御鷹之鶴」などを下賜された。…また、伊達氏は豊臣政権下において鷹献上大名の一人であったが、徳川政権発足後も松前氏に次ぐ鷹献上大名として位置づけられ、近世中期以降も同様であった。

政宗は寛永十三年(一六三六)五月二十四日、七十歳で死去し、忠宗が二代藩主となって遺領を継いだ。このなかで、久喜鷹場はどのように推移したのであろうか。同年十二月二日、仙台藩江戸宿老古内主膳正重広らが国元の宿老石母田大膳宗頼らに送った書状によれば、「昨日朔日御登城被成候処、久喜御鷹場御直ニ如陸奥守(伊達政宗)代被遣之由被 仰出、其上早々参候而鷹ヲモ遣可被申候由、色々御懇之上意共申も愚ニて候、箇様之御仕合、其元ニ御座候御親類衆・御一家・御一族衆、宿老衆へも、何も可被申聞之由 御意候」とあり、登城時に将軍家光より久喜鷹場を政宗のときと同じように下賜され、早々に出かけて鷹狩をするように仰せがあったことを親類・一家・一族へ申し伝えよ、との忠宗の意向があったことを報じていた。このように、忠宗には政宗時代の久喜の恩賜鷹場が下賜されたとはいえ、改めて将軍から恩賜鷹場の下賜が執行されており、そのまま世襲しえるものではなかったのである。

鷹場の下賜が属人的要素により執行されていたことは、四代藩主綱村の代になると、よりいっそう明瞭となる。万治元年(一六五八)七月十二日、忠宗が亡くなり、そのあとを継いだ綱宗が同三年に幕府から逼塞を命じられたことで、その子綱村(幼名亀千代丸)が二歳で遺領を継ぎ、四代藩主となった。寛文元年(一六六一)十月六日、幕府奏者番太田資宗は亀千代丸の後見人である伊達宗勝・田村宗良に、「亀千代殿御幼少之御事候間、久喜之御鷹場被指上可為御尤由御沙汰承候間、御老中迄一往御断被仰上可然存候、御成長之時分ハ定面亦被遣ニ而可有御座候、唯今ハ右之御断一段御尤之儀与拙者式も存事候、為御心得如是御座候」という内容の書状を送った。ここでは、亀千代丸が幼少であるため、久喜鷹場を返上せよとの幕府の「御沙汰」があったことを伝えていた。この事例では、恩賜鷹場の返上が幕府老中たちの評議により決定し、亀千代丸が成長したさいには再度下賜されるだろうとの見通しが述べられていた。幕府が藩主の幼少を理由に恩賜鷹場の返上を命じていたのは、この下賜が個人を対象としていたことを示すものであり、その人物が恩賜鷹場の下賜条件を満たしているかどうかを検討して決定していたのである。

…伊達家の事例は、寛文期でも恩賜鷹場の下賜が個人を対象としていたことが明らかである。この時期、家格の確定や幕府職制の確立という社会状況にあったことは確かだが、恩賜鷹場を下賜される対象者を家格や幕府役職という枠組みで説明することはできない。恩賜鷹場を下賜された大名の顔ぶれをみると、将軍家と血縁関係にある大名、家格の高い大名、幕府重職を務めた大名が多いとはいえ、その基準を満たした大名がすべて等しく恩賜鷹場を下賜されていたのではなく、やはり属人的要素で執行されていたといわざるをえないのである。

(114〜116ページ、以下も含め、傍注も同書に従う、注番号は省略、…は中略、強調はブログ主)


つまり、先代の藩主が拝領した鷹場は次の代に無条件に相続される性質のものではなく、特に次代が幼少の場合には一旦返上を命じられることさえあったということになります。稲葉正則が寛永11年(1634年)に家督を継いだ時点では数え年で12歳、元服したのは寛永15年(1638年)と後年のことですから、伊達氏の事例と重ねればやはり鷹場は一旦返上して幕府内で相応の実績を上げなければならなかった筈ということになります。事実、正則自身が鷹場を直々に拝領したのは老中首座に就任した寛文6年(1666年)のことでした。

更に同書では、下賜された鷹場での鷹狩は飽くまでも本人にのみ認められたものであり、本人以外は利用を認められていなかったことを細川忠興の事例を挙げて指摘(117〜118ページ)した上で、次の様に結論づけています。

恩賜鷹場の下賜は、家格を基礎としながら、原則として家に対してではなく、属人的要素により執行されていたのである。恩賜鷹場を下賜された大名の場合、それが後継者に引き継がれず、一代限りで終わっていたことが多いのは、そのことを如実に示しているといえよう。「大猷院殿御実紀附録」には「鷹場賜る事は、三家又は老臣にかぎれば」とあり、御三家は家に対して、そのほかは幕府・将軍に長年奉公した老臣に限られていたとあり、そのことを裏づけている。もちろん、これは全体的な傾向であって、この傾向から外れている事例もあり、厳密にいえば藩主に限らず、隠居した元藩主や藩主の嫡男をも対象としていたのである。…恩賜鷹場は家格を意識しながらも、徳川家および大御所・将軍との個人的な関係のなかで下賜されていたのである。

このように、恩賜鷹場の下賜儀礼は、大名の徳川将軍家への奉公に対する御恩の一環として、「慰み」や「養生」のために執行されたものであり、まさに恩賜鷹場と称しうる性格を有していたのである。この鷹場は、近世前期においては、関東ばかりでなく、畿内近国にも位置づき、公儀鷹場の一角を占めていた。その意味で、恩賜鷹場を下賜された大名らは、江戸・京都滞在時における鷹狩の場を保障されると同時に、公儀鷹場の支配権の一端を担うことになったのである。

