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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その4)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に続き、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

前回は現在の山北町域に属する村々の状況を、同町の町史で確認しました。これらの村々は「西山家(やまが)」に属することになりますが、「東山家」に属する現在の松田町域の炭焼については、同町が発行した「まつだの歴史」に次の様に記されています。

貞享三年(一六八六)「稲葉家引継書」に「松田村の内くぬき林を立置、毎年一念炭焼申し候、炭竃損い候えば、軽奉行これを遣し修覆仕り候、竃数壱口、炭焼八郎右衛門、才兵衛・理右衛門・太郎兵衛・小右衛門」とあり、小田原藩領内でも相当の産地であったことがうかがわれる。

万延二年(一八六一)の史料をみると、小田原領二十四ヶ村の農間稼炭買主の中に、弥勒寺村の市郎兵衛と中山村の源之丞の二名の名前が見える。この者たちは農間稼ぎに炭を仕入れて江戸に扶ちているのである。

松田は炭の生産が盛んだったようで、貞享三年(一六八六)の金手村・山北村・堀之内村(現小田原市)・宮の台村(現開成町)などの村鑑(むらかがみ)を見ると「松田惣領村炭釜手伝人足御用次第出し申候」とあり、炭焼きが盛んであったことがわかる。また大寺村・虫沢村なども炭焼きが盛んに行われていたようである。

一金拾五両也

右は友八炭山仕入金(たし)かに受取り申候、もっとも来る十月中に急度(きっと)五百俵相渡し申すべく候、念のためにかくのごとくに御座候

以上

(文化・文政年間か)九月廿二日

相州大寺村

中津川銀左衛門(印)

白子屋清五郎殿

これは、友八(大寺村の者)の炭山仕入金を確かに受け取った。十月中に必ず五百俵の炭を小田原宿の旅籠である白子屋に納めるというものである。

(上記書137〜138ページより)



松田惣領の位置(「Googleマップ」)
松田惣領は東山家と呼ばれた村々の南に位置し、村内を矢倉沢往還が通じ、継立場としての色合いの濃い村ですが、江戸時代初期には稲葉氏の代の小田原藩の主要な炭焼場であったことが史料に見えています。しかし、史料の日付を良く見ると、惣領での炭焼が盛んであったのは江戸時代初期で、その後は北側の東山家の村々へと炭焼が移っていった様に見えます。あるいはこの地域でも、当初は比較的交通の至便な場所で炭を焼いていたものが、前回見た様な山資源の問題で山奥へと炭焼場が移っていったのかも知れません。実際、前回の引用文中にあった、虫沢村の村民が隣の皆瀬川村にまで入り込んで炭を焼いていた事件も、入会地の炭材の不足が背景にあったと考えられ、炭材の確保が次第に難しい状況に陥っていったことが窺えます。

大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
青線は甲州道、紫は矢倉沢道、赤は東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
ここで掲載されている大寺村の文書の宛先に小田原宿の旅籠である「白子屋」の名前が登場しますが、この旅籠は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中でも、小田原に着いた弥次郎兵衛の台詞の中で「おいらァ小淸水(こしみず)白子屋(しらこや)に、とまるつもりだ」という形で紹介されています。この旅籠について他の記録を見ることは出来ませんでしたが、脇本陣であった「小清水」と共に名前が挙がっている訳ですから、それに匹敵するだけの格式を持っていた、比較的大きな旅籠ということにはなるでしょう。この旅籠が発注した500俵の炭は、恐らく旅籠の業務で使う分が主と考えられます。これが1年分と仮定すると1日当たり平均1俵と1/3程度の炭を1つの旅籠で消費する計算になります。1俵当たりの重さが記されていませんので総重量は計算出来ませんが、仮に小さな4貫(15kg)入りの俵としても500俵で7.5トンになり、1日平均20kg程度を消費する計算です。かなりの量である様に見えますが、宿泊客に出す料理の熱源の他、冬場の暖房に火鉢に入れる分など、旅籠で必要となる局面が意外に多いこと、旅籠に宿泊する客の多さを含めて考えると、これでも年間分としてはギリギリということになるのかも知れません。

これは炭の送付先に江戸以外の宛先が具体的に記された史料としては興味深い一例と思います。大寺村からですと、麓の松田惣領まで運び出せば(この間も中津川沿いに2里以上の距離がありますが)、そこから小田原までは矢倉沢道で一旦関本へ向かい、更に甲州道を南下する経路の継立で運び込めるでしょう。とは言え、1俵の重さ次第で馬1匹に積める俵の数も変わりますが、全体で500俵分となると、何れにせよ延べでかなりの回数馬が往復する必要があるでしょうから、その輸送費だけでも馬鹿になりません。また、9月下旬に受注して10月中に500俵納品完了というスケジュールですから、1ヶ月あまりで全ての業務を完了するにはそれなりに人を雇う必要もある筈です。予め相当額の仕入れ金が支払われているのは、そうした必要経費を充当しないことには、これだけの量の炭焼に対応出来ないから、ということになります。


山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
さて、「風土記稿」山川編に取り上げられた炭焼の村々のうち、東西山家の全16村については、各村の記述の中では炭焼に触れられていませんでした。これに対し、箱根山中に当たる宮城野村については、「風土記稿」の同村の記述にも

農隙には男は炭を燒、女は蓑衣を製して活計を資く、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と記されています。ただ、この村の炭焼の実情については他に史料を見出せなかったため、詳細は不明です。なお、西隣の仙石原村は山奥に位置することと間に仙石原関所がある関係で、通常は炭焼は行っていませんでしたが、弘化2年(1845年)には凶作によって村が困窮する事態となったため、関所に十分一銭を納める条件で一時的に炭焼を行う許可を求めた文書が「神奈川県史 資料編9 近世(6)」に掲載されています(860〜861ページ)。この文書では文化10年(1813年)から3年間炭焼を許可されて困窮時の救いとなったことが記されており、一時的な稼ぎとしてのみ認められていたことがわかります。

もう1箇所、足柄下郡の「土肥山辺」で炭焼を行っていたことが山川編に記されていますが、こちらは「風土記稿」の土肥吉浜村の項に次の様に記されています。

◯土產 △石 △炭土肥鄕中多く燒出せり、都下にて、眞鶴炭と云是なり、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、…は中略、強調はブログ主)


