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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

柿について:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回は、相模国内の江戸時代の柿渋の貢税の実情を見ていきます。

以前漆を取り上げた際にも、小田原藩領内の各村から漆の貢税の記録が多数見つかることを紹介しましたが、同じ頃に柿渋も貢税の対象となっていたことが、各村の村明細帳の記録から明らかです。今回もかなり長くなりますが、私が確認出来た村明細帳をひと通りリストアップしてみます。まだ遺漏はあると思いますが、御容赦下さい。

  • 寛文12〜13年(1672〜73年):
    • 足柄上郡:
      • ◇菖蒲村(現:秦野市菖蒲):寛文十三年 菖蒲村明細帳([秦]156ページ)

        一柿渋弐斗六升 毎年上納仕候。

      • ◇柳川村(現:秦野市柳川):寛文十二年八月 柳川村明細帳(村かゝみ、[県五]445ページ)

        一柿渋壱斗九升 毎年上納仕候、

      • 萱沼村(現:松田町(やどりき)萱沼地区):寛文十二年八月(十二日) 萱沼村明細帳([県四]397ページ)

        一柿渋御配苻次第毎年出シ申候、

      • 都夫良野(つぶらの)村(現:山北町都夫良野):寛文十二年 都夫良野村書上帳([山]218ページ)

        一柿渋御配布次第每年出申候

      • ◇△平山村(現:山北町平山):寛文十二年七月二十五日 平山村村鏡之書上ヶ之帳([山]274ページ)

        一かき葉三斗三升(御割付次第)宛每年納申候

      • ◇篠窪村(現:大井町篠窪):寛文十二年七月(二日) 篠窪村明細帳([県四]392ページ)

        一柿渋弐斗 員数定毎年上納仕候、

      • ◇塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年九月年 塚原村明細帳(村鏡、[南]131ページ)

        一御厨ヨリ柿渋(カキシブ)九樽宛毎年参候、御厨御代官衆御配苻ニ而人足拾八人宛出シ、田古村ヘ村次仕候、

      • 怒田(ぬだ)村(現:南足柄市怒田):寛文十二年七月 怒田村明細帳([南]266ページ)

        一柿渋弐斗六升宛(御配苻次第)毎年納申候、

      • 飯沢村(現:南足柄市飯沢):寛文十二年七月 飯沢村明細帳([南]455ページ)

        一柿渋、御配苻次第毎年納申候、

    • 足柄下郡:
      • ◇小船(おぶね)村(現:小田原市小船):寛文十二年九月(十七日) 小船村明細帳(下書、[県四]380ページ)

        一 柿渋三升 毎年上納仕候、

      • 永塚村(現:小田原市永塚):寛文十二年七月(六日) 永塚村明細帳([県四]402ページ)

        一柿渋三升 毎年員数定上納仕候、

      • 久野村(現:小田原市久野):寛文十二年六月(十四日) 久野村明細帳([県四]421ページ)

        一柿渋三斗五升宛毎年納申候、

      • 宮上村(現:湯河原町宮上):寛文十二年八月 宮上村明細帳([県五]450ページ)

        一柿しぶも毎年納申候、

  • 貞享3年(1686年):
    • 足柄上郡:
      • ◇菖蒲村:([秦]163ページ)

        一柿渋弐斗六升づゝ 毎年上納仕候。

      • 都夫良野村:貞享三年四月 都夫良野村明細帳([県五]498ページ)

        一柿渋弐升七合毎年納申候、

      • 皆瀬川村(現:山北町皆瀬川):皆瀬川村指出帳([山]203ページ)

        一柿渋弐斗壱升三合毎年納申候

      • ◇川西村(現:山北町川西)貞享三年四月 川西村指出帳([山]243ページ)

        渋柿(ママ)壱斗弐合納来申候

      • ◇神縄村(現:山北町神縄):貞享三年四月(神縄村指出帳、[山]252ページ)

