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「道中記・紀行文」カテゴリー記事一覧

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(まとめ)

前回までで、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)の、足柄峠までの記述を一通り見て来ました。該当記事の一覧を改めて掲げます。


「その1」では3箇所の渡し場についてまとめて取り上げたのに対し、残りの回は継立の分析を中心にしながら「日記」の記述を日程に沿って取り上げる格好になりました。当初は継立とその他の記述を分けてまとめようと画策していたのですが、土地勘のない人には日程とは違う順序で取り上げることで位置関係がわかりにくくなることを考慮し、継立以外の記述を分離するのは思い留まりました。

何れにせよ、今回は特に「日記」の記述を都度関連する史料と照合して検討する作業の分量が増え、殆ど「日記」よりも矢倉沢往還や沿道各地の当時について書いている様な文章となりました。それは特に「日記」に記された継立の記録が、矢倉沢往還の継立場として伝えられている村と照合した時に、3箇所で「継通し」された様に見えるなど、疑問点が散見されたことが大きな理由です。武四郎は特に蝦夷地の念入りな探検取材に基づいて、それまで日本では知られていなかった蝦夷地の地図を作成するなどの業績があった人物であり、こうした調査の経験を豊富に持っていた筈です。その様な人物が勅命を受けて調査した上で著した紀行文中に、何故この様な疑問点が散見される結果になっているのか、そこは掘り下げるべき課題ではないかと考えました。

継立に見られる「継通し」の課題については、書き漏らしの可能性は残るものの、特に矢倉沢については史料で実際に行われた可能性を裏付けることが出来ました。伊勢原についても寄場組合の一時的な返上にその可能性を考えてみましたが、二子・溝ノ口や荏田については少なくとも正式な運用上の措置として継通しが行われた可能性を見出すことが出来ず、世田谷の継立場の不自然さなどから公ではない形で継通しが行われた可能性を考えてみました。何れも裏付けは十分とは言えず、引き続き他の史料を探索する必要があると思います。また、武四郎がこの道中に書き残したメモの様な文書が他にないかなど、この道中でのみ発生した事象を裏付けてくれるものがないか、探してみたいところです。

こうした検討が必要である以上、「日記」を当時の矢倉沢往還沿道の修景のための史料として無批判に扱うのは、問題があると言わざるを得ません。今回検討した中では、特に「その4」で検討した国分村付近の記述にそれを強く感じました。

とは言え、矢倉沢往還を経由した紀行文や道中記はあまり見つかっていないのが現状ですし、また維新直後の混乱期の紀行文というのも希少な存在です。その点で、今回の様に他の史料と照合しながら、史実と看做すことが出来る記述がどの程度含まれているかを検証する価値はあると思います。

特に「その2」で検討した善波の継立の様子などは、当時の紀行文中で継立の様子を書き記す例が多いとは言えない中で、輸送需要が多くない区間での継立の運用の事例の1つとして、見るべきものがあるのではないかと考えています。



武四郎のこの時の道中は、東海道を避けて内陸の道筋の実情を探ることが目的としてあったとは言え、基本的には京への参上が主であったと考えられます。そのために各地で時間をかけて調査を行いながら先に進む道中ではなく、京への道中を急ぎながら、継立人足など道中で出会った地元の人々からの聞き取りに重きを置くことになった様です。その分、継立場以外の沿道各村の記述が薄くなったり、同行した人足らの証言に「日記」の記述の精度が縛りを受けるといった影響が出たと言えます。

こうした武四郎の道中の様子からは、明治政府は武四郎の提案には興味は示したものの、飽くまでも「暫定的な」措置としての迂回路の可能性を即席で探らせようとした意図が窺えると思います。正式なルート開拓が目的であれば、武四郎にはもっと掘り下げた調査の依頼が行き、より多くの時間を掛けた道中になったと考えられるからです。

もっとも、今回は立ち入った解説は出来ませんが、足柄峠以西ではもう少し「日記」の記述に厚みが増している様にも見えます。例えば、足柄峠までの区間には挿画は一切ありませんが、以西の記述の途中には合計で6枚の挿画があります。どの様な記述についてどの程度の文量が増えているのか次第なのですが、あるいは相模国内については「大山街道」として知られている区間が主であるために、比較的「周知」の区間と判断して記事量を削減したのかも知れません。

こうした比較を行うためにも、出来れば残りの区間の記述についても、ここまでの区間と同様の分析を試みたいところです。しかし、神奈川県在住の私には静岡県以西の史料集に当たるのが難しく、同じレベルでの検討は難しいのが実情です。このため、私の分析は神奈川県境に辿り着いたところでひとまず区切りを付けざるを得ません。静岡県や愛知県の郷土史料にアクセス可能な方に、以西の分析は委ねたいと思います。



最後に、足柄峠以西の記述のうち、特に興味深い「大井川の(たらい)渡し」について書いた箇所を紹介し、多少の解説を加えて結びに代えたいと思います。

2月16日(グレゴリオ暦3月28日)に武四郎一行は大井川の畔に位置する「小永井村」(志太郡藤川村小長井、現:静岡県榛原郡川根本町東藤川字小長井)に到着して宿泊し、翌日はここから大井川左岸沿いを下流へ下って「田の口村」(志太郡田野口村、現:静岡県榛原郡川根本町田野口)へと向かいます。そして、ここで大井川を渡河することになるのですが、その記述は次の通りです。

(さて)(ここ)で向越(し)を賴に深サ貮尺五寸、渉り七尺位の盥を川に卸し、是に我等兩人と兩掛并に人足をのせて(さおさし)行に、兩三日の雨天にて水嵩も餘程まし、水勢岸を轉して白浪逆卷て盪出せしに何の苦もなく南岸に着ぬ。此船頭の言に最早昨日より大井川は留りしが、此處は如此、昨夏等は肩越は三十一日留りしが此處は一日も留ざりしと。依て十月位より追々盥越しえ商人等は廻りぬ。然る處渡し場より此盥ごしを故障申來り、其故致し方なく止めたりと語る。

梅島南岸。北岸よりは少し田も多き由に見ゆる。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 661ページより、以下の引用文も何れも同書より、ルビは原則同書に従い、一部ブログ主が追加)



田野口〜梅島の地形図。右側(左岸側)上方に田野口、左側下方に梅島がある
両者の間は1km以上は離れている(「地理院地図」より)

「東海道山すじ日記」大井川の盥渡し図
「日記」盥渡しの挿画
(「日記」660ページより)
一行は「梅島」(榛原郡上長尾村梅島、現:静岡県榛原郡川根本町上長尾字梅島)に上陸しています。地形図で確認出来る通り、ここは田野口よりはかなり下流に位置しています。当時の渡しが川の流水圧に逆らわない様に対岸やや下流を目指して渡っていたことを考えれば、基本に沿った渡し方ではあるのですが、それにしても殆ど短い川下りと言っても良い程の距離を下流に流れているのは、それだけ大井川の流れが急であったことを反映しているのでしょう。下で触れる通り、この日の大井川は長雨で増水していましたから、通常よりも余分に下流へ流れて対岸へ辿り着いたのかも知れず、実際、後年の田野口の渡しは、梅島よりももっと上流に対岸の上陸地点が設けられていました。

深さ2尺5寸(約76cm)、直径7尺(約212cm)の盥に、武四郎一行に荷物(「両掛」とは天秤棒の両側に振り分け荷物を入れる箱を付けた行李)を載せて、3日間の雨で増水している大井川の急流を、船頭が容易く乗り切って対岸に渡したと書き記しています。更に、船頭によれば、前日から東海道の徒渡しが止まっているが、この渡しは止まっていないこと、前年の夏は東海道は31日も止まったが、ここは1日も止まらなかったと証言しています。このため、10月頃から「廻り越し」を求めてこの渡しまでやって来る商人の姿もあったが、その後東海道の渡しから「廻り越し」を差し止める様に言って来たため、止むを得ず「廻り越し」を中止したとの船頭の言が続きます。


