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「保土ヶ谷宿周辺」カテゴリー記事一覧

【旧東海道】権太坂

既にコメント欄で御挨拶を戴いておりますが、改めまして、皆様明けましておめでとうございます。今年もお付き合いの程、何卒よろしくお願い致します。



さて、前回の続きをもう1本上げたいところなのですが、まだ準備が整っておりませんので、今回は小ネタ的な話題で行きます。丁度箱根駅伝の往路の中継を見終えたところですので、そのコースから題材を取りますか。


「権太坂上」交差点Googleマップ
箱根駅伝のコースでは2区の13km付近から、国道1号線の上り坂に差し掛かります。駅伝の報道ではここを「権太坂」と称しています。この「スポーツナビ」の高低グラフでは権太坂の頂上が大体標高55mを指していますね。余談ですが、この頂上から下った谷底は平戸永谷川沿いに赤関橋へと向かう辺りに当たり、不動坂上から旧東海道を離れてJR東海道線を一足先に越える辺りからが再び上り坂になる…というコース設定ですね。

また、この坂を上った辺りにある交差点の名称も「権太坂上」ですし、すぐ近くの蕎麦屋さんの名称もそれを受けて「権太坂店」になっていますね。因みに、現在はこの国道1号線の西側一帯が「権太坂」と地名になっており、その区域内にあるマンションや社宅にもその名が採られているのが確認出来ます。

権太坂
江戸時代の権太坂の区間
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:
別ページで表示
しかし、本来の権太坂は旧東海道側にあります。現在はこの坂も切通を付けたりして勾配を緩められましたので、江戸時代とは大分様子が異なりますが、それでも麓から標高60m位まではかなりの勾配になっています。

現在の国道1号線の坂の方は、このブログでは武相国境を巡る中で一度御紹介していますが、その時には混乱を避けるために敢えて「権太坂」の名称を使うのは避けました。しかし、上記の様に交差点の名称にも「権太坂」の名前が現れているのであれば、既に国道1号線の坂道も「権太坂」として定着していると考えても良いかも知れません。元々現在の国道1号線がこの位置に切り開かれたのは、馬車の通行を考慮して少しでも勾配を緩めるために、より低い標高で峠を越えられる場所を選び直したということでしょうから、その意味ではこの坂道が旧東海道の権太坂の代わりということで、坂の名前を受け継いだ格好になっているとも言えそうです。

こういう、古い道筋の名称を新しい道筋が引き継ぐ事例は、街道の名称を現国道や県道に被せるケースでは割と良く見ると思います。現在の国道1号線を「東海道」と称するのがまさにその一例ですね。神奈川県内では他に国道246号線が「大山街道」、県道45号線が「中原街道」の名称を受け継いでいますね。

国道1号の武相国境の切通から平戸方面を見遣る
国道1号線の権太坂の先の下り坂(既出)
しかし、坂の場合は同じ地点で拡幅する様なケースでなければあまり類を見ないかも知れません。権太坂の場合は一帯の地名にもなった位なので、それだけ知名度が高かった故かとも思いますが、新たに切り開かれた坂道に名称を付する習慣が失われてきたことが背景にあるのかも知れません。馬車や自動車交通のために削平されたりトンネル化されたりして、坂がランドマークとしては機能し難くなった、ということでしょうか。実際、権太坂を上った先の下り坂には、対応する様な坂の名称は伝えられていません。旧東海道の場合は隣接する村の名前を取って「品濃坂」と呼ばれており、その間の小さなアップダウンにもそれぞれ「焼餅坂」「谷宿坂」という名前があったのですが、こちらの名前は何れも「引き継ぎ先」はなく、殆ど記録の中の存在に留まっています。

…今回はこの辺で。

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【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その4補足)