ここで「真鶴炭」という名称が登場しますが、「風土記稿」の真鶴村の項には

◯湊 東西百十五間、南北二百五間、深二丈餘、 東方を港口とす、港とは稱すれど、他國の廻船入津するに非ず、但風浪に逢ひ蹔し港中に泊するのみなり、當今小廻船八艘、石・薪炭 樒、又湯ヶ原温湯等を、都下に運漕す、魚艇五艘俗に生魚船と唱ふ、漁魚を都下に運致するものなり、を置て運漕に便す、海路の里程、江戸へ三十七里、三崎へ十八里、浦賀へ二十三里、下田へ二十六里、網代へ五里、按ずるに、港名古記に見えず、正保國圖に湊と載す、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、強調はブログ主)

とあり、真鶴村の湊が保有する小さな廻船が地元で産出する石の他に、近隣で産出する(しきみ)、湯河原温泉の湯とともに、薪や炭を運んでいたことを記しています。

真鶴村については以前足柄下郡の各村から産出する「石」の産地の1つとして取り上げました。安山岩質の溶岩ドームが海中に突出した形になっている真鶴半島に位置するこの村には、当時は小田原藩主が植えさせた黒松林がありました。今は遷移が進んで広葉樹林になりつつありますが、黒松林は積極的に炭材にするものではなく、「風土記稿」の真鶴村の項でも「林 巽方にあり領主の林なり、」(卷之三十二 足柄下郡卷之十一)とこの黒松林の存在以外には記していませんので、炭材を供給出来る林がなかったのが当時の実態でしょう。従って、土肥吉浜村の記す「真鶴炭」は、飽くまでも積み出し港としてその名が冠されていたことになります。

山川編の

足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、

という書き方では「是を」が指す範囲がその前に登場する村々全てに係る様にも読めてしまうのですが、位置関係から見てもこれは現実的ではなく、土肥吉浜村の記述との整合性からも「土肥山辺」のみを指すと捉えるべきでしょう。とは言え、土肥吉浜村の項の書き方では「真鶴炭」の呼称が江戸で流布していた様に読めますが、実態はどうだったのでしょうか。

この「真鶴炭」の名称が他の文献などに登場する例がないか、可能な限りで探してみましたが、見付けることは出来ませんでした。「湯河原町史 第三巻 通史編」では同町域の炭焼について、地元に伝わる史料を元に6ページほどに渡って記していますが(276〜281ページ)、「風土記稿」に記された「真鶴炭」の名称については触れられていません。同書では文化6年(1809年)の「御用留」の記録を元に、6箇所で全部で27の炭窯を構築し、約10,000俵もの炭を焼いて、山代金120両を入会山のある吉浜・鍛冶屋村に支払ったことが紹介されています。この年には相応の生産規模を誇ったことが窺えますが、実際は炭焼を行う際に根府川関所への願書が必要であったことから、「湯河原町史」では同地の炭焼は断続的に行われていたものと考えられており、その様な状況下では特定の地名が流通時に広く流布する状況はなかなか考え難いところです。

また、最初に紹介した3冊の参考文献のうち、「日本木炭史」では莫大な史料を収集して著されていますが、近世の炭の名称(193ページ)には「相模炭」の名前は書き上げられているものの、「真鶴炭」の名はありません。「木炭の博物誌」には相模国域で産出する炭の名称として「煤ヶ谷炭」「三保炭」が挙げられているものの(214ページ)、やはり「真鶴炭」の名前は出て来ません。無論、まだ探していない書物に登場例があるかも知れませんが、特に「日本木炭史」の様に史料の網羅性の高い文献にすら登場しないとなれば、やはり「真鶴炭」の名が人口に膾炙していた時期が存在したとは極めて考え難いでしょう。

ただ、土肥郷は伊豆に隣接する地ですから、同地の「天城炭」の知名度に対して思うところがあって、それに抗して自分たちの炭を売り込む目的で、石材で著名な積み出し港の名前を炭に冠することを思い付いたのかも知れません。

以上、ここまで津久井県や足柄上郡・下郡などの炭焼の実情を見て来ましたが、これを改めて「風土記稿」の山川編の記述と照して見てみましょう。山川編では足柄上郡の東西山家と宮城野村、足柄下郡の土肥郷の山辺を産地として挙げていましたが、その生産の実情は険しい地形の中から長距離を運び出さざるを得ない制約や、関所の存在などに縛りを受けながら、それでも幕末に向けて次第に生産量が増えていく状況であったことは史料から窺えました。しかしながら、それらの事情の中で産出される炭が、相模国の他の地域、特に前々回に確認した津久井県から産出される炭を差し置いて、相模国の代表的な産物として特記されるだけの特徴を持っていたことを裏付けられる記述には出会わなかったと思います。「山北町史」で一覧化された村明細帳の記述の中には、「白炭」と「鍛冶炭」の名前が見られますので、求めに応じて炭を焼き分けるだけの技量をこの地方も備えていたことは確かでしょう。けれども、そうして出来上がった炭が他の地方から送られてくる炭と比較して特段に優秀であったことを評価する様な記述も見つかりませんでした。

それどころか、足柄上郡・下郡よりも内陸に当たる筈の津久井県の方が、相模川を使った水運を手近に使える分だけ、炭に悪影響を与える陸運の距離を短縮出来ることから、水運が使えない足柄上郡よりも有利な立ち位置にあったとさえ言えます。荒川番所の取り分が5分の1だったのに対し、川村関所の取り分が10分の1と荒川番所の半分だったのも、それだけ山から陸運で運び出すのが困難だったことを領主側も認識しており、こうした事情に配慮していたことを示しています。

足柄上郡や足柄下郡の図説では産物に「炭」が入らなかったにも拘わらず、山川編で改めてこれらの郡の村々が追加されたのは何故なのか、津久井県が産地として取りあげられなかった理由同様に不明です。一連の史料を見る限り、この記述をそのまま当時の相模国の炭の産地の分布として捉えてしまうことには、問題があると言わざるを得ないでしょう。

強いて想像を逞しくするならば、山川編で取り上げられた村々が何れも小田原藩領であったことから、国産方役所の影響を考えてみることは出来るかも知れません。「風土記稿」の編纂に当たっては小田原藩が少なからず協力したと思われること、その結果として産物の記述に少なからず影響が表れたのではないかという見解を以前披露しました。前回見た様に国産方役所は領内の炭の産出についても関与していたことが幾つかの文書に見えていますから、恐らく昌平坂学問所に渡されたであろう領内の産物の一覧には「炭」も入っていただろうと思われます。特に、東西山家の炭の産出については各村の記述にも見えないことから、これらの地の炭焼については国産方役所の様な外部の部署からの情報がなければ、書き加えられることがなかったのではないかと思えます。宮城野村の炭焼や土肥吉浜村の「真鶴炭」も、その過程で山川編で改めて取り上げ直されたのでしょう。

