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「戸塚宿周辺」カテゴリー記事一覧

【旧東海道】戸塚・かまくら道道標が移設されていました【脇往還】

戸塚から鎌倉を経て浦賀へと至る「浦賀道(かまくら道)」を歩いてみようと思いたち、本日戸塚から歩き始めたのですが、スタート早々に以前とは様子が異なる箇所に気づきました。

江戸時代、戸塚宿からかまくら道へと逸れる辻には道標が立っていました。その道標自体は現在まで保存されていたものの、何故か妙なところに移設されていました。

かまくら道道標:2010年1月のストリートビュー
移設前のかまくら道道標
(2010年のストリートビューのスクリーンキャプチャ)
かまくら道道標:2015年5月のストリートビュー
同じ位置の2015年のストリートビューの
スクリーンキャプチャ

本来は八坂神社前の辻に立っていたものが、「戸塚区役所入口」交差点の前に、あまりそれとは気付かれにくい状態で立っており、正直なところ「何故こんな所に?」と感じていました。これを書いた時点ではまだストリートビューでその状態を見ることが出来ています。

後日記(2014/07/08):Googleストリートビューが更新され、かまくら道道標移設後の状態に変わったため、移設前の状態を見ることは出来なくなりました。これによってキャプションが合わなくなりましたが、以前はこの付近にあったという記録として残しておきます。

(2015/07/01):その後、最新のストリートビューの完全版ではこの位置の履歴が参照できることがわかったため、2010年と2014年の2種類のストリートビューを表示させる形に変更しました。横断歩道の信号機や奥の社屋と照合して戴ければ位置関係がわかりやすいと思います。

(2016/07/21):残念ながら再びストリートビューが意図した通りに表示できなくなったので、ストリートビューを埋め込むのを断念し、スクリーンキャプチャに切り替えました。該当箇所のストリートビューについては、こちらをクリックして別画面でストリートビューを表示させた上で、左上の「ストリートビュー-xxxx年x月」と表示されているプルダウンメニューから日付を切り替え、マウスで表示させる方向を移動して探してみてください。


戸塚・鎌倉道道標の以前の設置場所現況 (2012/11/10)
戸塚・鎌倉道道標の以前の設置場所現況 (2012/11/10)
ところが、今日八坂神社前に来てみたところ、このかまくら道の拡幅工事が本格化しており、道標のあった辺りの日立製作所の敷地が一部更地になっていました。


移設後の道標ストリートビュー
以前あった道標はそれでは何処に?と周囲を見回してみると、その八坂神社前の交差点付近に再び移設されていました。

戸塚・鎌倉道道標-1 (2012/11/10)
移設後のかまくら道道標(正面)
戸塚・鎌倉道道標-2 (2012/11/10)
かまくら道道標(右側面より)
戸塚・鎌倉道道標-3 (2012/11/10)
かまくら道道標(左側面より)
勿論道標はかまくら道の側に立っていないと用を為しませんから、これでもまだ本来立っていた位置とは反対側に来たことになるのですが、それでも以前よりは気付かれやすい場所に戻ってきたことになります。旧東海道を歩く方々にも、これで多少目に止まりやすい場所に来たと言えるでしょう。

もっとも、今のところ石碑についての解説は何も示されておらず(それは移設前も同様だったのですが)、事情を知らない人にはやはり分かり難い存在ではあります。私も写真を撮っていて通り掛かりの人に「何ですかこれ?」と尋ねられてしまい、即席でガイドする破目になりました。戸塚区では旧東海道の道筋にかなり詳しい案内を設置していますから、こちらの道標についても同様の案内を添えて欲しいところです。まだ移動したばかりの様なので、恐らくこれから予算申請して来年度辺りに案内設置では…と期待はしているのですが。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その4)

前回までで、境木から戸塚宿付近までの旧東海道筋の成立の経緯を見てきました。今回はその先、戸塚宿から藤沢宿へと向かう道筋を検討します。

旧東海道:戸塚宿一里塚前〜藤沢宿大鋸橋
旧東海道:戸塚宿一里塚前〜藤沢宿大鋸橋間
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」等を合成
別ページで表示
境木から戸塚宿までは、水害の心配の強い柏尾川の流域をどの様に突っ切るか、腐心した跡が窺えることを見てきましたが、それに比べると戸塚〜藤沢間は一転して、街道を通すという点では大きな問題の少ない区間に一変します。戸塚宿を出た先で2段階の坂を登る大坂、藤沢宿へと一気に下る遊行寺坂が難所といえば難所ですが、その2つの坂の間は比較的なだらかな尾根筋を長距離にわたって進む区間で、水難の心配とは無縁です。

