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箱根の「蛇骨」と「木葉石」:「七湯の枝折」より(その3)

方円舎清親「内国勧業博覧会之図」から
方円舎清親
「内国勧業博覧会之図」から(部分)
(再掲)
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」から)
前々回及び前回の2回で、「七湯の枝折」(以下「枝折」)の「産物」に記載されている「蛇骨」と「木葉石」について検討しました。今回はその締め括りとして、明治10年(1877年)の内国勧業博覧会にこれら2点が出品された記録と、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)上のこれら2点の記述の有無について検討します。

このブログでは明治10年の内国勧業博覧会(以下「博覧会」)については事ある毎に取り上げてきました。特に、箱根から出品されたものについてはこちらの回で一括して検討しました。まず、その中から蛇骨と木葉石に関する部分を抜粋します。

◯粘土(三)蛇骨白色、底倉村、山田千代太郎(四)小涌谷、薄鼠色、仝村住吉傳右衛門(五)赤色、元箱根村杉山銕次郎木葉石(六)銕錆色、仝村片瀬才次郎

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)


以前箱根から出品されたものについてまとめた際には、板橋村の内野勘兵衛という人物が取りまとめを行ったと考えられること、そして出品する品目を選定するに際して「枝折」が参考にされた節が窺えることを指摘しました。その際、「枝折」の産物に記載された品目が全て博覧会に出品された訳ではなく、時代の動向に合わせて取捨選択が行われたと考えられることも、燧石とマッチの例を挙げて示しました。

そうした中でも、「蛇骨」や「木葉石」は出品品目として選択されました。しかしながら、「蛇骨」の方は「粘土」に分類されている点に興味を引かれます。これは一体何を意味するのでしょうか。

そもそも、この「博覧会」時点の「粘土」にはどの様なものが該当すると考えられていたのでしょうか。「博覧会」の「諸規則」を一通り確認したものの、出品品目の委細を定義した一覧は特に準備はされていなかった様です。「蛇骨」や「木葉石」が出品された「第1區」については、出品目録の冒頭で次の様に説明されています。
  • 第一區・礦業(ママ・冶)金術
    • 第一類

      礦石鑛物建築石材及匕礦業ノ產物

    • 第二類

      (ママ・冶)金術上の製物

    • 第三類

      礦山ノ土工雛形地面及匕截面圖式

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、表をリストに組み換え、傍注はブログ主)


品目の定義の説明に近いものとしては、個々の出品物に英訳を付すために準備された訳名のリストが準備されていましたが、この中では「粘土」は単に「Clay」の1語で対訳が示されているだけです。これだけでは当時「粘土」としてどの様なものが想定されていたのかを判断するのは困難です。

ただ、出品目録など「博覧会」関連の資料を読み込むと、土木については既にかなりの程度西洋近代の技術の移入が進み、それに則った分類が用いられていることに気付きます。明治政府は積極的に欧米から技術士を雇い入れた上で、東京を中心に新たな建築物を次々に建造していましたから、それに伴って新たな技術の導入と普及が急務だった筈です。上記の訳名のリストも、出品物には全て英訳を付する様に規則に明示していたことに呼応して作成されたもので、これは欧米の技術者にもこれらの出品物の評価を依頼していた点にも関係があるでしょう。ですから、出品物の分類についてもこうした近代西洋の知識に則ったものへと既に切り替えられていたと考えるのが妥当でしょう。

とは言え、その当時に「粘土」という言葉がどの様に理解されていたのかについて、もう少し掘り下げるための資料は私が探した範囲では見つけることが出来ませんでした。辛うじてそれに近いものと言えそうなのは次の「日本金石産地」でしょうか。これは明治12年に博物館が制作した資料で、当時の日本国内の鉱山や石材の産地をリストアップしたものです。その中で、「粘土」の項の冒頭にこの様な但し書きが見られます。

第十二属   粘土属

陶土(ヤキモノツチ)粘土(ネバツチ)陶土粘土ハ同物ナラザレトモ相似タルヲ以テ往々混稱セリ因テ今之ヲ分タズ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、一部現代カナ使いに置き換え、強調はブログ主)


現在でも「粘土」は

粘土/ねんど/clay 土粒子区分において最小粒径に区分されるもの.土質分野(日本統一土質分類)では5μm以下,地質分野(Wentworthら)では1/256mm以下,土壌分野(国際土壌学会法)では2μm以下の粒径の土粒子から構成されるものをいう.

(「応用地質用語集」日本応用地質学会 応用地質用語集委員会 PDF835ページより)

の様に、学術分野によって粒子の大きさの定義が異なります。これらのうち特に陶磁器やセラミックスの焼成に使われるものが一般に「陶土」と呼ばれる訳ですが、明治初期の段階で果たしてこれらの言葉の使い分けが何処まで成されていたかは定かではありません。「日本金石産地」の記述を見る限り、あまり厳密な使い分けが出来る段階にはなかったのではないかとも思えますが、恐らくは本来珪酸の塊である「蛇骨」に一般的に粘土が持つと考えられていた性格を何かしら見出して「粘土」として分類したのだろうと考えられます。

一方の「木葉石」の方はそのまま「木葉石」として掲出されていますが、出品目録では特に解説は付されていません。実際の展示では説明があったのかも知れませんが、果たしてこれだけで「博覧会」の来場者がこの石が何物なのか、理解できたかどうかは定かではありません。

そもそも、この「博覧会」は「内国勧業」と題している通り、殖産興業政策を支え得る資源や製品を発掘することが主な目的でした。そのことは「博覧会」の「出品者心得」の各条文にも明確に示されています。但し、第1条を見ると

第一條 (すべ)此會(くわい)(いだ)サントスル(もの)(その)品柄(しながら)精粗(せいそ/よしあし)多少(たしやう)(かゝ)ハラズ品物(しなもの)大槪(あらまし)帳面(ちやうめん)()(しる)(ひかえ)(とも)()(つふ)往復(おうふく)日數(ひかず)(のぞ)キ五十日(かん)取調(とりしらべ)本貫又ハ寄留(きりう)ノ管轄廳ヲ()テ本局ヘ願出(ねがひいで)(ゆる)シヲ()クベシ(もつとも)草木(さうもく)鑛石(かねいし)(とう)ニテ平日(へいじつ)無用(むよう)(おも)()タル(もの)鑑定者(かんていしゃ/めきき)吟味(ぎんみ)ニヨリテ(おおい)用立(ようだ)ツコト間々(まま)コレ()ルコトナレハ(かなら)一己(いつこ)意見(ゐけん/みこみ)()取捨(とりす)テベカラズ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビも同書に従う、左側に付されたルビも右側のルビの後ろに/を付して表記、変体仮名は適宜かなに置き換え、一部明らかに現存しない字があるが適宜該当すると考えられる字に置き換え、傍注はブログ主)

