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「道中記・紀行文」カテゴリー記事一覧

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その6)

前回は以前作成した地図などの修正を行いましたが、それは松浦武四郎の紀行文「東海道山すじ日記」(明治2年・1869年、以下「日記」)の先日の続きを取り上げる際に、これらの修正箇所が影響するからです。今回は善波峠以西の区間を取り上げます。



善波峠を越えた武四郎一行は、その先で十日市場(現:秦野市本町・元町等、「本町四ツ角」交差点周辺)と千村(ちむら)(現:秦野市千村)で荷物を継いでいます。十日市場を出た先の道筋について、「日記」には次の様な記述があります。

是より上道、下道有。其下道は山坂は無れども道遠き故に近道の方を行に、澤まゝ細道を上りて一り

(「日記」ページより)


曲松からの2種類の矢倉沢往還の道筋
曲松からの2種類の矢倉沢往還の道筋
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

県道708号線・渋沢神社付近
左手の道がかつての小田原道・矢倉沢往還の「下道」と
考えられるが、県道ともかなりの上り坂
ストリートビュー

善波峠を越えると、矢倉沢往還は秦野盆地の中へ入ります。十日市場も千村も秦野盆地の中に位置しますが、先日の修正で示した通り、十日市場から秦野盆地を抜ける道筋は2通りあります。1つはこの「日記」で辿った千村を経て四十八瀬川(川音川)沿いに降りて神山(こうやま)(現:足柄上郡松田町神山)へ向かう道であり、もう1本は曲松(まがりまつ)(江戸時代の渋沢村の小名、現:秦野市曲松)で南に曲がり、「小田原道」を経由して篠窪(現:足柄上郡大井町篠窪)に入り、そこから神山へと下る道です。

「日記」ではこの篠窪経由の道を「下道」と呼び、山坂はないが遠回りであると評されています。この評価は地元の人足などのものということになるでしょう。「新編相模国風土記稿」では

一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、幅九尺より一丈に至る、

(卷之十二 足柄上郡卷之一 雄山閣版より、強調はブログ主)

と、篠窪経由の道は四十八瀬川(川音川)が増水して通行不能になった時の道であるとされているのですが、「日記」の書き方に従えば必ずしもその様な使い分けではなく、単に急坂を避けたいかどうかで使い分けていたことになります。千村を経由する道については「上道」と呼んでいたことになりますが、先を急いでいたと思しき武四郎一行はこの「近道」を行ったことになります。

もっとも、秦野盆地から篠窪の集落へと抜けてくるまでの道筋、更にその先で神山へと下る道も十分に「山道」と呼べそうな傾斜のある道ではあるのですが、当時の現地の人の感覚ではさほどの坂道ではないと受け取られていたのでしょうか。比較の対象になりそうなのは千村から先の四十八瀬川へ降りる「つづら折り」の坂(リンク先「今昔マップ on the web」)ということになりそうですが、「日記」からはそこまでの坂とは武四郎に受け取られなかった様に見受けられます。



千村へと登る坂の麓付近の様子
この付近には沢があったことを示すものは見当たらない
ストリートビュー

矢倉沢往還沿いのごく細い流れ
この道を東へ辿ると上今川町の辺りにも
開渠があって水無川への合流が見えるが
地形図上では反映されていない
(「地理院地図」より)

また、「澤まゝ細道を上りて」は千村に到着する前の様子を書いていることになるのですが、曲松の分岐を過ぎると確かに上り坂があるものの、その麓には沢は見当たりません。過去の地図でもこの坂の近くに川筋は描かれていません。「沢まま細道」の「まま」とは、恐らく「(まま)」の意と思われ、沢沿いを進む道であったということと解釈出来ます。それに近い川を探すと、秦野盆地の中央部を流下する「水無川」に合流するごく細い流れが、かつての矢倉沢往還の道筋と付かず離れずの位置に点在しており、その前後は道路の下辺りを暗渠になって流れていると考えられます。武四郎が言っているのは、あるいはこうしたごく細い流れのことなのかも知れません。

現在では大半が暗渠化されてしまっていて、当時の様子を窺うのが難しくなっていますが、過去の空中写真を検討した限りでは、現在の「保険福祉センター前」交差点西側の三叉路辺りから上流はかつての矢倉澤往還には沿わずに北側に逸れている様に見受けられます。その点で、「日記」の中ではごく短い表現に縮小されているものの、実際はかなり離れた複数の沿道風景が1つにまとめられていると考えられます。

この坂を上がった場所にある千村については、「日記」では肥えた土地であり、人家も富んでいることが記されています。その先の道筋については

是九折を下ること凡半里と思ふて川筋に出て、茶店一軒。山稼の者住するよし。此川の此方彼方をたどり下る。是を四十八瀬と云よし一里

(「日記」650ページより)

と、つづら折りになった道筋を降りて四十八瀬川の畔に出ると、その途中に山稼ぎをしている人が営む茶店が1軒あったことを記録しています。ここまで「日記」ではこうした沿道の施設について継立場以外では積極的に記していませんが、ここで敢えて茶店の存在を記したのは、沿道の風景が山間のものに変化したことを意識しているのでしょうか。



千村の次に武四郎は「神山」で荷物を継いでいます。武四郎は水田が多い村としていますが、山がちな地形から見て実際に水田が作れるのは川音川の周囲だけでしょう。継立を行っているのは名主家であることを記していますが、ここで「日記」には継立の運用について次の様に記されています。「その2」で既に一度引用していますが、改めてその箇所を掲げます。

近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

(「日記」650ページより)

この部分の意味する所を次に考えてみたいと思います。

神山や松田の矢倉澤往還の道筋や継立については、地元でかなり積極的に研究されており、先日紹介した「善波峠〜足柄峠 矢倉沢往還ウォーキングガイド」のみならず、「松田町史」に相当する「まつだの歴史」(1977年 松田町)など、折に触れて出版物にて紹介されて来ています。その研究成果を「日記」の記述と照らしてみましょう。


神山のかつての継立場付近(ストリートビュー

町屋のかつての継立場付近(ストリートビュー

まず確認が必要なのは、松田惣領の字町屋は惣領の本村とは離れた場所にあったということです。本村は川音川の北側、町屋は神山と同じ南側にありました。そして、矢倉沢往還の継立は次の様に神山と町屋が受け持っていました。

神山村と松田惣領は当時、この矢倉沢往還の継立村に定められており、神山村は字清水が、松田惣領は字町屋がそれを行っていた。次の史料はこの神山村のものである。

一 村高家数其外(そのほか)書上の内

脇往還、青山筋より矢倉沢街道

右御継送りの義は、御先触これあり候節は、曽屋村より千村へ継立、千村より当村へ受取、(それ)より関本村へ継立(きた)り申候

右御尋付、書上(たてまつ)り候ところ、相違なく御座候、以上

嘉永三戌年六月  神山村

百姓代 徳右衛門(印)

(以下略)

この神山村の書き上げにもあるように、清水は上り、町屋は下りの継立をそれぞれ行っていたが、幕府滅亡の慶応三年(一八六七)八月公用人馬の継立が次のように改定された。

一 御朱印・御証文人馬上下とも継立の儀は神山村の名目にて御帳面相記(あいしる)し、かつ御役所へ届相なり候儀は、これ又神山村にて(つかまつ)り、人馬遣い方は神山村と町屋にてこれを相分け勤方いたすべく候、御朱印御休泊の分同断(どうだん)にいたすべく候、

この史料によれば、公用人馬の継立や休泊は上り下りともに神山村の名目で行い、人馬の提出や諸経費にっいては両村(清水・町屋)でこれを分担していたのである。

(「まつだの歴史」146〜147ページより、ルビも同書に従う、一部改行略)


「まつだの歴史」では引き続いて安永年間の私的継立や駕籠の運用を巡る両継立場の取り決め等について紹介していますが、これらの記述からは、神山と町屋の間では継立を巡って運用の調整が幾度となく行われていたことがわかります。