一方、津久井県の村々については幕領として韮山代官所が治めていた期間が長く、文政11年(1828年)に県内の11村が小田原藩領となったものの、太井村(この村は一部が藩領となった)にある荒川番所は引き続き韮山代官所の管轄でした。従って、荒川番所が取り立てていた炭の五分一銭はその後も幕府に納められたことになり、小田原藩は県内の炭の産地を多く所領に得ながらも、国産方役所としては実質的に権限を持ち得なかったことになります。あるいはそのことが国産方から昌平坂学問所へ伝えられた炭の産地の一覧に影響し、結果として津久井県が炭の産地から抜け落ちてしまったのではないか、というシナリオは考えてみることが出来そうです。

さて、ここまで愛甲郡の各村については敢えて触れずに来ましたが、次回はこの村々の炭焼の由緒について見る予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物は、前回の「草綿」から1ヶ月以上間が空いてしまいました。今回から取り上げるのは「炭」です。

  • 山川編(卷之三):

    ◯炭足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、古愛甲郡煤ヶ谷村より年々北條氏に炭を貢せし事、其頃の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て貢せしに、元祿十一年より代永を收む、又近き頃丹澤山にて、燒せられしが今は廢せり、

  • 愛甲郡図説(卷之五十四 愛甲郡卷之一):

    ◯炭寸美◯古煤ヶ谷村より年々炭を貢せし事、北条氏の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、每年六百俵を貢せしに元祿十一年より代永錢を收むる事となれり、近き頃丹澤山にて炭を燒せられし事ありしが、今は廢せり、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


愛甲郡図説に記されている内容と山川編に記されているそれはほぼ同一のものですが、山川編の方には更に足柄上郡や足柄下郡から産出される炭についても記載があります。しかし、足柄上郡・足柄下郡の図説にはこれに該当する記述はありません。

因みに、足柄上郡の「東西山家(やまが)」については、同郡図説中に次の様に紹介されています。

北邊山間の數村を東山家古は菖蒲・八澤・柳川・三廻部・萱沼・彌勒寺・中山・土佐原・宇津茂・大寺・虫澤十一村なりしが、今は萱沼以下をのみ入、七ヶ村と呼べり、西山家皆瀨川・都夫良野・湯觸・川西・山市場・神繩・玄倉・世附・中川九村、近き頃より玄倉以下三村を、新山三ケ村と稱す、と唱へり、按ずるに、川村山を隔てたれば、東西山家の名を唱ふるなるべし、

(卷之十二 足柄上郡卷之一)


東西山家の村々
東西山家の村々:赤が東山家、青が西山家
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この記述を踏まえ、現在の地形図上でこれらの村々をプロットすると御覧の様になります。少々領域が広く、かつ東山家の村々が比較的狭い地域に集中しているため、地図を3分割して縮尺を変えています。「東山家」7ヶ村は明治9年(1876年)に合併して(やどりき)村となり、昭和30年(1955年)に松田町と合併後も引き続き「寄」を名乗っていますが、現在の地形図上では江戸時代の村名が字として別途記されているため、この地図ではその位置にマーカーを打っています。「風土記稿」では過去には菖蒲・八澤・柳川・三廻部(みくるべ)の4村(現在は何れも秦野市、上記7ケ村の東隣の地域)も「東山家」のうちに入っていたことを記していますが、「風土記稿」編纂時点ではこれらの村々は外れていたとしているため、地図には反映しませんでした。「西山家」の9ケ村は現在は何れも山北町に属していますが、酒匂川沿いに存在した川村(岸・山北)の北側の山岳地帯を指すものであったのだろうと「風土記稿」では推測しています。

言うまでもなく、ここで言う「炭」は「木炭」を指します。基本的には木を密閉状態で加熱することによって揮発成分を飛ばして炭化を進めることによって作ります。江戸時代の日本では化石燃料の利用はまだ一般的ではありませんでしたから、当時の燃料の主力はほぼ植物に由来するものでした。「炭」はそれらの中でも「薪」と共に当時の燃料の中心的な存在であったと言って良いでしょう。今回は「風土記稿」の表記に合わせる意図で、専ら「木炭」の意で「炭」で表記を統一します。


「風土記稿」に記された村々の当時の「炭」の生産の実情を見る前に、まずは江戸時代の炭の生産や使用の状況を全般的に確認するところから始めたいと思います。今回は参考文献として次の3冊を参照しました。

  • 新装版 日本木炭史」 樋口 清之 著 1993年 講談社学術文庫1076(以下「木炭史」)
  • ものと人間の文化史71 木炭」 樋口 清之 著 1993年 法政大学出版局(以下「ものと人間」)
  • 木炭の博物誌」 岸本 貞吉 著 1984年 総合科学出版(以下「博物誌」)

このうち、最初の2冊は共に「日本木炭史」(1957年 全国燃料会館刊)から派生した著作であることが、それぞれの「はしがき」に記されています。史料類がある程度残されているのは前者の方ですが、後者には後日執筆された史話が追加されているため、ここでは両者を適宜使い分けることにしました。基本的には半世紀以上前に編まれた著作が基本となっているため、上記の出版年よりも内容がかなり古いことになりますが、書き下ろしが主体となっている法政大学出版局の「ものと人間の文化史」のシリーズに、1962年に出版された「木炭の文化史」(東出版)が解題されてそのまま再出版されたことから見ても、その後この著書に大きく追加するべき研究成果もあまりないものと見え、実際適切な類書を見付けることが出来ませんでした。「木炭の博物誌」は著作時点の話が中心ですが、各地の炭の種類の紹介などで参考となる記述があったため、併せて参照することにしました。

これらの書物で紹介されている話の中には色々と興味深い話も多いのですが、話が膨らみ過ぎてしまいますので、ここでは「風土記稿」に記された話を検討するのに必要な点に絞って紹介したいと思います。

炭は古代から利用されてきたことは確かで、奈良東大寺の大仏の鋳造に際しては16,656石もの炭が使われたことが記録されるなど、金属や皮革、漆などの加工業で盛んに用いられていたことが記録に残っています。鎌倉時代に入ると炭が流通に乗る様になり、鎌倉幕府が建長5年(1253年)10月11日と翌6年10月17日に炭をはじめ薪、藁、糠などの燃料や飼料の価格統制に乗り出したことが「吾妻鏡」に見られることから、既にこの頃から炭の価格が幕府のまつりごとの課題として取り扱われていることがわかります。鎌倉の滑川下流の「炭売川」の異名が、「鎌倉七座」の1つである「炭座」が同地に存在したとされることと関係付けられていることからも、当時から炭の流通が盛んに行われていたことが窺えます。ただ、その産地など具体的なことは史料からは明らかにならない様です。もっとも、鎌倉時代にはまだ炭は消費地の近傍で生産されるのが中心で、あまり長距離の移動は行われていなかった様です。