(120〜121ページ)


これに従えば、いわゆる「御三家」以外の大名については、飽くまでも将軍との個人的な関係にあった人物にのみ鷹狩の場が保証されていたことになります。

そうなると稲葉正則の場合は、春日局からの返礼の書状が示す様に寛永20年という早期に鷹狩に臨んだと見られるのは、相当に「異例」であったと言わざるを得なくなります。更には、正則自身が自身の鷹場を拝領するまでの間に、主に御厨で鷹狩を複数回行ったことが窺える史料も以前の記事で紹介しました。もう1つ更に、正則が鷹場を拝領した後のことになるとは言え、子の正道がまだ江戸での役職を得る前から御厨へ鷹狩に行っているのも、正則には断りを入れいてるであろうにしても、本人以外に鷹狩が認められていなかった原則に照らせば外れていることになります。

こうした事情を具体的に説明できそうな史料は今のところ私は見ていませんし、どの様な説明を付けるのが適切なのかも判断しかねているのが正直なところです。ただ、確実に言えそうなのは、どの様な説明になろうとも、「御三家」に匹敵するかの様に見える厚遇が実現可能となるには、正則が3代将軍家光とは「乳兄弟」という間柄であったという事実、つまり両者の共通の乳母である春日局の存在を抜きにして語ることは不可能であろうと考えられることです。鷹狩の扱いが飽くまでも正則個人の「属人的要素」によって説明されるしかないとすれば、彼にとって特筆されるべき要素として挙げられるものは、やはり大奥を掌握し、老中をも凌ぐとさえ評価される実権を握っていた春日局との直接的な血筋ということにならざるを得ないでしょう。

以前の記事では、正則が雲雀を春日局に贈った意味を

この雲雀は正則が小田原藩主としていよいよ「独り立ち」する年齢となり、その手筈が整ったことを局に対して「報告」するのに、最良の選択肢であったと考えることが出来るのです。

と読み解きました。しかしそうであってみれば、この雲雀には、春日局抜きには正則には成し得なかったであろう地位に対する謝意が込められていたとも読み解けるのではないか、という気もしてくるのです。




南足柄市塚原の位置(Googleマップ
さて、以前の記事では「小田原市史」に掲載されていた小船村や網一色村の寛文12年(1672年)の村々の明細帳から鷹狩に関する箇所を抜粋して掲載しました。今回は「南足柄市史2 資料編 近世⑴」に掲載されている塚原村(現:南足柄市塚原)の同年の村明細帳を紹介します。この明細帳について、同書では次の様に解説しています。

この年の村明細帳は稲葉氏が領内の年貢・諸役その他の実態・旧慣を把握するために差し出させたものである。一般に◯筋◯村の表紙がついた美濃判二折のものであるが、当村のは横半帳に細字で書かれており、「村中覚書之事」を付加して宝永五年(一七〇八)以降に写書きされたものである。現存する市域の村明細帳中最も詳細な内容を持つ貴重な史料である。

(144ページより、以下も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)


実際のところ、この村明細帳は上記「南足柄市史」の127〜144ページまで、実に18ページを占めており、上下2段に100項目を超える記述が続きます。後ろに上記解説にある後年の追記が含まれているとは言え、ここまでの長さに及ぶ詳細な村明細帳は、現在の南足柄市域に限らず、旧相模国全域でもなかなか類を見ないものです。もちろん、江戸時代初期に作成されたあと明治に入るまで、この明細帳が事あるごとに参照されたり、然るべき役所などに差し出される非常に重要な資料でした。

ここまで詳細な明細帳になると、鷹狩に際して村が差し出した人足などの記述もかなり具体的になってきます。鷹狩に関する項目は次の様にかなりの数に上ります。

一御鷹匠衆御越被成候得、十月ヨリ三月迄之間寄馬又ハ人足ニ而も出申儀御座候、(130ページ下段より)

一御厨ヨリ御鷹部屋参候鳥もち壱桶宛、御厨御代官衆御配苻次第人足出シ、田古村村次仕候(131ページ下段より)

一御餌指(エサシ)方々ニ而取出シ候御鷹之餌、田古村又ハ岩原村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ(巣)鷹見分御越候節、馬壱疋宛出し村次仕侯、

一御鳥見衆御厨へ網張御越候節、馬壱弐疋宛出し上下村次仕侯、并御網之鳥切之通り申候、則田古村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ御鷹野御越候荷物附送り之人馬、上下共五六疋又ハ七八疋ほど宛出シ村次仕候、并御鷹之鳥節々通り申候、則田古村へ村次仕候、壱年中ハ上下度々之儀御座候(以上132ページ上段より)

一川村御拾分一之鳥もち、村次ニ而小田原青物町参候、此附送人馬六七疋、又ハ八九疋宛出シ田古村へ村次仕候、(133ページ上段より)

一御鷹部やヨリ和田川原筋ニ而(しぎ)網御張被成候節、御網之鳥田古村村次仕侯、

一御鷹前羽申儀御座候得、御鷹尋申人足出し申儀御座候、(以上133ページ下段より)

一御鷹部屋ヨリ鴫網張御中間衆被参、五日も十日逗留被致候得薪出シ申候、并御網之鳥田古村村次仕候、(135ページ上段より)