この証言は、この渡しの位置を考えると尋常ではない状況だったことが見えて来ます。東海道の渡しがある嶋田から田野口までは、現在のトンネルなどが整備された道筋でも片道で30km以上も隔たっており、東海道から大井川渡河のためにこの渡しまで迂回するだけでも最低で2日は余計に掛かってしまいます。「日記」では右岸の道程について

扨此川南通り下の方は下長尾、瀨洋、つゝら、石風呂、秡里、家山、小和田、高熊、福用、上尾、横岡、牛尾島、金谷とつゞけり。凡十三里斗のよし

(「日記」661ページより、強調はブログ主)

と、更に長い距離が記されています。しかも、東海道付近よりも険しい山中へと入っていかなければならない道を上り下りしなければならないことになります。

そこまでの遠回りをしてでも、東海道筋で何日も足止めされてしまうよりはましだという判断が出来てしまう程に、当時の川支えが常軌を逸していたということです。恐らくは、廻り越しに応じてくれる渡し場を求めて上流へと向かううちに、遂に田野口まで到達してしまったのでしょう。更には、そこまでの遠回りに対してさえ、東海道筋から廻り越しの差し止めを言って来る程に、他の渡し場に対する締め付けが厳しかった事態が窺えます。

大井川の廻り越しは、実際にはもっと東海道に近い所で行われていました。大井川の場合は主に東海道より下流側を迂回することから「下瀬越し」と呼ばれていました。

正徳元年(一七一一)に下瀬越しや、忍び越しなどの廻り越しは禁止するという定書が道中奉行から出されている(『島田市史』中巻)。このとき「旅人何様にたのむといふ共 御法度之脇道へまはるへからさる事」と規定した。どんな人でも脇道を通って渡ってはならないと定めたのに、川幅が広くなっている下流域は大水になっても歩いて渡れることから大っぴらに渡るものもいて、道中案内書にも廻り越しの案内があったほどである。たとえば寛正四年(一七五一)の『東海道巡覧』(『大井川とその周辺』所収)の金谷宿の条に

宿 大井川洪水の時ハ川下色尾と云所へ廻越川幅広き故川浅し 宿の内右手道有藤枝江出ルなり

大井川 洪水の時ハ色尾へ廻る 金屋より一里有

とある。禁止されてはいても世間では廻り越しは周知の事実となっていた。

掛川藩も藩士が牧之原から色尾経由で江戸へ出たとき、上湯日の庄屋が手助けをしている。また天保十五年(一八四四)に掛川藩の殿様が領地の巡検と遊山をかねて向榛原へ行くとき色尾越えをしている。下流では旅人の手引きをして賃銭をもらうものがいたのである。これに対して島田・金谷宿の宿役人や川越し役人は彼らを捕らえて自分たちの既得権益を守ろうとした。彼らに見つかって罰を受けることを恐れた下流域の人たちは、漁船を利用して海を通って渡るという方法で日銭稼ぎをするものがいたほどである。

このように大井川下流域では役人の目をかすめて川越に手を貸す人足がいたのであるから、田沼街道を渡る人は多かった。先の久保田文書に、藤枝宿からの順路になっているから「御家中方は右道筋御通行成られ」ていた。相良藩の家中によく利用されていたばかりでなく、相良から公用の荷物を江戸屋敷へ継送りするときは、榛原町静波の柏原村、吉田町片岡の上吉田、大井川町上新田、藤枝宿などで継送りをしていた。

(「東海道と脇街道」 小杉 達著 1997年 静岡新聞社 127~128ページより)


大井川の主な下瀬越えの位置
大井川の主な下瀬越えの位置
色尾を経由する道については不詳のため
ここでは色尾の位置のみを示した
田沼街道は藤枝宿付近で分岐するが
大井川を越えた後何処から東海道に
復帰するかは不明
(「地理院地図」)上で作図したものを
スクリーンキャプチャ

西島「田沼街道下瀬越遺跡」付近
進行方向が大井川、左手に立つ標柱に遺跡の案内がある
ストリートビュー

ここで名前が挙がっている「色尾」や、いわゆる「田沼街道」が大井川を渡る西島〜大幡の渡しは何れも島田や金谷よりも下流で、「田沼街道」に当たる現在の富士見橋から東海道の徒渡りの辺りまでで川伝いにおよそ11km余り、色尾はそれよりも上流にありますので、何れも武四郎一行が通過した田野口〜梅島より遥かに東海道から近く、しかも牧之原台地の斜面を除けば基本的には平坦地で道も相応に整備されていましたから、旅程が大幅に遅延する様な廻り道ではなかった筈です。

無論、渡しは地元の人々にも日常の往来のために必要なものでしたから、そうした人々にまで大幅な迂回を強いる様な制約を課す様な無体なことは島田や金谷の人々にも幕府にも出来る筈もありません。しかしながらその分、こうした地元の人のための渡しが陰で旅人を渡す「抜け駆け」の可能性も残り続け、島田も金谷も普段からそこに神経質にならざるを得ない事情があったのは確かでしょう。

とは言え、幕末から明治維新の頃の島田〜金谷の川留めの多さや長さは尋常ではなく、そこに疑問を感じていた武四郎としては、彼なりの「廻り越し」のルートを提言しようという思いもあったでしょう。また、「日記」の終わりにはこの渡し場の問題を綴った、紀行文というよりも「建白書」といった様相の文章が相当に長々と続いて締め括られます。その中では、大井川では川越人足の安全を確保する観点から舟運が禁じられており、沿岸の村々がそこに不満を持っていることを名主から聞いたことが記されるなど、武四郎がとりわけこの渡しに対しては抜本的な対策の必要性を痛感していたと言えます。

もっとも、「日記」の頃には既に、この様な東海道の徒渡りの独占的な状況が瓦解していく直前に差し掛かっていました。

江戸時代には、宿駅制度を守るために他の街道や渡河地点を利用することは、地元の人以外は禁じられていた。しかし、明治になってその原則も揺らいでいつた。谷口村では、毎年冬には護岸工事に用いる河原石や砂利を採取するために仮橋が架けられたが、やがて作業終了後も撤去されずに大っぴらに、旅人の廻り越しに利用されるようになった。

明治二年七月、徳川幕府直参の新番組の人たちが、開墾のために牧ノ原台地に入植したが、彼らの静岡方面への近道として谷口村の仮橋が利用された。翌年には静岡藩主、徳川家達が牧ノ原開墾地を視察するときにも使われた。この仮橋は御用橋と呼ばれて固定化され、誰が教えるともなく往来の旅人が増え、川支えのときには船も用意されて相当の賃銭を取るようになった。そして、その道筋には旅籠も建てられていたようである。

このような動きに対して両宿の役人や川庄屋らは、明治三年五月に「廻り越し取り締まりの願書」を島田郡政役所に提出した。それによると「谷口村や細島村では新規の船をつくり、船賃を取って多くの旅人を渡している。このままでは金谷・島田宿は眼前に廃宿の姿と向かい合っており、心痛している」とある。これに対して郡政役所では「廻り越し制限の回状」を下流の九カ村に出し、村方の者以外の人を案内、川越しをした場合は厳重に処罰を加えるとした。しかしその直後に民部省から、大井川に渡船か橋か便利な方法を設けるようにという通達があり、廻り越しは取り締まられることもなく、存続することになった。

(「大井川に橋がなかった理由」 松村 博著 2001年 創元社 179〜180ページより)


その後程なくして、島田〜金谷の渡しにも舟が用いられる様になって、川越人足の大量リストラが始まり、余剰となった人足の一部はかつての御林などの開墾に向かって、静岡の茶所の基礎を作っていくことになります。

明治政府が江戸時代に構築された街道に関する様々な運用を変更していくに当たって、武四郎の「日記」が果たして何処まで影響を及ぼしたのかはわかりません。また、武四郎がこうした変化が直に起こることをどこまで予測していたかも不明です。しかし何れにせよ、維新後の時代の趨勢の変化の中では、幕藩政治の中で固定的な運用が維持されていた渡しは、早晩に崩壊せざるを得ない命運にあったと言えるのかも知れません。