今井橋下のゴイサギ幼鳥
今井橋下のゴイサギ幼鳥(再掲)
前々回、ゴイサギの幼鳥のこの写真を説明する際、

今井川の普段の水量がそれほど多くないことがわかりますが、これも次回に関係してきます。

なんて書いておきながら、前回結局何も触れずに終わってますね(汗)。大変失礼しました。

幕末の今井川改修工事に際して、河道を従前よりもかなり深く掘り下げたことの説明の補足として、江戸時代初期の改修では当初の自然の河道が下流に残されたため、その深さに合わせて浅めになったことを解説しようと考えたのですが、今井川の平水量が小さいことを今井川が当初それほど深くなかったことの根拠にしようと考えたのでした。

ただ、河川の地形を水量などで説明しようとするのは意外に厄介で、実際に執筆していて下手な推測が混ざりそうな展開になったので、結局その部分をカットしたために前後が繋がらなくなったのでした…。
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【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その4)

前回、保土ヶ谷宿に沿って流れる今井川の改修についての疑問点を投げかけて終わりました。今回はその疑問点を検討するために、まず幕末の嘉永5年(1852年)に保土ヶ谷宿から出された今井川改修の嘆願書を引用します。今回は「保土ヶ谷区郷土史」(1938年)に掲載されているものを参照しています。全文を引用すると長くなりますので、今回の話の展開上必要な部分のみに留めます。因みに、残りの部分では(一部引用文中にも見えていますが)川を新たに掘ることによって失われる耕地の年貢の調整や工事資金工面の問題等について触れられています。

乍恐以書付奉願上候

一 橘樹郡保土谷宿役人共一同奉申上候當宿地内今井川之儀屈曲多く別而東海道往還字中ノ橋ニ而往還を東(より)西へ相流レ川下ニ至帷子川ゟ落合尙又東海道往還字帷子橋ニ而往還を西ゟ東え流出候ニ付水行不宜聊之水ニも中之橋上曲目ゟ宿内岩間町耕地へ一面押開き帷子川之儀も今井川落合之場所水勢相逆ひ水吐不宜川兩緣村々え押開き年々田畑水損御座候ニ付今井川通中之橋上ヨリ岩間町地内長四百間餘掘立候得ハ兩川共水行宜敷水災之愁無御座候ニ付新規掘立之儀奉願上度奉存候得共多分之人足相懸其上新川敷潰地御年貢諸役仕埋方手當備金旁多分之入用相懸り候事ニ付自力難叶年來打過罷在候處

…(中略)…

右之趣を以御伺被成下御下知相濟掘立方取懸候處新川深幅共目論見通ニ而ハ水行相滯候場所も有之新川掘立場處ゟ川上之方も敷下ケ洲浚切廣等不仕候而ハ水行不宜候ニ付夫々掘立浚方等仕漸皆出來仕見込之通水行宜敷罷成此上水難之愁有之間敷と難有仕合奉存中之橋之儀も取崩跡埋立往還平地ニ罷成右前後古川敷埋立町並屋敷御高入奉願上其餘古川敷之儀も追々埋立…(以下略)

橘樹郡保土谷宿

嘉永五年

子十一月廿二日 (以下連署)


当初は中橋の下流側に新たに堀を切るに留める見立てを幕府に打診したところ、それでは溢水に対応しきれないことから中橋上流側まで川底を掘り下げ中洲を浚うところまで対応したことがわかります。それはさておき、私が重要だと思うのは上記中太字にした箇所で、本流である帷子川について触れられていることです。「水勢相逆ひ」とは恐らくここが感潮域(河口付近で上げ潮時に海水が逆流してくる区間。現在の帷子川では、凡そ星川駅付近までが感潮域)であることを指していると思います。こういう所では上げ潮の時間帯に増水すると溢水の可能性が高くなりますが、単に川筋を直線的にしただけでは必ずしも所期の目的を達成できるとは限らないことが関係者間で認識されていたのではないかと思えるのです。

それに加えて、以前神奈川湊周辺について取り上げた時に触れた様に、帷子川は元々河口付近が埋まりやすい傾向を持っていた上に、富士山の宝永の大噴火によって火山灰が大量に運搬されて埋まっていく状況がありました。この影響は当然今井川にも及んでいた筈です。支流側で埋まった火山灰を取り除いたところで、本流の河口に溜まった土砂の方を十分に取り除いてもらえないと、支流の増水時にそこで滞留してしまうことになります。もっとも、降灰の影響を受けた相模国内や武蔵国南部の河川はどこでも川浚いに追われていたでしょうから、そこについてはこの嘆願書では敢えて触れずに済ませたのだろうと思います。飽くまでも今井川固有の事情を訴えて資金の補助を請願する段取りですから、降灰の件について触れてしまうと「それは周辺の他の河川でも同様の事情なのだから今井川だけ特別扱いという訳には行かない」と突き返されてしまいます。

