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「歴史をひもとく藤沢の資料 6 長後地区」から:「【史料集】「新編相模国風土記稿」高座郡各村の街道の記述」の追記を兼ねて

一昨年藤沢市文書館が年1冊のペースで刊行を続けている「歴史をひもとく藤沢の資料」(以下「藤沢の資料」)のシリーズから、5冊目の「善行地区・湘南大庭地区」を紹介しました。昨年は「別巻 中世文書」というそれまでとは少し毛色の違う1冊が刊行されましたが、今年は改めて6冊目の「長後地区」が4月初頭に刊行されましたので、早速取り寄せて中身を確認しました。その結果、私のブログの過去の記事に1点追記しないといけない箇所を見つけてしまいましたので、今回はその点を重点的に取り上げたいと思います。


藤沢市長後の範囲
高倉はこの東側、下土棚はこの南側の地域
Googleマップ
「長後地区」は藤沢市の最北部に当たります。「藤沢の資料」では

本書でいうところの長後地区とは、藤沢市内を13地区に分けたうちの一地区に当たる。但しこの13地区は、1975(昭和50)年に藤沢市が提示した新しいものである。この区割りを元にすると、江戸時代の長後地区は、上・下長後村、七ツ木村の一部、千束村、下土棚村の一部、円行村の一部に該当する。しかし、江戸時代の歴史を考える上では、村を単位として地域の特徴を考察することから、本書で対象とする近世の村は、上・下長後村、七ツ木村、千束村、下土棚村に限定する。

(「藤沢の資料」21ページより)

としています。現在の住居表示では、藤沢市長後・高倉・下土棚に該当するエリアです。


私のブログでは、以前に滝山道について取り上げた際に長後についても手短に触れました。また、この滝山道や柏尾通り大山道が交差し「宿」と称される地でもあったことから、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)中の街道の記述をリストアップした際にも、これらの街道の記述の中で「長後」の地名がしばしば登場しました。

その様な訳で、今回の「藤沢の資料」についても、特に江戸時代の滝山道や柏尾通り大山道に関する史料が何か見いだせるかどうかを主に見る形になりました。もっとも、この地域では比較的早い時期から郷土史の研究が盛んで、古くから地域の郷土史が上梓されるなど一般の目に触れる形で公開されている史料は既に多く、「藤沢の資料」で初見となる史料はあまり無いかも知れないとは考えていました。

今回も全体の構成はこれまでの「藤沢の資料」シリーズと同様です。目次の概略は
  • 画像で見る長後
  • 長後の歴史をひもとく
  • 長後の歴史資料
となっており、「画像で見る長後」ではこの地域に伝わる絵図や写真を中心に構成されているのに対し、次の「長後の歴史をひもとく」ではそれぞれ4〜6ページほどの解説がまとめられています。そして、「長後の歴史資料」で地域に伝わる資料がどの様なものであるのか、その概要が解説されています。資料の目録がCD-ROMで付属するのもこれまでと共通です。

「画像で見る長後」の章は
  • 地図に見る渋谷荘の空間
  • 近世の長後地区
  • 藤沢へ 横浜へ
  • 長後商店街のうつりかわり
  • 長後の旧地形と史跡図
  • 「長後地区」とは
  • 空から見た長後地区
  • カメラが捉えた長後地区
の各項から成っており、「近世の長後地区」には同地に伝わる江戸時代の絵図がいくつか掲出されています。その絵図の中の1枚に、見慣れない街道の名前が記されていることに気付きました。

この絵図は「上長後村絵図」(天保7年・1836年)と名称が付けられています(8ページ)。絵図の傍らには

御改書上之節/昔ゟ有之村方之絵図清書仕候尤其節/御代官江川太郎左衛門様御役所江ハ上下長後一紙ニ認メ/奉書上候以上

(改行を「/」に置き換え)

とあり、韮山代官所への提出に際して古くから同地に伝わる絵図を清書したものの控えであることがわかります。提出された方には下長後村の分も併せて1枚に描かれたとしていますが、今のところ韮山代官所の史料を受け継いだ各施設に該当する絵図が残っているかどうかは未確認です。

「風土記稿」では「長後村」としてのみ記され、上長後村と下長後村に分かれていたことについては全く記載がないのですが、「藤沢の資料」では

「皇国地誌」(ID245-12)によると、天正19(1591)年に上長後村と下長後村に分かれたとある。この頃に上長後村は幕府直轄地に、下長後村は旗本の朝岡氏の知行地となった。寛永2(1625)年に上長後村が土屋氏の知行地となった。一方、「戸塚宿助郷高帳」(ID235-15)には戸塚宿の助郷として「長後村」と記されている。年貢徴収の上では上長後村・下長後村は別の村として「相模国郷帳」等には記録されているが、実態は深い関係を有しいていたと思われる。

(8ページより)

と解説されています。「風土記稿」ではこうした分村の経緯を含め、全体的に長後村の記述が薄くなっているのですが、何故この様な状況が生じたのかについては現時点では不明です。そのためか、「藤沢の資料」ではこの項を記述する際に「風土記稿」については触れずに終えています。

このうち、下長後村の域内では滝山道と柏尾通り大山道が交わり、宿場の様になっていたのに比べると、上長後村の域内には滝山道のみが通っており、少なくとも江戸時代後期には宿の中心からは外れた存在になっていたと考えられます。しかし、「上長後村絵図」には「滝山海道」の他に「柏尾道・元大山道」「厚木道」の2本の街道の名前が見えています。

上長後を経由する旧大山道・厚木道
上長後を経由する旧大山道・厚木道
「上長後村絵図」及び「長後の旧地形と史跡図」(20ページ)を基に作図
「地理院地図」上に「宿上分」「宿下分」「天満宮」の字が記されている(矢印)
(「地理院地図」上で作図し、画像保存したものに地名等加筆)


「元大山道」「柏尾道」とされる道筋
ほぼ当時と変わらない道幅か
ストリートビュー

「厚木道」とされる道筋
現在も道幅はあまり広くない
ストリートビュー


「上長後村絵図」の上端には
滝山海道から分岐して下和田村(現大和市)へと向かう道との
三叉路が描かれ、その分岐点に「念仏塚」の存在が記されている
現在もその分岐点にそれらしき石の祠が残されている(右端)が
道の形などから判断すると当時の位置は
左のガードレールで囲まれた空き地の辺りに来ると思われる
ストリートビュー
これを受けて、「地理院地図」上でこれらの道筋を反映したものを作成してみました。「風土記稿」の「長後村」の項の街道の記述については、以前「【史料集】「新編相模国風土記稿」高座郡各村の街道の記述(その2)」で一覧に掲げた通りで、そこには「大山道」と「八王子道(滝山道)」の名前しかありません。一方、東隣の千束村の項の記述を良く見ると、「厚木道・大山道・八王子道の三路村内を通ず、大山道は厚木道より左折して七ッ木村へ達す、八王子道は村の西境を通ず、」とあり、大山道と八王子道は隣接する村の街道の記述に呼応するものを見出すことが出来るのに対し、厚木道については「風土記稿」の中で千束村以外に記述を見いだせなくなっています。この千束村の「厚木道」については「(その4)」の中で補注の形で触れるに留まっていました。なので、今回改めてこの「厚木道」について検討することにしました。

「上長後村絵図」には「滝山海道」の道幅は「三間」(約5.4m)、「元大山道」あるいは「柏尾道」とされる道は「弐間弐尺」(約4.2m)、「厚木道」とされる道は「壱間四尺」(約3m)と記されています。現在もそれに近い道幅が維持されている様ですが、「元大山道」の道幅はまだしも、「厚木道」の方は遠方まで繋がる道としては当時としてもやや狭くなっています。

「風土記稿」の長後村の街道の記述については上記の「(その2)」に掲げた通りですが、同村の「皇国地誌」(明治13年12月 「日誌雑」収載・井上澄家文書)にも

道路 二

八王寺往来一名滝山子十六度本郡福田村ヨリ字上原ニ来リ東部ヲ南ヘ十五町三十間辰十三度字宿下分ヨリ下土棚ヘ通ス幅弐間半

大山道 卯ノ十三度本郡高倉村ヨリ字宿中分ニ来リ東南及ヒ東ヲ西南へ十弐丁三十間幅弐間午十度字下分ヨリノ下土棚村へ通ス

(「藤沢市史料集(十一)村明細帳 皇国地誌村誌」1986年 藤沢市文書館編 105ページより、以下の「皇国地誌」の引用も同書から)