        一柿渋四升五合 毎年納来申候

      • ◇高尾村(現:大井町高尾):貞享三年四月 高尾村明細帳(田畑指出し帳、[県五]453ページ)

        一柿渋七升 年〻上納仕候、

      • △西大井村(現:大井町西大井):貞享三年四月(十二日) 西大井村明細帳(差出帳、[県五]466ページ)

        一御用之柿渋御割苻次第納申候、年ゟ高下御座候、

      • △宮の代村(現:開成町宮台):貞享三年四月(八日) 宮の代村明細帳(指出シ帳、[県五]594ページ)

        一御用柿渋壱斗七合納申候、

      • 金井嶋村(現:開成町金井島):寛文十二年八月(三日) 金井嶋村明細帳([県四]417ページ)

        一御用之柿渋御配苻次第毎年出し申候、

      • △壗下村(現:南足柄市壗下):貞享三年四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、[南]228ページ)

        一柿渋壱斗弐升四合 毎年定納

      • △苅野本郷村(現:南足柄市狩野):貞享三年四月(八日) 苅野本郷村明細帳(指出帳、[県五]476ページ)

        一柿渋九升御配苻次第納申候、

    • 足柄下郡:
      • △蓮正寺村(現:小田原市蓮正寺):貞享三年四月(七日) 蓮正寺村明細帳(指出帳、[県五]523ページ)

        一御用之渋柿(ママ)御割苻次第納申候、但シ毎年弐升三合つゝ納申候、

  • 宝永5年(1708年):
    • 足柄上郡:
      • 皆瀬川村:宝永五年 皆瀬川村指出御帳下書([山]207ページ)

        一柿渋弐斗壱升三合毎年納申候

      • (◇)湯触村(現:山北町湯触):宝永五年二月 湯觸村指出帳([山]233ページ)

        一柿渋弐升七合毎年上納

      • 関本村(現:南足柄市関本):宝永五年二月 関本村明細帳([南]500ページ)

        一柿渋壱斗五合 毎年上納仕候、

注:

  • 村名頭の「◇」は漆の、「△」は大和柿・小渋柿の貢納の記録のある明細帳、なお宝永五年の湯触村については、漆については宝永噴火の降灰の影響で免除されているため、括弧付きとした
  • 出典略号は次の通り、以下でも同様:[秦]…「秦野市史 第2巻 近世史料1」、[山]…「山北町史 史料編 近世」、[南]…「南足柄市史2 資料編近世(1)」、[県四]…「神奈川県史 資料編4 近世(1)」、[県五]…「神奈川県史 資料編5 近世(2)
  • 貞享三年の川西村及び蓮正寺村の明細帳は「渋柿」と記しており、川西村については「山北町史」の解説もこれを踏襲しているものの、近隣の村々の事例や貢納の量が体積で示されていることから見て、「柿渋」の意と解すべきと判断してこちらに含めた。寛文十二年の平山村の明細帳の「かき葉」についても同様に近隣の事例や柿の葉を体積で測る不自然さから見て「柿渋」である可能性が高いと考える


以前まとめた漆の貢税の一覧と大分良く似た一覧になりましたが、どうしてもその時の一覧と対比させながら分析することになりますね。前回の一覧もかなり大きくなりましたので、こちらに改めて転記するのはさし控えます。御手数ですが必要に応じて見比べてみて下さい。

上の一覧で「◇」や「△」印を付して示した通り、中には漆と柿渋の両方を取り立てられていた村もあり、更に大和柿や小渋柿を取り立てられていた村でも柿渋を別途貢上していた村までありました。平山村ではこれら3品が全て貢税の対象になっています。更に、貞享3年の皆瀬川村、川西村、神縄村の明細帳では、天和3年まで「柏皮」の貢税があったことを記していたことも以前紹介しました。この当時の貢税の是非が、こうした品目相互には斟酌されてはいなかったことが窺えます。それぞれに産出があれば何れも貢税の対象とされていた訳ですが、特に当時の主要な塗料として考えられる品目が何れも貢税の対象となっていたことが窺えます。


