
「内国勧業博覧会之図」から(部分)
(再掲)
(「国立国会図書館
デジタルコレクション」から)
このブログでは明治10年の内国勧業博覧会(以下「博覧会」)については事ある毎に取り上げてきました。特に、箱根から出品されたものについてはこちらの回で一括して検討しました。まず、その中から蛇骨と木葉石に関する部分を抜粋します。
◯粘土(三)蛇骨白色、底倉村、山田千代太郎(四)小涌谷、薄鼠色、仝村住吉傳右衛門(五)赤色、元箱根村杉山銕次郎◯木葉石(六)銕錆色、仝村片瀬才次郎
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)
以前箱根から出品されたものについてまとめた際には、板橋村の内野勘兵衛という人物が取りまとめを行ったと考えられること、そして出品する品目を選定するに際して「枝折」が参考にされた節が窺えることを指摘しました。その際、「枝折」の産物に記載された品目が全て博覧会に出品された訳ではなく、時代の動向に合わせて取捨選択が行われたと考えられることも、燧石とマッチの例を挙げて示しました。
そうした中でも、「蛇骨」や「木葉石」は出品品目として選択されました。しかしながら、「蛇骨」の方は「粘土」に分類されている点に興味を引かれます。これは一体何を意味するのでしょうか。
そもそも、この「博覧会」時点の「粘土」にはどの様なものが該当すると考えられていたのでしょうか。「博覧会」の「諸規則」を一通り確認したものの、出品品目の委細を定義した一覧は特に準備はされていなかった様です。「蛇骨」や「木葉石」が出品された「第1區」については、出品目録の冒頭で次の様に説明されています。
- 第一區・礦業治金術
- 第一類
礦石鑛物建築石材及匕礦業ノ產物
- 第二類
治金術上の製物
- 第三類
礦山ノ土工雛形地面及匕截面圖式
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、表をリストに組み換え、傍注はブログ主)
品目の定義の説明に近いものとしては、個々の出品物に英訳を付すために準備された訳名のリストが準備されていましたが、この中では「粘土」は単に「Clay」の1語で対訳が示されているだけです。これだけでは当時「粘土」としてどの様なものが想定されていたのかを判断するのは困難です。
ただ、出品目録など「博覧会」関連の資料を読み込むと、土木については既にかなりの程度西洋近代の技術の移入が進み、それに則った分類が用いられていることに気付きます。明治政府は積極的に欧米から技術士を雇い入れた上で、東京を中心に新たな建築物を次々に建造していましたから、それに伴って新たな技術の導入と普及が急務だった筈です。上記の訳名のリストも、出品物には全て英訳を付する様に規則に明示していたことに呼応して作成されたもので、これは欧米の技術者にもこれらの出品物の評価を依頼していた点にも関係があるでしょう。ですから、出品物の分類についてもこうした近代西洋の知識に則ったものへと既に切り替えられていたと考えるのが妥当でしょう。
とは言え、その当時に「粘土」という言葉がどの様に理解されていたのかについて、もう少し掘り下げるための資料は私が探した範囲では見つけることが出来ませんでした。辛うじてそれに近いものと言えそうなのは次の「日本金石産地」でしょうか。これは明治12年に博物館が制作した資料で、当時の日本国内の鉱山や石材の産地をリストアップしたものです。その中で、「粘土」の項の冒頭にこの様な但し書きが見られます。
第十二属 粘土属
陶土粘土(陶土粘土ハ同物ナラザレトモ相似タルヲ以テ往々混稱セリ因テ今之ヲ分タズ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、一部現代カナ使いに置き換え、強調はブログ主)
現在でも「粘土」は
の様に、学術分野によって粒子の大きさの定義が異なります。これらのうち特に陶磁器やセラミックスの焼成に使われるものが一般に「陶土」と呼ばれる訳ですが、明治初期の段階で果たしてこれらの言葉の使い分けが何処まで成されていたかは定かではありません。「日本金石産地」の記述を見る限り、あまり厳密な使い分けが出来る段階にはなかったのではないかとも思えますが、恐らくは本来珪酸の塊である「蛇骨」に一般的に粘土が持つと考えられていた性格を何かしら見出して「粘土」として分類したのだろうと考えられます。粘土/ねんど/clay 土粒子区分において最小粒径に区分されるもの.土質分野(日本統一土質分類)では5μm以下,地質分野(Wentworthら)では1/256mm以下,土壌分野(国際土壌学会法)では2μm以下の粒径の土粒子から構成されるものをいう.
