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【小ネタ】「水車、うっせーわ!」

…ハイ、お察しの通り、タイトルは最近の流行りに便乗しました。

5年ほど前に取り上げた小ネタは実現しなかった三浦半島横断の運河の話題でしたが、今回も水に関係の深い小ネタです。今回取り上げる文書は「座間市史 2 近世資料編」(以下「座間市史」、引用文の明記ないものは何れも同書より)に掲載されているものです。2通の文書は何れも「文政九(一八二六)年十月 水車騒音につき争論示談書」と表題が付けられています。

  • 文書番号257:

    差出申一札之事

    一此度私儀、隣家清右衛門方参り、同人親父甚蔵儀水車商売致処、及深(更)も車廻候付、被寝付不申候付、夜中廻候事相止呉候様申候ヘ、此方之勝手致候様申候付、其分難差置存、私儀も酒(酔)、戸を破り候段不調法之段御座候、然ル処、御役(所)之御賢慮ヲ以、水車之儀夜之四ツ限(午後十時)仕舞、甚蔵一代切ニ而相止候様被仰渡忝奉存候、此上、私儀も禁酒仕、随分渡世出致、御役処御苦労掛不申様相慎可申候、為念一札差出申処如此御座候、以上

    文政九十月六日

    清  蔵(印)

    組頭伝  吉(印)

    御役人衆中


  • 文書番号258:

    差出申一札之事

    一私儀、農業之間水車商売仕候処、右水車付隣家清蔵と及口論、御役所之御苦労相掛候付、御役処之御賢慮ヲ以夜之四ツ限仕舞、親甚蔵一代切ニ而相止候積被仰渡、其段承知急度相守可申候、為念一札差出候処如此御座候、以上

    文政九戌

    十月六日

    清右衛門(印)

    梅之助(印)

    御役人衆中

(547~548ページより、傍注も同書に従う)


何だか今でもありがちなご近所トラブルの類の解決のために、当事者双方が村役人に提出させられた念書ですね。俄に騒動になったことから考えると、文政9年のこの年に清右衛門家の父親甚蔵が水車を設置して稼業を始めた様です。ところが、甚蔵が夜通し水車を稼働させ続けたために、隣家の清蔵が「寝られん!」と苦情を言いに来たものの、甚蔵が「自分の勝手だ」からと聞き入れない態度を示したため、酒の勢いも手伝って清蔵が戸を壊して押し入る狼藉となってしまった、という訳です。

酒の勢いに負けてしまった清蔵には禁酒して勤勉に仕事をする様に申し渡した一方、清右衛門には水車の操業を夜の10時頃で切り上げること、更に水車稼業は親の甚蔵1代限りとして清右衛門が継がない様にという村役人の裁きが下りました。大筋では原因を作った水車屋の側の責任を問うものとなりましたが、当時は喧嘩両成敗が原則の世だけあって、清蔵の飲酒に対して全くお咎めなしとは行かなかった様です。原因を作ったのは親の甚蔵だったのに、念書を書かされたのが子の清右衛門なのは、甚蔵は既に家督を清右衛門に譲った後だったからでしょう。従って甚蔵は既に隠居年齢に達していたことになりますので、この水車稼業を行い得たのはあまり長期間ではなかったことになりそうです。


現在の座間市栗原の範囲
旧栗原村は他に栗原中央・南栗原・東原など
多くの住居表示後の町名に分散している
Googleマップ

現在の座間市栗原南部の目久尻川の風景
ストリートビュー

これだけでは当時の揉め事の記録というだけに終わってしまいますので、当時の水車事情を絡めてもう少し掘り下げてみようと思います。この2通の示談書には地名が全く記されていないことに気付きますが、これはこの騒動を村役人が内々に処理したことによるもので、村外の役人に見せる必要がなかったために当事者の名前だけで充分だったということですね。

従って、この2通が何処のことを言っているのかは、これらがどの様な家に伝えられた文書であるかで判断することになります。これらの示談書を所蔵しているのは江戸時代に栗原村の名主や年寄役を代々務めた家の末裔の方です。ですから、この示談書は栗原村の中で起きた出来事であったと判断できます。


問題は、この水車が設置されていたのが栗原村のどの辺だったかですが、この念書に登場する関係者の氏名だけではそれを絞り込むのはかなり困難です。栗原村について、「座間市史」では

本村は市の東南部に位置し、中央部を北から南へ流れる目久尻川の狭長な河谷に沿って集落がつくられ、北から小池(こいけ)(かみ)(なか)下栗原(しもくりはら)中原(なかはら)芹沢(せりざわ)八軒庭(はちけんにわ)の集落が点在する。北及び東方は、広大な相模野台地に秣場が広がり、西の方は座間丘陵が高く連なり、濯木が森をなし、鷹の峯が南西に孤立している。東南の方は次第に低くなっている。目久尻川が村の北端の小池より発し、下栗原で支流の芹沢川と合流し、南の柏ヶ谷村へと流れ、近世には(さぎ)川・(さむ)川と呼ばれ、水田はこの川の流域に広がる。

(255ページ、ルビも同書に従う、強調はブログ主)

と、全ての集落が目久尻川沿いに展開していたとしています。水車を設置するには川などの何かしらの流水が必要ですが、基本的に村民全員がその主な源となる川沿いに住んでいたとなると、これ以上の絞り込みを行うことが出来ないことになります。

但し、この2通が「座間市史」に掲載されている章は、「栗原村」の「太田領」となっています。栗原村は「宝永四年(一七〇七)地方直しにより、旗本山田敬元(三〇一石)・同太田政資(一六二石)、同七年(一七一〇)増田良富(一一九石)の三給支配となり幕末に至った。」(236ページ)と、1つの村が複数の領主に支配される「相給」の村でした。栗原村のどの地域が誰の支配下にあったのかが「座間市史」では詳らかにされていませんが、「太田領」の章にまとめられている文書の中に「下栗原村」と署名されているものがありますので、概ね栗原村の南寄りに位置していたと考えられそうです。目久尻川は村の北端に近い辺りで端を発し、村内を南へ向かって流れていきますので、水車は村内の下流寄りに設置された可能性が高そうです。

「座間市史」内でこの水車に関する記述がある資料は他に掲載されておらず、更に栗原村に伝わる文書の一覧(「座間市史資料所在目録 第4集 個人・自治会等所蔵Ⅲ 栗原地区」)をはじめ、座間市の発行した他の資料集なども探してみましたが、この水車に関するものは見つかりませんでした。問題の示談書が伝わる家には江戸時代の村の諸相を伝える文書が非常に数多く伝わっており、当時作成したり受け取ったりした文書は基本的に全て保管していたものと考えられるのですが、それにも拘らず関連する文書が伝わっていないことから考えると、恐らく甚蔵は村の役人クラスの人間には一切諮ることなく独断で水車を設置したものと思われます。