とは言え、やはり柿の木の方が漆よりも栽培適地が多かったからか、それとも漆から樹液を採取するよりも柿渋を精製する方が容易であったからかはわかりませんが、柿渋の貢税を課されていた村は漆を課されていた村よりも多くなっています。勿論これは、私が見出せた範囲内での比較なので、他の記録を合わせた時に同じ傾向になるかは更に検証が必要ですが、全体としては漆のみを課されていた村よりも柿渋のみを課されていた村の方が多くなっています。

なお、大和柿・小渋柿を課されていた村でも、必ずしも柿渋を課されていたとは限らず、苅野一色村、金手村、山北村、曽我谷津村、高田村、中曽根村については柿渋の貢税の記録がありません。このことは、柿渋のための木が大和柿・小渋柿のための木とは別物であったことを窺わせます。この点からも、やはり柿渋用の柿には渋柿を専ら使っていた可能性が高いと言えるでしょう。

漆の場合は「貫」「匁」と重量で測られていたのに対し、柿渋は「升」「斗」と体積で測られています。私がネット上で漆や柿渋を取り扱っている通販業者を数社確認した限りでは、現在でも漆は大半が重さで、柿渋は体積で測られて販売されています。こうした取り扱いの違いが、少なくとも江戸時代初期には確立していたことになります。ただ、どうしてこの様な違いがあるのかは残念ながら調べ切れませんでした。

こうした単位上の違いがあることもあって、漆と柿渋の量を比較することが困難になっています。強いて言えば漆や柿渋の「比重」を使って相互の比較が可能になるように単位を揃えることも考えられなくはありませんが、前回見た通り柿渋にも「一番搾り」と「二番搾り」があったことからそれぞれの比重(濃度)が異なることは容易に想像でき、漆についても同様の事情が想定出来るので、かなり大雑把な計算に留まる可能性が高いでしょう。更に、毎年どの程度の量を納めていたのかについて、明記がある村とない村があり、この断片的な記録の中でも総量を計算することが出来ず、最終的に小田原藩がどの程度の量の漆や柿渋を毎年集めていたのかについて推し量ることも極めて難しくなってしまっています。因みに、小田原藩側の漆や柿渋の貢税に関する記録は今のところ見つかっていません。

ただ、特に柿渋の場合は平野部でも生産は可能であったと考えられることから、村明細帳が見つかっていない村々からも相当な量を集めていたと考えられ、その点では、絶対量としては柿渋の方が多くなる可能性が高かったと思われます。

なお、漆の方はその一部ないし全量を「浮役」、つまり労務に置き換えて課される例が多々ありましたが、柿渋についてはその様な扱いはなかった様です。また、その賦課方式も毎年納める量を予め数年間の平均で定める「定納」と年々生産量を見て決める方式の双方が同じ年に混在しており、更に寛文12年の都夫良野村の様に漆は「漆四百九拾五匁」と「定納」なのに柿渋は「御配布次第」とされる様に、同じ村でも品目によって扱いが異なる事例まであります。この時期には漆や柿渋の貢税のために毎年かなりの労力を割いて貢税量を定めていたのでしょう。

小田原藩がこれらの柿渋をどの様に扱ったについても記録がありません。前回取り上げた通り、柿渋の用途は多岐にわたっており、小田原城や藩の江戸屋敷などでも相当量が消費されていたとも考えられます。ただ、「ものと人間」によれば

…近世中期から後期にかけての社会風俗を記した『塵塚談』の「渋墨塗の事」の項では、「荷擔桶に渋を入 灰炭を合せかつき歩行 板塀したみなとを一坪に付何分と価を定めぬる事なり この墨塗安永天明の頃までは江戸中に十七人有りけるよし 近頃は三四百人にもなりしよし也」と記している。一七八〇年前後からわずか三〇年後には二〇倍以上にも増加していることは、この間に江戸市中における渋墨塗の需要が急激に増加したことを示している。