つまり、一般には資源としては有用性がないと思われている様な植物や鉱物であっても、出品者の一存で除外するべきではないことが記されています。

「木葉石」の出品に際してもこの「出品者心得」に記されている通りのプロセスを踏んだのだとすれば、「博覧会」側は「木葉石」にも何かしらの有用性があるものと判断したことになります。明治10年時点では箱根の「木葉石」に関しては「枝折」以外に紹介しているものは殆ど知られていなかった筈ですから、「博覧会」の担当者は飽くまでも自身の目で出品者が持ち込んできた現物を手掛かりに判定を下したものと思われます。具体的にどの様な有用性を見出したのかは全く不明ですが、基本的には賞翫目的のものと見做されていたであろう「木葉石」が「博覧会」への出品を認められたという事実はその点で興味深い選択だったと言えます。

また、この「出品者心得」に従えば、「蛇骨」が「粘土」に分類されたのも出品者の一存ではなく、「博覧会」の担当者の判断であった可能性が高くなります。これも「博覧会」の運用の一端が窺える判定と言えるでしょう。もっとも、その意味では箱根の「燧石」も他地域からの出品が認められている以上、箱根からの出品が差し止められる理由はなかったことになるので、こちらは「出品者の一存」で出品をしなかった、と考えるべきということになります。



さて、これまでこのブログで「枝折」の産物を取り上げる際には、最初に「風土記稿」の記述を確認する順番としてきましたが、今回は敢えて最後にその検討を持ってきました。

「風土記稿」の各郡の産物、更には山川編の産物の何れにも、「蛇骨」や「木葉石」の名は見られません。各村の記述を探していくと、「蛇骨」に関しては底倉村の項に「蛇骨野」や「蛇骨川」の記述が見られ、その中に「蛇骨」の名が見られます。但し、その説明は貝が凝集した様なものとあまり正確ではないものになっています。この部分については「枝折」を参考にしたのではないことが窺えます。

◯蛇骨野 村の西、陸田間を云、東西三十間、南北十五間許、此地を穿てば、貝の凝滯せし如きもの出づ、是を蛇骨と云り、…

◯蛇骨川 元箱根本宮山邊より出、村の西南を屈曲し、蛇骨野の下を流れ村西に至り、早川に合す、幅九尺、土橋一を架す蘆野湯道の係る所なり、

(卷之三十 足柄下郡卷之九、…は中略、強調はブログ主、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


村里部の中で名前が挙がりながら、産物にはその名が含まれなかったものとしては、箱根では「蕎麦」がありました。「蛇骨」についてもこの「蕎麦」同様に、産物に含める品目を「風土記稿」の編集者が意識的に取捨選択していたことを読み取ることが出来ます。しかし、「蛇骨」を産物から除外する判断の根拠が何処にあったのかまでは読み取れません。

一方、姥子の温泉については箱根権現の項の中に見いだせるものの、その記述の中に「木葉石」の名は登場しません。国図に「地獄湯」として登場することを確認していますから、こちらも「枝折」以外の情報との摺り合わせを行っていることがわかります。

姥子

西北の方足柄上郡仙石原村の界にあり、古は湖涯に傍ひ新宮山の麓をすぎ、此地に到りしに、此道廢せられし後は、東海道權現坂より北に入、元賽河原を過ぎ、蘆ノ湯へ出、底倉・宮城野兩村を曆、仙石原御關所を越て當所に至る、行程凡三里餘に及べり、

◯溫泉 湯戸二家ありて、湯槽六區に別つ、大湯方二間、と唱ふるもの、泉源にて尤熱し、其餘藥師湯方九尺、瀧湯など唱ふるあり、又屋内に槽を設けり、是を内湯と唱ふ、皆大湯より分派す、湧出の始を詳にせず、眼疾金瘡打撲紅爛等に効驗あり、然れとも僻處にある故に、遠く疾を輿して來り浴するもの鮮なし、正保及元祿の國圖に、地獄湯と載るもの是なり、

(卷之二十九 足柄下郡卷之八)


今回の件に限ったことではありませんが、こうした「風土記稿」の産物の取捨選択がどの様な判断の下で行われたのかは判然としないところがあります。「木葉石」が専ら賞翫される岩石であったことが産物にならなかった理由ではないかとも考えたくなります。しかし「風土記稿」で産物として取り上げられた岩石の中では「矢倉沢の蛤石」「道志川の貝石」更には「青野原の牡丹石」には賞翫以外の目的を見出だすことが出来ませんので、これは理由にはならないことがわかります。姥子は箱根の温泉地としては知られた存在ではなかったとは言え、「木葉石」の知名度が問題だったと考えるには、上記の3種のうち「たかね日記」(稲葉正通)に登場した「矢倉沢の蛤石」はまだしも、それ以外の2件は「木葉石」以上に知名度のあるものだったと言えるかは微妙なところです。実際、前回紹介した木内石亭の「諸国産石誌」には「石介(貝石)」の名は見られ、「矢倉沢」の地名も登場しますが、「青野原の牡丹石」に該当すると考えられるものは見当たりません。

「風土記稿」の産物については取捨選択の基準が何処にあるのか、このブログで取り上げ始めて間もない頃から何とか見出そうと探してきました。しかし、ここまでかなりの時間を費やしましたが、未だに統一的な基準が見出だせるところまで来ていません。この「蛇骨」や「木葉石」についても、「風土記稿」の産物の取捨選択の基準の不明瞭さを示す存在になっていると言えそうです。
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箱根の「蛇骨」と「木葉石」:「七湯の枝折」より(その2)

「七湯栞」卷十「山梨・木葉石」図
「七湯栞」より「木葉石」の図(右下)
国立国会図書館が所有するものは写本で
原本が巻物になっているのに対し
こちらは和綴本になっている
絵図もそれに合わせて配置などが適宜変えられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前回は「七湯の枝折」(以下「枝折」)の産物に見られる「蛇骨」と「木葉石」のうち、「蛇骨」について少し掘り下げてみました。今回は「木葉石」について掘り下げます。まず、「枝折」の「木葉石」の記述を再掲します。

  • 木葉石 色赤し姥子ヨリ出ル

    他国ニある所の木葉石といふものハ石質和らかにして木葉の形たしかならす當山ニ出ルハ石甚タかたく木葉の跡あざやかにして至而面白し

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより 以下の「枝折」引用も同書から)




姥子温泉附近の地形図
「陰影起伏図」と「火山地形分類データ(箱根山)」
を合成
(「地理院地図」)
もっとも、姥子の「木葉石」に関する江戸時代の記述を「枝折」以外に見出すのは非常に困難なのが実情です。私が調べ得たごく限られた範囲の話ではありますが、姥子から「木葉石」が出ることを記した江戸時代の道中記・紀行文の類は、未だ見出すことが出来ていません。

これは、当時の姥子が措かれた状況を考えれば当然のことかも知れません。姥子は現在の大涌谷(当時は「大地獄」と呼ばれていた)の西側約1kmほど、箱根山の中央火口丘の1つである冠ヶ岳の北西の山裾に位置しています。ここは同じく中央火口丘の1つである神山が山体崩壊した際に流下してきた崩壊物が堆積した斜面で、姥子の湯が湧いている辺りはその斜面の頭頂部附近に位置しています。

