「林産物」カテゴリー記事一覧
一昨年に、「『津久井県の「漆」』補遺:「ホイ」って何? 」という記事について「解決編 」と銘打った記事を書きました。安政6年(1859年)足柄下郡府川村(現:小田原市 府川)が発行した嘆願書に登場する「ホイ」という言葉について、その意味を探るものでしたが、この時点では後続の記事を書くことになるとは思っていませんでした。しかし最近になって、更に補足すべき資料を見つけましたので、改めて取り上げることにしました。 問題の資料は「神奈川県 民俗調査報告21 分類神奈川県 方言辞典(Ⅰ)―自然・動物・植物― 」(2003年 神奈川県 立歴史博物館、以下「辞典」)です。たまたま神奈川県 の他の方言を確認しようとして図書館で見つけたものですが、ふと「ホイ」のことを思い出して探してみたところ、この様な記述を見つけました。ホイ 萌芽。めばえ。ひこばえ。若枝のこともいう。「ホイが出てる」。<⑯厚 、愛 清川、(63)津 城山、(64)愛 愛川(半原)>→カミソリボイ・キッポイ・ケホイ。
(上記書43ページより、下線は同書では市名・郡名の省略を意味する。括弧数字は実際は丸数字で、どちらも出典文献を示すがここでは省略)
※関連事項として挙げられた3例については次の様に記されています(関連事項は省略)。
カミソリボイ 剃刀のような若芽。<(64)愛 愛川>(38ページ)キッポイ 雑木などのひこばえ。<(64)愛 愛川>(38ページ)ケホイ →キッポイ<(64)愛 愛川>(38ページ)従って、「ホイ」の採集事例としては他の地域は含まれなかったことになります。
「ホイ」が採集された地点 赤点が「辞典」、青点が文書 (「地理院地図 」上で作図したものを画像出力し リサイズ) この調査に従えば、「ホイ」の採集例は厚木市 、愛甲郡清川村 、津久井郡城山町(現:相模原市緑区の城山地区)、愛甲郡愛川町 半原の4地点で、小田原市 域は含まれていません。小田原市 域は久野、国府津、水之尾、江之浦、上曽我の5地点が調査地点に含まれていますが、たまたまこの調査の際には採集出来なかったということでしょう。従って、この調査結果だけを元に「ホイ」の分布域を特定するのは問題があります。少なくとも府川村の場所は上記4箇所からかなり離れていますし、その間に位置する村々でも使われていた可能性を否定できません。更にこれらの地点の外側でも、「ホイ」という言葉が使われていた可能性もないとは言えません。 とは言え、現在の神奈川県 下では主に県西部で使われる言葉であった様です。県外への拡がりがあったかどうかは今のところ不明ですが、その採集された地域の地形からは、山仕事に関係のある言葉だった可能性がありそうです。厚木市 は相模川西岸に中心地がありますが、調査地点を見ると川入、七沢、上古沢、戸田と4地点中3地点は比較的山間に近く、採集結果はその影響が反映した可能性が考えられます。 今のところ江戸時代の文書中に「ホイ」という言葉を見出したのは、府川村の嘆願書の1件だけです。そもそも、私の乏しい経験の中では、江戸時代の文書中で現在「方言」に分類される言葉を見出す事例は意外に見かけない様に思えます。当時はまだ「標準語」という概念が登場する前ですが、それでも多くの文書は江戸幕府や地方で行政を取り仕切る役人などとの間でやり取りする目的で書かれたものです。その様な文書の中では、こうした役人に通じる言葉に統一する圧力が働きやすいことが、「方言」に類する言葉を見掛け難い状況を生んでいたのかも知れません。その意味では、同様の事例を他の文書に見出す可能性はかなり低いと言わざるを得ません。 ただ、府川村から嘆願書を出すに当たっては、彼らの使っていた「ホイ」をより標準的な言葉に置き換えなければいけないという意識が働かず、それが結果的に嘆願書に「ホイ」という言葉を使うことに繋がったのでしょう。こうした事例が少ないながら他にないのか、折を見て更に探してみたいと思います。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-553.html 再補足→『津久井県の「漆」』補遺:「ホイ」って何?
