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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その4)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に続き、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

前回は現在の山北町域に属する村々の状況を、同町の町史で確認しました。これらの村々は「西山家(やまが)」に属することになりますが、「東山家」に属する現在の松田町域の炭焼については、同町が発行した「まつだの歴史」に次の様に記されています。

貞享三年(一六八六)「稲葉家引継書」に「松田村の内くぬき林を立置、毎年一念炭焼申し候、炭竃損い候えば、軽奉行これを遣し修覆仕り候、竃数壱口、炭焼八郎右衛門、才兵衛・理右衛門・太郎兵衛・小右衛門」とあり、小田原藩領内でも相当の産地であったことがうかがわれる。

万延二年(一八六一)の史料をみると、小田原領二十四ヶ村の農間稼炭買主の中に、弥勒寺村の市郎兵衛と中山村の源之丞の二名の名前が見える。この者たちは農間稼ぎに炭を仕入れて江戸に扶ちているのである。

松田は炭の生産が盛んだったようで、貞享三年(一六八六)の金手村・山北村・堀之内村(現小田原市)・宮の台村(現開成町)などの村鑑(むらかがみ)を見ると「松田惣領村炭釜手伝人足御用次第出し申候」とあり、炭焼きが盛んであったことがわかる。また大寺村・虫沢村なども炭焼きが盛んに行われていたようである。

一金拾五両也

右は友八炭山仕入金(たし)かに受取り申候、もっとも来る十月中に急度(きっと)五百俵相渡し申すべく候、念のためにかくのごとくに御座候

以上

(文化・文政年間か)九月廿二日

相州大寺村

中津川銀左衛門(印)

白子屋清五郎殿

これは、友八(大寺村の者)の炭山仕入金を確かに受け取った。十月中に必ず五百俵の炭を小田原宿の旅籠である白子屋に納めるというものである。

(上記書137〜138ページより)



松田惣領の位置(「Googleマップ」)
松田惣領は東山家と呼ばれた村々の南に位置し、村内を矢倉沢往還が通じ、継立場としての色合いの濃い村ですが、江戸時代初期には稲葉氏の代の小田原藩の主要な炭焼場であったことが史料に見えています。しかし、史料の日付を良く見ると、惣領での炭焼が盛んであったのは江戸時代初期で、その後は北側の東山家の村々へと炭焼が移っていった様に見えます。あるいはこの地域でも、当初は比較的交通の至便な場所で炭を焼いていたものが、前回見た様な山資源の問題で山奥へと炭焼場が移っていったのかも知れません。実際、前回の引用文中にあった、虫沢村の村民が隣の皆瀬川村にまで入り込んで炭を焼いていた事件も、入会地の炭材の不足が背景にあったと考えられ、炭材の確保が次第に難しい状況に陥っていったことが窺えます。

大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
青線は甲州道、紫は矢倉沢道、赤は東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
ここで掲載されている大寺村の文書の宛先に小田原宿の旅籠である「白子屋」の名前が登場しますが、この旅籠は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中でも、小田原に着いた弥次郎兵衛の台詞の中で「おいらァ小淸水(こしみず)白子屋(しらこや)に、とまるつもりだ」という形で紹介されています。この旅籠について他の記録を見ることは出来ませんでしたが、脇本陣であった「小清水」と共に名前が挙がっている訳ですから、それに匹敵するだけの格式を持っていた、比較的大きな旅籠ということにはなるでしょう。この旅籠が発注した500俵の炭は、恐らく旅籠の業務で使う分が主と考えられます。これが1年分と仮定すると1日当たり平均1俵と1/3程度の炭を1つの旅籠で消費する計算になります。1俵当たりの重さが記されていませんので総重量は計算出来ませんが、仮に小さな4貫(15kg)入りの俵としても500俵で7.5トンになり、1日平均20kg程度を消費する計算です。かなりの量である様に見えますが、宿泊客に出す料理の熱源の他、冬場の暖房に火鉢に入れる分など、旅籠で必要となる局面が意外に多いこと、旅籠に宿泊する客の多さを含めて考えると、これでも年間分としてはギリギリということになるのかも知れません。

これは炭の送付先に江戸以外の宛先が具体的に記された史料としては興味深い一例と思います。大寺村からですと、麓の松田惣領まで運び出せば(この間も中津川沿いに2里以上の距離がありますが)、そこから小田原までは矢倉沢道で一旦関本へ向かい、更に甲州道を南下する経路の継立で運び込めるでしょう。とは言え、1俵の重さ次第で馬1匹に積める俵の数も変わりますが、全体で500俵分となると、何れにせよ延べでかなりの回数馬が往復する必要があるでしょうから、その輸送費だけでも馬鹿になりません。また、9月下旬に受注して10月中に500俵納品完了というスケジュールですから、1ヶ月あまりで全ての業務を完了するにはそれなりに人を雇う必要もある筈です。予め相当額の仕入れ金が支払われているのは、そうした必要経費を充当しないことには、これだけの量の炭焼に対応出来ないから、ということになります。


山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
さて、「風土記稿」山川編に取り上げられた炭焼の村々のうち、東西山家の全16村については、各村の記述の中では炭焼に触れられていませんでした。これに対し、箱根山中に当たる宮城野村については、「風土記稿」の同村の記述にも

農隙には男は炭を燒、女は蓑衣を製して活計を資く、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と記されています。ただ、この村の炭焼の実情については他に史料を見出せなかったため、詳細は不明です。なお、西隣の仙石原村は山奥に位置することと間に仙石原関所がある関係で、通常は炭焼は行っていませんでしたが、弘化2年(1845年)には凶作によって村が困窮する事態となったため、関所に十分一銭を納める条件で一時的に炭焼を行う許可を求めた文書が「神奈川県史 資料編9 近世(6)」に掲載されています(860〜861ページ)。この文書では文化10年(1813年)から3年間炭焼を許可されて困窮時の救いとなったことが記されており、一時的な稼ぎとしてのみ認められていたことがわかります。

もう1箇所、足柄下郡の「土肥山辺」で炭焼を行っていたことが山川編に記されていますが、こちらは「風土記稿」の土肥吉浜村の項に次の様に記されています。

◯土產 △石 △炭土肥鄕中多く燒出せり、都下にて、眞鶴炭と云是なり、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、…は中略、強調はブログ主)


ここで「真鶴炭」という名称が登場しますが、「風土記稿」の真鶴村の項には

◯湊 東西百十五間、南北二百五間、深二丈餘、 東方を港口とす、港とは稱すれど、他國の廻船入津するに非ず、但風浪に逢ひ蹔し港中に泊するのみなり、當今小廻船八艘、石・薪炭 樒、又湯ヶ原温湯等を、都下に運漕す、魚艇五艘俗に生魚船と唱ふ、漁魚を都下に運致するものなり、を置て運漕に便す、海路の里程、江戸へ三十七里、三崎へ十八里、浦賀へ二十三里、下田へ二十六里、網代へ五里、按ずるに、港名古記に見えず、正保國圖に湊と載す、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、強調はブログ主)

