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「品川宿周辺」カテゴリー記事一覧

【旧東海道】その1 高輪〜品川〜大森の海沿い道(3)

前回の続きです。

江戸前の海に対する備えの薄さは、東海道の道筋に限ったことではなかったと思います。江戸の街そのものが日比谷入江を埋め立てるなど大々的な土木工事を施して出来上がったことは既に有名ですが、こうして出来上がった土地の割り当てを見ても、将軍家の別邸浜御殿(元は甲州藩下屋敷の庭園、現在の浜離宮)や紀州徳川家の御屋敷(元は老中大久保家の屋敷、現在の芝離宮)が作られるなど、幕府の御用地が海沿いに作られていたり、海岸に近い辺りでも親藩大名の中屋敷や下屋敷が点在するなど、その町割りに海への備えを意識した形跡があまり見受けられません。水運が主体だった当時、水際が最も利便性が高いことから庶民の町が集中するのは理解できますが、主要な街道や大名屋敷まで海沿いに来るのはどうなのか。

どうも、家康以下徳川幕府は、江戸入り後一貫して、江戸前の海が荒れる事は極めて少ないという認識を持ち続け、その前提で海沿いの土地利用を積極的に進めたということになるのではないでしょうか。

新編武蔵風土記稿」でも、江戸前の海は

固より入海のことなれは、風波も穩にして、ことに風收りたるときは水面平にして(むしろ)を舗るが如し

(卷三十九 荏原郡之一)


などと書かれており、江戸前の海の格別の穏やかさは共通認識になっていたことが窺えます。

因みに、麹屋村(現在の大田区糀谷)には潮除堤があったことが「風土記稿」に書かれていますが、堤築造の年月が不明ですが、これは海岸付近に水田が迫っているため、潮が入って稲作にダメージが来るのを防ぐ目的で作られたものの様です。明治初期の迅速測図でも海岸付近の水田や畑の周囲に堤が築かれているのが確認でき、ここから海岸線沿いに江戸前の海沿いに見ていくと、同様の堤が浦安辺りの田畑にも築かれているのがわかります。


水田の周囲の赤線でなぞられている所が潮除堤
(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%にすると明治39年測図の地形図に切り替わる)

同様の農耕地を囲む潮除堤は、行徳・旧新井村の「へび土手」などがあった様ですが、何れも農耕地のためのもので、江戸の街を海から守る位置にはこれと言った堤防がありません。
余談ですが、この迅速測図で見ると埋め立てられる前の海岸沿いの干潟の広大さが良くわかります。

とは言え、江戸入り間もない家康や家臣が、事前に仕入れた知識だけで荒天の海への備えを解くというのはかなり不自然です。

確かに、岡野友彦氏が「家康はなぜ江戸を選んだか」で指摘していた通り、

伊勢湾と江戸湾との海上交通は、当時の航海技術からいって、大きく太平洋上に出ることはなく、東海道諸国の沿岸を経由して行われていたと考えられる。とするならば、三河・遠江・駿河といった東海道諸国を制圧して「のし上がって」きた家康が、信長・秀吉に比べて、江戸湾との水運に無知であったというのは、いささか不自然ではなかろうか
(同書11ページ)

少なくとも、江戸との間でどの様な交易が行われていたかについては把握していた可能性が高い点は同意です。

しかし、江戸入りするまでは後北条氏の領地であった地域内の湊の海が荒れた時の様子などは、実際にその様な天候の時に居合わせて実感しなければ、なかなかそこまで思い切るのは難しいのではないでしょうか。家康の江戸入り前に領地内が津波に襲われた記録はありませんが、明応地震(明応7年=1498年)の被害の記憶は三河から駿河にかけての沿岸各地域ではまだ記憶に新しかったと思われ、家康もその惨状や備えについて伝え聞く機会が少なからずあった筈と思います。こうした災害の記憶を持つ人々にとっては、訪れた先で「ここは安全だから」と地元の人から聞かされた程度では、にわかには警戒を解き難いのではないでしょうか。

家康が江戸入りしてから五街道が制定されるまで、10年ほど経っています。その間家康自身は江戸を留守にすることも少なくなかったとは言え、これだけ時間があれば新たな領地と言ってもその様子は家臣も含め概ね把握できていたことでしょう。恐らくはその間に、海沿い道であっても問題がないであろうという認識を固めていたのではないかと私は想像していますが、これはちょっと裏付けを得るのが難しそうです。ただ、当時の人の認識がどうであったか、文献などに現れているものがないか、出来ればもっと探してみたいところです。

では、本当に江戸前の海は安全であったのか。この辺は慎重に検討しなければなりませんし、手元の資料だけではとても結論染みたことは言い難いところです。が、手にとってみた江戸の災害にまつわる書物で取り上げられる水害の大半は、隅田川や荒川、あるいは神田川がもたらす河川の増水によるものであり、幕府の対策もほぼこれらの流域に集中していた様です。少なくとも、利根川東遷をはじめ河川治水事業にあれ程躍起になっていた幕府にしては、江戸前の海からの水害対策にはあまり手を掛けなかったし、恐らくはその必要を感じていなかった、という言い方はできそうです。