「日記」に記された沿道の諸事情は、その意味ではこうした大規模な変化が起きる直前の姿のスナップショットであり、江戸時代に組まれた街道にまつわる制度の最終的な姿を読み取れる点で、貴重な存在と言えるでしょう。

その一方で、こういう問題に厳しい目を向けていた武四郎だからこそ、その後の東海道の各渡し場に橋が架けられたり崩落したりしていく変遷の様を、彼の手で記録して伝えて欲しかったとも思うのです。
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【道中記・紀行文】にまつわる記事一覧

各種の道中記・紀行文に基づいて書いた記事がかなり溜まってきたので、それらの記事を俯瞰してアクセス出来るような一覧を作っておこうと思い立ちました。

ここでは、あくまでも個々の道中記・紀行文を軸にして組み立てた記事のみを一覧に含めました。それ以外にも記事中で道中記や紀行文を引用したものは多数あるのですが、煩雑でわかりにくくなりそうなので割愛しました。これら引用が含まれる記事へのアクセスを考え、道中記や紀行文の表題による検索結果(表題では上手くヒットしない場合は作者名による検索結果)へのリンクを最後に付加しました。何れにせよ、道中記や紀行文を素直に頭から順に解説する様な記事がなく、これらの中に登場する周囲の景観や産物などを選り出して解説するといった体裁の記事ばかりになっていますので、その点は予めご了承下さい。

カテゴリーに「道中記・紀行文」を用意していますが、以下の記事は必ずしもこのカテゴリーに分類されている訳ではありません。基づいた文章には、いわゆる「道中記」や「紀行文」ではなく、日記などに分類すべき文章であっても、旅路の様子を記録したものについてはここに含めました。

以下の一覧は、基本的には、道中記・紀行文が成立した年の順に並べていますが、「慊堂日暦」の様に複数年に亘っている文章については、基にした箇所の年のうち、最も古い年を基準にしています。それぞれの道中記・紀行文には、記事を作成する際に参照した文献を示しました。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その7)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」、引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より)を取り上げます。今回で相模国域の解説を終えたいと思います。



その1で見た通り、十文字の渡しを渡った先で近道を経由した武四郎一行は、次に関本(現:南足柄市関本)で荷物を継いでいます。前回見た通り「峰通り」という抜け道も存在しましたが、今回は少なくとも関本を飛ばす選択はしなかったことになります。

「日記」では関本の街について「畑村にして少し町並有」と書いており、小さな街と見ていたと考えられます。これに対し、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)では

戸數六十五…甲州道の左右に列す、凡四町許、

(卷之二十 足柄上郡卷之九 以下も含め何れも雄山閣版より、…は中略)

と、街道の両側に約400mにわたって街並みが続いていたとしています。更にこの辺りの矢倉沢往還(甲州道)の道幅も「五間許(約9m)」と、当時の東海道の幅に匹敵する広さをもっていたことが記されてます。こうした規模であれば、少なくとも「日記」に「少し」と表現される様な景観ではなかったのではないかと思われます。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(再掲、概略、
地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

現在の関本・南足柄郵便局入口交差点
進行方向が矢倉沢方面
その右角にかつての高札場が再現されている
ストリートビュー

もっとも、「矢倉沢通見取絵図」(リンク先は東京国立博物館画像検索のサイト、画像の左が関本の集落)で確認すると、関本の集落はもう少し東の、現在の「竜福寺」交差点より更に小田原寄りの辺りから始まっていました。この「竜福寺」交差点から南へ折れる道が大雄山最乗寺へ向かう道で、関本の集落がこの辺から始まっていたのも立地の点で理解出来ます。

これに対し、怒田から急坂を登って関本に入った場合、かつての高札場があった辺り、現在の南足柄郵便局入口交差点辺りで本来の道筋に復帰したと思われます。この推定が正しいとすると、関本の街には中ほどから入ったため、関本の街を出るまであまり長い距離を通過しなかった上に、恐らくは関本の賑わいの中心になったであろう最乗寺への辻を経由しなかったことになります。当時の関本の継立場の位置がわかりませんが、武四郎一行が通った道の途上にあったのであれば、継立場へ迂回を余儀なくされることもなかった筈です。

武四郎自身の感覚では関本くらいの規模の集落は「小さい」部類に入ると感じられた可能性もありますが、武四郎一行が通った道筋が本来の矢倉沢往還のそれではなかったために、通過した集落の距離が短くなって武四郎に「小さい」と感じさせる結果になったとも考えられるのではないかと思います。



関本を出た武四郎一行は、箱根外輪山の北の山腹を登って行きます。ここからは「片上里」であると「日記」に記されています。この辺りから集落が立地できる平場が少なくなっていくことを、この言葉で表現していると言えます。

関本を出ると「雨坪村、弘西寺村、苅岩村、一色村、」を経て矢倉沢村(現:南足柄市矢倉沢)に入ると「日記」に記されていますが、後ろ2村はそれぞれ「苅野岩村」「苅野一色村」(どちらも現:南足柄市苅野、苅野岩村が関本寄り)が本来の名称です。「日記」の矢倉沢村の記述は次の通りです。

矢倉澤人家二十軒斗。茶屋有。此處關所有しが正月二十六日之御布告にて今は戸を〆切て誰も守者なし。西山の端畑斗なり。二十丁上りまた十六七丁、下りて地蔵堂村人家十七八、是を足柄(あしがら)の地蔵と云り。

(「日記」650〜651ページより)



現在の矢倉沢関所跡
進行方向が足柄峠方面
右手の民家の入口に関所跡の石碑と傍示杭が
立っている(ストリートビュー
「明治2年 法令全書」22〜23ページ
明治2年の「法令全書」より
関所廃止の布告が掲載されているページ
(中程の「第五十九」)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

ここではまず、明治政府の布告に従ってちょうど閉鎖されたばかりの矢倉沢の関所について記しています。箱根山とその周辺には、箱根の他に根府川、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶの6箇所に関所がありました(矢倉沢にあった裏関所を別に数えて7つとする数え方もあります)が、これらが全て布告によって一斉に閉鎖されたことになります。矢倉沢に置かれていた関所について「風土記稿」は

◯御關所 小名關場にあり、惣構二十間許、領主大久保加賀守忠眞預りて番士を置く、番頭一人、常番二人、先手足輕一人、中間一人、總て五人を置て守らしむ 往来繁き時は番頭一人、先手足輕一人を加ふ、建置の始詳ならざれど、土人の傳によれば、大庭又五郎と云もの、天正小田原落去の後、始て常番人となると云、村内江月院の鬼簿に、又五郎の法名を錄して、慶長十五年八月死すと見ゆ、其子又五郎慶長十九年、小田原御城番近藤石見守秀用の手に屬し、寶曆の頃に至り、子孫大久保氏の藩士となりしとぞ、全く御入國の時、始て置れし所と見ゆ、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と原則的に5人体制で運営されていたことが書かれています。武四郎が矢倉沢の関所跡を通過したのは閉鎖布告から20日あまり後だったことになりますが、その時点で既に外郭の幅20間(約38m)の敷地からは人が引き払われ、無人と化していたことがわかります。

武四郎はこの布告を「1月26日」と書いていますが、「法令全書」に記録された布告の月日は「1月20日」になっています。

[第五十九]正月廿日(布)(行政官)

今般大政更始四海一家之御宏謨被爲立候ニ付箱根始諸道關門廢止被 仰出候事

(「国立国会図書館デジタルコレクション」を元にディクテーション、強調はブログ主)

武四郎も京都行きの準備の一環で従来通り通行手形を準備しようとした過程で、この布告によって手形が不要となったことを知ったのに違いなく、従って出発前から事情は承知済みだった筈です。その際に何らかの理由で間違った日付を伝えられたか、若しくは取り違えて覚えてしまったのでしょう。

それまで当然の様に存在していた関所が廃止されて、手形の精査のために時間を取られてしまうことなく素通り出来る様になったことは、当時の人々には多大なインパクトを与える事件であったと想像されます。しかし、「日記」は閉鎖された関所の建物について簡単に触れるのみで、武四郎の心の内を伝える言葉は皆無です。この冷静さはあるいは、この「日記」を報告書として明治政府に提出する腹積もりがあってのことかも知れません。