とあり、真鶴村の湊が保有する小さな廻船が地元で産出する石の他に、近隣で産出する(しきみ)、湯河原温泉の湯とともに、薪や炭を運んでいたことを記しています。

真鶴村については以前足柄下郡の各村から産出する「石」の産地の1つとして取り上げました。安山岩質の溶岩ドームが海中に突出した形になっている真鶴半島に位置するこの村には、当時は小田原藩主が植えさせた黒松林がありました。今は遷移が進んで広葉樹林になりつつありますが、黒松林は積極的に炭材にするものではなく、「風土記稿」の真鶴村の項でも「林 巽方にあり領主の林なり、」(卷之三十二 足柄下郡卷之十一)とこの黒松林の存在以外には記していませんので、炭材を供給出来る林がなかったのが当時の実態でしょう。従って、土肥吉浜村の記す「真鶴炭」は、飽くまでも積み出し港としてその名が冠されていたことになります。

山川編の

足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、

という書き方では「是を」が指す範囲がその前に登場する村々全てに係る様にも読めてしまうのですが、位置関係から見てもこれは現実的ではなく、土肥吉浜村の記述との整合性からも「土肥山辺」のみを指すと捉えるべきでしょう。とは言え、土肥吉浜村の項の書き方では「真鶴炭」の呼称が江戸で流布していた様に読めますが、実態はどうだったのでしょうか。

この「真鶴炭」の名称が他の文献などに登場する例がないか、可能な限りで探してみましたが、見付けることは出来ませんでした。「湯河原町史 第三巻 通史編」では同町域の炭焼について、地元に伝わる史料を元に6ページほどに渡って記していますが(276〜281ページ)、「風土記稿」に記された「真鶴炭」の名称については触れられていません。同書では文化6年(1809年)の「御用留」の記録を元に、6箇所で全部で27の炭窯を構築し、約10,000俵もの炭を焼いて、山代金120両を入会山のある吉浜・鍛冶屋村に支払ったことが紹介されています。この年には相応の生産規模を誇ったことが窺えますが、実際は炭焼を行う際に根府川関所への願書が必要であったことから、「湯河原町史」では同地の炭焼は断続的に行われていたものと考えられており、その様な状況下では特定の地名が流通時に広く流布する状況はなかなか考え難いところです。

また、最初に紹介した3冊の参考文献のうち、「日本木炭史」では莫大な史料を収集して著されていますが、近世の炭の名称(193ページ)には「相模炭」の名前は書き上げられているものの、「真鶴炭」の名はありません。「木炭の博物誌」には相模国域で産出する炭の名称として「煤ヶ谷炭」「三保炭」が挙げられているものの(214ページ)、やはり「真鶴炭」の名前は出て来ません。無論、まだ探していない書物に登場例があるかも知れませんが、特に「日本木炭史」の様に史料の網羅性の高い文献にすら登場しないとなれば、やはり「真鶴炭」の名が人口に膾炙していた時期が存在したとは極めて考え難いでしょう。

ただ、土肥郷は伊豆に隣接する地ですから、同地の「天城炭」の知名度に対して思うところがあって、それに抗して自分たちの炭を売り込む目的で、石材で著名な積み出し港の名前を炭に冠することを思い付いたのかも知れません。

以上、ここまで津久井県や足柄上郡・下郡などの炭焼の実情を見て来ましたが、これを改めて「風土記稿」の山川編の記述と照して見てみましょう。山川編では足柄上郡の東西山家と宮城野村、足柄下郡の土肥郷の山辺を産地として挙げていましたが、その生産の実情は険しい地形の中から長距離を運び出さざるを得ない制約や、関所の存在などに縛りを受けながら、それでも幕末に向けて次第に生産量が増えていく状況であったことは史料から窺えました。しかしながら、それらの事情の中で産出される炭が、相模国の他の地域、特に前々回に確認した津久井県から産出される炭を差し置いて、相模国の代表的な産物として特記されるだけの特徴を持っていたことを裏付けられる記述には出会わなかったと思います。「山北町史」で一覧化された村明細帳の記述の中には、「白炭」と「鍛冶炭」の名前が見られますので、求めに応じて炭を焼き分けるだけの技量をこの地方も備えていたことは確かでしょう。けれども、そうして出来上がった炭が他の地方から送られてくる炭と比較して特段に優秀であったことを評価する様な記述も見つかりませんでした。

それどころか、足柄上郡・下郡よりも内陸に当たる筈の津久井県の方が、相模川を使った水運を手近に使える分だけ、炭に悪影響を与える陸運の距離を短縮出来ることから、水運が使えない足柄上郡よりも有利な立ち位置にあったとさえ言えます。荒川番所の取り分が5分の1だったのに対し、川村関所の取り分が10分の1と荒川番所の半分だったのも、それだけ山から陸運で運び出すのが困難だったことを領主側も認識しており、こうした事情に配慮していたことを示しています。

足柄上郡や足柄下郡の図説では産物に「炭」が入らなかったにも拘わらず、山川編で改めてこれらの郡の村々が追加されたのは何故なのか、津久井県が産地として取りあげられなかった理由同様に不明です。一連の史料を見る限り、この記述をそのまま当時の相模国の炭の産地の分布として捉えてしまうことには、問題があると言わざるを得ないでしょう。

強いて想像を逞しくするならば、山川編で取り上げられた村々が何れも小田原藩領であったことから、国産方役所の影響を考えてみることは出来るかも知れません。「風土記稿」の編纂に当たっては小田原藩が少なからず協力したと思われること、その結果として産物の記述に少なからず影響が表れたのではないかという見解を以前披露しました。前回見た様に国産方役所は領内の炭の産出についても関与していたことが幾つかの文書に見えていますから、恐らく昌平坂学問所に渡されたであろう領内の産物の一覧には「炭」も入っていただろうと思われます。特に、東西山家の炭の産出については各村の記述にも見えないことから、これらの地の炭焼については国産方役所の様な外部の部署からの情報がなければ、書き加えられることがなかったのではないかと思えます。宮城野村の炭焼や土肥吉浜村の「真鶴炭」も、その過程で山川編で改めて取り上げ直されたのでしょう。

一方、津久井県の村々については幕領として韮山代官所が治めていた期間が長く、文政11年(1828年)に県内の11村が小田原藩領となったものの、太井村(この村は一部が藩領となった)にある荒川番所は引き続き韮山代官所の管轄でした。従って、荒川番所が取り立てていた炭の五分一銭はその後も幕府に納められたことになり、小田原藩は県内の炭の産地を多く所領に得ながらも、国産方役所としては実質的に権限を持ち得なかったことになります。あるいはそのことが国産方から昌平坂学問所へ伝えられた炭の産地の一覧に影響し、結果として津久井県が炭の産地から抜け落ちてしまったのではないか、というシナリオは考えてみることが出来そうです。

さて、ここまで愛甲郡の各村については敢えて触れずに来ましたが、次回はこの村々の炭焼の由緒について見る予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物は、前回の「草綿」から1ヶ月以上間が空いてしまいました。今回から取り上げるのは「炭」です。

