
茶屋本陣跡前から京方を見る
すぐ先で押切坂を下る
今回は「相模国紀行文集 神奈川県郷土資料集成第六集」(神奈川県図書館協会編 1969年)という本に、何故か梅沢の鮟鱇について触れた紀行文がまとまって見つかりました。あるいは神奈川県内の記述が豊富な紀行文を編者が意図的に選んだ結果なのかも知れません。以下その4点の引用です(強調、ルビ、注釈は何れもブログ主、「木賀の山踏」は再掲)。
大磯より二里計行て梅沢といふ所のやどりにやどりてしばし心をやしなふ。此里の漁人網をあげて得たりとて、あんがうひらめなどといふいをのあざらけきをもて来れり。あるじいとよくこしらへものしければ腹もふくれぬ。
(「塔沢紀行」藤本松庵 元禄7年(1694年)、同書366ページより)
(注:文政七年三月)二十日陰
…梅沢村にやすむ。庭にほたんの花うるはしく咲たり。此村はあんこうといふ魚、あはのもちゐ売る家おほし。梅沢山藤雲寺といふ寺あり。藤の大木ありときゝつれとも、行かてにして見す。今をさかりの頃としられて、名こりおほかり。
(「甲申旅日記」小笠原長保 文政7年(1824年)、同書24ページより)
(国府本郷の)切通しを過、梅沢までは大体二りも有へきか、このいそつゝき梅花石有。然し梅花の備りし物稀々也。梅沢元来は山西村にて、梅沢はあさ名也と。橘姫の御骸を埋しによりて、うめ沢と云ひしとや。されは、さかはの海辺つゝきを袖か浦と呼る事も彼姫の御そてを打上しゆへ、袖かうらと云也けりと、則こゝに橘ひめの御社有。梅沢は春夏とても、あんかうのしる名物也。それに戯て、
すいた事なき世なりけりうめさはに
冬のかほれる鮟鱇の汁
みち興准后
旅衣はるまつこゝろかはらねは
きくもなつかしむめ沢のさと
(「東雲草」雲州亭橘才 文政13年(1830年)、同書325〜326ページより)
大磯より宿駕に打のりて行ぬ。小田はら近くなるまゝ歓ひの酒くまんとて梅沢てふ所にてある酒店に入。ここは鮟鱇といへる魚の名物なれは其魚のあつ物にて人々酒汲かはしぬ。
あんこうを肴にひとつ過さはや
酒匂川に近き家なれはこそ
(「木賀の山踏」竹節庵千尋 天保6年(1835年)、同書403ページより)
引用した紀行文のうち、特に最初の元禄7年の「塔沢紀行」に鮟鱇が登場するということは、梅沢の立場が大きくなってきた頃には既に鮟鱇が梅沢のお品書きに登場していたと見て良さそうです。同地の漁で何時頃から鮟鱇が獲れる様になったか次第ですが、あるいはもっと前まで遡れるのかも知れません。
「新編相模国風土記稿」では、山西村の「海」の項で「
鮟鱇を此濱の名品とせり、(雄山閣版より引用)」と一言触れているに過ぎませんが、「楳澤志」ではもう少し詳しく触れています。
棘鬣魚 鯿 的魚 鯖 鯵 松魚 魴 鮪
少しく網捕と言えども、皆東都へ運送して、磯賈をせざる故に魚貴して賈下得益鮮。
花臍魚 少しくあり。一名老婆魚、又は瑟琶魚、無鱗魚とも呼ぶ。初冬より出る者は多く重い。春に至り賈降じ茶店街にて調味して之を販ふ。旅客の貴賎ともに褒食す。梅澤鮟鱇其の賈を論ぜず。彼全盛なるべし。
(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う、強調はブログ主)
筆者の実応は農産物の時と同様、こちらも多少控えめに漁獲を見ている嫌いはありそうですが、そんな中でも鮟鱇は割と評判が良かった様です。因みに、江戸が近海の漁獲の一大消費地で、東京湾や相模湾の沿岸の漁師が挙って江戸へと獲った魚を運んでいたのは事実ですが、その点では梅沢あたりまで離れてしまうと流石に遠過ぎたのも不利な点ではあった様です。特に足の早い魚は獲っても江戸まで運ぶ前に駄目になってしまったのではないでしょうか。
なお、最近の二宮町では、鮟鱇について
