高倉はこの東側、下土棚はこの南側の地域
(Googleマップ)
としています。現在の住居表示では、藤沢市長後・高倉・下土棚に該当するエリアです。本書でいうところの長後地区とは、藤沢市内を13地区に分けたうちの一地区に当たる。但しこの13地区は、1975(昭和50)年に藤沢市が提示した新しいものである。この区割りを元にすると、江戸時代の長後地区は、上・下長後村、七ツ木村の一部、千束村、下土棚村の一部、円行村の一部に該当する。しかし、江戸時代の歴史を考える上では、村を単位として地域の特徴を考察することから、本書で対象とする近世の村は、上・下長後村、七ツ木村、千束村、下土棚村に限定する。
(「藤沢の資料」21ページより)
私のブログでは、以前に滝山道について取り上げた際に長後についても手短に触れました。また、この滝山道や柏尾通り大山道が交差し「宿」と称される地でもあったことから、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)中の街道の記述をリストアップした際にも、これらの街道の記述の中で「長後」の地名がしばしば登場しました。
その様な訳で、今回の「藤沢の資料」についても、特に江戸時代の滝山道や柏尾通り大山道に関する史料が何か見いだせるかどうかを主に見る形になりました。もっとも、この地域では比較的早い時期から郷土史の研究が盛んで、古くから地域の郷土史が上梓されるなど一般の目に触れる形で公開されている史料は既に多く、「藤沢の資料」で初見となる史料はあまり無いかも知れないとは考えていました。
今回も全体の構成はこれまでの「藤沢の資料」シリーズと同様です。目次の概略は
- 画像で見る長後
- 長後の歴史をひもとく
- 長後の歴史資料
「画像で見る長後」の章は
- 地図に見る渋谷荘の空間
- 近世の長後地区
- 藤沢へ 横浜へ
- 長後商店街のうつりかわり
- 長後の旧地形と史跡図
- 「長後地区」とは
- 空から見た長後地区
- カメラが捉えた長後地区
この絵図は「上長後村絵図」(天保7年・1836年)と名称が付けられています(8ページ)。絵図の傍らには
とあり、韮山代官所への提出に際して古くから同地に伝わる絵図を清書したものの控えであることがわかります。提出された方には下長後村の分も併せて1枚に描かれたとしていますが、今のところ韮山代官所の史料を受け継いだ各施設に該当する絵図が残っているかどうかは未確認です。御改書上之節ニ/昔ゟ有之私村方之絵図清書仕候尤其節/御代官江川太郎左衛門様御役所江ハ上下長後一紙ニ認メ/奉書上候以上
(改行を「/」に置き換え)
「風土記稿」では「長後村」としてのみ記され、上長後村と下長後村に分かれていたことについては全く記載がないのですが、「藤沢の資料」では
と解説されています。「風土記稿」ではこうした分村の経緯を含め、全体的に長後村の記述が薄くなっているのですが、何故この様な状況が生じたのかについては現時点では不明です。そのためか、「藤沢の資料」ではこの項を記述する際に「風土記稿」については触れずに終えています。「皇国地誌」(ID245-12)によると、天正19(1591)年に上長後村と下長後村に分かれたとある。この頃に上長後村は幕府直轄地に、下長後村は旗本の朝岡氏の知行地となった。寛永2(1625)年に上長後村が土屋氏の知行地となった。一方、「戸塚宿助郷高帳」(ID235-15)には戸塚宿の助郷として「長後村」と記されている。年貢徴収の上では上長後村・下長後村は別の村として「相模国郷帳」等には記録されているが、実態は深い関係を有しいていたと思われる。
(8ページより)
このうち、下長後村の域内では滝山道と柏尾通り大山道が交わり、宿場の様になっていたのに比べると、上長後村の域内には滝山道のみが通っており、少なくとも江戸時代後期には宿の中心からは外れた存在になっていたと考えられます。しかし、「上長後村絵図」には「滝山海道」の他に「柏尾道・元大山道」「厚木道」の2本の街道の名前が見えています。

「上長後村絵図」及び「長後の旧地形と史跡図」(20ページ)を基に作図