何れにせよ、この箇所は「日記」の中でも、この旅が行われた「明治2年」という年を最も象徴する記述と言えるでしょう。




ところで、矢倉沢村は本来継立村であった筈ですが、「日記」では荷物を継いだことが記されていません。「風土記稿」では

今は甲州及び駿信二州への通路となる、當村人馬の繼立をなせり、東方關本村迄一里八町、西方駿州駿東郡竹ノ下村迄二里廿九町を送る、但し苅野一色・苅野岩二村と組合なり、月每に上十五日は當村、下十五日は、十日は苅野岩村、五日苅野一色村、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と、関本寄りの苅野岩村、及び苅野一色村と3村で交替で継立村を務めていたことが記されています。武四郎一行は11日にここを通過していますから、本来は上の月の担当である矢倉沢村が継立村だった筈です。

ここまで世田谷から長津田の間の二子・溝ノ口下糟屋から神戸の間の伊勢原が継通しで通過されたことを見て来ました。いずれも「日記」の記載漏れであった可能性も否定出来ないものの、他方で何らかの事情で実際に継通しが行われていたとも考えられることを指摘しました。

矢倉沢の場合も記載漏れの可能性と実際に継通しが行われた可能性の両方が考えられます。ただ、関本からは割増の駄賃を支払ってこの3ヶ村での継立を飛ばして竹之下まで継通す運用があったことを、「南足柄市史」の通史編で次の様に解説しています。

三か村分担継立を利用者側の立場にたって見る時、そこに設定された人馬賃銭を宝永五年(一七〇八)の例で比較すると、表3—6のようになる(『市史』2No.198、『市史』3No.156)。つまりこの三か村経由で設定された賃銭の額は「本荷」「軽尻」「人足」共に、関本村から竹之下村へ向かう上りの場合、①矢倉沢村継立②苅野一色村継立③苅野岩村継立の順、竹之下村から関本村に向かう下りの場合、反対に①苅野岩村継立②苅野一色村継立③矢倉沢村継立の順で賃銭額に高低があり、荷送りの日によってわずかではあるが運賃に差が出ることが確認出来る。また、この三か村で継立を行わず、直接関本村から竹之下村まで継ぎ通すことも可能で、その場合の賃銭は前述のいずれよりも高額に設定されており、継ぎ替えの煩雑さを回避した継ぎ通しの有利さが賃銭に反映されていると考えることが出来る。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ 自然・原始・古代・中世・近世」539〜540ページより、強調はブログ主)








関本23
15
12
33
22
17
43
29
22








32
24
16
苅野岩



172
116
84
48
32
24


苅野
一色


160
108
78
62
41
31




矢倉沢148
100
72
359
239
177
222
147
111
212
140
106
200
132
100
竹之下

※各項目3つの数字は上から本荷/軽尻/人足(1人当たり)による継立の際の駄賃。単位は「文」。

※「—」は該当運用なし、「?」は記載なし

※「関本」の縦の列は「関本村明細帳」より、それ以外は「小田原藩からの人馬賃銭御尋ねにつき回答書」より該当する数字を拾って構成。

ここで「南足柄市史 通史編」に掲載されている「表3-6」が、継通し時の駄賃の事情を理解するには今ひとつわかりにくいので、指示されている2つの史料を元に別の表を作成することにしました。2つの史料は「関本村明細帳(相模国足柄上郡西筋関本村指出帳)」(宝永5年・1708年、「南足柄市史2 資料編 近世(1)」498〜503ページ)と「小田原藩からの人馬賃銭御尋ねにつき回答書」(宝永5年、「南足柄市史3 資料編 近世(2)」437〜438ページ)です。この2つから関本〜竹之下間の賃銭を抜き出して整理すると、右の表の様になります。


関本〜
竹之下
継通し
関本〜
苅野岩
〜竹之下
関本〜
苅野一色
〜竹之下
関本〜
矢倉沢
〜竹之下
359
239
177
254
171
127
260
172
130
262
173
131

※各項目3つの数字は上から本荷/軽尻/人足(1人当たり)による継立の際の駄賃。単位は「文」。

更に、この表から関本から竹之下までの下りの継立で、途中の3村のいずれかで継立を行った場合の駄賃を計算すると、右の表の様になります。中間の3村の何処が請け負ったかによって若干の差異はあるものの、いずれの場合も、「南足柄市史 通史編」の指摘通り、継通した場合の方が駄賃が50〜100文前後割高になる様に設定されています。それによって中間に位置する継立村を「保護」していた訳です。

幕末から維新の頃にはインフレが相当に進んでいましたので、宝永5年から160年余りも経った「日記」当時の駄賃はこの通りではなかった可能性が高いですが、比率の面では変動はなかったのではないかと思われます。何れにせよ、駄賃を少しでも安く済ませたいのであれば、この3ヶ村でも継立を行う選択をすることになりますが、その分だけ荷物を載せ替えるための時間が余分に掛かることになります。関本村の人足にとっては、継通しを請け負うと4里あまりの長丁場である上に足柄峠越えを含む厳しい荷運に挑むことになるのですが、矢倉沢までの僅かな距離の少額の継立を請け負うよりは、駄賃を稼ぐ良い機会であった訳です。

武四郎はこの区間では、少しでも先を急ぐために竹之下までの継通しを選択した様です。まだ日の短い冬場の旅路のことですし、まして山中とあれば日暮れの早さを念頭に置いておかねばなりません。関本の継立場に到着した時点で何時頃になっていたのか、「日記」には記されていませんが、出来れば暗くなってしまう前に宿泊地に着きたいと思えば、懐事情に問題がない限りは関本からの継通しを選択したとしても不自然なことではありません。

その点では、ここまでの3箇所の継通しの中では、この関本から竹之下の継通しが一番記述に確証があると言えそうです。




現在の地蔵堂。右手が足柄峠方面
ストリートビュー
矢倉沢「旧」関所を過ぎると、20町上って16~7町下った所に「地蔵堂村」があり、人家が17~8軒並んでいたことを記しています。現在は県道78号(足柄街道)となってアップダウンを平坦化されている矢倉沢往還は、当時はもっと沢に降りていく道筋であった様ですので、ほぼ「日記」の記載通りの道筋であったと言えます。「日記」では「地蔵堂村」と表記していますが、この場合の「村」は「集落」くらいの意で、実際は足柄峠まで矢倉沢村の内です。


地蔵堂については「風土記稿」では

◯足柄地藏堂 聖徳太子の作佛を置、長五尺二分、六緣山誓廣寺の號あり、相傳ふ、往古駿州仁杉駿東郡に屬すと云處に、杉の大樹あり、靈木の聞えあれば、其木を伐り、當所及駿州竹ノ下村駿東郡の屬、當國板橋村足柄下郡の屬、の三所に、一木三躰の作を置と云、堂は文化十四年囘祿に罹り、文政十一年再建す、正七の兩月十四日を緣日とす、七月は殊に參詣のもの多く、駿州御厨邊の村々よりも參詣す、乳を病なる婦人立願すれば必其驗ありと云江月院持、下同、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と紹介しています。当時はかなりの参拝者を集めていたこともあり、人足からその旨武四郎に説明があったのでしょう。



地蔵堂を過ぎた先の「日記」の記述は次の通りです。

また九折いよいよ嶮處を上る一りりて(ママ)

足柄峠地蔵堂有。甘酒をうる。八郎兵衞と云者一人住り。是駿相の境なり。是より南の方を眺むれば沼津、原、吉原、一目に見ゆ。また東の方は峯つゞき。楮〔猪〕鼻岳を越て仙石原の方に出るに、然し是は雪時ろう獵人共が往來する斗のよし。西の峯つゞきは阿彌陀木、矢倉岳等。其後ろは谷村(やむら)の關所に當ると。是より片下り一り八丁。往古の湖道なれば其麓に至ては並松の大樹等、今に其比の者〔物〕といへるもの殘れり一り

(「日記」651ページより)