「日記」の最初の記述は継立の運用の変更に触れていますから、神山と町屋の間での継立を巡る運用調整の経緯について、何かしらの説明を武四郎が受けたものとは考えられます。しかし、「近年迄向なる松田村と云にて繼立し由」は、京へ向かう継立は上りに当たりますから、武四郎一行の荷物は運用変更前も神山で継いでいだ筈であり、その点では武四郎は運用の実態を必ずしも理解出来なかったことになります。

一方、幕末の頃には松田惣領内でこんな諍いもありました。

「[足柄]上郡誌」の伝記部に、か[ママ]ての足柄上郡長であった中村舜次郎氏の伝記が載せられている。その文中に、同氏が十六オの時、神山村・町屋の人々と、松田惣領の本村部の人々との間で、青山街道といわれていた往還の本筋はどちらが正しいかという争論が起こり、これが大事件となったことが記されている。年数から数えると、文久三年(一八六三)のことである。

この街道の経路について、町屋の人々は、字下ノ茶屋より神山・町屋を経て十文字渡場に至る路線が本街道だといゝ、松田本村の字川内・大門・谷戸・沢尻などに住む人々は、下ノ茶屋より直に川内・大門・沢尻・大文字と来るのを本道と主張した。そこで結着を小田原藩に訴えて求めたが、本村部の申し立ては元よりとおらない。そこで彼らは江戸へでて直訴しようとして十六オの中村氏の同行を同氏の父に強く要求したが容れられなかった。結局、江戸へでて直訴に及んだ主謀者たちは捕えられ、藩に下げ渡され、二年も取調べもなく牢獄に幽囚されたまゝであったという事件である。

井上氏は、この事件の発端を、「本道争論」といっても名称の奪い合いでないことは明白であり、同時に幹線道路としてのあり方から起こったけんかでもなく、酒匂川の流路の変更や十文字渡し場の少しずつの移動という自然の変化に伴って、少しでも便利な道が生まれ、これによって、おのずと古い道によって繁栄して来た人と、新しい道をより多くの人々の往来によって賑やかにしようとつとめる人々との対立という経済的要因に見出されている。そしてそれは、十文字渡しを渡って小田原道を通り、今の新松田駅前から「お観音さん」の所に出る道で、こゝから籠場に出る近道がおのずと発達したのである、といわれている。

(「まつだの歴史」146〜147ページより、…は中略、[ ]内はブログ主注)


1863年ということは、諍いがあったのは「日記」の6年前ということになりますから、関係者の間でもまだ記憶に新しい騒動として記憶されていたでしょう。「日記」ではこの話には触れてはいない様にも見えますが、「松田村」の位置を「向なる」と書いているのが気になります。継立場のことを言っている以上は町屋を指す筈と思うのですが、神山から少し道を進んだ場所にある町屋の集落を「向なる」と表現するのも少々不自然であり、もしかすると川向かいに位置する松田惣領本村を指すつもりで書いたのかも知れません。だとすると、あるいは武四郎はこの騒動についても話を聞かされていたのかも知れません。

他方、「南足柄市史」(1999年)では上記とは別に「峰通り」という脇道の存在を紹介しています。

「峰通り」は、矢倉沢関所の下手に位置する苅野一色村から怒田丘陵に上がり、内山・小市・班目の各村を経て酒匂川左岸へと渡り、川村向原から松田村を抜けて矢倉沢往還の十日市場(秦野市)へと至るバイパスルートで、この道が利用されるようになると、関本村は道筋からはずれてしまうこととなり、駄賃稼ぎや宿泊料収入によっている同村の経営は大打撃を受けることとなるわけである。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ 自然・原始・古代・中世・近世」542ページより)


そして、江戸時代中この「峰通り」の通行を取り締まる様に、関本が小田原藩に訴え出た事例が2点ほど紹介されています(同書542〜544ページより)。これに対して小田原藩は明確な解決策を示さなかったため、関本が見張りを立てていてもこの道を抜けて行こうとする人足が跡を絶たなかった様です。

「南足柄市史6 通史編Ⅰ」p542-図3-3
「峰通り概念図」
(「南足柄市史6 通史編Ⅰ」ページより)
右は「南足柄市史」に掲載されている「峰通り」の大まかな経由地を記した概念図ですが、明治時代初期の地形図上でこの道筋を具体的に特定するのは意外に難しく、恐らくは分岐が多く現地の人が案内しなければ迷ってしまうような道筋であったのだろうと思われます。「日記」の「按ずるに」以下の記述は松田から直接矢倉沢へ向かうことについて書いており、これはこの「峰通り」を経由した場合に良く合致する考察ではあります。とは言うものの、「峰通り」はそもそも公の継立を通す道筋として認められてはいませんでしたから、近年まで松田村で継立をしていたという前段の話とは噛み合いません。

以上、松田付近の道筋や継立の運用にまつわる話を一通り紹介しましたが、どの話も「日記」の記述とは上手く噛み合わないことになります。これも武四郎の理解が混乱してしまったものと考えられますが、少し不思議な箇所があります。

ここまで見て来た通り、上記の一連の話を初めて訪れた人に理解してもらえる様に話そうとすると、かなりの時間が必要になる筈です。「日記」がここまで道中の様子について専ら見聞を記す表現に徹していたものが、ここで初めて「按ずるに」という私見を述べる表現を用いており、自分なりに状況を咀嚼しようとしていることからも、ここで相応量の情報を得ている筈と考えられます。

基本的に先を急いでいる武四郎相手に、荷物を担いでいる人足が、この様な入り組んだ話を歩きながらするだろうか、という点が疑問です。また、こうした事情をきちんと整理して理解しているのは、どちらかと言えば村役人などの首脳クラスでしょう。

とすると、この話は継立場で村名主から聞かされた可能性が高くなりますが、先を急いでいた武四郎一行が、それほどの長時間を継立で荷物を受け渡したりするために過ごしたとは考え難いところです。無論、わざわざこうした事情について名主に訊くために時間を割いたと考えるのも不自然です。

但し、ひとつ考えられることがあります。実は武四郎一行は2日目のこの日は最終的に足柄峠を越えた先の竹之下(現:静岡県駿東郡小山町竹之下)まで進んでいるのですが、「日記」ではこの日の昼食を摂った場所の記述が見当たりません。初日は長津田で昼食を摂ったことが明記されていますから、2日目に関しては書き漏らした様です。

この先では次第に山が深くなることもありますので、その前に昼餉を済ませておきたいところです。その点では、2日目に厚木を発って神山まで7里余りを進み、この先竹之下までもやはり7里余りを残す丁度この辺で昼食を摂るのが、一番頃合いが良さそうです。それであれば、名主の家でじっくり食事をしながら、神山や町屋、松田惣領本村を巡る継立事情などを時間をかけて聞かせてもらったとしてもおかしくなくなります。「日記」の記述が結果的に長めになったのもその点を反映したものではないかと個人的には考えています。ただ、それでも初めて訪れた土地の事情をその場の話だけで理解するのは、難しかったのかも知れません。



次回で相模国域の記述についての分析を終える予定です。
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【道中記・紀行文】にまつわる記事一覧

各種の道中記・紀行文に基づいて書いた記事がかなり溜まってきたので、それらの記事を俯瞰してアクセス出来るような一覧を作っておこうと思い立ちました。

ここでは、あくまでも個々の道中記・紀行文を軸にして組み立てた記事のみを一覧に含めました。それ以外にも記事中で道中記や紀行文を引用したものは多数あるのですが、煩雑でわかりにくくなりそうなので割愛しました。これら引用が含まれる記事へのアクセスを考え、道中記や紀行文の表題による検索結果(表題では上手くヒットしない場合は作者名による検索結果)へのリンクを最後に付加しました。何れにせよ、道中記や紀行文を素直に頭から順に解説する様な記事がなく、これらの中に登場する周囲の景観や産物などを選り出して解説するといった体裁の記事ばかりになっていますので、その点は予めご了承下さい。

カテゴリーに「道中記・紀行文」を用意していますが、以下の記事は必ずしもこのカテゴリーに分類されている訳ではありません。基づいた文章には、いわゆる「道中記」や「紀行文」ではなく、日記などに分類すべき文章であっても、旅路の様子を記録したものについてはここに含めました。