新型コロナウィルス禍の煽りで、私が日頃利用している図書館も軒並み閉鎖されてしまっているため、必要に応じて文献を参照しに行くことが出来なくなっています。特に地方史・郷土史関係の書物は、これらの図書館では貸出禁止の扱いとされているものが多いので、貸出業務だけが制限付きで開けられていても目的を果たすことが出来ないのが実情です。 そこで、今回は以前の記事を作成する過程で見つけたものの、結局記事では使う場所を見つけられなかった浮世絵を1枚紹介したいと思います。魚屋 北渓( ととや ほっけい ) の「江島記行 藤沢」という絵です。江島記行 藤沢(魚屋 北渓):シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago) この絵の存在を知ったのは「みゆねっとふじさわ 」を検索してのことですが、他に「ボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston)」と「シカゴ美術館 (The Art Institute of Chicago)」にも同じ絵が所蔵され、デジタル化されたものが公開されています。上のイメージは、パブリック・ドメインのイメージを許諾なしで利用可能 であることが宣言されているシカゴ美術館のものを縮小して掲載しています。 この浮世絵は昨年松露にまつわる2件の日記について 調べる過程で見つけたものです。「みゆネットふじさわ」の解説にもある通り、絵の中心で茶屋の娘が客の旅人に「松露通( しょうろかよい ) 」と記された台帳を手渡しています。絵の上部には2首の狂歌が書かれていますが(ボストン美術館のデジタルコレクションでは、この2首がローマ字で読み解かれています)、どちらも松が取り上げられており、松露は直接詠まれていないものの、藤沢の名物として知られる松露に肖って選ばれたものと考えられます。 「みゆネットふじさわ」の解説によれば、この絵は全部で16枚続きのシリーズのうちの1枚で、現在はそのうちの14枚の所在が確認されているとされています。ボストン美術館のサイトで「Enoshima Kiko」で検索する とその全部がヒットします(15点がヒットしますが、うち「神奈川」に重複があります)。「みゆネットふじさわ」では、この画集は高輪を出発して東海道を下り、江島道を経由して江の島へと旅行した際の記念に制作されたと考えられている、としています。 その様な画集の1点としての藤沢の画題に、名物とされた「松露」を象徴するものが描かれている訳です。藤沢を象徴するものとして松露が取り上げられている画集の例は非常に珍しく、私が調べた限りでは他の例を見つけることが出来ませんでした。松露の流通に携わる人の姿を記録したものは、今のところこれが唯一と言えそうですし、この絵に登場する「松露通」の存在を確認出来るものも、この絵以外には見ていません。 もっとも、それだけに現状では当時こうした松露の買い付けを行っていた彼らの活動の実情を明かす史料が何も見つかっていないのが実情です。今はこの絵を手掛かりに、その裏付けとなる史料が見つかるのを待つしかありません。 一方、この絵で私が気になるのは、この絵の構図です。特に、松露の買い付け人の2人が「左へ」向かおうとしている点が引っ掛かります。藤沢宿周辺と富士山の位置関係 (「地理院地図」上で作図したものを スクリーンキャプチャ:別ページで表示 ) この絵では右側に描かれた茶屋から左にかけて、道がやや登り加減に描かれています。そしてその向こうに、富士山が見える様に描かれています。しかし、藤沢界隈の街道の中に、この条件に合致する場所が思い当たりません。富士山は藤沢からはほぼ西側に位置します。大鋸橋の西側では旧東海道はほぼ東西に伸びていますので、この区間が該当することはありません。大鋸橋の東側の旧東海道は北東から南西に向かいますので、この区間なら富士山が見えている可能性はありますが、道はほぼ平坦か、むしろ遊行寺に向かって降りて行く点が合いません。江島道に入れば、巌不動尊へ向かう辺り に上り坂がありますが、「江島道見取絵図」ではこの辺りには建物が描かれておらず、茶屋の存在が合いません。そもそも、「みゆネットふじさわ」の解説が「峠」と書く通り、茶屋はかなり高い場所に位置していた構図になっていますが、江島道にはそこまで高い場所に登って来る区間がありません。 従って、この絵は実景を描写したと考えるよりは、北渓が自由に発想して構図を決めた可能性が高いと考えられます。しかし、先述した通りこの絵は江の島への道中を描いた画集の1枚であることから、構図を考える上でも自らが歩いて眺めたであろう風景を念頭には置いたと思えます。 つまり、この富士山が見える様に描かれた構図では、江戸方が絵の「右」に来る位置関係にあったことは北渓も見ていた筈だろうと思います。