「地理院地図」上に「宿上分」「宿下分」「天満宮」の字が記されている(矢印)
(「地理院地図」上で作図し、画像保存したものに地名等加筆)
ほぼ当時と変わらない道幅か
(ストリートビュー)
現在も道幅はあまり広くない
(ストリートビュー)
滝山海道から分岐して下和田村(現大和市)へと向かう道との
三叉路が描かれ、その分岐点に「念仏塚」の存在が記されている
現在もその分岐点にそれらしき石の祠が残されている(右端)が
道の形などから判断すると当時の位置は
左のガードレールで囲まれた空き地の辺りに来ると思われる
(ストリートビュー)
厚木道・大山道・八王子道の三路村内を通ず、大山道は厚木道より左折して七ッ木村へ達す、八王子道は村の西境を通ず、」とあり、大山道と八王子道は隣接する村の街道の記述に呼応するものを見出すことが出来るのに対し、厚木道については「風土記稿」の中で千束村以外に記述を見いだせなくなっています。この千束村の「厚木道」については「(その4)」の中で補注の形で触れるに留まっていました。なので、今回改めてこの「厚木道」について検討することにしました。
「上長後村絵図」には「滝山海道」の道幅は「三間」(約5.4m)、「元大山道」あるいは「柏尾道」とされる道は「弐間弐尺」(約4.2m)、「厚木道」とされる道は「壱間四尺」(約3m)と記されています。現在もそれに近い道幅が維持されている様ですが、「元大山道」の道幅はまだしも、「厚木道」の方は遠方まで繋がる道としては当時としてもやや狭くなっています。
「風土記稿」の長後村の街道の記述については上記の「(その2)」に掲げた通りですが、同村の「皇国地誌」(明治13年12月 「日誌雑」収載・井上澄家文書)にも
と、この頃には上下長後村は合併後であったにも拘らず「滝山道(八王子往来)」と「大山道」の存在のみを記し、「厚木道」の存在については触れていません。因みに滝山道の道幅は「弐間半」(約4.5m)と「上長後村絵図」よりやや狭く記されています。道路 二
八王寺往来一名滝山子十六度本郡福田村ヨリ字上原ニ来リ東部ヲ南ヘ十五町三十間辰十三度字宿下分ヨリ下土棚ヘ通ス幅弐間半
大山道 卯ノ十三度本郡高倉村ヨリ字宿中分ニ来リ東南及ヒ東ヲ西南へ十弐丁三十間幅弐間午十度字下分ヨリノ下土棚村へ通ス
(「藤沢市史料集(十一)村明細帳 皇国地誌村誌」1986年 藤沢市文書館編 105ページより、以下の「皇国地誌」の引用も同書から)
更に、この「厚木道」を西に辿ると引地川に架けられた「鐘ヶ淵橋」を渡るのですが、この橋についての「皇国地誌」の記述は
とあり、ここには「厚木道」の名はなく、単に「村路」とされています。その一方で、村の元標の存在場所については橋 二
鐘ケ淵橋 戌十七度字鐘ケ淵ニアリ綾瀬川ニ架シ村路ニ供ス長五間幅九尺地ニシテ修繕ハ村費
(105ページより、以下も含め強調はブログ主、ここでは引地川は「綾瀬川」と呼称されている)
と、こちらには「厚木道」の表現が残っています。「道路」の項で具体的に説明されない道の名称が、別の場所で使われているという関係になっています。近傍駅市距離
亥九度武州八王寺元標ヘ九里五丁三間 酉十三度愛甲郡厚木町ヘ元標三里十四町十九間三尺 申八度本郡宮山村寒川神社ヘ弐里三十壱町十五間三尺 巳廿度本郡東海道藤沢駅元標ヘ弐里壱町五間
但シ元標ニ中央字中分ノ村路畑渠ノ間ヨリ丑十五度厚木道ノ北側字天神添ニアリ
(103ページより)
左手が下流
右岸側は宅地化されているものの
段丘が川の近くまで迫っていることがわかる
(ストリートビュー)
更に、「風土記稿」でも社家村の項に長後へ向かう道筋の存在を指摘する記述はありませんし、「迅速測図」でも社家付近から長後へ直接向かう道筋を確認出来ません。社家には相模川を渡河する「社家村渡」の存在が書き込まれているものの、そこに繋がる道を辿ると用田などを迂回する形になり、それであれば柏尾通り大山道を西進するのとあまり変わらない道筋になってしまいます。