(「ものと人間の文化史 115・柿渋」今井 敬潤 2003年 法政大学出版局 102〜103ページより)

としており、建築物としての柿渋利用の需要が伸びて来るのは江戸時代後期としています。この伝では、江戸時代初期にそこまで柿渋を屋敷の建築物に積極的に塗っていたとは一概に言えません。勿論、柿渋についても漆同様に城下で下げ渡していた可能性も十分にあり得ます。


湯触村の位置
南を酒匂川が流れ、北から河内川が合流する地点の
東側の山裾にある(「地理院地図」より)
さて、漆の場合は宝永4年(1707年)の富士山の噴火によって壊滅的な打撃を受け、その後も長きにわたって漆の栽培が再開出来なかった地域があることを紹介しました。これに対し、柿渋の場合は上記の通り翌年の宝永5年に貢税の記録が引き続きあり、しかもそのうち湯触村では、漆については降灰の影響から貢税が免除されているにも拘らず、柿渋にはその様な措置が講じられた形跡がありません。この点から考えると、恐らくは柿については降灰の影響が限定的であったと言えそうです。

しかしながら、これ以降は同じ地域の村明細帳から柿渋の貢税に関する記載が見えなくなってきます。例えば、都夫良野村については延享3年(1746年)の村鑑下書が残っており、これには引き続き漆の貢税が免除されていたことは記されていますが([山]229ページ)、この村鑑では柿渋の貢税に関する記述が見えません。同じ年の川西村の村鑑帳でも同様に漆の貢税の免除の記録があるにも拘らず([山]248ページ)、やはり柿渋の貢税については記述がありません。湯触村の享保6年(1721年)の村鑑でも同様です。その他、篠窪村の享保6年、菖蒲村の元文元年(1736年)と文政12年(1829年)の村明細帳からも柿渋の貢税の記録が消えています。

大和柿・小渋柿の場合は後に貢税が中止されたことが文書として残っていますが、柿渋についてはその様な記録はありません。また、更に時代が下った頃の明細帳の中に
  • 足柄下郡飯田岡村(現:小田原市飯田岡):天保五年(1834年)三月 足柄下郡飯田岡村明細帳(指出帳、[県五]569ページ)

    一柿渋壱升七合宛上納仕候、

  • 足柄上郡怒田村:明治四年(1871年)十二月 怒田村明細帳([南]273ページ)

    一柿渋三斗七升五合(上納)

引き続き柿渋の貢税が課されていたことを記すものもあり、やはり小田原藩の柿渋の貢税が江戸時代後期になって廃止されたと考えるのは正しくない様です。

ただ、柿渋の場合は漆の様に藩の国産方が積極的に増産に動いたことを示す記録もなく、漆ほどには柿渋に期待がかけられてはいなかったのは確かです。一連の村明細帳に現れる柿渋の貢税の記録の密度の減少は、あるいはそうした藩の柿渋への関心度の低下を意味しているのかも知れません。

因みに、柿渋への貢税は相模国内の幕領でもあった様で、事例は少ないのですが
  • 高座郡当麻村(現:相模原市南区当麻):宝永二年(1705年)七月 当麻村村鏡(557ページ)

    一永百弐拾五文 浮役柿渋代納申候、

  • 津久井県下川尻村(現:相模原市緑区原宿など):元禄十二年(1699年)(二月) 下川尻村差出帳(692ページ)

    一永百四拾九文 柿渋代

    三拾八年已前野村彦太夫様(為重)御代官所之節ゟ、久世大和守様(広之)御知行所節迄年〻増減有之、渋ニ而差上ケ候処、拾六年已前都筑長左衛門様(則次)、御代官所之節ゟ永御直シ被成定納罷成候、如何様之積ニ而代永御直シ被成候哉知レ不申候、

(何れも「神奈川県史 資料編6 近世(3)」より)
と、やはり柿渋の貢税があったことを記す明細帳が存在しています。旗本領でも、後年の記録ではありますが
  • 高座郡相原村(現:相模原市緑区相原):明治三年三月 相原村村差出明細帳(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 980ページ)