その絵の中で買い付け人の2人が「左へ」向かおうとする構図を採ったということは、江戸とは反対方向に向かう様に北渓が描いたことになります。彼らが「松露通」を茶屋に置き忘れたのは、茶屋で荷物からその帳簿を取り出して広げていたらしい(つまり仕入れの記録を見返していた)と推察出来ます。そのことや、数多くの行李を背負う姿から、彼らは松露の仕入れは済ませた様に見えますが、それで江戸から離れる方へ向かうとなれば、彼らは江戸とは別の場所で松露を売り捌こうとしていることになります。 無論、北渓が何処まで実景を意識して構図を決めたと言えるか、現時点ではかなり心許ない面があります。しかし、北斎の門人という絵師が、絵から受け取る印象にそこまで無頓着であったとも思えません。少なくとも、買い付け人たちが江戸以外へ向かおうとする姿を描くことに、北渓が違和感を感じずにいた様に見えます。 昨年の記事で紹介した日記には、松露は江戸の他に大山道の中途にあった子安(と思われる地)へと運ばれていた記録がありました。こうした記録の事例が少ないので、松露の出荷先を列挙するにはまだ足りませんが、北渓のこの絵は江戸以外へと持ち込まれる松露の量が意外と少なくなかったことを、暗示するものになるのかも知れません。勿論、飽くまでこれも絵から受ける印象に留まっていますので、江戸以外での松露の消費事例を示す史料をもっと捜す必要があることを、示唆されていると受け取るべきでしょう。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-522.html 「江島記行 藤沢」(魚屋 北渓)について
以前 漆について記事を書いている過程で目にした「漆ホイ」という言葉について、当時はその意味を示した文献等を見出せず、恐らくは若木若しくは苗木の意かと推測を書き記すことしか出来ませんでした。その後殆ど念頭から消えかけておりましたが、今日になって偶然その意味を記した本を見出すことが出来ました。三保地区の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ) 「酒匂川文化財総合調査報告書 」(酒匂川文化財調査委員会編、1974年)がその本で、これは三保ダム建設に伴って水没することになった三保地区(山北町、江戸時代の世附( よづく ) 、中川、玄倉( くろくら ) 村)の民俗資料、無形/有形文化財、遺跡調査、動植物調査をまとめたものですが、このうち民俗調査で地域の産業について記す中で「炭焼」について記述する文章の中に「ホイ」について短く注が挿入されていました。炭焼きの時期は雑木中心の昔は年間通し焼き通したが、大正の中頃櫟の苗を植林しはじめると、10〜11月から翌年の4〜5月の木が水を上げない時期が最も良いとされた。これは7、8月に焼く櫟の炭は皮が取れ火のつきが悪く売り物にならないばかりか、大切な櫟のホイ(切り株よりの新芽をいう) の出を悪く木をいためるからである。
(上記書25ページ、強調はブログ主)
「櫟」にルビはありませんでしたが、この辺りで一般に炭焼に用いられる樹種ということから考えて、「くぬぎ」と解するのが妥当でしょう(「櫟」には他に「いちい」を指す用例があります)。炭焼に用いる場合、あまり樹が太くならないうちに伐採し、残った切株は再び芽を出して同等の太さになるまで成長するのを待つ訳です。その新芽のことをこの辺りでは「ホイ」と呼んでいた様です。 以前の記事に引用した文書に立ち戻って解釈し直すと、漆の木を伐ったあと折角切株から伸びて来た新芽を、府川村の峯蔵が(恐らくはそれとは知らずに)伐ってしまった、ということになるでしょう。このことからは、当時の漆の栽培でも、一度漆を取り終えて伐り倒した後も、切株から再度成長させて次の収穫を待つ、ということが行われていたことがわかります。その点で、この文書は当時の漆栽培の実情の片鱗を窺い知る手掛かりを含んでいたと言えるでしょう。 無論、「ホイ」という言葉の用例を確定するにはまだ用例が十分とは言えませんし、この言葉が使われていた地域がどの程度の拡がりを持つのかもまだ不明です。ただ、取り敢えずはその意味を理解出来ただけでも一歩前進ということで、ひとまず補足として書き留めておきます。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-518.html 解決編→『津久井県の「漆」』補遺:「ホイ」って何?
松露、上は2つに裂いた状態 (CC 表示-継承 2.5 , via Wikimedia Commons ) 先日来 、小川泰堂の「四歳日録」を取り上げて来ましたが、今回はその中に現れる、地元の産物である「松露」について書かれた箇所を見ていきます。更に、藤沢宿近傍に在住していた別の人物による日記にも松露の名が見出されたため、今回はこれも併せて取り上げます。何れも以前の「新編相模国風土記稿」で紹介された松露についての記事 の補足という位置付けです。 まず、「四歳日録」では、次の3箇所で「松露」が登場します。うち2箇所では浜防風の名前が一緒に現れます。