特に、原宿(勿論東京都内山手線の駅とは無縁です、念のためw)の浅間神社を過ぎると周囲にはなだらかな台地が広がります。その直前までが典型的な尾根筋に当たり(今は国道1号線が中央に広い分離帯を挟んでいて対向車線が見通し難くなっているので、この辺りで街道の両側の風景を一望に出来る箇所が殆どありませんが)、眼下に広い谷筋を見ながら進む道筋であったのが一変する箇所です。

原宿付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
「迅速測図」を遠目に眺めてみても、原宿〜影取〜大鋸の間は等高線の間隔が周辺に比べて極端に開いており、その間を直線的に通過する東海道筋が浮いて見えています。

最近になって原宿の交差点が大規模に立体化され、それまで以上に広大な敷地が道路と化しましたので、当時の面影を追うことはもはや難しい区間になってしまっていますが、見方を変えればこれだけ大規模な立体交差を作ることが出来るほどに、この辺りには平坦な土地があるということでもあります。

ここは北を宇田川、南を滝ノ川に挟まれた台地に当たります。何れも境川に直接流れ込む支流であり、この辺りで柏尾川の流域を抜けたことになります。現在はどちらも境川の流域に属しているのですが、縄文海進の頃には柏尾川の流域では大船の先まで、境川の流域では俣野まで海が入り込んでいたため、両者は元々別の流域でした。境川の流域については出来れば後日別途取り上げたい思っていますが、柏尾川が以前取り上げた様に秦野—横浜構造線の影響で狭い地域に周囲の支流が集まっているのに対し、かつての相模川の流路の名残川である境川では、特に東側の支流が境川に並行する様に南下するという大きな違いを持っており、その違いが流域の景観に大きな変化をもたらしています。

地質的には原宿付近は多摩丘陵の中に高座丘陵が点在する地域で、秦野—横浜線の南側にあって相対的な隆起域に当たっています。高座丘陵の主体部は境川よりも西側、引地川や目久尻川の流域にあるのですが、それよりは東側に位置する原宿付近にそれと同質の丘陵が離れ小島の様に点在している訳です。高座丘陵はかつての相模川のデルタと考えられているのですが、それらのデルタの中の東側の1つがここに残ったのでしょうか。

ともあれ、この平坦な台地の真ん中を貫く区間も、基本的には岡津陣屋の普請によって成立した可能性が高そうです。道を通すには最適のこの地に、周辺の村から遊行寺の門前町・藤沢へと抜ける連絡道が早い時期からあったとしてもおかしくはなかったとは思えますが、戸塚から北が前回まで見てきた様な状況ということは、やはりこの道筋を遠方へ向かう街道として取り立てるのは大分時代が下ってから、ということになってしまいそうです。

「影取池のおはん」案内
「影取池のおはん」ガイド
余談ですが、鎌倉街道上道はこの区間を影取付近で横切っていました。その意味ではこの長く平坦な尾根を活かせなかったことになりますが、それは鎌倉を始発点とする以上は止むを得ないでしょう。この影取には昔から伝わる伝説があり、それによると昔影取にあった池に、かつての名主が飼っていた大蛇が逃げ出して棲みついてしまい、道行く人の影を食べていたと伝えています。地元の民話集に採録されている話は戸塚宿や藤沢宿の名前とともに語られているのですが、街道と池の位置関係や言い伝えがもっと古い時代のことを語っているので、この伝説の舞台になっているのは恐らく鎌倉街道上道の方だろうと思います。時代が下って鎌倉街道が廃れ、東海道が賑わう様になったので、話が伝承されていく過程で変質していったのではないでしょうか。

