前回 まで、「新編相模国風土記稿」で大住郡の産物として取り上げられた野菜や穀類について見て来ました。大住郡や相模国の代表的な産物として一覧に加えられた点については、前回見た様に多少疑問の残る点もあるのですが、一方で地質などを勘案すると、確かに主要な農産物として栽培されていてもおかしくない面もありました。そこで今回はもう少し時代を下った頃のこれらの作物の栽培事情を見てみます。VIDEO 平塚小唄(ホックリ節)-上-(相州平塚芸妓連中)(YouTube より) 「白秋全集」の第一・二(大山詣で)・五(裏町の鳥居)の連が歌われている 因みに「下 」で歌われているのは 第十一(火薬廠)・六(腕骨祭り)・十五(誕生池)連 (その2) で戮豇( ささげ ) や甘藷について紹介した際に、それらが地場の名産として歌われている俗謡を2種類ほど紹介しました。もう少し時代を下って、昭和3年(1928年)には北原白秋の作詞、町田嘉章の作曲で「平塚小唄(ほっくり節)」が作られています。YouTubeに作曲の翌年に吹き込まれたと思われるSPの再生風景を収めた動画がアップされていましたので、参考までに張っておきます。歌詞は全部で15番まである長いものですが、このうちから今回の話に関連しそうな箇所を引用します(白秋の没後から73年が経過していますのでJASRAC的にも問題無いと思いますが…)。
㈠相州平塚( さうしうひらつか ) コイナ、
つるつるおいも、ホラエ、
一度( ど ) かへして、
かへして、かへして、根( ね ) がほきる
ほつくりほつくり、ほつくりよ、
わら火( び ) でほつくり十三里( り ) 。
*
㈧須賀( すか ) の西瓜( すいくわ ) も、コイナ、
すぐ花( はな ) ざかり、ホラエ、
呉( け ) えな、遣( や ) んべか、
遣( や ) んべか、遣( や ) んべか、早( は ) や嫁( よめ ) に、
ほつくりほつくり、ほつくりよ、
わら火( び ) でほつくり十三里( り ) 。
(「白秋全集30 歌謡集2 」1987年 岩波書店 37、40ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、連番号は「白秋全集」の順序に従ってブログ主が計数したものを追加)
※「平塚小唄」の作曲年について、昭和3年とするものと4年とするものの2種類がある様ですが、ここでは「白秋全集」の解説に引用された白秋自身の「小序」の記述から3年が正であると判断しました。4年とするものは恐らく初出の雑誌が同年4月に発刊されていることに拠るものと思われます。また、ここでは全集の連の順に従いましたが、解説によれば初出時の歌集など、歌集によってこの順序が入れ替わっているとのことです。
追記(2015/12/22):「白秋全集」の34ページに、「平塚音頭」とともに昭和3年8月の作であることが明記されていますね。
「ほっくり節」という別称はその特徴的な囃子から来ていますが、勿論これは甘藷の食感から来ていることは言うまでもありません。この囃子(段を下げた2行)は15連全てで繰り返し登場します。その他、第一連の歌詞には甘藷にまつわる様子が面白おかしく歌われています。平塚に東海道線が開業した後、駅周辺には芸妓のお座敷が多数出来たのですが、この歌もそれらのお座敷で歌われる小唄として、平塚町の料理屋組合が白秋に依頼して出来たものです。「白秋全集」の解説に引用された初出誌「若草」の白秋の小序にも、各地方からの委嘱に応じて作詞したことが記されています(504ページ)。白秋は神奈川県 内では三崎や小田原に住んだ時期もありますが、平塚に直接降り立った経験があったかどうか、作詞の依頼を受けた当時に平塚についてどの程度の知識を予め持っていたかは詳らかになりませんでした。「平塚小唄」に歌い込まれた土地の名産や名所・景観については、委嘱元から多少なりとも示唆を受けている可能性は高いでしょう。そうした名産の中に、上記の様に須賀の西瓜も含まれている訳ですが、甘藷については全連で繰り返される囃子に「ほっくり十三里」と繰り返される通り、特に平塚の地と結び付けられて印象を強調されています。2代目歌川広重 「名所江戸百景」中の 「びくにはし雪中」 ("100 views edo 114 " by 歌川広重 - Online Collection of Brooklyn Museum . Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・ コモンズ .) ※俗に甘藷、特に石焼き芋のことを「栗より美味い十三里」などと評したりしますが、これは江戸時代の甘藷の名所の1つであった川越から江戸までの距離とかけて言われる様になった、いわば「宣伝文句」でした。2代目歌川広重の「名所江戸百景 」中の「びくにはし雪中」に、「◯やき/十三里」と掲げた屋台が描かれています。時代が下るとこの「十三里」が独り歩きして、白秋のこの歌詞の様に川越以外の地で産する甘藷であってもその味を褒めそやす枕詞として使われる様になっていました。