炭の生産地から消費地への移動が盛んになってくるのは、軍需などの目的で大量に炭が必要となった戦国時代に入ってからで、この頃になると馬や舟を使って輸送を行った記録が残る様になります。それまでは炭を「籠」に入れて運んでいましたが、遠距離を効率良く運ぶために「炭俵」が使われる様になったのもこの頃です。但し、この頃でも生産地と消費地の距離はまだそれほど長いものとはなっていなかった様です。

とは言え、戦国時代には江戸時代に見られる炭の利用法がほぼ定着してきた時代に当たり、生活の中で、あるいは武器の製造のために必要な熱源としての利用も多様化し、更に茶の湯の普及が日本の炭を独自に発展させるのに大きく寄与しました。

中世において日本の炭が世界一の品質をもつに至ったのには、茶の湯が大きな役割をはたしていることは先にも述べた。茶道は足利義政の佗茶趣味によって独立の芸道にすすめられて以来、戦国大名の間にも流行し、千利休によって完成をみた。茶は炭を重要な要素として成立する芸道であって、炭の形、色沢、質、熱質の吟味を重んじた。炭の文化史上において、茶道のもつ意義は特に忘れることができないのである。しかも茶の趣味はやがて日本人の日常生活にとけ込み、食事の習慣、礼法、調理、起居に至るまで影響を与えたので、日本人の生活と炭とをいっそう離れない関係にしていった。…炭の形・質・組み方・火相などを観賞することは、世界中で日本の茶道だけであり、炭はここにりっぱな芸術として扱われているのである。

(「ものと文化」61〜62ページより、…は中略)


江戸時代の炭はこうした時代を受けて更に一般に普及し、飛躍的に消費量が増えていくことになりました。特に江戸や大坂の大都市圏での炭の消費量は膨大なものへと膨れ上がって行きました。

近世における二大消費都市である江戸と大坂は、いうまでもなく炭の自給ができないので、すべて他の地方から運ばなければならなかった。文久年間(十九世紀後半)ころ江戸の炭の入津高は年平均二三八万三六八〇俵(『諸色直段引下』)、天保十二年(一八四一)に大坂の炭の入津高が一八一万八〇〇〇俵(『南北堀江誌』)に達したというから、いかに大量の炭が両都市へ年々運ばれたかが知られる。…江戸への炭の仕出国としては、古くから一二カ国(武蔵・伊豆・相模・駿河・甲斐・遠江・常陸・上野・下野・上総・下総・安房)があげられた。大坂へは、日向・土佐・豊後・阿波をはじめ、摂津・河内・和泉・紀伊・伊予が、おもな仕出国であった。これらのうち陸運によるものと水運(海・河)によるものとがあったことは説明するまでもない。諸国の中小都市や純農村においても、これを小規模にして同様のことがおこなわれた。

(「ものと人間」119〜120ページより)


「江戸名所図会」巻9「国分寺村炭かま」
江戸時代の炭焼きの様子を描いた絵図は意外に少ない
「江戸名所図会」巻九「国分寺村 炭かま」の図
武蔵野の雑木林も炭の供給地であったことが窺える
因みに「新装版 日本木炭史」の表紙カバーも
この絵の一部を使っている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸や大坂以外の消費量については推測するしかありませんが、特に城下町や宿場町など、町人の比率が高い地域を中心に炭の消費は多くなったでしょうし、金属の加工や窯業、更に漆器でも研磨用に炭が用いられるなど、産業分野でも炭の用途は多数存在しました。従って全国では江戸や大坂の何倍もの炭が年々消費されていたことは確かでしょう。

こうした大規模な消費地へは専用の炭船を使った水運が中心となりました。とは言え、産出地の多くは水運に不向きな山中にあることから、水運がある場所までは陸送せざるを得なかった訳ですが、陸送ではどうしても揺すられる時間が長くなることから炭俵から炭が抜け落ちて目減りしてしまう難点があり、伝馬では敬遠される存在だった様です。他方、海上では炭が水を被る可能性もあり、そうした課題に対応する意味でも炭俵の形状が次第に工夫される様になりました。

相模国の炭もこうした江戸の旺盛な炭の消費を下支えする地域の一角を成した訳ですが、江戸への供給地の中でもとりわけ名高かったのは、天城(伊豆半島)と佐倉(現:千葉県佐倉市)の炭でした。

佐倉炭・久留里炭 上総・下総(今の千葉県)の地方も、近世の炭の産地として知られた。なかでも佐倉炭と久留利炭とは、茶用炭として有名であった。佐倉炭は「性和にして疾火興る」(『松屋筆記』)といわれ、久留利炭は、池田一ノ倉炭に次いで日本で第二位の炭とさえいわれた(『本朝食鑑』『和漢三才図会』)。『佐倉風土記』にも、佐倉炭は千葉、埴生両郡の際に産出し、茶炉用によく、池田炭に似るが、ただ香気を欠くだけであると説明してあって、良質であることを讃えている。

江戸における佐倉炭の値段は、下り炭(熊野・田辺炭)などにくらべてきわめて安いが(上炭新価一俵四六〇文、佐倉上炭一俵一三五文。『天保十三年物価書上』)、佐倉炭は江戸に近いので、運賃などの関係で安かったと思われる。佐倉炭は初め領主堀田家が専売し、のちに千葉の炭問屋に依託して江戸へ出荷させたので名をひろめた。この移出は享保年間(十八世紀初め)に始まっていて、古い歴史をもつ。一般に佐倉炭の初めは、寛政五年(一七九三)に富塚村の川上右仲が藩に建議して、(くぬぎ)林輪伐法をおこない、相模から製炭技術を輸入してつくったといわれるが(『千葉県印旛郡誌』など)、これはそれまでの下総炭の改良を指したものと考えられる。佐倉炭の名も、佐倉で生産されるのではなく、堀田家の領内の村々でつくられ、佐倉へ集荷して、千葉から江戸へ送ったのでそうよぶのであって、下総炭の総称といってもよい。 (67〜68ページ)

伊豆・天城炭 天領である天城山を中央にもつ伊豆国は、伊豆といえば天城炭が思い出されるように、天城炭の産地であった。天城炭は、天城山林の用材でつくり、御用炭とよばれて、江戸で知られた高級炭である。『松屋筆記』には、いま江戸で用いる炭の中で天城炭は上品(じょうひん)であり、これは堅炭で石窯を築いて焼く、と説明してある。天城炭の起こりは、安永二年(一七七三)ともいわれるが(『嬉遊笑覧』)、天城御用炭請負人儀兵衛の願書(嘉永二年、『江川文童』)によれば宝暦年間(十八世紀なかば)と記されている。そのころ伊豆の山本文之右衛門という人が紀州熊野地方へ行き、三年間炭焼の業を習ってきて始めたことが古記にみえるという(『静岡県林産物』)。