ところで、治水面では愁いのない原宿も、実際に開拓されたのはそれほど古いことではありませんでした。「新編相模国風土記稿」の原宿村の項を見ると、

當村は天正中の開發とのみ傳へて詳ならざれど、十四年十二月藍瓶役不納の諸村あるをもて嚴蜜に下知を加へし文書に始て當村名見えたれば(中略)蓋天正の始の事なるべし、

(卷之百三 鎌倉郡卷之三十五)


原宿の地自体は村岡郷の一部として鶴岡八幡宮の所領だったと上記の引用部の少し前に記されてはいるものの、その頃は飽くまでも原野だったのでしょう。天正年間ということは、結局戦国時代末期まで原宿付近に村落が定着しなかったことになります。街道を通すという点では有利な土地も、利水という面では井戸を掘らないと水がないということになり、勿論水田は作れないので、畑として開墾するには相応の換金作物のあてが出来ないと難しかったのかも知れません。

因みに、明治時代の地形図では原宿一帯は桑畑が広く覆っています。神奈川県央部は明治時代には水田を残して大半の畑が桑畑に転換されましたが、それらは大抵利水面では不利だった地域に当たります。

日本の場合は稲作が中心にあることから、大量の水が得やすい低地への志向が特に強く、その点で水捌けの良い土地を志向する街道の普請とは、相反する側面があったとも言えると思います。前回まで追って来た柏尾川流域も、水害の虞はあっても水田としての開発は早くから進んでいたことは、鎌倉時代に一帯が鶴岡八幡宮以下鎌倉の寺社の寄進地になったことからも窺えます。

また、宿場も多数の馬とともに当時としては異例の人口を抱えて生活する関係から大量の水を必要とし、そのために治水には配慮しつつも水の得やすい里に出来やすい傾向はあったと思います。戸塚や藤沢から坂を上がらなければならないのも、道中は治水優先の道取りで良くても宿場が近い箇所では利水面にも配慮して川筋へと降りるからであり、その意味ではこの区間は当時の道取りの特徴を典型的に反映した区間と言えると思うのです。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その1〜3まとめ)

「その6」公開後の反応を見ていて、少し話があちこち行き過ぎて分かり難かったかな、という気がしてきました。改めてまとめてみますと、

  • 柏尾川流域は、周囲に対して相対的に沈降する地域があるために、周辺からの支流がごく限られたエリアに集中して流入しており、その影響で水害が発生しやすい。
  • 鎌倉時代の主要道であった鎌倉街道は、このエリアを極力避けて通っていたため、戸塚を経由するルートが生まれなかった。
  • 鎌倉が衰退するまでは鎌倉を近傍でバイパスするルートが発展することはなく、後北条氏の統治下に入った後でも、リスクの高い柏尾川流域を突っ切ってまで鎌倉を素通りするルートを通すことはなかった(可能性が高い)。
  • 後北条氏滅亡後に徳川家康が派遣してきた岡津陣屋が、それまでの道取りの考え方とは異なる、治水を一体化した街道の普請を実施して、初めてこの流域内を長々と通過する江戸時代の東海道のルートが誕生した。

…ということになります。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その3)

今朝方「その2」を上げたばかりですが、一気に行きます。

前回まで、江戸時代の東海道の保土ヶ谷から戸塚までの区間が、戦国時代の後北条氏統治の頃までは遡らない可能性が高いことを見てきました。そうなると、この区間については徳川家康が江戸入りした後に新たに開発されたことになってきますが、その点について「戸塚区」がなかなかユニークな指摘をしています。

戸塚区汲沢町…の旧家森家に伝わる同家家譜には次のようにある。

(家譜頭部略)

三代

義秀 森織部正、往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也。天正十九年村境(普請脱カ)を被仰付、谷切・峯切・道切・川切の四通の御触。義秀弟長慶は権大僧都法印、保土ヶ谷円福寺七代住職。

(家譜以下略)

(太田勇「鎌倉街道周辺の旧家を訪ねて」郷土戸塚区歴史の会発行「とみづか」第三号)

この家譜は直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難いが、三代義秀の時、天正十九年(一五九一)、山を削って谷を埋め、川の流れを変えて道を切り開く、まさに空前の大土木工事がこの地において行われたことを、簡潔な表現のうちに雄弁に物語っている。