また、元禄地震や安政地震の津波の高さを検討した研究もありますが、これを見ても横浜辺りまでは比較的高い津波が来ているものの、それより奥では幾らか波の高さが抑えられていることがわかります(但し被害は多少なりとも出ていますが)。

「東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東(1703)、安政東海(1854) 津波とその他の津波の遡上状況」羽鳥 徳太郎著(歴史地震 第21号(2006) 37-45頁)[PDF]


勿論、当時の水害対策は現在のそれとは大きく立ち位置が異なるものです、現在は江東ゼロメートル地帯など高潮への備えが必要な地域がたくさんありますし、明治時代以降遥かに高度化した海の埋め立てと浚渫、人口の極端な増加など、当時とは違う観点で治水を考えなくてはならなくなっているのは言うまでもないことです。が、裏を返せばそれだけ江戸時代は江戸前の海を「信頼しきっていた」とも言えると思うのです。むしろそれだからこそ、あれほどの巨大な都市がウォーターフロントに大々的に展開できたのではないか、そんな気がしてなりません。

ただ、繰り返しになりますがこれは飽くまでも江戸時代の話。今の治水も東京湾に関しては恐るるに足りないなどという、とんでもない主張をする気はありませんので念のため。むしろ、堤防に守られているからと高層マンションをウォーターフロントに高々と建ててしまうのは、ちょっと行き過ぎではないかと思っているひとりです。



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【旧東海道】その1 高輪〜品川〜大森の海沿い道(2)

前回の続きです。

そもそも、この区間は昔からこんな区間を進む道だったのでしょうか。

高輪の鎌倉街道下道・中原街道(一部)
高輪の鎌倉街道下道・中原街道(一部)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
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実際は、高輪の辺りでは内陸側にもう1本古道があります。現在の国道15号と国道1号の間、三田3丁目から坂を登り、伊皿子の交差点を経て高輪3丁目に抜ける道で、かつての鎌倉街道下道と考えられています。伊皿子の交差点の辺りには「亀塚古墳」と伝えられる塚があったり(但し発掘調査では埋葬品などは特に見つかっておらず、真相は不明です)、聖坂の途中には「亀塚神社」があり、中世の板碑が祀られているなど、沿道に古くからの道であることを偲ばせる史跡が点在しています。この道はまた、江戸時代には中原街道として使われた道でもありました。「江戸名所図会」の「高輪が原」の項でも

按ずるに、いまの海道は、後世に開けしものにて、古へは、丘の上通りを通路せしなれば、さもありなんかし

と、かつての街道がこちらであったことが示唆されています。

大井の鎌倉街道下道(一部)
大井の鎌倉街道下道(一部)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
別ページで表示
また、高輪から南の道はかなり失われていますが、目黒川を居木橋で越えて大井三叉路に至り、鹿島神社の東側を経て大森貝塚付近からは現在の池上通りを進んでいた様です。大森駅付近ではかつての街道の遺構が発掘調査で見つかっています。


当時の街道の道筋の「常識」に合うのは、この鎌倉街道下道の方です。足場の悪さを避ける観点から、多少の高低差には目を瞑り、尾根道や巻き道など、水の被りにくい場所を進むのです。その頃はまだ海岸線がもっと内陸側にあったとも言われ、恐らくは海沿いは街道が進むには適さない道であった筈です。

ただ、品川には既に古くから湊が開かれ、交易の中枢になっていました。この品川から内陸の府中・武蔵国府まで、「品川道」によって結ばれており、古代には武蔵国府の国府津であった可能性が指摘されています。南北朝時代から室町時代にかけては、神奈川湊とともに入港する船から関銭を徴収し、鎌倉府のもとで鎌倉の寺院の修造費にあてられていました。こうした歴史を裏付ける様に、現在も品川宿内には品川寺をはじめ創建の古い寺社が数多く残っています。

この品川から鎌倉街道へ出るにはやや遠回りになるため、品川から海沿いを進む道自体は江戸時代よりも前から存在はしていたようです。但し、これは飽くまでも地元の住民たちが使う性質のもので、鎌倉街道とは使い分けられていたはずです。農民・町民は海沿いを進むが、武士たちは山沿いを進む、という風に。

なお、鎌倉時代から「品川宿」は存在していた様ですが、当時の宿場がどこに存在していたかは今のところ不明とのことです。江戸時代の海岸スレスレに伸びる品川宿とは異なる場所であった可能性があるということですね。その見立ての通りならば、かつては品川湊の集落と宿場の集落が別々に存在していたことになりそうです。