と、この頃には上下長後村は合併後であったにも拘らず「滝山道(八王子往来)」と「大山道」の存在のみを記し、「厚木道」の存在については触れていません。因みに滝山道の道幅は「弐間半」(約4.5m)と「上長後村絵図」よりやや狭く記されています。

更に、この「厚木道」を西に辿ると引地川に架けられた「鐘ヶ淵橋」を渡るのですが、この橋についての「皇国地誌」の記述は

橋 二

鐘ケ淵橋 戌十七度字鐘ケ淵ニアリ綾瀬川ニ架シ村路ニ供ス長五間幅九尺地ニシテ修繕ハ村費

(105ページより、以下も含め強調はブログ主、ここでは引地川は「綾瀬川」と呼称されている)

とあり、ここには「厚木道」の名はなく、単に「村路」とされています。その一方で、村の元標の存在場所については

近傍駅市距離

亥九度武州八王寺元標ヘ九里五丁三間 酉十三度愛甲郡厚木町ヘ元標三里十四町十九間三尺 申八度本郡宮山村寒川神社ヘ弐里三十壱町十五間三尺 巳廿度本郡東海道藤沢駅元標ヘ弐里壱町五間

但シ元標ニ中央字中分ノ村路畑渠ノ間ヨリ丑十五度厚木道ノ北側字天神添ニアリ

(103ページより)

と、こちらには「厚木道」の表現が残っています。「道路」の項で具体的に説明されない道の名称が、別の場所で使われているという関係になっています。


比留川・新落合橋付近
左手が下流
右岸側は宅地化されているものの
段丘が川の近くまで迫っていることがわかる
ストリートビュー
また、「藤沢の資料」の「長後の旧地形と史跡図」(20ページ)では「厚木道」はほぼ直線的に西進した先で、引地川の支流である蓼川と比留川を渡り、「社家へ」と向かうとされていますが、「迅速測図」上ではこの蓼川や比留川を指摘された場所で渡河する道筋を確認することは出来ません。この2つの河川が合流する付近では、比留川が大きく曲がっていくことが象徴する様に段丘崖が比較的発達している地点に当たり、付近の「土棚」という地名も一説では段丘に由来するとも言われています。ここを上り下りするには、勾配を緩める様な道筋をつける必要があったと考えられ、「藤沢の資料」の様な道筋にするには大規模な掘割が必要だったと思われます。

更に、「風土記稿」でも社家村の項に長後へ向かう道筋の存在を指摘する記述はありませんし、「迅速測図」でも社家付近から長後へ直接向かう道筋を確認出来ません。社家には相模川を渡河する「社家村渡」の存在が書き込まれているものの、そこに繋がる道を辿ると用田などを迂回する形になり、それであれば柏尾通り大山道を西進するのとあまり変わらない道筋になってしまいます。

上記の私の地図ではその様な状況を考え、蓼川に差し掛かる直前から厚木までの区間は点線として経由地不詳としました。点線が北西を向いているのは厚木の中心地である厚木神社の位置との間を直線で結んだことによるもので、もちろん当時の道筋に近い場所を示すものではありません。

この様な状況を総合すると、上長後村から西進する「厚木道」は、遅くとも明治初期の時点では「村道」に位置付けが下がってしまい、この地からの主要な街道とは見做されない運用になっていたものと考えられます。「風土記稿」の記述に「厚木道」が現れないのは、何らかの事情で昌平坂学問所が長後村への取材をごく手短に行ったまま同項を執筆してしまったためとも考えられます。このため、これだけでは必ずしも「厚木道」の衰退を示すものと考えることは出来ません。しかし、「風土記稿」とほぼ同時期の「上長後村絵図」に「元大山道」の表記があることや、これらの道筋の細さを見る限り、やはりこの頃には既に「村道」に近い位置付けになっていた可能性も少なくないと考えられます。「風土記稿」の千束村の「厚木道」については、基本的にはその様な位置付けの道筋と考えるべきかと思われます。

長後天満宮鳥居(2011年撮影)
長後天満宮鳥居(2011年撮影)
長後天満宮由緒書き(2011年撮影)
長後天満宮由緒書き(2011年撮影)


長後天満宮の位置(Googleマップ
しかし、その様な状況にも拘らず「厚木道」の名称が伝えられているのは、この道が「長後天満宮」の前を通過する道筋であることと関係があるのかも知れません。「長後天満宮」は由緒によれば鎌倉時代に渋谷重国の館があったと言い伝えられている場所で、渋谷氏が邸内に菅原道真を勧請して興ったとされています。境内北部では中世前期と目されている濠跡が発掘されており、これが渋谷氏の館と関係するものかどうかについては議論がある様ですが(「藤沢の資料」43ページ)、「皇国地誌」でも渋谷氏の館の存在を複数箇所で記述しており、同地で長らく伝承されてきたことは確かでしょう。

一方、長後の宿場としての機能の方は、江戸時代にはその中心地が柏尾通り大山道と滝山道が重なる下長後村の域に移っていました。しかし、「藤沢の資料」では

東海道藤沢宿は江戸幕府公認の宿場町であるが、「宿」は近世になると公称できないので、「宿」地名の多くは中世に通称されていたものと考えられる。そして、江戸と京都を結ぶ東海道がそうであるように、政権の要地を結ぶ主要な街道は時代の政治情勢に応じてルートが変動する。基本的に、鎌倉幕府・鎌倉府と武蔵国府(東京都府中市)とを結ぶ鎌倉街道は境川東岸に、小田原城とその支城である滝山城・八王子城(東京都八王子市)とを結ぶ八王子道(滝山道)は境川西岸に通る。八王子道沿いの長後の「宿」は戦国時代に発展した宿と考えられる。

薬師と阿弥陀 

ただし、長後宿はさらに古くから存立していた可能性がある。というのは、中世の東海道・鎌倉街道上道(かみみち)の宿は、薬師仏像と阿弥陀仏像とで東西あるいは北南が結界された空間構成であったことが明らかにされており(榎原2021)、長後宿の泉龍寺が薬師と阿弥陀を本尊としていたからである。

嘉永6(1853)年7月の泉龍寺「新古什物写扣帳」には、本尊秘仏の薬師如来坐像1躰と御前立(おまえだち)の阿弥陀如来立像1躰が見える(ID247-49)。この2尺8寸の本造薬師坐像は、渋谷重国が「城」の鬼門守護として「丑二十度」=北東に安置していたもので、後に堂宇が廃れ、天文15(1546)年に僧高吟によつて現在地泉龍寺に再興されたが、明治33(1900)年11月1日の同寺の火災で一宇残さず灰儘に帰したという(皇国地誌村誌)。

旧来の長後宿は、現在の商店街より北方、泉龍寺の北で八王子道と柏尾道・厚木道の交わる附近が中心であったと見られる(p.6~8・20)。堂宇の旧所在地は検証を要するが、「城」=天満宮から北東に薬師像が安置されていたとすると、その南方に位置する泉龍寺の阿弥陀像と結界をなし、八王子道は鎌倉街道上道の別ルートであったとも考えられる。両尊像とも焼失しているため、その造立年代とともに宿の年代は不明であるが、泉龍寺に阿弥陀仏を標示する梵字を刻した応永2(1395)年(または同4年)銘の板碑があり、その当時には宿町が立っていた可能性がある。とすると、天文15年の泉龍寺中興は新宿の創設と関連するもので、土棚新宿は旧来の宿の再開発だつたのではないかと考えられる。

(45ページより、強調はブログ主、なお「榎原2021」は「地図で考える中世 交通と社会」榎原雅治 2021年 吉川弘文館を指す)



現在の泉龍寺の位置(Googleマップ
と考察されており、「上長後村絵図」に著された領域が江戸時代よりも以前に宿場として成立していたこと、その後「風土記稿」にも記された(あざな)の「宿」は江戸時代の宿としての実情を反映したものではなく、それ以前から宿であったことを反映した地名であったことを指摘しています。長後「宿」が古くから存立してきたことの証がこの字ということになるでしょう。


「厚木道」が江戸時代末期から明治時代には既に村道と称すべきレベルの運用になってしまっていたにも拘らず、その名称が受け継がれていたのも、長後を治めたかつての領主の居館の前を通る街道の宿場という由緒を受け継ぐ、一帯の空間を象徴するものであったからなのかも知れません。勿論、中世からこの道筋があったとすれば、厚木が栄えるのは江戸時代になってからですので、当時は例えば荻野新宿(現厚木市)などの名前を冠する道であった筈ですが。
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「木賀の山踏」(竹節庵千尋)往路の「大磯の『さいこく』」:梅沢の鮟鱇再考を兼ねて