当時の箱根の温泉は「七湯」と数えられていますが、内訳は「湯本」「塔ノ沢」「宮ノ下」「堂ヶ島」「底倉」「木賀」「芦ノ湯」の7箇所で、その中に姥子は含まれていません。この七湯が湯本から東海道を逸れて湯治場道を進めば順に到達できる位置関係にあるのに対し、姥子はその道筋からは外れた場所にあります。そして、今は箱根登山鉄道の強羅駅から箱根ケーブルカーと箱根ロープウェイを乗り継いで到達することが出来ますが、当時は仙石原から廻り込む道のみが存在し、湯治場道沿いからではかなり遠回りになる上に、途中仙石原の関所を越えるために手形が必要になることから、アクセスが大変に不便な点が問題でした。後日引用しますが「新編相模国風土記稿」の伝えるところによると、古くは芦ノ湖畔を伝って姥子方面に抜ける道筋があったものの、恐らくは関所の抜け道になってしまうために江戸時代になってこの道が廃止され、仙石原経由の道筋に一本化されたことによって、姥子へのアクセスが悪化してしまっていたのでした。

このため、「枝折」の姥子の記述は巻ノ十の「産物の部」の後、「四時勘考」の前に、謂わば「補遺」の様な形で収められています。そこにはこの湯に訪れる人が少なく、寂れた場所という様子が描かれています。

此湯明礬湯にして専ら眠病によしとす此所ハ湯小屋一軒にして間毎あまたあり宮城野千石原辺より来りてなりはひとするよし尤此湯極寒の節ハ不涌漸く春彼岸過より湧出し五六月比者沢山出るとぞ故ニ其うち斗りの湯宿なれハ常は甚タ淋しき所なり芦の湯達广湯に是似たり上の山を冠ケ嶽とそ爰よりも明ばん出る又千石原よりみくりやえかゝり沼津のかたへ出る道あり

(72ページより)


その点は「東雲草」(雲州亭 橘才 文政13年・1830年)の姥子の記述でもほぼ同様です。こちらは以前箱根の礬石について取り上げた際にも引用しました。

姥子の湯泉は宮城野村より甲州谷村洲走(スハシリ)等への往来、仙石原の御関所を越、冠か嶽の麓、箱ね社役人の持にして、眼病専一也、むかしは定まれる湯宿もなく、今は一軒めうはんを制す、いゑ一軒食物ありと云へと山中なれは不自由かて也、小田原を去る事五リ余ならん

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集」1969年 神奈川県図書館協会編 342ページより、ルビも同書に従う)

そして、「東雲草」では「木葉石」に関する記述は登場しません。

こうした状況ですから、当時の姥子の湯に箱根の外から訪れる人は稀で、基本的には宮城野や仙石原の村民たちが利用することが多い湯であったとされています。その分、この湯に入ったとする道中記や紀行文が存在する可能性もなかなか考え難くなっている訳です。

裏を返せば、これだけ知る人が少ない姥子の湯に「木葉石」が存在することを、「枝折」の作者のふたりがどの様にして知り得たのか、その情報源は何処だったのかが気になってきます。「七湯」の枝折がその中に含まれない姥子に敢えて触れたのは、産物の中に「礬石」が含まれることから必要を感じてのことであったとは考えられますが、「枝折」の記述を見る限り賞翫目的以外に用途を考えられない「木葉石」がそこまでの知名度を持っていたとは考え難く、敢えて取り上げようとする動機が何処にあったのかという疑問が浮かんできます。箱根七湯に関わる人たちの間では「木葉石」の存在は周知のことだったかも知れませんが、記録の乏しさからは、こうした情報が七湯を訪れた湯治客に積極的に伝えられていたとも考え難いものがあります。

「蛇骨」がそうだった様に、「木葉石」も本草学についての書物にはなかなか登場しません。ただ、唯一「大和本草」には

[和品]木ノ葉石 其石ノスヂメ木葉ノ如シ會津羽黑山ノ北ノ麓筑紫宗像大宮司宅ノアト信濃善光寺ノ近所榊ト云處ニ何レモ木ノ葉石アリ其外諸州ニアリワリテ中ニモ同紋アリ硯ニスヘシ是花紋石ノ類ナルヘシ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と記述が見られます。冒頭に「和品」の表記がありますから、これは「本草綱目」などの中国から伝来した書物には記述が無いことを示しています。そして、この記述中にも箱根の地名は含まれていません。

こうした中、前回も取り上げた木内石亭(きのうちせきてい)の「雲根志(うんこんし)」には「木葉石」について比較的長い記述が見えます。

木葉石(このはいし) 十二

前編に詳なり木葉石(このはいし)は產所品類ともに多し賀州麦水(ばくすい)のいふ越中の國五ヶ(やま)といふは賀州より流罪(るざい)の者の行所にて常に通路は絕たり駕籠(かご)(わた)りといふ難所(なんしよ)を越て此地に至る事なり此所に木葉石(このはいし)多し尤上品なりと又賀州城端の質向ふなる赤澁(あかしぶ)山にも木葉石(このはいし)あり至品なりと又飛州高山(たかやま)滄洲(さうじう)大石十種の中に云同國上白川尾止鄕といふ所に木葉石(このはいし)あり石質黑く硬く葉(あざやか)にて甚絕品(ぜつひん)なりと又伊賀の不睡子(ふすいし)の本國山田(やまだ)郡中村川の中に拾ひ得たりといふは石質黑く柔にして(かしは)の葉なり

(三編卷之三 「覆刻 日本古典全集 雲根志」1979年 現代思潮社 360ページより、ルビも同書に従う、変体仮名はひらがなに置き換え)


この中では「木葉石」が箱根に産出することに触れられていません。しかし、「諸国産石誌」では姥子温泉に木葉石があることを書いていますので、石亭が箱根に赴いて木葉石を入手したのは確かでしょう。「雲根志」に姥子産の木葉石の存在が記されなかったのは、石亭の多数のコレクションの中では代表的なものとは見做されなかったということでしょうか。

石亭が亡くなったのは文化5年(1808年)、「枝折」はその3年後の文化8年に成立していますから、石亭が箱根を訪れた時には当然ながら「枝折」はまだありません。他に大した情報もない中でわざわざ姥子まで入っていって木葉石を採集したとすれば、関西人の石亭自らが予備知識を持たないままアクセスの悪い地まで入り込むとは考え難いですから、誰かしらの「手引」があった可能性を考えたくなります。箱根の地にその様な石蒐集にのめり込んでいた蒐集家がいたのかどうかは定かではありません。しかし、石亭と交流があった人物の中には相模国の人もいたことは確かであり(「人物叢書 木内石亭」斉藤 忠著 1962年 吉川弘文館 58ページ)、石蒐集の同好の士が石亭に同伴して姥子に赴いて木葉石を入手したか、あるいは箱根で同好の士に会って譲ってもらった可能性も考えられると思います。

その様な点を念頭に置きながら「枝折」の記述を見返してみると、ここで「他国ニある所の木葉石」つまり箱根以外の地で産出する「木葉石」との比較が成されていることに気付きます。他でなかなか記録を見ることがない木葉石について、こうした比較を行うためには、当然ながらそれらの木葉石に関して充分な知識が必要不可欠の筈です。