  • 山川編(卷之三):

    ◯炭足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、古愛甲郡煤ヶ谷村より年々北條氏に炭を貢せし事、其頃の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て貢せしに、元祿十一年より代永を收む、又近き頃丹澤山にて、燒せられしが今は廢せり、

  • 愛甲郡図説(卷之五十四 愛甲郡卷之一):

    ◯炭寸美◯古煤ヶ谷村より年々炭を貢せし事、北条氏の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、每年六百俵を貢せしに元祿十一年より代永錢を收むる事となれり、近き頃丹澤山にて炭を燒せられし事ありしが、今は廢せり、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


愛甲郡図説に記されている内容と山川編に記されているそれはほぼ同一のものですが、山川編の方には更に足柄上郡や足柄下郡から産出される炭についても記載があります。しかし、足柄上郡・足柄下郡の図説にはこれに該当する記述はありません。

因みに、足柄上郡の「東西山家(やまが)」については、同郡図説中に次の様に紹介されています。

北邊山間の數村を東山家古は菖蒲・八澤・柳川・三廻部・萱沼・彌勒寺・中山・土佐原・宇津茂・大寺・虫澤十一村なりしが、今は萱沼以下をのみ入、七ヶ村と呼べり、西山家皆瀨川・都夫良野・湯觸・川西・山市場・神繩・玄倉・世附・中川九村、近き頃より玄倉以下三村を、新山三ケ村と稱す、と唱へり、按ずるに、川村山を隔てたれば、東西山家の名を唱ふるなるべし、

(卷之十二 足柄上郡卷之一)


東西山家の村々
東西山家の村々:赤が東山家、青が西山家
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この記述を踏まえ、現在の地形図上でこれらの村々をプロットすると御覧の様になります。少々領域が広く、かつ東山家の村々が比較的狭い地域に集中しているため、地図を3分割して縮尺を変えています。「東山家」7ヶ村は明治9年(1876年)に合併して(やどりき)村となり、昭和30年(1955年)に松田町と合併後も引き続き「寄」を名乗っていますが、現在の地形図上では江戸時代の村名が字として別途記されているため、この地図ではその位置にマーカーを打っています。「風土記稿」では過去には菖蒲・八澤・柳川・三廻部(みくるべ)の4村(現在は何れも秦野市、上記7ケ村の東隣の地域)も「東山家」のうちに入っていたことを記していますが、「風土記稿」編纂時点ではこれらの村々は外れていたとしているため、地図には反映しませんでした。「西山家」の9ケ村は現在は何れも山北町に属していますが、酒匂川沿いに存在した川村(岸・山北)の北側の山岳地帯を指すものであったのだろうと「風土記稿」では推測しています。

言うまでもなく、ここで言う「炭」は「木炭」を指します。基本的には木を密閉状態で加熱することによって揮発成分を飛ばして炭化を進めることによって作ります。江戸時代の日本では化石燃料の利用はまだ一般的ではありませんでしたから、当時の燃料の主力はほぼ植物に由来するものでした。「炭」はそれらの中でも「薪」と共に当時の燃料の中心的な存在であったと言って良いでしょう。今回は「風土記稿」の表記に合わせる意図で、専ら「木炭」の意で「炭」で表記を統一します。


「風土記稿」に記された村々の当時の「炭」の生産の実情を見る前に、まずは江戸時代の炭の生産や使用の状況を全般的に確認するところから始めたいと思います。今回は参考文献として次の3冊を参照しました。

  • 新装版 日本木炭史」 樋口 清之 著 1993年 講談社学術文庫1076(以下「木炭史」)
  • ものと人間の文化史71 木炭」 樋口 清之 著 1993年 法政大学出版局(以下「ものと人間」)
  • 木炭の博物誌」 岸本 貞吉 著 1984年 総合科学出版(以下「博物誌」)

このうち、最初の2冊は共に「日本木炭史」(1957年 全国燃料会館刊)から派生した著作であることが、それぞれの「はしがき」に記されています。史料類がある程度残されているのは前者の方ですが、後者には後日執筆された史話が追加されているため、ここでは両者を適宜使い分けることにしました。基本的には半世紀以上前に編まれた著作が基本となっているため、上記の出版年よりも内容がかなり古いことになりますが、書き下ろしが主体となっている法政大学出版局の「ものと人間の文化史」のシリーズに、1962年に出版された「木炭の文化史」(東出版)が解題されてそのまま再出版されたことから見ても、その後この著書に大きく追加するべき研究成果もあまりないものと見え、実際適切な類書を見付けることが出来ませんでした。「木炭の博物誌」は著作時点の話が中心ですが、各地の炭の種類の紹介などで参考となる記述があったため、併せて参照することにしました。

これらの書物で紹介されている話の中には色々と興味深い話も多いのですが、話が膨らみ過ぎてしまいますので、ここでは「風土記稿」に記された話を検討するのに必要な点に絞って紹介したいと思います。

炭は古代から利用されてきたことは確かで、奈良東大寺の大仏の鋳造に際しては16,656石もの炭が使われたことが記録されるなど、金属や皮革、漆などの加工業で盛んに用いられていたことが記録に残っています。鎌倉時代に入ると炭が流通に乗る様になり、鎌倉幕府が建長5年(1253年)10月11日と翌6年10月17日に炭をはじめ薪、藁、糠などの燃料や飼料の価格統制に乗り出したことが「吾妻鏡」に見られることから、既にこの頃から炭の価格が幕府のまつりごとの課題として取り扱われていることがわかります。鎌倉の滑川下流の「炭売川」の異名が、「鎌倉七座」の1つである「炭座」が同地に存在したとされることと関係付けられていることからも、当時から炭の流通が盛んに行われていたことが窺えます。ただ、その産地など具体的なことは史料からは明らかにならない様です。もっとも、鎌倉時代にはまだ炭は消費地の近傍で生産されるのが中心で、あまり長距離の移動は行われていなかった様です。

炭の生産地から消費地への移動が盛んになってくるのは、軍需などの目的で大量に炭が必要となった戦国時代に入ってからで、この頃になると馬や舟を使って輸送を行った記録が残る様になります。それまでは炭を「籠」に入れて運んでいましたが、遠距離を効率良く運ぶために「炭俵」が使われる様になったのもこの頃です。但し、この頃でも生産地と消費地の距離はまだそれほど長いものとはなっていなかった様です。

とは言え、戦国時代には江戸時代に見られる炭の利用法がほぼ定着してきた時代に当たり、生活の中で、あるいは武器の製造のために必要な熱源としての利用も多様化し、更に茶の湯の普及が日本の炭を独自に発展させるのに大きく寄与しました。