足柄峠で少し休憩をとって周囲の山々や遠方の宿場などを見ています。「日記」の「楮鼻岳」の表記が引用元の紀行文集では「猪鼻岳」と修正されていますが、これは「金時山」の別称です。足柄峠からは、この金時山を経由して尾根伝いに仙石原へ抜ける道が存在していますが、こうした地元民だけが使う道筋は地元の人間でなければ知り得ない話でしょうから、継立人足などから得たものと思われます。上記の通り既に廃止された谷ヶ(現:足柄上郡山北町谷ヶ)の関所の位置を記しているのも、やはり今回の旅路がどの様な場所を経由しているのか、他の拠点との位置関係で理解出来るようにという工夫からでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第1巻足柄嶺眺望圖
「風土記稿」卷之二十一 足柄上郡卷之十
矢倉沢村の項中「足柄嶺眺望圖」
富士山の姿が大きく描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所のみ切り抜き、画質補正)
足柄峠からの富士山
現在の足柄峠からの眺望
やはり富士山の存在感の大きさが際立つ
(By Jungle(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく),
CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons

一方ここには、東から足柄峠に登って来たのであれば、とりわけ際立つ存在になる筈の山が挙げられていません。それは「富士山」です。「風土記稿」でも足柄峠からの眺望が描かれていますが、それと共に

河内

足柄の山の峠にあがりてぞ一本けふきてそに作る、富士の高嶺の程は知るゝ堀川百首

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

という歌が掲載されています。これらが示す通り、足柄峠からは富士山はほぼ西北西の方角に見えますが、その間には他の山が全くなく、広い裾野を持つ富士山のほぼ全体が見渡せるスポットです。

時間帯や天候の影響も考えられるものの、ここまでの「日記」の記述には天候が悪かったことを窺わせるものはありません。旧暦2月ならまだまだ乾いた澄んだ空気を期待出来る季節であり、富士山が見えにくい状況にあったとはあまり考え難いところです。

それにも拘らず「日記」に記載がないのは、やはりその目的が新政府への報告書として読まれることを前提にしているからでしょう。武四郎としては「本道」である東海道との位置関係の方に関心があり、そのことがわかりやすい地点を挙げたものと思われます。その点では、多くの地点から「見えてしまう」富士山は、却って報告に含めるのは相応しくないと判断したのかも知れません。



これでようやく駿相国境まで辿り着きました。次回簡単にまとめと補足を行いたいと思います。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その6)

前回は以前作成した地図などの修正を行いましたが、それは松浦武四郎の紀行文「東海道山すじ日記」(明治2年・1869年、以下「日記」、引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より)の先日の続きを取り上げる際に、これらの修正箇所が影響するからです。今回は善波峠以西の区間を取り上げます。



善波峠を越えた武四郎一行は、その先で十日市場(現:秦野市本町・元町等、「本町四ツ角」交差点周辺)と千村(ちむら)(現:秦野市千村)で荷物を継いでいます。十日市場を出た先の道筋について、「日記」には次の様な記述があります。

是より上道、下道有。其下道は山坂は無れども道遠き故に近道の方を行に、澤まゝ細道を上りて一り

(「日記」650ページより)


曲松からの2種類の矢倉沢往還の道筋
曲松からの2種類の矢倉沢往還の道筋
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

県道708号線・渋沢神社付近
左手の道がかつての小田原道・矢倉沢往還の「下道」と
考えられるが、県道ともかなりの上り坂
ストリートビュー

善波峠を越えると、矢倉沢往還は秦野盆地の中へ入ります。十日市場も千村も秦野盆地の中に位置しますが、先日の修正で示した通り、十日市場から秦野盆地を抜ける道筋は2通りあります。1つはこの「日記」で辿った千村を経て四十八瀬川(川音川)沿いに降りて神山(こうやま)(現:足柄上郡松田町神山)へ向かう道であり、もう1本は曲松(まがりまつ)(江戸時代の渋沢村の小名、現:秦野市曲松)で南に曲がり、「小田原道」を経由して篠窪(現:足柄上郡大井町篠窪)に入り、そこから神山へと下る道です。

「日記」ではこの篠窪経由の道を「下道」と呼び、山坂はないが遠回りであると評されています。この評価は地元の人足などのものということになるでしょう。「新編相模国風土記稿」では

一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、幅九尺より一丈に至る、

(卷之十二 足柄上郡卷之一 雄山閣版より、強調はブログ主)

と、篠窪経由の道は四十八瀬川(川音川)が増水して通行不能になった時の道であるとされているのですが、「日記」の書き方に従えば必ずしもその様な使い分けではなく、単に急坂を避けたいかどうかで使い分けていたことになります。千村を経由する道については「上道」と呼んでいたことになりますが、先を急いでいたと思しき武四郎一行はこの「近道」を行ったことになります。

もっとも、秦野盆地から篠窪の集落へと抜けてくるまでの道筋、更にその先で神山へと下る道も十分に「山道」と呼べそうな傾斜のある道ではあるのですが、当時の現地の人の感覚ではさほどの坂道ではないと受け取られていたのでしょうか。比較の対象になりそうなのは千村から先の四十八瀬川へ降りる「つづら折り」の坂(リンク先「今昔マップ on the web」)ということになりそうですが、「日記」からはそこまでの坂とは武四郎に受け取られなかった様に見受けられます。



千村へと登る坂の麓付近の様子
この付近には沢があったことを示すものは見当たらない
ストリートビュー

矢倉沢往還沿いのごく細い流れ
この道を東へ辿ると上今川町の辺りにも
開渠があって水無川への合流が見えるが
地形図上では反映されていない
(「地理院地図」より)

また、「澤まゝ細道を上りて」は千村に到着する前の様子を書いていることになるのですが、曲松の分岐を過ぎると確かに上り坂があるものの、その麓には沢は見当たりません。過去の地図でもこの坂の近くに川筋は描かれていません。「沢まま細道」の「まま」とは、恐らく「(まま)」の意と思われ、沢沿いを進む道であったということと解釈出来ます。それに近い川を探すと、秦野盆地の中央部を流下する「水無川」に合流するごく細い流れが、かつての矢倉沢往還の道筋と付かず離れずの位置に点在しており、その前後は道路の下辺りを暗渠になって流れていると考えられます。武四郎が言っているのは、あるいはこうしたごく細い流れのことなのかも知れません。

現在では大半が暗渠化されてしまっていて、当時の様子を窺うのが難しくなっていますが、過去の空中写真を検討した限りでは、現在の「保険福祉センター前」交差点西側の三叉路辺りから上流はかつての矢倉澤往還には沿わずに北側に逸れている様に見受けられます。その点で、「日記」の中ではごく短い表現に縮小されているものの、実際はかなり離れた複数の沿道風景が1つにまとめられていると考えられます。

この坂を上がった場所にある千村については、「日記」では肥えた土地であり、人家も富んでいることが記されています。その先の道筋については

是九折を下ること凡半里と思ふて川筋に出て、茶店一軒。山稼の者住するよし。此川の此方彼方をたどり下る。是を四十八瀬と云よし一里

(「日記」650ページより)

と、つづら折りになった道筋を降りて四十八瀬川の畔に出ると、その途中に山稼ぎをしている人が営む茶店が1軒あったことを記録しています。ここまで「日記」ではこうした沿道の施設について継立場以外では積極的に記していませんが、ここで敢えて茶店の存在を記したのは、沿道の風景が山間のものに変化したことを意識しているのでしょうか。



千村の次に武四郎は「神山」で荷物を継いでいます。武四郎は水田が多い村としていますが、山がちな地形から見て実際に水田が作れるのは川音川の周囲だけでしょう。継立を行っているのは名主家であることを記していますが、ここで「日記」には継立の運用について次の様に記されています。「その2」で既に一度引用していますが、改めてその箇所を掲げます。

近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

(「日記」650ページより)

この部分の意味する所を次に考えてみたいと思います。

神山や松田の矢倉澤往還の道筋や継立については、地元でかなり積極的に研究されており、先日紹介した「善波峠〜足柄峠 矢倉沢往還ウォーキングガイド」のみならず、「松田町史」に相当する「まつだの歴史」(1977年 松田町)など、折に触れて出版物にて紹介されて来ています。その研究成果を「日記」の記述と照らしてみましょう。