その観点では、今井川が度々保土ヶ谷宿を水浸しにしてきたのは、果たして本当に中橋のS字の蛇行だけが問題であったのか、些か怪しい面があると思います。「聊之水ニも中之橋上曲目ゟ宿内岩間町耕地へ一面押開」く状況になったのは、上流から流れてきた火山灰が屈曲の急な箇所で溜まりやすいために川浚いが追いつかない状況になってしまったからではないかとも取れるのです。出来れば保土ヶ谷宿の冠水の記録と宝永大噴火の時期との相関が取れると良いのですが、そこまでの集計は今のところ難しい様なので、ひとまずこれは可能性だけ指摘するに留めます。

保土ヶ谷宿付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」から)
無論、それでも保土ヶ谷宿の道筋を直道化した際に、今井川も帷子川まで最初に直流化してしまえば…という見立てもあるとは思います。しかし、保土ヶ谷宿本陣家であった軽部家に伝わる「保土ヶ谷宿絵図」に見られる様に、明らかに人工的に掘削された水路になっているのは、街道がほぼ直角に曲がる地点を中心にしてその上流側と下流側の限られた区間だけで、中橋より下流は自然の流路のままに残されていることがわかります。なお、ネット上では「保土ヶ谷宿絵図」が「有鄰」の鼎談に掲載された小さなものしか見つかりませんでしたので、「東海道分間延絵図(保土ヶ谷神戸町の神明社のサイトにリンク)」の方を参考に…と思ったのですが、どういう訳かここでは今井川が中橋の上流側でも蛇行した姿で描かれており、ここに関しては適切ではありません。上記の嘆願書でも中橋の上流側は「新川掘立場處ゟ川上之方も敷下ケ洲浚切廣」に留まっており、それでも迅速測図では 東海道がほぼ直角に曲がった辺りから北へ一直線に伸びる姿で描かれている訳ですから、「保土ヶ谷宿絵図」の描き方の方が正しいことがわかります。

この人工的な水路になった辺りには本陣はもとより脇本陣や問屋場等、宿場の中枢に当たる施設が集中しています。ここから、普請が最も集中的に行われたのはこの辺りで、今井川の流路の付け替えはそれに付随して行われたのだろうと推察できます。恐らく、本陣付近で今井川が東向きから北向きへと大きく流れの向きを変える辺りでは、川の一般的な性質に従ってカーブは外側へと膨らんでいたと思われるのですが、そこから下流はもっと山際に近い場所を流れていたのでしょう。それを、街道沿いに旅籠などを建てられる程度の土地を確保できる様に東側へと付け替えたものの、それより下流は手を付け難いと判断して、中橋で従来からの自然の流路へと復帰させたのでしょう。

その理由については、あまり潤沢に資金を使えない中では今井川の流路の付け替えはこれが限度だった、と単なる経済的な要因とも考えられます。しかし穿った見方としては、感潮域の近い細流を迂闊に付け替えると、却ってそこから潮が上がりやすくなって水田に海水が入ったりする悪影響が出かねないので、そちらを懸念して敢えて手を付けなかったとも受け取れます。これも江戸時代初期の記録が出て来ないと俄に判断できませんが、その後永年にわたって中橋の溢水に根本的な手を打たなかった点と併せて考えると、必ずしも不用意な判断でこの様な施工をしたのではなく、こうした考慮点を入れて判断したのではないかと思えます。

さて、こうして行われた今井川の付け替えによって、かなりの残土が発生しました。その量3000立坪、メートル法に換算すると約18000㎥。高さ3mほどの土塁を築くと仮定して6000㎡の敷地を確保できる量ですから、かなりの量の残土が出たことになります。丁度お誂え向きに、当時江戸では黒船の襲来に備えて台場の建設が行われていたので、そこに目を付けた名主がこの残土を台場に供出して片付けたのでした。