これは、江戸時代当時の水車設置の際の事情を考えると些か「無謀」だったとも思えます。例えば、同じ目久尻川の更に下流にある宮原村(現:藤沢市宮原)に設置された水車について、「藤沢市史 第5巻 通史編」では次の様に解説されています。

文政一二年のこと、宮原村の久蔵は「同村百石通り大橋川下」に水車を設けたい旨を村役人中に願い、それが許可されたので、三月に水車使用に当っての議定事項を一札に認めた。それは、簡単にいえば、水田耕作に迷惑をかけない、かけた場合はただちに水車を取払う、自分勝手に水を引かない、ことに出水の時には水車で水流を妨げるようなことはしない、といったこと、つまり、耕作との兼ね合い、出水時の配慮であった。これらは、水車設置に当って、どこでも重大な条件とされたものである。

(上記書375~377ページ)


「どこでも」というのは当時全国的に、と解して良いでしょう。例えば、「水車の技術史」(出水 力 1987年 思文閣出版)には次の様な例が紹介されています。

また一方には、水を大量に必要とする水稲作が中心の日本の農村では、水車は水利権の問題とからみあって、その発達が阻止される要因となった。養老律令(七一八)にも、水車の利用は、公私の灌漑を妨害しないときに限定されるべきと明記され、すでにそのころ水車と水利の相克があったことを示している。

大阪府下の南河内郡の例では、東条川の下流にある畑田井路は畑田三郷(富田林市)の用水路で、上流の森屋村(千早赤阪村)から寛弘寺村(河南町)などを経て五キロメートルの間を引水してくる。しかも井路費はすべて三郷が負担し、なおかつ用水の引取りも上流の村に優先権があった。上流の森屋村で延享元年(一七四四)にはじめて水車が開設されたが、この時に水車の持主は村の庄屋・年寄・惣百姓あてに一札を入れ、五月節の一〇日前から秋の彼岸の一〇日過ぎまでは水車の水口に錠をかけ三郷役人から封印を受けることになっていた。これは水路がほんらい水田灌漑用の用水路として建設されたものであったことからの処置であった。

ところが宝暦年間(一七五一〜六三)、さらに四台の水車が建設されて水車業者と農民の間の争いは深刻となった。農民側は水車小屋の取り払いをめぐって訴訟がくりかえされた。ようやく宝暦十四年(一七六四)にいたって、水車は向う五カ年の間に取り払う裁定が成立した。

(上記書27~28ページ、…は中略、強調はブログ主)

上方周辺では、当時既に水油絞りや線香製造などのために水車を利用する動きが出てきていただけに、水車設置の機運は他地域に比べて旺盛になっていました。その様な地域でさえ、水車の稼働や設置には灌漑への影響を懸念されれば訴訟にまで発展するほどの軋轢があったということです。


また、水車が配慮しなければならないのは灌漑だけではなかった様です。

津久井方面の相模川および、その支流の五川とよばれる道志川・沢井川・早戸川・串川・秋川においても鮎漁が行われており、何れも貢賦を納めていた。この五川のうち、道志川で漁獲される鮎は、その魚形が少しちがっていた。前掲書(注:「新編相模国風土記稿」)の記載によれば、上腮がすこぶる長く、曲っているため、「道志川の鼻曲り」とよばれ、佳品として賞味されたため、歳毎に子持ち鮎(鰷)一千七十五匹を貢献していたといわれる。

以上のように、川稼ぎの中で鮎漁のしめる割合は大きく、貢税としても重要な位置をしめていた。それ故、流域の他村で河川の改修工事を行ったり、水車を設けることにより、川筋に影響を与えることは、上流に位置する村々にとっては、鮎が溯上しなくなることなどがあり、争いごともたえなかった。

例えば、文化四年(一八〇七)に、愛甲郡飯山村(厚木市)の者が小鮎川に水車を設けたため、鮎猟(漁)の妨害になるとして、煤ヶ谷村(清川村)が訴え出ている。その時奉行所へ提出した訴状によれば、百姓が農業のあいまに鮎漁を行い、冥加御菜鮎代として一年間に永壱貫文を上納してきたが、水車をつくり、川筋を切って水を引いたために、川下より鮎が登ってこなくなってしまったということであった。

(「神奈川県史 通史編3 近世2」312〜313ページより、強調はブログ主)

この神奈川県史の指摘する訴状や、結果については未見ですが、特に鮎漁の場合は領主に冥加を納めていたこともあって、水車がその妨げになると見做されれば訴えられかねない存在であったことは確かでしょう。

つまり、当時の水利で最も優先権があったのは農作物のための灌漑であり、更に鮎などの漁が行われている場合はそちらも妨げない様に水車を設置しなければならなかったということです。動力目的の水利は、優先順位的にはかなり低く見られていたことになります。

その点で、甚蔵が誰にも諮ることなく水車を設置した様に見える点は、当時の水利の利害関係者間のトラブル回避という観点では、不思慮を咎められてもおかしくない事案だった様にも思えます。あるいは甚蔵自身に誰かに認可を貰う必要があるという考えが無かっただけなのかも知れませんが、裏を返せばそもそもこの村で水車を営む例が乏しかったために、他の水利への配慮が必要になるという考えを得る機会がなかったということになるのかも知れません。

ただ、このトラブルは飽くまでも隣家との騒音に関することで、水利に何かしらの問題を発生させたことではなかったので、即時の事業停止を申し渡されるところまでは至らなかったのかも知れません。示談書の日付も既に稲刈りが終わっていたであろう時期を示していますから、甚蔵も稼働時期には自発的に気を遣ったのでしょう。あるいは村役人側にも、水車事業自身への関心があったために、一代限りとは言えもう少し事業を継続させて、その可能性を見てみたい思惑があったとも思えます。

と言うのも、「座間市史資料所在目録 第4集」では、示談書を保管しているのと同じ家に、安政7年(1860年)2月3日付けの「水車輪替普請」という文書が存在していることが掲載されているからです(157&205ページ)。栗原村の「善太郎」という人物との間のやり取りの様ですが、生憎と文書自体未見なので具体的にどの様な依頼であったのかは不明です。しかし、名主家が示談書から30年以上経って水車の運営に何らかの形で関与していたことを、この様な文書が同家に残っていることが示しているのは確かでしょう。更に時代が下って明治27年(1894年)には、天保元年(1830年)から村内で稼働を続けていた水車を購入して本格的に水車稼業に参入します。この水車が「水車輪替普請」と関係があるのかも不明ですが、名主家一族が水車稼業への関与を時を経る毎に強めていったのは確かな様です。