神山のかつての継立場付近(ストリートビュー

町屋のかつての継立場付近(ストリートビュー

まず確認が必要なのは、松田惣領の字町屋は惣領の本村とは離れた場所にあったということです。本村は川音川の北側、町屋は神山と同じ南側にありました。そして、矢倉沢往還の継立は次の様に神山と町屋が受け持っていました。

神山村と松田惣領は当時、この矢倉沢往還の継立村に定められており、神山村は字清水が、松田惣領は字町屋がそれを行っていた。次の史料はこの神山村のものである。

一 村高家数其外(そのほか)書上の内

脇往還、青山筋より矢倉沢街道

右御継送りの義は、御先触これあり候節は、曽屋村より千村へ継立、千村より当村へ受取、(それ)より関本村へ継立(きた)り申候

右御尋付、書上(たてまつ)り候ところ、相違なく御座候、以上

嘉永三戌年六月  神山村

百姓代 徳右衛門(印)

(以下略)

この神山村の書き上げにもあるように、清水は上り、町屋は下りの継立をそれぞれ行っていたが、幕府滅亡の慶応三年(一八六七)八月公用人馬の継立が次のように改定された。

一 御朱印・御証文人馬上下とも継立の儀は神山村の名目にて御帳面相記(あいしる)し、かつ御役所へ届相なり候儀は、これ又神山村にて(つかまつ)り、人馬遣い方は神山村と町屋にてこれを相分け勤方いたすべく候、御朱印御休泊の分同断(どうだん)にいたすべく候、

この史料によれば、公用人馬の継立や休泊は上り下りともに神山村の名目で行い、人馬の提出や諸経費にっいては両村(清水・町屋)でこれを分担していたのである。

(「まつだの歴史」146〜147ページより、ルビも同書に従う、一部改行略)


「まつだの歴史」では引き続いて安永年間の私的継立や駕籠の運用を巡る両継立場の取り決め等について紹介していますが、これらの記述からは、神山と町屋の間では継立を巡って運用の調整が幾度となく行われていたことがわかります。

「日記」の最初の記述は継立の運用の変更に触れていますから、神山と町屋の間での継立を巡る運用調整の経緯について、何かしらの説明を武四郎が受けたものとは考えられます。しかし、「近年迄向なる松田村と云にて繼立し由」は、京へ向かう継立は上りに当たりますから、武四郎一行の荷物は運用変更前も神山で継いでいだ筈であり、その点では武四郎は運用の実態を必ずしも理解出来なかったことになります。

一方、幕末の頃には松田惣領内でこんな諍いもありました。

「[足柄]上郡誌」の伝記部に、か[ママ]ての足柄上郡長であった中村舜次郎氏の伝記が載せられている。その文中に、同氏が十六オの時、神山村・町屋の人々と、松田惣領の本村部の人々との間で、青山街道といわれていた往還の本筋はどちらが正しいかという争論が起こり、これが大事件となったことが記されている。年数から数えると、文久三年(一八六三)のことである。

この街道の経路について、町屋の人々は、字下ノ茶屋より神山・町屋を経て十文字渡場に至る路線が本街道だといゝ、松田本村の字川内・大門・谷戸・沢尻などに住む人々は、下ノ茶屋より直に川内・大門・沢尻・大文字と来るのを本道と主張した。そこで結着を小田原藩に訴えて求めたが、本村部の申し立ては元よりとおらない。そこで彼らは江戸へでて直訴しようとして十六オの中村氏の同行を同氏の父に強く要求したが容れられなかった。結局、江戸へでて直訴に及んだ主謀者たちは捕えられ、藩に下げ渡され、二年も取調べもなく牢獄に幽囚されたまゝであったという事件である。

井上氏は、この事件の発端を、「本道争論」といっても名称の奪い合いでないことは明白であり、同時に幹線道路としてのあり方から起こったけんかでもなく、酒匂川の流路の変更や十文字渡し場の少しずつの移動という自然の変化に伴って、少しでも便利な道が生まれ、これによって、おのずと古い道によって繁栄して来た人と、新しい道をより多くの人々の往来によって賑やかにしようとつとめる人々との対立という経済的要因に見出されている。そしてそれは、十文字渡しを渡って小田原道を通り、今の新松田駅前から「お観音さん」の所に出る道で、こゝから籠場に出る近道がおのずと発達したのである、といわれている。

(「まつだの歴史」146〜147ページより、…は中略、[ ]内はブログ主注)


1863年ということは、諍いがあったのは「日記」の6年前ということになりますから、関係者の間でもまだ記憶に新しい騒動として記憶されていたでしょう。「日記」ではこの話には触れてはいない様にも見えますが、「松田村」の位置を「向なる」と書いているのが気になります。継立場のことを言っている以上は町屋を指す筈と思うのですが、神山から少し道を進んだ場所にある町屋の集落を「向なる」と表現するのも少々不自然であり、もしかすると川向かいに位置する松田惣領本村を指すつもりで書いたのかも知れません。だとすると、あるいは武四郎はこの騒動についても話を聞かされていたのかも知れません。

他方、「南足柄市史」(1999年)では上記とは別に「峰通り」という脇道の存在を紹介しています。

「峰通り」は、矢倉沢関所の下手に位置する苅野一色村から怒田丘陵に上がり、内山・小市・班目の各村を経て酒匂川左岸へと渡り、川村向原から松田村を抜けて矢倉沢往還の十日市場(秦野市)へと至るバイパスルートで、この道が利用されるようになると、関本村は道筋からはずれてしまうこととなり、駄賃稼ぎや宿泊料収入によっている同村の経営は大打撃を受けることとなるわけである。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ 自然・原始・古代・中世・近世」542ページより)


そして、江戸時代中この「峰通り」の通行を取り締まる様に、関本が小田原藩に訴え出た事例が2点ほど紹介されています(同書542〜544ページより)。これに対して小田原藩は明確な解決策を示さなかったため、関本が見張りを立てていてもこの道を抜けて行こうとする人足が跡を絶たなかった様です。

「南足柄市史6 通史編Ⅰ」p542-図3-3
「峰通り概念図」
(「南足柄市史6 通史編Ⅰ」542ページより)
右は「南足柄市史」に掲載されている「峰通り」の大まかな経由地を記した概念図ですが、明治時代初期の地形図上でこの道筋を具体的に特定するのは意外に難しく、恐らくは分岐が多く現地の人が案内しなければ迷ってしまうような道筋であったのだろうと思われます。「日記」の「按ずるに」以下の記述は松田から直接矢倉沢へ向かうことについて書いており、これはこの「峰通り」を経由した場合に良く合致する考察ではあります。とは言うものの、「峰通り」はそもそも公の継立を通す道筋として認められてはいませんでしたから、近年まで松田村で継立をしていたという前段の話とは噛み合いません。

以上、松田付近の道筋や継立の運用にまつわる話を一通り紹介しましたが、どの話も「日記」の記述とは上手く噛み合わないことになります。これも武四郎の理解が混乱してしまったものと考えられますが、少し不思議な箇所があります。

ここまで見て来た通り、上記の一連の話を初めて訪れた人に理解してもらえる様に話そうとすると、かなりの時間が必要になる筈です。「日記」がここまで道中の様子について専ら見聞を記す表現に徹していたものが、ここで初めて「按ずるに」という私見を述べる表現を用いており、自分なりに状況を咀嚼しようとしていることからも、ここで相応量の情報を得ている筈と考えられます。

基本的に先を急いでいる武四郎相手に、荷物を担いでいる人足が、この様な入り組んだ話を歩きながらするだろうか、という点が疑問です。また、こうした事情をきちんと整理して理解しているのは、どちらかと言えば村役人などの首脳クラスでしょう。

とすると、この話は継立場で村名主から聞かされた可能性が高くなりますが、先を急いでいた武四郎一行が、それほどの長時間を継立で荷物を受け渡したりするために過ごしたとは考え難いところです。無論、わざわざこうした事情について名主に訊くために時間を割いたと考えるのも不自然です。