上記の私の地図ではその様な状況を考え、蓼川に差し掛かる直前から厚木までの区間は点線として経由地不詳としました。点線が北西を向いているのは厚木の中心地である厚木神社の位置との間を直線で結んだことによるもので、もちろん当時の道筋に近い場所を示すものではありません。
この様な状況を総合すると、上長後村から西進する「厚木道」は、遅くとも明治初期の時点では「村道」に位置付けが下がってしまい、この地からの主要な街道とは見做されない運用になっていたものと考えられます。「風土記稿」の記述に「厚木道」が現れないのは、何らかの事情で昌平坂学問所が長後村への取材をごく手短に行ったまま同項を執筆してしまったためとも考えられます。このため、これだけでは必ずしも「厚木道」の衰退を示すものと考えることは出来ません。しかし、「風土記稿」とほぼ同時期の「上長後村絵図」に「元大山道」の表記があることや、これらの道筋の細さを見る限り、やはりこの頃には既に「村道」に近い位置付けになっていた可能性も少なくないと考えられます。「風土記稿」の千束村の「厚木道」については、基本的にはその様な位置付けの道筋と考えるべきかと思われます。


一方、長後の宿場としての機能の方は、江戸時代にはその中心地が柏尾通り大山道と滝山道が重なる下長後村の域に移っていました。しかし、「藤沢の資料」では
東海道藤沢宿は江戸幕府公認の宿場町であるが、「宿」は近世になると公称できないので、「宿」地名の多くは中世に通称されていたものと考えられる。そして、江戸と京都を結ぶ東海道がそうであるように、政権の要地を結ぶ主要な街道は時代の政治情勢に応じてルートが変動する。基本的に、鎌倉幕府・鎌倉府と武蔵国府(東京都府中市)とを結ぶ鎌倉街道は境川東岸に、小田原城とその支城である滝山城・八王子城(東京都八王子市)とを結ぶ八王子道(滝山道)は境川西岸に通る。八王子道沿いの長後の「宿」は戦国時代に発展した宿と考えられる。
薬師と阿弥陀
ただし、長後宿はさらに古くから存立していた可能性がある。というのは、中世の東海道・鎌倉街道上道の宿は、薬師仏像と阿弥陀仏像とで東西あるいは北南が結界された空間構成であったことが明らかにされており(榎原2021)、長後宿の泉龍寺が薬師と阿弥陀を本尊としていたからである。
嘉永6(1853)年7月の泉龍寺「新古什物写扣帳」には、本尊秘仏の薬師如来坐像1躰と御前立の阿弥陀如来立像1躰が見える(ID247-49)。この2尺8寸の本造薬師坐像は、渋谷重国が「城」の鬼門守護として「丑二十度」=北東に安置していたもので、後に堂宇が廃れ、天文15(1546)年に僧高吟によつて現在地泉龍寺に再興されたが、明治33(1900)年11月1日の同寺の火災で一宇残さず灰儘に帰したという(皇国地誌村誌)。
旧来の長後宿は、現在の商店街より北方、泉龍寺の北で八王子道と柏尾道・厚木道の交わる附近が中心であったと見られる(p.6~8・20)。堂宇の旧所在地は検証を要するが、「城」=天満宮から北東に薬師像が安置されていたとすると、その南方に位置する泉龍寺の阿弥陀像と結界をなし、八王子道は鎌倉街道上道の別ルートであったとも考えられる。両尊像とも焼失しているため、その造立年代とともに宿の年代は不明であるが、泉龍寺に阿弥陀仏を標示する梵字を刻した応永2(1395)年(または同4年)銘の板碑があり、その当時には宿町が立っていた可能性がある。とすると、天文15年の泉龍寺中興は新宿の創設と関連するもので、土棚新宿は旧来の宿の再開発だつたのではないかと考えられる。
(45ページより、強調はブログ主、なお「榎原2021」は「地図で考える中世 交通と社会」榎原雅治 2021年 吉川弘文館を指す)
「厚木道」が江戸時代末期から明治時代には既に村道と称すべきレベルの運用になってしまっていたにも拘らず、その名称が受け継がれていたのも、長後を治めたかつての領主の居館の前を通る街道の宿場という由緒を受け継ぐ、一帯の空間を象徴するものであったからなのかも知れません。勿論、中世からこの道筋があったとすれば、厚木が栄えるのは江戸時代になってからですので、当時は例えば荻野新宿(現厚木市)などの名前を冠する道であった筈ですが。