ところで、これは当然新たな流路を掘ったことによる残土ではあるものの、その全てが不要になった訳ではない筈です。上記の嘆願書にもある通り、付け替えが完了したら旧流路を埋めなければなりませんから、その残余分を拠出したことになります。しかし、完全に直線化した新しい流路に対して旧流路は山際を迂回しているので、旧流路の方が多少なりとも長かった筈です。実際は中橋の上流側でも川底を掘っていますから、その分も合わさっているとは言え、それでも差し引きで残土が大量に出るということは、旧流路に比べて新流路は川の断面積がかなり大きくなった計算になります。

しかし、現在の高度な改修が施された今井川を見ても、川幅は精々10数mほどしかありません。他方、前回の「新編武蔵風土記稿」の記述の通り、当初の今井川の川幅は約10mですから、川幅はさほど広がっておらず、専ら川を深くする方に施工の主眼があったことがわかります。先程も触れた通り潮の遡上への懸念はあったと思われますが、それよりは滞水時に少しでも水が溢れない様にする方を優先したのでしょう。あるいは当時既に更に下流で新田開発を手掛けていますので、そういう水域であっても対策する方法への目処を付けていたのかも知れません。

今井川→帷子川合流地点
今井川→帷子川合流地点
今井川地下調節池の案内
今井川地下調節池の案内
勿論、流域の多くが宅地等に転用された現在では川底の掘削だけでは対応し切れず、両岸にコンクリート製の堤防を屹立させ、更に上流部に地下トンネル式の調節池を設けて上流からの増水を一旦受け止める様になりました(右の写真は同地の公園に立てられている案内)。左の写真は現在の今井川の帷子川への合流地点(帷子川も流路を付け替えられていますので、江戸時代の位置とは異なります)ですが、右隅に見えている堤防の高さは1.5mほどあります。横浜市の財力と人口の密集状況があってのことではあるものの、江戸時代の治水と並べて見るにつけ、「隔世の感」どころでは済まない隔たりを感じてしまいます。

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【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その3)

前回まで、保土ヶ谷が神奈川と近接しているにも拘わらず、宿場に選定された背景について色々と考えてみました。ともあれ、江戸幕府から東海道の宿場として指名された保土ヶ谷宿。東海道がこの地を通る鎌倉街道とは異なる道筋になったのがいつ頃なのかについては諸説ありますが、これについては戸塚付近の検討をする際に改めて取り上げる予定にしています。

旧古町橋跡
旧古町橋跡ガイド
保土ヶ谷が宿場になった当初、帷子の町と保土ヶ谷の町の間は繋がっていなかった様で、その当時に描かれた「東海道絵巻物」ではその間が半里ほど、つまり2kmほど隔たっていたと記されています。その後、慶安元年(1648年)から万治3年(1660年)にかけての幾度かの普請で、神戸町・岩間町と共に保土ヶ谷・帷子の町を移転させて、現在も残る直線化された町並みへと変更されたのでした。「東海道分間絵図」には既に変更後の街並みが記されており、そこには「新町」と記されています(「国立国会図書館デジタル化資料」の該当ページにリンクします。)。移動前の東海道の道筋は、一部「古町」として名残があるものの、神明社のある辺りから京都側の道筋はわからなくなっており、これについては諸説があります。

左の写真はその古町橋跡に立っている案内ですが、その位置はこちら。


古町橋跡ガイドの位置(ストリートビュー

しかし何れにせよ、これによって宿場が今井川と交錯しながら街道沿いに伸びる形状になりました。現在の今井川はその後の度重なる河川改修で河道が移動させられましたので、現在見られる筋とは若干異なります。「東海道分間延絵図」で確認できるところでは、今井川は幾つかの支流が宿内で土橋の下を抜けており、宿の南側でそれぞれ合わさって本陣の外側で北東へと向きを変えます。ここでは前回も紹介した保土ヶ谷神戸町の神明社の郷土史のページに掲載された該当箇所の絵図をリンクしておきます。現在の地図との比較が出来る様に編集されているので、そちらと併せて御覧になると良いでしょう。