明治8年(1875年)3月29日(19〜20ページ):中村徳次郎を訪( と ) ひ平野六三郎を招( まね ) いて一議( いちぎ ) す。松露( しやうろ ) を燒( やい ) て一盃( いつはい ) をすゝむ。佳肴( かかう ) これに過( すき ) ずと思へり。
明治8年5月8日(32ページ):昨日( きのふ ) 賀會( がくはい ) にありし人々奥村嘉藏を誘引( ゆういん ) して辻堂( つぢだう ) 村の海畔( かいはん ) に出遊( しゅつゆう ) せり。八松原( やつまつばら ) の古跡( こせき ) など尋( たづ ) ね、人は松露( しやうろ ) を拾( ひろ ) ひ我は筆艸( ふでくさ ) を摘( つ ) む。漸( ようや ) く濱邊( はまべ ) にいたるにきのふの雨風( あめかぜ ) の餘殘( なごり ) にて、潮( うしほ ) 濁( にこ ) り浪( なみ ) 高( たか ) くて漁夫( りやうし ) の網( あみ ) をひくにすべなし。皆口々に興( きやう ) なしとのゝしる、我は然( しか ) らず花のちり果( はて ) たる月の雲( くも ) にかくろひたる還( かへつ ) て見處( みところ ) 多し。薯蕷( やまのいも ) を掘( ほり ) て鰻( うなぎ ) を得、蚌哈( はまぐり ) を探( さぐ ) りて雀( すゝめ ) を捕( とら ) ふなど的( まと ) を外( はづ ) して的( まと ) に中( あた ) る。これを不求( ふぐ ) の獲物( えもの ) 意外( いがい ) の遊樂( ゆうらく ) といふべしなどいへば、各々うち興( きやう ) じ流れよりたる塩木( しほき ) を拾( ひろ ) ひ焚火( たきび ) して酒をあたゝめ、沙地( すなち ) に奔旋( はんせん ) して手に手に濱防風( はまぼうふう ) を掘り、しばしゝて籠( こ ) に滿( みち ) たるを調( てう ) じて肴( さかな ) とす。天霽( そらはれ ) 風やゝ凪( なぎ ) て山海( さんかい ) の遊目( ゆうもく ) 又類( たぐひ ) なし。村にかへれば漁父( りやうし ) 門三郎待請( まちうけ ) て其家( そのいへ ) に迎( むか ) へ、鶏卵( けいらん ) を炙( あぶ ) り河漏( そば ) を揑( こね ) て饗應( きゃうおう ) す。漁家( ぎょか ) の質朴眞情( しつぼくしんじやう ) いと濃( こまや ) かなり。これより醉歩( すいほ ) 方向( ほうかう ) を定めず浪々( ろうろう ) として日暮( ひくれ ) 家にかへる。
明治9年(1876年) 4月11日(110〜111ページ):小嶋( こしま ) 伴次郎に哄誘( きやうゆう ) せられ三・四名と同しく海濱( はまべ ) に遊ぶ、小松原に落葉( おちば ) を焚( たい ) て酒を溫( あたゝ ) め詩( し ) や歌( うた ) や雅談( がだん ) はやく醉( ゑひ ) を惹( ひ ) く。こゝに婦人( ふじん ) 兩三名川字絃( さみせん ) を擔( かた ) げ追來( おひきた ) りて同飮( どういん ) し、且( かつ ) 唄( うた ) ひ且( かつ ) 舞( まひ ) て人界( にんかい ) の歡娯( たのしみ ) を極め、又網( あみ ) に獲( え ) たる魚を手( て ) して調( てう ) じ、又は茅花( つばな ) をぬき松露( しやうろ ) をひろひ防風( ぼうふう ) を摘( つむ ) のたのしみは天上( てんじやう ) の淸樂( せいらく ) ともいふべし。日影( ひかげ ) もやゝ伊豆( いづ ) の山の端( は ) に傾( かたぶ ) きたれば徐々( じょじょ ) として歸路( きろ ) におもむく。
(以上、「藤沢市 史料集(二十三) 小川泰堂「四歳日録」(下) 」藤沢市 文書館編集・発行 より、ルビも同書に従う、強調はブログ主)
最初の1件に登場する2名は何れも藤沢のかつての宿内に住んでいた、「四歳日録」でも比較的登場回数が多い人物です。そのうちの1名の家に上がり込んで一献に及んだ際に、酒の肴として松露を焼いたものが出て来たという訳です。松露のシーズンは概ね3〜5月とされていますから、この松露は比較的早い時期に穫れたものということになるでしょう。 それを泰堂は「佳肴これに過ず」、つまり酒の肴としてこれ以上のものはない、と絶賛しています。「四歳日録」には、泰堂が知人・友人らと頻繁に酒の席を持ったことが記録されているのですが、その際に膳に上った料理については必ずしも記述は多くなく、ましてその良し悪しを記した箇所は殆ど見当たりません。