    一 永八拾六文 柿渋代

    是者、書面之代永年〻相納申候、

と、柿渋の貢税を永銭で納めていたことが記録されています。この相原村の事例からは、幕末には柿渋への貢税が名目化してしまい、柿渋の産出の有無を問わず貢税として課される様になっていたことが窺えます。

次回は、この柿渋の流通を巡る話題を取り上げる予定です。

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柿について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

本草図譜巻64「柿」1
「本草図譜」より「柿」
柿の実の上に「やまとがき」「木ねりがき」と見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前々回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回は、江戸時代初期の小田原藩の村明細帳に記された、柿の実の貢税について取り上げます。

これらの明細帳に「大和柿」や「小渋柿」を貢上していたことを記すものが数多く見当たります。私が見つけられた範囲では以下の通りですが、他にも事例があるかも知れません。これらの村々の位置を地図にプロットすると、酒匂川流域の平野と山麓に集中している様に見えますが、書き出した明細帳がどの程度当時の状況を網羅しているかがわかりませんので、他の事例をプロットした時にこの傾向が崩れる可能性があり、今のところは一概には言えないところです。

  • 足柄上郡平山村(現:足柄上郡山北町平山):

    寛文十二年七月二十五日 平山村村鏡之書上ヶ之帳(「山北町史 史料編 近世」274ページ)

    一五所柿其年之依(ママ)毎年納申候

  • 足柄上郡壗下(まました)村(現:南足柄市壗下):

    貞享三年四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、「南足柄市史2 資料編近世(1)」228ページ)

    一大和柿 毎年御見分ニ而四分上納仕、六分木主被下候、

  • 足柄上郡苅野一色村(現:南足柄市苅野):

    貞享三年四月(九日) 苅野一色村明細帳(村指出シ、「南足柄市史2 資料編近世(1)」668ページ)

    一大和柿、壱本も無御座候、

    一小渋柿、木数四本、御検分次第納申候、但シ四分御取六分ハ百姓被下候、

  • 足柄上郡金手(かなで)村(現:足柄上郡大井町金手):

    貞享三年四月 足柄上郡金手村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」460ページ)

    一大和柿柿渋前〃納申候へとも、拾八年村中屋敷替仕候付、御赦免被遊候、

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):

    貞享三年四月(十二日) 足柄上郡西大井村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」466ページ)

    一大和柿御見分之上四分指上ケ、六分木主□□□□

    但、大和柿所之(柿脱カ)て御座候、

  • 足柄上郡苅野本郷村(現:南足柄市狩野):

    貞享三年四月(八日) 足柄上郡苅野本郷村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」476ページ)

    一大和柿・小渋柿御見分次第納申候、

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):

    貞享三年四月(十一日) 足柄上郡山北村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」495ページ)

    一小渋柿・大和柿先年ゟ無御座候、

  • 足柄下郡曽我谷津村(現:小田原市曽我谷津):

    貞享三年四月 足柄下郡曽我谷津村明細帳(田畑指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」502ページ)

    一大和柿木数年〻御改被遊、柿なり申候得御見分之上柿ニ而上納仕候、

  • 足柄下郡高田村(現:小田原市高田):

    貞享三年四月(七日) 足柄下郡高田村明細帳(田畑指出シ帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」507ページ)

    一大和柿木 三本御座候、御奉行様御見分之上ニ而四歩之召上、六歩百姓被下候、

  • 足柄下郡中曽根村(現:小田原市中曽根):

    貞享三年四月(七日) 足柄下郡中曽根村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」512ページ)

    一大和柿御見分之上四分指上、六分木主被下候、大和柿御所柿之事ニ而御座候、

  • 足柄下郡蓮正寺村(現:小田原市蓮正寺):

    貞享三年四月(七日) 足柄下郡蓮正寺村明細帳(指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」524ページ)