平塚の名産となった甘藷について、(その2)でも引用した「大野誌 」では…またこの時(注:享保年間)から栽培されていた甘藷が後に八幡藷( やわたいも ) と称せられ、形のよい紡錘形をし、外皮は僅かに黄色味を帯びたきれいな白色、肉は甘味多く煮沸すると黄色となつて固くしまり、口にすると「ほくほく」して、殊に大正年間から昭和のはじめにかけて東京横浜の人達や近在の人達に親しまれていた八幡種である。この甘藷は川越藷が「焼いも」として重用されたことに対し「ふかしいも」として珍重されていた。
(上記書534ページより)
と、同地の甘藷が「八幡種」として知られる様になったことを記しており、更にそれまで輸送コストの折り合いから近傍での消費に留まっていた甘藷が、明治20年(1887年)の東海道線の開業によって京浜地方に販路を確保したことから、飛躍的に作付面積を増やして行った経緯が比較的詳しく解説されています。因みに、同書では相模国に広まった甘藷の起源について、薩摩国から八幡村に持ち込まれたのが最初とする見解を紹介しています。 実際、中郡の甘藷の生産については昭和28年(1953年)にまとめられた「神奈川県 中郡勢誌 」(中地方事務所編)でも作付面積は昭和十四年には一、三〇〇町歩程度であつたが、戦時中及び戦後の食糧問題解決の爲めに重要な役割を果し、國民の饑餓を救い、又家畜飼料として、或は工業方面のアルコール及びでん粉原料として新しい分野を廣げ、漸次作付面積を增加して昭和二十年には一、四〇〇町歩位迄に增加し二十三年には一、六三六町歩となり、十年前に比して四割增加し二十年前に比して二倍近く增加している。之れを町村別に見ると、大野町の二二五町歩を最高とし、國府町一〇八町歩が之れに次ぎ、神田村・大根村・二宮町等も比較的に作付が多い。
然るに昭和二十五年統制が廃され自由販賣となつてから、作付は激減して一、三八九町歩となり、量よりも質の方向に移行し優良品種の栽培、早掘甘しよの普及に力を注ぎつゝある。本郡の主なる栽培品種は沖縄一〇〇号・大白・農林一号・関東二十二号・関東二十四号等である。
(上記書132ページより)
と、第二次大戦後まで大野町を中心に盛んに栽培されていたことを記しており、この地方の産物の主力としての地位を保っていたと言えそうです。 「風土記稿」で取り上げられた大住郡の一連の野菜・穀類のうちでは、甘藷は比較的土地と結び付いて語られる側面が大きく、特に時代が下って交通の発達に合わせてその価値を認められていった作物だったと言えそうです。なお、西瓜については統計上は園芸作物の中に埋もれてしまっていた様で、名産として取り上げる記述の裏打ちとなりそうなものを見出すことが出来ませんでした。 もう1点、今度は「秦野市 史 通史3 近世 」に記された、秦野市 を中心とした「ビール麦」の栽培の推移について、同書を引用しながら紹介します。同書では第6章第4節に「落花生とビール麦」と題を付して同市内の代表的な作物の近代の歴史を記しており、その後半が「二 ビール麦の栽培」の記述に充てられています(602〜613ページ)。 ここで「ビール麦」と称されているものは裸麦のうち特にビール醸造に適した品種を指しています。その栽培開始の経緯については秦野市 内に十分な記録を見出すことが出来ないとしながらも、「神奈川県 農会報」を軸に次の様に解説しています。ビール麦であるゴールデンメロン種の大麦は明治初年に政府の手によって導入が試みられ、十年代を通じて各地の篤農家の手で試作が行われたことがある。しかしこの地の栽培は直接これらの残存物として農民の手で作られたものではない。『農会報』四四号(明治四十一年十二月刊)によれば、県農会役員がビール会社に働きかけ、買上量の契約を得て後、郡農会を通じて栽培農家を決めるという手続きを経て、明治四十年秋播種する形で始まったことが明らかである。県農会というのは明治三十三年六月公布され、翌年四月施行された農会法という法律に基づいて結成された農業者・農地所有者の団体で、町村・郡市・県・国と積み上げる形の組織を持つものの県段階の組織である。…