しかし伊豆地方の製炭は、すでに近世前期からおこなわれており、田方郡狩野村吉奈の点検書には、寛文九年(一六六九)ごろ村民が広漠たる原野を薪炭用材に供しようとして樹木を植えたのが、棚葉山官林となったことを伝えている(『静岡県之産業』)。天城山から年々六五万貫(一〇万俵)の御用炭が生産された。また天城山以外でも各地で炭が焼かれ、農閑期の副業とされた(『一話一言』)。 (70〜71ページ)

(以上「ものと人間」より)


天城と佐倉の位置
参考:天城と佐倉の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
特に天城炭の場合、江戸時代の幕府の「御林」は建材用途が主であったのに対し、この天城山の御林の場合は製炭用の雑木林が用いられていたという点で異例の存在であったと言えます。この「御林」は勘定奉行から韮山代官所に申し渡されて厳重に生育状況を管理され、伐り出された雑木は請負人に無償で提供される代わりに、炭の売上高から所定の運上金を幕府に納める必要がありました。江戸幕府が自らこの様な施策に乗り出した背景には、増大する江戸の炭需要を確保するとともに、その価格の安定という目的がありましたが、他方でこの「御用炭」は江戸城の「御風呂屋炭」として活用される側面もありました。こうした領内の炭の産出に関して領主が強く管理する例は「木炭史」で多数挙げられています(第三章第一節第六項「諸藩の製炭管理」)。

他方で、上の文中でも指摘されている様に佐倉炭が相模から技術指導を受けて改良を図ったと伝えられていますが、「博物誌」では「佐倉付近の炭やきやさんたちが改良したものであろう。」(204ページ)と、必ずしも相模国での炭焼技術がそのまま伝わったものとは見ていない様です。とは言え、少なくとも相模国が当時炭の産地として先進的な存在であったことは確かな様です。次回からこの辺りの事情を各種史料をもとに確認していく予定ですが、まずは相模国全体の炭の生産事情を見るところから始めたいと思います。

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【旧東海道】その14補足:小田原大海嘯にまつわる史料2点

以前明治35年(1902年)9月の「小田原大海嘯」についてこのブログで取り上げたことがあります。これに関連して、ネット上で公開されている史料を2点ほど見付けたので、補足として紹介しておきたいと思います。

1つは「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されている「明治三十五年九月二十八日神奈川県下暴風海嘯被害記事」です。奥付によれば「神奈川県測候所」が同年の11月14日付けで発行したもので、全28ページほどの簡潔な冊子ですが、非売品とされており、この冊子が何処に向けて配布されたものかは不明です。検索出来た範囲内では、神奈川県立図書館や県下の公共図書館では蔵書しているところはない様です。

以前の記事では「神奈川県災害誌(自然災害)」(横浜地方気象台監修 1971年)を引用しましたが、特に天気図や浸水地域図はこの冊子のこちらのページに掲載されている図と良く似ており、恐らくこの冊子を参照して作成いるものと思われます。この冊子にはまた、9月26日午後10時から29日午後11時までの気圧・気温・風向・風速・雨量・天気のデータ被害の一覧表が掲載されています。この一覧表も、「神奈川県災害誌」に掲載されているものと共通です。その他の著述部分も共通する部分が多いので、恐らく「神奈川県災害誌」がほぼ全面的にこの冊子に依存して該当箇所の記述を進めたのでしょう。


また、この冊子には「附・明治三十五年九月五六両日 神奈川県下小田原以西沿海激浪記事」と題し、小田原大海嘯の直前にやはり小田原沿海を襲った高潮被害についても併せて記されています。この時もやはり死傷者を出す災害となったことは以前の私の記事でも触れましたが、記事ではこの高潮の原因となった台風(この冊子では単に「低気圧」とだけ記されていますが)が8月31日頃に小笠原諸島を経て本土へと向かったものであったこと、そして来る台風に備えて小田原沿岸では急遽防波堤の修築を試みていたものの、功を奏しなかったことが記録されています。

もう1つの史料は、「土木学会附属土木図書館」で公開されている「土木貴重写真コレクション」です。ここには「小田原大海嘯」の被災各地の20枚の写真が掲載されています。

「土木貴重写真コレクション」に見える地名
「土木貴重写真コレクション」に見える地名
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この20枚が撮影されたとする地点をおおよそで地図上でプロットしました。複数枚撮影された地点もありますので、全部で12地点に留まっていますが、相模湾西側の幅広い地域に及んでいることがわかります。

これらの写真の中には鉄路が写っているものが少なくとも6枚(他に「山王原」2枚目にも線路らしきものが見える)含まれています。このうち、「国府津橋」(今の「親木橋」か、地形から西から東を見る構図)と「酒匂村」の2点は小田原電気鉄道のものでしょう。馬車鉄道から電気鉄道に切り替わったのが明治33年(1900年)ですから、その翌々年に損害を出したことになります。他方、「石橋」(2枚)「吉浜」「土肥村門川」の3点に見える軌道は「豆相人車鉄道」のものでしょう。この鉄道は明治28年(1895年)に熱海〜吉浜間で開業、翌年小田原までの延伸を果たしましたが、これは小さな客車を人が押して進むというものでした。どちらも海岸近くを進む江戸時代からの街道に併用軌道として敷設されていたため、高潮を被りやすい地域を進む区間が長くなり、その結果被害箇所が増えたと言えるでしょう。

特に「酒匂村」や「門川」の写真では、鉄路があらぬ方向にねじ曲げられているのが見て取れます。傍らの電柱(恐らく架線柱兼用)も同じ方向に倒れかかっていますから、架橋部分で高潮の強い水圧に押されて曲がってしまったものと思われます。「石橋」の1枚目の写真では路盤が大きく削られて線路が宙にぶら下がってしまっており、他にも地盤を削られたと思われるものや、家屋が歪んでしまったものが多数見られることからも、当日の高潮の威力が窺い知れます。

当日の様子を描いた「小田原大海嘯全図」と共に、この災害の実情を伝える貴重な写真と言えるでしょう。




2015年9月のストリートビューに見える
江の島弁財天道標
P.S. 以前お伝えした遊行ロータリー交差点の「江の島弁財天道標」ですが、先日新たにガイドが設置されたそうです。