樹源寺〜元町本陣〜茶屋町橋


旧中橋跡
旧中橋跡ガイド
そして、街道の東側を流れていた今井川は、途中の「中橋」付近でS字状に曲がって街道の西側へと抜け、山際を迂回して帷子橋の上流で帷子川と合流していました。

帷子橋~中之橋



中橋跡にも案内が立っていますが、こちらも改めて位置を示しておきましょう。


中橋跡ガイドの位置(ストリートビュー

因みに今井川について、「新編武蔵風土記稿」では

川幅或は三間或は五間に及べり(卷之六十九橘樹郡之十二 保土谷町)

と記し、そこに掛かる橋も

長六間幅三間(元町にあった土橋)

長五間九尺(上神戸町の金沢橋)

としていることから、江戸時代後期の川幅は概ね10m程度であったと考えて良いでしょう。但し、これらの記述だけでは水深の方は不明です。

東海道は基本的に海沿いに近い場所を進む関係で、必然的に海に流れ込む川を渡る箇所が増え、流れに沿って進む箇所は少なくなります。しかし、隣の流域に移る際には分水嶺を越えて行かざるを得ません。分水嶺が低い箇所では普通に坂道を付けるだけで済みますが、比較的高い分水嶺を越える箇所では、尾根への登り口に至るまで谷戸の中を流れる沢と並行して進む道筋が現れます。ここもその1つであるわけですが、他には例えば丸子〜岡部、金谷〜掛川等が挙げられます。

が、谷戸底というのは得てして腐葉土などが蓄積しやすいので足元が軟弱になりやすく、そういう所では並行する河川に対して街道に十分な高さを確保するのが基本です。特に宿場を形成する場合には地盤のしっかりした土地を選ぶ必要があり、そのために宿場が山の端に展開するケースが多くなります。当初の保土ヶ谷宿もその様な配置であった可能性が高いのですが、その後の直道化で道筋が山裾を離れてしまい、今井川の谷戸の中央に東海道が寄ってしまう格好になりました。宿場の人口が急速に増えて手狭になったために、従来型のセオリーに寄らずに街場のためのスペースを確保する方を優先したのかも知れませんが、その際に今井川の流路に多少手を入れてしまったことが後に仇となります。

今井川の流路のどの辺に手を入れたのか、詳細なことは記録が見つかっていませんが、上記の「中橋」付近のS字の部分が隘路となってしまい、しばしば溢水する様になってしまったのです。これは永年改善されず、幕末になって幕府からの補助を取り付けて現在の形に近い直流化が行われて中橋が廃止されました。

これには様々な疑問が浮かんできます。そもそも何故最初から直流化しなかったのか。あるいは、そこまで街道の直道化に拘っていなければ、もっと水に浸かりにくい道筋に出来たのではないか。また、宿場が水に浸かる頻度が高ければ、その時点で再度改修を考えても良かった筈だが、永年着手されなかったのは何故か。因みに「保土ヶ谷区史」は再改修の出願を長年行わなかった理由を「今井川の改修願いは結果的には宿場建設の失敗を認めることになるため」としているが、果たして本当にそうでしょうか。

もっとも、こうした疑問は得てして現代を知っている我々だからこそ感じてしまう性質のものであることは念頭に置くべきでしょう。我々は今既にこうして直流化された今井川の姿を目の前にしているので、つい「最初から…」と言ってしまうのですが、その際にここに至るまでの経緯をつい見落としてしまいがちです。帷子川とその支流である今井川の当初の姿を念頭に置きながら、その間に起きたことを私なりに考えてみたいと思います。

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【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その2)

前回中途半端な、思わせ振りな所で話を切ってしまいましたが(汗)、実のところ戦国時代までに神奈川と保土ヶ谷の辺りで同時に別の集落が栄えていたと考えるに足る十分な史料は見つかっていないのが実情の様です。