中世において日本の炭が世界一の品質をもつに至ったのには、茶の湯が大きな役割をはたしていることは先にも述べた。茶道は足利義政の佗茶趣味によって独立の芸道にすすめられて以来、戦国大名の間にも流行し、千利休によって完成をみた。茶は炭を重要な要素として成立する芸道であって、炭の形、色沢、質、熱質の吟味を重んじた。炭の文化史上において、茶道のもつ意義は特に忘れることができないのである。しかも茶の趣味はやがて日本人の日常生活にとけ込み、食事の習慣、礼法、調理、起居に至るまで影響を与えたので、日本人の生活と炭とをいっそう離れない関係にしていった。…炭の形・質・組み方・火相などを観賞することは、世界中で日本の茶道だけであり、炭はここにりっぱな芸術として扱われているのである。

(「ものと文化」61〜62ページより、…は中略)


江戸時代の炭はこうした時代を受けて更に一般に普及し、飛躍的に消費量が増えていくことになりました。特に江戸や大坂の大都市圏での炭の消費量は膨大なものへと膨れ上がって行きました。

近世における二大消費都市である江戸と大坂は、いうまでもなく炭の自給ができないので、すべて他の地方から運ばなければならなかった。文久年間(十九世紀後半)ころ江戸の炭の入津高は年平均二三八万三六八〇俵(『諸色直段引下』)、天保十二年(一八四一)に大坂の炭の入津高が一八一万八〇〇〇俵(『南北堀江誌』)に達したというから、いかに大量の炭が両都市へ年々運ばれたかが知られる。…江戸への炭の仕出国としては、古くから一二カ国(武蔵・伊豆・相模・駿河・甲斐・遠江・常陸・上野・下野・上総・下総・安房)があげられた。大坂へは、日向・土佐・豊後・阿波をはじめ、摂津・河内・和泉・紀伊・伊予が、おもな仕出国であった。これらのうち陸運によるものと水運(海・河)によるものとがあったことは説明するまでもない。諸国の中小都市や純農村においても、これを小規模にして同様のことがおこなわれた。

(「ものと人間」119〜120ページより)


「江戸名所図会」巻9「国分寺村炭かま」
江戸時代の炭焼きの様子を描いた絵図は意外に少ない
「江戸名所図会」巻九「国分寺村 炭かま」の図
武蔵野の雑木林も炭の供給地であったことが窺える
因みに「新装版 日本木炭史」の表紙カバーも
この絵の一部を使っている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸や大坂以外の消費量については推測するしかありませんが、特に城下町や宿場町など、町人の比率が高い地域を中心に炭の消費は多くなったでしょうし、金属の加工や窯業、更に漆器でも研磨用に炭が用いられるなど、産業分野でも炭の用途は多数存在しました。従って全国では江戸や大坂の何倍もの炭が年々消費されていたことは確かでしょう。

こうした大規模な消費地へは専用の炭船を使った水運が中心となりました。とは言え、産出地の多くは水運に不向きな山中にあることから、水運がある場所までは陸送せざるを得なかった訳ですが、陸送ではどうしても揺すられる時間が長くなることから炭俵から炭が抜け落ちて目減りしてしまう難点があり、伝馬では敬遠される存在だった様です。他方、海上では炭が水を被る可能性もあり、そうした課題に対応する意味でも炭俵の形状が次第に工夫される様になりました。

相模国の炭もこうした江戸の旺盛な炭の消費を下支えする地域の一角を成した訳ですが、江戸への供給地の中でもとりわけ名高かったのは、天城(伊豆半島)と佐倉(現:千葉県佐倉市)の炭でした。

佐倉炭・久留里炭 上総・下総(今の千葉県)の地方も、近世の炭の産地として知られた。なかでも佐倉炭と久留利炭とは、茶用炭として有名であった。佐倉炭は「性和にして疾火興る」(『松屋筆記』)といわれ、久留利炭は、池田一ノ倉炭に次いで日本で第二位の炭とさえいわれた(『本朝食鑑』『和漢三才図会』)。『佐倉風土記』にも、佐倉炭は千葉、埴生両郡の際に産出し、茶炉用によく、池田炭に似るが、ただ香気を欠くだけであると説明してあって、良質であることを讃えている。

江戸における佐倉炭の値段は、下り炭(熊野・田辺炭)などにくらべてきわめて安いが(上炭新価一俵四六〇文、佐倉上炭一俵一三五文。『天保十三年物価書上』)、佐倉炭は江戸に近いので、運賃などの関係で安かったと思われる。佐倉炭は初め領主堀田家が専売し、のちに千葉の炭問屋に依託して江戸へ出荷させたので名をひろめた。この移出は享保年間(十八世紀初め)に始まっていて、古い歴史をもつ。一般に佐倉炭の初めは、寛政五年(一七九三)に富塚村の川上右仲が藩に建議して、(くぬぎ)林輪伐法をおこない、相模から製炭技術を輸入してつくったといわれるが(『千葉県印旛郡誌』など)、これはそれまでの下総炭の改良を指したものと考えられる。佐倉炭の名も、佐倉で生産されるのではなく、堀田家の領内の村々でつくられ、佐倉へ集荷して、千葉から江戸へ送ったのでそうよぶのであって、下総炭の総称といってもよい。 (67〜68ページ)

伊豆・天城炭 天領である天城山を中央にもつ伊豆国は、伊豆といえば天城炭が思い出されるように、天城炭の産地であった。天城炭は、天城山林の用材でつくり、御用炭とよばれて、江戸で知られた高級炭である。『松屋筆記』には、いま江戸で用いる炭の中で天城炭は上品(じょうひん)であり、これは堅炭で石窯を築いて焼く、と説明してある。天城炭の起こりは、安永二年(一七七三)ともいわれるが(『嬉遊笑覧』)、天城御用炭請負人儀兵衛の願書(嘉永二年、『江川文童』)によれば宝暦年間(十八世紀なかば)と記されている。そのころ伊豆の山本文之右衛門という人が紀州熊野地方へ行き、三年間炭焼の業を習ってきて始めたことが古記にみえるという(『静岡県林産物』)。

しかし伊豆地方の製炭は、すでに近世前期からおこなわれており、田方郡狩野村吉奈の点検書には、寛文九年(一六六九)ごろ村民が広漠たる原野を薪炭用材に供しようとして樹木を植えたのが、棚葉山官林となったことを伝えている(『静岡県之産業』)。天城山から年々六五万貫(一〇万俵)の御用炭が生産された。また天城山以外でも各地で炭が焼かれ、農閑期の副業とされた(『一話一言』)。 (70〜71ページ)

(以上「ものと人間」より)


天城と佐倉の位置
参考:天城と佐倉の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
特に天城炭の場合、江戸時代の幕府の「御林」は建材用途が主であったのに対し、この天城山の御林の場合は製炭用の雑木林が用いられていたという点で異例の存在であったと言えます。この「御林」は勘定奉行から韮山代官所に申し渡されて厳重に生育状況を管理され、伐り出された雑木は請負人に無償で提供される代わりに、炭の売上高から所定の運上金を幕府に納める必要がありました。江戸幕府が自らこの様な施策に乗り出した背景には、増大する江戸の炭需要を確保するとともに、その価格の安定という目的がありましたが、他方でこの「御用炭」は江戸城の「御風呂屋炭」として活用される側面もありました。こうした領内の炭の産出に関して領主が強く管理する例は「木炭史」で多数挙げられています(第三章第一節第六項「諸藩の製炭管理」)。