以下の一覧は、基本的には、道中記・紀行文が成立した年の順に並べていますが、「慊堂日暦」の様に複数年に亘っている文章については、基にした箇所の年のうち、最も古い年を基準にしています。それぞれの道中記・紀行文には、記事を作成する際に参照した文献を示しました。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その5)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は国分以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



武四郎は旅の初日に長距離を進み、「その1」で見た「厚木の渡し」を渡って厚木(現:厚木市厚木町、他)の街に入ります。この街について「日記」には

三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、ルビも同書に倣う、以下の「日記」引用も同書より)

と記されています。

渡辺崋山の「游相日記」では、崋山はこの街に数日間留まって、街の有力者などと連日会ったり写生に出かけたりした様子を詳しく書いています。それに対して武四郎の場合は西への旅路を急ぐ中での1泊ですから、この街の様子を自分の目で見て廻ったと言うよりは、多くは宿泊先で聞いた情報を書き記している様で、伝聞を示す語尾が目立ちます。「三千軒の市町」というのも、「新編相模国風土記稿」では実際の家を「三百三十戸他長吏八戸」(卷之五十五 愛甲郡卷之二)と「日記」の10分の1程度の数を示していますから、地元の人が誇張して武四郎に伝えたのでしょう。

実際、武四郎は翌朝も宿を急ぎ発って更に矢倉沢往還を進みます。厚木からは一旦岡田(現:厚木市岡田)まで南下した後、西へ折れて愛甲(現:厚木市愛甲東)へと向かいます。愛甲村では農家ばかりで荷継は名主家で行ったことを記したのに続き、「日記」には次の様な記述が見られます。

按ずるに厚木より糟谷に行には此處までは下らず。直道を船子村え切り候はゞ餘程近くぞ覺ゆ。

(「日記」649~650ページより)


土地勘がない武四郎にも、西に向かう前に南下して幾らか遠回りをしていることに、朝日や並行している相模川の位置などで気付けたでしょうから、もっと近道があるのではないかと彼の荷物を担いでいる人足に話しかけたのかも知れません。一方、船子村(現:厚木市船子)の名前は流石に武四郎が知っていたとは考え難く、恐らくは人足から伝え聞いたのでしょう。街道の周囲が水田であったと「日記」にも記されていることから、遠方まで視界を遮るものが殆どなく、あるいは街道から船子村の集落が水田越しに見えていたかも知れません。

厚木付近の国道246号線の変遷
厚木付近の矢倉沢往還→国道246号線の変遷
青線:かつての矢倉沢往還の道筋 黄色線:旧246号線の道筋
橙色線:現在の国道246号線(大和厚木バイパス)の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地(リンク先PDF)」を合成しているが、水田を示す黄色が大きく拡がっている)
「今昔マップ on the web」で同地の地形図や空中写真の変遷を見る

実際、明治初期に編纂された「迅速測図」で見ても、厚木村の西側は広大な水田地帯になっており、ここを抜ける道は畦道としてはあったと思われるものの、旅人や荷継などが通過するには足下が十分ではないぬかるみやすい道筋であったのでしょう。「その1」で取り上げた十文字の渡しから関本へ至る道筋の様に継立の抜け道として使うには、整備が行き届いていなかったであろうと考えられます。

かつての矢倉沢往還は昭和31年(1956年)国道246号として指定されますが、厚木付近はその後の整備によって道筋が大きく変わり、船子の地を通過する様に付け替えられました。「日記」からは実に80年以上の歳月が過ぎていました。武四郎が連れの人足と語り合ったのであろう「船子経由の近道」は、図らずも遠い将来の国道の通過地を「予言」する形になりました。

これが実現するためには、一帯の水田を埋め立てて市街地へと大規模に作り替える再開発計画を、待つ必要があったということになるのでしょう。過去の地形図や空中写真で変遷を追うと、国道246号線が最初に船子を経由する様になった1960年代には、一帯にまだ広大な水田が残っていたものの、大和厚木バイパスが開通した1970年代には、周辺が急速に市街地に切り替えられているのがわかります。現在では、旧246号線が恩曽川と並行して進む厚木市温水(ぬるみず)の「赤羽根」付近では水田が僅かに残っているものの、現在のバイパス周辺にかつての水田地帯の面影を探すことは、殆ど不可能になっています。



File:Tokaido07 Hiratsuka.jpg - Wikimedia Commons
宝永堂版「平塚:縄手道」
高麗山の丸い特徴のある形が強調されている
当時の浮世絵で平塚宿を描く場合
かなりの確率で高麗山が取り上げられている
(By 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido,
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons
Mt.Komayama(高麗山).JPG
現在の高麗山(2006年撮影)
独特の山体は現在も当時のまま
(By FlyMeToFullmoon(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく)
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons

その愛甲からは、

爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

(「日記」649ページより)

と、東海道の平塚宿の西に位置する高麗山(こまやま)が比較的近くに見えると書いています。この山については、善波峠の記述でも

此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、

(「日記」650ページより)

と、馬入川(相模川)から高麗山を経て大磯や国府津までの遠景を一時足を止めて眺めていた様です。


矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
愛甲から高麗山までは直線距離で約10km、善波峠からは9kmほどと、どちらもそこまで「近い」と言える距離だったかは微妙なところです。それでも、武四郎の目には「高麗山」の姿は容易に目に付いたのでしょう。彼自身は郷里である伊勢・松阪から東への往来などで、大磯宿から平塚宿付近を通過する際にこの山の姿は何度となく目にしているであろうものの、それらは何れも南側から、そしてかなり近くからの姿であった筈です。それに対して、「日記」の際の「高麗山」の姿は北側から、それもかなり離れた場所から眺めたものとなり、勿論武四郎には初めて見るものだったでしょう。それでも武四郎に「あれが『高麗寺山』か」と認識させる程度に、高麗山の位置と形は独特のものであったということが言えます。

彼にとっては、不慣れな道を急ぐ道中にあって、通い慣れていたであろう東海道との位置関係を認識し得るひと時ではあったでしょう。同行する人足からのアドバイスも受けた可能性もありますが、「高麗山」の独特の姿や位置は、その位置関係を彼に容易に知らしめる役目を果たしたと言って良さそうです。



下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
参考のために「田村通り大山通り」を追加
(「地理院地図」状で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

下糟屋・高部屋神社とかつての矢倉沢往還
当時の集落はこの辺りに集中していた
ストリートビュー

愛甲を出た武四郎が、「その2」で取り上げた善波(現:伊勢原市善波)で荷を継ぐまでの間に、「糟谷」(下糟屋、現:伊勢原市下糟屋)と「神渡」(神戸(ごうど)、現:伊勢原市神戸)の2箇所で継立を行っていることを記録しています。どちらも大山詣での頃には賑わうことを記しています。

しかし、この区間の継立村は、他の史料で確認する限りでは若干異なっています。まず、「新編相模国風土記稿」で各村の記述を拾うと次の様になっています。

  • 下糟屋村(卷之四十四 大住郡之三):

    脇往來四條係れり、大山道幅二間下同矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、

  • 伊勢原村(卷之四十六 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 神戸村(卷之五十 大住郡卷之九):

    往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、

(以上何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


見ての通り、ここに挙げた3村は何れも矢倉沢往還の他にも主要な道が通り、交通の要衝となっていたことがわかります。とりわけ伊勢原(現:伊勢原市伊勢原)は大山詣でに向かう中継地として特に賑わった地であり、継立でも要衝となっていたことが示されています。しかし、「日記」では伊勢原の名前は出て来るものの、この街については特に何も記されておらず、継立についても記載はありません。また、「日記」で継立を行ったとしている神戸については、通常は継立場ではなく、公儀の継立の際にのみ人馬を出していたとしており、その点では公儀とは言えない武四郎一行が神戸で継立を行っている点と整合しないことになります。

また「風土記稿」の記述自体も、下糟屋村の記述では同村からは伊勢原まで18町、つまり半里(約2km)を継ぐとしているのに対し、伊勢原村の記述の方は同村から江戸方の継立先は愛甲としており、下糟屋村の記述と噛み合いません。こうした不整合は特に大住郡の街道の記述に多く、恐らくは村からの報告をほぼそのまま記したのでしょうが、これをどの様に解釈すべきかも課題となってきます。