前回「木賀の山踏」(竹節庵千尋 天保6年・1836年、以下「山踏」)の往路の「四ッ谷の数珠」などの記述に幾つか疑問点があることを記しました。今回はその続きの記述を検討しますが、それに当たって以前の記事で取り上げた梅沢の鮟鱇をはじめとする一帯の漁業の実情を併せて見直します。

「山踏」の記述は「四谷・小幡(小和田)」についての記述に引き続いて、馬入の渡しを渡ってからの記述に移ります。

馬入川舟にて渡り、平塚の宿も過ぬ、夫より大磯森田屋といへるに休らひ昼けのせんに向ひぬ。平目の煮つけ又さいこくといへる魚に豆ふを加へ汁にして出しけれは

東にて見馴ぬ魚はさいこく

名にあふ道もとうふ也けり

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 402~403ページより、以下も含め強調はブログ主、以下「山踏」の引用は全て同書より)


「大磯町史2 史料編副読本 近世⑵」大磯宿場絵図(幕末期)
大磯宿森田屋の位置
幕末期の「大磯宿場絵図」トレース図より
(「大磯町史2 史料編副読本 近世⑵
47ページより一部を切り出し、傍線加筆)

大磯宿高札場跡
民家のフェンスの上にガイドが見えている
この向かって左方、鴫立庵前の石橋との間に
旅籠森田屋があったことになる
ストリートビュー

東海道五十三次 大磯 鴫立沢西行庵-Ōiso MET DP122889.jpg
歌川広重 隷書版東海道五十三次 大磯宿 鴫立沢西行庵
歌川広重 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。, CC0, Wikimedia Commonsによる)

幕末期の「大磯宿場絵図」(「大磯町史2 史料編 近世⑵」1999年 口絵に縮刷が、「大磯町史2 史料編副読本 近世⑵」にトレース図所収)によれば、大磯宿の森田屋は石船町の最も京方に位置していた旅籠で、そのすぐ隣が高札場、向かいが鴫立庵という位置関係にありました。この先の南台町(加宿東小磯村の域)を抜けると大磯宿の京方見附があり、宿場を出ることになります。恐らくは当時はこの辺から見附は見えていたのではないかと思います。

「山踏」では昼食の後鴫立庵に立ち寄りますので、元から鴫立庵に入る前に食事を済ませるつもりでいて、その向かいの旅籠を見つけて昼餉の場に選んだのかも知れません。もっとも、朝早くに藤沢を発っていることを考えると、この昼食も割と早い時間帯だったのではないかと思われますが、この辺でそろそろ宿内を抜けてしまうと気付いて、見附を過ぎると食事が出来そうな場を見つけ損ねる虞を感じて、慌てて最寄りの旅籠に飛び込んだとも考えられます。何れにしても、この時の道行きは飽くまでも箱根での湯治に出掛けるためですから、道中はかなり速いペースで進んでいます。


問題はこの森田屋でヒラメの煮付けと共に出された「さいこく」という見馴れない名前の魚です。「神奈川県民俗調査報告21 分類神奈川県方言辞典(Ⅰ)―自然・動物・植物―」(2003年 神奈川県立歴史博物館)や「魚介類 別名辞典」(2016年 日外アソシエーツ)をはじめ、日本の海産物の名称を色々と探してみましたが、「さいこく」に該当しそうな名称の魚にはお目にかかることはありませんでした。

見馴れない名前の魚が膳にのぼった例としては、以前梅沢の茶屋の「カニジキ」を取り上げました。この時もこれに類する名称の海産物が全く見当たらず、今も謎のままになっています。この時は他に類例がなかったので、「店の方も出せる魚の水揚げが少ない中、見慣れない魚でも調理して出すしかなかったのかも」と推定してみましたが、同様の例がもう1つ見つかったこと、そして大磯と梅沢という比較的近い場所であったことから、改めてこの地域の漁業の実情を洗い直してみることにしました。そこにこの正体不明の魚について考えるヒントが見つかるかも知れません。

上記の「カニジキ」について紹介した際には、梅沢の茶屋で膳にのぼったことが記録されているもの、特に「鮟鱇(あんこう)」について検討しましたが、その際には鮟鱇について当時どの様な知識があったのかについては未検討でした。そこでまず、江戸時代初期の本草学の文献で鮟鱇がどの様に記述されているかを見てみます。

和漢三才図会:

華臍魚(あんがう・ハアヽツユイイユイ)

老婆魚 綬魚 琵琶魚 俗云阿牟古宇

泉州府志云華臍魚帯如子生シテ其上綬魚其形ニシテ科斗(カヘルゴ)而大ナル者如吳都賦云此魚無クシテ鱗而形タル琵琶故又名琵琶魚

△按柬海皆多西南海ニハ十月初三月以後稍ナリ夏秋全(後略)

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)

大和本草:

華臍魚(アンカウ) 

寧波府志曰一名老婆魚一名綬魚蓋其腹有帶如帔子其上故名綬魚其形如ニシテ科斗而大ナリ者如又名琵琶魚呉都曰琵琶魚無シテ鱗而形似琵琶初出者俗多之至レハ則味降

國俗鮟鱇ト称ス未出處妄称坂東ニ多シ尤珎賞ス西州ニハマレナリ(アツモノ)トシテ食フ味甚スクレタリ上品トス冬ハ味ヨク春ハ味ヲトル㕝寧波府志ニ云カコトシ性温補無毒百病

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主、「珎」の字は引用元では右上は「人」になっているが、該当する字がUnicode上に存在しないため、ここでは便宜的にこの字を充てた。)

本朝食鑑:

鮟鱇安康字義未ナラ 

[集解]江東多之就中駿豆相総最ルニテヘニ夏秋狀平團ニシテ肉厚肚大ヒニ背黒腹白眼鼻向濶大ニシテ而鬣鬐短弱亦極メテ尾無シテ(マタ)而長魚皮肉鬐骨腸膽皆腸膽色黃亦最ナリルコトハ則色赤黃(タヽ)頭不鮟鱇法庖人秘シテ傳-授呼(ツルシ)リト…若クコトハ鮟鱇則内着皮-骨腸膽破壞シテルニ庖人秘(後略)

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、…は中略、強調はブログ主、「鬣」の字は引用元では「髟」の下が「承」の様な形になっているが、該当する字がUnicode上に存在しないため、ここでは便宜的にこの字を充てた。「骨」も上は「内」になっているが同様の理由でこの字を充てている。)


「倭漢三才図会」巻題51「華臍魚」
「和漢三才図会」巻第51「華臍魚」挿画
上部に波浪が描画されているが
生きた鮟鱇が海面を遊泳することは考え難い
作画者に鮟鱇の生態の知識が伝えられなかったことが窺える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より画像の一部を抽出)
「鮟鱇」の表記は「和漢三才図会」にはなく、「老婆魚」「綬魚」「琵琶魚」という表記も紹介しつつ、表題には「華臍魚」という表記を使っています。「大和本草」でも「華臍魚」を表題とし、「鮟鱇」の表記は「国俗」つまり日本独自のものとして紹介した上で、出処が未だに見つかっておらず、「妄称」と否定的な評価を下しています。それに対し、「本朝食鑑」では「字義はまだ不明」としながらも「鮟鱇」を表題に据え、文中の表記にも「鮟鱇」が用いられています。こうしたことから、「鮟鱇」の表記は江戸時代初期には広まりつつあったものの、必ずしも確立されていなかったことがわかります。


他方、鮟鱇が獲れる地域については何れも「東海に多く西南海には少ない」(和漢三才図会)「坂東で珍重されて賞味されているが、西や南では稀である」(大和本草)「関東に多く、特に駿河・伊豆・相模・総州で最も多い」(本朝食鑑)と、日本の東に偏っていることを記す点が共通しています。当時は専ら鮟鱇が獲れる海域だけで判断されていたことがわかります。

これは、アンコウが生息する深海域が特に東日本で岸から近い場所にあるのに対し、西日本では岸から比較的遠い場所にあることと関係がありますが、そもそも、世界的にも深海に生息する生物の研究が始められるのは20世紀に入ってからのことです。そこには当然ながら深海への潜水技術などの探索技術の開発が必要でした。今ではアンコウが水深500mほどまでの深海に生息する魚であることが知られていますが、当時はその様な魚たちの生態については知る由もなかったことは確かでしょう。

Googleマップでは近海の海底地形もレリーフで表示され
相模湾内の谷の位置も良くわかる
日本中の湾の中で、相模湾は駿河湾に次ぐ水深がある「深海湾」です。委細は平塚市博物館のこちらのページが詳しいですが、相模湾岸西側では相模トラフに向けて陸に近いところから急激に水深が深くなっています。地元では「ドン深」と言われるこの海底地形は、当然ながらそこに生息する魚類にも大きな影響を与えます。この湾に流入する黒潮の分流の影響も相まって、「日本で獲れる魚、約4,000種のうち約1,300種の魚を獲ることが(「相模湾 - 神奈川県ホームページ」)」出来るとされています。