その点で、「枝折」の著者の文窓や弄花も何らかの形で石亭や石蒐集の同好の士らが持つ知識に接触する機会があったと考えるのが自然な様です。江戸には相模国よりも石蒐集の趣味を持つ人間が多くいたのは確かですから、文窓や弄花が箱根に来る前からこうした蒐集家のネットワークから情報を得ていたのかも知れません。あるいは文窓や弄花の少なくともどちらかが石蒐集の趣味を持っていた可能性さえ窺えますが、これはこの2人の素性がもう少し明らかにならなければこれ以上掘り下げることは出来ません。

何れにしても、この項目は「枝折」に挙げられた産物の中では「知る人ぞ知る」存在だったと言うべきなのでしょう。

なお、明治以降には全国各地の関所が廃止されたことに伴って姥子へのアクセスを阻害する要因が減り、次第に温泉場としての開発が進められる様になりました。それに伴って箱根の旅行案内にも姥子温泉についての記述が数多く見られる様になります。しかしそれでも、「木葉石」の存在についてまで触れられることは多くなく、私が気付いた範囲では以下の数点を数えるのみでした。

姥子(ゥばこ)温泉は西北隅仙石原との界にあり別に一區をなす古は湖涯(うみのはた)に沿ひ新宮(しんぐう)山麓を過ぎ此の地に()りしも此道(すた)棄せらるゝ後は東海道權現坂より北へ元賽(もとさい)の河原を過ぎ芦の湯に至り底倉宮城野を經仙石原關所を越へて當地に至る凡三里有餘(あまり)に及ぶ此温泉(もと)を冠ヶ岳の西溪(にしだに)字姥子の(いわ)石間(いしのあいだ)に出で石壺(いしつぼ)に落下するの狀恰も瀧の如し壺の深さ五尺餘東西貳間南北九尺之を原泉(げんせん)と稱ふ此所に續きて大湯あり是を引く事十間長二間横六尺餘の湯壺(ゆつぼ)四ヶ所あり又新座敷と稱する處別に浴塲あり是を上等室とし洋人は多く之に浴す浴室數棟に分れ二階立ちあり富嶽(ふじ)(なが)め甚た(よし)室外()(たき)三流(さんはん)あり元來(もと)本泉(ほんせん)明礬(めうはん)()含有(ふくみ)し其の淸潔(きれい)なること槽底(そこ)に針を沈むるも得て見るべし日本第一淸潔の湯と稱するも敢て人の(とがめ)を受けざるべし又此地は冠ヶ岳の西北(だい)ヶ岳(仙石原村の)南溪(みなみだに)に在り地位頗る高く幽䆳(しつか)亦小仙境たるべし(溫泉分析表は本村記事のをわりに附すべし)

姥子石一名()葉石(はいし)と云ふ此地に(いた)るもの(もと)めて以て眼病(めやみ)(やから)ハ之を炭火(すみのひ)(のせ)熾赤(あかく)するを(まち)(はさ)み出し水中に(いれ)(その)水を用て眼を洗滌(あらふ)するものなり

(「函山誌 : 一名・箱根土産」松井鐙三郎 編 1894年 箱根町 遠州屋「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビも同書に従う)

◉姥子温泉==仙石温泉場(せんごくおんせんば)より(かむり)(たけ)東麓(とーろく)迂回(うかい)仙石原(せんごくはら)()(およ)そ二十町餘(ちよーよ)にして姥子(うばこ)()る、(かん)秀明舘(しゆーめいかん)(ごー)客舍(きやくしや)(むね)より()浴塲(よくぢよー)奇巖(きがん)(さく)して湧出(ゆーしつ)せしむ、浽々(しや/\)(おと)洒々(しや/\)響見(ひゞきみ)るからに玉膚(ぎよくふ)()するの(かん)あり、泉質(せんしつ)鹽類泉(えんるゐせん)にして眼病(がんびよー)効果(こーか)(おほ)し、浴湯(よくぢよー)透明(とーめい)にして淸美(せいび)(たま)(ごと)滾々(こん/\)として岸壁(がんぺき)(あひだ)より()浴客(よくきやく)をして(じつ)に一(きよー)(きつ)せしむ、この()より「()葉石(はいし)」と(しよー)する溶痕岩(よーこんがん)(さん)す。

(「富士登山案内」伴野孤月 (正策) 著・発行 1906年「国立国会図書館デジタルコレクション」より(図書館・個人送信資料)、ルビも同書に従う、一部誤植と思われる箇所あるも同書のまま引用)

姥子温泉は世傳御料地にして大涌谷から十三町、仙石原から一里十四町、元箱根から一里十三町、元箱根村に屬し、西村の拜借地で一戸數棟の湯屋で、秀明館(西村)と稱するのがある。閑靜なことは比類ないが惜いかな中央よりの交通機關から離れて居るのが缺點である、然し徒歩主義の經濟的には此上ない。湯は稀薄な鹽類泉で、微少の澁味があつて、多量に飲料すると下痢を來すが、無臭で透明な湯である。岩石の間から湧出して居て、湯壺の上からは細い乍らも湯瀧となつて落下する。溫度も恰好で、頤上から打たれるに適する湯壺は自然の儘の湯槽で、底の岩石が明瞭に見え、殊に湯壺の邊やその背後の邊から多く出る石塊や土塊中に木葉の形を印したものがある。之を木の葉石といふ。多くは現存する楢の葉の類であるが一寸珍である。

(「箱根八里」石内為次郎 編 箱根町 石内旅館 1913年 27〜28ページ、「国立国会図書館デジタルコレクション」より(図書館・個人送信資料)、強調はブログ主)


なお、前回も紹介した「箱根植物」では、姥子の「木葉石」の素性についても触れられています。

又姥子溫泉に木葉石あり。木葉上に水酸化鐵の沈殿したるものにして集塊岩中に存す。姥子溫泉の流るゝ附近の赤鐵色の岩片を、鐵槌を以て打碎き、葉痕の存在を檢し採集すべし。

(「箱根植物神奈川県植物調査会 編 1913年 三省堂書店 144〜145ページ、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、傍点は下線に置き換え)


神奈川県立生命の星・地球博物館には外部から寄贈された「木葉石」の標本が2件保管されているとのことです。上記の観光案内等は何れも日本の国立公園が出来る前のものですが、現在の箱根一帯は富士箱根伊豆国立公園の一角(リンク先はPDF)に含まれており、自然公園法等の定めによって鉱物類の採集には許可が必要となる地域が多いですから、現在はこうした標本を見る様にした方が良いでしょう。

次回は蛇骨や木葉石が出品された明治10年の内国勧業博覧会について触れ、更に「新編相模国風土記稿」の記述について検討します。

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箱根の「蛇骨」と「木葉石」:「七湯の枝折」より(その1)

