「書籍・資料紹介」カテゴリー記事一覧
このところ毎年1冊のペースで藤沢市 文書館から発刊されている「歴史をひもとく藤沢の資料 」(以下「藤沢の資料」)のシリーズですが、昨年 は長後地区が取り上げられ、私のブログではその中から長後を経由する滝山道について重点的に記事にしました。今年は7巻目として「遠藤地区」が刊行されましたので、早速中身を確認してみました。 今回の「藤沢の資料」も同シリーズのこれまでの巻と同様の構成になっています。遠藤地区の資料の目録を収録したCD-ROMが付属するのも一緒です。画像で見る遠藤遠藤地区とは 遠藤村と寶泉寺 「丘が招いた」もの 空から見た遠藤地区 旧小出村・御所見村の旧地形と史跡図 遠藤村の字境と集落立地 カメラが捉えた遠藤地区
遠藤の歴史をひもとく地誌に見る遠藤の寺社 数値で見る遠藤 地図・絵図目録 遠藤村の成り立ちと藤元寺・寶泉寺 江戸時代の寶泉寺とその役割 遠藤民俗聞書―丸山久子と藤沢の民俗 遠藤の暮らしと行事 「丘が招いた」もの―北部・西部開発から「健康と文化の森」へ
遠藤の歴史資料各資料群の概要 「藤沢市 文書館資料目録(遠藤地区)」(CD-ROM収録)について もっと詳しく知りたい人へ 藤沢市 行政区画変遷表藤沢市 および周辺行政区画変遷図
(「藤沢の資料」5ページ目次より、以下引用明記ないものは何れも同書より)
藤沢市 遠藤の位置 (Googleマップ )遠藤地区変遷図(「藤沢の資料」6ページ)
藤沢市の遠藤地区は現在は慶應義塾のSFCキャンパスが存在する地区と紹介するのが通りが良いでしょうか。東側は工業地帯として区画整理が施されましたが、SFCキャンパスを含む西側は藤沢市内では比較的農地や緑地が残っています。この地区について、「藤沢の資料」は次の様に記しています。遠藤地区は1955(昭和30)年の北部合併時に、高座郡小出村大字遠藤を編入した地区である。近世村(旧村)である遠藤村を継承する地区であるが、しかし旧村の区域とは必ずしも同一の関係ではない。
近代の行政村は、複数の近世村(旧村)を統合することで成立したが、明治初頭の区番組制の時代の遠藤村は、亀井野村、石川村、西俣野村とともに「第18区10番組」、大区小区制の時代は「第18大区10小区」を構成するなど、現藤沢市域との関係が深かった。だが、1884(明治17)年の連合戸長役場制に際して芹沢村、行谷村、堤村、下寺尾村と五ヶ村連合を組織したことで、1889(明治22)年施行の町村制にあたって小出村の大字の一つになった経緯がある。
小出村は戦後の「昭和の大合併」にあたって、大字遠藤は藤沢市、それ以外は茅ケ崎市に分かれる分村合併を選択する。ただし、遠藤南部の字丸山については大字芹沢および堤と部落会(町内会)を構成していたことが考慮され、一部が遠藤から切り離されての合併になった(図中:紫)。
藤沢市はしばらくの間、本庁および遠藤をはじめとする合併町村から引き継いだ6つの支所(1968年9月に行政センター、1973年4月に市民センターに改称)の管轄単位を、広域の地区区分として用いていた。しかし、湘南台や善行など、開発によつて新たな生活圏が形成されたため、生活実態にあわせた新たな区割りが必要になった。そこで、1975(昭和50)年に現在の「13地区」の区割りが提示された。この「13地区」は、歴史的経緯や都市計画区域、河川などの自然条件をもとに、大字にとらわれない形で編成されたもので、支所時代の遠藤地区から湘南ライフタウンに含まれる字矢向・丸山・大平・滝ノ沢と南原・中原の南部、永山の西部(図中:緑)が湘南大庭地区へ、字田方の南部と永山の東部(図中:黄色)を六会地区に割譲する代わりに、北部第二土地区画整理事業で一体的に開発された、旧六会村を起源とする石川5丁目と石川6丁目、字大山・近藤山(図中:橙色)が編入される。こうして、現在の遠藤地区が成立した。
(7ページ、一部括弧内省略)
こうした経緯から、今回の「藤沢の資料」の内容でも、特に現代に入ってからの開発事業に関する部分では、新たな区割りに含まれる江戸時代の石川村に属する地域の記述も含んだものになっています。ただ、近世以前の記述ではその当時の村の範囲を基本とした記述になっている様です。遠藤付近の藤沢厚木道 (「地理院地図 」上で作図したものを スクリーンキャプチャ) このブログでは江戸時代の相模国の街道の状況を「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)などを手掛かりに取り上げてきていますが、「風土記稿」の高座郡遠藤村の項(卷之六十一 高座郡卷之三)では、この村を経由する街道は挙げられていません。実際は遠藤村の東から北にかけての境には藤沢から厚木に抜ける厚木道 が通っていたと考えられます。事実、遠藤村の「皇国地誌村誌」の残稿には道路
厚木街道 東南東本郡石川村より本村字十四枚ニ来り東より北の村界を千弐百弐拾七間幅弐間半西北隅字西大平より本郡打戻村字慶蔵法印塚へ通す
(「藤沢市史料集(11) 村明細帳 皇国地誌村誌」藤沢市文書館編 100ページより)
と遠藤村の境を厚木街道が通っていたことを記しています。なお、私のブログではこの道については以前「藤沢飛行場」を貫通する道として紹介 したことがあるものの、遠藤村周辺の区間は今のところ取り上げたことがありません。 「風土記稿」にこの道についての記述が見られないのは、村との関係が薄かったからでしょうか。「藤沢の資料」でも厚木道に関する記事は含まれておらず、付属のCD-ROMに収められている遠藤地区の資料の一覧でも厚木道に関係がありそうな資料の名称は含まれていませんでした。但し、後に旧遠藤村が小出村から分離して藤沢市と合併する選択をしたことが「藤沢の資料」に見えますが、その際には、この厚木道が藤沢と旧遠藤村の関係を繋ぐ存在であったとも考えられます。 この厚木道の道筋を地形図や字( あざ ) 界図(「藤沢の資料」17ページ)上で見ると、遠藤村の北側の地域は「ヤト(谷戸)」と呼ばれる複雑な谷が幾筋も付いており、相模川水系に属する小出川の源流地となっています。またその南東側の「北原」と呼ばれる字の一帯は、村の中では比較的高台にありながら引地川水系の支流である小糸川の源流があり、一帯に湿地が多く耕作が困難であったため、その克服に排水目的で「悦堂堀」と称する用水路が慶長年間に掘られました。厚木道はこうした遠藤村内の谷筋や湿地を、尾根筋を伝いながら「く」の字状に迂回するルートを経ていたことがわかります。悦堂堀の位置。マーカーの位置は以下の2枚の写真の撮影地点 現在はその大半が埋め立てられ中学校や体育館の敷地となっている 西側に小糸川の源流付近の河道が見えている(「今昔マップ on the web 」より) 遠藤・悦堂堀の景観(2000年ブログ主撮影) 遠藤・悦堂堀ガイド(2000年ブログ主撮影)