しかし、こうした海の中の地形についても、岸にごく近い浅瀬は別として、当時はほぼ知識がない状態だったと考えられます。そこで、当時の一帯の漁業が相模湾の地形とどの様な関係があったかについて確認していくと、意外なことがわかってきます。

二宮地域での漁業は、相模湾の海に接した近隣各村の平塚・真鶴・小田原などと比較すれば、これらの地域より幾分時代が下ってから始まったようである。…これら各地域では、既に小田原北条氏時代に漁業がある程度盛んに行われていたのである。

真鶴や小田原・平塚に比べ後発地域とみなされている二宮地域での漁業活動が、史料的に確かめられるのは、寛永二十(一六四三)年のことである(資料編1近世史料253)。この寛永二十年に作られた史料をみると、小田原付近の海付きの村々と違い、漁業開始後発地域と目される二宮地域の早創期の漁業の姿を如実に伝えている。二宮地域の漁業活動は、小田原付近の専業漁民の移入によって開始されたと推測される。

(「二宮町史 通史編」第4編第3章第1節「二宮の漁業」 444〜445ページより、「…」は中略、強調はブログ主)


梅沢の茶屋が鮟鱇鍋で当たりを取っていたことから考えると、付近の漁業ももっと古くからの歴史があった様に思えてしまうのですが、江戸時代初期に小田原から漁業者が移住して漁業が始まったのであれば、むしろ茶屋の勃興とそれほど隔たっていない時期に鮟鱇の水揚げが始まったことになります。


こうした二宮や大磯の漁業でどの様な魚が獲られていたか、網羅的な史料はなかなかない様なので、ここでは「二宮町史」や「大磯町史」の通史編に当たってみます。

二宮・山西の沖合は、相模湾西部の海の中でも有数な漁場として今も沢山の釣人で賑わっている。そのわけは、大磯海脚といわれる比較的浅い海が二宮・山西の沖合に広がっているからである。この大磯海脚は、地元では「せのうみ」ともいわれ、相模湾西部漁村では古くから魚の集まる場所として知られている。

(「二宮町史 通史編」448〜449ページより)

二宮・山西両浦から江戸時代にどのような種類の魚が獲れていたかについては、どうも良くわかっていない。請負による肴十分一運上は、史料からその漁獲対象が鮪・鰹であることは判明する。がしかし、その他については明確な史料が存在しないのである。そこで、東海道を上り・下りする大名・諸家に対し梅沢松屋本陣が献上した数々の献上物の中から魚類を拾ってみると、生魚では、鮟鱇(あんこう)・甘鯛・カスコ鯛・キンメ鯛・ギンメ鯛・ホウボウ・ムツ・キス・烏賊・鯵・スズキ・鯛・赤メバル・平目・カサゴ・ハラサ・ウヅワ・ワカナゴ・鰹・イナダ・鯖・ソウダ・黒鯛の二三種を数える。このほか、加工品に蒲鉾・はんぺん・イカ塩辛・鮟鱇皮・鮟鱇子生干しの五種があった。生魚のなかに鰯類などの小魚や海藻類の記載がない。それは献上品に限定されるためで鰯・海藻などは献上品にはならないが、恐らく漁獲されていたものと思われる。これらの魚の捕れる時期については、山西・二宮の漁業が地引網漁によっているために、鯛・鰺・鮪・鰹・鰯・烏賊などは一年中操業され獲れていたといえる。ただし、鯛は五月から十一月、鰺は四月から九・十月まで、鮪・鰹は四月から九月が中心的な漁期であった。その他の魚の漁期は、鮟鱇が十月から正月までが旬といわれ、生魚として献上品になる時期は正月に限られ、正月以外は鮟鱇皮や鮟鱇子生干しの加工品になる。甘鯛・キンメ鯛・黒鯛などは十一月から二月、平目は十二月から四・五月、ウヅワは七月から十二月、イナダは九月から十月、ホウボウ・キスは十一月から五月、ムツは十二月から三月までがおおよその漁期といえた。これに、一年中操業されていた釣漁の鰹・鮪・鰺・鯖・鯛・ウヅワなどを加えると、山西・二宮浦の漁獲物もなんらかの形でそれ相応の魚が獲れていたのである(二宮町教育委員会『梅沢御本陣』)。

(「二宮町史 通史編」460ページより、強調はブログ主、魚名も同書中の表記通りだが、史料の表記に準じたものと考えられる)

明和六年(一七六九)当時、西小磯村には地引網船が四艘あったと記録される(『町史』1近世38)。また、天保期の船数は国府新宿村で猟船四艘、国府本郷村で猟船二艘、大磯宿で廻船三艘・海士船一二艘・生漁船四艘・地引船三艘・小船一八艘の計四〇艘中猟船三三艘があって鯵・鯖・鱠(しらうを)・鯛・甘鯛・比目魚・鮪魚・鰹・小鰹・[魚遂]魚・鮫・鮑・鮟鱇などが漁獲されていたという。その漁法は国府新宿・国府本郷・西小磯の各村々は地引網漁。大磯は釣漁を主な漁法とするほか、地引網漁も行っていた(『風土記稿』)。

(「大磯町史 6 通史編 古代・中世・近世」407ページより、強調はブログ主、魚名も同書中の表記通り、[ ]内はUnicode上で該当する字母を拾えなかったため、漢字の構成を示した。)


ここで掲げられた魚のうち、深海に特異的に生息する魚を挙げると、鮟鱇の他、キンメ鯛ギンメ鯛ムツが該当します。漁法を重ねて考えると、深海に特異的な魚を意図的に狙った漁を目指すものではなく、より一般的な回遊魚などを幅広く水揚げする中に、深海由来の魚も一緒に混獲されてくる様な漁を行っていたと見るべきでしょう。江戸や小田原での需要を考えると、他ではなかなか見掛けない深海湾特有の魚よりも、日本で一般的に食されていた魚の方が安定した収益に繋がったということなのでしょう。相模湾の中で比較的水深の浅い「せのうみ」が主な漁場とされていたことも、基本的には他の海域でも一般的に見られる魚を主に獲っていたことを裏付けています。

とは言え、深海を中心に多彩な魚が多く棲む相模湾から、時として上記に挙げられた以外の魚が網に掛かることがあっても不思議ではなかったと考えられます。しかし、こうした未見の魚についての知識が果たして十分にあったと言えるか、特に外部から漁業者が来て定着したとする現在の二宮町のエリアでは、かなり心許ないものがあったと思われます。大磯宿周辺でも魚種に大差ないことから、やはり同様の状況があったのではないでしょうか。今であれば、魚種のわからない魚が網に掛かった場合には水産試験場などに連絡して同定を依頼するといった仕組みがありますが、当時は当然ながらその様なものはありませんから、水揚げされた地の古老などの知識の範囲で判断するのが限界ということになります。

つまり、「さいこく」や「カニジキ」といった名称は、普段は見掛けない魚を水揚げしてしまった故に、当座の名前を仮に与えて茶屋や旅籠で客に出したものであった可能性があり、相模湾はその様な魚が豊富に存在し得る海であったことの反映ではないかと思います。これらの魚が現在では何と呼ばれている魚であったかを確認する術は当然ながらありませんが、こうした事例を他にも確認出来る様であれば、あるいは深海という海の特性を反映した事例であったと言えるのかも知れません。

東海道五十三次 原-Hara MET DP122837.jpg
歌川広重 狂歌入り東海道五十三次 原
歌川広重 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。, CC0, Wikimedia Commonsによる)
因みに、梅沢で「カニジキ」なる魚を食べたと記録する錦織義蔵「東海紀行」では、駿河国の原宿(現:静岡県沼津市原)で昼食を摂った際には

○肴赤ムツ煮付、但鱗尾等赤シ大キサ尺五寸斗リ

(「日本都市生活史料集成 八 宿場町編」1977年 原田 伴彦編 学習研究社 602ページより、強調はブログ主)

と記録しています。この魚が象徴する様に、伊豆半島を挟んだ駿河湾が相模湾を凌ぐ水深を誇る深海湾であることから、この地域でも「さいこく」や「カニジキ」と同様の記録が当時の道中記や紀行文に見られないか、併せて確認してみたいと考えています。
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【道中記・紀行文】にまつわる記事一覧