としており、漁獲が減ってしまったことを示唆しています。また、鮟鱇の値段が春になると下がる点については、こんなメールマガジンを見つけました。アンコウ Lophiomus setigerus 底引き網で獲る。冬は深さ100〜150m、夏は深さ50〜60mくらいのところにすむ。特に寒アンコウの吊し切りは徳川時代から梅沢の名物として有名であったという。最近は獲れない。以前はヒラメ、ブリ、アンコウなど冬のさかなは木の芽時には味が劣り、値は二束三文になった。
(「二宮町史 資料編1 自然」平成2年 277ページ)
…どうやら流通の発達した現代の方が値崩れの酷さが増した様です。「楳澤志」の指摘に従えば、江戸時代にはむしろ春先の値崩れの頃に街道筋の茶店で割安に出したことで、普段は高嶺の花で手が出ない一般庶民の層にも手が届く様になり、旅路の良い土産話になると受けたのではないでしょうか。○悲しいアンコウの話 (相模湾試験場 川原 浩)
…旬寒さが身にしみる12月から梅の花が咲き終わる2月頃までが一般に旬とされ 西のフグ・東のアンコウと言われるほど冬の味覚の横綱格であるが、この時期を過ぎると昔から鮟鱇を皮肉って川柳でも「魚偏に安いと書く春のこと」と読まれるように春になると急に味が落ちる魚とされている。 表題の何が悲しいかというとこの評価の落差である。あまり知られていないが、私のいる小田原ではヒラメを対象にした刺網(ヒラメ網)が12~4月頃まで操業され、この網でアンコウ(キアンコウ)がよく漁獲される。しかし、悲しいかな漁獲が増えるのは味が落ちるとされる3月頃からである。2月頃までは1500円/Kgの値が付くが3月末には100円~200円/Kgにまで値が下がり、最後は水揚げしないでくれというところまでいくのである。当然、水揚げ量の多寡、鍋という冬の食べ物といういイメージからくるニーズの低下の反映や厳密な品質評価という市場流通の結果であるが、漁師でなくても「そんなぁ~(/_;)」と言いたくなる。(「神奈川県水産技術センターメルマガ VOL.142 2006-5-5」より引用(リンク先PDF、54ページ)、肩書は執筆時点、…は中略)
では、梅沢では鮟鱇をどの様な料理にして客に出していたのでしょう。上記の文中には「汁」「あつ物」といった言葉が並んでいますので、やはり鮟鱇鍋の様な煮物にしていたと見るのが妥当なところでしょうか。どんな味付けをしていたのかは不明ですが。また、鮟鱇と言えば「吊るし切り」ですが、これは「本朝食鑑」にも記されている解体法なので、元禄の頃には存在していた様です。梅沢でも吊るし切りが行われていたことが上記「二宮町史 資料編1 自然」でも触れられていますが、これは
こんな狂歌が残っていることから考えても確実でしょう。軒を並び梅沢あごをつるしてる酢の過ぎている梅沢の嫁
(「梅沢御本陣」二宮町教育委員会 1993年 82ページより引用、強調はブログ主)
ところで、梅沢の属する山西村に伝わる村明細帳の中に、こんな記述を見つけました。
元になった史料(「山西村高反別村差出し諸色覚帳」)全体には元禄9年(1696年)の日付があるのですが、この史料は「覚帳」とある通り、各種の明細帳から必要な箇所を転記してまとめたもので、その中に含まれている記述は複数年に及んでいます。この箇所はすぐ前の中表紙から正徳3年(1713年)のものであることがわかります。後から書き足していっている訳ですね。一あんかう壱盃 御菜
是ハ当浦ニ而十月ヨリ正月迄ノ内取次第、一盃ツゝ年々御台所へ差上申候、但御屋敷迄飛脚ニ而さし上御屋鋪ヨリ御上被成候
(「二宮町史 資料編1 原始 古代 中世 近世」520ページより引用)
享保年間(1716〜36年)まで、江戸の幕府には全国各地から多数の「献上品」が挙って届けられていました。その詳しい事情については「徳川将軍家の演出力」(安藤優一郎著 新潮新書)という解りやすい良書がありますのでそちらに委ねます。相模国では中原の御酢の献上が著名でした。そうした献上品の中に、梅沢の鮟鱇も入っていた訳ですね。初物が水揚げされ次第、飛脚が江戸の代官屋敷まで大至急で鮟鱇を運び、裃姿の代官がその鮟鱇を携えて幕中へしずしずと見参…といった感じでしょうか。