そうした中でこの焼き松露を最上級の表現で褒め称えているのは、よほど泰堂のお気に召した料理だったと言えるでしょう。小川泰堂邸と辻堂・鵠沼海岸の位置関係 赤マーカーが小川泰堂邸の位置 赤実線は東海道、橙実線は江島道 (「地理院地図」上で作図したものを スクリーンキャプチャ:別ページで表示 「土地条件図 - 数値地図25000(土地条件) 」 「明治期の低湿地」合成) 残りの2件は両方とも海辺へ出掛けて宴を持った際の様子が記述されています。明治8年には辻堂海岸へと出掛けたことが明記されていますが、翌明治9年の方は単に「海岸」とだけ記しています。この場合、「四歳日録」の他の日の記述から、概ね鵠沼海岸へと出掛けたものと推測出来ます。泰堂の家からは鵠沼の海岸が最も至近で、一番出掛けやすい場所にあったことは確かでしょう。その間は以前も取り上げた通り 砂丘が連なる土地であり、境川が形成した湿地や沼を抜ければ海岸の砂浜と連続するような景観だったと考えられます。泰堂はしばしばこれらの海浜へ足を伸ばしていた様です。 こうした浜辺での宴がいつ頃から持たれる様になったのか、その実情については泰堂は特に何も記していません。ただ、これらの砂丘や砂浜は江戸時代には「相州炮術調練場(鉄炮場) 」として幕府によって管理されていた場であることは思い起こしておく必要があると思います。江戸幕府の解体に伴い、明治元年に調練場の指定は解除されています。 大筒の轟音に魚が逃げてしまい、漁獲にダメージを与えることから、調練が1年おきに制限されるなど、常時調練場を弾が飛び交う状況であった訳ではないとは言え、少なくとも「四歳日録」に見える様に思い立って即日に立ち入って宴を持つ様な、気楽な立ち入りが容認される場ではなかったでしょう。とすれば、泰堂が記す様な宴がこの一帯の海岸で催される様になったのは、明治に入ってからの比較的新しい時期ではないかと推測されます。 ともあれ、こうした宴の最中に、砂丘の松林に生えて来た松露や砂浜の浜防風を集めて来て、恐らくはその場で料理して食したか、銘々の家に持ち帰って食したのでしょう。気軽に出掛けて催した宴ですから、必ずしも松露がお目当てであったとは言えない中でも、こうして宴の最中に松露採りに勤しむ様からは、やはり当時のこの一帯の人々に親しまれていた食材であったと言って良いでしょう。関東大震災前の鵠沼・東屋旅舘(絵葉書) 庭園内にも松がふんだんに植えられていたのが見える 周辺も松林が多かったものと推察される (パブリック・ドメイン, via Wikimedia Commons ) こうしたこともあってか、時代がやや下った明治34年(1901年)3月26日に、齋藤緑雨 は「鵠沼より」と題した文章の中で、諸新聞の遊覽案内に記され候松露( しようろ ) の如きも、小生の宿を出づる三歩ならずして數多( あまた ) 相見え候。
(「齋藤綠雨全集 巻八 」2000年 筑摩書房 69ページより ルビも同書に従う、強調はブログ主)
と記しています。実際、当時鵠沼の旅舘東屋 に逗留していた緑雨の日記では、同年の3月17日に「松露狩 」「砂山ヲアルク 」(上記書251ページ)という記述があります。この「松露狩」にどの位の人数が参加したのかは不明ですが、この様なイベントの「ルーツ」は泰堂の頃からあったと見ることが出来ます。その様な春の催しが出来る程に、松露はふんだんに生じていたということでしょう。
羽鳥村(現:藤沢市 羽鳥)の位置(再掲) 県道43号線→44号線の筋が旧東海道 (Googleマップ より) さて、今回はもう1点、別の人物による日記を取り上げます。この日記は「藤沢市 文書館紀要 第九号」(1986年)中で「幕末農村女性の日記 ――慶応四年羽鳥村三觜はる・ていの日記—— 」(石井 修著)と題した論文中で翻刻されたものです。副題にある通り、高座郡羽鳥村(現:藤沢市 羽鳥)の村役人の家であった三觜( みつはし ) 家の女性たちによって記された、慶応4年(1868年)の日記です。慶応4年と言えば、9月には年初に遡って明治に改元される年ですから、まさしく幕末も終わる時期の記録ということになります。以下、こちらの日記の方を「日記」と記し、「四歳日録」と区別します。 同書ではこの日記の背景について、次の様に紹介されています。「日記」は小横半型の帳面で、記事は一月二十一日より七月四日までの(途中四月の後半部分と五月分は不記)、日数にして僅か百十三日間と短く、日記としては不完全なものであるが、農村女性によって書かれたという点で特筆されよう。
…
…「日記」の裏表紙には「みつはしてい」と記されているが、筆蹟や表現内容などから考えると、二人の手によって書かれたものと思われ、前半はていの姑のはる、後半はてい(注:佐次郎の妻)によって書かれたものと推定される。…
…