この名主家一族が購入した水車について記録している「畑作台地における近代水車稼の地理的考察―相模原台地の水車分布を中心に」(浜田 弘明著 「大和市史研究 第18号」所収 1992ページ、以下「考察」)では、栗原村を含む相模原台地の水車普及の時期について次の様に分析しています。
大和市史研究18号浜田論文第5図
第5図 水車設置数の年代推移
資料:相原村・溝村・磯部村・座間村各村水車取調関係書類より作成

明治一〇〜二〇年代の調査による水車の用途は、いずれも精白・製粉用で、このうち、最も設置年代が古いのは宝暦元年(一七五一)で、磯部村に二台ある。この磯部村には、八台の水車があるが、そのうちの四台は宝暦年間、一台が寛政元年(一七八九)のもので、設置年代の古いものが多い。その他の村で、一七〇〇年代後半に設置されている水車といえば、溝村に安永年間(一七七三〜八〇)のものが一台あるだけで、あとはすべて一八〇〇年代に設置されたものである。この史料に見る限りにおいては、「南武蔵地方の水車の出現が、享保(一七一六〜一七三六)以降」であったことや、「すでに元禄(一六八八〜一七〇四)のころ江戸では、その郊外の水利の良いところに水車製粉所が建てられていた」ことなどから比較すると、相模野における水車の出現は江戸郊外に遅れること五〇〜六〇年、南武蔵野に遅れること二〇〜三〇年ということになる。なお、精白・製粉用水車ではないが、これよりも古い水車記録としては、藤沢市行きの鵠沼・羽鳥両村境の引地川に正徳三年(一七一三)、揚水水車の設置が認められたという文書が残っている。ここは、地形上は湘南砂丘地帯にあたり、新田開発のためのものであった。

水車の年代別設置状況を図に表わしたものが第5図である。この図に見るとおり、相模野では一八〇〇年代前半、とくに文化・文政年間(一八〇四〜三〇)に急速な普及を見ている。南武蔵野では安永・天明年間(一七七二〜八九)に爆発的に増加している点に比較すると、当該地域での水車普及は三〇〜四〇年の遅れをとっている。いずれにしても武蔵野の場合も、相模野の場合も、水車が急速に普及するのは近世も後期になってからである。

(上記書26ページより、注は省略)


2通の示談書が認められた文政9年はまさにこの、相模野で水車の設置台数が増え始めた時期に当たっています。こうした機運がどの様にして相模野一帯に拡がっていったのかはわかりませんが、甚蔵も何らかの形で水車設置が近隣で増え始めていることを知って、自分も水車設置をと思い立つに至ったのでしょう。

しかし、これは全くの推察になりますが、恐らくは思い付きで水車事業に飛びついたことが仇になって、甚蔵の水車は彼が思った様には回ってくれなかったのかも知れません。上記の「考察」では、目久尻川をはじめ東隣の引地川や境川の中下流では、水田面積の多さに比べて流量がそこまで多くないことから安定的な水量が得にくいことが、これらの地域での水車の分布に偏りを呼んでいることを指摘しています(上記書24~25ページ)。甚蔵の設置した水車がこれに該当するかどうかは、他に記録が残っていない以上判断出来ませんが、近所迷惑を顧みずに夜通し水車を回そうとしたのは、甚蔵の思惑通りの速さで水車が回ってくれないために、請け負った仕事を期限内に終えられなくなって焦ったことが背景にあるのではないかと思えるのです。それが目久尻川の地理的要因に主因があるのか、それとも甚蔵の技術力不足に要因を求めるべきかは、今となっては検討のしようがなさそうですが、2通の示談書はこの地域の水車事業の黎明期の失敗事例を伝えてくれるものであるだけに、色々と想像を繰り広げてみたくなる存在と言えるでしょう。
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【小ネタ】「三浦半島をぶち抜け!」「いやそれは困りまする」

前回の更新から半年近く経ってしまいました。まだ復活できそうにありませんが、比較的手軽に取り上げられそうなネタを元に何とか1本記事を仕上げたので、生存証明代わりにアップします。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には、江戸時代の交通や産業に関連する史料が取りまとめられています。その交通編では、東海道を中心とした陸上交通の他に、河川交通と海上交通にまつわる史料が収められています。河川交通の史料は大半が相模川の水運関連のもので占められていますが、その中に1点、少し毛色の違うものが含められています。「三浦郡田越川堀抜き新通船路開鑿計画につき沼間村反対願書」と題されたこの文書は、三浦郡沼間村(現:逗子市沼間)に伝えられているものですが、「神奈川県史」では「非常に興味あるできごと」と評しています(同書400ページ)。内容は次の通りです。

乍恐以書付奉願上候

一当村小前百姓共一同奉願上候儀、今般当御預所相摸国三浦郡田浦村舟越新田(より)、西浦 長州様御預所同郡桜山村多越川迄堀抜通船致候様之願人有之哉之風聞、尤右風聞之儀も三拾ケ年前ゟ是迄不得止事願望仕居候様子、既去ル丑年七月中先御領主松平大和守様御重役方、右川筋為御見分被遊御出張、右川筋引通田畑凡反別、民家居屋鋪差障凡御取調有之候処、尚又此節風聞承り候処、右川筋堀抜御上様願上候者共有之哉之旨、竊風聞承り小前一同奉驚入候、万一 御上様御用弁ニ茂相立、堀抜願之通御取上ケ御聞済可相成儀も乍恐難計、左候得、当村広地筋田畑不残川筋引通相成、左右谷合土揚場所ニ而、田畑大体荒(倒)、当村田畑反別四拾六町程も有之、内六七町山畑ニ而古来ゟ猪鹿多出、是迄年来荒し来候場所相残候哉奉存候、村方之儀東西廿町余、南北壱町程ニ而、家数五拾五軒之内五十軒入院四ケ寺程も川筋引通差障可相成と奉存、然ル上御田地御取上ケ其上民家迄も右外御取払相成候而者、百姓通外渡世無之村柄故、万一堀抜願之通被仰付候上、小前百姓共一同渡世暮方、親族・妻子之養育之手達無之、 元来田畑耕作而已ヲ以是迄渡世暮方致来候間、外渡世向無之、此後御田地御取上ケ、尚又民家立方付被仰付候上、以来村方小前共如何以渡世可致候哉、小前一同非至と心痛仕候間、何卒格別之以御慈悲小前百姓難渋之段、乍恐御恐察被成下、堀抜出来之儀御見合せ御免除被成下度、乍恐以書付村中小前一同奉願上候、右願之通り御見合被仰付候ゝ、広太之御慈悲畳重難有仕合奉存候、以上、