この鮟鱇の献上が何時頃から始まったのかは不明ですが、鮟鱇献上に関する記録は山西村の宝永4年(1707年)の明細帳にも見えています。ということは、少なくともこの宝永〜正徳年間には献上が続けられていたことになりそうです。実はこの献上品の慣習はいわゆる「享保の改革」の一環で華美による浪費を抑制すべく、全国の大名・代官宛に大幅な縮小が命じられました(上記「徳川将軍家の演出力」参照)。中原の御酢もその一環で献上が廃止されたのですが、梅沢の鮟鱇も恐らくその時分に御多分に漏れず献上廃止になった様です。実際に、更に後年の村明細帳では献上に関する記録は見られなくなります。

時期的にはもっと新しいものの様だが
このお宅が近代以降も梅沢茶屋町の
中心であったことが窺える
また、藤沢〜平塚間の南湖の立場では、おはぎを「あんこう」と称して供していたといいます(「神奈川の東海道(上)」179ページ)。これの元の出典になったであろう紀行文がどれかはわからないのですが、わざわざあんこを鮟鱇にかけた別名にしておはぎを売っているのは、どうも梅沢の鮟鱇を意識している様な気がしてなりません。江戸時代初期の紀行文「東海道名所記」には梅沢の記事はあっても南湖についての記述はないので、恐らく南湖は梅沢に比べると若干成立年代が遅いものと思われるのですが(「茅ヶ崎市史」では過去帳などを頼りに元禄年間以降の成立、もしくは興隆ではないかと推測しています)、茶屋本陣が同じ「松屋」だったり、何かと「先輩格」の梅沢に色々見習ったり肖ったりしていたのかも知れません。
さて、いくら鮟鱇が名物だと言っても、所詮は冬場がウリの魚、上記「東雲草」では春以降も鮟鱇の水揚げがある様に書いていますが、夏場には深海へと移ってしまうその生態の影響でさっぱりと揚がらなくなってしまいます。江戸時代の参詣シーズンが冬場だったのはその点では幸いではありましたが、他の季節にも道行く人はいますし、その時期に出すものがなければ商売が続きません。梅沢では鮟鱇のシーズンオフに何を出していたのでしょう。
そのような事例を探してみたのですが、なかなかこれというものが見当たりません。上記の紀行文の中には「ひらめ」の名前も見えていて、確かにこちらの方が漁獲量も多く、むしろヒラメを獲る網の中に鮟鱇が上手くすると混ざっている、という方が実情だったでしょう。一応冬場が美味とされるものの年中漁獲のある魚ではあります。ただ、具体的に梅沢のヒラメの名前が挙がっているのは、探した中ではこの紀行文だけでした。
また、以前引用した「東海道名所記」では、鰹が茶店の卓に供されました。もう一度引用すると、
ここでは「あぶりもの」と言っていますから焼き魚になって出てきたのでしょうね。「さしみにぞする」は歌の中での喩えですから恐らくこの時の食卓にはなかったと思いますが、お品書きにはあったのでしょうか。いわゆる「カツオのたたき」があったかどうかはわかりませんが…。これも事例としてはこの1件だけでした。梅澤 茶やあり。…男はさかなのため、鰹のあぶりものを買てくへども、樂阿彌はさすがにえくはず、かくぞよみける。
口の内に津こそはたまれ梅澤の茶やの肴は我もすきゆへ
此哥にめでゝ、くはせければ、腹ふくるゝほどくひけり。男うちわらひて、
梅澤やなむあみ引てとる鰹彌陀の理劍でさしみにぞする
(「日本古典全集」日本古典全集刊行会発行 1931年、現代思潮社復刻版 1978年より引用、…は中略)
それ以外に見つけたのがこちら。これがまたちょっと理解し難い例です。
錦織義蔵はその梅沢の繁栄振りを次のように書いている。
◯梅沢 街道ノ中程左ノ方津た屋ヨシ、表ニふじノ大棚アリ、旅人多ク来集ス、△此処西ノ町ハズレ小休、カニジキト云魚切目アリ、色白□白豆腐ノ如シ、珍ラ敷テ食ス、味アシク跡ニテそば切ヲ食ス
(「川柳旅日記 その一 東海道見付宿まで」山本光正著 2011年 同成社 113ページより、一部原本『日本都市生活史料集成』8を参照の上追記、強調はブログ主)