    一小渋柿・大和柿御見分上四分差上、六分木主被下候、但シ小渋柿木ねり、大和柿御所柿之事ニ而御座候、

  • 足柄上郡宮の代村(現:足柄上郡開成町宮台):

    貞享三年四月(八日) 足柄上郡宮の代村明細帳(指出シ帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」594ページ)

    一小渋柿・大和柿御見分之上四分指上ヶ、六分木主被下候、

    但シ、小渋柿木ねり、大和柿御所之事ニ而御座候、

(それぞれ引用資料中で変体仮名が使用されている場合は小字に置換)


「大和柿・小渋柿」の貢税について記された村々の位置
上記明細帳の村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

但し書きに「大和柿とは『御所柿』のことである」とする記述が複数の明細帳に見られますが、前回の「大和本草」や「本草綱目啓蒙」の記述を見て戴ければ、この品種の別名であることが窺い知れます。また、「小渋柿とは『木ねり』のこと」とする記述が2村の明細帳に見えています。「大和本草」「本草綱目啓蒙」の記すところでは、「御所柿」「木ねり(練)」「大和柿」は何れも同じ品種を指す様に読めるのに対し、これらの明細帳では「木ねり」を「御所柿」や「大和柿」とは区別して「小渋柿」とする方向で記されており、この辺りは藩役人から村役人に対して指示があったのかも知れません。「木ねり」は甘柿ですから、これらの明細帳に記された「小渋柿」は、その字面に反して渋柿ではなかったということになります。

逐一この様な記述が見えるのは、村と藩の間で名称の確認が必要な状況にあったことを意味していると思われ、その点からは必ずしも小田原藩領内ではこれらが一般的な品種ではなかったことが窺えます。実際、大和柿の本来の産地は京都周辺だった訳ですから、小田原藩内では外から持ち込まれた品種であったことになります。

また、「御奉行様御見分」等の文言が記されているものが幾つかあります。これら寛文12年(1672年)や貞享3年(1686年)の明細帳は、小田原藩主が稲葉氏であった頃の事情を反映しています(貞享3年は藩主が稲葉氏から大久保氏に交代した年に当たり、大久保氏が前代の稲葉氏の頃の実情を把握するために村々から明細帳を提出させたのでした)。その稲葉氏の2代目の小田原藩主だった稲葉正則が残した「永代日記」に、この柿を検分する奉行を記録した項があります。

一 当年柿検見被 仰付者共、

 東筋川合六右衛門/脇坂九郎左衛門 中筋藤村利右衛門/福家五右衛門 西筋奈良部藤左衛門/植木権八郎

(「永代日記」から寛文二年八月十八日の記述:柿検見役人出張申渡、「神奈川県史 資料編4 近世(1)」284ページより)


ここで言う「東筋」「中筋」「西筋」は稲葉氏が小田原藩領を区分けした呼び方で、それぞれ大枠で酒匂川の東側、酒匂川と支流の狩川の間、狩川の西側に当たります。この日記によれば、それらの各筋に2名ずつ派遣して柿の見分を行わせたことになります。

その見分は比較的迅速に行われた様で、翌月9日には次の通り報告を受け取っていることが「永代日記」に記されています。この日程から考えると、各筋に2名ずつ派遣したのは、見分を急がせるために手分けさせる意図があったのでしょう。

一 小田原在〻柿員数目録来ル、但、当年大和柿少ク、小渋多キ也、

一 大和柿都合弐万五拾九

一 小渋柿四万千弐百九拾八

右之内

一 大和柿二千 但、四分一之積り、

一 小渋柿五千五百 但、三分一ノ積り、義雅公被遣、

一 大和柿六千廿余・小渋壱万千十余 御上屋敷御用

右之通毎年検見之上、此積りヲ以自今度可被進也、

(「永代日記」から寛文二年九月九日の記述:小田原城付領内の柿生産額目録、「神奈川県史 資料編4 近世(1)」285ページより)


