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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その1)

前回の記事で紹介した通り、「国立国会図書館デジタルコレクション」が12月21日にリニューアルされました。

具体的なリリース箇所は、プレスリリースのPDFにある通り、
  1. 全文検索可能なデジタル化資料の増加
  2. 閲覧画面の改善
  3. 画像検索機能の追加
  4. シングルサインオンの実現
ですが、この中で最も大きいのは「全文検索可能なデジタル化資料の増加」でしょう。前回の記事で追記した通り、古典籍資料の崩し字のOCR結果は対象外となっているものの、それでも「5 万点から約 247 万点」と大幅に対象となる資料の点数が増えました。

そこで、今回はこれまで私がこのブログで取り上げた項目について、今回のリニューアルで新たな資料を見出すことが出来る様になったかどうかを試してみることにしました。


1つ目は、旧東海道が相模川を渡河する地点に明治時代に入って以降に架橋されては流失を繰り返した「馬入橋」です。その過程についてはまだ充分に史料を集め切れていない状態ですので、今回の全文検索拡充で何か新たな発見がないかに期待して、検索を試みました。

単純に「馬入橋」とだけ検索キーを指定すると630件もの資料がヒットします。これでは全てを確認するのが困難ですので、明治元年から明治45年の間に刊行された資料に絞り込むと、40件の資料がヒットしました。何れもタイトルをはじめ従来の項目を検索したのではヒットし得ない資料です。

これらを1つ1つ見ていく中で、これまで私が気付いていなかったものがかなりの点数見つかりました。但し、「国立国会図書館内限定」資料は閲覧出来ていませんので、今回は「ログインなしで閲覧可能」な資料と「送信サービスで閲覧可能」な資料のみを確認しています。

まず、「神奈川県県治一斑」と題された一連の資料が4件ヒットしています。それぞれ明治19年(1886年)明治20年明治22、3年明治27年のものです。これらの資料は神奈川県内の統計をまとめた資料で、「馬入橋」が登場するページは神奈川県内の主要な橋の名称、所在地、橋の主な材質(鉄か木か)、長さ、幅の各項目が一覧にまとめられており、馬入橋は4件とも「大住郡(須馬村馬入)/木/120間/3間」と記されている点が共通しています。

ここで問題となるのは、該当する馬入橋の架設時期と落橋した時期です。以前の私の記事でも触れた通り、馬入橋は明治16年(1883年)には木造トラス橋として架設されたものの、「明治工業史 土木篇」(工学会・啓明会編  1929年)によれば「架設後八九年にして流失」してしまったとされています。ここから判断すると、馬入橋は明治24~25年には落橋してしまっていたことになります。しかし、上記一覧では明治27年にも現存しているかの様に記されています。つまり、明治27年の「神奈川県県治一斑」と「明治工業史 土木篇」には齟齬があることになります。

この齟齬はどの様に解するべきなのでしょうか。そこを考える上では、ヒットした資料のうち一連の「官報」を見るのが良さそうです。なお、ここでは「馬入橋」の他に「馬入川」で同様に明治期の資料を検索した結果も含めています(以下「…」は中略、強調はブログ主)。

明治18年(1885年)7月7日(官報第604号):

◯水害續報…神奈川縣ノ水害續報ニ據レハ管下相摸川及酒勾川ハ去月廿九日己來强雨ノタメ出水甚シク爲ニ人家數戸流亡溺死者貳人アリ又馬入橋ハ本月二日落失セリ(神奈川縣報告)

明治18年(1885年)7月9日(官報第606号):

◯水害續報…神奈川縣 官報第六百四號ニ掲載セル神奈川縣水害續報中馬入橋落失トアルハ誤󠄁報ニシテ該橋ハ橋臺ノ損傷ニ止マリ一時通行ヲ差止メタルモ其ノ後修繕ヲ加ヘ既ニ開通セリ(神奈川縣報告)

明治25年(1892年)7月28日(官報第2725号):

◯暴風雨水害…神奈川縣ニ於テハ去ル二十一日午後七時ヨリ翌二十三日夜ニ至ルマテ强雨ノタメ…高座郡ニテハ相模川ノ增水殆ト一丈三尺ニ至リ渡船ハ總テ停止シ且ツ東海道筋馬入川架橋墜落ス…(神奈川縣)

明治27年(1894年)8月14日(官報3338号):

◯風雨水害等…神奈川縣…馬入川滿水東海道筋馬入橋六十間餘流失次第ニ減水人畜死傷ナシ本月十一日午後十時十四分神奈川縣發

明治29年(1896年)9月10日(官報3962号):

◯雨水被害…神奈川縣…相模川厚木町ニテ一丈五尺、全町床下マテ浸水馬入橋八十間流失…一昨八日午後九時神奈川縣發


まず、3番めの明治25年の記事には馬入橋が落橋したことが記されています。これは「明治工業史 土木篇」の「架設後八九年にして流失」という表現から考えられる落橋時期と一致するので、木造トラス橋が失われた年月日を特定する記事と考えて良さそうです。しかし、そのわずか2年後と4年後に橋の一部が流失したとの報告が官報に掲載されています。その間に馬入橋は再建されたことになります。

この状況の理解を助けてくれる記事が載った資料が、全文検索でヒットした別の資料の中にありました。明治24年の「一馬曳二輪車試験行軍実施報告写」という資料で、これは当時の軍部が作戦遂行上重要と考えた東海道や大山道といった道路について、馬や車の通行が充分確保できるかどうかを実地で検証したレポートです。