因みにこの「悦堂堀」を建設した悦堂和尚は、当地の曹洞宗普蔵院太源派直末寺院である寶泉寺の7代住職でしたが、「藤沢の資料」では江戸時代の記述はこの寶泉寺に関するもので占められました。これは同寺に残る資料の点数が900点と豊富で、遠藤地区の近世までの資料の大半を占めることを反映しているものと思われます。 その点では、この巻では私のブログの関心領域に関連しそうな記事がなかなか見当たりませんでした。その様な中で、「遠藤民俗聞書―丸山久子と藤沢の民俗」の項には藤沢市の民俗研究の推移が記されており、これが私のブログで取り上げた事柄に意外な接点が見出だせる内容になっていました。 私のブログで以前相模国の「炭」生産の諸実情を取り上げた際、「その8 」で炭焼と関わりの深い信仰として挙げられるものがないかを調査しました。その際津久井郡と並んで「山の神」信仰の記録が見出せたのが「藤沢市史」の「第7巻 文化遺産・民俗編」(以下「民俗編」)で、遠藤地区の打越や神明谷の事例が挙げられていました。 この「民俗編」の成立に繋がる同地の民俗調査の経緯が、「遠藤民俗聞書」の項にまとめられていました。まず、「遠藤民俗聞書( ききがき ) 」(以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)については次の様に紹介しています。『遠藤民俗聞書』(以下・『聞書』)は、純農村の姿をとどめていた遠藤の暮らしや慣わしを記録した民俗調査報告書である。1961(昭和36)年3月、藤沢市教育委員会から刊行された。企画から調査、執筆、編集を全て担当したのが、柳田國男のもとで民俗学を学んだ丸山久子(1909―1986)である。
『聞書』は、丸山にとって藤沢市での最初の仕事であった。
…
巻頭には、柳田が序文(口述・丸山久子)を寄せている。柳田は、相模の内陸部には未だ不明な点が多いことを指摘し、「神奈川県 の中でも東京の中心からわずか二三時間の行程の区域に、戦後十数年経った今日、まだこんなところがあろうとは考えていなかったことであった。」と述懐する。そして、「これは遠藤の地にとってはよい記念となろうし、たまたまこの地を選んではじめた女の人たちの仕事が、地元に同情者をえて、このような形で世に残ることは、あながち小さい出来事とばかりは云えないと思う。」と結んで、丸山たちの功を讃えている。
…
当時の民俗学は村落を対象とすることが多く、東京に隣接する神奈川県 は民俗調査が進まず、成果物も少なかった。藤沢では、1932(昭和7)年に江島神社に奉職した清野久雄が、島民から島の言い伝えや行事の間き書きをしている。その一部は、雑誌『旅と伝説』・『方言』などに発表されたが、『江の島民俗誌』として刊行されたのは『聞書』と同年の1961(昭和36)年である。それ以前に編まれた民俗誌は、1943(昭和18)年に山川菊栄が村岡を舞台に著した『わが住む村』の一冊にすぎない。無名の人々が伝えてきた生活文化は、ほとんど顧みられることはなかったのである。民俗調査の報告書が藤沢市の刊行物となるのも、『聞書』が初めてのことであつた。
(44ページ、「…」は中略)
この記述に従えば、遠藤は藤沢市域の民俗調査という点では初期に属する調査地であったことになります。この遠藤の地が民俗調査の対象となった理由については、調査員たちが日帰り出来る地であり、かつ主要な交通路から外れているために都会の文化の影響が比較的少ないと考えた旨、丸山が「聞書」のおわりに記しています。しかし、人手や時間の制約から充分な調査が行えず、遠藤の中でも僅かな調査地に限定されたこと、その後「聞書」の補充調査が丸山の下で郷土史や民俗学の連続講座を受講した受講生たちによって遠藤で再び行われ、「遠藤の昔の生活 」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)として結実したこと、そしてその際に調査に従事したメンバーで「民俗編」の執筆に取り組んだことが記されています。 そこで、「聞書」と「昔の生活」を取り寄せて内容を確認してみることにしました。炭焼と関連する信仰について、更なる情報が得られる可能性を感じたからです。その結果、以下の様な記述を見出すことが出来ました。「聞書」:
薪は昔は藤沢や茅ケ崎などに出荷したこともあり、炭焼業も四、五軒あってやはり藤沢、江ノ島方面に出した。現在では炭焼は上庭に二軒あるだけ、薪も炭もともに村内の需要を満たすこともできない状態である。(17ページ) 山の神については、八日は山に入ると山の神がおこるといって入らない。また二月十七日は特に山の神のいかりを恐れて山に入ることはしないという話である。(51ページ) 「昔の生活」:
山仕事をする人達は山講を行っていた。この時炭や薪の単価を決めた。今は山講は行われていない。(26ページ) 山仕事
農閑期の一月から二月頃にかけて副業として山の仕事をする人もありました。北部と西部の部落に十軒位あって、雑木を切って薪や炭を作り藤沢や茅ケ崎に出荷していました。(現在は無い)山仕事としては、木を切ったり枝をおろしたり根直しをしたりする先山(さきやま)と代採した木を山から搬出するダシと、木材を板や角材に晩く木挽(こびき)とありますが、遠藤ではほとんどが先山で、先山の仕手をする人を杣(そま)と呼びます。杣の人達で山講があり、頭をオヤダマと呼び月一七日、秋十月十七日に講を行っていました。毎月八日は山の神の命月だから山へ入ってはいけないといって山の仕事は休みました。
炭焼き
炭焼業も四、五軒あって藤沢の町場や江島方面に出荷しました。(昭和三十六、七年頃まで上庭にあった二軒の家では焼いていた)材料はくぬぎ、なら、かしの堅木や松、杉等で松炭は柔らかくはこりやすかったので鍛治屋に歓ばれました。養蚕や茶の製造には欠かせなかったので、養蚕の盛んな頃は冬の間だけでなく一年中焼きました。