(上記書435〜436ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え、読み仮名のルビはブログ主)


この文書には日付がありませんが、「長州様御預所同郡桜山村」と記されていますので、海外からの防衛を担当することになった長州藩の配下に、三浦郡桜山村(現:逗子市桜山)が入った幕末の頃の文書であることがわかります。長州藩が三浦半島の防衛に当たったのは嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの比較的短い期間ですし、先代の領主であった「松平大和守様」の家来が「丑年」に現地の検分を執り行ったことも記されていますから、これらを手掛かりに大凡の年代は推定出来そうです。桜山村や沼間村が松平大和守矩典の支配に戻ったのは文政4年(1821年)のことであると、「新編相模国風土記稿」には記されています。

また、この文書には具体的な宛先も記されていませんから、恐らくは下書きとしてしたためられたものではないかと想像します。実際にこの文書が清書された上で何処かの役所に提出されて吟味されたのか否かについても、「神奈川県史」を見る限りでは不明です。

地元の方以外には、この文書に登場する地名の位置関係が掴みにくいと思いますので、地図上でプロットしてみました。

桜山・沼間・田浦の位置関係
桜山・沼間・田浦の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「舟(船)越新田」について、「新編相模国風土記稿」には次の様に記されています。

當所は浦鄕・田浦二村の際にて昔は入海なりしが、年を追て漸く埋れる地なり、寳永の頃團右衛門と云者長島氏にて武州久良岐郡の民なり、開墾の後久く此地を進退せしに、寛政中他に譲れり、新墾の事を企海面に浪除の堤長八十二間、を築き、高三十四石餘の新田とす、田浦村の小名船越に續る地なればこれを村名とす、同五年酒井雅樂頭親愛檢地して貢數を定む、廣[  ]袤[  ]東は海、西南、田浦村、北、浦ノ鄕村村内民家なく、田浦村の民來て耕作す、今松平大和守矩典領分なり開發の後、酒井雅樂頭親愛領分、延享中松平大和守明矩文化八年松平肥後守容衆遷替し、文化四年矩典に賜ふ、

(卷之百十五 三浦郡卷之九、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、複数字の欠落を意味する長方形は[]にて表現)



迅速測図上の「船越新田」(「今昔マップ on the web」より)
今も京浜急行京急田浦駅の東側に「船越町」交差点がありますが、かつての船越新田はその東側の、海に近い一帯でした。「風土記稿」が編纂された天保年間には、この新田には全く住民がいなくなっていた様ですが、その前後には若干数の家があった時期もありました。とは言え、実質的には隣接する田浦村や浦郷村の支村の様な位置付けであったと見て良いでしょう。この文書で「田浦村舟越新田」と連名になっているのは、こうした状況が背景にあると思われます。


県道24号線沼間トンネル付近
この辺りを運河で貫くつもりだったのだろうか
ストリートビュー
見ての通り、田浦村は江戸湾に、桜山村は相模湾に面しています。この2村が船で行き来しようとすれば、三浦半島を大きく南に回り込むしかありません。この2村を結ぶ運河が出来れば江戸への短絡路となり、大きな時間短縮に繋がるでしょう。そこで、桜山村に河口を持つ田越川の流路を活かして三浦半島の付け根を東へ遡上し、その最上流で尾根筋を「掘り抜」いて東側の田浦村で江戸湾へと出られる運河を造ろうという計画をお上に願い出た、という訳です。

田越川については、以前浦賀道を取り上げた際に、その河口付近に架かる田越橋(現:富士見橋)を紹介しましたが、その付近ではかなりの川幅がありました。ここから田越川を遡上して船越新田方面に抜けるということは、現在の神奈川県道24号線(横須賀逗子線)のルートに近い位置で山を抜ける想定をしていた様です。この運河計画は30年も前から沼間村にまで風の便りに聞こえていたようですが、受理した先代の領主によって案外真摯に検討されたらしいことは、「丑年」の現地の検分が実施されたことで明らかです。

この計画に対し、田越川の上流に位置する沼間村が、許可を与えないで欲しいと願い出る意見が述べられているのが、この文書の主題です。沼間村は文書にも見える通り東西に細長く伸びた村で、その平地は田越川の両岸に展開するのみです。そして、その僅かな平地の他は谷間の斜面に何とか畑を作っているものの、鹿や猪の害に悩まされていたことが綴られています。この村の主要な生産地や住居地である僅かな平野から運河のために大々的に立ち退かされてしまったのでは、村に深刻な影響を及ぼすことになりかねない点を、この文書の筆者が懸念している訳です。

この運河の建設計画に関連する文書を他に見ていませんので、この運河を具体的にどの様に実現しようとしていたのかは定かではありませんが、考え得る可能性を検討してみましょう。運河は、荷物を積んだ高瀬舟が航行できる程度の水深(最低でも数十cm)が確保出来なければ実用になりません。それには相当量の流量が田越川になければなりませんし、更には尾根を切り開いて船越新田まで向かう運河にも同様の水量が必要ですから、その運河を満たせるだけの潜在的な水源も必要でしょう。


堰橋付近。田越川の通常の水位はこの程度
現在は治水工事によって河道が掘り下げられている
ストリートビュー
しかし、田越川の現状を見ても、この川がそれ程の水量に恵まれている様には見えません。神奈川県の資料によれば、田越川について、

田越川(たごえがわ)は、その源を逗子市沼間(ぬまま)の横浜横須賀道路の逗子IC付近に発し、逗子市内を貫流して相模湾に注ぐ、流域面積約13k㎡、幹川流路延長約3.1kmの二級河川である。河口から池子川合流付近(2.36km)までの長い区間が感潮域となっており、河口から久木川合流付近(0.56km)までは河床勾配がほとんどない。

(「田越川水系河川整備基本方針」1ページより)

と、かなり上流まで海水が入って来るものの、その上流では

堰橋地点における過去10年(平成17年~平成26年)の平均渇水流量は、約0.01㎥/s、平均低水流量は約0.02㎥/sである。

(同書6ページより)

