もっとも、洲崎大神の前にあったのは湊の船着場で、「神奈川湊」と言った場合は入江全体を指していた様です。「新編武蔵風土記稿」の神奈川宿の項の記述では
とあり、入江のかなり広い範囲、大岡川の河口までを湊として認識していたことが窺えます。湊 南の方本牧浦の方より、神奈川の出崎までの間、なゝめにくり入たる如くなる入海なり、その間舟路一里餘なり、宿内靑木町の方古よりの湊にて、諸國の船のかゝる所なり、これを神奈川湊と呼ぶ西北に山あれば風波のうれひなし…
(卷之七十 橘樹郡之十三より 雄山閣版より引用)
源頼朝が洲崎大神を安房洲崎の安房神社から勧請して創建したのは建久2年(1191年)です。その頃から大神の前に湊の船着場があったかどうかは定かではありませんが、神奈川湊は鎌倉時代に鶴岡八幡宮の支配下にあったことと併せて考えると、将軍縁の洲崎大神の地が湊と関連していたと考えるのは割と自然なことではあります。この湊も品川や六浦と並んで東京湾沿岸を結ぶ海運の拠点の1つとしての歴史があり、江戸時代になると江戸の発展とともに陸運・水運の拠点として栄えることになります。
鉄道のための埋め立てであれば、この場所の埋め立ては必要なかった筈ですが、むしろ鉄道のための埋め立ての「序で」を狙ったかの様に早々と埋立地が出来ました。この「漣橋」の架かる入江は明治から大正時代までは存在し、大きく発展する横浜港との間には渡し舟が運行されていましたが、その後昭和に入って国道を通す際に完全に埋め立てられて消滅しています。