他方で、上の文中でも指摘されている様に佐倉炭が相模から技術指導を受けて改良を図ったと伝えられていますが、「博物誌」では「佐倉付近の炭やきやさんたちが改良したものであろう。」(204ページ)と、必ずしも相模国での炭焼技術がそのまま伝わったものとは見ていない様です。とは言え、少なくとも相模国が当時炭の産地として先進的な存在であったことは確かな様です。次回からこの辺りの事情を各種史料をもとに確認していく予定ですが、まずは相模国全体の炭の生産事情を見るところから始めたいと思います。

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柿について:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。今回は、相模国内の江戸時代の柿渋の貢税の実情を見ていきます。

以前漆を取り上げた際にも、小田原藩領内の各村から漆の貢税の記録が多数見つかることを紹介しましたが、同じ頃に柿渋も貢税の対象となっていたことが、各村の村明細帳の記録から明らかです。今回もかなり長くなりますが、私が確認出来た村明細帳をひと通りリストアップしてみます。まだ遺漏はあると思いますが、御容赦下さい。

  • 寛文12〜13年(1672〜73年):
    • 足柄上郡:
      • ◇菖蒲村(現:秦野市菖蒲):寛文十三年 菖蒲村明細帳([秦]156ページ)

        一柿渋弐斗六升 毎年上納仕候。

      • ◇柳川村(現:秦野市柳川):寛文十二年八月 柳川村明細帳(村かゝみ、[県五]445ページ)

        一柿渋壱斗九升 毎年上納仕候、

      • 萱沼村(現:松田町(やどりき)萱沼地区):寛文十二年八月(十二日) 萱沼村明細帳([県四]397ページ)

        一柿渋御配苻次第毎年出シ申候、

      • 都夫良野(つぶらの)村(現:山北町都夫良野):寛文十二年 都夫良野村書上帳([山]218ページ)

        一柿渋御配布次第每年出申候

      • ◇△平山村(現:山北町平山):寛文十二年七月二十五日 平山村村鏡之書上ヶ之帳([山]274ページ)

        一かき葉三斗三升(御割付次第)宛每年納申候

      • ◇篠窪村(現:大井町篠窪):寛文十二年七月(二日) 篠窪村明細帳([県四]392ページ)

        一柿渋弐斗 員数定毎年上納仕候、

      • ◇塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年九月年 塚原村明細帳(村鏡、[南]131ページ)

        一御厨ヨリ柿渋(カキシブ)九樽宛毎年参候、御厨御代官衆御配苻ニ而人足拾八人宛出シ、田古村ヘ村次仕候、

      • 怒田(ぬだ)村(現:南足柄市怒田):寛文十二年七月 怒田村明細帳([南]266ページ)

        一柿渋弐斗六升宛(御配苻次第)毎年納申候、

      • 飯沢村(現:南足柄市飯沢):寛文十二年七月 飯沢村明細帳([南]455ページ)

        一柿渋、御配苻次第毎年納申候、

    • 足柄下郡:
      • ◇小船(おぶね)村(現:小田原市小船):寛文十二年九月(十七日) 小船村明細帳(下書、[県四]380ページ)

        一 柿渋三升 毎年上納仕候、

      • 永塚村(現:小田原市永塚):寛文十二年七月(六日) 永塚村明細帳([県四]402ページ)

        一柿渋三升 毎年員数定上納仕候、

      • 久野村(現:小田原市久野):寛文十二年六月(十四日) 久野村明細帳([県四]421ページ)

        一柿渋三斗五升宛毎年納申候、

      • 宮上村(現:湯河原町宮上):寛文十二年八月 宮上村明細帳([県五]450ページ)

        一柿しぶも毎年納申候、

  • 貞享3年(1686年):
    • 足柄上郡:
      • ◇菖蒲村:([秦]163ページ)

        一柿渋弐斗六升づゝ 毎年上納仕候。

      • 都夫良野村:貞享三年四月 都夫良野村明細帳([県五]498ページ)

        一柿渋弐升七合毎年納申候、

      • 皆瀬川村(現:山北町皆瀬川):皆瀬川村指出帳([山]203ページ)

        一柿渋弐斗壱升三合毎年納申候

      • ◇川西村(現:山北町川西)貞享三年四月 川西村指出帳([山]243ページ)

        渋柿(ママ)壱斗弐合納来申候

      • ◇神縄村(現:山北町神縄):貞享三年四月(神縄村指出帳、[山]252ページ)

        一柿渋四升五合 毎年納来申候

      • ◇高尾村(現:大井町高尾):貞享三年四月 高尾村明細帳(田畑指出し帳、[県五]453ページ)

        一柿渋七升 年〻上納仕候、

      • △西大井村(現:大井町西大井):貞享三年四月(十二日) 西大井村明細帳(差出帳、[県五]466ページ)

        一御用之柿渋御割苻次第納申候、年ゟ高下御座候、

      • △宮の代村(現:開成町宮台):貞享三年四月(八日) 宮の代村明細帳(指出シ帳、[県五]594ページ)

        一御用柿渋壱斗七合納申候、

      • 金井嶋村(現:開成町金井島):寛文十二年八月(三日) 金井嶋村明細帳([県四]417ページ)

        一御用之柿渋御配苻次第毎年出し申候、

      • △壗下村(現:南足柄市壗下):貞享三年四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、[南]228ページ)

        一柿渋壱斗弐升四合 毎年定納

      • △苅野本郷村(現:南足柄市狩野):貞享三年四月(八日) 苅野本郷村明細帳(指出帳、[県五]476ページ)

        一柿渋九升御配苻次第納申候、

    • 足柄下郡:
      • △蓮正寺村(現:小田原市蓮正寺):貞享三年四月(七日) 蓮正寺村明細帳(指出帳、[県五]523ページ)

        一御用之渋柿(ママ)御割苻次第納申候、但シ毎年弐升三合つゝ納申候、

  • 宝永5年(1708年):
    • 足柄上郡:
      • 皆瀬川村:宝永五年 皆瀬川村指出御帳下書([山]207ページ)

        一柿渋弐斗壱升三合毎年納申候

      • (◇)湯触村(現:山北町湯触):宝永五年二月 湯觸村指出帳([山]233ページ)

        一柿渋弐升七合毎年上納

      • 関本村(現:南足柄市関本):宝永五年二月 関本村明細帳([南]500ページ)

        一柿渋壱斗五合 毎年上納仕候、

注:

  • 村名頭の「◇」は漆の、「△」は大和柿・小渋柿の貢納の記録のある明細帳、なお宝永五年の湯触村については、漆については宝永噴火の降灰の影響で免除されているため、括弧付きとした
  • 出典略号は次の通り、以下でも同様:[秦]…「秦野市史 第2巻 近世史料1」、[山]…「山北町史 史料編 近世」、[南]…「南足柄市史2 資料編近世(1)」、[県四]…「神奈川県史 資料編4 近世(1)」、[県五]…「神奈川県史 資料編5 近世(2)
  • 貞享三年の川西村及び蓮正寺村の明細帳は「渋柿」と記しており、川西村については「山北町史」の解説もこれを踏襲しているものの、近隣の村々の事例や貢納の量が体積で示されていることから見て、「柿渋」の意と解すべきと判断してこちらに含めた。寛文十二年の平山村の明細帳の「かき葉」についても同様に近隣の事例や柿の葉を体積で測る不自然さから見て「柿渋」である可能性が高いと考える


以前まとめた漆の貢税の一覧と大分良く似た一覧になりましたが、どうしてもその時の一覧と対比させながら分析することになりますね。前回の一覧もかなり大きくなりましたので、こちらに改めて転記するのはさし控えます。御手数ですが必要に応じて見比べてみて下さい。

上の一覧で「◇」や「△」印を付して示した通り、中には漆と柿渋の両方を取り立てられていた村もあり、更に大和柿や小渋柿を取り立てられていた村でも柿渋を別途貢上していた村までありました。平山村ではこれら3品が全て貢税の対象になっています。更に、貞享3年の皆瀬川村、川西村、神縄村の明細帳では、天和3年まで「柏皮」の貢税があったことを記していたことも以前紹介しました。この当時の貢税の是非が、こうした品目相互には斟酌されてはいなかったことが窺えます。それぞれに産出があれば何れも貢税の対象とされていた訳ですが、特に当時の主要な塗料として考えられる品目が何れも貢税の対象となっていたことが窺えます。


とは言え、やはり柿の木の方が漆よりも栽培適地が多かったからか、それとも漆から樹液を採取するよりも柿渋を精製する方が容易であったからかはわかりませんが、柿渋の貢税を課されていた村は漆を課されていた村よりも多くなっています。勿論これは、私が見出せた範囲内での比較なので、他の記録を合わせた時に同じ傾向になるかは更に検証が必要ですが、全体としては漆のみを課されていた村よりも柿渋のみを課されていた村の方が多くなっています。

なお、大和柿・小渋柿を課されていた村でも、必ずしも柿渋を課されていたとは限らず、苅野一色村、金手村、山北村、曽我谷津村、高田村、中曽根村については柿渋の貢税の記録がありません。このことは、柿渋のための木が大和柿・小渋柿のための木とは別物であったことを窺わせます。この点からも、やはり柿渋用の柿には渋柿を専ら使っていた可能性が高いと言えるでしょう。

漆の場合は「貫」「匁」と重量で測られていたのに対し、柿渋は「升」「斗」と体積で測られています。私がネット上で漆や柿渋を取り扱っている通販業者を数社確認した限りでは、現在でも漆は大半が重さで、柿渋は体積で測られて販売されています。こうした取り扱いの違いが、少なくとも江戸時代初期には確立していたことになります。ただ、どうしてこの様な違いがあるのかは残念ながら調べ切れませんでした。

こうした単位上の違いがあることもあって、漆と柿渋の量を比較することが困難になっています。強いて言えば漆や柿渋の「比重」を使って相互の比較が可能になるように単位を揃えることも考えられなくはありませんが、前回見た通り柿渋にも「一番搾り」と「二番搾り」があったことからそれぞれの比重(濃度)が異なることは容易に想像でき、漆についても同様の事情が想定出来るので、かなり大雑把な計算に留まる可能性が高いでしょう。更に、毎年どの程度の量を納めていたのかについて、明記がある村とない村があり、この断片的な記録の中でも総量を計算することが出来ず、最終的に小田原藩がどの程度の量の漆や柿渋を毎年集めていたのかについて推し量ることも極めて難しくなってしまっています。因みに、小田原藩側の漆や柿渋の貢税に関する記録は今のところ見つかっていません。

ただ、特に柿渋の場合は平野部でも生産は可能であったと考えられることから、村明細帳が見つかっていない村々からも相当な量を集めていたと考えられ、その点では、絶対量としては柿渋の方が多くなる可能性が高かったと思われます。

なお、漆の方はその一部ないし全量を「浮役」、つまり労務に置き換えて課される例が多々ありましたが、柿渋についてはその様な扱いはなかった様です。また、その賦課方式も毎年納める量を予め数年間の平均で定める「定納」と年々生産量を見て決める方式の双方が同じ年に混在しており、更に寛文12年の都夫良野村の様に漆は「漆四百九拾五匁」と「定納」なのに柿渋は「御配布次第」とされる様に、同じ村でも品目によって扱いが異なる事例まであります。この時期には漆や柿渋の貢税のために毎年かなりの労力を割いて貢税量を定めていたのでしょう。

小田原藩がこれらの柿渋をどの様に扱ったについても記録がありません。前回取り上げた通り、柿渋の用途は多岐にわたっており、小田原城や藩の江戸屋敷などでも相当量が消費されていたとも考えられます。ただ、「ものと人間」によれば

…近世中期から後期にかけての社会風俗を記した『塵塚談』の「渋墨塗の事」の項では、「荷擔桶に渋を入 灰炭を合せかつき歩行 板塀したみなとを一坪に付何分と価を定めぬる事なり この墨塗安永天明の頃までは江戸中に十七人有りけるよし 近頃は三四百人にもなりしよし也」と記している。一七八〇年前後からわずか三〇年後には二〇倍以上にも増加していることは、この間に江戸市中における渋墨塗の需要が急激に増加したことを示している。

(「ものと人間の文化史 115・柿渋」今井 敬潤 2003年 法政大学出版局 102〜103ページより)

としており、建築物としての柿渋利用の需要が伸びて来るのは江戸時代後期としています。この伝では、江戸時代初期にそこまで柿渋を屋敷の建築物に積極的に塗っていたとは一概に言えません。勿論、柿渋についても漆同様に城下で下げ渡していた可能性も十分にあり得ます。


湯触村の位置
南を酒匂川が流れ、北から河内川が合流する地点の
東側の山裾にある(「地理院地図」より)
さて、漆の場合は宝永4年(1707年)の富士山の噴火によって壊滅的な打撃を受け、その後も長きにわたって漆の栽培が再開出来なかった地域があることを紹介しました。これに対し、柿渋の場合は上記の通り翌年の宝永5年に貢税の記録が引き続きあり、しかもそのうち湯触村では、漆については降灰の影響から貢税が免除されているにも拘らず、柿渋にはその様な措置が講じられた形跡がありません。この点から考えると、恐らくは柿については降灰の影響が限定的であったと言えそうです。

しかしながら、これ以降は同じ地域の村明細帳から柿渋の貢税に関する記載が見えなくなってきます。例えば、都夫良野村については延享3年(1746年)の村鑑下書が残っており、これには引き続き漆の貢税が免除されていたことは記されていますが([山]229ページ)、この村鑑では柿渋の貢税に関する記述が見えません。同じ年の川西村の村鑑帳でも同様に漆の貢税の免除の記録があるにも拘らず([山]248ページ)、やはり柿渋の貢税については記述がありません。湯触村の享保6年(1721年)の村鑑でも同様です。その他、篠窪村の享保6年、菖蒲村の元文元年(1736年)と文政12年(1829年)の村明細帳からも柿渋の貢税の記録が消えています。