炭の焼け具合は、煙の臭や色で見分けて火を止めるのですが、なかなかむずかしいもので、下手な人が焼いた炭はくすぶってよくありません。
賃焼きといって、木はお客さんの家の木でかまどを貸して焼く事もあります。代金は一かまいくらと決めて焼いた炭を代金として置いていく事が多かった様です。一かまで五俵か六俵位焼けます。(89〜90ページ)
山講 一月十七日と十月十七日に行われていた。山の仕事をする人、山の木を扱う人、炭を焼く、薪切りなど山仕事をする職業の人の集まりが山講である。当番の宿(やど)は廻り持ちで、この日にお賽銭をもちよって集る。山講の日には、オヒヨ(ママ) ウゴを掛けて、皆で会食しながら、薪の一束は幾ら、など賃金やその他の仕事のことも決めて古くからある帳面に記録をする。それを連盟が承認する。山の神のオヒョウゴ(掛軸)は、神奈川県 立博物館に寄贈されているが、この記録によれば、集まってくる講中の人の部落名は、笹久保、神明谷、中町(慶応三年)で遠藤全域にわたっている。
山の神はうるさい神様だから、女の神様らしいといい、十七日は山の神の日だから、山に入るじゃない」と言って、どこの山でも入らなかった。(259ページ)
屋敷神
…
神明谷戸の長田光一氏宅内の山の神は、石の小祠で、天明五、十一月十七日と刻まれている。祭は二月十七日の山の神の日に行ない、以前は神明谷戸の稲荷社といっしょに山の神もまつられていたが、道路の幅を広くするとき、社を移すことになり、町内のものだから、山の神も移すようにいわれたが、古い言い伝えに「ちようま」という先祖がたてたからというので、個人の家の屋敷神として今はおまつりしている。祭の日には、「山の神の命日だからお茶をあがりに来てください」と近くのナカイ、ニイヤの家の人をよぶ。赤飯、煮〆、酒と菓子を供えてから、オタキアゲをして、御馳走を食べる。子供衆には、「山の神のセエトでゴックウ(御供)だから」と言って、菓子をくるんでやる。
毎月八日の日は、「今日は八日だから、山へ行かない方がよい」といって山仕事はしなかった。正月四日のウナイゾメの時には、ダイノコンゴウを供え、山の神の祭りのとき、オタキアゲをして燃す。毎朝お詣りしないことはないという。(271ページ、273ページに写真あり)
これらを見ると、「聞書」が編集された昭和30年代初期には薪や炭の需要と供給が下火になっていく時期に重なっており、山仕事に関連する民俗も「過去のもの」になりつつあった状況が窺えます。その様な事情も相まって、遠藤地区で必ずしも主要な産業ではなかった山仕事についての記述も、それほど多くはならなかった様に見受けられます。 その一方で、「山講」が単なる宗教的な集いではなく、単価設定を取り決めるなど同業者組合的な側面も併せ持ったコミュニティであったこと、薪や炭の出荷先として遠藤村内の養蚕や製茶用途への供給の他に、藤沢や江の島での需要に応えていたことなど、新たな側面も浮かび上がってきました。基本的には農閑期の副次的な稼ぎという側面が強かったとは言え、「山講」に関与した地としてヤト地形を抱える遠藤北部の字が挙げられていることから、これらの地域では谷戸の尾根筋が山仕事の場として定着していたことが窺えます。 無論、飽くまでも民俗調査ですので、歴史的資料と照合する場合は調査時点で確認できた習慣が何処まで時代を遡るものか特定し難い点に注意する必要はあります。例えば養蚕や茶葉生産は明治以降に盛んになる傾向がありますので、それ以前の事情が変化ないものと言えるかどうかは、当時の事情と改めて照らし合わせて考えないといけません。それでも、時代による変動を受けにくい習慣、例えば上記で繰り返し登場する山仕事の禁忌日の習慣などは、かなり昔から続いていたものである可能性が考えられます。実際、屋敷神の祠や表具に記されている年代が江戸時代後期のものであることから、その頃には既にこうした信仰が定着していた可能性が高くなります。そして、衰退期の取材にも拘らず禁忌日がこれだけ繰り返して採集される慣習であったことから、相当に拘束力の強いものであったと見て良いでしょう。遠藤笹久保谷戸内の様子 記事アップ時点では公園整備前の状態が写っている (ストリートビュー ) 近年、遠藤笹久保谷( やと ) の内部が公園として整備されました が、ここは元は谷戸田であった所が永年保全され、景観が維持されてきた地域です。周辺には林が残されていますが、遠藤の山仕事が行われていた頃はこうした林で薪や炭を生産していたことになるでしょう。 今回の遠藤地区の「藤沢の資料」は、このブログにとっては「聞書」や「昔の生活」の様な未見の資料の存在への「気付き」を用意してくれる存在になりました。実は「聞書」や「昔の生活」からは、遠藤の山仕事に関する民俗以外にも意外な記述を見つけたのですが、既にかなり記事が長くなっていますので、この続きは次回に廻します。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-577.html 「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その1)
このブログを始めて間もない頃に、当時ネット上で公開されていた「多摩川誌」(建設省関東地方建設局京浜工事事務所)を紹介しましたが、8年ほど前にこのサイトが廃止されてしまったことをお伝えしました。 最近になってFedibird(マストドン)に参加したのを切っ掛けに、右のような形でこのブログの過去記事を1日1回ずつ紹介しています。その一環で「多摩川誌」を紹介した記事を見返した折に、ふと「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)で公開されているのではないか、と思い立って検索を試みました。 その結果、以下の場所で「多摩川誌」が閲覧できることを確認できました。多摩川誌 〔本編〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション
「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」に指定されているため、ネット上で閲覧するにはIDを取得してログインする必要があります。とは言え、現在の「デジタルコレクション」では全文検索にも対応しているため、従来のHTML並みの検索が行えるのが強みです。実際、「多摩川誌」を引用していたこちらの記事 にページ数とリンクを追加する際にも、全文検索で容易に該当箇所を見つけることが出来ました。 また、「多摩川誌」には「本編」以外の別巻が付随していますが、これらも全て「デジタルコレクション」上で公開されていました。 従来のHTMLとは形が違うとは言え、再びネット上で閲覧できる場所を得たのは大きなメリットです。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-576.html 短信:「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されていました
昨年夏頃に 、「歴史をひもとく藤沢の資料 5 善行地区・湘南大庭地区」(藤沢市 文書館)という資料を、主に藤沢飛行場に関しての記述を中心に紹介しました。第1集「御所見地区」の2016年以降、年1冊のペースでこれまで5巻が刊行されてきましたが、まだ藤沢市 内の一部の地区に限られていることから、今後も年1冊ずつ残りの地域を取り上げていくものと思っていました。ところが、今年は趣が変わって「別巻 中世文書」(以下「藤沢の資料」、但し既刊との比較について書く場合は「別巻」)が刊行され、ちょっと不意を突かれた格好になりました。 あるいは刊行が打ち切られたのかと不安になり、念のため来年度以降の刊行予定について藤沢市 文書館に確認しました。その結果、引き続き長後地区の刊行に向けて準備を進めており、未刊行の地域についても資料整理を進めてその進捗状況で刊行予定を検討するとの回答をいただきました。刊行自体は引き続き継続される予定で、たまたま別巻の刊行が先行したものの様です。 巻頭の「発刊にあたって」では、今回の別巻について次の様に位置付けています。本書は、シリーズ別巻として、藤沢市 に伝来・所在する中世文書を中心に編んだ資料集です。現在の地区区分には収まらない内容を持つ中世文書について、資料をわかりやすく伝えるというシリーズの趣旨に沿って、一点ごとに翻刻を示し、文書の状態に応じて写真画像や書き下し、大意、解説、注釈などを加えるほか、資料群の解題と目録を付し、それぞれの文書や資料群が今に伝える様々な歴史的事象について理解できるように構成されています。
(「藤沢の資料」3ページ、以下の引用も何れも同書から)
このため、別巻はこれまでの5巻とは構成が大きく変わりました。ここまでの5巻はそれぞれの地域の歴史上のトピック毎に史料をまとめて紹介する構成になっていましたが、この別巻はオーソドックスに個々の文書毎に紹介を行い、その配列も文書の所蔵者単位でまとめる形態になっています。目次は今のところ藤沢市のサイト などで確認出来ますのでこちらの記事では省略しますが、本書では全部で147点の文書が掲載されています。詳しいものでは「影印」「翻刻」「書き下し」「大意」「注釈」「状態」「刊本」「解説」の各項目が付されていますが、「影印」や「書き下し」「大意」などを欠いて簡略に紹介されている文書も含まれています。中には「偽書」の疑いのある文書も掲載されています。また、これまで各巻に付属していた藤沢市文書館が保存する原本や複写物のリストを収録するCD-Rはなくなり、巻末に所蔵者毎の中世文書一覧が付されるのみとなりました。そして、これまでは各トピック毎に別の著者が執筆していましたが、別巻では石塚 勝氏(関東学院大学講師)が編集・執筆・作図を一貫して担当しています。 私のブログでは主に江戸時代の街道や産物にまつわる話題を取り上げてきています。その関係で「武相国境」を検討する際など「前史」を確認する必要がある場合に中世の史料を見るという使い方が主です。今回の「藤沢の資料」はその点では「守備範囲が違う」ことにはなるのですが、江戸時代の街道や産物に関係する記述が何か見つからないかという観点で、掲載された文書を点検することにしました。その結果、次の5点に今までこのブログで取り上げた題材に関係しそうな記述を見つけました。1. 「蜜柑」と「樒( しきみ ) 」 この2点は江の島の総別当であった岩本院に伝わる文書ですが、「藤沢の資料」には当時の有力者から江の島の岩本院や下之坊宛に発給された文書が多数採録されています。 「蜜柑 」については「新編相模国風土記稿」で足柄上郡・足柄下郡の7ヶ村で栽培されていることを記されていることを手掛かりに、当時の蜜柑の栽培や貢税などの事情を3本の記事でまとめました。その中で「延喜式」に相模国からの柑橘類の献上があったことを示す記録があることに触れました。 足利晴氏は第4代の古河公方で、上の文書は天文4〜13年頃(1535〜44年)に発給されたと見られていますが、この文書で岩本院との間で蜜柑が贈答品としてやり取りされていることが確認できます。その産地についてはこの文書から確認することは出来ないものの、戦国期にも後の江戸時代の献上や貢税に繋がる位置付けが既にあったことが窺えます。 一方、「樒 」については「風土記稿」では足柄下郡土肥鍛冶屋村、土肥宮上村(現:湯河原町)で産出していることを記していること、そして江戸問屋や小田原藩主との関係について紹介しました。この時は江戸時代以前の樒の生産については何も情報がありませんでした。 足利義氏は春氏の嫡男で古河公方第5代に当たり、上掲の文書は「藤沢の資料」では永禄元年(1558年)に発給されたとしています。ここで贈答品としてやり取りされている樒についても、やはりその産地については本文書からでは確認できませんが、戦国期には既に樒の生産が行われていたことがわかります。2. 狩猟の獲物 Ⅱ 江島 下之坊文書>49. 北条氏照書状(66〜67ページ)
改年者 早々御音信、本望候、/疾ニ 可申届候処、万方取乱、其以/後是非不申候、任現来、山鳥 三 、/進申候、猶期後音候、恐々謹言、
正月十五日 氏照(北条) (花押)/一色虎乙丸殿参
Ⅴ 藤沢 堀内文書>93. 北条氏政書状(97ページ)