何れも「村次」つまり継立の用事であったことがわかります。鷹匠や配下の人々の移動もさることながら、鳥もちや獲物の鳥の運搬など、何かと鷹狩絡みの用事が発生して村民が忙しく使われていた様子が窺えます。また、鷹を使った狩だけではなく、鴫の猟には網(霞網か)が使われていたこともわかります。

また、この村明細帳には鮎に関する御用についても記載があります。

一川御奉行衆河内川筋、又ハ御厨川筋取らセ御越被成候御鮨之道具、并荷物持送人足拾五人・馬四疋宛上下出シ村次仕候、毎年夏中ハ上下度々之儀御座候、并川御奉行衆川筋御座候内ハ、間一日置御鮨箱弐箱宛通り申侯、此持人足四人宛出シ田古村へ村次仕候、自然壱箱宛参候儀も御座候、則御勘定所ヨリ明箱御(返)シ被成候間、人足弐人宛出シ怒田村又ハ関本村へ村次仕候、(132ページ下段より)

一狩川筋鮎盗申御番御足軽衆壱人宛九月ヨリ十月迄之間御付、当村居被申候、則宿薪出し申候、(135ページ上段より)


1つ目の項目には鮎ずしを作るための道具を収めた箱を持ち運ぶ人足を出したことが記されています。御厨までこれらの道具を運ばせていることから、御厨で鮎を獲って鮨を作らせていたことがわかります。春日局に贈った「鮎ずし」も、あるいは同様にして作られたものなのかも知れません。

また、2つ目の項目では酒匂川の支流である狩川に番人がついていたことが記されています。この川沿いには矢倉沢往還が並行しており、この川は藩の鮎の漁場として禁漁になっていました。この番人はその監視のために置かれたものですが、村からはその番人宛に賄いなどのための燃料である薪を差し出していたことが記されています。これも当時の小田原藩の鮎漁を巡る諸相の1つを物語る項目と言えるものです。正則が春日局に「鮎ずし」を贈った意味も、こうした藩の鮎漁の位置付けとも繋がっていると言うべきなのでしょう。
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春日局から稲葉正則宛の書状に見られる「雲雀」を巡って:「綾瀬市史」より

今回は、以前取り上げた「雲雀(ひばり)」に関連して、「綾瀬市史」に掲載されている1通の書状に登場する「雲雀」(及び「鮎」)を題材にします。

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春日局
麟祥院所蔵の肖像画
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稲葉正則
稲葉神社所蔵の肖像画
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書状の差出人は春日局(かすがのつぼね)(以下「局」)、受取人は稲葉正則(まさのり)(以下「正則」)で、この書状は正則の子孫の家に伝えられ、後に国文学研究資料館史料館に寄託されたものです。当時の私信の慣例に違わず、この書状の日付には年号を欠いているものの、「綾瀬市史」では寛永20年6月26日(グレゴリオ暦1643年8月10日)と同定されています。この年、天正7年(1579年)生まれの局は最晩年で、この年の9月14日(同10月26日)に64年の生涯を閉じます。一方、元和9年(同1623年)生まれの正則はこの年に満20歳を迎える青年期、局は正則の祖母であると同時に、若くして亡くなった正則の母の代わりに乳母として正則を養育したという関係でした。

この書状の前半に、正則が局に贈った「雲雀」と「鮎ずし」に対する御礼が次の様に記されています。

「返/\(追而書)すし・ひはり(雲雀)たまわり、しゆひよくふるまい候て、まんそく申候、わかみハ、五六日ふく(腹)中とまり、 一たんときしよく(気色)よく候まゝ、御こころやすく候へく候、かしく」

昨日の返事そのひニ申候ハんお、ひこ殿(細川肥後守光尚)御いて候て、しゆひよき事も申候ハんと御返事不申候

一二日御とらせ候ひはり、よとおしもたせたまわり候、まへひもあゆ(鮎)のすしおけ給候、何も/\ふるまいのやくニたち、りやうりも一入いてき、まんそく申候

一きのふ八つまへに御いて候て、いかにもゆふ/\と御入候て、めしなどもよく御まいり候、そのうへ、そのほうよりたまわり申候よし申候へは、ひはリハ、かさねて御こい候て、いくつもまいり候事にて候

(「綾瀬市史2 資料編 近世」126〜128ページ、括弧付きの傍注も同書に従う、強調はブログ主、書状の引用は以下同じ)


局が正則から贈られた雲雀を「ひこ殿」の接待に振舞ったこと、その席上でその雲雀が正則からのものであることを知らせたところ、「ひこ殿」が雲雀をいくつも所望したと書いています。鮎ずしも含め、どちらも局の饗応の席で大層喜ばれた様です。今回は、正則が局にこれらの品を贈った意味を考えてみたいと思います。


父・正勝の急逝を受けて正則が家督を継いだのはまだ元服前の寛永11年(1634年)の1月、当然ながら正則には後見人が付いて実質的な藩政を取り仕切っていました。この人選には局が多々関わっていましたが、その様なこともあってか局の下を訪れる関係者が多く、そこから小田原藩での人の動きが局に知れることもあった様です。局から正則と田辺権太夫信吉(稲葉家家老)に宛てた、年号のない5月14日の書状では、堀平右衛門正儔が小田原を留守にしていることについて、その頼りにならない点について正則と権太夫で良く相談する様に指図しています。