と、ごく僅かな流量しかないことを指摘しています。江戸時代の流量が現在と同等かどうかはわかりませんが、付近の地形を見る限り、田越川の流量が現在より遥かに多くなる様な水源は見当たらないと思います。この流量ですと、幅1mの狭い水路でも水深は精々数cmに過ぎず、高瀬舟を浮かせる程の水深はとても確保出来そうにありません。実際に、現在の田越川の上流ではごく僅かな水深しかないことが上からの観察でも窺えます。まして、実用的な水運に使えるだけの幅を運河に確保するとなると、更に水量が足りないことになります。

因みに、「風土記稿」では田越川について

◯田越川太古要加波 郡の北に在り、沼間村の谷間より出て西流し櫻山村に至て海に入る、此川凡四名あり、水源にては矢ノ根川也能禰加波櫻山村に入て烏川可良須加波逗子村の界を流れて淸水川之美都加波と稱す、小坪村の界に至て始て田越の名を得夫より直に海に入る川幅源は僅二三間末は十二間に至る【東鑑】には多古江川と書し【承久記】は手越川に作る櫻山□條に詳なり

(卷之百七 三浦郡卷之一より、強調はブログ主)

と記しているものの、「風土記稿」の「川幅」は必ずしも水路自体の幅を意味しておらず、特に上流の渓谷になっている区間では谷の幅を測っています。従って、水源付近で2〜3間幅があると言っていても、この幅の低水路があったことを意味していません。


そうなると、田越川を更に浚渫して最上流まで海水が入り込む様にするしかありません。いくら田越川沿いの平地が特に平坦と言っても、最上流では標高は20mを超え、江戸湾側に越える峠付近では70m程に達します。県道24号線の沼間トンネルも標高36mほどの山腹に開口部を持っています。相模湾と江戸湾を海水路で接続しようとすれば、実質的にはこの標高の土地を海抜以下まで掘り下げることになります。これもとても現実味のある計画とは言えませんが、この文書で沼間村の平野が大きく失われてしまう心配をしているところをみると、あるいは彼らが伝え聞いた計画はこの方針だったのかも知れません。

実際にこの運河計画がその後どの様に検討され、どの様な理由で実現しなかったのかは定かではありませんが、何れにせよ、この計画が実行に移されることがなかったことは、運河掘削の痕跡が全く残っていないことで明らかです。恐らくは、内陸まで平坦な地が続くという地元の人々の素朴な感覚が、この運河計画を発想した背景にはあるのでしょうが、それを現実のものにするには、常に低いところに向かって流れる水を如何に大量に確保するかという、一筋縄ではない課題をクリアしなければなりません。当時の現実的な技術では、それは全く不可能とまでは言えないにしても、相当に高いハードルではあったでしょう。

また、幕末で海外から押し寄せてくる欧米の艦船への対応で手一杯になっている各領主にとっても、大掛かりで厄介な工事が確実なこの水路計画を、実現するだけの経済的な余裕がなかったことも、桜山村や田浦村にとっては不利だったと言えるでしょう。


JR横須賀線東逗子駅付近
東逗子駅の開業は昭和27年(1952年)/所在地の住所は逗子市沼間1丁目
地理院地図より)
しかし、この田越川付近の地図を眺めると、田越川に沿ってJR横須賀線が走っていることに気付きます。明治22年(1889年)に開業したこの鉄道は、逗子駅を出ると京急逗子線を潜った辺りから沼間トンネルに達するまで、田越川を数度渡りながらほぼ直線的に進みます。現在の東逗子駅からトンネルまでは勾配を登って行くのが車窓からでもわかりますが、そこまではほとんど平坦に見える区間です。

東海道線や横須賀線の開業に尽力した井上勝は長州藩の出身で、同藩が三浦郡に所領を持っていた頃に彼も三浦半島に来ていた様ですが、彼や当時の鉄道局に詰めていた長州藩の出身者が、果たして田越川を利用した壮大な水運計画があったことを知っていたかどうかはわかりません。ただ、勾配に弱い鉄路を新たに敷設するに際しては、この田越川沿いの平坦な土地は極めて都合が良かったのは確かです。

桜山村や田浦村の人々が思い描いた運河が実現することはなかったものの、その背景にあった地理的な特性は、別の形で活かされる結果になったと言えそうです。

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【小ネタ】将軍の炭風呂を沸かすのに必要な炭の量は?

前回までの「新編相模国風土記稿」に記された炭についての話を受けて、小ネタを少々。相模国には全然関係ありませんが。

Haichi1.jpg
江戸城の門と櫓の配置(内郭)
「西丸大奥」の文字が中央やや左手に見える
(By 甲良若狭 Tateita
- 原書房「図解 江戸城をよむ」より投稿者が作成。
CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons
ものと人間の文化史71 木炭」(樋口 清之著 1993年 法政大学出版局、以下「ものと人間」)には、「木炭史話」と題したエピソード集が併録されています。ここには雑誌のために書いたものから文化史的なトピックを中心に選りすぐったものを収めていることが「はしがき」に記されています。

その中に「炭風呂」と題した一稿があります。今は「炭風呂」と書くと木炭を湯に入れる方を指す様で、Googleで「炭風呂」で検索してもヒットするのはこちらの方です。が、この場合は炭で風呂を焚く方で、江戸時代の江戸城大奥の燃料が風呂も含めて炭であったという話です。何とも贅沢な話ですが、煙が出ないこと、そして防火上の必要があってのことであったと「ものと人間」では書いています。確かに多数の人間が狭い空間で共同生活を営んでいることから、その配慮が必要であったことは理解出来ます。

江戸時代、江戸城大奥の燃料は、炊事も、風呂も、暖房も、すべて炭であった。それは炭の無煙、無焔性と、温度の持続性によって、大奥の清潔と防火を考えたからであった。

江戸城大奥は、将軍の私邸であり、正夫人の住宅でもあるが、ここは男子禁制で、上は老女から下は端女(はしため)まで、多いときは二〇〇〇名からの女子が長局に住んでいた。そのうち、将軍の側妾に当たる御中﨟(おちゆうろう)はもちろんのこと、御目見得以上の女はいずれも、自分の部屋(四室一組)で炊事や入浴をしていた。この燃料もすべて炭であった。こんなに大量の炭は、伊豆天城山の御用林で焼かれたが、六貫五〇〇匁俵で年に一〇万俵、六五万貫の炭を焼いて、その中から冥加として差出す御用炭と、勘定所が民間から買い上げる佐倉炭や佐野炭で賄われていた。その中でも炊事に次いで大きい用途は、浴用燃料としての炭の消費であった。