鷹之鶴 初ニ 候、浦山敷候、小田原へ則/遣候、将又動之模様をハ、左馬助(北条氏規) ニ 委/細書付渡候、三浦にて彼書付其方/可入披見候、両人を当所ニ 致候、恐々/謹言、
九月廿七日(天正四年力) 氏政(北条) (花押)/上総入道(北条道感) 殿
Ⅴ 藤沢 堀内文書>103. 北条氏照書状写(102ページ)
昨日者 入来、鷹雁 一羽 持参/給之、令祝着候、他出不能/面談候、被申置候通、今度於大平/城際、其方走廻、殊ニ 高名無/比類候段、公儀御聞及、御感状被下、/忝被存之由、尤之事ニ 候、彼地仕合/感入候、恐々謹言、
「酉(天正八辰年) 」/九月廿六日 氏照(北条) (花押)
(ウワ書)「北陸奥守/(墨引)堀内日向守(勝光) 殿 氏照」
残りの3点は何れも狩猟で得た野鳥の贈答に関するものとして取り上げました。このブログでは雲雀 を取り上げて以降、折に触れて鷹狩で得られた雲雀について都度調べたものを紹介してきました。その際には雲雀の江戸時代以前の状況については触れたものの、鷹狩については江戸時代以前の事情について触れませんでした。ヤマドリ(KKPCW - 投稿者自身による作品 CC 表示-継承 4.0 Wikimedia Commons による) 1枚目の「北条氏照書状」には「山鳥」の名前が出てきます。この文書は年未詳ですが氏照の花押の形から天正10~12年(1582~84年)頃のものと見られており、小田原北条氏の支城である滝山城に居城しながら八王子城の構築に勤しんでいた頃のものということになります。なお、宛先の「一色虎乙丸」については「藤沢の資料」では委細不明とされており、古河公方となった足利氏の譜代の側近であったとされる一色氏久の一族かと推察されています。 ヤマドリ(Syrmaticus soemmerringii )はキジ科の鳥で、現在では見られる数は多くはありませんが本州に広く分布しています。「和漢三才図会 」には「万葉集」の歌として「あし曳の山鳥の尾のしたりをの長々し夜を獨りかもねん 人丸 」が掲げられていますが、これは百人一首にも採録されている柿本人麻呂の歌ですね。古代から愛でられている鳥であることが窺い知れます。 氏照が新年の便りへの返信が遅れた詫びに「山鳥」を贈ると書いているのは、その時点で既に狩猟で得たヤマドリが手元にあったのでしょうか。氏照の狩場が滝山城や八王子城からさほど隔たっていない場所にあったと思わせる文書ですが、それが何処にあったのかはわかりません。ただ、氏照の居城の周辺でヤマドリが当時も生育していたのは確かでしょう。また、どの様な狩猟方法でこのヤマドリを得たのかはこの文書では記されていません。 それに対し、2枚目と3枚目の文書には「鷹之鶴」「鷹雁」と、鷹狩で得られたものであることが明記されています。2枚めの文書で「鷹之鶴」を小田原北条氏第4代の北条氏政に贈った「上総入道」すなわち北条綱成は、支城の玉縄城の第3代城主でしたが、この書状が書かれたと推定されている天正4年(1576年)には家督を譲って隠居の身となっていました。「入道」という名前にもその身分が現れていますが、恐らく玉縄からさほど離れない場所で放鷹していたのでしょう。鶴の種類は不明ですが、9月27日(天正4年であれば、グレゴリオ暦10月19日)つまり秋の最中に鶴がこの辺りにも飛来していたことになります。現在では神奈川県 下をはじめ関東地方にツルの仲間が飛来することはなくなってしまいましたが、当時の生息域の分布を示す史料の1つと言えます。 3枚目の文書で氏照に「鷹雁」を贈った「堀内日向守」すなわち堀内勝光は、玉縄城主北条氏勝の家臣です。その身分から考えると2枚目の文書に比べて玉縄城から遠く離れて鷹狩を行った可能性は低いと思われます。天正8年9月26日はグレゴリオ暦で1580年11月3日、秋も大分深まって来ている頃に雁が玉縄城付近に飛来していたことになります。こちらもツルの仲間同様、ガンの仲間が神奈川県 下に飛来することはなくなってしまいましたので、当時の飛来実績を示す史料の1つということになります。 そして、これら3枚の文書からは、狩猟で得られた獲物を遠隔地へ贈り届ける習慣が定着していたことがわかります。そのためにはこれらの獲物が腐ってしまう前に目的地に到着できる交通路の整備が出来ていたことが裏付けとしてあったことになります。当時のこれらの獲物がどの程度日持ちするものと考えられていたのかは定かではありませんが、それまでには十分に目的地に到着できる輸送手段があったことになるでしょう。特に3枚目の玉縄から八王子への記録が、支城間の交通路も十分に整備されていたことを示す点で注目されます。1枚目は一色虎乙丸の委細が不明のため送付先がはっきりしませんが、古河公方の本拠地宛ということなら八王子から古河城宛に贈られたことになります。 また、江戸時代に入ると鷹狩が将軍と御三家、及び一部の大名にのみ許可される様になりますので、この2枚の文書はその様になる前の時代には、もっと幅広い人達によって行われていたことが窺い知れる史料でもあると言えます。無論、その実情を知るには他の同種の史料と照合して、江戸時代以前にどの様な人々が鷹狩を行っていたのかを分析する必要がありますが、特に3枚目の史料は領主の家臣によっても鷹狩が行われていたことを示す可能性があります(氏勝の鷹狩の獲物を勝光が代理として届けたと読むべきかも知れませんが)。 今回の「藤沢の資料」は、こうした「前史」を確認することきっかけを与えてくれるものになりました。来年度以降の続巻の刊行が楽しみです。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-536.html 「歴史をひもとく藤沢の資料 別巻 中世文書」(藤沢市文書館)から
「写真集」扉ページ(再掲) 前々回 に紹介した、アメリカのメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art) のデジタルコレクションに収録されているスチルフリートの「日本の風景と装束(Views and Costumes of Japan) 」という写真集(以下「写真集」、以下の「写真集」の写真は何れもメトロポリタン美術館のコレクションサイトのもの。)から、今回は次の3枚の写真について色々と考えを巡らせてみたいと思います。※メトロポリタン美術館のサイトでは、「写真集」の個別の写真への直接のリンクは用意されていないため、今回も何枚目の写真に該当するか、サイトでの表記に従ってキャプションに記しますので、それを手掛かりにサイト上で繰って下さい。