この時、保土ヶ谷の権太坂を通り境木(地蔵堂が出来たのはもっと後の万治二年のことである)で武相国境を越えて品濃坂を下る道も同時に開かれたと思われる。そして森家家譜に出て来る谷切、峯切、道切、川切によって切り開かれた道は柏尾を経て矢部で柏尾川を渡り、吉田、戸塚を過ぎて大坂を登り、原宿から鉄砲宿の坂を降りて、遊行寺横へ出るというもので、汲沢村の村境南縁は、まさにこの新道の貫く所であった。…

(63~65ページ、文中太字はブログ主)


家譜が少々長いので該当する代である義秀の部分以外をカットしましたが、初代から十七代までの家譜がひと通り掲載されています。そして、三代の義秀の箇所以外では同種の事業を行ったという記述が見当たらないので、義秀の行った普請が森家の戦国時代から大正時代に及ぶ歴史の中でも異例の大規模なものであったことが窺えます。

「区史」自ら「直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難い」と認めているものの、確かにそれほどの普請を行う必要がある様な大規模な施設が、当時のこの地方に他に思い当たるものがないので、その点では普請を行った対象としては東海道が最有力候補ということになりそうです。

更に、この森家が汲沢村の名主であり、「往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也」とわざわざ断っていることから、中田と隣接する岡津の地に当時存在していた「岡津陣屋」のことが想起されます。

岡津陣屋は元は後北条氏が築いた支城の1つであった岡津城で、現在の岡津小学校と岡津中学校を含む一帯にありました。ここに、徳川家康が後北条氏滅亡後に関東代官の一人として彦坂元正を派遣して岡津陣屋を開いたのですが、元正はここで東海道整備の指揮に当たります。当然、普請に当っては周辺の村々の名主に声を掛けて回っていることでしょうから、森家はそうした指示を受けて実地に当たる立場にあったことになり、その観点でもこの家譜の記述は街道の普請を指すものである可能性がますます高くなると思われます。

以上、保土ヶ谷から戸塚へ向かう道筋が江戸幕府開設の頃の普請である可能性が高いことを長々と解説してきました。特に、この道が岡津陣屋の指揮の下に行われた可能性が高いことを念頭に置いて改めてこの区間の道筋を眺めた時に、昔ながらの伝統的なルート取りとは異なる道筋があることに気付きます。

旧東海道:川上川と平戸永谷川に沿う区間
旧東海道:川上川と平戸永谷川に沿う区間
旧東海道:不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進む区間
不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進む区間

(何れも「地理院地図」上で作図したものとスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」等を合成、
茶色の破線は旧東海道の道筋(概略):別ページで表示


それは、品濃坂を降りた辺りから川上川沿いを、更には平戸永谷川沿いを進んで赤関橋へと向かう区間と、不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進んで五太夫橋へと向かう区間です。


川上川(右)と平戸永谷川(左)の間にて(ストリートビュー

特に、川上川と平戸永谷川がごく細い地峡を挟んで隣接する間を東海道が抜けるこの場所は象徴的で、どちらの川が溢れても通れなくなる可能性のある、普通に考えればかなりリスクの高い所を通り抜けており、私は永年この道取りが大変不思議で仕方がありませんでした。多少なりともアップダウンを減らしたかったのだろうにしても、もう少し尾根筋を経てこの区間を回避することを考えなかったのだろうか、と。今はこの位置で川上川から平戸永谷川へ流入する様に潜函が埋められていますが、このことも現在の治水技術上から見て水害防止上対策が必要だと判断されやすい地形であることを裏付けています。

これらの区間以外は、権太坂から境木を経て品濃坂を降りてくるまでは典型的に尾根筋を経る道筋ですし(途中品濃一里塚付近で谷宿谷戸を横切るとは言え、谷戸頭に当たるので足元への影響は軽微)、上記の各支流を渡る箇所以外ではほぼ山際に沿って進んでおり、あまり無理を感じない道筋を通っているだけに、尚更この3本の河川に寄り添って進む区間が異質に見えます。

ちょうどこの区間を原付二種で走った動画がアップされ直しましたので、こちらも参考になさって下さい。これの1:04~1:52で川上川〜平戸永谷川沿いを、3:35~3:52で舞岡川沿いを進んでいます。