(上記書212ページより)


因みに、65万貫は約2437.5トンに相当します。長局の2000名以外にも江戸城には様々な人がいた筈ですから、上記の数字を単純に頭割りにする訳には行きませんが、それでも1人当たりの炭の消費量も相当なものだったことになるでしょう。

そして、将軍が連日食前に必ず入浴していたことを記し、その入浴の折の一連の様子を事細かく書き記していますが、浴槽については

湯は今でいう五右衛門風呂の構造のもので、湯槽は方形、総檜造、流し場も檜の厚板張りで、二方の窓はガラス板がはめてあり、いわゆるギヤマン風呂であった。それは将軍入浴中は庭から御庭番(世にいう忍び衆で、服部半蔵に率いられる伊賀衆、甲賀衆を指す)が警備していて、浴室内で不慮のことがあってもすぐ庭から見えるように考えてあった。

(上記書213ページより)

としています。ただ、浴槽の大きさについては記載がありません。なお、1回の入浴に際して使われたものは全て使い回すことはせず、御小納戸の所得として払い下げられるとしています。当然沸かした湯も将軍が入浴したらそれで抜いてしまうのでしょう。

個人的に気になったのは、この将軍の「炭風呂」を沸かすのにどれだけの炭が必要だったのだろう、ということでした。そこで、お遊びでざっくりと概算を試みることにしました。無論、計算に必要な値を全て推量しての計算ですから、精度は全く期待出来ませんが。

まず浴槽の大きさから不明ですが、流石に地位の高い人の入る湯ですから、一般的な浴槽よりはやや大きめと想定します。現在造られている五右衛門風呂の浴槽の大型のものに、満水で490リットルという製品をネットで見つけました。当時もこれに近い容量があったと仮定し、400リットルとして計算してみます。

次に、沸かす前の水の温度と、適温になった湯温がどの程度だったかが数字として必要です。これも井戸水を使うか、それとも地表水を使うかで変わってきますし、後者の場合は季節変動もありますから振れ幅がかなり大きくなります。江戸には神田上水や玉川上水といった上水道を使って地表水を配水していましたから、現在の東京の地表水の平均水温が必要ですが、あまり適切なものがないのでこちらに掲載されている東京都の年間の上水道の平均水温を使うことにします。これによれば年平均16.2℃となっていますが、概算なので小数点以下を外して16℃の水を沸かすと仮定しました。風呂としての適温はこれも人によって異なりますが42℃くらいとすると、26℃上昇させる必要があることになります。

すると、大元の定義によって400リットルの水は400kgであり、これまた当初の定義に従って1グラムの水を1℃上昇させれば1カロリーですから、26℃上昇させるにはおよそ

400kg×26℃=10,400kcal

の熱量が必要ということになります(今はそれぞれの単位を違う形で定義しますが、概算ということで簡略な方法を採っています)。次の計算で必要なので、カロリーをメガジュール(MJ)に換算すると約43.51MJという数字になります。

一方、必要な炭の量を求めるには発熱量が必要ですが、こちら(リンク先PDF)に各種燃料の単位発熱量がまとめられているので、今回はこれに従います。これによれば、木炭の単位発熱量が1kgあたり15.3MJとされています。因みに、木材(薪)の単位発熱量はこれより少し低く1kgあたり14.4MJになっていますから、価格はともかく重量だけを見れば炭とそれほど差はないことになります。

そして、炭の発した熱が全て浴槽の水に移る訳ではなく、その一部は周辺の大気などを暖めて逃げていってしまいますから、その分を割り引く必要があります。それには風呂釜の「熱効率」が必要なのですが、当時の五右衛門風呂の熱効率がどの程度だったのかも不明です。一応、ここに薪燃料を使った風呂の熱効率を55%として計算した例がありまので、今回はこの数字を仮に使って計算することにしました。

すると、

43.51MJ÷0.55÷15.3MJ/kg≒5.17kg

という計算が出来ます。繰り返しますが仮定だらけの計算ですから精度は全くありませんが、おおよその目安にはなるかと思います。先ほどの熱効率の数字を拝借したページでは、前提とした数値に多少の差があるものの、薪で風呂を沸かす場合の必要量として約6kgという計算結果が出ていますので、薪と炭の単位発熱量の違いを考えるとそれほど隔たっていないとは思います。が、当時の五右衛門風呂の熱効率が果たしてこの程度で収まったかはかなり微妙なところですから、その分を踏まえるともっと炭が必要だったかも知れません。また、警備のために外から見える様に、当時としては珍しくガラス張りになっていたという浴室は、熱効率という点ではあまり有利とは言えませんから、これも炭の必要量を押し上げていた可能性もあるでしょう。

先ほど引用した「ものと人間」では1俵を6貫500匁(約24.375kg)で計算していますので、今回の計算では1俵で将軍の入浴5回分弱といったところになります。年間で78俵ほどの量ということにになりますね。なお、大奥の風呂は全て炭で焚かれていたとしていますが、風呂の数は200を超えていた(200ページ)としていますから、その全てを沸かすだけでも大変な量の炭が必要になったことは確かでしょう。ただ、炭の場合は熾火にすることが出来る関係で冷め難いのが特徴ではあったので、将軍以外の風呂では幾らかメリットもあったかも知れません。また、こうした保温効果の良さが炭で沸かした風呂を最上のものとする見立てにも繋がっていた様です(214ページ)。

「ものと人間」では、一般的な武士や町民の当時の燃料代の占める割合について、文政8年(1825年)の「刑罪随筆」(橋本敬簡著)や「柳庵雑筆」(栗原信充著)を拠り所に、炭代が全所得の3%程度、薪が8%程度と算出しています(197〜200ページ)。これで炭や薪が何俵くらい買えるかが問題ですが、残念ながら精確なところを明らかにしようにも炭俵の容量も不統一で、また炭の品質や年代などによる価格変動が大きく、目安を示すのが難しいとしています(116ページ)。とは言うものの、武家や商家であっても燃料の基本は薪の方であったことがこの比率からも見て取ることが出来ますから、将軍以下大奥に詰める女中衆まで炭で沸かした風呂で入っていたという江戸城の炭の消費が、多分に当時の燃料消費の実情からかけ離れていたことは確かでしょう。

火災への配慮からこの様な措置になったということは、恐らくは家康が江戸入りした当初から炭を使っていたのではないのでしょうが、その防火対策による維持管理コストは大変なものになっていた様です。その割に江戸城も幕末まで幾度となく火災に見舞われ続けていたのですが…。
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【小ネタ】初物、悲喜こもごも