…折しも名主小作出入の裁判中であり、加えて取締役見習として、佐次郎は家をあけることが多かった。そんな中で三觜家の留守を守るのは、女ばかりであった。また、当時三觜家は村役人としてだけでなく地主として、金主として、周辺農村に対しても重要な役割をもっていた。当然、同家を訪れる人の顔ぶれも多種多彩であり、佐次郎が留守がちの中にあっては、実際の接待にあたるのは、いとはるていの三人の女性であったろう。「日記」の中で、来訪者の接待に関する記事が目につくのは、そうした理由からかもしれない。ともかく、公私を問わず交際に関する記事は詳細である。来訪者の名前はもちろん、その用件、土産品、もてなしの内容(献立)、帰宅時間などまで、きめ細く女性らしい筆致で記録されている。
(上記書91〜93ページより、「…」は中略、注はブログ主)
この「日記」が記された当時は三觜家は跡継ぎが当主としての務めをこなせる様になるまでの「移行期間」にあったとも言えるでしょう。その様な特殊事情がなければ、こうした「日記」を記す必要もなかったと考えられ、それ故にごく短期間の記述に留まったのかも知れません。つまり、以降は当主が役割を十分に果たせる様になって家を空けるケースが減ってきたために、「日記」が中断されたとも考えられます。 「日記」がごく短期間の記述に留まったことから、この「日記」から当時の傾向を読み解くにはサンプル数が少な過ぎ、ここで記された事例が特殊なものであった可能性も捨て切れない側面はあります。しかし、当時の事例のひとつとして整理して見る価値は十分にあると考えます。 この「日記」から「松露」の登場する日の記述を探し出すと、次の通りです。3月8日(グレゴリオ暦3月31日)おとこむきつき弐人ニ てやる、こいと(小糸) の平左衛門殿参る、くめさん引地いせ金・いも・しん外ニ 二、三人参る、よとふのはん(番) おいたし米壱俵遣し、新宅両家ニ て、小わたおはさん参る松露 至来とまり、おこわこしらへて上る、新宅兄さんふし沢御出被戎内の(用) やうにて、わか松へ御出被成夜半ころニ 御帰り被成、大しまやたけさん参る、おミつとのニ 弐包わた(綿) かし
3月12日(グレゴリオ暦4月4日)おとこかきねゆい壱人、つちこねわかまつや一人参る、せん五郎との松露 もって江戸へ参る、はつふし沢へ参る、五百文かし、木引とまる
3月18日(グレゴリオ暦4月10日)おとこ弐人かわな山へ行、大工参る、くめさん引地、小安市之丞殿御出被成、志ょふさわ(菖蒲沢) 藤三郎さん御出被成、おていさん、おふきさんふちや□やんふし沢行、松露 小安へ上る、代壱〆文也、ひかしおきのさんくる
3月19日(グレゴリオ暦4月11日)伊助米つき、粂さんあわ(粟) つき、弐人なわない、若旦那ふし沢よりあい河いへ御出被成、ひかし菊さん御出被成、若旦那夜ニ 入て御帰被成、引地ばし雨爾 てこわ水、役人壱人出る、おみつさん御出被成、若旦那同道ニ てよふた(用田) 幾右衛門さん外壱人とまリニ 御出被成、朝たまことじ・松露 にて御セん出し、大工壱人
3月20日(グレゴリオ暦4月12日)おとこさくりもの爾 参る、安江戸へ参る、幾右衛門さん・若旦那ふし沢江御出被成、小わたより目くら壱人参る、こわたよりおくり物とまり銭五百文也受取、うまかた爾 壱〆文かし、やまなか十(ママ) こふかやおつけ壱〆文、うち出遣し、五百十文也、大工壱人、小兵衛殿より松露 至来うつり也、なつ・てふおつかわし、十九日ニ おみつさん参る
3月26日(グレゴリオ暦4月18日)おとこ田うない、むまかたたちん(駄賃) 、むまかたかみさんいとをとって参る、また弐百め遣し、いせやへひらめ(鮃) 一ツとりにつかわし、はとりやへ爾 こりさけ(濁酒) 壱升とりに遣し、とふふ(豆腐) 弐百文とり爾 遣し、松露 弐百文とる、ふし沢より御用しゃう(状) 参る、ひかし兼さん参る、あらやおよしとの参る、周硯さん御しんそ(新造) おはるさん御出被成、こふや金兵衛殿参る、となりおしまたまこ(卵) 七ツもって参る、鍈さんしんたく(新宅) へとまり、新宅兄さんみやゝま(宮山) ヘ御出被成、若旦那ふし沢へ御出被成、いせや亀さん参る、御セん出し
(上記書100〜102ページより、括弧入りの傍注も同書に従う、変体仮名は下付き文字で漢字・カタカナにて表記、強調はブログ主)