この紀行文は「東海紀行」と言い、この人は慶応元年(1865年)に訴訟のために近江国滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市)から江戸に出てしばらく滞在していました。このため自国への帰路に付いたのはようやく5月25日、その帰路の様子が書かれているので、紀行文としては珍しい季節のものになりました。因みに、「表ニふじノ大棚アリ、旅人多ク来集ス、」は等覚院東光寺(藤巻寺)のフジのこと、時期的にちょうど見頃だったのでしょう。また茶屋本陣を「津た屋」と記しているのは義蔵の記憶違いと思われます。
ところでこの「カニジキ」という魚がどんな魚なのかが謎です。義蔵も聞き慣れない名前の魚なので試しにと注文した様ですし、何か良く知られた魚の別称であれば膳が運ばれてきた時に気付くでしょうから、珍品ではあるのでしょう。
「二宮町史 資料編1 自然」には同地で水揚げされる魚が一通り記載されており、地元の独自の名称があるものはそれも掲載されているのですが、その中にはこの「カニジキ」もしくはそれに近い名称の魚は入っていませんでした。ネットで検索してもこんな名前の魚は出て来ません。聞き違いという可能性もあるものの、この情報だけでは具体的に魚種を特定するのは難しそうです。ひとつだけわかっているのは、「豆腐の様に白い」白身魚だが、少なくともこの時はすこぶる食味が悪くて、蕎麦切りで口直ししているということです。ただ、これは調理の仕方が悪くて不味くなってしまったのかも知れませんし、この魚のこの時期の食味が悪いだけなのかも知れません。不味いとわかっている魚を調理して客に出すとしたら相当な魂胆ですが、店の方も出せる魚の水揚げが少ない中、見慣れない魚でも調理して出すしかなかったのかも、という気がします。
食事以外の、茶菓の類はどうでしょうか。上記の「甲申旅日記」では「あはのもち」が挙げられていますが、こちらもこれといった記録がなかなか見つかりませんでした。この粟餅(Wikipediaではこの様に解説されていますが、梅沢の粟餅がどの様なものだったかは詳細は不明です)もなかなか好評だった様で、松屋茶屋本陣の定客宛の献上品の中に入っています。「梅沢御本陣」(二宮町教育委員会編)のまとめた献上品一覧(83ページ)から茶菓に属すると言えそうなものを拾うと、(カッコ内は献上月、確実に同一のものと思えるものは項目をまとめました)
- 粟餅(名物切粟餅)(1,2,8,9,10)
- 饅頭(4)
- 粟アンコロ(4,5)
- 草ノ花餅(4)
- 上菓子(4,6,7,8,10)
- 柏餅(5)
- 上打菓子(5)
- アベ川(6)
- オハギ(6)
- シンコ餅(8)
- 手搗アンコロ(10)
これらは折々の季節の他、献上の際の様々な背景が品物に込められているケースもありますので、梅沢の他の茶店で出されていた時期と合うかどうかまではわかりませんが、上菓子の様な明らかに献上用に誂えられた、一般向けではないものは別として、梅沢の茶店で出されたもののおよその目安として見ることも出来そうです。中には今でも普通に目にするものも入っていますね。
ただ、果物も含め、「楳澤志」が地元の農産物の稔りが少ないと書いていた点を考え合わせると、勿論中には地元で穫れたものを使っているものもあるのでしょうが(粟などは流石に現地調達しそうですし、小豆や大豆は何とかなりそうです)、中には材料を周辺の村から取り寄せたものも入っていそうです。勿論、砂糖などは外から調達するしかないでしょう。
あぁそうそう、多くの人が気にするであろう(笑)お酒について書くのを忘れていました。山西村では2軒ほど酒造を営む家があった様ですので、梅沢の茶店で出していたのも多分そこのお酒でしょう。ただ、今と違って銘柄を気にする時代ではないので、地酒マニアの方には残念なことに、どの紀行文を見ても「酒」としか出て来ません。二宮町の山西地区には地元ブランド酒を売っているお店がある様ですが、そこが果たしてこの江戸時代の酒造家のうちの一つなのかはわかりませんが…。