鎌倉末に成立したとされる真名本『曽我物語』を紐解くと、鎌倉時代の初めに品川宿の名が登場する。…この宿は、宿泊施設を中心とした近世の品川宿とは異なり、在地領主の支配の下で、居館の周辺に形成された武家地をもとにした集落の性格をもつものであったと考えられる。
当時、大井氏・品河氏の支配は、元暦元年(1184)に品河氏が雑公事を免除された品川郷だけでなく、多摩川左岸を境として立会川上流部まで含む広範な大井郷に及んでいた。鎌倉時代の品川宿の所在地は不明であるが、中世の東海道・鎌倉道に面した大井地域の交通・軍事の要地に宿が設けられたと想定することが出来る。
品川区立品川歴史館「特別展・東京湾と品川―よみがえる中世の港町―」図録25ページより引用)


それを、徳川幕府はどう見立てて官道を海沿いの道に指定したのでしょう。
続きはまた次回に。

参考:芳賀善次郎「旧鎌倉街道・探索の道―下道編」さきたま出版会
岡野友彦「家康はなぜ江戸を選んだか」教育出版



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【旧東海道】その1 高輪〜品川〜大森の海沿い道(1)

今回から不定期に旧東海道を取り上げます。一応道順に行く予定ですが、道筋に見られる地理的な特徴、特に「何故この道がここに通ったのか」を色々と考えてみるシリーズにする予定です。因みに、ここで言う「旧東海道」は江戸時代のものを基本に考えていますが、比較のためにその前後の次代のルートも併せて見ていくつもりです。

ブログ主は旧東海道は日本橋から金谷まではひと通り歩いていますし、東京都や神奈川県内の区間は幾度か往復していますが、その先を歩く予定が今のところ立っていません。それを待ってから色々とまとめたいと思っていたのですが、それでは何時になるかわからなくなったので、取り敢えず調べのついたところから行きます。

東海道分間絵図より高輪〜品川付近
「東海道分間絵図」より高輪〜品川付近
大名行列らしき一行を描いている辺りに注目
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
1回目は高輪から品川宿にかけて。日本橋から高輪大木戸までは江戸のうちですから、ここではさておくこととして…。

今では広大に埋め立てられて跡形もなくなった品川の海ですが、江戸時代は一貫して街道のすぐ隣が海でした。江戸時代初期の「東海道分間絵図」を見ても、「三田八幡」(現在の「御田八幡神社」)の向かいの高札場から南は、街道下に組まれた石垣を隔ててすぐ海だったことが描かれています。

この、海沿いの石垣は後に発掘されて、国道15号沿いにその一部が保存されています。GoogleMapsのストリートビューで見るとこんな感じです。


ストリートビュー

自前で撮ったのがあった筈なんだけれど…どこ行ったかな。

この姿はその後も変わることがなかった様で、江戸時代末期の「東海道分間延絵図」でも同様に描かれています。「分間延絵図」では、街道の並木が松であったか杉であったか、はたまた別種の木であったかまで描き分けられていますので、そういう絵図でも並木が描かれていないのは本当に並木がなかったという判断で問題ないでしょう。本当は並木があったけれども絵図上では省略したのではない、ということです。

明治に入って作成された「迅速測図」が出来た頃には、既に新橋と横浜を結ぶ鉄道のために沖合の埋め立てが始まっていますが、それでも当時はまだ街道のすぐ隣が海であったことがこの地図からもわかります。「東海道」と大書されている上側の道がこれです。

(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%にすると明治42年測図の地形図に切り替わる)

そして、改めて東海道をひと通り見てみると、こんなに海に隣接して進む区間は他には品川宿を出て鮫洲から大森にかけて程度しかありません。江戸時代の五街道のうちでは唯一沿岸を進む区間のある東海道ですが、それでも大抵は海からは多少は距離を置いています。西国街道など脇往還まで手を広げても、恐らくこれほど海に近接して尚且つ海からの比高差の小さい所を延々と進む道は、恐らく他にないのではないでしょうか。

江戸時代初期に限れば、東海道には他に海沿いを進む区間がもう1箇所ありました。由比から興津にかけて、薩埵峠の下の海岸を進む道、いわゆる「下道」です。しかし、ここは「親知らず子知らず」と別称される程に波にさらわれるリスクのある難所で、結局薩埵峠の上を進む「中道」、更には「上道」が開発されて、下道は安政の大地震で海岸が隆起するまで使われなくなってしまいます。

この例に見られる様に、普通であれば海沿いはそれなりにリスクのある場所と認識される方が多いのです。他にも吉原宿が2度にわたって津波の被害を受けて内陸へと移転したことが良く知られている通り、海沿いはどうしても高潮や津波への対応を考えないといけない土地です。湊が海を離れることはあり得ませんので、そういう町を宿場にした場合は自ずと街道が海に近付くことになりますが、そういう場合でも街道は海沿いからは奥に入った場所を進むのが普通です。また、沼津から原をへて吉原に至る区間の海岸砂丘上に延々と植えられた防潮林の松が象徴する様に、潮風の被害への対応も必要です(この辺りの話は後日改めて詳しく取り上げたいと思っています)。

そういう区間が圧倒的に多い東海道において、高輪から品川を経て大森に至るまでの、このあっけらかんとしている程に海沿いを進むこの区間は一体何なのか。まずはこの区間について、私なりに読み解いてみたいと思います。

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