日記は正月から記録されていますから、日記に最初に松露が登場する8日は、恐らくこの年最初に松露が入手出来た日と考えて差し支えないでしょう。グレゴリオ暦で3月末日というのは、松露の初物を見掛けるにはやや遅い日付だったのではないかと考えられるものの、当時の平年の記録が出て来ないと確乎としたことを言うことは出来ません。この日は「おこわ」に炊き込んで自分たちで食した様ですが、自家消費しているのはこの時だけの様です。 また、19日には宿泊した用田村(現:藤沢市用田)の幾右衛門という人物ともう1名の朝食の膳に、玉子とじと共に松露を出したことが記されています。もてなしの意を表すべく客人の膳に季節ものの食材を添えたということでしょうか。 それ以外の日の記録は、何れも他所との松露の取引に関する記録であることが注目されます。まず、12日には「せん五郎との 」が松露を持って江戸へと向かっています。「殿」と敬称付きで記されていることから、三觜家の外部の人間であることは確かですが、三觜家で収穫した松露を江戸まで持って行く仲買人でしょうか。時期的には松露の「旬」と言って良い頃ですから、江戸で売り捌くには丁度良い季節ではあったでしょう。 18日の「小安」が何処を指すのかは良くわかりません。ただ、松露の代金として「壱〆文」つまり一貫文を受け取っていますから、相当の量の松露を売りに行ったことは確かです。一方、20日には「小兵衛殿」から松露を受け取ったことが記されています。そして、26日には松露の代金200文を徴収しています。子易の位置(「地理院地図 」より) ※羽鳥村やその周辺、特に松露の需要が相応に見込めそうな藤沢宿界隈に「小安」という地名があったかどうか、「藤沢の地名」(藤沢市発行)で確認してみましたが、見つかりませんでした。当時比較的大口の消費を見込めそうな場所で「こやす」という地名を比較的近い場所で探すと、大山の麓の村で大山詣での参拝客向けの旅籠などがあった「大住郡子安村(現:伊勢原市上粕屋、明治22年の大山町との合併で「子易」となる)」が思い当たります。羽鳥からであれば、すぐに田村通り大山道に入る場所にありますから、この道を行けば子安までは片道20kmほど、これなら1日で往復することは可能でしょう。勿論、現時点ではこれは飽くまでも類推の域を出ません。
こうしたやり取りから、三觜家はかなりの量の松露を売買して利益を得ていたことが窺えます。この日記だけでは収穫量の全貌を掴むのは無理ですが、短期間の間に集中的に取り扱っていたと考えられます。松露は収穫後の「足が早い」特質から、収穫後に速やかに消費者の手元に届ける必要があり、それがこうした一連の動きの早さに繋がっていたとも考えられます。
因みに、「四歳日録」にも「日記」にも、「初茸」に関する記録は見つけられませんでした。もっとも、初茸の方は旬が秋口ですから、そもそも「日記」が記述された期間とは重ならなかったということでしょう。今後も継続してこうした記録は探していきたいと思います。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-515.html 「高座郡沿岸の初茸と松露について:「新編相模国風土記稿」から」補足:2つの日記から
相変わらず、定期的なブログ更新がままならない状況にあります。図書館にもロクに出掛けることが出来ずにいるので、限られた文献を借りて来て少しずつ読み込むことしか出来ていませんが、今回は、そんな文献の中で以前書いた柏皮の記事について示唆的な記述を見つけたので、備忘的に補足を行います。 これらの記事の中で、津久井県で産出するカシワの皮が、荒川番所を経て相模川経由で相模湾に下ったり、八王子を経て房総半島方面へと運ばれ、漁網の防腐のためのタンニン染料として用いられていたことを紹介しました。ただ、相模川を下った柏皮が相模湾沿岸や相模国の東京湾沿岸の漁村で利用されていたことを具体的に示す史料などを提示することは出来ませんでした。 今回、別件で以下の文献を読み進めていたところ、三浦半島のとある漁村での柏皮の利用例を確認出来ました。「ものと人間の文化史106 網( あみ ) 」 田辺 悟 著 2002年 法政大学出版会 この「第Ⅱ章 網漁具の種類/5 網具の保存法」で、著者が地元の網元にヒアリングした調査結果が紹介されています。この網元は大正10年(1921年)生まれの三浦郡鴨居村(現:横須賀市 鴨居)の人ということで、浦賀に隣接する東京湾側の漁村の人ということになります。ヒアリングの時期については記されていませんが、「網漁を主に今日に至っているが、最近は漁獲量が減少したため、沖に出ることはほとんどない。 」(88ページ)と記しているところから見ると、この本の出版年からさほど遡るものではない様です。 そのヒアリング結果の中で、漁網の染料については次の様に記されています。漁網を染めるための「渋液」(染料)には各種あるが、わが国では化学染料が普及する以前には、カシワ・ナラ・クリ・シイ・クヌギ等の樹皮を煮出したものや、渋柿の実を掲きくだいて採った柿渋その他にカンバ・ブナ・ハリノキ(赤楊)・ヤマモモ・ノグルミ樹の皮およびハマナシ(玫瑰)の根を用いることもあった。
私の住む三浦半島一帯ではカシワが最も一般的に用いられていたため、カシワギで染めるための小型の専用の槽(フネ)があり、この漁網を染めるフネ(海に浮かべて使用するものではなく陸上で水や湯を入れて使用する箱形のもの)を「カシャギデンマ・カシワギテンマ」と呼んできた。