七湯の枝折」(以下「枝折」)の産物、前回は昨年5月から12月にかけて「禽獣類」に取り上げられた鳥類や哺乳類を分析しました。産物の一覧の「関連記事」欄もかなり埋まってきましたが、今回は「蛇骨(じゃこつ)」と「木葉石(このはいし)」を取り上げます。

  • 筥根蛇骨(硅華)

    底倉より多く出ル功能血をとゝめ湿瘡なとに麻油ニて解付てよしとす

  • 木葉石 色赤し姥子ヨリ出ル

    他国ニある所の木葉石といふものハ石質和らかにして木葉の形たしかならす當山ニ出ルハ石甚タかたく木葉の跡あざやかにして至而面白し

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより 以下の「枝折」引用も同書から)


まずはこの2つを個別に見ていきましょう。「蛇骨」については「枝折」の巻ノ六「底倉の部」にも記述があります。

蛇骨川といふハ底倉より木賀芦の湯への道四五丁行て車やあり其前を流るゝ川を言ふ夏の比夕立などの後此川の辺より気の昇る事ありて土人たま/\みし者ありといふ此辺より蛇骨夥しく出るよし又柵の沢といふほとりよりも出ず東西三十間ほとの岩根の裾を丈壱尺巾三尺許に堀うかち次第に堀入て求るなり

(37ページより、強調はブログ主)


「蛇骨橋」のストリートビュー
蛇骨川付近の地形図
火山基本図「箱根山」及び火山地形分類データを合成
(「地理院地図」)

底倉より木賀芦の湯への道四五丁行て」というのは、現在の国道1号を芦ノ湯温泉へ向かう途中にある「蛇骨橋」の辺りに相当するものと考えられます。この橋の下を流れている沢が「蛇骨川」で、この沢筋を上流まで辿ると「千条の滝」があります。「蛇骨橋」の上流側に箱根登山鉄道の蛇骨陸橋がありますが、2019年の台風19号で箱根登山鉄道が長期にわたる運行停止に追い込まれた崩落箇所の1つが、この蛇骨陸橋でした。

この崩落事故が象徴する様に、この蛇骨川は崩落と侵食を繰り返す沢になっており、「地理院地図」の「火山地形分類データ」でもこの沢底は「土石流堆積地・沖積錐/現在にかけて土石流によってできつつある斜面。」に分類されています。

そして、この蛇骨川の一角で「太閤石風呂」とされる温泉が湧いているのですが、「枝折」ではこの由来についてかなり長い文章を記しています。

太闇石風呂の由来

◯凡天地の間に始あるもの終りあらざるなし年に寒暑有月満れば虧く人に盛衰あり日中すれハ傾く桑田の巨海となる事造物者のしからしむる所自然のことハりなるへし粤に相陽筥根の山中湯井尤多しといへとも就中底倉の石風呂といへるハ元亀天正の頃より湯宿何某が後庭脊戸にありて其風呂のかゝりたるや高さ三丈許の大岩屏風を立たるがごとく其裾根ひらやかにして広く打渡したる一まい岩をまろらかに雕て風呂の形をなし是をよびて瀬戸の湯といひ習しけるに天正十八年のころ豊臣秀吉小田原ノ北条を討つの役数十万の大軍ヲ率し此筥根山ニ屯すしかれども城中畳を堅してよく防戦する秀吉の勢亦大軍なれバ敢て急にもうたす両陣持して守る太閤一日股肱の臣を率て此石風に浴し玉ふによりて大閤石風呂の名ありしかしよりして此湯のいさほしも弥高く神ハ人の敬ふによつて威を増の諺にや夫より代々名湯の聞え高かりしに後百年余の星霜を経ていつの頃にや関の東ない大にふるひて此地も巌□て溪を埋む此時彼の石風呂も山壑落いりて跡もなく人家すまひをかヘて石風呂ある所よリハ聊東北の方えうつりしと見えたり可惜此時名湯の石風呂絶え殿下の鴻徳もおとろへ年ふりし事又百有余年也村民是を愁ふる事年ありといへどもあるハ世わたりにかまけ又ハ自己の力に及ハざるをもて旧跡を尋るに由なしこゝに文化八辛未の年湯主安藤氏にて伊兵衛又左ヱ門平左ヱ門といへる者当所熊野権現の霊夢を感し蛇骨川の谷底なる向ひの大岩のほとりをみよと示現ありしかハ三子告にまかせ彼所に至りて見るに断巖絶壁至るによしなし於此家に帰かき繩を用意し且竹をたわめ葛を引て辛うして深溪に下り石をつたひ谷川を渡りて見れハ滝四方より漲り釼崖の狭より温泉混々と湧出し舒々として不止飛泉のしぶき出湯の烟と混合し蒙朧たる谷底只滝の音のみ更人語を分たず三子忙然とたゝすむ所に湯煙り俄にはれて一所鮮明なる処あり何とハしらす大なる岩洞の下平らか成る所に丸き石あまた重り其下より湯の流れ出る事頻なり三子うれしみて何さま爰こそいふかしとて丸石二ツ三ツ河中へ転しのくれバ其下に忽自然石を丸くえりたる形ち見ゆ全く人力の業とも見へす猶是に力を得て心を励し数の石を取除んとするに岩上より落来る滝のしふきにひたぬれて簑も笠もつゝかすまた大石風呂の口に横たハりて力及ハすされど先ツ尋ね出せしをよろこひ此うへハ多く人力をもて堀出さめと其日ハ各々かヘりぬ次の日十六七人を催し彼所にいたり彼の大石を堀出さんとすれとも不出又の日人を倍してからふして取のけ得つ扨此風呂の形を見るに大なる自然石を丸やかにえりて深さは常の湯(ふね)のことく湯の涌出る事夥しされハこそ究竟の湯壺也とてそこら打かたつけ難所なる道つくりして帰りぬ先ツ権現へ神酒そなへよとて訇りさわき皆/\打寄りて祝ひける然れとも隣村ハいまた不知予と弄花ハかねて此七湯の画図したゝめてとさる人の頼けれハ猶其事委しくせまく折しも此所に宿り有し事故所のもの彼風呂の事語りてこたひの文にも詳に書加へたきよし慇にいふにそさらハ明日は彼所に至心んと次の日三人に案内させて行にかたのごとくの絶所にて道つくりせしとハいへども尚九折の魂をおとろかしぬ小笹にたより篠に助けられて崖を下り谷川に至りては一人先へ越へて手をのふれば一人跡より腰を押へ巖の上をつたひ行に其危き事いはん方なし漸々に彼所にいたりそ見れは実にも三子が千辛万苦思ひやられぬかく幽谷の中ながら所々に礎の跡石垣やうのもの残れり実にや大閤の賤しきより出て天下をあはせ玉ひしほとのむかしの威風もかゝる絶所の地に来りて猶おもひ出されて怖し某等此所に来りて悉く図を摸し三子か中興開発の功をあけ其あらましを述るになん

文牕しるす

(38〜39ページより)