一筆申候、いつ殿(斎藤伊豆守利宗、局の兄)こなたへ御こしになり、平へもん(堀平右衛門正儔)もいまた此はうに夫婦ながらゐ申候よしうけ玉候、かく太夫(畑覚太夫)かゝのかみ(堀田加賀守正盛)所へつかはし候へは、おたはら(小田原)には五左衛門(松原五左衛門貞乃)七郎ひやう(稲葉七郎兵衛通勝)へはかりゐ申候、御みゝにたち候てもいかゝしく存候、平へもんにおたはらへまいり候へと御申つけ候て、まいり候ましきと申候はゝ、こん太夫(田辺権太夫信吉)をおたはらへ御やり候てよく存候、平ゑもん事はさやうに、そもしおもひ入もなく、うきくものやうにいたし候は、たとえおたわらへまいり候ても、たのみもなき御事に候へ共、ぬしまいり候はんとさへ申候はゝ、まつ御やり候てよく候、こん太夫にも御ふみのことく申つかわし候間、こん太夫とよく御たんこう候て、いそきこん太夫を、おたはらへ御やり候てよく存候めてたくかしく

五月十四日

かすか

いなはみのゝ守殿

(「春日局消息二通」田辺 陸夫「神奈川県史だより 通史編2・近世(1)」所収、括弧内の傍注はブログ主が当論文中から適宜拾い出して追加したもの)

この書状が書かれた時点で、先代の正勝が召し抱えた平右衛門が、局の信頼を既に失っている事情が窺えます。そうした経緯もあって、乳母として手塩にかけた正則が小田原藩主として上手くやっていけるか、その周辺を固める人物が然るべく正則の支えとなっているか、局が少なからず気を揉んでいたことがわかります。


無論、問題の書状が書かれた寛永20年の時点では、正則もいくらまだ若いと言っても藩主となってかなりの年数を経た後であり、そろそろ「自立」して良い頃合いではあったと言えるでしょう。実際、その2、3年前には領内の一部で検地も実施しており、正則が藩主としての地歩を固めていた時期と言って良いでしょう。

その正則が小田原藩領で盛んに鷹狩を行っていたことを示す記録は、様々な形で数多く伝わっています。まず、稲葉氏が小田原藩主であった時代に記録された「永代日記」は、当時の小田原藩政の重要な史料ですが、「御殿場市史 第4巻 近世史料編」にはその中から特に御厨地方に関係するものがまとめられています。この中から稲葉氏の鷹狩に関係するものをいくつか抜粋すると、
  • 慶安4年(1651年)7月21日(124ページ)

    宇佐見久左衛門御厨御殿御作事(さくじ)奉行罷在候ニ付、同名新八を以御鷹之鴨置之(くだしおかる)

  • 承応2年(1653年)7月11日(127ページ)

    御鷹之(雲雀カ)五十五来ル、右之内十稲葉七郎兵衛、同畑覚大夫、七つ杉森市兵衛、五つ稲葉勘解由(かげゆ)、五つ畑治部右衛門、五つ堀伝兵衛、五つつぼね、八つ戸田三九郎殿被下、就道迄為御礼七郎兵衛・市兵衛・勘解由使指上ル、治部右衛門・伝兵衛ハ幸便(こうびん)ニ御礼申上ル、

  • 承応3年(1654年)12月10日(134ページ)

    一卯刻御厨へ出御(しゅつぎょ)(あそばされ)候事,御供塚田杢允(もくのじょう)・奥山一庵・野村玄徳・真鍋伊兵衛其外御手廻当番切、

    一寅刻小田原御発足、路次中御鷹(つかまつらせられ)、御(こぶし)ニ而鴨・(うずら)鶉取、於矢倉沢御番所御昼弁当被召上、坂井道仲・清三郎・了順・玄徳・杉原頼母介御相伴(しょうばん)追付(おっつけ)御立、申刻至御殿場御着座、則御風呂ニ召、其後御料理出、道仲・清三郎・了順・玄徳御相伴、

  • 明暦元年(1655年)11月8日(137ページ)

    一御厨御越成ニ付、寅上刻小田原御発駕、巳中刻矢倉沢御番所にて御弁当被召上、御相伴(しょうばん)家里加清・上原休心・神谷其周・奥山一庵被 仰付一レ之、彼地追付御立被成、竹下より深沢通御鷹狩被遊、(うずら)廿一立内八つ留、申上刻御殿場御着、御料理被召上、御相伴如

  • 同年11月9日(138ページ)

    一御殿場逗留(とうりゅう)

    一卯下刻御膳被召上、御相伴一庵・加清・休心・其周也、辰上刻御鷹狩ニ御出、長塚之前よりぐミ沢・長原通御帰、ぐミ沢将監(しょうげん)ニ而昼御弁当被召上、今日之御物(かず)鶉八十一立之内三拾一留ル、将監ニ銀子壱枚被下置一レ之、申后刻御殿場御帰、

    一御供之内弐・三人病人有之ニ付、矢嶋甚兵衛・磯村十兵衛・若林多兵衛・山住又兵衛外御歩行(かち)之者不残御厨罷越候様二被 仰遣一レ之、(いずれ)も今日参着、

  • 同年11月10日(138ページ)

    一卯后刻御膳被召上、御相伴一庵・加清・休心・其周也、辰上刻御鷹狩御出、杉菜沢(すぎなざわ)・留兵衛新田通奥住新田迄御鷹野被遊、於奥住新左衛門宅昼弁当被召上鶉八拾壱立内三拾壱留、及黄昏御殿場江御帰、

  • 同年11月11日(138ページ)

    一卯中刻御膳被召上、市庵・加清・休心・其周御相伴被 仰付、同下刻野辺江御出、猿山野通御鷹野被遊、御物数鶉五十八立内三十二留、右之内御(こぶし)ニ而拾七御合羽、申下刻御殿場江御帰、