遊行ロータリー交差点江の島弁財天道標 #藤沢キュン : 全部假的


今回はしっかりした内容の説明が付けられており、更に英語の説明が付記されました。

また、ストリートビューの方は2015年9月の撮影分が追加され、復旧された道標が確認出来ます。なお、交差点の形状が変更された影響で、前回までのストリートビューと完全に同じ場所で比較することは出来なくなっており、右のストリートビューは道標が見えやすい位置に移動させています。
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蜜柑について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

梅園草木花譜夏之部「橘(ミカン)」
「梅園草木花譜夏之部」より「(ミカン)」の花の図
花の右側に、箱根の関の北では育たない旨の記述がある
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に記された「蜜柑」について見ていきます。今回はまず、江戸時代の小田原藩領の村明細帳に見られる蜜柑の貢税について紹介します。

柿については、稲葉家が小田原藩主だった時代に大和柿や小渋柿を貢上させていたことを以前紹介しました。これと全く同様に、蜜柑についても領主の検分の上で貢納していた記録を、小田原藩領の村明細帳に幾つか見出すことが出来ます。今回も私が見出し得た範囲での記述を挙げますが、他にも事例があるかも知れません。ただ、柿に比べると件数が大分少なくなっています。

  • 足柄上郡壗下(まました)村(現:南足柄市壗下):

    貞享三年(1686年)四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、「南足柄市史2 資料編近世(1)」228ページ)

    一蜜柑 毎年御見分ニ而代永上納、五分上納仕、五分木主被下候、

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):

    貞享三年四月(十二日) 足柄上郡西大井村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」466〜467ページ)

    一蜜柑御見分之上五分指上、五分木主て□

    一上蜜柑御菓子上り、外代物て指上申候、

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):

    貞享三年四月(十一日) 足柄上郡山北村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」492ページ)

    一蜜柑御見分之上五分差上ヶ五分木主被下候、

    上蜜柑御菓子上り、外ハ代物ニ而差上ヶ申候、

    永壱貫文上蜜柑六千替/中蜜柑七千替/下蜜柑九千替此直段ニ而永納仕候、

    一柑子御運上毎年鐚銭弐貫六百三拾弐文/但シ、枯木御座候得御引被遊候、納申候、

  • 足柄下郡曽我谷津村(現:小田原市曽我谷津):

    貞享三年四月 足柄下郡曽我谷津村明細帳(田畑指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」502ページ)

    一蜜柑木数年〻御改被遊、蜜柑なり申候得、御見分之上御運上ニ而上納仕候、

  • 足柄下郡新井村(現:足柄下郡湯河原町福浦):

    貞享三年 足柄下郡新井村明細帳(「神奈川県史 資料編5 近世(2)」540ページ)

    一蜜柑之木大小八本、内四本苗木、

    此御年貢毎年御見御割付次第指上申候、

  • 足柄下郡真鶴村(現:足柄下郡真鶴町真鶴):

    寛文十二年(1672年)七月 足柄下郡真鶴村明細帳(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」451ページ)

    一 蜜柑御年(貢)、毎年御検見次第指上ケ申候、

    但、年ゟ御菓子・蜜柑被仰付出し申候、

(それぞれ引用資料中で変体仮名が使用されている場合は小字に置換、一部改行を「/」に置き換え)


「蜜柑」の貢税について記された村々の位置
上記明細帳の村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

ここで挙げた6村のうち、上4村は大和柿・小渋柿の貢納についても記載がありました。壗下村と西大井村は柿渋も納めていましたから、かなりの品目が貢税として課せられていたことがわかります。

もっとも、壗下村と山北村に関しては永銭で代わりに納めたことが記されています。また、西大井村も「代物」で一部を納めたことを記しており、必ずしも蜜柑の現物を納めていないことがわかります。これは、この貢税の性質を考えると少々不思議です。

大和柿や小渋柿の貢税については、当時の藩主であった稲葉正則の「永代日記」に、藩領内の各地域に役人を派遣して検分を行った上で貢納分を決めていたことが記されていました。これと同様に、蜜柑についても派遣した役人の名前が、「永代日記」の寛文元年(1661年)9月21日の記述に見えています。

一 当秋蜜柑検見之者共

土肥筋へ沖田惣左衛門/有沢平太夫 西郡へ小俣長右衛門/福家五右衛門

右之通被 仰出候付、今晩小田原へ申遣之、

(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」273ページより)

何故か派遣先が藩領全域ではなく、藩領の西側に限定されていますが、上記の村明細帳には東筋、つまり酒匂川の東側や、中筋と呼ばれた酒匂川と支流の狩川の間に位置する村も含まれていますので、「永代日記」の記述がたまたま西筋に役人を派遣した時のもので、他の地域には他日別途派遣が行われたのかも知れません。


大和柿や小渋柿の際にはその後納められた柿を江戸屋敷などに配分した記録がありましたが、「神奈川県史」などの採録された範囲では蜜柑について同様の配分がなされた記録は収録されていませんでした。ただ、上記村明細帳の中に「御菓子」という表記が見えることから、この蜜柑が大和柿や小渋柿同様茶の湯の席に供される目的で徴収されており、その点から推測すると恐らく蜜柑についても同様の配分は行われたのではないかと思われます。

こうした手間を掛けて蜜柑を手に入れようとしているにも拘らず、金銭での貢納で済まされているというのは些か妙です。江戸時代後期には漆や柿渋などの小物成の貢納が形式化して代永で納められている例が多数ありますが、この蜜柑の場合はそうした形骸化の例には当たらないのではないかと思います。私の個人的な見立てですが、村明細帳の中に「上蜜柑」「下蜜柑」といった品質に関する表記が見えることから、恐らくは、茶の湯の席に供するに足りる品質の蜜柑が十分に確保出来なかった村に代永を命じたのではないかと考えられます。そうであるとすると、村々には予め必要とする蜜柑の質や量について割り当てが行われ、その目標に達しているかどうかを逐一チェックされていたということになるのかも知れません。

そして、この蜜柑の貢納も、大和柿や小渋柿同様、 元禄2年(1689年)に藩主大久保忠朝が中止の触書を出しました。改めてその際の触書を掲げます。

蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより再々掲、強調はブログ主)


梅園草木花譜夏之部「柚」
「梅園草木花譜夏之部」より「柚」の図(左)
枝の特徴的な長い刺が描写されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
蜜柑と一緒に「柚子」の貢納が中止されているのですが、私が見ることが出来た村明細帳の中には柚子の貢納について記したものは見当たりませんでした。しかし、こうして大和柿や小渋柿共々貢納廃止となった経緯から見て、やはり蜜柑と同様に役人を派遣して質を見極めた上で貢納させていたのでしょう。柚子の場合は流石に茶菓としてそのまま供されることはなかったのではないかと思いますが、祝宴など何らかの形で客をもてなす際に利用したのでしょうか。何れにせよ、江戸時代初期から蜜柑と一緒に柚子が小田原藩領で栽培されていたことを示す史料の1つであることは確かです。