「箱根七湯志」湯花・明礬・蛇骨
間宮永好「箱根七湯志」草稿には
「枝折」から描き写されたと思われる
湯花(右上)・明礬(右下)・蛇骨(左)の絵が
含まれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この中でも触れられていますが、この後に弄花が描いたという太閤石風呂の全景の絵が掲げられています(「文化遺産オンライン」で閲覧可能:3枚目の画像)。一時期崩落で埋まっていたという石風呂跡を村人が発掘することに成功したものの、「枝折」執筆当時にはまだ隣村でも認識が薄く、それであれば世間にこの温泉の由緒を少しでも広めようと文窓が意気込んだことが、この長大な文章の端々に見えると思います。

「蛇骨石」は谷底でこうした温泉が湧くポイントであることと深い関わりがあります。蛇骨川沿いでは太閤石風呂以外にも温泉が湧出する箇所が多数ありますが、これらの湧出口で温泉中の珪酸が沈着し、ヘビの骨の様に見えることが「蛇骨」の名の元になっています。こうして沈着した珪酸の塊は「珪華」と呼ばれていますが、明治以降に近代西洋の科学知識が浸透して実体が知られる様になりました。大正時代頃までには以下の様に蛇骨についてより科学的な解説がなされる様になります。

底倉の蛇骨野(宮ノ下小學校附近)より蛇骨石を產す。蛇骨石は字面よりして、蛇類の骨の化石なりと誤解するものあり。然れども學問上より言へば、硅華と稱するものにして、溫泉中に溶解せる硅酸の沈殿して成りたるものに外ならず。

(「箱根植物神奈川県植物調査会 編 1913年 三省堂書店 144ページ、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、傍点は下線に置き換え)


なお、現在は湧出する温泉の温度が低下しているために「蛇骨」の形で見ることは出来なくなっており、汲み上げている温泉のスケールが当時の蛇骨と同等の成分を示しているとのことです(「ワクワクはこね温泉 第7回「底倉温泉」」「神奈川県温泉地学研究所観測だより」第64号 2014所収 18ページ、リンク先はPDF)。言い方を変えると、蛇骨川の温泉はかつてはもっと高温であったということであり、それは「枝折」の太閤石風呂の文章でも、蛇骨川の谷底が湯気で朦朧としていたとする表現でわかります。


一方、江戸時代に箱根の蛇骨について記した文章の中には、別の由緒を伝えるものが幾つかあります。「東雲草」(雲州亭 橘才 文政13年・1830年)にはその言い伝えについて断片的な記述が見られます。

芦のゆ木賀へ行凡には底倉を目の下に見て登る事三四丁、此所蛇骨川也、車を□挽物をする一ツ家夫か上に芦のゆ箱ね道と云へる道わけいしあしのゆへは、壱り半、木賀へは十三四丁、その道の坂のうへ左のかた馬の療治する立矢来観音の石像立る、向ふへ行ハ二のたいら右は木賀也、

里人曰此所を塔婆堂(タフハタウ)と云、昔木賀何かしなるもの底くらのおくにすめる毒蛇を矢を以射留ける其時、足溜りの石踏割石とてあり、蛇の死したるは底倉山の半霞畑の上尾場(ヲ丶ハタイ)滝と唱ふ也、依今此所より蛇骨出る、蛇大に狂ひこの山を七巻まく尾の向ひたる方尾ひら台と云、此山芦のゆへ続く鷹の巣山一名火打やま落る川蛇骨川也

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集」1969年 神奈川県図書館協会編 337〜338ページより、強調はブログ主)

もっとも、「東雲草」では続けて蛇骨について独自に取材を進めた経緯について記し、蛇骨が結局は硫黄や礬石に類するべきものであると結論付けています。

更に、松崎 慊堂(こうどう)「慊堂日暦」の天保5年(1835年)3月の末尾には、この言い伝えの全貌がかなり整理された形で記録されています。

蛇骨(じゃこつ)

むかし一()者あり、近山の中に住し、笛を善くす。弄するごとに一少年来りて聴く。或る日瞽者に語って曰く、吾は妙音を愛す、殺すに忍びず、吾はこのところを崩壊して大湖となさんとす、()は遠く百里外に去れば免れんと。瞽者曰く、()何人(なにびと)ぞと。少年曰く、もとは大蛇なりと。瞽者曰く、いずこに居るかと。少年曰く、箱根を三(そう)して、頭は鷹巣(たかのす)の北麓の(かん)上に在りと。瞽者曰く、何を(おそ)れるかと。少年曰く、(はく)と鉄とを畏れるのみなり、()は必ず(もら)すことなかれ、泄せば吾が事は成らず、即時に()を殺さんと。瞽者は(いつわ)って曰く、唯唯と。少年は去れり。瞽者は里人に会い、これを告ぐれば、即時に死せり。里人はよって柏をその所に()え、鉄をその(たに)に沈む。蛇はついに死せり。故に澗を蛇骨川といい、山麓を蛇骨山といい、蛇骨が大いに()で、よく油の汚れを除き、血を止む。余〔慊堂〕は少時に木賀(きが)に浴せし時に往き視たり。

(「慊堂日暦4」山田琢訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 82〜83ページより、ルビも同書に従う)

慊堂は恐らく宿泊先の関係者の誰かからこの話を聞き付けて素直に日記に記録したものと思われます。

大蛇の化身という少年が、笛の音色が気に入って自身の弱点を告げてしまったことが自らの身を滅ぼす結果になったという話の展開は、「田能久」の(うわばみ)が田能久の演技が気に入って弱点を話してしまう話と一脈通じるものがあります。両者とも弱点をバラしてしまった相手が一芸に秀でる人物であったという点も共通しており、こうした話の展開が民話のパターンの1つであったと解することも出来そうです。ともあれ、川底の蛇の様に見える石がその様な形の話に落とし込まれていく原動力になったのは確かな様です。

そして、この大蛇がこの蛇骨川を崩落させて湖に成さんと欲しているという設定は、蛇骨川自体が崩落地形であることとも符帳します。崩落によって太閤石風呂をはじめ沢の温泉を埋めていってしまう様を、大蛇が暴れて湖を作ろうとしていると見立てたのでしょう。

こうして見ていくと、箱根の蛇骨は、その周囲の地理的な特徴とセットになって由緒付けられる存在であったことがわかります。「七湯の枝折」では大蛇の伝承については取り上げられていませんが、これは「枝折」の凡例に

◯此書をあまんとして普く拠るへき所の書を求れども更に引書とすへきなし只口碑に残る所土人の俚諺を其儘挙て以て前後十巻となせバ正しからぬ説も多かるべし目に見耳にふるゝをもて図をなし文をつゝる見ん人是をおもヘ

(9ページより:再掲)

とあることに呼応したものでしょう。しかし、こうした伝承の存在は、蛇骨川の周辺で温泉を営んできた村の人々が、その荒々しく変化を続ける姿と向かい合い続けてきたことを物語っていて、蛇骨はその中に位置付けられるものであったと言えるでしょう。