(以上、上記書より、ルビ、送り仮名、返り点も同書に従う、変体仮名はやや活字を少しだけ小振りのものにしている様にも見えるが、明確に読み取れないため、原則そのままとした、強調はブログ主)

稲葉家の所領となった御厨(みくりや)に拝領した鷹場があったこともあり、正則はしばしば同地へ鷹狩に訪れています。慶安4年や承応2年の記述を見ると、正則はその鷹狩の獲物を功績があった者へ下賜する「褒美」などに使っていた様です。特に承応2年には55羽も獲れた雲雀を方々に下賜したことが事細かに記されており、まさに将軍が大名に雲雀を下賜したのと同様に扱っていたことがわかります。


そして、小田原藩領に属していた各村から提出された村明細帳には、例えば
  • 寛文12年9月 小船村明細帳(70ページ、現:小田原市小船)

    一御鷹匠衆御留り之(みぎ)り 内夫御用次第出し申候。

    一御鷹寄馬     御用次第出し申候。

    一御鷹之餌鳥(えとり)持人足 御用次第出し申候。

  • 寛文十二年及び元禄三年(?) 網一色村明細帳(79ページ、現:小田原市寿町・東町付近)

    一御鷹番   八月朔日より四日迄山王原村卜両村二而弐人宛毎年出し申候。

    一御鷹寄鳥  酒匂川村又ハ山王原村迄御用次第出し申候。

(以上何れも「小田原市史 史料編 近世Ⅱ 藩領1」より、表題、返り点、傍注も同書に従う、「…」は中略)

の様に、鷹狩の際の人足や鷹の餌を求めに応じて出していたことが記されているものが多数見られます。1回の鷹狩で動員された人足の人数はわかりませんが、明暦元年の鷹狩の様子にも見える通り、名前が出ているだけでもかなりの人数に上ることが窺えます。この他に農村から動員された人足が加わる訳です。

「相州小田原絵図」鷹部屋曲輪・御鷹部屋部分
「相州小田原絵図」
(作成年代不詳・稲葉氏の終わり頃)
に見える「鷹部屋曲輪」及び「御鷹部屋
(リンク先は現在地のストリートビュー)
図の右下が北
(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」付録から
一部をスキャン、該当箇所に追記)
更に、小田原市郷土文化館や、ちょうど今月移転のために閉館した小田原市立図書館が建っている場所は、稲葉氏の頃には「鷹部屋曲輪」と呼ばれていました。右の「相州小田原絵図」の他に正保年間に作成されたと考えられる「相模国小田原城絵図」(「小田原市史 別編 城郭」所収)や、寛文12年(1672年)の「小田原城修築伺付図」(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」口絵)等でこの名称を確認出来ます。この名称は稲葉氏から大久保氏に小田原藩が引き継がれた際に受け渡された「稲葉家引送書」(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」167〜196ページ)にも見られますので、稲葉氏の頃を通して維持されたことがわかります。名称から考えて、稲葉氏の頃にはこの曲輪に鷹を飼育する施設が設けられていたものと考えられます。

また、現在の小田原駅の東側の繁華街には「高部屋(たかべや)」という地名を示す石碑が小田原市によって立てられています。これも、かつて稲葉氏の頃に鷹匠の屋敷があったことに由来する地名であり、左の「相州小田原絵図」にもその地名の元となったと考えられる「御鷹部屋」の所在が示されています。


しかし、上記も含め、それらの記録中に、正則が寛永20年までの若年期に鷹狩を行ったことを示す記録が今のところ見当たらず、彼が何時頃から鷹狩を行う様になったのか、またどれ程の上達度を見せていたのかについて、裏付けを見出せていないのが現状です。

「稲葉氏系譜」における、正則の父である正勝の記述によれば、

(寛永)十年…是年病を養はんがためこふて城地にゆく、…後小田原にをいて放鷹の地を賜ふ、

(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」94〜95ページより)

といった、鷹狩についての具体的な記述が見え、鷹場も拝領しています。また、寛文12年(1672年)の「足柄上郡赤田村明細帳」(現:大井町赤田)には

一雑木山壱ケ所 長六百三拾間/横弐百間 御鷹打山

此御林之内御鷹場御座候、是大久保相摸守(忠隣)□御鷹山御□□罷成乙酉ノ年(?)ゟ拾六七年□□罷成、其後間宮左右衛門様御鷹山□□□□程罷成丁卯年(寛永4年)己酉ノ年(寛文9年)まて四拾三年土屋民部様御鷹山罷成、去亥ノ年(寛文11年)ゟ殿様御鷹山罷成申候、

(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」388ページより、傍注はブログ主)

※「?」…「乙酉ノ年」はこの付近では「正保2年」に当たるが、寛永4年より後年であり、時系列として合わない。「己酉」の誤記なら「慶長14年」となり、大久保忠隣藩主の時期や時系列に合うが、委細は原本確認の必要あり

とあり、大久保家の頃から受け継いだ鷹場が稲葉家の代になっても鷹匠の手によって維持されていたことが記録されていますから、これも正則が家督を受け継いだ時には既に鷹匠などが小田原藩に揃っていたことの裏付けにはなります。従って、正則が鷹狩の手解きを受けるために必要な環境はあったとは言えますが、具体的に正則がどの様に鷹狩の訓練を重ねたのかについては今のところ不明です。


正則が家督を継いだ時はまだ幼少期で江戸住まいでしたから、少なくとも小田原入り前に正則が鷹狩の訓練を受けた可能性は極めて低いでしょう。しかも、正則は生来病弱であったことが稲葉家の系図に記されており、寛永20年の11月には