一方、「その3」でも紹介した、天保9年(1838年)の「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307~310ページ)で、この区間の記述は次の様になっています。

嶋織部知行所外弐給/同州愛甲郡愛甲村

一高九百五拾九石余

月番/名主/定七

内高弐百弐拾壱石/戸塚宿へ助郷相勤申候、

此間粕屋村有り

伊勢原迄壱里

飯河三郎知行所/同州大住郡伊勢村(原脱)

一高四拾七石

月番持/組頭/善兵衛

善波村迄壱里

伊勢原ゟ善波村之間/板戸・白根・神戸

田原清之丞知行所/同州同郡善波村

一高三百拾三石

名主/清吉

内半高/東海道平塚宿へ加助郷相勤申候、

近来相州はたな領御鷹匠内山七兵衛組御野先相成候付、 御鷹御用相勤候故、前後継場村〻ニ而ニ而往還役相勤申候、

曽屋村迄壱里

此所善波峠と申難所なり、

(上記書308ページより、一部改行を「/」に置き換えの上、文意に合わせて適宜単語を入れ替え、強調はブログ主)


こちらでは、下糟屋村(粕屋村)は継立村に入っておらず、愛甲の次は伊勢原で馬を継ぐことになっています。その点では「風土記稿」の伊勢原村の記述と整合していることになります。また、神戸村はこの文書でも継立村に入っておらず、公儀の際の継立についても触れられていません。

何れにせよ、「日記」の継立はこうした記録に見られる継立村の配置と上手く合いません。何故この様な事態になったのでしょうか。

考え得る可能性の1つは、「その2」で二子・溝の口や荏田を「継ぎ通し」した問題を取り上げた時と同様、武四郎の記憶違い、もしくは書き間違いでしょう。「下糟屋」を「糟谷」と書いていたり、「神戸」を「神渡」と書いていたりと、ここでも地名表記の漢字が現地で一般的に使われていたものとは異なっています。記述の精度に留保がつく以上、何かしらのミスが紛れ込んだ可能性を考えない訳には行きません。しかし、「日記」の記述の何処がどの様に間違っているのかを具体的に示すことが出来ない以上、可能性があるという以上の指摘をすることは出来ません。特に、神戸村の記述がこの様な形で「日記」に登場する部分については、ここで何かしらの所要を済ませたのでないとすると武四郎の記憶に留められているのが不自然になりますから、かなり確度が高いのでしょう。

他方、「日記」の記述通りに継立が行われたとすると、何故伊勢原を飛ばして「継ぎ通し」されたのか、普段は継立を行わない筈の神戸村がどうしてこの時は荷を継いだのか、その理由を探る必要があります。世田谷から長津田までの長距離を継いだ際には、何かしらの不正が行われた可能性を考えましたが、下糟屋から神戸の区間ではこうした不正は行い難かったのではないかと思われます。上記で見た通り、下糟屋から伊勢原まではわずか半里と至近にある上に、以下で見る通りこの2つの村は組合などの活動を通じて交流が深いことから、双方の村民が顔を見知っている可能性が世田谷の例より遥かに高いからです。

しかし、「伊勢原市史」に掲載されている当時の文書を探した限りでは、幕末のこの区間の継立の事情を直接説明出来るものを見つけることは出来ませんでした。特に神戸村に関しては近世の現存文書がないと「伊勢原市史 資料編 近世2」に指摘されており、この村の立場からこの問題を考えるのはほぼ不可能な状況にあります。ただ、「伊勢原市史 通史編 近世」に記されていた明治維新直後のある「事件」が、あるいはこの問題を考える上でのヒントになるのではないかと思えました。そこで今回は、これを手掛かりに個人的な見解を述べてみたいと思います。

同書の「第4章 伊勢原の町」中の「第9節 伊勢原村寄場組合」では、幕末に関東一円の村々で組織された「寄場(よせば)組合」について、伊勢原とその周辺の村々の諸事情について紹介し、解説しています。文化2年(1805年)に幕府が治安維持の目的で新設した「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)(関八州取締役等とも呼ばれる)」に対し、その活動を補佐する目的で、文政10年(1827年)に村々を編成してその中心となる村を定めることになりました。矢倉沢往還周辺の25ヶ村(東組15ヶ村、西組11ヶ村)については、当初は東海道の大磯などの宿場を寄場として編成する案が提案されましたが、矢倉沢往還周辺からでは遠過ぎるために村々の反対に遭い、この村々の中から寄場を出すことになりました。そして、伊勢原村は、一帯の25ヶ村の中では村高が47石余りと最も小さかったものの、大山詣での拠点として宿駅としての施設が充実していたことから、関東取締出役の役人が宿泊するなどの形で利用することが多かったこと、そして25ヶ村のほぼ中程に位置している上に大山街道が集中する立地であるために、他の村から通いやすいこともあり、他の村々から請われる形で寄場となったことが、史料を数点引用しながら詳説されています(343〜348ページ)。


しかし、この伊勢原村が明治に入った頃から一時的に寄場を下糟屋村に譲っていたことが、「下糟屋村組合への変更」という項で紹介されています(348〜351ページ)。これによれば、明治元年(1868年)11月頃には寄場は伊勢原村から下糟屋村に移され、翌々年の明治3年5月26日付で再び寄場を伊勢原村に戻しています。何故寄場が移されたのか、残されている史料からは詳らかにはならない様ですが、何か金銭面での混乱が発生したものと同書では考えられています。

「日記」の道中は明治2年のことですから、ちょうど寄場が下糟屋村へと移されていた時期に当たります。寄場組合は治安維持のための自治組織ですから、専ら陸運の担い手である継立に直接関係するものではありません。しかし、下糟屋に寄場の肩代わりを依頼しなければならない程の大きな混乱が伊勢原村に発生していたとすれば、その混乱が継立の運営にも及んでいたとしても不思議ではありません。

そして、明治3年に伊勢原村への寄場組合の復帰に際して神奈川県に提出された請け証文には、伊勢原村の他に下糟屋村(この請け証文では「下粕屋村」と書いている)、上粕屋村と並んで、神戸村の名主(上粕屋村のみ代理)が名を連ねています(350〜351ページ)。この証文によって、神戸村が下糟屋村と共にこの問題に関与していたことを窺い知ることが出来ます。とすれば、寄場組合の問題が継立にも影響を及ぼしていたのであれば、神戸村がその肩代わりをしていても不思議はありません。そして、この様な状況で神戸村が継立を肩代わりしていたならば、「その2」で見た様に善波村の継立場の場所がわからなかったのも合点が行きます。神戸村の人足にとっても善波まで荷を運ぶのが初めてであった可能性が高いからです。

繰り返しになりますが、以上は飽くまでも推測であり、今後更に史料を探し出して検証すべきです。ただ何れにせよ、武四郎にとっては自分の荷を運んでもらっている継立の村々の諸事情は、預かり知らぬことであったと言え、そのために委細が記されていないのでしょう。その分、「日記」の継立に関する記録を読み解く際には、関連する史料に当たって検証する必要が多々あると言えます。



次回もう1回、「日記」に記された矢倉沢往還の継立や沿道の様子を見ていきます。
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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その4)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は鶴間以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



国分の位置
国分の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

かつての国分の継立は
「まんじゅう屋」という旅籠が取り扱っていた
現在のこの消防団の敷地の辺りにあったという
なお、当時の道筋は現在とは幾らか異なっている
ストリートビュー

武四郎一行が相州鶴間の次に荷を継いだのは国分(こくぶ)(現:海老名市国分南)でした。相州鶴間からは2里(約8km)の道程を歩いて、相模川に向かって長い坂を下り、目久尻(めくじり)川を渡って丘を越えた先に位置します。

前回検討した「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」には、相州鶴間が道中奉行らに提出した訴状に

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ瀬(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

とあり、更に

  長津田村        御伝馬継キ村

   此間壱里

 武州鶴間村         無役村

   此間弐町

 相州鶴間村         御伝馬継村

   此間三里

  厚木町         御伝馬継村

(何れも「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページより、)