大和柿・小渋柿の場合は後に貢税が中止されたことが文書として残っていますが、柿渋についてはその様な記録はありません。また、更に時代が下った頃の明細帳の中に
  • 足柄下郡飯田岡村(現:小田原市飯田岡):天保五年(1834年)三月 足柄下郡飯田岡村明細帳(指出帳、[県五]569ページ)

    一柿渋壱升七合宛上納仕候、

  • 足柄上郡怒田村:明治四年(1871年)十二月 怒田村明細帳([南]273ページ)

    一柿渋三斗七升五合(上納)

引き続き柿渋の貢税が課されていたことを記すものもあり、やはり小田原藩の柿渋の貢税が江戸時代後期になって廃止されたと考えるのは正しくない様です。

ただ、柿渋の場合は漆の様に藩の国産方が積極的に増産に動いたことを示す記録もなく、漆ほどには柿渋に期待がかけられてはいなかったのは確かです。一連の村明細帳に現れる柿渋の貢税の記録の密度の減少は、あるいはそうした藩の柿渋への関心度の低下を意味しているのかも知れません。

因みに、柿渋への貢税は相模国内の幕領でもあった様で、事例は少ないのですが
  • 高座郡当麻村(現:相模原市南区当麻):宝永二年(1705年)七月 当麻村村鏡(557ページ)

    一永百弐拾五文 浮役柿渋代納申候、

  • 津久井県下川尻村(現:相模原市緑区原宿など):元禄十二年(1699年)(二月) 下川尻村差出帳(692ページ)

    一永百四拾九文 柿渋代

    三拾八年已前野村彦太夫様(為重)御代官所之節ゟ、久世大和守様(広之)御知行所節迄年〻増減有之、渋ニ而差上ケ候処、拾六年已前都筑長左衛門様(則次)、御代官所之節ゟ永御直シ被成定納罷成候、如何様之積ニ而代永御直シ被成候哉知レ不申候、

(何れも「神奈川県史 資料編6 近世(3)」より)
と、やはり柿渋の貢税があったことを記す明細帳が存在しています。旗本領でも、後年の記録ではありますが
  • 高座郡相原村(現:相模原市緑区相原):明治三年三月 相原村村差出明細帳(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 980ページ)

    一 永八拾六文 柿渋代

    是者、書面之代永年〻相納申候、

と、柿渋の貢税を永銭で納めていたことが記録されています。この相原村の事例からは、幕末には柿渋への貢税が名目化してしまい、柿渋の産出の有無を問わず貢税として課される様になっていたことが窺えます。

次回は、この柿渋の流通を巡る話題を取り上げる予定です。

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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

柿について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回から柿を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯柿足柄上郡中、金手・金子・松田惣領・町屋・神山・神繩・世附・八澤八村より出ず、中に就て金手村なるを金手丸と稱して殊に佳品なり、又同下郡久野村よりも產す、又干柿は足柄上郡皆瀨川・都夫良野二村にて製す、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯柿金手・金子・松田惣領・神山・神繩・世附・八澤七村より出す、中に就て金手村なるをば、金手丸と稱して殊に佳品なり、

    ◯串柿皆瀨川・都夫良野兩村にて製す、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯柿、久野村の產、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


「風土記稿」上で柿の産地として名の挙がった村々
「風土記稿」で柿の産地として挙げられた村々
赤点は柿、青点は串柿(干柿)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
足柄上郡図説では「七村」と記しているのに対して、山川編では「町屋村」を加えて「八村」と書いています。しかし、「風土記稿」中に記録された足柄上郡の村の中には「町屋村」は含まれていません。敢えて探せば松田惣領の項(卷之十五 足柄上郡卷之四)に「町屋」という小名があり、「元祿の國圖に、松田惣領の内町屋村と別載す、」と注記があることから、「山川編」ではこれを取り違えてダブルカウントしたと考えられるでしょう。従って、実質的に山川編両郡図説の記述相互には齟齬はないものと言えます。


他方、各村の記述では
  • 金手村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    當村柿實を產す 金手丸と唱へて佳品とす、

  • 八澤村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    烟草を作り、又柿樹土地に應ずるを以て多く植え、其實を鬻けり、

  • 久野村(卷之三十四 足柄下郡卷之十三):

    產物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

以上の3村については柿について記述があるものの、これ以外の村々については記載がありません。

とは言え、「風土記稿」の以上の記述中には10ヶ村の名が挙がっており、これは「風土記稿」で取り上げられた産物のうち、果実類の中で最多です。そのことを裏打ちする様に、江戸時代の相模国の史料には、柿について記されたものが多数見つかります。今回はこれらを順次紹介することになりますが、その前にまず、本草学の書物に記された柿について見ておきます。

「本草綱目啓蒙」では、

カキ和名鈔

品類多し、和產二百餘種あり集解に載する所は少し蘇頌の説の紅柹はゴシヨガキ、一名コ()リガキ、大和ガキ、元來和州五所と云地より出る者名産なり故に五所ガキとも大和ガキとも云ふ今は地名を改て五瀬と云其柹形扁く大にして、四つに筋ありて四角に見ゆ、蒂も四角なり、故に一名方柹事物紺珠方蒂柹汝南圃史と云此柹核少し上品とす、

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナはひらがなに置き換え、…は中略、ルビはブログ主)

と、品種の点数が極めて多いことを紹介し、上記引用で最上品として名の挙がった「御所柿又は木練柿・大和柿」に続いて各地の柿の品種を多数挙げて解説しています。「大和本草」でも

柿 其類尤多し其形方あり圓あり長あり(ひらき)あり大あり小あり本草所載諸品與本邦所在不同不可牽合本邦には木練あり木(サハシ)あり澁柿あり椑あり諸州に奇品多し京都の木練(コ子リ)を爲上品大和の御所の邑より多出つ故に御處柿と云是亦木練の佳品なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上記に準ず、返り点類は省略、ルビは原文に従う)

と、やはり品種が極めて多いことを記しています。「(もっとも)」という字が用いられているのは、貝原益軒としては果実類の中では最も品種が多いと考えていたということでしょうか。

本草綱目草稿巻3pp56-57部分
「本草綱目草稿」より「柿」の項のページ
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
一部を切り出し補注追加)
本草綱目草稿冊3p54-55間紙片
「本草綱目草稿」に挿入されている
柿の品種を書き並べた紙片
他にも柿に関する記述のある紙片が
数片挿入されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