一 同年十一月十四日登 城仕候処、  御前被為 召、在所之御暇被下置、御懇之蒙 上意、其上来春摂州有馬湯治之御暇ヲ被下置、翌年二月八日湯治罷越候、

(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」99ページより)

と、病気平癒のために幕府から有馬温泉(現:兵庫県神戸市北区)まで湯治に行く様に暇を出されていたことが記録されています。問題の局の書状でも、上記の吉岡の御殿に関する記述の1つ前の段で、正則が湯治に明け暮れて飽きたであろうから海水浴や灸などを試したことについて「一たんの御事にて候」つまり良い事と評している程です。こうした病弱のイメージと、野外に積極的に出かける必要がある鷹狩のイメージは、そのままではうまく噛み合わない面があります。

しかし、江戸時代の鷹狩は上記で見た通り鷹匠の他にも多くの人員を動員する催しであり、その点では本人の鷹を操る技術も去ることながら、それらの人員の動員力も必要となります。その点で、寛永20年に局に雲雀を送ることが出来た正則は、鷹を操る技術か、若しくは鷹狩に同伴した人員の采配力かの、少なくともどちらか一方を身につけた証として読み解くことが出来るでしょう。また、局の書状に「ひはり(雲雀)よとおし(夜通し)もたせ(持たせ)たまわり(賜り)候、」とあることから、正則がこの雲雀を局に送り届けるために、かなりの小田原藩領民を動員していることが窺えます。これも、正則が小田原藩での支配力を身につけつつあることを示すものと見ることが出来そうです。

因みに、以前取り上げた際に、将軍から下賜される鷹狩の獲物の格付けについて紹介しましたが、それによれば雲雀は鶴や雁に次ぐものとされていました。江戸時代にはまだ関東にも鶴や雁が生息していたことが鷹狩の獲物の記録などから窺えるものの、局の書状が書かれたのが真夏の時期であることから、恐らくこの時期の小田原藩領内には鶴や雁鴨類は繁殖地へと渡ってしまっていなくなっていた可能性が高いと考えられます。とすれば、正則が捕らえた雲雀は、夏場にあっては最良の獲物であったと考えて良いでしょう。



一方、鮎については「風土記稿」では津久井県の項には記述がありますが、正則が藩主だった頃は、この地は主に幕領で小田原藩領に含まれていませんでした。「風土記稿」の足柄上郡や足柄下郡の項では鮎の名は産物としては取り上げられていません。しかし、稲葉氏から大久保氏に小田原藩が引き継がれた直後の貞享3年(1686年)に、足柄上郡神縄村(現:山北町神縄、他)から提出された村鑑には、

一御献上鮎御取被成候。河内川相沢落合ふたまたより世付中川玄倉三か村迄御留川(立入禁止の川)ニ而御座候。河殺生御法度之御札落合之少上前々より御立被遊候。右鮎御取被成候節たいまつかなとつら岡持人足御用次第出し申候。

一同鮎小屋弐軒拾七年已前(寛文一〇)戌ノ年御立被成候。萱竹縄東筋中筋西筋近所村より参候。御材木奥山家三ヶ村より出し申候。手伝人足右三筋近所より出し申候。

(「小田原市史 史料編 近世Ⅱ 藩領1」95ページより、返り点、傍注も同書に従う)

の様に、稲葉氏の時代に酒匂川支流の河内川で鮎釣りが行われ、小田原藩へ献上されたことが記されています。また、時代は相当に下りますが、東海道線が御殿場経由で開業したことを受け、山北駅では鮎寿司が名物として販売される様になりました。こうしたことを考えると、正則が局に贈った「鮎ずし」も、小田原藩領内で採れた鮎で仕立てられたものであったと考えられます。

相模川支流の道志川の鮎についてはその高い評価を窺い知ることが出来る史料が数々見受けられるのに比べると、酒匂川流域の鮎については私は今のところ江戸時代の評価を記したものを見ることが出来ていません。しかし、局の書状に「あゆのすしおけ給候、何も/\ふるまいのやくニたち、」とあることから、この鮎ずしについても局を喜ばせるには十分なものではあった様です。恐らく、局自らだけではなく、大奥内で周囲の女官らにも振る舞えるだけの量があったのでしょう。




これらを考え合わせて、以下は個人的な推測となります。

まず、「雲雀」の方は当時の将軍以下武家社会での贈答品としては重要な位置付けにあったことは、ここまで見て来た通りです。正則にしても後に雲雀を下賜する様になることから見ても、その意識は強く持っていたことは確かでしょう。いつ頃からその様な意識を持つに至ったかは不明であるとしても、局の書状が書かれた頃には既に十分にあったと見て良いのではないかと考えられます。

つまり、この雲雀は正則が小田原藩主としていよいよ「独り立ち」する年齢となり、その手筈が整ったことを局に対して「報告」するのに、最良の選択肢であったと考えることが出来るのです。

そして、雲雀が下賜された様々な記録を見ていくと、雲雀が精々「領主の鷹場で獲れた獲物」であることは意義づけられるものの、「その土地の名産」といった側面は象徴し難いことに気付きます。下賜された側には「誰からの戴き物であるか」が重要で、「何処で獲れたか」によってその質などを問題とする性質を帯びないからです。