上述の話者、斉藤新蔵さんによれば、昭和五年から六年頃、まだ一四〜一五歳の頃、網元であった話者の家では、漁網を染めるために、観音崎周辺の山に出かけてカシワの樹皮を持ち帰り、餅掲き用のウスとキネを用いてカシワの皮を掲いてこまかくしたものを布袋に入れ、それをオケ(四角い箱形のフネ)に加えた湯の中につけて色を出す。こうするとタンニン成分が出るので、網をその中につけて染めたという。
(上記書91〜92ページより)
また、93ページには「カシワギブネ(柏木舟)」の写真が掲載されています。これは『三浦市 城ケ島漁撈用具コレクション図録』(三浦市 教育委員会編 1988年)に掲載されているものとのことで、横160cm×縦75cm×高さ32cmの外寸から、各面の板の厚みはわかりませんが恐らく300ℓ程度の容積を持つと思われ、この槽に収まる程度のサイズの漁網を染めていたことも窺えます。勿論、この場合の「フネ」は「湯舟( ゆぶね ) 」と言う場合の「フネ」です。 私が捜した文献もまだ微々たるものではありますが、それらの中では差し当たっては上記2例が相模国の柏皮の利用実績を示す事例ということになります。勿論、これだけでは当時の柏皮の流通や使用の実情を理解する上では十分とは言えませんし、特に上記の事例が江戸時代まで遡ると言えるかは不明ですが、幾つか気が付いた点を書き留めておきます。鴨居村周辺の迅速測図(「今昔マップ on the web 」より) 観音崎は鴨居村の東側、西側には浦賀湊が位置する このヒアリングでは、柏皮を観音崎周辺の山で入手したとしています。しかし、明治時代初期の迅速測図では、観音崎周辺の土地利用は「松」とされており、以後の地形図でも針葉樹林の地図記号が目立ちます。カシワの様な広葉樹林が優勢であった様には見えません。迅速測図の作成された明治時代初期の土地利用が必ずしも江戸時代まで遡るとは言えませんが、その後の地形図との比較で考えても、あまり積極的に樹種を転換していたとは考え難いものがあります。 以前の記事で触れた通り、カシワは競合種が多い場所では生育しにくく、津久井では下草を刈るなど人手をかけることでカシワ林を育てていました。こうした例を考え合わせると、観音崎周辺ではカシワが容易に入手出来る環境ではなかったのではないかという点が疑問です。カシワ以外の樹種も使用していたとされているのは、恐らくカシワの入手が困難であったために代用品を用いざるを得なかったからと推測されるものの、挙げられている樹種も何れも広葉樹で、これらも観音崎周辺で得られる環境があったのかが気掛かりです。 また、カシワを採りに入ったという林は入会地と考えられ、その点ではコストの掛からない入手先であったと言えます。つまり、津久井など遠方で産出した柏皮を購入していなかったことになります。無論、この例だけを以って三浦半島では津久井産の柏皮を使用していなかったと短絡的に結論づけることは出来ません。三浦半島の他の漁村で漁網の染料を何処から入手していたかの事例を更に集める必要があります。明治時代や江戸時代にはこの網元も遠隔地の柏皮を購入していた可能性もあるでしょう。 同じことは房総半島の各漁村に関しても言えます。今のところ、柏皮の入手先は八王子のほか、上州など遠隔地が挙げられているものの、半島の入会地の雑木林などで採取したものを使っていた村があったとしてもおかしくありません。そして、漁村によって柏皮の入手先が異なっていたのであれば、その違いはどの様な理由で生じていたのか、が問題です。 考えられる可能性のひとつは、網元の規模の大小で生じる購買力の大小で違いが生じていたのではないかということです。江戸の魚河岸まで押送船( おしおくりぶね ) を使って魚を送り込む仕事をしていた網元なら、相応の購買力を持っていたと考えられるので、江戸時代には日本橋にあった魚河岸で魚を卸した後、帰路の船倉に買い求めた柏皮を積み込んで自分たちの湊へと帰る運用を行っていたと考えられます。他方、地元で消費する程度の魚を水揚げする小規模な網元では、遠方まで柏皮を買い求めに行くのは割に合わなくなってきますから、地元の入会地でカシワを捜して伐り出して使い、足りなければ他の樹種で間に合わせていた、ということになるのでしょう。 こうした運用について考えることは同時に、相模川を下ってきたり、八王子から日本橋へ甲州道中経由で運ばれた柏皮が、それぞれどの漁村へ運ばれていたのかを考えることにも繋がります。特に日本橋からも相模川河口からも相応に離れている三浦半島の各漁村が、どちらから柏皮を求めていたか、その流通範囲を考えてみたいところです。 何れにせよ、こうした課題を考えるには更に史料を探し出す必要があることは言うまでもありません。次の記録を見つける機会を待ちたいと思います。
追記(2021/12/16):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-479.html 「津久井県北部の柏皮」補足:三浦半島の漁網染め