なお、蛇骨それ自体は必ずしも箱根に独自の存在であった訳ではありません。「和漢三才図会」「大和本草」「本草綱目啓蒙」といった当時の本草学の書物には、「蛇骨」ないしはそれに類する項目は存在しません。しかし、近江国の石類の蒐集家であった木内石亭(きのうちせきてい)の「雲根志(うんこんし)」(前編安永2年・1773年、後編安永8年・1779年、三編享和元年・1801年)には彼が収集した石類が独自の基準で分類されてリストアップされていますが、その中に「蛇骨」の項目があります。

蛇骨(じやこつ) 五十四

(ぢや)(ほね)()せし物といふはあやまり也土中に產して白く骨に似たる石也むかしは日本にある事をしらず唐物(たうもつ)を用ゆ今の世見出して澤山(たくさん)に出す功能(かうのう)尤おとらず大和國大峰山(おほみねさん)相摸國はこね山にあり土俗切疵(きりきづ)に用ゆよくちをとむると此石(いたつ)てやはらか也又近江美濃よりも出す

(前編卷之二 「覆刻 日本古典全集 雲根志」1979年 現代思潮社 56ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主)


いくつかの収集地の名が挙がる中に「はこね山」の名が見えています。石亭が石を収集するに当たっては各国へと直接旅行しており、相模国へも訪れたことがあります。石亭の「諸国産石誌」にも「相模国」の項があり、「蛇骨」の名が見えています(リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」)。「雲根志」では民間では切り傷の止血に使っていたと用途を挙げていますから、恐らくはその目的で採掘されたものの中から1つコレクションとして入手したものなのでしょう。止血剤としての用途は「枝折」や「慊堂日暦」の記述の中にも見えています。「慊堂日暦」では更に油汚れを落とす洗剤としての役目も記されていますので、こうした目的のために蛇骨の採集が行われていたと考えられます。但し、蛇骨川の蛇骨がそれほど大量に産出する様にも見受けられませんので、基本的には周辺地域で消費する以上の存在ではなかったのではないかという疑念も覚えます。


次回は木葉石の検討から続けます。

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「たかね日記」(稲葉正通)における「矢倉沢の蛤石」

以前、春日局から稲葉正則に送られた書状に記された「雲雀」について分析を披露しました。その際に「御殿場市史 第4巻 近世史料編」に掲載された史料を引用しました。神奈川県在住の私にとって神奈川県外の市町村史を読む機会はあまりなく、この機にと他の史料も探していたところ、稲葉正通(まさみち)の著した「たかね日記」(以下「日記」)という紀行文が掲載されているのを見つけました。今回は、この「日記」に記録された「蛤石」について取り上げます。

稲葉正通について、同書では次の様に解説しています。

筆者の正往は稲葉正則の嫡子で、はじめ正通といい、寛永十七年(一六四〇)の生まれであるから、この日記が書かれたのは正往が三十七才の時である。父正則が長命であったため、三十七才の働きざかりでも、ほとんど活動する機会もなく(正則は三十五才で幕府老中を勤めている)、本書執筆の四年後にようやく奏者番兼寺社奉行に任ぜられ、間もなく京都所司代に転任している。かれが父と同じ幕府老中に就任したのは、元禄十四年(一七〇一)六十一才の時であった。

(上記書179ページ、以下ページ数は何れも同書より)


実際は家督相続以前からそれなりに活動はしていたのですが、やはり父の隠居まではそれほど重要な役職に就くことはなく、その時間をこの様な領内の視察を兼ねた鷹狩などに使っていた様です。

「たかね日記」については次の様に紹介されています。

本書は、延宝五年(一六七七)十二月十日より十六日に及ぶ、小田原から関本―御殿場―三嶋―箱根を経て小田原に帰る、鷹狩りを中心とした紀行文である。その間御殿場に四泊している。本巻所収の「稲葉日記」には、稲葉正則の御殿場滞在についての記事が多く見られるが、文芸作品として少なからぬ潤色があるにせよ、本書のような詳細な滞在記事は類がない。宿としたいわゆる御殿場屋敷のたたずまいの記述も珍しく、竹之下・二枚橋・深良・須走各村の名主の動き、特に西田中村八郎右衛門(名主、芹沢将監の子孫)の案内などが記されて興味深い。文章は伝統的な記行文の模倣(もほう)であるが、正往は当時の大名の常として、漢学及び国学に造詣が深かったという。なお末尾に「越智正通」とあるのは、稲葉氏の本流河野氏がはじめ越智氏を名のっていたからである。本書の原本はもと稲葉家が所蔵していたが、現存かどうかは不明である。

(179~180ページ、以下も含めルビ、傍注も同書に従う)


稲葉正通(正往)「たかね日記」経路図
稲葉正通(正往)「たかね日記」経路図
(172ページより)
従って、「日記」の記述の主要な部分は御殿場を中心とする駿河国で鷹狩を行って過ごした日々の記述であり、相摸国の記述は出発初日の足柄峠までの区間と、帰路の箱根峠を越えて小田原城へと戻るまでの区間の足取りのみに限られています。この鷹狩の様子なども一度仔細に分析したいのですが、やはり現状の私の環境では県外の史料などは容易にアクセスできませんので、その点は他日にその様なことが可能な機会があればと願っています。

正通一行は解説にある通り延宝5年12月10日(グレゴリオ暦1678年1月3日)に小田原城を出発して狩場のある御殿場へと向かいます。記されている地名から一行は甲州道を進んだことがわかります。関本には最乗寺(「日記」では「最上寺」という表記になっている)があることに触れたのち、矢倉沢にあった関所に到着します。

辰の時ばかりに(矢倉)沢といふにいたる、そのかみ、この道は鎌倉に往来の駅路にてありけるが、いつの頃よりか箱根路にかゝりて,むかしの道はたえ/\なり、されどいまも甲斐・駿河へこゆるかたなれば、関所とす、あしがらの関とかいひし古きあともおもひ出らる、関やにいりてしばらく休らひ、ここより坂をのぼるに、冬枯たれどしげき茂りの山路はるかにして、自雲生ず、民の家だにもなし、ゆきかひに道もさりあへぬ岩かどありて、くるしくのぼる、こゝにいさごこりて其状貝に似たるあり、いつの世よりか、かくは成けん、山(しず)のことわざに蛤石とそいふめる、ゆくてに(かや)(葺)ける堂あり、あしがら(足柄)の地蔵といふ、森の落葉の霜の色はな(花)よりも猶めづ(珍)らかなり、矢倉が嶽のうしろにつゞける山なん八重山といふ、

あしがらやはやくの跡をふみ分て

ゆくへも遠き雲の八重山

(上記書170ページより、強調はブログ主)


冬場の「辰の時」はやや遅めの時刻になっている筈ですから、今の朝9時くらいには矢倉沢の関所に到着したことになるでしょうか。正通は「日記」に夜遅い時間に出発したと書いているのですが、岩原村(現:南足柄市岩原)を過ぎる頃に空が白み始め、関本(現:南足柄市関本)に着いた頃には夜が明けたことを書いています。その間約4kmほどありますから、一行はそこそこのペースで歩いていたと考えられ、そこから逆算すると出発したのは夜明け前と表現する方が適切な時間帯だったと見られます。もっとも、暗いうちに小田原の街中を抜けて甲州道を進んだため、これらの沿道の村々は「こゝもとにやおもふ(170ページ)」と書き記している通り、周辺の様子を窺うことは覚束ないことではあった様です。

