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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ通し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ通しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ通されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ通し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ通し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

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