と書いていたことが記録されています。これに従うと、享保14年(1729年)時点では相州鶴間は国分村を継立村として認識していないことになります。

この訴状の通りなら、訴訟当時の相州鶴間は厚木まで片道3里、往復で6里の道程を人馬が歩いて荷物を運んでいたことになります。これだけで往復でざっと6時間ほどの時間が必要です。更に、この間には「厚木の渡し」が挟まっていますから、往復では2回この渡しを渡らなければなりません。「その1」で検討した通り、この渡しは滅多に「川留」になることはないとは言え、舟の待ち時間が余分にかかる事になります。これではこの区間を担当した人馬は1日の仕事の大半をこの往復で過ごすことになります。

相州鶴間の負担の重さを多少なりとも軽減する上では、途上の村にも継立村を引き受けてもらうことは必要だったでしょう。その点で、後年国分村が新たに継立を引き受ける様になったことは、相州鶴間にとっては歓迎すべきことだった筈です。

もっとも、国分村が幕末に作成した文書では、かつては継立を行っていなかったことに触れられておらず、前々から継立村であったかの様な書き方になっているため、これらの史料の整合性の検討が必要になってきます。嘉永6年(1853年)に、国分村が戸塚宿の当分助郷に指名された際に、その免除を訴えた「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」という文書の中には、次の様なくだりが登場します。

江戸赤坂口ゟ相州矢倉沢往還、武州八王子宿ゟ相州鎌倉之横往来ニ而、四方一村ニ而人馬御継立仕、

(「海老名市史3 資料編 近世1」553ページより、以下も含め、傍注も同書に従う)


この記述では、国分村は矢倉沢往還の東西方向の継立のみならず、八王子方面から鎌倉方面へと抜ける道筋についても継立を行っており、相州鶴間と同様に辻に位置する村であるという記述になっています。こうした辻に位置する村が、当初は継立を請け負っていなかったとすると、例えば相州鶴間から国分村を経て八王子方面や鎌倉方面へ向かう荷物の様に、辻で向かう方向を変える荷物の取り扱いが困難になります。このため、この文書の記述通りなら、以前は継立を行っていなかった状況が考え難くなって来ます。

ただ、国分村は自村の継立村としての位置づけについて、やや誇張気味に書いている側面もありそうです。江戸時代も大詰めの慶応元年(1865年)に国分村が差し出した「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」という文書には、以下の様な記述が見られます。

…一躰当村之義、江戸ゟ内藤新宿継出、青山通り矢倉沢往還唱ひ、東海道沼津宿(駿河国)之脇往還ニ而、乍恐東照宮様(徳川家康)御神霊、久能山(遠江国)日光山(下野国)御改移之節御通行被為在候砌、厚木町(愛甲郡)ゟ当村御継込、夫ゟ靏間村御継立御用相勤来、既往還附中原(大住郡) 御殿相唱へ、御神霊様御宮跡今以暦然相残有之、就中、甲州道中荻野村(愛甲郡)ゟ継出相成、又一道ハ武州川越(入間郡)ゟ継出、八王子宿(武蔵国多摩郡)ゟ之往還、座間村ゟ当村継込、又一道東海道藤沢宿ゟ之往還、用田村ゟ当村継込、又壱道東海道平塚宿(大住郡)ゟ、相模川東通大谷村ゟ当村継込相成、又壱通東海道戸塚宿(鎌倉郡)往還深谷村ゟ当村継込、其外横浜表御開港已来、神奈川宿・程ケ(土)谷宿・戸塚宿其外鎌倉辺之往還仏向村(武蔵国橘樹郡)ゟ継出シ、瀬谷村(鎌倉郡)ゟ当村継込相成、御役々様方日々不絶夥敷御通行継場付、…

(「海老名市史3 資料編 近世1」606〜607ページより)


内藤新宿は甲州街道の宿場ですし、家康の遷座の際に通った道筋については前回見た通り矢倉沢往還ではなく府中通り大山道であり、更に中原街道の終点に位置する筈の中原御殿の話まで出てくるなど、国分村の役割を記す上で直接は関係のない街道筋の話を多く盛り込んでいます。村の高札を復活させる上でその重要性を強調する必要があったとは言え、この記述にはやや誇張された話が少なからず盛り込まれていることを念頭に置いて読むべきでしょう。

慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」麁絵図
慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」添付の麁絵図(国分村付近の部分)
(「海老名市史3 資料編 近世1」608ページより)
この文書に付属している麁絵図では、右の通り国分村を通過する道として、矢倉沢往還の他に「世谷(瀬谷、横浜市瀬谷区)」「深谷(綾瀬市)」「用田(藤沢市)」「大谷(海老名市)」「下荻野(厚木市)」「座間(座間市)」への道筋が引かれています。しかし、これらの道の重要度を勘案した描き方にはなっておらず、矢倉沢往還以外の道筋の交通量などはこの図からは読み取ることは出来ません。道の繋がり方も、座間や用田へ向かう道は確かに麁絵図の通り国分村に直接繋がっていますが、「迅速測図」で確認する限り、あとの道は途中で別の村の中で分岐して向かうことになり、これほどの本数の道が国分村に直接乗り入れている訳ではありません。


「新編相模国風土記稿」の国分村の項では、村を通過する街道について

矢倉澤道あり東西に通ず道幅二間、當村より東の方郡中下鶴間村へ二里、西の方愛甲郡厚木村へ一里の繼立をなす、

(卷之六十四 高座郡卷之六 雄山閣版より)

と矢倉沢往還のみを取り上げ、継立も矢倉沢街道上で行われている方についてのみ触れています。その点も考え合わせると、国分村の主張する南北方向の継立の取扱量は多くはなかったと考えるのが妥当でしょう。とすれば、国分村の継立はやはり享保14年よりは後になって成立したもので、国分村が文書に記す様な南北方向も含めた継立を取り扱う様になったのは、それ以降のことだった可能性が高いと考えられます。




国分村の継立の歴史に拘っているのは、武四郎が「日記」で記した国分村の状況についての記述を掘り下げる必要を感じているからです。この国分でも、武四郎は自分が目にしたり人足から聞いたと思しき沿道の様子を書き付けています。

此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。人家惣而畑作にして麁食(そしよく)のよし。夕喰〔食〕炊ぐを見るに割麥に半ば(くさり)の有る芋また大根を細く折て、それの雑炊てふもの煮る様に見ゆ。(わずか)江戸より一日路の地にてかくも異ることは、其女どもの着ものもまた()にして大に旅情を催たり。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従う)


「新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻、卷之六十四国分寺幷舊跡圖
「新編相模国風土記稿」卷之六十四 高座郡卷之四
「国分村」中「国分寺幷舊跡圖」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
まず「国分尼寺」ですが、「日記」は「有と(いふ)」という、伝聞を記した書き方になっています。ですから、これは継立人足など地元の人から聞いたことを記していることになります。実際、「国分」の名前が示す通り、この地には律令時代に「国分寺」が置かれ、幾度となく衰退と再興を繰り返しながらその宝物などが受け継がれてきました。

けれども、私が調べることが出来た限りでは、この「国分寺」が幕末から明治初期にかけて、尼僧を住職に迎えるなどして「尼寺」となっていた史実は確認出来ませんでした。明治元年時点の住職は「筧山」と称していましたが、尼僧であるという事実は確認出来ませんでした。また、天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では、まだ境内の建物は現存している様に描かれていますが、相模国分寺のサイトによればこのうち本殿や経蔵、山門などは幕末に失われているため、「日記」の明治2年の時点では既に右の「国分寺幷舊跡圖」の通りではなくなっていたものと考えられます。しかし、それでもこの寺は「相模国分寺」として存続していた筈です。

Sagami-kokubunji doushou.JPG
相模国分寺梵鐘
(By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品,
CC0, via Wikimedia Commons
従って、「日記」の「国分尼寺」は字義通りには受け取ることが出来ませんが、時代を遡れば、以前は国分寺と共に国分尼寺が存在しており、当時もそのことを伝える寺宝があったことがわかります。国分寺跡地の北方には国分尼寺の跡地が残っており、発掘調査で礎石や瓦などが出土しています。この跡地のある辺りの小名も「尼寺」と称し、その名残りを伝えています。