以前紹介した「本草綱目草稿」の「柿」に対応する箇所を探してみました。この箇所も黒や赤でビッシリ書き込まれたメモが散乱しており、判読するのは極めて困難です。見開きの左端に「柿」の項があり、その手前に「林檎」の項があるのですが、良く見るとその「林檎」の項の更に右側にも「方柿水柿佛爪柿山紅柿」等々柿の品種を書き連ねたと思われる記述が見えています。更にこの箇所でも袋綴じを切り開いて裏面にも「方頂柹」などの書き込みが見えますし、この前後のページには柿の品種などを書き連ねた紙片が数枚挟み込まれています。このうち、上に掲げた紙片の筆跡は明らかに「草稿」本体の細かな書き込みのそれとは異なるもので、あるいは小野蘭山以外の人が書き出したものを、蘭山が受け取ってここに差し挟んだものかも知れません。何れにせよ、蘭山がこれらの品種を限られた紙面にあらん限りで記録し続けていたことが窺えます。因みに、「本草綱目啓蒙」でも「柿」の文量は「林檎」のそれと比較して遥かに増えていますし、更に「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているものには手書きで柿の品種が数点追記されています。それだけ柿は豊富な品種が江戸時代に全国的に栽培されていたこと、また小野蘭山がその情報を少しでも収集しようとした経緯が「草稿」から窺えます。

なお、「本草綱目啓蒙」「大和本草」「本草綱目草稿」何れでも、柿の産地として挙げられた地名の中に「相州」ないし相模国内の地名を見出すことは出来ません。「草稿」は判読困難な部分も多いので、その中に相模国の地名が埋もれているかも知れませんが、私が読めた範囲では見つけることは出来ませんでした。また、「本朝食鑑」でも相模国の名はなく、甲駿より東の柿については味が良くないと評しています。

とは言え、柿は相模国でも比較的早期から栽培されていたと思われます。そのことを裏付けると考えられる史料の1つとして、先日紹介した天正19年(1591年)の足柄上郡柳川村の検地帳を改めて取り上げます。

柳川村は「風土記稿」で柿の産地の1つとして挙げられた八澤村の北東に位置していますが、天正19年の検地帳では全324筆中47筆に「柿」の表記がありました。柳川村の田畑の15%ほどが、畔に柿のある景観であったことになります。その全部を書き出すことは出来ないので、ここでは柿の記載のある畑のうちから最初の8例を書き出してみます。
同所
拾三間
拾壱間半
桑・漆三方有、柿木十五本有之、
壱反大九拾八歩
助十
拾弐間三尺
桑・漆三方有、柿十五本有、
壱反小四拾壱歩
せいふ峯
拾八間
拾壱間
桑二方有、柿三本有之、
弐反半四拾弐歩
寺領
宗円
かいと
拾壱間
八間半
栗・柿十五本有之、
壱反七拾四歩
同所
拾六間半
桑よこ一方有之、栗・柿十三本有之、
壱反七拾弐歩
同所
拾三間
八間半三尺
桑立一方有、栗・柿三本有之、
壱反半五歩
同所

七間三尺
桑よこ一方有、柿五本有之、
大九拾歩
同所
拾壱間半
柿木二本有之、
半三拾四歩

(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」516、518ページより、強調はブログ主)


「天正19年足柄上郡柳川村検地帳」に含まれる柿の本数
1 本11 筆
2 本7 筆
3 本11 筆
4 本8 筆
5 本5 筆
6 本1 筆
13 本1 筆
15 本3 筆
合計47 筆
この検地帳では、桑や漆の場合は「方」という表現で田畑の縦横の辺のうち何本に植えられているか、という表現になっているのに対し、柿や栗の場合はその本数を記載する表記になっています。全47筆の柿の木の本数の分布は右の表の様になっており、一部の畑で13~15本と比較的多数の木が植えられている以外は1〜6本と比較的少数に留められています(「柿・栗」と併記されているものについては、内訳不明のため記載されている本数をそのままカウントしています)。13本以上の柿や栗が植えられている畑は何れも1反(約0.1ha)以上の比較的まとまった広さがあり、これだけの本数を畔に植えるためにはその分だけ畔にも余裕が必要だったことが窺えます。

これが何を意味するのかは、この検地帳自体が同時期の周辺地域のものにはない異例のものとなっているだけに、解釈が難しいところです。一つの可能性としては、比較的高木になりやすい柿や栗は田畑の日陰にならない様に四隅などに控えめに植える必要があったのに対し、特に桑の場合は枝を取る関係で樹高が比較的低くなるので、四辺を使って植えていた、というものです。しかし、漆はそれほど低木という訳でもない上に、戦国時代末期まで遡った時に桑の木が低くなるほど枝を取る栽培法であったかどうかによっては、この説明は多少苦しい面があると思います。

もう1つ考えられる説明としては、検地帳の記録であることからここに記された作物も貢税の対象となっており、その課税単位が桑・漆と柿・栗で異なっていた、という可能性です。特に桑の場合、

桑の木に課せられる税は、桑代といわれていた。寛喜三年(一二三一)四月の、幕府(執権泰時)の沙汰のなかでは、桑代の徴収について記されている。また『庭訓往来』「三月状往」のなかでも、畠の作物に課す税金について述べ、さらに桑代を課すべし、と記してある。『庭訓往来註』では、「桑ハ百姓畑山畠ノ畔ニ必ス桑ヲ(ウエ)ル、其代ヲモ取ラルベキナリ」と説明している。畑の畔に植えてある桑の木ごとに税をかけるとは、かなりこまかい徴税の仕組みであったと思われる。藩によっては、桑一本につき真綿一匁五分という現物納もあった(『近世農民生活史』児玉幸多)。

この、「畑山畠ノ畔ニ必ス桑ヲ種ル」であるが、桑を畑の全面に植えるということは、まだ一般的ではなかったように思われる。広い領有地ならいざ知らず、一般の農家では、桑を畑全面に植えるだけの余裕はなく、家の周囲や畔に桑を植えていたと思われる。後年の江戸期にも、桑は畑の畔に植えるように、と書いた農書がいくつもある。

(「ものと人間の文化史 68-Ⅰ・絹Ⅰ」伊藤智夫著 1992年 法政大学出版局 179~180ページより)

と、中世の比較的早い時期から桑への課税が検討され、またその桑は古くから畑の畔を利用して栽培されていたことから、徳川家康が関東に乗り込んできて最初に行ったこの検地帳にもそれまでの小田原北条氏の貢税の事情が反映した、という説明も出来そうに思えます。ただ、それであれば同じ時期の近隣の村々の検地帳に同様の記載がなされなかった点が不自然になってきます。

また、柳川村の検地帳だけがこれらの作物について記しているだけに、田畑の畔に桑・漆・柿・栗を植えるのが戦国時代末期の小田原北条氏領においてどの程度普遍的なものであったと言えるのかについても、この検地帳だけでは一概に言えないところです。可能であれば同時期の他の史料でこれらの作物の生産事情が裏付けられると良いのですが、私も今のところはそこまで掘り下げることが出来ていません。

しかし、田畑の周囲の畔を使って柿や桑などを生産する農業環境が、小田原北条氏の頃から多少なりとも相模国に既にあった可能性を、この検地帳は示唆していると言って良いでしょう。江戸時代の相模国の柿栽培もその点で、小田原北条氏の時代からの延長線上にあると言えるのかも知れません。

次回は江戸時代初期の柿の貢税について見る予定です。

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