但し、ひとつ考えられることがあります。実は武四郎一行は2日目のこの日は最終的に足柄峠を越えた先の竹之下(現:静岡県駿東郡小山町竹之下)まで進んでいるのですが、「日記」ではこの日の昼食を摂った場所の記述が見当たりません。初日は長津田で昼食を摂ったことが明記されていますから、2日目に関しては書き漏らした様です。

この先では次第に山が深くなることもありますので、その前に昼餉を済ませておきたいところです。その点では、2日目に厚木を発って神山まで7里余りを進み、この先竹之下までもやはり7里余りを残す丁度この辺で昼食を摂るのが、一番頃合いが良さそうです。それであれば、名主の家でじっくり食事をしながら、神山や町屋、松田惣領本村を巡る継立事情などを時間をかけて聞かせてもらったとしてもおかしくなくなります。「日記」の記述が結果的に長めになったのもその点を反映したものではないかと個人的には考えています。ただ、それでも初めて訪れた土地の事情をその場の話だけで理解するのは、難しかったのかも知れません。



次回で相模国域の記述についての分析を終える予定です。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その5)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は国分以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



武四郎は旅の初日に長距離を進み、「その1」で見た「厚木の渡し」を渡って厚木(現:厚木市厚木町、他)の街に入ります。この街について「日記」には

三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、ルビも同書に倣う、以下の「日記」引用も同書より)

と記されています。

渡辺崋山の「游相日記」では、崋山はこの街に数日間留まって、街の有力者などと連日会ったり写生に出かけたりした様子を詳しく書いています。それに対して武四郎の場合は西への旅路を急ぐ中での1泊ですから、この街の様子を自分の目で見て廻ったと言うよりは、多くは宿泊先で聞いた情報を書き記している様で、伝聞を示す語尾が目立ちます。「三千軒の市町」というのも、「新編相模国風土記稿」では実際の家を「三百三十戸他長吏八戸」(卷之五十五 愛甲郡卷之二)と「日記」の10分の1程度の数を示していますから、地元の人が誇張して武四郎に伝えたのでしょう。

実際、武四郎は翌朝も宿を急ぎ発って更に矢倉沢往還を進みます。厚木からは一旦岡田(現:厚木市岡田)まで南下した後、西へ折れて愛甲(現:厚木市愛甲東)へと向かいます。愛甲村では農家ばかりで荷継は名主家で行ったことを記したのに続き、「日記」には次の様な記述が見られます。

按ずるに厚木より糟谷に行には此處までは下らず。直道を船子村え切り候はゞ餘程近くぞ覺ゆ。

(「日記」649~650ページより)


土地勘がない武四郎にも、西に向かう前に南下して幾らか遠回りをしていることに、朝日や並行している相模川の位置などで気付けたでしょうから、もっと近道があるのではないかと彼の荷物を担いでいる人足に話しかけたのかも知れません。一方、船子村(現:厚木市船子)の名前は流石に武四郎が知っていたとは考え難く、恐らくは人足から伝え聞いたのでしょう。街道の周囲が水田であったと「日記」にも記されていることから、遠方まで視界を遮るものが殆どなく、あるいは街道から船子村の集落が水田越しに見えていたかも知れません。

厚木付近の国道246号線の変遷
厚木付近の矢倉沢往還→国道246号線の変遷
青線:かつての矢倉沢往還の道筋 黄色線:旧246号線の道筋
橙色線:現在の国道246号線(大和厚木バイパス)の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地(リンク先PDF)」を合成しているが、水田を示す黄色が大きく拡がっている)
「今昔マップ on the web」で同地の地形図や空中写真の変遷を見る

実際、明治初期に編纂された「迅速測図」で見ても、厚木村の西側は広大な水田地帯になっており、ここを抜ける道は畦道としてはあったと思われるものの、旅人や荷継などが通過するには足下が十分ではないぬかるみやすい道筋であったのでしょう。「その1」で取り上げた十文字の渡しから関本へ至る道筋の様に継立の抜け道として使うには、整備が行き届いていなかったであろうと考えられます。

かつての矢倉沢往還は昭和31年(1956年)国道246号として指定されますが、厚木付近はその後の整備によって道筋が大きく変わり、船子の地を通過する様に付け替えられました。「日記」からは実に80年以上の歳月が過ぎていました。武四郎が連れの人足と語り合ったのであろう「船子経由の近道」は、図らずも遠い将来の国道の通過地を「予言」する形になりました。

これが実現するためには、一帯の水田を埋め立てて市街地へと大規模に作り替える再開発計画を、待つ必要があったということになるのでしょう。過去の地形図や空中写真で変遷を追うと、国道246号線が最初に船子を経由する様になった1960年代には、一帯にまだ広大な水田が残っていたものの、大和厚木バイパスが開通した1970年代には、周辺が急速に市街地に切り替えられているのがわかります。現在では、旧246号線が恩曽川と並行して進む厚木市温水(ぬるみず)の「赤羽根」付近では水田が僅かに残っているものの、現在のバイパス周辺にかつての水田地帯の面影を探すことは、殆ど不可能になっています。



File:Tokaido07 Hiratsuka.jpg - Wikimedia Commons
宝永堂版「平塚:縄手道」
高麗山の丸い特徴のある形が強調されている
当時の浮世絵で平塚宿を描く場合
かなりの確率で高麗山が取り上げられている
(By 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido,
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons
Mt.Komayama(高麗山).JPG
現在の高麗山(2006年撮影)
独特の山体は現在も当時のまま
(By FlyMeToFullmoon(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく)
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons

その愛甲からは、

爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

(「日記」649ページより)

と、東海道の平塚宿の西に位置する高麗山(こまやま)が比較的近くに見えると書いています。この山については、善波峠の記述でも

此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、

(「日記」650ページより)

と、馬入川(相模川)から高麗山を経て大磯や国府津までの遠景を一時足を止めて眺めていた様です。


矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
愛甲から高麗山までは直線距離で約10km、善波峠からは9kmほどと、どちらもそこまで「近い」と言える距離だったかは微妙なところです。それでも、武四郎の目には「高麗山」の姿は容易に目に付いたのでしょう。彼自身は郷里である伊勢・松阪から東への往来などで、大磯宿から平塚宿付近を通過する際にこの山の姿は何度となく目にしているであろうものの、それらは何れも南側から、そしてかなり近くからの姿であった筈です。それに対して、「日記」の際の「高麗山」の姿は北側から、それもかなり離れた場所から眺めたものとなり、勿論武四郎には初めて見るものだったでしょう。それでも武四郎に「あれが『高麗寺山』か」と認識させる程度に、高麗山の位置と形は独特のものであったということが言えます。

彼にとっては、不慣れな道を急ぐ道中にあって、通い慣れていたであろう東海道との位置関係を認識し得るひと時ではあったでしょう。同行する人足からのアドバイスも受けた可能性もありますが、「高麗山」の独特の姿や位置は、その位置関係を彼に容易に知らしめる役目を果たしたと言って良さそうです。



下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
参考のために「田村通り大山通り」を追加
(「地理院地図」状で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

下糟屋・高部屋神社とかつての矢倉沢往還
当時の集落はこの辺りに集中していた
ストリートビュー

愛甲を出た武四郎が、「その2」で取り上げた善波(現:伊勢原市善波)で荷を継ぐまでの間に、「糟谷」(下糟屋、現:伊勢原市下糟屋)と「神渡」(神戸(ごうど)、現:伊勢原市神戸)の2箇所で継立を行っていることを記録しています。どちらも大山詣での頃には賑わうことを記しています。

しかし、この区間の継立村は、他の史料で確認する限りでは若干異なっています。まず、「新編相模国風土記稿」で各村の記述を拾うと次の様になっています。

  • 下糟屋村(卷之四十四 大住郡之三):

    脇往來四條係れり、大山道幅二間下同矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、

  • 伊勢原村(卷之四十六 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 神戸村(卷之五十 大住郡卷之九):