後日記(2017/11/01):動画の作者さんが該当動画を削除された様ですので、動画の埋込みタグをコメントアウトしました。

これが、上記で見た様に、これらの区間の普請を彦坂元正率いる岡津陣屋の指導の元に行ったのだとすれば得心が行きます。森家家譜に「谷切・峯切・道切・川切」とあることもその裏付けになりますが、これらの区間では街道の整備と共に大規模に治水工事をセットにして行ったのではないでしょうか。

旧日光街道:草加〜蒲生間の新綾瀬川沿い
旧日光街道:草加〜蒲生間の
新綾瀬川沿い
(「地理院地図」上で作図したものと
スクリーンキャプチャ
別ページで表示
大規模な河川改修工事を行った上で、敢えて街道を川沿いに進ませた区間の例としては、日光道中・奥州道中の草加宿〜蒲生宿間に現れる、新綾瀬川沿いの直道が挙げられると思います。こちらは上記の東海道沿いの各河川よりも更に大規模に、排水目的で新たに掘った新綾瀬川沿いに堤を築き、その上を街道を通すという、より大胆な工法が採用されています。


【ニコニコ動画】【車載動画】原付で日光街道を走ってみた
(その4)草加-蒲生
こちらについては、原付で日光街道を撮影されたこちらの動画が大変丁寧に解説されていますのでご参考にどうぞ。恐らく街道歩きをされている方々には良く知られた動画シリーズの1本ですね。後半のMADな部分はさておき(笑)、冒頭から4:56辺りまでが該当区間になります。特に、1:52~2:20辺りでこの区間の工事についてわかりやすく図解されています。

この、治水工事を施して増水時の排水を十全に確保した上で敢えてその脇に街道を通すという、当時としては画期的な方法論が、東海道のこれらの区間と大変に良く似ています。

そして、こうした新たな手法は、やはり誰かがその技術を外から持ち込まなければ実現不可能なものです。当時の具体的な普請の記録が見つかっておらず、現在は河川の改修も進んだので具体的な施工の内容を窺い知ることも困難ですが、徳川家康が江戸入りに際して各地に配備した代官が、それぞれに江戸時代の交通網を整備する上で重要な役割を果たしていることを考えると、彼らがこうした新しい技術を各地に浸透させていった可能性はかなり高いと思われます。

その点で、江戸時代初期に同地に存在した岡津陣屋がこの地で果たした役割は、恐らくかなり大きかったのではないかという気がするのです。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その2)

前回予告した通り、江戸時代の戸塚宿付近の東海道の道筋がいつ頃成立したかを検討します。

東海道戸塚宿と柏尾川の位置関係vector
東海道戸塚宿と柏尾川の位置関係
(「地理院地図vector」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
「地理院地図」上で作図したものはこちら

前回見た通り、鎌倉古道は何れも足元の悪い柏尾川の流域を出来るだけ避け、必要最小限の距離で通過する様にしていました。こうしたこともあって、当時の街道が戸塚宿の付近を通ることはありませんでした。戸塚には平安時代に源頼義、義家親子が前九年の役平定の際に露営したと由緒として伝わる富塚八幡宮がありますので、この由緒通りならこの地が古くから鎌倉と何らかの関わりを持っていた可能性を考えなければなりませんが、少なくとも鎌倉時代以降は街道の中継地点として戸塚が使われることは久しくなかった様です。

この富塚八幡宮も含め、戸塚付近は台地の縁の柏尾川からはそこそこ比高差がある段丘の上にあり、その点では集落を形成しやすかったのでしょうが、これまでも検討してきた通り、そのすぐ上流が支流が多数集中するエリアであり、出来ればここは街道筋としては使いたくない場所ではあったのでしょう。因みに、戸塚から鎌倉へと抜ける道も「鎌倉街道」と呼ばれてはいるものの、この道が整備されたのは江戸時代に戸塚宿が成立した後ですので、それ以前の街道の検討には加えられません。この道は「浦賀道」とも呼ばれ、浦賀奉行所への連絡道でありました。