各種の道中記・紀行文に基づいて書いた記事がかなり溜まってきたので、それらの記事を俯瞰してアクセス出来るような一覧を作っておこうと思い立ちました。

ここでは、あくまでも個々の道中記・紀行文を軸にして組み立てた記事のみを一覧に含めました。それ以外にも記事中で道中記や紀行文を引用したものは多数あるのですが、煩雑でわかりにくくなりそうなので割愛しました。これら引用が含まれる記事へのアクセスを考え、道中記や紀行文の表題による検索結果(表題では上手くヒットしない場合は作者名による検索結果)へのリンクを最後に付加しました。何れにせよ、道中記や紀行文を素直に頭から順に解説する様な記事がなく、これらの中に登場する周囲の景観や産物などを選り出して解説するといった体裁の記事ばかりになっていますので、その点は予めご了承下さい。

カテゴリーに「道中記・紀行文」を用意していますが、以下の記事は必ずしもこのカテゴリーに分類されている訳ではありません。基づいた文章には、いわゆる「道中記」や「紀行文」ではなく、日記などに分類すべき文章であっても、旅路の様子を記録したものについてはここに含めました。

以下の一覧は、基本的には、道中記・紀行文が成立した年の順に並べていますが、「慊堂日暦」の様に複数年に亘っている文章については、基にした箇所の年のうち、最も古い年を基準にしています。それぞれの道中記・紀行文には、記事を作成する際に参照した文献を示しました。

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「木賀の山踏」(竹節庵千尋)往路の「四ッ谷の数珠」

以前、「七湯の枝折」の「禽獣類」を取り上げている際に、「木賀の山踏(やまふみ)」(竹節庵千尋 天保6年・1836年、以下「山踏」)中の「雲雀」の記述について急遽検討する回を設けました。今回はその「山踏」から、往路の記述に登場する疑問点を分析してみたいと思います。「山踏」についての紹介は上記記事を参照下さい。

3月7日(グレゴリオ暦4月17日)早朝に江戸を発った千尋は、途中から駕籠を使ったこともあって一気に藤沢まで進んで一泊、翌朝も早く出発します。宿場を外れて松並木に差し掛かる辺りで日の出となり、その様子を歌に詠んだ続きの箇所の記述に、幾つかの問題があります。

平塚の手前少しの家居あり四谷木幡なんとの名ありこの所数珠玉又菅のたすき商へるなれは

堀の内道の四ツ谷にあらねとも

ひさくは数珠の玉たすきかも

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 402ページより、以下も含め強調はブログ主、以下「山踏」の引用は全て同書より)


「木賀の山踏」四ツ谷・小和田の位置関係
四ツ谷・小和田の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
また「今昔マップ on the web」も参照のこと)
東海道五十三次之内藤沢四ツ谷立場
歌川広重「東海道 五十三次之内」(蔦屋版東海道)中
「藤沢 四ツ谷の立場」(再掲)
Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Public domain.)

まず、「四谷木幡」の位置が問題です。馬入の渡しを渡るのはこの次の記述に登場しますので、藤沢宿と馬入の渡しの間に位置することにはなります。その間の「四谷」と言えば、やはり田村通り大山道の分岐点に当たる「四ツ谷」ということになるでしょう。しかし、上の地図に見える通り四ツ谷は藤沢宿を出てまだそれほど進んでいない場所にあり、「平塚の手前」と言うにはちょっと距離があり過ぎる様に思えます。

「木幡」は更に難問で、少なくとも東海道沿いには「木幡」という地名は存在しません。何らかの誤記である可能性を織り込んで付近の地名を検討すると、「木幡」を「こはた」または「こばた」と読んだ場合に「小和田(こわだ)」が比較的近いことに気付きます。ここであれば四ツ谷からも比較的近く、両者を併せて呼んだことも理解できます。しかし何れにしても、まだ平塚まではかなり距離があることには変わりありません。

初日は品川宿の辺りから駕籠に乗ったことを記しており、2日目も大磯から駕籠を利用したことが記されていますので、藤沢から大磯までは歩いていたと考えられます。従ってこの地名は駕籠かきからの伝聞ではないことになります。もっとも、駕籠かきであれば地元の地理にはそれなりに明るいと考えられ、この様な曖昧な回答を返してくる可能性はあまりなさそうです。

この道行きは千尋独りだった訳ではなく、

亦連なる人は小山安宣ぬし、同じき内方、横井何某の息命常、予が妻をも具しつ。

(401ページより)

と同行者がいたことを最初の方に記しています。「四谷木幡なんとの名あり」の地名の精度が低いのは、「なん(なむ)」という推量が入っていることから考えると、同行者からの伝聞を記しているからなのかも知れません。



次に、この土地で「数珠玉」や「(すげ)のたすき」を売っていたという記述が気になります。該当地が田村通り大山道の分岐点であったとすれば、大山詣での参拝客を当て込んでその様な商いをしていたとしても不思議ではありません。ただ、この追分に茶屋があったことを記す紀行文はしばしば見られるものの、こうした土産物を販売する商いの存在を記しているものは珍しいと思います。少なくとも、私がこれまで読んだ紀行文・道中記はあまり本数は多くありませんが、その中ではこれが唯一の例です。

「人倫訓蒙図彙 6巻」数珠師図
「人倫訓蒙図彙 6巻」数珠師図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より該当箇所抜き出し)
この数珠玉やたすきは何処でどの様に作られていたものなのでしょうか。数珠については江戸時代には「数珠師」と呼ばれる専業の職人がいたことが、「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」(元禄3年・1690年刊)などに記述が見られます。しかし、江戸市中や京都上方、あるいは大きな寺社の門前町ならばさておき、大山までまだ道のりを残す地点で専業者が拵えるほどの品質の数珠が売られていたとは考えにくいものがあります。四ツ谷は大山詣での帰路に江の島や鎌倉へ向かう参拝客も多く通過する地であり、藤沢宿の遊行寺などへ向かう客の方をターゲットとして考えていた可能性もあるものの、藤沢の宿内まではまだ少し距離があり、やはり高級な品質の数珠を扱っていたとは考えにくいところです。


まして、「菅」で作る「たすき」とはどの様なものなのか、皆目見当がつきません。よもや和服の袖や袂をたくし上げるためのものをこんな所で売っているとは思えませんし、数珠とともに売っているものなのですから、この「たすき」も仏具のうちなのでしょうが、江戸時代のもので該当するものが思い当たりません。現在では髭題目を記した短冊を「おたすき」と呼んで販売している例はある様ですが、「山踏」のこれも該当すると考えるには、それが「菅」で作られている理由が不明です。

「菅」とは一般には「菅笠」や蓑、縄などを作る際に用いられる「カサスゲ」などのスゲ科の植物ですが、スゲ科には日本には269種、神奈川県内でも86種が自生していることを県立生命の星・地球博物館のページで紹介しています。池や川岸などの湿地に生えることから、付近の引地川沿いなどの秣場で容易に得られると考えられるものの、如何せん「たすき」がどの様なものかが不明なので、それをどの様に加工したのかも全く見当がつきません。

一方の数珠玉の方はどうでしょうか。「和漢三才図会」の「数珠」の項(巻第19「神祭附佛供器」)では

數珠功德經佛告曼珠(モンシュ)室利(シリ)法王子數珠之體種種不カラ文繁故畧テハルコト無量也菩提子水晶蓮子木槵眞珠珊瑚等皆各其次也

△按數珠修業ムルサラ懈怠之具釋氏必用之物如縉紳之(シャク)武士之刀今以水晶琥珀硝子(ヒイトロ)水晶菩提子、桑槐、黑柹、紫檀(シタン)、梅木等皆性不

「国立国会図書館デジタルコレクション」の中近堂版より、但し不明瞭な箇所は「デジタルコレクション」上の秋田屋太右衛門版や東洋文庫版の「和漢三才図会」(4、1986年 275〜276 ページ)を併せて参照、返り点なども同書に従う、「…」は中略、強調はブログ主)

と、菩提樹の実を最良とし、他に水晶、蓮の実、ムクロジ、眞珠、珊瑚、あるいは槐、黒柿、紫檀、梅の実など硬いものを上物としています。

「成形図説」巻之二十「薏苡」(ジュズダマ)
匿名 - ライデン大学図書館,
CC 表示 4.0,
Wikimedia Commons
一方、東洋文庫版の「人倫訓蒙図彙」(朝倉治彦校注 1990年 平凡社)の補注には