①「小田原付近の東海道(1)」 (volume 1, plate 24 - Tokaido near Odawarra) ②「小田原付近の東海道(2)」 (volume 1, plate 25)
③「小田原」 (volume 1, plate 26) 参考:「小田原城」 (volume 1, plate 27) これらの「小田原付近の東海道」もしくは「小田原」と題された3枚は、前々回紹介した写真のうち、3枚めの「清浄光寺」の境内の写真に続いて掲載されています。そして、この3枚の次に「小田原城」の写真が掲げられるという順番になっています。 これら3枚の写真についてまず考えてみたいことは、これらは具体的に何処で撮影されたものなのか、という点です。何れも具体的な場所を特定するのに決め手となるものが画角の中になく、しかも場所を絞るために必要な情報が写真に付されたタイトル以外に何も与えられていないため、非常に判断に困る写真になってしまっています。 「写真集」は最初の10枚が日本の「装束」を題材にした写真が並んでおり、続いて3枚のパノラマ風に丘の上から撮影した写真を皮切りに風景写真が並べられるという構成になっています。このパノラマの3枚が何処で撮影されたものであるかは記載がないものの、手前に洋館が建ち並んでいる上に一部の建物の敷地内から国旗らしきものが掲揚されているのが写っており、更に遠景の海上に洋船が多数浮かんでいることから、横浜の山下町付近のものであろうと考えられます。 そして、その後続の写真は能見堂を経由して金沢へ至り、鎌倉を巡って片瀬海岸から藤沢に向かうという順に並んでいます。この流れは、現地の地理に明るい人間の目から見ても、基本的には実際にこの順に移動しながら撮影を続けたのだろうと無理なく考えることが出来る配列になっています(「建長寺」の写真が高徳院の大仏の後に出て来るのは、片瀬の龍口寺が続くことを考えると順番が違うとも思えますが)。 その流れに引き続いてこれら3枚の写真が来ることから、やはり同様にこの順に撮影されたものであろうと判断したくなります。しかし、「小田原付近の東海道」と題された2枚の写真に写っている風景は、果たして本当に小田原付近の写真だろうかという疑問を感じさせるものになっています。
大磯〜小田原付近の東海道沿道の位置関係 (「地理院地図vector」にて作成したものを スクリーンキャプチャ) 特に、2枚めの写真の街道の先を良く見ると、露出の関係でやや白飛び気味になっているものの、藁葺き屋根の民家が建ち並んでいるのがわかります。その屋根の写り具合から見ると、街道はこの先でやや坂を下っている様に見えます。小田原の街中ではほぼフラットに近い平野になっていますから、こうした下り坂のある区間を想定するのは難しいところです。従って、そうした地形が旧東海道の道筋に現れる区間で撮影されたことになり、そういう区間は少なくとも国府津よりは東側の可能性が高いことになります。しかし、そうなると国府津からは小田原まで6kmほども隔たっており、写真の表題にある「小田原付近」は字義通りには解釈しにくくなってきます。 2枚目が既に小田原からかなり離れた場所で撮影されたものだとすれば、1枚目はその順序から更に小田原から隔たった場所ということになります。少なくとも、「near Odawara」とはあまり言い難い場所で撮られた可能性が高そうです。 一方、3枚目の写真は手前側の垣根の向こうに河川らしきものが見えており、その向こう側は既にかなり山が近くなっています。これも遠景がかなり白飛び気味になっていますが、良く見ると右手前側の尾根の左も大きな尾根が右肩上がりに聳えているのが見えます。この写真の次に小田原城を写した写真が来ることから考えると、この写真は小田原の手前の酒匂川か山王川の畔で撮影したものかと考えたくなります。しかし、これらの川の近辺でこの写真の様に山が迫ってくる様な場所は、東海道付近にはあり得ません。かと言って、スチルフリートの様な外国人が敢えて川沿いに大きく上流へと逸れたと考えるのは、明治初期の撮影旅行では不自然に過ぎます。小田原を過ぎて板橋の辺りからなら早川沿いを進み、その向こう側に石垣山などの尾根が連なる箱根外輪山が迫ってきますので、あるいはこの辺りで撮影したものかとも考えたくなるのですが、そうすると今度はここで写真の順序が入れ違っていることになります。 3枚目が小田原より先で撮影されたものであるなら、1枚めと2枚めも同様に順序を入れ替えられている可能性も否定は出来ないことになります。ただ、2枚目が下り坂を写していることから考えると、箱根山への入り口より先の上り坂が続く区間の風景と考えるのは苦しいものがあります。
大磯付近の旧東海道松並木 右手前の木をはじめ、松以外の樹種も目立つ (ストリートビュー ) 何れの写真も、これ以上は場所の特定を試みるのは困難です。勿論、何れの景観も、今は失われて久しいものと言わざるを得ません。最初の2枚に写っている東海道の松並木は、候補として考えられる区間では大磯付近に辛うじて残っているものの、現在は杉以外の樹種も混ざるなど状態はあまり良好ではなくなっており、江戸時代の頃の景観とは違うものに変わってしまっています。2枚めの写真には幾らか建物が写っているとは言え、場所の特定に使えそうな特徴的なものとは言えません。左手の四阿風の建物は寺社の鐘楼の様にも見えますが、明治初期の撮影ということで考えると、神仏分離令の影響でこの後廃寺となった寺が多いため、現在残っている寺社の位置だけでは場所の特定に繋がりません。 そこで2点目に考えてみたい疑問が湧いてきます。スチルフリートは何故、この3箇所の風景を撮影場所に選んだのでしょうか。 スチルフリートの当時の写真は1枚の撮影にかかる手間や時間、そしてコストが今とは桁違いにかかるものでしたから、無駄なカットを量産する様な撮影スタイルを採用する訳には行かなかった筈です。多数のカットを撮影して選抜したとは考えにくく、彼の目で撮影に相応しい地点を厳選して実際の撮影に臨んでいた筈です。ですから、小田原付近のこの3枚についても、当時の日本人には何気ない風景でも彼にとっては撮影に相応しい風景と感じられたものがあったのだろうと考えるべきでしょう。 「写真集」の他の風景写真を見返してみると、ほぼ全てに何かしらの建造物が写っており、道路以外の建造物が全く見当たらない写真は上記①の写真以外は最後の撮影場所不明の2枚(うち1枚は何故か「Papenberg」というドイツの地名が記されている)しかありません。一般に建物はその土地の文化を強く反映するものですから、スチルフリートが主に日本の文化的な背景を読み取りやすい被写体を優先したと見るのが妥当でしょうが、小田原付近の3枚は①をはじめ建物が少ないことから、建物以外に何か日本の文化を反映するものを見出したことになるでしょう。