従って、江戸時代の東海道が開かれた時期は、鎌倉街道の利用が減退した後ということになり、これはどんなに早くても鎌倉幕府や室町時代の鎌倉府があった頃より遡ることはないと思われます。もしも、当時の政治の中枢地を差し置いて、それを近傍でバイパスする様な道筋に需要があるとすれば、恐らく大きな交易拠点の間を結ぶ様な道筋ということになるでしょう。しかし、一方には神奈川湊という大きな交易の拠点があるものの、反対側の藤沢には鎌倉を差し置いてまで交易の中枢になるだけの力があったのかどうか。まして、これまで見てきた通り、柏尾川沿いを抜けるとなると水害への備えなどで余分な労力を必要とする土地ですから、それに見合っただけの動機付けがなければ、敢えて既存の道筋を替えようという判断にはなりにくいのではないでしょうか。

では、戦国時代、特に後北条氏が関東を平定した時期はどうでしょうか。残念ながらこの時期、どの道筋を重要視していたかを伝える史料などの証拠が乏しいので、方法論としては当時後北条氏が築いた城などの配置を元に、どの様な道筋が主に使われていたかを類推するといった手法が主になります。そこで、戸塚付近の後北条氏の主要な拠点を探すと、玉縄城と蒔田城を挙げることが出来ます。


蒔田城の位置(「Googleマップ」より)
蒔田城の位置は現在の横浜英和女学院付近に当たりますが、その下を鎌倉街道下道が通っており、この道を上から監視できる位置取りであることがわかります。

ストリートビューと関連付けられているPanoramioというフォトアルバムに、この丘に上る階段の途上で撮ったと思われる写真が掲載されていました。現在は街道沿いに建ったビルに阻まれて街道の様子は見えませんが、ここからは街道筋への眺望が十分に取れたことは確かでしょう。

2020/10/09追記:Panoramioの写真は既に削除されているため、改めてGoogleマップにアップされている写真へのリンクを置いておきます。この写真では、蒔田城址がある高台の下にかなり急峻な崖があることがわかります。


玉縄城の位置(「Googleマップ」より、ポインタは複数ある城址碑の1つ)
玉縄城の方は戸塚よりも南側に位置しますが、こちらは鎌倉街道中道から水堰橋で分岐して俣野付近で上道へ抜ける連絡道がすぐ南を通っています。実際に、玉縄城の麓で安房里見氏と一戦を交えたのは柏尾川の畔で、そこはこの連絡道の上でしたから、恐らく里見氏もこの道を経て攻め入って来たのでしょう。

こうして見ていくと、もう少し小さな陣屋などを間道に配備していた可能性もありますが、やはり後北条氏の時代にあっても、引き続き鎌倉街道の道筋を活用していた可能性の方が高くなってきます。因みに、「戸塚区」(1991年)では

小田原北条氏関係の文書を通覧した限りでは、北条氏は伝馬などの駅制の整備や、殊に城郭の整備には大変熱心であったが、道路そのものについては、修理の手は絶えず加えたであろうが、広範囲に亘る道の付け替えなどの大規模な土木工事は行わず、道筋自体にさしたる変化はなかったのではあるまいかと推定する。(61~62ページ)

と記しています。後北条氏の支配した領土全体について道筋に変化がなかったとする見解は、以前取り上げた滝山街道の存在を考えると些か疑問も感じますが、少なくとも戸塚付近に関しては主要な街道の道筋に大きな変化がなかったということで良さそうです。

因みに、保土ヶ谷の郷土史研究家の中には、上杉謙信や武田信玄の侵攻ルートを以って、既に当時から境木を経る江戸時代の東海道筋に相当する道があったと考える人もいる様です。しかしながら、軍記物の信憑性を脇に置くとしても、敵の領地に深く入り込んで拠点を目指すこれらの武将の行動を見ていると、寧ろ守りを固めた主要な城のある道筋を避けて通った可能性の方が高いのではないかと思います。その点は、以前六郷橋の架橋時期を検討した際にも、信玄が守りを固めた六郷を避けて池上へと抜けていった道筋にも窺えます。その際にも地元の町民を使って道案内させていることから、敢えて裏道を使ったと考えるのが妥当であり、従ってこの時のルートを街道の証拠として採用するのは少々問題がある様に思います。精々農道か、隣村などへの連絡道として自発的に切り開かれた道があった程度ではないでしょうか。

次回もう少し続けます。

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