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新春に…という程に因むものでもありませんが、初物にまつわる触書を今年最初の記事にしましょうか。

武蔵国橘樹郡生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区生麦)に伝わっていた寛保2年(1742年)6月付の触書が「神奈川県史 資料編7 近世(4)」に収められています。「生麦」と言えば幕末にはあの「生麦事件」の舞台となった村ですが、これはその100年以上も前の話です。

一ます   正月節ゟ    一あゆ   四月節ゟ

一かつを  四月節ゟ    一なまこ  九月節ゟ

一さけ   九月節ゟ    一あんこう 十一月節ゟ

一生たら  十一月節ゟ   一まて   十一月節ゟ

一白魚   十一月節ゟ   一あいくろ 三月節ゟ

一ほしとき 七月節ゟ    一かん   十月節ゟ

一かも   十一月節ゟ   一きし   九月節ゟ

一つくミ  九月節ゟ    一生しい竹 正月節ゟ

一生わらひ 三月節ゟ    一竹子   四月節ゟ

一さゝけ  六月節ゟ    一松たけ  八月節ゟ

一なすひ  五月節ゟ    一白ふり  五月節ゟ

一ひわ   五月節ゟ    一真くわ瓜 六月節ゟ

一りんこ  七月節ゟ    一なし   八月節ゟ

一ふとう  八月節ゟ    一御所かき 九月節ゟ

一くねんぼ 九月節ゟ    一みつかん 九月節ゟ

一ほうふう 二月節ゟ    一ねいも  四月節ゟ

一つくし  二月節ゟ    一葉せうか 三月節ゟ

一めうと  八月節ゟ

右品〻貞享年中・元禄年中も相触候通、此書付之通来正月ゟ商売可仕候、初出候節も直段高商売仕間敷候、前かたも相触候通、献上之品たりといふとも、各別高直商売仕間敷候、右之趣相背もの於有之、可為曲事者也、

右御触書寛保弐戌年六月御触有之候、

(上記書177〜178ページ「魚・鳥・野菜等売出時節定につき触書」より、変体仮名は適宜置き換え)


これも前回の触書同様の経路を経て各村々に通達されたものを、備忘のために村で書き留めたものでしょう。ただ、この触書が何処からどの様な経路を経て伝えられたものかについては書き留められなかった様です。

鳥類写生図「雉」
牧野貞幹「鳥類写生図」より「雉」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
キジの雄は繁殖期に高鳴きすることが知られているが
初物解禁は繁殖期を過ぎた9月(旧暦)とされている
要するにこれらの品々に対して初物解禁の時節を個別に定めて周知する触書ですね。個々の品々の名に濁点が殆ど記されていないこともあり、ちょっと見ただけではピンと来にくいものもありますし、今となっては殆ど膳に載ることがなくなったものも含まれています。特に野鳥類は殆ど食されることがなくなりましたが、雁・鴨・(つぐみ)などは何れも北方からの渡り鳥ですから、こうしたものに季節があるのは良くわかります。他方、今となっては栽培方法の変更などの影響で季節感を感じることが少なくなった品目も多数入っており、この一覧は当時の季節感を考える上でも参考になる史料と言えます。


江戸自慢三十六興「日本橋初鰹」
歌川広重「江戸自慢三十六興」より
「日本橋初鰹」
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)
既に貞享年間(1684〜1688年)、そして元禄年間(1688〜1704年)に同様の触書が廻されていることが記されていますが、どうやらあまり遵守されていなかったか、あるいは再び遵守されなくなって来た様で、これが少なくとも3度目の触書ということになります。もしかするとここに記されていない関連する触書が出回っているかも知れませんが、前回の元禄の触書から40年ほど経っていることになるでしょうか。

そのくらい、「初物」には根強い人気があったということになるでしょう。当時のこうした風習を伝えるものとしては「初物七十五日」といったことが言い慣わされていたり、「女房を 質に入れても 初鰹」に代表される様な川柳の数々に詠まれた初物への憧れなどを挙げられるでしょうか。もっとも、「初物を食べればそれだけ長生きできる」という、当時の素朴な民間信仰が初物への傾倒を生んでいたとすれば、そのくらいにしてでも長寿は得たいもの、と思われていたということになりそうです。こうした風習の名残は、今でも箱根の「黒たまご」などの様に、延命の言い伝えと共に販売されているものに見られますよね。

ただ、それが初物の価格の極端な高騰を呼んだことから、幕府としてもこの様な触書を出して規制をしようとした訳です。初物解禁の日を定めただけではなく、初物であることを理由に高値で販売することを禁ずる内容になっています。また、それが庶民だけの話ではなかったことは、この触書でも「献上之品」という言葉が表れていることでわかります。献上品での初物の扱いについて、「徳川将軍家の演出力」(安藤 優一郎著 2007年 新潮新書198)では次の様な例を紹介しています。

この件については、(注:松平)定信に提出された「よしの冊子」にも次の記事がある。

諸家より献上物の内に、殊の外物入り、人夫もかゝり、殊により、人死出来候程の物御ざ候へども、献上に相成候後は、右の品も、何の御用にも立たず、拝領仕り候者共も、あまり賞翫(しょうがん)も仕らざり候物多く御ざ候よし。是等は、越中様の思召にて、諸侯・下民の難義仕らざる上にも、御不用なき様にも成りそふな事と、評判仕り候もの御座候よし。越前の生鱈(なまたら)抔取り候には、殊により、人死も御座候よし。其上、道中急ぎ人夫願い仕り候よし。諸家にも、右の類多くこれあるべきよし。しらべ候はゞ、皆相分り申すべきよしの沙汰、楊貴妃に媚びて生霊芝(茘枝)を献上し、人歩を多く損ね候咄も御座候(「よしの冊子」)。

死人を出していたのは、越前松平家の初鱈献上だ。当時、初物の人気は非常に高く、初鰹などはその象徴だった。日本海側の名産である鱈の場合、越前の鱈はその代表格であり、松平家では初鱈を手に入れるため、危険を冒し、鱈を取らせたようだ。そのため、死人まで出していた。

そうした犠牲を払って調達した鱈を、一日でも早く江戸に届けるため、松平家は急行便にすることを幕府に願い出たらしい。そこでも、犠牲者を出したのだろう。「よしの冊子」の記事では、中国料理のデザートとして知られる茘枝を楊貴妃に献上するため、多くの人夫の犠牲者を出した古代中国の言い伝えが紹介されている。