(「応用地質用語集」日本応用地質学会 応用地質用語集委員会 PDF835ページより)
一方の「木葉石」の方はそのまま「木葉石」として掲出されていますが、出品目録では特に解説は付されていません。実際の展示では説明があったのかも知れませんが、果たしてこれだけで「博覧会」の来場者がこの石が何物なのか、理解できたかどうかは定かではありません。
そもそも、この「博覧会」は「内国勧業」と題している通り、殖産興業政策を支え得る資源や製品を発掘することが主な目的でした。そのことは「博覧会」の「出品者心得」の各条文にも明確に示されています。但し、第1条を見ると
つまり、一般には資源としては有用性がないと思われている様な植物や鉱物であっても、出品者の一存で除外するべきではないことが記されています。第一條 凡テ此會ニ出サントスル物ハ其品柄ノ精粗多少ニ拘ハラズ品物ノ大槪ヲ帳面ニ書キ記シ扣共二通往復ノ日數ヲ除キ五十日間ニ取調本貫又ハ寄留ノ管轄廳ヲ経テ本局ヘ願出許シヲ受クベシ尤草木鑛石等ニテ平日無用ト思ヒ居タル物モ鑑定者ノ吟味ニヨリテ大ニ用立ツコト間々コレ有ルコトナレハ必ズ一己ノ意見ヲ以テ取捨テベカラズ
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビも同書に従う、左側に付されたルビも右側のルビの後ろに/を付して表記、変体仮名は適宜かなに置き換え、一部明らかに現存しない字があるが適宜該当すると考えられる字に置き換え、傍注はブログ主)
「木葉石」の出品に際してもこの「出品者心得」に記されている通りのプロセスを踏んだのだとすれば、「博覧会」側は「木葉石」にも何かしらの有用性があるものと判断したことになります。明治10年時点では箱根の「木葉石」に関しては「枝折」以外に紹介しているものは殆ど知られていなかった筈ですから、「博覧会」の担当者は飽くまでも自身の目で出品者が持ち込んできた現物を手掛かりに判定を下したものと思われます。具体的にどの様な有用性を見出したのかは全く不明ですが、基本的には賞翫目的のものと見做されていたであろう「木葉石」が「博覧会」への出品を認められたという事実はその点で興味深い選択だったと言えます。
また、この「出品者心得」に従えば、「蛇骨」が「粘土」に分類されたのも出品者の一存ではなく、「博覧会」の担当者の判断であった可能性が高くなります。これも「博覧会」の運用の一端が窺える判定と言えるでしょう。もっとも、その意味では箱根の「燧石」も他地域からの出品が認められている以上、箱根からの出品が差し止められる理由はなかったことになるので、こちらは「出品者の一存」で出品をしなかった、と考えるべきということになります。
さて、これまでこのブログで「枝折」の産物を取り上げる際には、最初に「風土記稿」の記述を確認する順番としてきましたが、今回は敢えて最後にその検討を持ってきました。
「風土記稿」の各郡の産物、更には山川編の産物の何れにも、「蛇骨」や「木葉石」の名は見られません。各村の記述を探していくと、「蛇骨」に関しては底倉村の項に「蛇骨野」や「蛇骨川」の記述が見られ、その中に「蛇骨」の名が見られます。但し、その説明は貝が凝集した様なものとあまり正確ではないものになっています。この部分については「枝折」を参考にしたのではないことが窺えます。
◯蛇骨野 村の西、陸田間を云、東西三十間、南北十五間許、此地を穿てば、貝の凝滯せし如きもの出づ、是を蛇骨と云り、…
◯蛇骨川 元箱根本宮山邊より出、村の西南を屈曲し、蛇骨野の下を流れ村西に至り、早川に合す、幅九尺、土橋一を架す蘆野湯道の係る所なり、
(卷之三十 足柄下郡卷之九、…は中略、強調はブログ主、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)
村里部の中で名前が挙がりながら、産物にはその名が含まれなかったものとしては、箱根では「蕎麦」がありました。「蛇骨」についてもこの「蕎麦」同様に、産物に含める品目を「風土記稿」の編集者が意識的に取捨選択していたことを読み取ることが出来ます。しかし、「蛇骨」を産物から除外する判断の根拠が何処にあったのかまでは読み取れません。
一方、姥子の温泉については箱根権現の項の中に見いだせるものの、その記述の中に「木葉石」の名は登場しません。国図に「地獄湯」として登場することを確認していますから、こちらも「枝折」以外の情報との摺り合わせを行っていることがわかります。
姥子
西北の方足柄上郡仙石原村の界にあり、古は湖涯に傍ひ新宮山の麓をすぎ、此地に到りしに、此道廢せられし後は、東海道權現坂より北に入、元賽河原を過ぎ、蘆ノ湯へ出、底倉・宮城野兩村を曆、仙石原御關所を越て當所に至る、行程凡三里餘に及べり、
◯溫泉 湯戸二家ありて、湯槽六區に別つ、大湯方二間、と唱ふるもの、泉源にて尤熱し、其餘藥師湯方九尺、瀧湯など唱ふるあり、又屋内に槽を設けり、是を内湯と唱ふ、皆大湯より分派す、湧出の始を詳にせず、眼疾金瘡打撲紅爛等に効驗あり、然れとも僻處にある故に、遠く疾を輿して來り浴するもの鮮なし、正保及元祿の國圖に、地獄湯と載るもの是なり、
(卷之二十九 足柄下郡卷之八)
今回の件に限ったことではありませんが、こうした「風土記稿」の産物の取捨選択がどの様な判断の下で行われたのかは判然としないところがあります。「木葉石」が専ら賞翫される岩石であったことが産物にならなかった理由ではないかとも考えたくなります。しかし「風土記稿」で産物として取り上げられた岩石の中では「矢倉沢の蛤石」「道志川の貝石」更には「青野原の牡丹石」には賞翫以外の目的を見出だすことが出来ませんので、これは理由にはならないことがわかります。姥子は箱根の温泉地としては知られた存在ではなかったとは言え、「木葉石」の知名度が問題だったと考えるには、上記の3種のうち「たかね日記」(稲葉正通)に登場した「矢倉沢の蛤石」はまだしも、それ以外の2件は「木葉石」以上に知名度のあるものだったと言えるかは微妙なところです。実際、前回紹介した木内石亭の「諸国産石誌」には「石介(貝石)」の名は見られ、「矢倉沢」の地名も登場しますが、「青野原の牡丹石」に該当すると考えられるものは見当たりません。
「風土記稿」の産物については取捨選択の基準が何処にあるのか、このブログで取り上げ始めて間もない頃から何とか見出そうと探してきました。しかし、ここまでかなりの時間を費やしましたが、未だに統一的な基準が見出だせるところまで来ていません。この「蛇骨」や「木葉石」についても、「風土記稿」の産物の取捨選択の基準の不明瞭さを示す存在になっていると言えそうです。