国道に向けて下り坂になっているのがわかる
神奈川湊は元より波の穏やかな入江であったからこそ海運の拠点となっていた訳ですから、湊が波除けのための施設を必要としていたと考えるのは筋が通りません。当時の神奈川湊は廻船が直接接岸するのではなく、入江の中に停泊して艀を経由して荷物の積み下ろしを行う方式でしたから、従来通りの積み下ろしを引き続き行うなら、この新たに出来た埋立地の外側で積み下ろしをやることになりそうです。つまりそれだけ、船着場が沖合に展開していくことになります。そうでないと、漣橋の方まで水路を迂回していかなければならなくなります。
この辺りの地形を考える上では、やはり帷子川の特徴を見ておくべきでしょう。帷子川の源流は現在の横浜市旭区の上川井付近(現在の若葉台付近)にあります。幾つか源流を尋ねたレポートが見つかりましたのでリンクを張っておきます。源流地付近の標高はおよそ90mです。
帷子川水系の全体図は
帷子川水系全図
※追記(2021/04/26):横浜市のサイトリニューアルに伴い、この「帷子川水系全図」が削除されてしまいました。代わりの図を探してみましたが、辛うじて「川のはなし」という冊子のPDF中に小さな水系図が掲載されているのを見つけましたので、ひとまずはこちらへのリンクに切り替えます。後日もっと大きく表示できる図が掲示された際にはそちらへ切り替えたいと思います。
流路延長17km、流域面積57.9㎢とさほど広くはないものの、多摩丘陵の中に源流地があり、現在の相鉄線鶴ヶ峰〜西谷駅付近では周辺の分水嶺から流路までの高低差がかなり大きくなってきます。
多摩丘陵は海上に姿を表わす前は相模川(と言うよりはその元になった川)が堆積させた土砂が元になっています。それが地殻変動によって海上に姿を表し、15万年前からの箱根火山や富士山の噴出物を被りながら浸食作用によって複雑に入り組んだ谷戸を形成して今の姿になりました。
海中で堆積した土砂は平坦化する傾向が強いですから、海上に隆起した当初は地殻変動の影響で断層地形によって破壊されていない限り、平坦な面が大きく残る筈です。そういう土地が谷戸と尾根だらけになっているということは、それだけ浸食作用が深く進んだことを意味しており、多摩丘陵はそうした地形になっている訳です。浸食によって運ばれた土砂は一部は谷底平野を形成し、あるいは海まで運ばれて海中に堆積しますから、大きな谷になっているということは、少なくともそれだけの量の土砂が下流に向かって運ばれたことになります。
横浜駅付近の地下40m超の辺りには、かつての帷子川の谷底地形が見つかっています。これは今から約18,000年前の最終氷河期の海退によって浸食が激しくなった時期に形成されたものですが、その後の海進によって堆積作用が大きくなって埋没したものです。
また、かつての帷子川河口付近であった地点のボーリングサンプルでも、地下3.8m付近の炭素分析による年代が1,000年ほど前と分析されており、有史以後も引き続き堆積が続いていたことが窺えます。このことは、この河口付近の歴史を考える上では、帷子川の堆積作用による地形の変化を念頭に置いておかなければならないことを意味しています。平たく言えば、この入江は元々帷子川の運ぶ土砂によって埋まっていく傾向にあった、ということです。
そして、江戸時代にはそれに追い討ちを掛ける自然現象が起きます。富士山の宝永大噴火です。宝永4年(1707年)の噴火で富士山が降らせた火山灰が関東南部一帯に降り積もり、これが河川に流れ込んで川底を押し上げ、水害を頻発させるという状況をもたらしてしまいます。帷子川も例外ではなく、この年保土ヶ谷宿の定助郷14か村が同年の助郷役の免除を代官に願い出た訴状が残されています。
一 先達而奉願上候砂利降申候而難儀仕候者、相□
梅沢辺より保土ヶ谷町辺迄横幅三四里程大分
降り申候由及承候、右宿々之定助村之内保土ヶ谷町
定助村之儀、天水場并山林野無御座村々故、別而
困窮仕候所、当年度々大難ニ付御拝借奉願上候
(以下略)
(「宝永四年十二月 保土ヶ谷宿定助一四か村砂降のため難儀につき訴状」より 横浜市歴史博物館図録「東海道保土ヶ谷宿 資料集」2011年より引用 太字はブログ主)
また、その後も上流から帷子川が運び込んで来る土砂で河口が埋まってしまい、溢れた水で家が流されたり街道が水に浸かってしまうといった被害が出ているために、川浚いを願い出た記録も残されています。
乍恐口上書を以奉願上候
一 帷子川筋先年砂降り埋り候ニ付、少之雨ニ而も満水
仕、依之川筋田畑水ニ而押払、仕付候作物数年手
懸り不申候、就夫数ヶ年御願申上候ニ付、八ヶ年以
前御見分被為 仰付候得共、所之河筋御普請請御
用多御座候ニ付、不被為 仰付候、其以後段々砂
流込、作物之儀者不及申上、河筋之百姓之家
押流候程之水、度々ニ至、殊往還通りも通用
成兼、往来之差支ニも罷成候、(中略)
□御見分之上御慈悲を以惣百姓船持御救ニ
河浚御普請被為 仰付被下候者、難有可奉存候
(「享保六年〜享保七年 足立善兵衛記録」より 引用元は同上 太字はブログ主)
帷子川河口はその後新田開発によって埋め立てられていきますが、そこにはこうして次第に埋まっていく河口を前に、「どうせ埋まるなら新田にして活用しよう」という意図があったことは言うまでもないでしょう。隣の大岡川河口の吉田新田の埋め立ては宝永大噴火よりも前ですが、保土ヶ谷まで水運があった帷子川では河口を埋め立ててしまうことに当初は多少の躊躇はあったと思われます。しかし、富士山の噴火の結果状況が変わったことで、帷子川でも新田開発に乗り出す様になったのでしょう。
そして、こうした影響は当然神奈川湊にも及んでいた筈で、湊の運営に携わる人々にも「湊が埋まってしまう」ことへの懸念はあったでしょう。それでなくても江戸時代には水運が盛んになるに連れて廻船は大型化する一方で、江戸時代後期には「千石船」も大きいものでは2千石を積めるものまで登場しています。当然それに従って吃水は深くならざるを得ませんが、それに反して湊が埋まっていってしまうのであれば、こうした大型船は底を擦らない様に入江の深い所に停泊せざるを得ません。そうなればそれだけ沖合まで艀を出して荷物の積み下ろしをせざるを得ず、その分艀が船着場と往復する距離が長くなって効率が悪くなることになります。
余談ですが、幕末の「黒船」は当時の廻船より更に大型で当然吃水もそれだけ深かった筈で、しかも同じサイズの和船に比べて西洋の船は吃水が深くなる傾向があるのだそうです。そんな船が果たして本気で神奈川湊に乗り付けることが出来るなどと考えていたのかどうか。それ以前に良く迂闊に湾奥まで乗り入れて座礁させなかったものだと思います。和船が多数停泊する湊にそれ以上乗り入れられなかったのが結果的に幸いしたのかも知れませんが。
因みに、江戸時代の浚渫技術がどの程度であったか調べてみましたが、川の中州を取り除く「川浚い」の記録は多数見つけられるものの、湊の航路を確保するための大規模な浚渫は上方の湊など数えるほどしか見つけることが出来ませんでした。需要がない技術ではない筈ですが、それよりは埋め立てをして平地を作る方により大きな需要があったのか、それとも純粋に技術力不足で実施が困難(コストが掛かり過ぎる)だったのか、これは俄には判断しがたいところです。

かつて洲崎大神の神輿が祭りの際に海にまで入っていたことを後世に伝えるべく建てられた石碑ですが、これは言い換えるとこの辺りではまだ背が立ったことになります。石碑があるのはこの位置ですが、かつての船着場から直線距離で100m弱といったところでしょうか。

("NauticalChart
Yokohama 1874"
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右の図上をクリックするとWikipediaの該当ページに移動しますが、そこでもう一度図上をクリックすると更に拡大表示されます。水深がメートル法で記載されていますが、神奈川湊の前の「1」や「1½」といった数字が、かなり沖合まで広がっているのがわかります。海図の水深はその利用目的の必要から干潮時を基準にしますので、満潮時にはもっと深くなるとは言え、上手く干潮時のピークに合えば相当に沖合まで歩いて行けてしまうことになります。
こうした遠浅の海で湊を営んでいた人々が、それまでの廻船を凌駕する巨大な船が入ってくるのを目の当たりにして、今後は更に沖合に行かなければ荷物の積み下ろしが出来ないと悟った時、神奈川湊では対応がもはや難しいことを感じ取ったのかも知れません。漣橋の向かいに早々と出来上がった埋立地は、旧来からの水運の様変わりを逸早く悟って舵を切った証でもある様に思えるのです。