初鱈を献上していたのは、越前松平家だけではない。加賀藩前田家、若狭小浜藩酒井家、出羽庄内藩酒井家など日本海側の諸大名も初鱈を献上していた。よって、初鱈に限らず、一番乗りの名誉を獲得するため、急行便を願い出る大名は多かった。将軍への忠誠心というより、他の大名に負けたくないという競争心理が働いていたのだ。

(上記書158〜161ページより、…は中略)


初物が長寿に良いらしいという評判が先にあったのか、それともこうした大名家相互の沽券を賭けた競争が庶民の関心を更に焚き付けのか、あるいはそれらが両輪となって狂奔に近い状況を生み出していったのか、解釈は様々出来そうです。ただ、その挙句に死者が出る程にまでエスカレートしていたとなれば、幕府も重ねて規制に乗り出さざるを得なかったのも納得出来るところです。

また、「よしの冊子」は水野為長が松平定信に提出した世情の風聞をまとめた書ですが、定信が老中職にあった天明3年(1783年)〜寛政5年(1793年)頃のものですから、寛保2年の触書から更に40〜50年ほど経っていることになります。つまり、結局寛保2年の触書もそれまでの触書同様、やはりあまり遵守されていなかったか、あるいはまたしても遵守されなくなって来ていたことになるでしょう。そのくらい、当時の「初物」への憧れは根強いものがあった様です。長寿への願いの強さが裏にあるにしても、度を越せば…ということなのでしょうね。
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【小ネタ】「お年玉強請るの、禁止!」

年の瀬に因んで、もう1件正月に関連した文書を紹介して今年の締めにすることにしました。年末で図書館が閉まってしまったので、今手元に借り出している資料以外見られず、ごく簡単な紹介しか出来ませんが。

幕末の嘉永6年(1853年)の正月早々に、津久井県の村々にこんな御触が廻りました。

近来正月之内村〻おいて小児共寄集居、往還泥縄等引張往来之もの迷惑為致、銭ねたり取、飴・菓子抔買喰致を能事心得追〻増長、中ニ者右銭を元手致賭事携候族も有之候哉相聞、物貰同様之所業以之外成儀候、右畢竟親〻共養育方不宜ゟ起候事付、重右躰之儀いたす間敷旨、小児共急度申聞、村役人おいても精〻差止可申、此上廻村先ニ而右様之儀及見聞候得無用捨召捕、夫〻厳重取計致候条心得違之もの無之様、組合村〻小前末〻迄無洩落念入可申聞候、以上、

(嘉永六年)正月

関東御取締出役

以廻状申達候、別紙之趣早〻組合村〻へ致通達、高札場村役人宅前認張出し置、無違失相守可申、村名下令請印順達、留ゟ可相返候、以上、

正月六日

関東御取締出役

相州津久井県

日連村

中野村

右寄場役人

大惣代中

右之通り被仰渡候間、則篤を以申入候間、早〻通達可被成候、以上、

正月九日

右中野村

与頭

元右衛門

太井

小倉

葉山島

上下川尻村

三井

三ヶ木

青野原

右村〻

御名主中

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」513〜514ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え)



相模原市緑区三井の位置Googleマップ
この史料は津久井県三井(みい)村(現:相模原市緑区三井)に伝わる「御用留」、つまりお上からの通達などを後々のために書き留めておいた「手控え」の中に転記されていたものです。こうした御触は一旦中野村(現:相模原市緑区中野)や日連村(現:相模原市緑区日連)に届いた後、それらの村を拠点にして各々の組合村へと回覧されており、そのうち中野村が筆頭となっていた組合村の名が8つ記され(但し上川尻村・下川尻村は1村の様に記されているので実質7村)、ここに各村が印を捺して回覧されたことを確認する仕来りでした。この触書を高札場や村役人の家の前に掲げて周知する様に指示されていますね。差し出したのが「関東御取締出役」とありますから、恐らくは関東の方々の村々に向けて同様のルートを経て回覧されていると思います。因みにこの役人は、関東の村々の博徒などを取り締まる目的で江戸時代後期に創設された、言わば移動警察隊と言うべき存在でした。

東海道分間絵図より牡丹餅茶屋付近
「東海道分間絵図」より牡丹餅茶屋付近(再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
東海道の茅ヶ崎や吉原で子供たちが宙返りなどをして見せて小遣いをせびっていた例を、以前何度か紹介しました。
江の島辺りでは少々煩わしい程に纏わり付いてくる例もあった様ですが、全体としてはさほど咎められている様子もなく、こうした状況が江戸時代の長期にわたって常態化していたのは確かな様です。ただ、この触書にある様な街道に縄を張って道行く人を引っ掛ける様な悪戯までは流石にしていなかったでしょう。


「近来正月之内」とあることから、恐らくは年明けの「お年玉」稼ぎなのでしょう。無理矢理にでも往来の足を留めさせても銭をせびる様になっていたとあっては「強請(ゆす)り」に近く、その挙句そのお金で買い食いをするだけに留まらず、賭け事(といっても子供同士のものでしょうが)にまで使う様になっていた、という事態が役人の耳に入った様です。賭け事の件は「相聞」とありますから、飽くまでも役人が聞いた限りではということでしょうが、何れにせよここまでエスカレートしては流石に見て見ぬ振りは出来ないということで、「もっときちんと躾をしろ」という御触が廻ったという訳です。

1853Yokohama 01.jpg
黒船来航を描いたアメリカのリソグラフ
("1853Yokohama 01"
by Lithograph by Sarony & Co., 1855,
after W. Heine - Library of Congress.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
嘉永6年、1853年と言えば、ペリー率いる黒船船団が浦賀に入港した年です。またこの2年前には「天保の改革」で一旦廃止された問屋・株仲間が再興されるなど、経済の混乱振りが際立つ様になっていました。この様な時期に出された御触ということもあり、こうした子供たちの素行に当時の世相の混乱ぶりが現れていたのかも知れません。もっとも、「関東御取締出役」という役人の立場故に殊更に事を大きく捉えている可能性もあり、こうした悪事が本当に子供たちの間で横行していたと考えて良いかどうかは、もう少し他の史料と重ね合わせて見る必要があります。

この様な御触が出てしまったとなると、東海道筋で長年子供たちが続けてきた宙返りの稼ぎなども、併せて禁止とされてもおかしくはありませんが、実際の所はどうだったのかも気になるところです。機会があれば、またこれらの裏付けとなる様な史料を漁ってみたいと考えています。



今年の更新は以上です。多大なアクセスをいただきまして誠にありがとうございました。皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

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