そこで、その側面を「鮎ずし」に象徴させたのではないでしょうか。こちらは当時でも必ずしも何処でも獲れる魚ではありませんでした。当時の小田原藩領内に名高い鮎の漁場があったとする記録は見出せていませんが、「小田原藩領内にこの様な鮎ずしを作れる場があります」という意味で、自身が拝領した領地を象徴させようとしたのではないでしょうか。

その点で、正則としてはその時点での「到達点」を局に示すべく、かなり考え抜いてこれらの2品を選び取った様に感じられます。

翻って、こうした武家の贈答に供する獲物であった「雲雀」が、敢えて「風土記稿」で相模国の「産物」として取り上げられた意味を、改めて考える切っ掛けになる書状と言えるのではないかとも思えるのです。

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「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。


小浜藩主の居城であった小浜城址の位置Googleマップ
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、「新編相模国風土記稿」の山川編のみに記された中原御殿にまつわる産物を取り上げます。今回取り上げるのは「雲雀(ひばり)」です。



中原御殿蹟(中心十字線の位置)付近の地形図
数値地図25000(土地条件)」を重ねて表示
砂丘地帯の中に設けられたことがわかる
(「地理院地図」)
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」(再掲

「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、中原御殿蹟について次の様に記しており、こちらでも中原御殿が「雲雀の御殿」の別称を挙げています。しかし、その別称の由緒について特に記している訳ではありません。無論、雲雀が産物であることを記した箇所も他にありませんので、「風土記稿」で「雲雀」を産物として明記しているのは、実質的に山川編のみということになります。

◯御殿蹟 宿の中程より西の方九十六間を隔てあり、廣七十八間袤五十六間、東を表とす、四方に堀幅六間、あり、是は古御鷹狩等の時、御止宿ありし御旅館蹟なり、慶長年中の御造營按ずるに、村内山王社傳には、元年御造營とあり、北金目村の傳へには、十四年に建させらると云、一決し難し、されど豊田本鄕村、淸雲寺の傳へに、四年二月十日此御殿に御逗留ありといへば、元年と云を得たりとせんか、當所の民、庄右衛門が先祖小川某、此邊の地理に精きを以て、御殿御繩張の時、御案内せしと云傳ふ、中原御殿と稱し、一に雲雀野の御殿とも唱へしなり、東照宮此御旅館に渡御ありし事、諸書に所見あり、…其後廢せられし、年代詳ならず、今は御林となれり、其中に東照宮を勸請し奉る、上下二宿の持、御宮の傍に、老杉一樹圍一丈五尺許、あり、御神木なり、

(卷之四十八、大住郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)


百鳥図「ひばり」等
増山雪斎画「百鳥図」より「ひばり」(中央上部)
囀りながら上昇する様子を描いている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園禽譜「雲雀」
毛利梅園「梅園禽譜」
(天保10年・1839序)より「雲雀」
文字の方向に合わせ画像を回転
こちらの絵も揚げ雲雀の姿を描く
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)

一般にヒバリは「揚げ雲雀」の季語が示す通り、春先に田畑の中に作られた巣から離れた場所まで歩き、そこから垂直に飛び立ち、周囲に良く通る声で囀りながら天高く上っていく様が良く知られています(リンク先にWikimedia Commons上の音声ファイルがあります)。江戸時代にも松尾芭蕉の「永き日も囀たらぬ雲雀かな」(続虚栗)や小林一茶の「うつくしや雲雀の鳴きし迹の空」(七番日記)など、多数の俳人が雲雀の鳴き様を句に詠んでいますし、「和漢三才図会」をはじめとする江戸時代の本草学の文献でも、「告天子」の別称と共にその鳴き振りを書き記したものが多くあります。以下で引用した「本朝食鑑」では、雲雀を飼育して懐かせることで鳴き声を楽しむことが出来る旨の記述があります(現在は愛玩目的での飼育は禁止されています)。

しかし、「風土記稿」に記されている通り、中原御殿は徳川家康が鷹狩に訪れた際の宿泊施設であり、別に雲雀の鳴き声を楽しみに訪れていた訳ではありません。とすれば、その御殿に「雲雀」の名前が別途付いているのも、やはり鷹狩の方に関連があると見た方が良いでしょう。では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。

現在ではいわゆる「鳥獣保護法」によって、所定の狩猟鳥獣以外は狩猟することが禁じられています。ヒバリは狩猟鳥28種のうちに入っていませんし、ましてヒバリを食べたことがあるという人も殆どいないと思われます。しかしながら、江戸時代には食用とされることがあったことが、「和漢三才図会」に食味について記されていることでわかります。

鳥肥羽老脛弱故捕者多其味甘脆骨軟ニシテ面脚共

(卷第四十二「鷚」、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現、合略仮名はカタカナに展開)


また、貝原益軒の「大和本草」では、「告天子(ヒハリ)」の項で食味については触れていませんが、その末尾に効能を記しており、やはり食用や薬用として用いられることを示しています。

更に、「本朝食鑑」では雲雀についてより詳しく書き記しています。同書では「雲雀」は「原禽類」に分類されていますが、「原禽類」の中には鷄や雉、山鳥といった、比較的食用として多く用いられていた鳥も含まれている点に、人見必大の見解が窺えます。今回も東洋文庫の翻訳版から引用します。