更に、現在も国分寺境内の鐘楼に架けられている梵鐘は、正応5年(1292年)に国分尼寺に寄進したものであることが刻印されており、国の重要文化財に指定されています。当然、「日記」当時にもこの梵鐘の存在は知られており、「風土記稿」の国分寺の項にも、この梵鐘の銘文が転記されています。

「日記」の該当箇所には過去形が使われていませんので、書き損じでなければ武四郎は「国分尼寺」を「現存」するものとして書いたことになります。察するに、この箇所は、かつての国分寺や国分尼寺の歴史について、継立人足などから伝え聞く過程で、何かしら説明の混乱があったか、あるいは武四郎が取り違えたことを反映したものではないかと思います。現在の国分寺山門に上がる石段は県道40号からやや奥に入った場所に位置していますが、当時の矢倉沢往還はこの石段に近い場所を通っていたとされています。それであれば、当時は矢倉沢往還を進む旅人からも、国分寺の石段や山門などが見えたと思われます。あるいは武四郎一行が矢倉沢往還を進む途上で国分寺の失われた山門の跡を眺めながら、この寺のことが人足との間で話題となったのかも知れません。




次に、「日記」ではこの村が畑作中心で食べ物に恵まれておらず、腐りかけの大根を雑炊にして夕食にしていたと書いています。着ているものなども含め、村がかなり困窮している様子が伝わりますが、この記述を何処まで当時の実情を描いたものと考えるべきなのでしょうか。

確かに、当時の国分村に困窮する村民が少なからず存在していたことを示す文書が複数存在しているのは事実です。「海老名市史3 資料編 近世1」には、弘化3年(1846年)の「凶作救済金滞分半金容赦願」という文書が掲載されています(536〜537ページ)。天保4年(1833年)に始まった「天保の飢饉」の救済のために無利息で貸与された金30両の夫食(ふじき)貸しが半額ほど返済した所で滞納する事態となり、挙句に先代の名主が潰れてしまい、全財産を売却して債務弁済に充てる始末になっています。この文書は残りの債務のうち半額を免じてもらい、残りを10年で弁済させてもらえる様に、新たな名主以下村役人が借主である領主に宛てた願書です。最終的にこの額を完済出来たかどうか、後年の証文が掲載されていないので不明ですが、村の困窮振りを示すこの様な文書が書かれてから「日記」の20年あまり後の間に倒幕という大きな社会の混乱があったことを考えると、事情はさほど変わってはいなかったのではないかと考えられます。また、翌年には国分村の組頭であった伝右衛門が家出してしまったために、領主から村人に対して伝右衛門の家財を交代で見廻る夜番が指示されたことを示す文書も伝わっています(同書539〜540ページ)。この村組頭の出奔も、やはり村の困窮と関係があるのかも知れません。

更に、上記で紹介した嘉永6年「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」の別の場所には、次の様な記述が見られます。

当村方先年家数百三拾四軒御座候所、追々潰百姓弐拾弐軒出来、当時百拾弐軒

(上記書553ページより)


村の家数が134軒から112軒と22軒も減ってしまったのは、明らかに「天保の飢饉」の影響でしょう。当分助郷を断るこの願書で本当は一番強調したかった箇所ではないかと思われるのですが、控えめに後ろに近い箇所で触れるに留められているのは、当時の村々でこの飢饉の影響を逃れた所が殆どななかったからではないかと思われます。

一方、国分村のこの様な困窮の最中にも、相応に財力を保有した家があったのも事実です。上記の「凶作救済金滞分半金容赦願」ではかつての名主家が潰れたことが記されていますが、この頃の名主家の当主は代々「善六」を名乗っていましたが、この家が国分村の名主となったのは天保年間のことです。初代の善六は享保年間に僅かな家財を譲り受けて本家から独立して、元文年間から「穀渡世」、つまり米穀商を行って財を成します。やがて、国分村の領主となった佐倉藩堀田家に対して度々融資をしています。そして、その融資先は幕末には国分村内のみならず、江戸や藤沢宿で商売を立ち上げる商人へも行われる様になっており、その財力が大きくなっていたことが窺えます。

国分村には善六の他にも3軒、寛政から文政年間に米穀商を立ち上げた家があり、幕末には少なくとも4軒の米穀商が存在していました。天保8年に一時これらの米穀商が営業停止にされた際に解除を求める嘆願書が提出されているのですが、この中に名を連ねた米穀商の中では、国分村の4軒が最多でした(以上、「海老名市史」通史編・資料編 及び「幕末の国分村」池田 正一郎著 1979年 自費出版を参照)。

以上を勘案すると、「日記」の当時、国分村にはまだ「天保の飢饉」によって疲弊した名残りが色濃く、それが武四郎と同行した継立人足の証言や、武四郎自身が目の当たりにした国分村の夕餉の様子や着ているものに表れていたのでしょう。その限りでは、「日記」の記述は国分村の当時の実情をよく伝えているとは言えるでしょう。しかし、当時の国分村には困窮の最中にも村内外に金を用立てるだけの実力を持った家が存在し、村を支えていたのも事実です。その点では、「日記」に記された国分村の様子を、あまり拡大的に適用し過ぎない様に注意して取り扱うべきでしょう。

また、丘陵地にあって水田より畑が多い国分村に、名主を筆頭に米穀商が4軒もあり、特にその1軒がとりわけ力を持っていたということは、村内よりも村の外部で生産された米穀の流通によって富を蓄えていた可能性が高く、それには村を通過する交通路の存在が不可欠だった筈です。特に、相模川の水運と陸路の結節点であった厚木や、その手前に拡がる広大な水田地帯である海老名耕地との間を繋ぐ道筋、つまり矢倉沢往還の存在が重要だったでしょう。

そう考えると、享保14年には矢倉沢往還の継立村ではなかったこの村が、幕末に書かれた文書では自村について誇張気味に交通の要衝であることを力説するまでに変わっていった背景に、この米穀商の存在があることが見えてきます。無論、この道を往来する大山詣での参拝客の増加も影響した側面もあるでしょうが、あと1里進んで「厚木の渡し」を渡れば厚木の大きな街に入ってしまう位置付けでは、旅籠の集客では苦戦する可能性が高く、そこだけでは利点が十分ではなかったのではないかと考えられます。

「日記」の記述ではその様な村の有力者の存在が見えてきません。国分村の主要な集落はこの矢倉沢往還の周辺にあり、名主家などもこの集落内にあったと思われますが、あるいは武四郎は裕福な家々にはあまり目を向けていなかったのかも知れません。



今回も国分村について解説して終わってしまいました。次回は厚木から先の「日記」の記述を分析する予定です。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その3)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回も継立について取り上げつつ、それ以外の沿道についての記述を見ていきます。



相州鶴間・武州鶴間の位置
相州鶴間・武州鶴間の位置関係
継立場の位置が確定出来ないため
ここでは仮に、武州鶴間側は「日枝神社」付近に
相州鶴間側は「鶴林寺」付近にマーカーを置いた
両者の距離は約1km
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
長津田まで途中の継立場を「継ぎ通し」ながら荷物を運んできた武四郎一行は、一転して比較的短い距離を継いでいきます。史料によって記載されている距離に多少幅がありますが、長津田から相州鶴間までは、「相州青山往還宿々控帳」(下記参照)に従うと1里10町(約5km)、武州鶴間から相州鶴間の間は、「新編相模国風土記稿」に従うと何と僅か5町(約550m)しかありません。この場合、長津田から武州鶴間の間は差し引き1里5町ということになります。但し、「日記」は8町(約880m)と記しています。何れにしても、国境を挟んで同じ名前を名乗る隣村同士だけに、村の中心となる集落同士でもさほど距離がないのは自明のことです。


この武州鶴間と相州鶴間との間の継立については、天保12年(1841年)に成立した「新編相模国風土記稿」に、次の様に馬と人足の場合によって継立場が異なることが記されています。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