数珠師 『雍州府志』巻七、念珠の条に「京極道ニアリ、雑品木ヲ以テ之ヲ造ル。或ハ菩提樹ノ実、或ハ水精、琥珀之類、又婦人之用ル所ノ念珠百八箇、半ハ黒檀顆ヲ用イ、半ハ水精顆ヲ用ユ。是ヲ半装束数珠ト謂フ。又山伏之用ル所ノ其顆小匾ニシテ圭角有リ。是ヲ最多角数珠ト謂フ。各好ム所ニ随ツテ之ヲ有ス。之ヲ珠数屋ト謂フ」。一般にはズズダマの実、ムクロジュの実を使用した。『国花万葉記』に「寺町通南北所々に多し」とある。

(上記書302~303ページより、強調はブログ主)

とあり、「雍州府志」という天和2年〜貞享3年(1682〜1686年)に書かれた山城国(京都一帯)の地誌を引用して「和漢三才図会」に近い素材を各種挙げています。そして、一般論として水田の畦に自然に生えてくる「ズズダマ(薏苡(よくい)、ジュズダマ)(リンク先は「跡見群芳譜」)」の名が挙げられています。

付近の迅速測図(リンク先は「今昔マップ on the web」)などに見られる当時の土地利用を見ると、砂丘地帯に当たるこの付近では田畑が多く、林は何れも松林になっていました。特に小和田村の林は

一御林七ケ所    小和田村地内

但/字西出口山  壱ケ所/字浪山    同/字稲荷山   同/字伊勢山   同/字西蔵山   同/字東蔵山   同/字浜須賀山  同  木立松

反別四十壱町五反三畝十三歩半

木数三万五千弐百壱本

(「藤沢宿分間書上諸向手控」から、「藤沢市文化財調査報告書 第56集」2021年 藤沢市教育委員会 所収 (26)ページ、一部改行を「/」で置き換え、語順を意味に沿う様に入れ替え、以下「手控」)

と、村民が自由に利用できない松の「御林」が7箇所もあり、林の木を勝手に伐って利用するのは難しい環境にあったことがわかります。四ッ谷のあった羽鳥・大庭・折戸・辻堂の4ヶ村では、「手控」に記された「御林」は大庭村の「大庭山」(恐らくは大庭城址の「城山」を指すと思われる)の杉林のみで、その点では小和田村よりは自由度があったものの、松林では林床に生えてくるものも乏しく、ましてや水晶の様な鉱物資源を得られる土地ではありませんから、数珠に加工するための素材を得るには厳しい環境であったと考えられます。その点で、このジュズダマであれば四ッ谷や小和田周辺でも容易に入手できそうです。


しかし、本草学の書物では

●和漢三才図会(卷第百三「薏苡仁」の項):

本綱薏苡仁所在有之二三月宿(フル)(セ(ママ:ネか))二三尺葉粘黍(モチキヒ)五六月抽紅白花靑白色形如ニシテ珠子(スヽノタマ)而稍長小兒多以(イト)穿ニシテ貫珠(タハムレ)

一種 シテ而殻厚堅硬(カタキ)菩提子也米少粳𥽇也但可穿(ウカチ)念經數珠故人亦念珠

△按…其實靑白色滑カニ形團(チト)白絲三條略乾クトキハ則絲(ヌケ)上下通小兒貫以爲念珠

二種而一種売薄米多一種壳厚米少タリルニ念珠故曰菩提子菩提樹之()同名ニシテ而別也

「国立国会図書館デジタルコレクション」の中近堂版より、但し不明瞭な箇所は「デジタルコレクション」上の秋田屋太右衛門版や東洋文庫版の「和漢三才図会」(18、1991年 148〜150 ページ)を併せて参照、返り点なども同書に従う、「…」は中略、強調はブログ主)

●大和本草(卷四「薏苡仁」の項):

…又菩提子ト云藥ニ不俗用テ數珠トス實少ク味薄シ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)

●本草綱目啓蒙(卷之十九穀之二 「薏苡仁」の項):

…一種ジュズダマ一名ヅシダマ和名鈔スヽダマ豫州ズヾゴ東國ハチコク上總スダメ三州スヾダマ阿州ズヾダマ新挍正野邉荒廢ノ地ニ多シ春宿根ヨリ多ク叢生ス莖葉ハ薏苡ニ異ナラズ子大ニシテ白色光リアリ或ハ黑色或ハ黑白斑駁皆皮甚厚硬擊トイヘトモ破レズ實中ニ自ラ穴アリ穿テ貫珠(ジュズ)トナスベシ小兒採テ玩トス野人用テ馬飾トス是救荒本草ニ載スル所ノ川穀ナリ…

国立国会図書館デジタルコレクションより、強調はブログ主)

とされ、特に「和漢三才図会」の方は「菩提子」と呼ばれる種類の「薏苡」については念珠にすることもあるものの基本的には子供の遊び道具という認識を示しており、「本草綱目啓蒙」も数珠としての用途を書いた直後に子供の遊びに使われていることを挙げています。対して「大和本草」は数珠に俗用されることがあったことのみを指摘しています。こうした違いを踏まえ、江戸時代にジュズダマで作った数珠がどの様な位置付けであったか、更に当時の実情を書いたものを参照していく必要があります。

「和漢三才図会」や「雍州府志」が挙げる数珠の材料が何れも四ッ谷・小和田周辺では手に入りにくいと考えられる中、また大山詣でなどの道中の茶屋で販売して引き合いがあるのであればそれほど高価なものであったとは考えにくい中で、「山踏」の頃に四ッ谷で売られていた数珠が何を使って作られていたのかは、更に可能性を探してみるしかなさそうです。



そして、千尋がこの様子を見て詠んだ和歌にも問題があります。「堀の内道の四ツ谷」ではないけれど数珠玉やたすきを売っているのか、という意味になりますが、この「堀の内道の四ツ谷」とは何処のことでしょうか。

「江戸名所図会 7巻」堀の内妙法寺
「江戸名所図会 7巻」堀の内妙法寺
(「国立国会図書館デジタルコレクション」から)
「東都名所之内 堀之内千部詣」(歌川広重)
歌川広重「東都名所之内 堀之内千部詣」
(「ボストン美術館デジタルコレクション」から)

差し当たって「堀の内道」の候補となるのは、「妙法寺参詣道」かも知れません。多摩郡堀之内村(現:東京都杉並区堀ノ内)に位置していた日円山妙法寺は、江戸時代の後期に厄除けの御利益で知られる様になり、江戸から参拝に訪れる際に青梅街道から多摩郡本郷村(現:東京都中野区本町)の鍋屋横丁で分岐して堀之内村へ向かうこの道が使われる様になりました。

「山踏」の天保6年には、小田原藩士の千尋が江戸詰めになってから既に18年は経過していましたから、江戸 市中での諸事情にそれなりに明るくなっていてもおかしくはないと考えられます。妙法寺についてもその評判を伝え聞いていた千尋が、東海道筋の四ッ谷を詠む際にこの寺のことを思い出したのかも知れません。

ただ、妙法寺へ向かう途上で数珠などを売る店があったとしてもおかしくはありませんが、「四ツ谷」との兼ね合いが良くわかりません。千尋がこの様な歌を詠むからには、「堀の内道」や「四ツ谷」、更には沿道の数珠の店が当時それなりに世に知られていないと、読み手にその意を汲んでもらえなくなってしまいます。しかし、甲州街道の大木戸門があった四ツ谷(現:東京都新宿区四谷)からでは鍋屋横丁はかなり隔たっていますし、他に該当しそうな「四ツ谷」地名の場所は「堀之内道」の沿道には確認できませんでした。何れにしても、この歌に詠まれた場所や店については更に探してみなければなりません。

田村通り大山道の追分に当たる四ッ谷の様子を書いたものは必ずしも多いとは言えない中、「山踏」のこの箇所の記述は貴重な存在と言えるかも知れないものの、この様に疑問点が多く、当時の様子を窺い知る史料として使えるかどうかについては更に他の史料を探してみるしかありません。数珠などの販売がごく一時的なものであった可能性も考えられますが、ひとまずのメモとして書き留めておく次第です。

「山踏」については後日改めて別の場所について取り上げたいと思います。
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南詢病居士=京極高門「湯沢紀行(春の家づと)」より(その3:鎌倉&金沢八景)

前回に続き、、南詢病居士=京極高門(以下「高門」)の「湯沢紀行(春の家づと)」を読み進めていきます。今回も「近世紀行日記文学集成 一」(津本 信博編 1993年 早稲田大学出版部、以下「集成」)に所収されている翻刻に従って読み進めます。