味は甘脆で、(あぶら)は浅く、骨は軟らかく、脛・掌も食べられる。これを上饌に具している。近世(ちかごろ)、官家では、鶴・(がん)に劣らずこれを極めて重く賞しており、江都(えど)の官鷹(幕府の鷹匠の鷹)に()らせて、上都(きょうと)に奉献させている。その他は、品階に従って、順次、列侯に賜う。公家の鷹も、これを()って、全国四方に餽送(おく)っている。各家でも非常に賞美され、樊籠(とりかご)に畜養される場合もある。(ただ)、脛・掌が細弱(ひよわ)(くじ)けやすいのが弱点で、そのため、籠の中に砂を盛り、(もぐさ)()いて防備している。もし羽の中に虫を(わか)すと、砂を浴びさせる。鶉の場合もやはり同様にする。高さ数十尺に作った竹籠の上に、それに応じて長く(つく)った網を張っておくと、雲雀は、能く馴れれば、舞い鳴き、網籠の中を頡頏(とび上がりとび下がり)し、終日(のど)をころがし円亮の声で鳴いて倦まない。それでこれは官中の翫弄となっている。

(「本朝食鑑2」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫312 240ページ、注・ルビも同書にあるものはそれに従い、一部ルビを追加。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら。以下の本書の引用も同様)


途中から食用の話から囀りを賞翫する話にすり替わっていますが、さておき、前回の「成瀬醋」の時と同様、やはり幕府の事情に触れる機会のあった必大らしく、雲雀が将軍の御鷹によって捕獲され、賞味されていたことが記されています。「本朝食鑑」では更に引き続いて

〔気味〕甘温。無毒。

〔主治〕久泄、虚弱。

〔発明〕今俗で一般に、「雲雀の性は平、肉は浅くて病にあたらないので、病人に食べさせてよい」といわれている。の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、肛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。しかし必大(わたし)の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、脛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。これは、体は微小とはいえ、勢いの健やかな(ため)である。そもそも、体が軽く、勢いも健やかなものは陽であって、能く昇るのである。春の気を得て長じ、冬の気に遇って衰えることから、雲雀が昇陽であることが知れるであろう。それで、気を昇提して、能く泄痢の虚極を調えるのである。してみると、気実の病にこれを食べさせると、発熱動血し、知らず知らずのうちに不治の(ながわずらい)を生じるであろう。気虚の病にこれを食べさせると、症に拠って治るであろう。凡そ禽類で、家に馴れ水に遊ぶものは、たとえ有毒とはいっても、烈しくはない。山に棲み、野に宿するものは、有毒ならばいよいよ(さか)んで、人体に害を遺すものである。

腸・肫

〔気味〕いずれも甘温。無毒。近世は腸・(いぶくろ)・脛・掌、および諸骨を(しおづけ)」にして、醢醤(かいしょう)とする。あるいは、麹に和する(麹漬)こともある。どちらも味は甘鹹・香膩(肥えていてかおりがよい)で、その()さは言葉で言い表わせない。世間では珎(珍)肴としている。(けれ)ども、多食すると、温毒の害があるのではなかろうか。

(同上240〜241ページより)

と、肉も内臓も食べられること、特に内臓の塩漬けや麹漬けがとりわけ美味であることを力説しています。

この東洋文庫版の「本朝食鑑」にはかなり詳細に解説が付されており、これによれば、雲雀が宮中で饗宴に供された歴史は平安時代末期まで遡ることが、「兵範記」などの史料の引用を連ねて示されています(同書242〜244ページ)。この中では室町時代末期の料理書である「大草殿より相伝之聞書」からの引用が、江戸時代に比較的近い時期の雲雀の料理や食べる際の作法について詳しく記しています。

ひばりのつばめもり集養の事、めしにてもあれ湯漬にてもあれ、必ず膳の中にあるべし。又二の膳にも三の膳にも中に参るなり。本膳の中にある時は、てごしさいごしうんめいのさいを喰い候て、扨箸を膳にすみちがひに置きて、雲雀の盛物右の手にて取り、左の手を添へ、いかにもかんじて扇を抜き、我が右の方へ少しひらきて竝、其の上に実雀のくはへたる足を取りて、扇の上に置きて、やがて雲雀をば前の所へ置きて、左の手を添へ、右の手にて雲雀の頭をぬきて、台のそばにも又台の下にも置く。扨箸を取りて右の手にて雲雀の身を摘みて食ふ。其の後は箸にて集養ありたきほど食ふ也。又雲雀の足は御酒二へん程参り候て、足結ひたる水引を解きて、水引をば置き、先かた足賞翫して、又片足をば左の手に持ちたるもよし、扇の上に置きたるも苦しからず、さて後に集養有りたるもよし、時宜によるべし。水引は何となく本膳に置きたるも苦しからず。又懐中してもよし。其の後膳のくだり候時も其のまま置くべき事も候。そののちあつかひあるまじく候。

(同上243ページより)

この様な作法が細かく記されていることからは、官家で雲雀が食される機会はこの頃からかなり多かったものと思われます。

また、同じく「本朝食鑑」の解説でも引用されていましたが、以前椎茸を取り上げた際にその料理法を参照した江戸時代初期の「料理物語」では、

〔ひばり〕汁、ころばかし、せんば、こくせう、くしやき、たゝき

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

この様に調理法を列挙しています。今となっては具体的にどの様な料理なのか想像もつかないものもありますが、汁物にしたり串焼にしたりして供していたということになるでしょう。もっとも、ここに挙げられている鳥の多くが、今では食用とされることがないものばかりですから、今となっては具体的な料理をイメージするのが困難になっていると言わざるを得ません。


さて、「本朝食鑑」の記述でも雲雀が官家で供される食材であることが示されていましたが、そうした膳に供する鳥などを捕える江戸時代の鷹狩において、雲雀がどの様な位置付けにあったのか、長くなりそうなので次回はこの話から始めたいと思います。

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