参考:イタリア・アッピア街道の街路樹 (「Via Appia Antica, Rome, 2004 」CC 表示-継承 3.0 Wikimedia Commons ) 特に東海道の松並木を写した2枚は、ヨーロッパではあまり見ない風景と感じられたのかも知れません。ヨーロッパの松並木として著名なのはイタリア・アッピア街道 の松並木ですが、こちらは「イタリアカサマツ」という樹形が横長になりやすい樹種が植えられており、樹形が縦長になりやすいクロマツなどを植える日本の街道の風景が特徴的に見えたのかも知れません。3枚目の写真は川沿いの堤や遠方の斜面にも拡がる畑などに日本独自のものを感じたのでしょうか。 こうした写真が「写真集」後半の西日本の撮影では見掛けなくなっているのも特徴のうちに挙げられるでしょう。スチルフリートが日本での撮影を続けるうちに、彼の中で小田原の東海道の様な風景が次第に撮影対象から外れていったのかも知れません。 何にせよ、今となっては、写真に添えられたタイトル以外の情報が一切ないのが撮影地点特定の大きな足枷になってしまっているのは否めません。望み薄ではありますが、スチルフリートの撮影日誌などの副次的な情報が発見されることに期待するしかなさそうです。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-532.html スチルフリート「日本の風景と装束」中の小田原付近の写真:メトロポリタン美術館コレクションから
前回 はメトロポリタン美術館のコレクションの所蔵するスチルフリートの「日本の風景と装束」に収録されている写真を何点か取り上げて検討を施しました。今回も海外のデジタルコレクションから明治期の写真を何点か取り上げてみたいと思います。 今回は「ニューヨーク公共図書館(New York Public Library) 」のデジタルコレクションから、日下部金兵衛の写真を何点か取り上げます。※「New York Public Library」は日本語版Wikipedia にある通り、名称に「Public」とあるものの設置主体はニューヨーク市ではなくNPO団体です。紛らわしい名称ですが、日本語では「ニューヨーク公共図書館」という名称で統一されている様ですので、この記事でもこの名称で通します。なお、略称としては「NYPL」を使います。
日下部金兵衛 はフェリーチェ・ベアトやスチルフリートの下で働いた後、明治13年(1881年)頃に独立して横浜で写真館を開設し、1912年(大正元年)に引退した写真家です。ほぼ明治期に活躍した写真家と言えますが、NYPLでは「Kimbei, Kusakabe (Japanese photographer, active ca. 1880-1900) 」と明治前期から中期にかけて活躍したという認識を持っている様です。この認識のズレがどこから来ているのかは不明です。日下部金兵衛の写真集の表紙 (Inlay and lacquer-work front cover depicting two musicians and a dragon mask entertainer [From The New York Public Library]) NYPLのデジタルコレクションには、現時点では日下部金兵衛の写真 が100点ほどアップされています。検索結果の中には写真ではなく、右の様な漆塗りの象嵌細工が混ざっていますが、これは金兵衛の出版した写真集の表紙として作成されたものの様です。菊の御紋や葵の御紋があしらわれた理由は不明ですが、わざわざ手の込んだ象嵌細工の表紙を付すほどということから考えて、海外からの渡航者向けにかなり高額で頒布したものと思われます。以下の写真もこの様な写真集の中に収められ、横浜を訪れた渡航者経由でNYPLのコレクションに加えられたものなのでしょう。 金兵衛の写真は何れも手彩色が施されています。ディテールまで何処までも緻密にカラーリングされている訳ではありませんが、モノクロでは何が写っているのか判別しにくい箇所では、撮影者による彩色が手掛かりになると思います。
1. 江の島の通り 日下部金兵衛「江の島の通り」 (Street in Yenoshima [From The New York Public Library]) 撮影日はNYPLでは「1880 - 1899 (Questionable) 」とされており、事実上NYPLが金兵衛の活動時期以上には撮影日を絞れないことを示しています。 この構図の写真については、以前 ラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を検討した際にも長崎大学の「幕末・明治期日本古写真超高精細画像 」に収められているスチルフリートの写真を 取り上げたことがあります。このスチルフリートの写真も撮影時期不明とされているため、スチルフリートがこの写真を撮影した際に弟子として金兵衛が同行していたかどうかはわかりません。 更に、東京都写真美術館(以下「写美」)のコレクションには金兵衛がやや横にズレた位置から撮影した別の写真 (該当写真への直リンクが貼れないため、このリンクで表示された初期画面から6枚目の写真を選択下さい)が見つかりました。この「写美」の写真の撮影時期は「1880-1890年頃」とNYPLの写真よりは幾分狭い期間に限定されていますが、まだ十分に特定されているとは言えず、他の写真の撮影時期の特定などに使うには不足です。 