保土ヶ谷を含む帷子川の流域一帯が、古くは「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」という伊勢神宮の所領であったといった、所領の変遷に関する記録は僅かながら存在しており、それらによってこの地が神奈川湊とは異なる由緒を持つ地であることはわかります。しかし、その繁栄の程度を推し量れそうなものが残っていないのです。因みに、榛谷御厨については保土ヶ谷神戸町の神明社のサイト同地の郷土史の資料が多数掲載されていますので、そちらを御覧になるのが良いと思います。

前回の引用文中にも出てきた、文明18年(1486年)の「廻国雑記」が、辛うじて沿道の様子を記述した紀行文と言える存在ではあるのですが…。まず、帷子川河口北側に位置していた「かたびらの宿」前後の記述は以下の通りです。「廻国雑記」はこちらのサイトで全文が掲載されていますので、今回はこちらから引用させていただきました。

新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、(くわ)しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、

いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里

岩井の原を過ぐるとて、

すさまじき岩ゐの原をよそに見て、結ぶぞ草の枕なりける


筆者である道興准后(どうこうじゅごう)は鎌倉街道下道を鎌倉へと向かう道すがらでこれらの歌を詠んだ様です。もっとも、「かたひらの宿」に泊まり、「岩井の原(岩間のことと考えられている)」で「結ぶぞ草の枕」、つまり再び宿泊したとなると1日の行程としてはあまりにも短距離に過ぎるので、ものの例えに宿を引き合いに出しただけで実際には宿泊していないのかも知れません。とは言え、「風うら寒き」だの「すさまじき岩」だの、果ては「委しく記すに及び侍らず」などと、そのまま真に受けると、如何にも当時この一帯はうら寂れていた様に読めてしまいます。実際の所はどうなのでしょう。

こういう紀行文で、旅人の気分が存分に反映されている場合、それが必ずしも実際の風景を表現しているとは言えないことがあると思います。予めその地名に対して十分な知識が共有されているという前提があれば、それが逆説的な表現を狙っていると読み手に理解されるでしょう。今時「冷たい雨に打たれながら横浜の街を歩く」などと書いてあっても、まさか横浜が寂れた街だと思ってしまう人はいないですよね。しかし、横浜という土地について前提知識が全くない人にはそうは受け取ってもらえないかも知れません。

道興准后が何を思いながら鎌倉へと向かっていたのかも気になりますが、この先の記述を見るとどうも先を急いでいた様です。首筋を冷たい風に晒されつつ、帷子の街の賑わいを後目にを行き過ぎながら、気が急く中ひとまず何か一首詠まねばと思ってその寒さを詠み込んだ…ということなのかも知れません。

もっとも、別の見方として、道興准后が見た「かたびらの里」一帯が当時本当に寂れていたと考えることも出来るかも知れません。文明18年というのは鎌倉府が古河へと移ってしまってから大分経った頃に当たります。鎌倉公方が所在していた頃には、鎌倉への人の往来も、鎌倉幕府が存在していた頃ほどではないにしてもそれなりに維持されていたでしょうが、鎌倉府が転出してしまったことで、同地への人や物の流れが急速に萎んでしまった可能性は十分考えられます。その様な混乱の中で、鎌倉に向かう道すがらで宿場などを営んでいた街も影響を受けて寂れていったとしても、おかしくはないでしょう。

もしもそうだったとすれば、その後徳川家康が江戸に来るまでの約100年の間に、この一帯が低迷期を脱して盛り返してきたことになるでしょう。ただ、この頃の記録は十分ではなく、後北条氏が関東を収めた頃に保土ヶ谷が北条氏康の子と言われている上杉景虎の所領になっていたことから、後北条氏が何らかの要地として保土ヶ谷を見ていた可能性を推察するのが精々といったところです。神奈川湊や玉縄城といった重要拠点の間に位置することから、何らかの役割を担っていても不思議ではなさそうですが、そのことを裏付ける史跡などは今のところありません。

何れにしても、当時の他の記録がもう少し色々と出揃うと、実際の所はどうだったのかもう少し解釈のしようも出て来るかも知れませんので、今はそこに期待するしかないでしょうか。

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