県農会の下山幹事と磯貝技術員は明治四十年十月一日に東京目黒の大日本ビール株式会社工場(創立明治三十九年三月)を訪ね、工場長との間に四十一年産大麦ゴールデンメロン五〇〇石を取引するという協約を結んだ。その後三日高座郡農会、五日中郡農会との間に各郡五〇〇石の取引を約束した。この結果、会社との協定を一〇〇〇石に改定している。この協定に応ずるため高座郡では四村四〇名が二〇町のビール麦の耕作をし、中郡では五村一四〇名が一七町五反の耕作をすることになったのが、会社との契約の下で、ビール麦耕作をする始めとなる。中郡五村は国府村・吾妻村・金目村・大根村・岡崎村であり、秦野市 内七町村中大根村は契約栽培の第一年度から加わっており、その耕作人員四〇名、作付面積は五町歩であった。郡計一七町五反の二八・六パーセントが秦野市 内に作付けられたのである。
(602〜603ページより、…は中略)
ここで名の挙がった「大根村」は明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、大住郡落幡・真田・南矢名・北矢名・下大槻(うち真田は現・平塚市 、残りは現・秦野市 )の各村が合併して成立した村です。従って、「風土記稿」で大麦の産地として名の挙がった下大槻村を域内に含んでいることになります。但し、この時契約を結んだ農家が大根村のどの地区に位置していたかは不明ですし、作付られた面積もそれほど大きなものではありませんでした。勿論、農家の選定に当たって「風土記稿」の記述が参考にされた可能性はかなり薄いでしょう。因みに同じく「風土記稿」で大麦の産地として名が挙がっていた上大槻村は、同年に曽屋村と合併して秦野町となっていました。※残りの4村の江戸時代の村落と現在の所在は次の通りです。
国府村…旧:淘綾郡生沢・寺坂・黒岩・国府本郷・虫窪・国府新宿・西窪村、現:大磯町 吾妻村…旧:淘綾郡一色・川匂・中里・二宮・山西村、現:二宮町 金目村…旧:大住郡南金目・北金目・片岡・千須谷・広川村、現:平塚市 岡崎村…旧:大住郡矢崎・丸島・大畑・西海地・大句・馬渡・北大縄・入山瀬村、現:平塚市 、伊勢原市 また、「大日本麦酒」はアサヒ・日本(恵比寿)・サッポロの各ビール製造会社が合併して成立した会社ですが、上記文中に目黒の工場と記されていることから、この工場は恵比寿のものであったことがわかります。
ただ、神奈川県 がビール麦の産地として名乗りを上げた際に、最初に作付に応じたのが高座郡と中郡(明治29年・1896年に大住郡と淘綾郡が合併)であったという点は、やはりこれらの地域が麦作には向いた地域として認知されていたと言って良さそうです。また、作付に応じた村々の名前を見ても、この2郡の比較的広い範囲が適作地であったことが窺えます。 もっとも、作付開始当初の実績はあまり思わしいものではなかった様です。…実際に受渡された数量は中郡分は、予約の五〇〇石(一〇〇〇俵)を大きく下廻っていた。八月二十六日二宮駅、二十七日平塚駅で受渡の行われた中郡分は六二一俵(三二六石九斗余)であり、高座郡分は一〇七三俵(五五〇石七斗余)である。中郡で大きく下廻った原因となったのは、大根村についての格付についての記述などを通じて、ほぼ知ることができる。大根村の出荷は予約七五石に対して三五石にすぎなかったが、これは耕作者が品質の劣ったものは不合格になると考えて、自家で消費して出荷しなかったためだとしている。そのため出荷分中の二五石五斗は一等に格付けされている。
取引は一升重による格付けの上、容量(石)当たりの価格に差等をつけてあったが、なお耕作者の間には不満があった。「ゴールデンメロンは搗き減りが少ないので、自家用に好適であるだけでなく、目方が重いので石数取引では儲けが少ない。その上に品質検査を厳重にされたのではとても引き合わない」という言葉を引いて、取引に重量取引に近づくよう手心を加えたことを記している。
この両郡の出荷不足分は予約のなかった都筑郡より七七石余を買い入れてこの年の県農会と大日本ビール会社との取引を終えている。
(604ページより)
農家の側にとってもこうした契約が初めてのものであったからか、当初の条件は農家にとってあまり有利とは言えないものになっていた様です。とは言え、売却益の利幅は一般的な市場価格に比べて大分高額ではあった様で、翌42年からは県内の他の郡でも広くビール麦の作付が行われる様になったことを「秦野市史」は記しています。 大正時代に入ると契約先に横浜のキリンビールが加わり、ビール需要の増加に従って神奈川県 内全域での契約栽培量も増加を見た様です。その頃はまだ中郡の作付は神奈川県 内で突出したものとはなっていなかった様ですが、昭和に入ると飛躍的に作付が伸びてきます。昭和に入ると四年以後また『県農会報』により資料が得られるようになる。