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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ通し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ通しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ通されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ通し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ通し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。

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