さて、「風土記稿」の記述には「領主より公に献呈せり」といった記述が幾つか見られます。これは小田原藩から幕府に対して献上された品々の中に蜜柑が含まれていたことを指しています。

江戸幕藩大名家事典」(小川恭一編著 1992年 原書房)では、文政年間の「八冊武鑑」を元に各藩からの「時献上」の品々を書き上げています。「時献上」とは「大名・交代寄合・付家老の家々が、毎年封内の名産を定時に献上すること」(同書下巻139ページ)ですが、小田原藩からは

正月3日御盃台竹箏岩藪柑子、2月粕漬鮑、暑中粕漬小梅、干鰺、9月里芋、11月甘鯛披、寒中蜜柑、在着御礼箱肴

(上記書中巻239ページより、強調はブログ主)

といった品々が幕府に献上されていたとしています。また、小田原藩の支藩として天明年間に愛甲郡に成立した荻野山中藩からも、

正月3日御盃台竹に藪小路、9月10日薯蕷、11月12日蜜柑、在着御礼干鯛

(上記書中巻236ページより、強調はブログ主)

と、やはり蜜柑を献上していたことが記されています。


荻野山中藩の陣屋跡地は一部が公園になっている
ストリートビュー
愛甲郡に属する村々での蜜柑の生産に関する江戸時代の記録は見つかっておらず、その後も同地で蜜柑の生産が盛んに行われる様になったという話もありません。その点では荻野山中藩の蜜柑の貢納は不自然ではありますが、恐らくは支藩として小田原藩から蜜柑の提供を受けていたのでしょう。余談ですが在着御礼の干鯛も海のない同藩の産物としては考えられませんから、やはり同様に小田原藩からの提供があったと考えられます。本来は領内の産物を献上するものであったとは言え、実際は領内では産出しないものを献上する例は当時多々あったことで、荻野山中藩としても献上に足る質の品々を確保するために小田原藩の助力が必要だったということでしょう。

一方の小田原藩の方も、稲葉家の時代には領内各地から徴収していた柿については幕府への献上品とはしていなかったのに対し、蜜柑については江戸時代後期に献上していた記録がある訳です。大和柿や木練柿ではどうしても近畿圏の「本場」に敵わなかったのに対し、蜜柑は前回も紹介した通り古代に朝廷に貢いでいた記録もあることが、献上品の選定に当たっての判断に影響したということなのでしょうか。因みに、紀州徳川家からは毎年9月に大和柿と蜜柑が2度づつ幕府に献上されていました(上記書575ページ)。

ともあれ、こうした献上品のための蜜柑も領内から調達する訳ですから、その負担は引き続き領内の村に課せられていたことになります。但し、「風土記稿」の記述から考えると、稲葉氏の時代の様に領内隈なく役人が良品を捜し廻るという運用ではなく、前川村など特に良品が出やすい村から調達する運用に変えられていたということになりそうです。

次回、もう少し蜜柑についての話題を取り上げます。

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蜜柑について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物、今回から「蜜柑」を取り上げます。ここまで果樹またはそれに類するものとしては、梅、桃、鹿梨、梨、柿を取り上げて来ましたが、この蜜柑が果樹としては最後ということになります。

「風土記稿」上で蜜柑の産地として名の挙がった村々
「風土記稿」上で蜜柑の産地として名の挙がった村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
  • 山川編(卷之三):

    ◯蜜柑足柄上郡三竹山村・川村岸村二村の產、同下郡前川村の產をも名品とす、其邊の村々最多し、又同郡石橋・米神・江ノ浦・土肥宮上四村の邊にも產す、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯蜜柑三竹山・川村岸二村の產、三竹山村より產するをば、年々寒中、領主より官へ獻納す、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯蜜柑、前川村の產を名品とし、其邊の村々最多し、又石橋・米神・江ノ浦・土肥宮上四村の邊にも產す、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、なお同書の「山川編」では「土肥・宮上」としているが、編集上の誤りと認められるため上記ではナカグロを除去した)


山川編」と両郡図説の記述の間では、三竹山村の献納の記述が「山川編」の側に含まれていないこと以外は整合性が取れています。

他方、村里部の記述を見て行くと、
  • 川村岸(卷之十六 足柄上郡卷之五、現:足柄上郡山北町岸):

    村内蜜柑を產す、

  • 三竹山村(卷之十八 足柄上郡卷之七、南足柄市三竹(みたけ)):

    當村蜜柑を產す、寒中公に獻備すと云、

  • 前川村(卷之三十七 足柄下郡卷之十六、現:小田原市前川):

    ○土產蜜柑 土地に應するを以て、戸々多く植、寒中領主より公へ貢獻す、此邊村々種植すといへども、當村の產を上品とす、按ずるに、延喜式にも.當國例貢の品物に甘子あり、宮内式曰、諸國例貢御贄、相模、甘子橘子、右例貢御贄、直進内裏、其甲斐相模信濃太宰等、返抄申官行下、自餘諸國、省與返抄、

  • 石橋村(卷之三十一 足柄下郡卷之十、現:小田原市石橋):

    產物には蜜柑・靑芋俗に里芋と云、の兩品あり、共に領主より公に献呈せり、中にも芋は尤土地に應じ、其味佳なりと云、

  • 米神村(卷之三十一 足柄下郡卷之十、現:小田原市米神(こめかみ)):

    ○土產 △蜜柑 △根府川石…

  • 江ノ浦村(卷之三十一 足柄下郡卷之十、現:小田原市江之浦):

    ○土產 △蜜柑 △石…

  • 土肥宮上村(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、現:足柄下郡湯河原町宮上):

    ○土產 △樒… △蜜柑

(…は中略)

こちらも「山川編」や足柄上郡・下郡図説の記述に現れる村々には蜜柑に関する記述が多少なりとも含まれています。ここで現れる村の数は柿に次いで多く、その点では柿に次いで重要な果樹であったと見て良いでしょう。

本草図譜巻六十五「紀伊国みかん」
「本草図譜」より「紀伊国みかん」
同書には他にも柑橘類が多数掲載されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
これまでの記事の例に倣って、まずは本草学の記述を見るところから始めましょう。「大和本草」では次の様に紹介します。