武四郎は「日記」に継立の事実を示すのみで、その経緯などについては何も記していません。しかし、武州鶴間から相州鶴間の間の道筋には取り立てて急な坂などはなく、2つの村の間を流れる境川にも橋が架かっていて、荷運の困難となる要因がこれと言って見当たりません。その様な道筋で、こんなに短い区間で荷継が繰り返されるとなれば、その都度荷物の受け渡しや馬の載せ替え、更には駄賃の支払いが必要になるなど、荷主には要らぬ手間が増え、所要時間が長くなるなどの不便を強いられることになります。前回見た通り、この道中では武四郎の荷物を継立人足に運ばせていた訳ですから、荷主として多少なりとも違和感を感じていてもおかしくありませんが、「日記」にはその様な記述は一切ありません。

何故これ程までに短い距離を継ぐ様な運用が行われていたのでしょうか。ここでは「日記」を一旦離れ、他の史料を2点ほど見て、この2つの村の継立に何が起きたのかを類推してみたいと思います。1点めは、前回も一部引用しましたが、享保14年(1729年)の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページ)です。この史料は武州鶴間側の当時の名主家に伝わる文書で、相州鶴間が武州鶴間を相手取って訴訟を起こした際の一連の顛末が、双方の書状や裁許状などの写しによって明らかにされています。長大な文書ですので全文をここに掲載することは出来ませんが、裁判の経緯を掻い摘んで記せば、次の様になります。

  • 訴訟を起こした時点では、矢倉沢往還の継立を務めていたのは相州鶴間のみで、武州鶴間は務めていない(と、相州鶴間側が主張する)。
  • これに対して、当時何も夫役を担っていない(と相州鶴間側が主張する)武州鶴間にも継立役を負わせるべきとするのが相州鶴間側の主張。
  • 武州鶴間側は、既に武州木曽の定助郷を勤めており、また相州鶴間や長津田には歩行人足を出しているのだから、武州鶴間を無役とする相州鶴間側の主張は間違っていると反論。
  • 武州鶴間側の証人として武州木曽の名主が呼び寄せられ、武州鶴間側の主張通り、同村の定助郷を務めていると証言。


木曽一里塚碑
相州淵野辺村から境川を渡った先に位置する
府中方の小野路にも一里塚碑が残る
ストリートビュー
「今昔マップ on the web」で
同地の地形図の変遷を見る
武州鶴間が武州木曽の助郷を務める様になったのは、徳川家康の没後の元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へ遷座する際に、後の府中通り大山道を通過した時のことであることが、武州鶴間の反論でも、武州木曽の証言でも触れられています。武州鶴間から木曽までは直線距離でも8km以上も離れており、かなり遠方の村々まで助郷に駆り出されたことになりますが、この遷座の際はかなり大掛かりな行列を組んでいた関係で、隣接する村々だけでは人馬を補えなかったために、多少遠方の村にも助郷の要請が行ったのでしょう。その時の縁で、その後も木曽まで助郷を務めに行っていたことが、武州鶴間が矢倉沢往還の継立を拒否する根拠になっていた訳です。


また、武州鶴間は反論に際して自村を矢倉沢往還の「間の村」と表現しており、長津田や相州鶴間にも人足を出していると書いています。つまり、この時点では正式な「継立村」ではなかったことになります。この人足の出し方が、既に継立に近い運用であった様にも読めるのですが、何れにせよその様な事実があったとすれば、相州鶴間はその事実に目を瞑って訴訟を企てたことになり、その「勝算」を何処に見込んでいたのかが気になります。

こうした双方の申し立てを受けて、幕府の道中奉行や勘定奉行、更には江戸町奉行に寺社奉行が加わって、総勢10名の奉行が下した裁許は次の通りです。武州鶴間側の言い分が全面的に認められ、相州鶴間の訴えが退けられる判決となりました。

右御吟味被成候処、訴訟方相州鶴間村ゟ相手武州鶴間村ヲ一村之様申立、馬継不仕由申上候得共、相州・武州と国を隔候得、往古一村ニ而候とも、別村分り伝馬継候儀其所之例ニ而、古来ゟ相州鶴間村伝馬を継キ、武州鶴間村木曽村定助勤、其外江茂歩行人足継キ来り候間、訴訟方鶴間村申所難立、不及御沙汰候由被 仰聞、御尤に奉存候、依之有来り候通相州鶴間村伝馬継いたし、武州鶴間村定助・歩行人足(ママ)格〻可相勤旨被仰渡、双方奉畏候、右被仰渡候趣相背候ゝ、御科可被 仰付候、為後証連判一札差上ケ申所仍如件、

(上記書316ページより)


興味深いのは、ここで相州鶴間は武州鶴間とは元は1村であったという主張をしており、奉行もひとまずはその由緒を吟味した痕跡が見られることです。鶴間郷がやがて境川を境に分かれていった事情については、かつて武相国境を検討した際に少々検討しました。戦国期には既に別々の村となり、それぞれの領主によって収められていたであろうと考えられる鶴間が、享保の頃まで時代が下っても、なお奉行の面前でこの様な由緒を自村の主張の補強のために使っていたことになります。かつて同じ村であったという「義理」もあるのだから、ということになるでしょうか。自村の主張を少しでも正当化する意図が垣間見得ます。そうは言っても、享保の頃には既に別の村に分かれて独自の活動を行って久しいことが認定されてしまい、主張は認められずに終わるのですが、村のこうした由緒が時代が下っても影響を及ぼしていた一例と言うことが出来ます。

一方、相州鶴間としてはかなり無理のある訴訟であったにも拘らず、江戸の奉行所まで通う労力を掛けてでも敢えて訴えを起こすだけの動機があったことになります。それはひとえに、継立にかかる労力負荷が重荷になっていたということに尽きるでしょう。相州鶴間の継立は矢倉沢往還の東西方向だけではなく、八王子道の南北方向も担っていました。ですから、必ずしも矢倉沢往還だけの輸送需要だけのことではないかも知れませんが、2本の道の継立のために人馬を出す負担が過重になっていたからこそ、武州鶴間にも歩行人足を出すだけではなく、より本格的に継立役を分担して欲しいと考えた筈です。

当然ながら、その背景には矢倉沢往還の継立に対して、当時既に相応の輸送需要が存在していたことになります。その点で、この享保14年の裁許の一件は、当時の矢倉沢往還の継立の実情の一端を窺わせる史料であると言えます。

しかし、訴訟によって相州鶴間の訴えが否定されてしまったことで、武州鶴間はそれ以降も「継立村」となることはなくなった筈です。奉行の裁許が出たことを考えると、少なくとも相州鶴間側からこれを覆すのはかなり困難なことになったと考えられます。



次に、「新編相模国風土記稿」成立の3年前に当たる天保9年(1838年)に作成された「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307〜310ページ)には次の様に記されています。


人足之義

前鶴間ゟ向鶴間迄賃銭八文請取継立仕候、馬長津田ゟ向鶴間迄附越候、

(上記書307ページより、字下げも同書の文字数に従う)


ここで「前鶴間」と書いているのが武州鶴間、「向鶴間」が相州鶴間を指しています。一見すると、この記述は「風土記稿」とほぼ同様の運用を記述している様に見えます。しかし、上記引用箇所の少し手前で、長津田の次の継立場については

相州鶴間迄壱里拾町

と記しており、相変わらず長津田から相州鶴間に継いでいた様にも読めます。つまりこれだけだと、武州鶴間から相州鶴間の間だけ継立を請け負っている様にも読めてしまいます。その点で、この文書の記述は相互に若干混乱している様にも見受けられます。

この文書が写しであることから、原本の記述がどうであったのか、精確なところを読み取るのは難しくなっています。しかし、記述の整合性が今一つ綺麗に均されていない様に見えることから、この「人足之義」のくだりは後から追記された可能性もあると考えられます。それであれば、その際に「相州鶴間迄壱里拾町」の一文は訂正を入れ損ねたものとも読み取れます。