「義雅公」は稲葉正則の嫡男の正通のことを指す様です。つまり、各村から取り立てたこれらの柿の一部は息子のところに送り、残りは江戸の上屋敷と城下に、という分配をしている訳です。単位が書かれていませんが恐らくは個数でしょうが、屋敷内だけで消費すると考えるとかなりの個数です。余った柿は城下などで払い下げていた可能性もありそうですが、その辺りの事情は定かではありません。

なお、「金手村」は以前は柿を貢納していたものの、屋敷替えがあった関係で柿の木を伐る必要があったのでしょうか、貢納を免除されています。後年になりますが、幕末期の農書である「広益国産考」(大蔵永常著 安政6年・1859年)では

甘柿ハロ近きものゆゑ、家居はなれてハ作りても盗難あるもの也。依て屋敷内に甘柿を植、少しはなれたる出畑に渋の大柿を植、手遠なる山畑の猪鹿兎等の出る所にハ小渋柿を多く作るべし。かくのごとく心がけなバ、一ケ年に拾両廿両の金子ハ不毛の地にてとり入べし。

(「日本農書全集 第14巻」農山漁村文化協会 206ページより、ルビは省略)

と、特に甘柿を植える場合は目の届きやすい屋敷の周辺に植え、山など遠方には渋柿を植える様に推奨しています。山北村の記述も、以前は柿の貢納があったものの、何らかの理由で取りやめている様に見受けられます。


Choushuukaku.JPG
横浜三溪園・聴秋閣
("Choushuukaku" by Dddeco - Dddeco.
Licensed under CC 表示 2.5
via Wikimedia Commons.)
柿の品種をわざわざ指定し、その見分に複数の役人を現地に派遣していること、栽培されている柿の本数が多くないこと、そしてその分配の個数から考えると、あるいはこれらの柿の貢納は稲葉正則自ら望んで行なわれていたものかも知れません。これだけの個数を自前で消費し切るのは無理がありますから、多くは茶の湯の席で茶菓として振る舞うなど、接待で用いる意図があったのかも知れません。実際、義父であった毛利秀元の手解きを受けた正則が少なからず茶の湯を嗜む人物であったのは確かで、現在横浜の三渓園にある茶屋「聴秋閣」は祖母である春日局から正則の江戸下屋敷に移されていたものです。ただ、彼の茶の湯と柿との関連を示すものは今のところ見つけられずにいます。


この祖母である春日局は将軍家光の乳母であった人ですが、三条西家の下で養育された経歴があるなど公家との繋がりも深く、京都で過ごした時間も長い人です。穿った見方ですが、あるいは正則もその影響で「本場」の大和柿の味を覚え、やがて小田原藩主となった時に領内の村々に植えさせたのではないかという気がします。近隣にはない品種の種や枝をわざわざ遠方の京都から取り寄せて栽培を始めるには、やはり相応の動機付けが必要で、その切っ掛けを与えたのが正則ではなかったか、という訳です。もしそうだとすれば、この稲葉正則という人は相当の「柿好きの殿様」だったことになるでしょう。

ただ、こうした柿の栽培は農家にとっては負担になっていたのでしょう、以前稲葉氏の下で取り立てられていた正月飾りの廃止を通達した元禄2年(1689年)の触書を紹介しましたが、その中では併せて「大和柿・小渋柿」も以後は取り立てないことが記されていました。

一蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより再掲、強調はブログ主)


老中を務めていた稲葉氏の格式を維持する目的で雅な正月飾りを村々から取り立てていたのと併せて大和柿や小渋柿を徴収するのを止めたことから考えると、新たに小田原に入った大久保忠朝の目には、これらの柿も同様の目的で使われているものと映ったのかも知れません。

実際、以降の藩内の各村の村明細帳からは「大和柿」「小渋柿」の表記を見出すことがなくなります。そのために屋敷で手塩にかけて育てられていたであろう大和柿や小渋柿の木が、その後どうなったかは定かではありません。

次回は「金手丸」を中心に取り上げる予定です。

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