これらの写真を比較すると、まずスチルフリートの写真では中央の参道の向かって右奥に見える洋風の高欄の建物が1軒なのに対し、NYPLの金兵衛の写真では3軒ほどに増え、更に左手前の建物も更新されて上の階に高欄を備えた障子窓が巡らされるなど、明らかに大きく変化しています。これらの差異から、時系列的には金兵衛の写真の方がスチルフリートの写真より後に撮影されたと判定できます。金兵衛の写真では他に、「江島神社」と記された扁額が鳥居の上に新たに掲げられたのがスチルフリートの写真との大きな違いです。 そして、金兵衛の撮影した2枚の写真同士を比較すると、「写美」の写真では向かって左手前の建物の軒下に提灯が並んでいたり、鳥居の上に笹と思しき草が括り付けられていることから、こちらの写真の撮影時は祭礼であったと見られます。対してNYPLの写真にはこうした飾り付けが見られませんので、別の日の撮影であることがわかります。また、「写美」の写真では左手に小屋の様な建物が見え、この小屋がスチルフリートの写真にも写っているのに対し、NYPLの写真ではその存在が見られなくなっていますので、NYPLの写真の方が後日に撮影されたと判断出来ます。 「写美」の写真とNYPLの写真の比較では、参道の石畳が組み替えられたと見えて、「写美」の写真までの参道に比べてかなりすっきりとした印象に替わっています。また、NYPLの写真を原寸大に拡大して良く見ると、参道には洋風の街灯が設置されているのに気付きます。 こうした一連の変更からは、江の島の弁財天が神社として再編された後、海外からの観光客が島に来訪する様になったことを受けて、その施設を彼らの文化の建築様式や好みに合わせて更新し続けていた様子が見えてきます。残念ながらどの写真も撮影時期が十分に絞れていませんので、どのくらいのペースで設備の更新が進んだかを窺うことは出来ませんが、島の入り口の景観が次第に変化していく様子をこれらの写真の比較で見出すことは出来ると言えます。
2. 江の島の眺め 日下部金兵衛「江の島の眺め」 (View of Yenoshima [From The New York Public Library]) こちらの写真もNYPLでは「1880 - 1899 (Questionable) 」とされています。ただ、同じ江の島での撮影であることを考えると、基本的には「江の島の通り」のロケに出掛けた折にこの「江の島の眺め」も撮影されたと考えるのが自然でしょう。ただ、先ほどの「写美」の写真で分かる通り、金兵衛は江の島には少なくとも2回以上はロケに出掛けている訳ですから、別のロケの際の撮影であった可能性も残っています。
「山二ツ」の位置(Googleマップ ) これは江の島の「山二ツ」と呼ばれる、奥津宮へと向かう参道途上の鞍部を、西側から撮影したものです。この辺りで南側の崖が切り込む様になっており、鞍部を見下ろす位置からその崖を見通すことが出来る場所です。金兵衛の写真にもその崖の上部が写っていますが、その部分に緑の彩色を載せていないことから、金兵衛もこの崖を認識していることがわかります。 江の島の入り口の風景の方は上で見た通り幾度となく撮影された記録が残っており、江戸時代の浮世絵でも片瀬の海岸から見た江の島姿が数多く描かれるなど、江の島は島の外から描かれたり撮影されたりする機会の方が圧倒的に多かったと言えます。これに対して、島の内部の風景の方は意外に見掛ける機会がなく、とりわけこの写真の様にこれといった施設がないポイントで撮影を試みているのは大変に珍しいと言えます。 江島神社の社殿など他に撮影されても良さそうな被写体を差し置いて、敢えて「山二ツ」を撮影しようと思い立った理由が何処にあるのかは推測するより他ありませんが、恐らくは金兵衛がベアトやスチルフリートの下で働くうちに西洋の人々がどの様な風景を求めているのか学んだ結果なのではないかと思われます。スチルフリートなども、前回見た通り神社の本殿・拝殿や寺院の本堂といった主要な建物に拘らずに被写体を選んでおり、こうした趣向を金兵衛も受け継いだのではないでしょうか。 現在はこの道筋の両側に土産物屋や食堂が立ち並ぶ様になったので、この写真ほどには見通しが利かなくなりましたが、そうなる以前の風景を伝えてくれる貴重な写真と思います。道筋自体の変化は殆ど認められませんが、彩色の使い分けから見ると今よりも生えている木が少なく、葛などが生える草原の様な植生が今よりも拡がっていたのではないかと推測できます。また、土産物屋と思しき小屋から道の上まで廂を掛けて観光客に日陰を提供しようとしている様子も写っています。
3. 金沢の眺め 日下部金兵衛「金沢の眺め」 (View of Kanasawa [From The New York Public Library]) 参考:スチルフリート 「KANASAWA TEAHOUSE.」(再掲) (「日本の風景と装束 (Views and Costumes of Japan) 」メトロポリタン美術館 より))
前回の記事で取り上げたスチルフリートの金沢の写真に程近い場所からの1枚です。この写真も撮影時期は上の2枚と同様の表記になっています。 金兵衛の写真の中央に、海中に突き出た弁天社の姿が見えています。その奥に3階建ての建物が見えていますが、これが恐らくはスチルフリートの写真の中央に写っている茶屋の位置であろうと考えられます。しかし、スチルフリートの写真では2階建ての家屋であることから明らかに建物は更新されており、金兵衛の写真はスチルフリートの写真よりかなり後の時期に撮影されたものであろうと思われます。金兵衛の写真の撮影場所(推定) (地理院地図 ) 金兵衛の写真の撮影場所は、弁天社の位置関係などから考えて、右の地図の中心線の辺りであろうと推測できます。現在は京浜急行の金沢八景駅に隣接するエリアで民家の裏手の林となっており、金兵衛の写真の手前側に写っている松とは異なり広葉樹が密に生い茂っている様ですので、現在は金兵衛の様に弁財天の辺りを見通すのは困難になっていると思われます。 金兵衛の他の写真についても、後日機会があれば改めて取り上げる予定です。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-531.html 日下部金兵衛の写真:NY公共図書館デジタルコレクションから