(タチハナ・ミカン) タチハナと訓すミカンなり其花を花タチハナと古歌によめり南方溫煖の地及海邊沙地に宜し故紀州駿州肥後八代皆名產也共に南土なり紀州の產最佳北の土及び山中寒冽の地に宜からす本邦にて北州無之朝鮮亦然本草に實をうへたるは氣味尤まさると云へり諸木皆(つき)木より實うへの木實の味よく材に用にもよし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナは名を除きひらがなに置き換え)


一方、「本草綱目啓蒙」では次の様に記します。

ミカン

〔一名〕…

柑はミカン類の總名なり品類多し皆暖地の産にして寒國には育し難し紀州の産を上品とす其獻上の柑は有田の産なり京師にては好柑を何れにても皆紀伊國ミカンと僞り呼べとも眞の紀伊國ミカンは有田の産のみにして卽集解の乳柑なり形大にして柚の如く皮も常柑より厚して肌粗なり皮内の白脈少くして皮と穰と自ら分離す味甘して酸味少し核少全く核なき者もあり凡そ上品の柑橘は核なし核多き者は下品なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナは名を除きひらがなに置き換え、…は中略)


用いられている漢字は異なりますが、どちらも温暖な地域で良く育つことを記している点が共通しています。その点では相模国は蜜柑の産地としては北寄りということになるのですが、そのことを反映してか、「風土記稿」に記された産地の村の大半は相模湾沿いに位置しています。残りの三竹山村、川村岸も地形を見る限りでは比較的日当たりを望める土地が多そうで、が丹沢山中の村々まで産地として挙げられていたのとは違う傾向を見せています。


その点は、江戸時代初期の代表的な農書である「農業全書」でも

○又柑類ハ寒気をおそるゝゆへ、うゆる所西北の方を高くして、竹などをうへ、風寒をふせぐべし。寒気の甚つよき所ならバ、棚をかき、おほひをし、二月ハ去べし。大木ハ棚をつくる事、なり難し。木の廻りに、(ぬか)を多く置、柴や枯草、わらなどにて、(しんぼく)を巻包ミ又ハ芦の筵などにて木をゆるく巻、其間に(すりぬか)を入るもよし柑類ハ、山家其外寒気つよき所にてハ、何程ふせぐ用意しても枯る物なり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 171ページより、ルビは一部を除き省略)

と、日当たりの良い場所を選んで植え、寒気に対する対策を十分施す様に記しています。偶然の一致かも知れませんが、「風土記稿」で挙げられた村々は何れも北や西側に山を背負う地形になっています。

但し、「風土記稿」の前川村の記述に見られる通り、「宮内式」つまり「延喜式」(平安時代中期)には相模国からの貢物の中に柑橘類があったことが記されており、更に天平10年(738年)の「駿河国正税帳」に「相模国進上橘子」と相模国からの貢進物に橘子が見られるなど、この地での柑橘類の栽培の歴史は意外に古いことがわかります。もともと蜜柑は温暖な地域から入ってきたと考えられるとは言え、相模国にまで及んだのもかなり古い時代のことであったのだろうと思われます。

また、「大和本草」では「海邊沙地」を適地としています。確かに蜜柑は砂地などの水はけの良い栽培地を好む傾向にあり、その点では富士山や箱根火山の火山灰質の土地が広がる地域に「風土記稿」で取り上げられた村々が入っているのも、無関係なことではないと言えそうです。

因みに、「大和本草」でも接木についての記述が見えますが、「農業全書」でもかなり詳細に柑橘類の接木の手順が紹介されています。また、虫が付いた場合の退治法や施肥の方法などが記されており、江戸時代初期には柑橘類の栽培法がかなり確立されていたことが窺えます。

次回は小田原藩領で見られる蜜柑に関する史料を紹介する予定です。



本草図譜巻六十五「柚」
「本草図譜」より「柚」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「風土記稿」では取り上げられなかった柑橘類の話を補足として少々差し挟みます。

「大和本草」では、上記の「橘」の他に取り上げられた柑橘類は「金橘」「(クネンボ・カウジ)」「柚」「(ダイダイ)」「佛手柑」「朱欒(ザンボ)」が紹介されており(リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」上の該当箇所)、「農業全書」でも

蜜橘の類色々多し。(くねんぼ)()(だいだい)包橘(かうじ)枸櫞(ぶしゆかん)金橘(きんかん)、此外、夏蜜橘、じやがたら、じやんぼ、すい柑子、此等の類九種漢土より取来る事、日本紀に見えたり。中にも(ミかん)取分賞翫なり。

(上記同書168ページより)

と、多彩な品種が紹介されています。しかし、「風土記稿」では柑橘類で取り上げられたのが「蜜柑」だけであり、他の品種については記されていません。元より蜜柑以外の柑橘類には更に温暖な気候を必要とする品種が多く、相模国の産物として取り上げられる程の生産量を見なかったということかも知れませんが、実際には蜜柑同様に比較的寒さに強い柚子が栽培されていた様です。

この柚子がもとになって生まれた小田原の銘菓「ゆず餅」について、「小田原市史 通史編 近世」では次の様に由緒を記しています。

小田原の銘菓の一つに「ゆず餅」という、甘酸っぱい熨斗(のし)状にのばした和菓子がある。いっぱんには「ゆべし」と呼んでいる。「ゆず餅」は梅干しを商う「ちんりう」の祖、小峯門弥が考案したが考案した和菓子である。小峯門弥はもと西村門弥といい、れっきとした小田原藩士であった。西村家は代々小田原藩に仕えた料理人で、門弥の祖父津右衛門が、たわわに実った自庭の柚子の香にヒントを得て「ゆず」を利用した和菓子を考案した。ただし、津右衛門の製造したものは餅にゆずを絞っただけのものであり、藩主の所望に応じて作られた。それを商品化したのが門弥であった。門弥は「ゆず餅」の製法を改良し、「ゆず砂糖漬」「ゆずまんじゅう」など馥郁(ふくいく)とした香りを活かす工夫をした。安政元年(一八五四)、門弥はペリー一行の来航の際に料理人の一人として江戸に赴くが、早々に小田原へ戻り、「ゆず」利用の改良に取り組んだ。門弥の製造した「ゆず餅」は藩主大久保忠礼(ただのり)より賞賛され、徳川家への献上品ともなったという。以後、「ゆず餅」は長期間保存できる菓子として明治以降普及することになる。

(上記書493〜494ページより)


小峯門弥が活躍したのが幕末のペリー来航前後のことであったことから、「風土記稿」が編纂される天保の頃よりはもう少し時代が下っており、産品として掲載されるには時代が噛み合わなかった訳です。とは言え、その先々代の頃から小田原藩の料理人が藩主の求めに応じて柚子を使った餅を作っていたということからも、量はともかくも藩主の愛好する味覚の1つであったことは確かな様です。

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