県計でみると昭和四年の一万九五〇・五石に始まり、六年一万八七三九石、七年九〇二〇石、八年一万一六九三石、十年二万二五一九石、以後十三年までほぼこれを前後する額で、十四年には三万一三八二・五石となっている。中郡の昭和四年は三六一九石であり、対全県比率は三三パーセント、大正末年の契約高の三・六倍に増加している。その後の中郡の販売高の増加は六、七年にやや減少するが、十年に一万三九六九石となり、十三年までほぼこの水準でいき、十四年には一万七〇三三・五石となっている。県の合計に対する中郡の比率は十一年にもっとも高く六二・九パーセントであるが、七年以後常に五〇パーセントを超えている。大正期には中心産地とはいえなかった中郡が昭和十年前後からは神奈川県内における最大の産地となっているのである。…
中郡内の町村別数量は同じ資料では得られないが、『横浜貿易新報』に一年度の例がある。昭和九年八月二十六日号ののせるところである。一~三等級に分けて各町村の販売量をのせるが、中郡内一四町村合計は一万二二八石七斗、この年は県農会報の数字を欠くが、八年の中郡計六三四八石五斗と十一年の一万三四三二石五斗の中間年として信頼してよい数字であろう。八年、十年の平均九八九〇石五斗よりやや多い数字である。この年、現秦野市内旧六町村は、すべてビール麦を販売している。その合計は七六一五石五斗、郡計の七四・四パーセントにあたる。昭和四年以来中郡の販売量が急激に増加するなかで、郡計の三分の二を秦野地方で販売しているのである。この量は八年、十年の平均県産額一万七〇九三・五石に対して四四・六パーセントにあたる。県ビール麦販売額の四四パーセントを秦野地方で販売している。秦野地方六町村のなかにも販売量には差がある。郡計に対する比率の高い順に町村名と比率を示すと、東秦野村三二・ニパーセント、西秦野村一七・九パーセント、北秦野村一〇・ニパーセント、南秦野村一〇・一パーセント、秦野町六・九パーセント、大根村六・九パーセントとなる。最初にビール麦作付をした大根村が最下位となっている。
(607〜608ページより、…は中略)
大麦は当時もまだ米と共に主食の1つとして盛んに栽培されており、ここに記されているのは飽くまでもビール麦の契約栽培に限っての話ですが、そうした中で秦野盆地の町村がビール麦の栽培に特化していく傾向が見て取れます。かつての下大槻村を含む地域が比率の点で下位に沈んでいったと記されているものの、総量が伸びている最中のことであれば、作付が減ったというよりはより広域に展開されていったために相対的な順位が下がっただけでしょう。こうしたビール麦の作付が広まったことで、同地の麦畑の景観は他の大麦畑とは少し変わった景観になった様です。在来種の通常の大麦が、穂につく実が穂の稈を中心に六方向に並んで着き、穂を上方から見ると六角形にみえる。この性質から六条大麦と呼ばれる。それに多くの品種が丈が短く、稈は太い。これに対してゴールデンメロン種は、相対する二列の実だけが結実し、他の四列は退化して実らない。穂の軸から二方向だけに実がつくので、その形から矢羽根麦などともいうが、二条大麦と呼ばれる。在来大麦より丈が高く、比較的稈も細く、穂に長いのげがあるので、風に揺れやすい。収穫高中のゴールデンメロンの比率が高いだけに、秦野地方の五月から六月にかけての時期には人目をひく作物だったのである。昭和五年の農業恐慌以後急激に作付面積が増えて、畑裏作の主要作物となったのである
(608ページより)
その後、北支事変に始まる戦争激化に伴って農業生産も食用増産に切り替えられて行くのですが、「神奈川県中郡勢誌 」によれば、第二次大戦後に再びビール麦の契約栽培が始められ、戦前同様に盛んに生産されていた様です。古くより各ビール会社と契約栽培が実施されていたが、最近に至り、換金作物としての有利性が認められ、四五〇町歩の作付で戰前を凌ぐ狀態である。昭和二十六年からは、朝日ビール会社に三、八一〇石(原石)日本ビール会社に六、四一〇石の契約が結ばれ、その他每年採種圃產種子一〇〇石内外を縣外に移出し、次第に神奈川のビール麦として認められつゝある。主なる產地は、東秦野村・西秦野村・南秦野町等で、中部山ろく地帶に作付が多く、麦総作付の約九%を占めている。品種は昭和二十六年よりG六十五号に一定された。
(上記書130〜131ページより)
もっとも、その後は高度成長期の市街化や他の地域の原料に圧される形で減産し、現在はその様子を見ることはなくなりました。 色々と引用が長くなりましたが、特に甘藷や大麦についてはこの地域の主力の作物として広い地域で後年まで生産が続けられていたことは確かです。「風土記稿」の大住郡の野菜・穀類の記述も、適作地の広がりを示唆したものとしては妥当なものであったと言えるでしょう。