六十余州名所図会 相模 江之島岩屋ノ口
歌川広重「六十余州名所図会
 相模 江之島岩屋ノ口」
高門の「湯沢紀行」から
170年ほど後の姿
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)
酒匂川の川止めのために小田原で2日の滞留を余儀なくされた影響は、やはり後々の旅程に現れてきました。片瀬川を渡った高門は、そのまま江の島へと向かっているのですが、

まさごのうヘ浜辺はる/\゛とみわたさる 舟をよびて江のしまにわたる

蓬島春闌日棹舩上遠林龍池聞気息神窟見淵深碑断千年旧竹願五字吟題望南海月一夜聴潮音

こゝを蓬萊洞といふ (じょ)福の所にあそべりとつたふ

(「集成」108~109ページ、以下も含めルビも同書に従う)

「蓬莱洞」は江の島の岩屋洞窟に当たりますので江の島の奥まで往復したことになります。しかし、江の島の記述はそこで五言律詩を詠んだことまでで、すぐに

それより腰越竜の江などいふ所にいたる 七里が浜(かね)洗沢稲村が崎を過て極楽寺星月夜などとひもて行てみなの瀬川をわたる 今の人あやまりていなせ川なみのせ川などゝいへり するがのまつち山をばたうち山といひすみだ川をはたうち川といひいほはらをいばらといひ大和のとみの小川をとびかはといふたぐひなり いにしヘ此所にて為相卿の詠に

塩よりも霞や先にみちぬらんみなの瀬川の明るみなとは

折にあふ面かげ幽玄に覚え侍り ()瀬の観音大仏などふし拝み雪の下といふ所に宿とひて夕(かれいひ)

(「集成」109ページ)

と先を急ぎながら鎌倉の各所を巡って雪ノ下の宿に着いたことを書いています。該当地不詳の「竜の江」(腰越の満福寺の山号「龍護山」か、「龍口寺」に因んだ話を聞き違えたか)や長谷観音の「はせ」の当て字に、高門がこれらの地についてあまり深い予備知識を持ち合わせていなかったことが窺えます。恐らくこれらの地を急ぎ足で巡りながら、口頭で伝えられた地名や由緒などをそのまま走り書きしたものなのでしょう。

稲瀬川の位置
稲瀬川の位置
(「地理院地図Vector」で作図したものに加筆
地理院地図」で該当箇所を参照)
そうした中で「みなの瀬川(稲瀬川)」についてはその名称の混同について自説を説いていますが、冷泉為相の短歌が念頭にあったが故でしょうか。為相の「塩よりも〜」の歌は「藤谷和歌集(リンク先は「国文学研究資料館」の「館蔵和古書目録データベース」中の該当ページ:3〜4行目)」の中に収められているものですが、高門は若い頃からこれらの歌集に触れていた可能性が高そうです。先を急ぐ道中でも為相の歌が思い浮かぶほどに、高門の中ではこの地に因む重要な人物として彼の頭の中にあったということなのかも知れません。

更に、高門がこの帰路で少なからず焦りを感じていたことが窺えるのが、この夕食の後の行動です。

あすは鎌倉をたつべきなればくれぬ間にとて靏岡に参拝してみてぐらまいらする次に

世とともに森のしめ縄くりかへしいのる千とせは我君がため

三里長松澆露碧千間横檻映霞丹源公

昔日親創建我祖回思在近官

わかとを門祖定綱盛綱高綱など右大将家に供奉したりけることをおもひいでゝ侍り 建長円覚浄智春福の諸刹をとふ 各開山塔を礼す

山の名はとへどしら雲いはかねの松の柱も朽しふる寺

此寺の山陰に実朝公の御廟ありと問しほどにたづねてまいる 夕月ほのかにさしいでゝ落花みちふみ分がたし

散埋む苔地の華に夕月夜おぼつかなしやのこる古塚

かへさ木ぐらくてたど/\゛し あないもいかゞと雪の下のやどりにかへりて夜もすがらあらしを聞あかす

嵐吹花を一夜のかり枕明てふみみる雪の下道

(「集成」109~110ページ、…は中略)


京極高門が夕餉後に訪れた寺社
京極高門が夕餉後に訪れた寺社
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
Minamoto-no-Sanetomo's-cenotaph.jpg
寿福寺の源実朝墓所
Tarourashima - 投稿者自身による作品,
パブリック・ドメイン, Wikimedia Commonsによる)
高門が夕食を摂った時にはまだ日は沈んでいなかったことが、最初の「くれぬ間にとて」という表現でわかりますが、その後日没で閉門してしまうまでの間に大急ぎで鶴岡八幡宮や建長寺、円覚寺、浄智寺、そして「春福」は恐らく「寿福寺」のことかと思いますが、鎌倉五山を可能な限り巡っています。鶴岡八幡宮では短歌と七言絶句を、それ以外の寺では(上記引用では省略しましたが)七言絶句を1首ずつ詠んでいます。更に寿福寺には北条政子の、そして源実朝の墓所とされる「やぐら」があり、周囲が暗くなる中を場所を問い合わせながら訪れ、1首詠んでいます。そこで日が暮れて諦めて宿に戻っていますが、雪ノ下から最も遠い円覚寺まで2kmはありますし、間には巨福呂坂の切通もあって平坦な道筋ではありませんから、その間の道筋も考えると体の弱い高門には相当にきつい寺社仏閣巡りになったのではないでしょうか。

この晩から天気が悪くなってしまった様で、雪ノ下の宿に戻って嵐の音で寝付けぬ一夜を過ごしたことを歌に詠んでいます。前々日も波の音で寝付けぬ一夜を過ごしていますから、どうもこの帰路は熟睡できない夜が多かった様です。

翌朝、まだ見残した箇所があるからと再び建長寺に立ち寄って再び七言絶句を2首詠み、更に法華堂(源頼朝墓所があるとされる)で和歌1首、報国寺と浄妙寺で七言絶句を1首ずつ詠みつつ金沢へと向かいます。いわゆる「鎌倉五山」には時間がない中でも曲がりなりにも一通り足を運んだことになります。

雨ふりいでゝ道もしみつく計なり 朝比奈の峠坂(たうげざか)といふを過て六浦(むつら)の里なり 鳥井に正一位大山(おほやま)(づみの)神宮と額あり 旧記には瀬戸の三島大明神とみえたるよし ある人の申き いにしへ伊豆より勧請しけるとなん 能因法師が神ならば神とよみしは伊予の三島にての事などおもひいでゝ

爰も又大山つみの神垣にあまくだります跡やへだてぬ

金沢の旅店にてひる過るまでやすらふ 兼好が詠草に比所にむかしすみし家のいたうあれたるにとまりて月あかき夜ふるさとのあさぢの庭の露の上にとよめり 兼好すみなれし所にや宿はいづくともしらず 神社などにてやありけらし それより称名寺をたづねけれどおぼつかなくて能化堂のほとりまでたどり行て筆捨松とかいへる木陰にしばしたゝずむ 雨にかすみて島々にもみえず 塩やくけぶりもなし

もしほやくけぶりも浦の遠島もたゞ春雨にかすむ夕浪

立かへりて称名寺に詣ず 楼門の金剛力士世にたぐひなき形像にて威神あり 本堂にのばりて念誦(ねんず)す いとたうとし 経蔵文庫おもかげ斗のこれり 青葉の楓若ばやはらかにもえいづ みぬ人のためとてみつばよつば袖にこぎ入る

今も猶そめぬしぐれのふるごとを此一本の青葉にぞ思ふ

それより山路をはる/\゛分てくらきにほどがやのすくにいづ こよひは此所にやどりてあすは江府にかへらんとて人々よろこびあへり

(「集成」111~112ページ)


高門が訪れた金沢の名勝
高門が訪れた金沢の名勝
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「新編鎌倉志」卷之八 能見堂所見図
「新編鎌倉志」卷之八 能見堂所見図
(「国立国会図書館デジタル
コレクション
」の
画像ファイルに矢印・説明加筆)」
「大山積神宮」が旧記には「三島大明神」と記されているというのは、現在の「瀬戸神社」の主神が大山祇命(おおやまつみのみこと)であることから、この頃にはその名を扁額に掲げていたのでしょう。後年の「新編武蔵風土記稿」でもこの扁額のことが記されています(卷之七十四「社家分村寺分村平分村」中の「瀨戸明神社」の項)。ここで短歌を一首詠んだ後、その近くの茶屋で昼休憩を摂りながら、吉田兼好がこの金沢の地に住んでいたことに思いを馳せてその場所が何処であろうかと書いています。一説ではこの地の上行寺の境内で草庵を営んでいたとも言われており、「新編武蔵風土記稿」の同寺の項(卷之七十四「社家分村寺分村平分村」中)にも「吉田兼好寓居蹟」について記されていますが、高門はその説については知らなかった様です。「新編鎌倉志」も「兼好、遁世の後暫く此所に居たるとみへたり。今其舊跡さたかにしれる人なし。」としているため、あるいは江戸時代初期には旧跡の地を上行寺境内とする説はまだ無かったのかも知れません。