    往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、

(以上何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


見ての通り、ここに挙げた3村は何れも矢倉沢往還の他にも主要な道が通り、交通の要衝となっていたことがわかります。とりわけ伊勢原(現:伊勢原市伊勢原)は大山詣でに向かう中継地として特に賑わった地であり、継立でも要衝となっていたことが示されています。しかし、「日記」では伊勢原の名前は出て来るものの、この街については特に何も記されておらず、継立についても記載はありません。また、「日記」で継立を行ったとしている神戸については、通常は継立場ではなく、公儀の継立の際にのみ人馬を出していたとしており、その点では公儀とは言えない武四郎一行が神戸で継立を行っている点と整合しないことになります。

また「風土記稿」の記述自体も、下糟屋村の記述では同村からは伊勢原まで18町、つまり半里(約2km)を継ぐとしているのに対し、伊勢原村の記述の方は同村から江戸方の継立先は愛甲としており、下糟屋村の記述と噛み合いません。こうした不整合は特に大住郡の街道の記述に多く、恐らくは村からの報告をほぼそのまま記したのでしょうが、これをどの様に解釈すべきかも課題となってきます。

一方、「その3」でも紹介した、天保9年(1838年)の「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307~310ページ)で、この区間の記述は次の様になっています。

嶋織部知行所外弐給/同州愛甲郡愛甲村

一高九百五拾九石余

月番/名主/定七

内高弐百弐拾壱石/戸塚宿へ助郷相勤申候、

此間粕屋村有り

伊勢原迄壱里

飯河三郎知行所/同州大住郡伊勢村(原脱)

一高四拾七石

月番持/組頭/善兵衛

善波村迄壱里

伊勢原ゟ善波村之間/板戸・白根・神戸

田原清之丞知行所/同州同郡善波村

一高三百拾三石

名主/清吉

内半高/東海道平塚宿へ加助郷相勤申候、

近来相州はたな領御鷹匠内山七兵衛組御野先相成候付、 御鷹御用相勤候故、前後継場村〻ニ而ニ而往還役相勤申候、

曽屋村迄壱里

此所善波峠と申難所なり、

(上記書308ページより、一部改行を「/」に置き換えの上、文意に合わせて適宜単語を入れ替え、強調はブログ主)


こちらでは、下糟屋村(粕屋村)は継立村に入っておらず、愛甲の次は伊勢原で馬を継ぐことになっています。その点では「風土記稿」の伊勢原村の記述と整合していることになります。また、神戸村はこの文書でも継立村に入っておらず、公儀の際の継立についても触れられていません。

何れにせよ、「日記」の継立はこうした記録に見られる継立村の配置と上手く合いません。何故この様な事態になったのでしょうか。

考え得る可能性の1つは、「その2」で二子・溝の口や荏田を「継ぎ通し」した問題を取り上げた時と同様、武四郎の記憶違い、もしくは書き間違いでしょう。「下糟屋」を「糟谷」と書いていたり、「神戸」を「神渡」と書いていたりと、ここでも地名表記の漢字が現地で一般的に使われていたものとは異なっています。記述の精度に留保がつく以上、何かしらのミスが紛れ込んだ可能性を考えない訳には行きません。しかし、「日記」の記述の何処がどの様に間違っているのかを具体的に示すことが出来ない以上、可能性があるという以上の指摘をすることは出来ません。特に、神戸村の記述がこの様な形で「日記」に登場する部分については、ここで何かしらの所要を済ませたのでないとすると武四郎の記憶に留められているのが不自然になりますから、かなり確度が高いのでしょう。

他方、「日記」の記述通りに継立が行われたとすると、何故伊勢原を飛ばして「継ぎ通し」されたのか、普段は継立を行わない筈の神戸村がどうしてこの時は荷を継いだのか、その理由を探る必要があります。世田谷から長津田までの長距離を継いだ際には、何かしらの不正が行われた可能性を考えましたが、下糟屋から神戸の区間ではこうした不正は行い難かったのではないかと思われます。上記で見た通り、下糟屋から伊勢原まではわずか半里と至近にある上に、以下で見る通りこの2つの村は組合などの活動を通じて交流が深いことから、双方の村民が顔を見知っている可能性が世田谷の例より遥かに高いからです。

しかし、「伊勢原市史」に掲載されている当時の文書を探した限りでは、幕末のこの区間の継立の事情を直接説明出来るものを見つけることは出来ませんでした。特に神戸村に関しては近世の現存文書がないと「伊勢原市史 資料編 近世2」に指摘されており、この村の立場からこの問題を考えるのはほぼ不可能な状況にあります。ただ、「伊勢原市史 通史編 近世」に記されていた明治維新直後のある「事件」が、あるいはこの問題を考える上でのヒントになるのではないかと思えました。そこで今回は、これを手掛かりに個人的な見解を述べてみたいと思います。

同書の「第4章 伊勢原の町」中の「第9節 伊勢原村寄場組合」では、幕末に関東一円の村々で組織された「寄場(よせば)組合」について、伊勢原とその周辺の村々の諸事情について紹介し、解説しています。文化2年(1805年)に幕府が治安維持の目的で新設した「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)(関八州取締役等とも呼ばれる)」に対し、その活動を補佐する目的で、文政10年(1827年)に村々を編成してその中心となる村を定めることになりました。矢倉沢往還周辺の25ヶ村(東組15ヶ村、西組11ヶ村)については、当初は東海道の大磯などの宿場を寄場として編成する案が提案されましたが、矢倉沢往還周辺からでは遠過ぎるために村々の反対に遭い、この村々の中から寄場を出すことになりました。そして、伊勢原村は、一帯の25ヶ村の中では村高が47石余りと最も小さかったものの、大山詣での拠点として宿駅としての施設が充実していたことから、関東取締出役の役人が宿泊するなどの形で利用することが多かったこと、そして25ヶ村のほぼ中程に位置している上に大山街道が集中する立地であるために、他の村から通いやすいこともあり、他の村々から請われる形で寄場となったことが、史料を数点引用しながら詳説されています(343〜348ページ)。


しかし、この伊勢原村が明治に入った頃から一時的に寄場を下糟屋村に譲っていたことが、「下糟屋村組合への変更」という項で紹介されています(348〜351ページ)。これによれば、明治元年(1868年)11月頃には寄場は伊勢原村から下糟屋村に移され、翌々年の明治3年5月26日付で再び寄場を伊勢原村に戻しています。何故寄場が移されたのか、残されている史料からは詳らかにはならない様ですが、何か金銭面での混乱が発生したものと同書では考えられています。

「日記」の道中は明治2年のことですから、ちょうど寄場が下糟屋村へと移されていた時期に当たります。寄場組合は治安維持のための自治組織ですから、専ら陸運の担い手である継立に直接関係するものではありません。しかし、下糟屋に寄場の肩代わりを依頼しなければならない程の大きな混乱が伊勢原村に発生していたとすれば、その混乱が継立の運営にも及んでいたとしても不思議ではありません。

そして、明治3年に伊勢原村への寄場組合の復帰に際して神奈川県に提出された請け証文には、伊勢原村の他に下糟屋村(この請け証文では「下粕屋村」と書いている)、上粕屋村と並んで、神戸村の名主(上粕屋村のみ代理)が名を連ねています(350〜351ページ)。この証文によって、神戸村が下糟屋村と共にこの問題に関与していたことを窺い知ることが出来ます。とすれば、寄場組合の問題が継立にも影響を及ぼしていたのであれば、神戸村がその肩代わりをしていても不思議はありません。そして、この様な状況で神戸村が継立を肩代わりしていたならば、「その2」で見た様に善波村の継立場の場所がわからなかったのも合点が行きます。神戸村の人足にとっても善波まで荷を運ぶのが初めてであった可能性が高いからです。

繰り返しになりますが、以上は飽くまでも推測であり、今後更に史料を探し出して検証すべきです。ただ何れにせよ、武四郎にとっては自分の荷を運んでもらっている継立の村々の諸事情は、預かり知らぬことであったと言え、そのために委細が記されていないのでしょう。その分、「日記」の継立に関する記録を読み解く際には、関連する史料に当たって検証する必要が多々あると言えます。



次回もう1回、「日記」に記された矢倉沢往還の継立や沿道の様子を見ていきます。
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