小田原城を出発してからここまで休まずに歩いてきたため、足柄峠を越える前にここで一旦休憩を採ることにした様です。「日記」ではこの旅路の目的について「小鷹狩して民のかまどの煙をも、うかゞひ見むとて、(170ページ)」と鷹狩りがてらに領民の視察を兼ねていたことを記しています。その視察のうちに関所などの視察を含んでいたかどうかについては記述からは定かではありませんが、やはり藩主の嫡男が訪れたとあれば関所側は相応の対応が必要だったでしょう。

矢倉沢地蔵堂および周辺史跡の位置
矢倉沢の範囲と地蔵堂および周辺史跡の位置
(再掲:Googleマップ上で作成したものを
スクリーンキャプチャ)


夕日の滝全景
蛤石はこの付近の地層で見られる(ストリートビュー
関所を発つと民家が絶え、冬枯れの草が茂る道を登り始めます。ここで正通は「蛤石」について記しています。「矢倉沢の蛤石」については以前このブログでひとまずまとめましたが、その際に取り上げた史料は何れも江戸時代後期のもので、江戸時代初期のものは見つけていませんでした。つまり、この「日記」が今のところ私が見つけた「蛤石」の最も古い記録ということになります。

正通は「こゝにいさごこりて其状貝に似たるあり、」と伝聞の形では書いていません。しかし、正通一行が直接見に行ったのだとすると、記述に実情と食い違う箇所があることに気付きます。

以前まとめた通り「蛤石」は「蛤沢」で見られます。これは地蔵堂を過ぎて甲州道を逸れ、夕日の滝がある沢へと降りなければなりませんので、地図で確認出来る通り「地蔵堂」の記述が「蛤石」の記述より先に来なければ行程の順に噛み合わないことになります。

無論、江戸時代の紀行文では必ずしも時系列や道順にそぐわない順で記述されている例が数多く見つかりますので、この「日記」の場合も意図的ないし記憶違いなどの理由で記述の順序が入れ違ってしまった可能性もあります。しかし、本来鷹狩の目的で一行を引き連れて狩場へと向かっている最中のことであり、もしもわざわざ「蛤石」を見に行ったのであれば当然「日記」にもそのことがわかる様に書いたのではないかと思われます。こうしたことから、正通は実際には「蛤石」を見には行っておらず、一行のうちの誰かから「蛤石」について聞かされたことを書き留めた可能性の方が高いと私は考えています。

その場合、正通は誰からその話を聞いたのかが気になります。「(しず)のことわざに蛤石とそいふめる、」とこちらは伝聞の形を取るところから見ると、やはり正通に随伴していた家臣などからということになるでしょう。そうだとすろと、「蛤石」はこの時点で既に藩士の間で既知のこととして伝わっていた可能性が高くなります。

従って、「いさごこりて其状貝に似たる」つまり砂が固まって貝の様な形になったという観察も、正通のものと考えるよりは、道中でその様に説明されたものと理解する方が良さそうです。以前まとめた様に「本草綱目啓蒙」などでは化石の成り立ちについて比較的正確に理解されていたことが窺えるのに対し、この「日記」の記述ではまだその様な理解が成立していなかったのではないかと推測できます。この山の中に海のものが出土するなどということは、当時の知識では理解し難いことではあったでしょう。

「日記」の他の部分については、後日改めて取り上げてみたいと思います。
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神奈川県の「県の石」

先頃5月10日に、日本地質学会(以下「学会」)が全47都道府県の「県の石」を公表しました。


確かにこれまで都道府県のシンボルとしては花・木・鳥が中心で、他にシンボルカラーなどを制定している所もありますが、石をシンボルとして制定している都道府県はこれまでありませんでした。同学会の創立125周年に向けての記念事業の一環で、2014年から公募した候補から学会で組織した選定委員会が検討して選定したものとのことです。

全47都道府県それぞれに石・鉱物・化石の3部門で、その県に特徴的に産出する、あるいは発見されたものを選出しているため、全部で141種に増えています。敢えて3部門に分けている辺りに、学会としての拘りを感じます。神奈川県では
  • 県の石:トーナル岩
  • 県の鉱物:湯河原沸石
  • 県の化石:丹沢層群のサンゴ化石群
選定されました。


「トーナル岩」については以下の2つの博物館のサイトの説明がわかりやすいかと思います。

うち、「神奈川県立生命の星・地球博物館」のサイトで読めるものは「かながわの自然図鑑① 岩石・鉱物・地層」(神奈川県立生命の星・地球博物館編 2000年 有隣堂)の内容と同一です(15ページ)。なお、同書は今年2016年に改訂を施した新版が出版されていますが、今のところ私は未見です。旧版や上記サイトでは丹沢のトーナル岩の年代を「700万年前」としていますが、日本地質学会のサイトでは最近の測定結果に基づいて「500~400万年前」としており、この石が形成された過程も「丹沢が本州に衝突してからできた岩体と解釈されている」と解説していますので、新版ではこの点が書き替えられているかも知れません。ただ、丹沢山地が当初は島であったものが後に本州に衝突する過程を示す石であるという点には変わりはありません。


「湯河原沸石」が産出する「不動滝」の位置
(「地理院地図」)
「湯河原沸石」は地質学会によれば神奈川県内の地名を付された唯一の鉱物ということで、鉱物と産地が湯河原町の天然記念物に指定されています。湯河原の不動滝は温泉街に近い観光スポットの1つで、人が容易に入っていける場所に産地があるのも特徴と言えるかも知れません。


丹沢山地で見られるサンゴ礁の化石も、トーナル岩と同様に丹沢山地がかつては南の海にあったことを示すものであると言えます。


選定されたこれらの「県の石」を見ていると、少なくとも神奈川県の場合は地形の成り立ちを説明する上で鍵となるものが優先的に選ばれた印象があります。他の都道府県についても同じことが言えるかどうかは一概には言えませんが、少なくとも神奈川県の「県の石」は地質や地学の専門家としての見識が示された選定であるように思えます。

その分、根府川石や真鶴石、あるいは南足柄市の天然記念物になっている矢倉沢の蛤石などが選に漏れており、その土地の史料に見える石が入らなかった嫌いはあります。古くから知られていたり利用されていたことが記録に残るものであっても、その土地固有のものであったり地学的に特異なものと言えるかという点で、他に勝る石があったということになるのかも知れません。無論、この点については学会からのコメントにもある様に、シンボルとして選ばれなかったものにもその土地の地質や成り立ちなどを語る上で重要なものもあることは言うまでもないことです。私も今回の選定に異存がある訳ではありません。

ともあれ、今後これらの「県の石」が果たしてどの程度世間に認知されるかが課題でしょう。最近はジオパークなどの形で地学への関心を高めようという動きが大きくなってきていますので、そうした動きの中でこれらが有効に活用されて浸透していくかが鍵かと思います。
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