記事ネタがないので、正月恒例の箱根駅伝に因んで、コースになっている東海道の変遷にまつわる話題を取り上げます。
箱根駅伝の開催当初は、江戸時代からの東海道に近いコースを走っていました。第1回の箱根駅伝(四大校駅伝競走)が開催されたのが大正9年(1920年)ですから、関東大震災の3年前に当たります。
神奈川県内の自動車保有台数の変遷については、以前に大正4年と大正12年の自動車所有者名簿を紹介しましたが、この時点では一部の地域を除いて自動車が頻りに行き交う状況ではなく、まだロードレースに当たって自動車交通への配慮がそれほど必要ではなかった時代です。
(左下)昭和29年二修・昭和32年発行地形図、(右下)現地理院地図上の
大鋸橋(遊行寺橋)と藤沢橋の位置
下2枚に藤沢橋を通過する新たな道が見えている
マーカーは地理院地図上で合わせたため、他の地図では誤差によって位置がズレている
(「今昔マップ on the web」より)
この頃は、藤沢の辺りではまだ旧来の道筋が東海道の本道として残っており、遊行寺坂を降りてきたところで枡形を2度折れてから遊行寺橋を渡り、更に右折して旧藤沢宿の街並みの中を走って行く道順でした。また、藤沢宿の外れには引地川が流れていますが、そこでも道筋は一旦現在よりも北寄りに進み、そこで一旦左に折れてから引地橋の袂で右に折れていました。従って、今よりも細かく折れる道を走り抜けなければならないコースだったことになります。当時は今ほどの速度では走っていなかったことが記録から窺えるとは言え、高速で走り抜けるにはなかなか厄介なコースだったと言えるでしょう。
大正13年(1924年)の第5回の駅伝は前年9月の震災後4ヶ月ほどしか経っておらず、まだ震災の爪痕が多く残っていた筈ですが、中止されずに決行され、記録も残っています。一部の区間で前年とはルート変更を余儀なくされた様ですが、具体的な影響ははっきりわかりません。
ただ、藤沢付近の曲折の多い道筋については、関東大震災以前から懸案とされていた様です。それが震災によって一帯が壊滅的な被害を被ったのを逆に機会と捉え、江戸時代からの曲折の多い道筋を多少なりとも変更して自動車が走りやすい道筋に変更する工事が敢行されました。その竣工に当たって書かれた記事にその経緯が記されています。
言ふ迄もなく本路線は所謂帝國の最大幹線たる東海道にしてこれが改良擴張は多年の懸案なりしが、大正八年内務省が全國道路政策の確立に際し時の内務技師牧博士は其計畫の資料として全國の國道行脚を實行せられ、本縣に於ても同博士の實地踏査を受けたるが其當時に於ては國庫の財源關係上急速の實施は期待し得られざるの狀態にありき。
然るに突如として襲來せる大正十二年九月一日關東地方の大震災は其慘害の絕大なりし丈却て本縣下に於ける國縣道改良事業の促進に絕好の機會を與へたるが、而も此の前古未曾有の大震害に直面せる本縣土木當局者は其難局を救治すべく絕大の苦心と努力を拂ひたるは勿論、別して高田土木課長は全く空前の難局に際し非常の英斷と大なる決心とを以て轉禍爲福の大計畫を樹立し以て道路改良に對する理想の一端を實現せられたるは全國土木行政家の等しく讃嘆せる處にして、多數縣民の感謝措かざる處なりとす。
(「藤澤町國道工事の概要」神奈川縣道路改良事務所長 網谷安次郎 「道路の改良」第七卷第九號 54〜55ページより「土木学会図書館」所収PDFより)
実際は高田課長が立案したとする道路改良事業は予算の都合で多少縮小せざるを得なかった様ですが、工事費に対して国庫補助が2/3ほど拠出され、大正13年度から実施されました。そしてこの時に遊行寺橋東側の枡形が解消され、藤沢橋が新たに架橋されたのでした。また、同じ工事で引地橋東側の曲折も解消されています。
一 路線は同町西富地先述行寺裏を起點として舊國道を一直線に字大鋸に至り同地先にて舊國道の屈曲部を抛棄し半徑六十間の曲線を以て右折し民地を貫通して同所に介在せる境川を横斷(藤澤橋架設)縣道藤澤鎌倉線に合し半徑六間の曲線を以て右折同縣道に沿ひ北進大鋸橋畔にて再び國道に合し…同町字石名坂地先に於て半徑百間の曲線にて左折し舊國道より分岐して民有地を通過し、起點より壹千二百五十間の處に於て在來國道に再會し同所を流斷せる引地川を經て(引地橋架設)更に一直線に北進し…
(「藤澤町國道工事の概要」56〜57ページより、「述行寺」は「遊行寺」の誤りと思われるが原文ママ、…は中略・後略)
こうして竣功した藤沢橋の委細についても「藤澤町國道工事の概要」に建設中や竣工後の写真と共に記されていますが(59〜62ページ)、鉄筋コンクリート製の下部にアーチを組み入れた構造とされ、橋面にはアスファルト舗装が施されました。この橋はその後70年にわたって使用されていましたが、平成2年(1990年)に折からの増水によって落橋し、平成4年に護岸工事と河底の掘削に合わせて再架橋されて現在に至ります。
他方、遊行寺橋(大鋸橋)も震災によって橋の中央に穴が空き、辛うじて徒歩でのみ渡れる状態になりました。翌年1月の駅伝の頃までには修繕が完了していた様で、震災復興後の写真(リンク先PDF)でも当時の遊行寺橋のポニートラスの姿が写っています。ただ、震災の数ヶ月後ではまだ仮橋だった箇所も多かった筈で、この回のコース設定ではそうした問題をどの様に解消したのか、気になるところです。
因みに、現在の箱根駅伝のコースでは、この藤沢橋を渡った先で国道467号線(かつての県道藤沢鎌倉線に相当)を渡り、その先で「湘南新道」と通称される県道へと進みますが、この区間は昭和36年(1961年)5月に新たに設けられた道路で、駅伝のコースもその開業に合わせて変更された様です。