こうした混乱からは、武州鶴間が増え続ける矢倉沢往還の継立に対して引き続き人足を出し続けてはいたものの、飽くまでも享保14年の裁許に則って対応していたことが窺えます。つまり、この時点でも武州鶴間はまだ「間の村」という認識でいたのかも知れません。ただ、「新編相模国風土記稿」の「下鶴間村」の記述では、継立先について特に表現が分けられている訳ではないので、「武州鶴間」も継立村の1つであるかの様に見えているということが言えます。

「日記」に話を戻すと、武四郎の武州鶴間と相州鶴間の記述では、継立場の規模等に差異があった様には見えません。実際には相州鶴間の方が八王子道の継立も請け負っていた関係で武州鶴間より多少なりとも規模が大きかった筈ですが、こうした記述になったところから考えると、武州鶴間の継立場も「間の村」が片手間にやる程度のものではなく、実質的に常設と見える様な風情の場所で運用がなされていたのかも知れません。

因みに、矢倉沢往還を往来する「大山詣で」の参拝客が増加してきたのは、大山講が隆盛した江戸時代の中期頃、宝暦年間以降と考えられ、享保14年の裁許よりは後年のことになります。「日記」では、武四郎は武州鶴間、相州鶴間とも「茶店」が存在したことを記していますが、武州鶴間も増大する「大山詣で」の参拝客を無視出来なかったことが窺い知れます。

また、相州鶴間には旅籠が数軒あった筈なのですが、、武四郎はその存在を記していません。見逃してしまった可能性が高いと考えられますが、一方で明治元年に「神仏分離令」が発令された影響で大山講も大きな影響を受けていましたから、沿道の宿泊施設もその動向を見極めて店仕舞いするなどの動きがあった可能性もあります。これも他の史料との照合が必要な箇所と言えるでしょう。



ところで、事情は定かではありませんが、武四郎はこの道中ではかなり先を急いでいた様です。日程を見ると、あるいは東京から京都へ還幸していた明治天皇が、何時再び東京へ行幸することになるのかわからなかったからとも思えますが、「日記」の文面からは当の武四郎にさほど「焦り」を感じるのが難しく、彼にとっては別段普段通りのペースで進んでいたのかも知れません。

「日記」には長津田で昼食を摂ったことが記録されています。初日の宿泊地は厚木ですが、赤坂からの距離は途中の経由地によっても変わって来ますが概ね12里以上になります。東海道を進んだ場合には初日には精々戸塚辺りで宿泊するのが通例であったことと比較すると、相模川を初日に越してしまう武四郎の行程は、当時としてはかなりの「強行軍」と言えます。因みに、赤坂から長津田までは8里あまりもあり、この日の行程の半分以上を進んでおり、厚木の渡しを渡る頃には日が暮れていますから、冬場で日が短いことを考慮しても、長津田での昼食は幾らか遅い時刻になった可能性はありそうです。

以前このブログでも何度か取り上げた渡辺崋山の「游相日記」(天保2年・1831年)では、途中宿泊した折に主人と深夜まで酒を酌み交わして翌日は遅く出発したこともあって、1日に進む距離が短くなり、荏田と下鶴間で宿泊したことが記されていますから、「日記」とは極めて好対照な道中だったと言えるでしょう。

武四郎の道中が日程的に余裕がないものであった分、道中の周景の描写は比較的薄めになったのではないかと思われます。自宅を出てから相州鶴間に到着するまでの間の記述には、各継立場の簡単な様子と脇道に関する記述が出る程度で、周辺の田畑や作物についての記述は一切現われません。相州鶴間に着いた所で初めて

地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。從是小松原、大松原等有中を正面さして一筋道。見むきもやらず左右處々に畑も見ゆれども何れも芋麥のよし也。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより)

という、周辺の田畑についての記述が現われます。

地味の良さは人足から伝え聞いた可能性もありますが、冬場で休耕中の田畑が多い分、土の状態が見えやすかったということかも知れません。食べているものが良くない様に見えるというのは、茶店などで休憩している旅人の皿の上を見たのでしょうか。麦は冬を過ごさせるものですから実際に栽培されているものを見ている筈と考えられますが、やはり冬場では栽培されているものも乏しいことから、同行する人足に話を訊いたのでしょう。

鶴間以西の矢倉沢往還
鶴間以西の矢倉沢往還のルート図に
数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの
矢倉沢往還のすぐ南側に引地川源流地が見えるほか
かつての谷戸と思しき窪地が南北方向に何本も並んでおり
何れも矢倉沢往還の近くに端を発しているのが窺える
矢倉沢往還の走る辺りが
相模原台地の地下水が地上に現われ始める地帯に
相当していることがわかる
(「地理院地図」上で作図したもの
をスクリーンキャプチャ)
相州鶴間の水田は境川と支流の目黒川沿いに集中しており、その西側は相模原台地の上に当たり、水田に必要な利水が確保出来ないために、畑が大きく広がっていました。「大和市史4 資料編 近世」のまとめるところによれば、下鶴間村の村の水田14町7反3畝2歩(約14ha)に対して畑が74町1反9畝12歩(約74ha)あり、全耕地面積の8割以上を畑が占めていました(35ページ)。更に、村の西側は「相摸野」の南端が大きく占め、「鶴間野」などとも呼ばれるこの地は、西隣の栗原村に差し掛かる地域まで入会地となっていました。

「日記」の記述は、基本的にはこうした土地利用の実状をよく反映していると言えます。「小松原」「大松原」とあるのが、武四郎の見た「相模野」の描写ということになるでしょう。とは言え、やはり先を急ぐ道中では周囲に細かく目を配るほどの余裕はなかったと思われ、まして土地勘のない村の実状について掘り下げたことを書くのは無理なことであったでしょう。人足が相手では、聞き出せる村の実情についての情報も、限られたものになってしまうのは避けられないところです。

この点は、崋山の「游相日記」と比較するとその違いが良くわかります。彼の道行きの目的の一つは、その途上の農産物などを視察することにありました。その分、武四郎に比べれば「相模野」についての予備知識もありましたし、前日までの道中に現地の人々に訊ねて仕入れた情報も持っていました。その分、武四郎の「日記」の記述よりも一歩踏み込んだものになっています。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

鶴間原出づ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よつて、柴胡(サイコ)の原ともよぶ。諸山いよいよちかし。

(「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)所収、327ページより)


崋山はこの地域の養蚕についてとりわけ関心を持っていたことが、桑と山桑(柘)の違いについて具体的に記しているくだりからも窺えます。また、別の場所で長津田や鶴間が養蚕を行っていることを記していることからも、この地が養蚕に積極的に取り組んでいることを知った上で周囲の様子を見ていると考えられます。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
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ウィキメディア・コモンズ.)
そして、崋山自身が俳諧に精通していたこともあり、「相模野」が「柴胡が原」とも呼ばれていることは承知であったのでしょう。崋山が旅した天保2年9月22日(グレゴリオ暦:1831年10月27日)はミシマサイコの花期(概ね8〜10月)としてはほぼ終わり頃で、運良く道端で咲く柴胡の花を見られたかどうか微妙なことから、「柴胡多し」の記述を字義通りの目撃情報として受け取るべきかどうかは一概に言えませんが、少なくとも崋山が「相模野」に差し掛かった折に「柴胡が原」のイメージを重ねて見ているのは確かでしょう。

武四郎は、道中通過する地域についてのこうした予備知識は、持ち合わせていなかったのでしょう。また、桑は冬場には葉を落とすことから、周囲に桑を植えている家や畑があることに気付き難い季節だったことは考えるべきかも知れません。もっとも、武四郎が人足との会話で比較的裕福な村であると知らされた際に、継立や養蚕など村の経済の支えになり得る稼業について話題にならなかったのかという点は気掛かりです。特に養蚕は、幕末の開国後にそれまでの幕府の方針が転換されて積極的な推進・援助策が打ち出される様になっており、天保の頃とは違って憚りなく取り組むことが出来る環境になっていた筈です。しかし、「日記」には養蚕については触れられずに終わっています。あるいはこうした産業には、武四郎の興味が向かなかったのかも知れません。



今回は結局鶴間周辺の記述についての分析で終わってしまいました。次回はもう少し先に進みたいと思います。

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