その後称名寺に向かうつもりが道を間違ってしまって向かった先を「能()堂」と書いていますが、その近くに「筆捨松とかいへる木陰」があることを書いていますので、これは「能(けん)堂」のことでしょう。「新編鎌倉志」では「能見堂」について「里俗は、のつけん堂と云。」(以下も含め引用は卷之八、雄山閣版より)と記していますので、現地で訊いた名称を正しく聞き取れなかったのかも知れません。

ここからの眺めについて雨中のために藻塩焼きの煙も見えないことを言っているのは、「新編鎌倉志」に「此西の鹽燒濱を、釜利谷(カマリヤ)と云。」と記されていることに対応します。但し、以前も触れた通り「新編鎌倉志」の版本が世に出るのは「湯沢紀行」の翌年ですので、高門が何らかの方法で出版前の「新編鎌倉志」の内容に振れる機会がない限り、高門の藻塩焼きに関する知識は「新編鎌倉志」以外から得たことになる筈です。実際、「能見堂」の名前を間違っていたり、「筆捨松」について現地でその名を聞き及んだ様な記述をしていることからも、この時点では高門は金沢についてはまだ断片的な知識しか持ち合わせていなかったのではないかと思われます。また、「新編鎌倉志」が「金沢」に「カナザワ」とルビを振っているのに対し、高門は古来地元で呼び慣わされていた「かねざわ」とルビを振っている(111ページ)点も、高門と「新編鎌倉志」の関係を考える上では注目すべき点と考えます。

能見堂から称名寺へは、「立かへりて」と書いていることから一旦茶屋付近まで戻ったものと見られます。時間がない中敢えて遠回りになる道を辿らざるを得なかったのも、それだけ不案内な中で確実な道を選ばざるを得なかったからでしょう。今も残る仁王門を経て本堂に詣でた後、「経蔵文庫」を訪れて「おもかげ(ばかり)のこれり」と言っているのは、恐らくは今の「金沢文庫」のことと考えられます。「新編鎌倉志」でも

金澤文庫舊跡 …其後は頽破して書籍皆散失す。一切經の切殘たる、彌勒堂にあり。

としていますので、「経蔵」としているのは残存している経典を指して呼んだものでしょう。

以前も書いた通り、高門は後に金沢八景の各所で短歌を詠んでおり、それが歌川広重の金沢八景図に取り上げられています。
  • 洲崎晴嵐(洲崎神社)

    にきはへるすさきの里の朝けふり はるゝあらしにたてる市人

  • 瀬戸秋月(瀬戸神社)

    よるなみの瀬戸の秋風小夜ふけて 千里の沖にすめるつき影

  • 小泉夜雨(手子神社:小泉弁財天)

    かぢまくらとまもる雨も袖かけて なみたふる江の音をぞおむふ

  • 乙艫帰帆(海の公園より内陸の寺前地区の旧海岸線)

    沖つ舟ほのかにみしもとる梶の をともの浦にかへるゆふなみ

  • 稱名晩鐘(称名寺)

    はるけしな山の名におふかね沢の 霧よりもるゝいりあひのこゑ

  • 平潟落雁(平潟湾)

    跡とむる真砂にもしの數そへて しほの干潟に落る鴈かね

  • 野島夕照(野島夕照橋付近)

    夕日さす野嶋の浦にほすあみの めならふ里のあまの家々

  • 内川暮雪(内川入江(能見堂の解釈)または瀬ヶ崎から九覧亭にかけての平潟湾(金龍院の解釈))

    木陰なく松にむもれてくるゝとも いざしらゆきのみなと江のそら

天明甲辰秋七月、擲筆山地蔵院現住來仙再刻

(「金沢文庫特別展図録 金沢八景―歴史・景観・美術(以下「図録」)」1993年 神奈川県立金沢文庫 166ページより、括弧内の該当地はWikipediaによる)


その歌は「金沢八景詩歌案内子」という冊子に東皐心越の七言絶句と共に掲載されていますが、この冊子は横浜市立図書館デジタルアーカイブでPDFの形で公開されています。この冊子について、「図録」では

東皐心越の漢詩と無生居士(京極高門)の和歌を並べて収録したもの。框郭(18.4×12.3)を施した、表紙を含め全四丁の小冊子。『金沢八景案内子』と合綴されているものが多い。十八世紀には初版が刊行されていたようであるが、現存するものは天明四年(一七八四)の再刻本と天保十二年(一八四一)の再々刻本である。内容に異同はない。八景の詩歌として最も流布したもので、広重大判の「金沢八景」に刻まれる和歌もこれを出典とする。金沢八景の配列も多くはこれに従っている。

(153ページより)

としています。この冊子が最初に出版された時期が不明であることによって、高門がこれらの和歌を詠んだ時期が明確に特定できていない状況が仄めかされています。実際、高門が何時どの様な経緯でこれらの和歌を詠んだのか、詳らかにする研究を私は今のところ見つけられていません。

「湯沢紀行」で詠まれた金沢での短歌は何れも後の「金沢八景詩歌案内子」のそれとは合致しません。従って高門は「湯沢紀行」の後改めて金沢を訪れて「金沢八景詩歌案内子」の8首を詠んだことになります。実際、「湯沢紀行」で詠まれた3首は何れも「八景」の「題目(「称名晩鐘」「瀬戸秋月」「内川暮雪」の様な)」に沿ったものにはなっていません。「金沢八景」に繋がる最初の例とされる三浦浄心の「順礼物語」は寛永年間(1624~44年)の刊行ですので、「湯沢紀行」はそれより60~40年ほど後にはなりますが、東皐心越の金沢八景の七言絶句は「新編鎌倉志」に則って元禄7年(1694年)に詠まれていますので「湯沢紀行」の後ということになります。浄心の著作に高門がどれほど触れていたかは未知数ですが、「湯沢紀行」に見える高門の知識がまだ断片的であることから考えると、高門が浄心の著述を念頭に置いていた可能性は薄そうです。その点も含め、この時点での高門はまだ「金沢八景」について詠ずるほどには金沢への思いを深めて訪れたのではなかったのではないかと思えます。

その一方で、高門が後年の「金沢八景」に繋がる知識を得ていた点が既にこの時点で垣間見えるのも事実です。この点について、「サムライの書斎 江戸武家文人列伝」(井上 泰至著 2007年 ぺりかん社)では

八景が和歌の世界に取り上げられるようになるのは、冷泉為相(ためすけ)からで、後世への影響力も大であった。高門の紀行にも関東に地盤を持った為相と周辺の人物への関心がほの見える。金沢称名寺(しょうみょうじ)青葉の楓、鎌倉浄光明寺の為相塔、藤谷(ふじがやつ)の屋敷跡、英勝寺近辺の阿仏尼(あぶつに)卵塔(らんとう)に言及、みなのせ川・片瀬川では為相詠、極楽寺月影の谷・逆和(さかわ)(酒匂)川では『十六夜日記』を想起している。それは又、高門が紀行を書く際、これら中世の歌文・紀行を範とした証でもあろう。鎌倉の名の濫觴鎌倉山稲荷・みなのせ川の同定には、『新編鎌倉志』からの孫引きではあるが、尭恵(ぎょうえ)『北国紀行』が、酒匂川の名の由来の考証には『海道記』が引かれている。

(上記書59ページ、ルビも同書に従う )

と、冷泉為相の影響を見出しています。小田原の浜辺で瀟湘八景に思いを至らせたのも、為相の影響が既にあったが故と考えて良さそうです。

とは言え、「湯沢紀行」の際には酒匂川の川止めの影響で日程が短縮してしまい、金沢には半日ほどしか滞在出来ずに保土ヶ谷へと去らざるを得なかった上に、折からの雨で遠景を楽しむことが出来なかったので、この時には金沢について思いを深めるにはあまりにも消化不良の旅路に終わってしまったのは確かでしょう。伊豆大島の噴火を見つつも瀟湘八景のことを考えてしまったのは、大島の実情についての情報不足と前回分析しましたが、2日も足止めを喰ったことへの焦りも大いに加わってのことだったかも知れません。



今回は「春の家づと」の部分の分析で終わってしまいましたが、何時か「湯沢紀行」の全文を目にする機会があれば、高門が江戸を発ってから箱根で湯治するまでの様子についても読み込んでみたいと思います。
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