第十日三月二十六日/晴 本日小田原出發藤澤ニ向テ行進ス本日ヨリハ東海道ナルヲ以テ道路平坦土質砂礫ノ硬固ナルモノニシテ車輌ノ運轉容易ナリ…行程中酒匂川馬入川アリト雖トモ堅固ナル橋梁ヲ架設シ唯馬入川橋梁流失セル部分二百五十米突ハ假橋ニシテ幅二米突ナルモ欄杆ヲ付シ車輛ノ通過ニ妨ケナシ

(合略仮名などは適宜カナに分解)


「神奈川県県治一斑」では馬入橋は全長120間(約218m)とされていましたが、この資料の「250m」はそれを超える長さとなっています。このことから、落橋したと考えられる明治25年の1年前の時点で、馬入橋は既に「仮橋」の状態に変わってしまっていたと考えられます。完成当初は3mの幅があったのに対し、仮橋に置き換わってしまった区間は2mに減じていたものの、車両の通行はどうにか可能な状態を維持していたとされていますが、既に木造トラス橋の姿は失われていたことになるでしょう。

更に、官報には明治18年にも馬入橋は橋台の損傷を受けたという報告が上がってきています。明治16年に木造トラス橋が竣工してからわずか2年しか経過していないことになるのですが、これほど近い時期にこの様な報告があったとなると、実際は報告が上がらない程度の小破は明治25年の落橋前までの間しばしばあったのかも知れません。

全文検索でヒットした資料の中には、明治26年に刊行された「凶荒誌」(梅森三郎 編 有隣堂)という書物もありました。日本の歴代の災害を時系列にまとめたものですが、その明治17年の項に

七月一日…神奈川縣多摩川、相摸川、酒勾川、洪水潰家百余戸溺死十一人負傷三十八人馬入橋落墜ス

と記されています。官報は明治16年7月2日から刊行が開始され、同年中には既に風水害によって架橋に損傷があった場合に掲載された事例があったことを考えると、「凶荒誌」の記す明治17年の官報には馬入橋の損傷や落橋に関する報告がヒットしていない点は齟齬である可能性があり、「落墜」という表現が正確かどうかは検証が必要です。しかし、これも多少なりとも馬入橋が損傷を受けた事例ということになるのかも知れません。そうなりますと、明治16年に竣工した木造トラス橋は早くも翌年から損傷を受けていたことになります。


この様に、損傷しては仮橋で通行を確保し続けていた経緯を踏まえて考えれば、馬入橋は明治25年以降も仮橋の状態で通行を何とか確保していたということになるのでしょう。そして、その仮橋も2年毎に大規模な損傷を受けては架設し直すという、極めて脆弱で負担の大きい運用を続けていた様子が浮かび上がってきます。

しかし、飽くまでも「仮橋」であることから、何れは本設の橋を「復旧」させたい意向はあったのかも知れません。それが明治27年の「神奈川県県治一斑」でも従前のデータが維持され続けた理由なのでしょう。その後の馬入橋の本設の経緯についてはまだ充分な資料がないために明確ではない部分が多いのが現状ですが、これほどの頻度で馬入橋の修繕が必要な運用を長期間にわたって続けるのは、その労力や経費負担の面でも過重な状況であったことは想像に難くありません。

因みに、全文検索でヒットした資料には、上記の様な馬入橋の損傷に関するものの他に、馬入橋を経由したことを示すために名前が挙げられているものが数多く含まれていますが、それらの中に少し毛色の違うものがありました。

八月五日…午后一時出發と定む。三人道を大佛坂の切通しにとり、藤澤驛を經て、四時茅が峠(ママ:茅ヶ崎か)に夕食をなし、夕暮馬入橋に到る。時に月出て、天水の如し。今宵(こよい)はこゝに觀月の宴を開かんと、橋の中央に座をかまへ、雑談に時を移すに、吹く河風の涼しさ、骨まで()え渡る心地す。

(「運動界」第1号第5巻 明治30年(1897年)11月 運動界発行所、ルビも同書に従う、傍注はブログ主)


橋の中央に居座って月見がてらに夕涼みに興じるとは、仮橋で2間まで幅を減じていた馬入橋の上ではかなり邪魔になりそうな状況ですが、見方を変えればそのくらいに日没後の通行量は少なかったのでしょう。当時のスポーツ雑誌に記載された富士登山の行程を記した紀行文ですが、この様な思いがけない資料が出てくるのも全文検索ならではと言えるでしょう。

何れにしても、「馬入橋」の検索結果はこれまでにない多くの発見をもたらしてくれました。無論、郷土史の資料は国立国会図書館だけでは充分に網羅されておらず、地方のみに存在するものも数多くありますので、これで全てを発見できた訳ではないことは言うまでもありません。また、OCR精度による制約も引き続き存在しているものと考えられますが、それでもこれだけの大きな成果が得られるという点で、今回の全文検索のリリースは大きな進歩と言えそうです。

今回はひとまず「馬入橋」を検索した結果の分析のみに留め、次回他の検索結果をもとにもう1回レポートをまとめる予定です。

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「木賀の山踏」(竹節庵千尋)往路の「四ッ谷の数珠」

以前、「七湯の枝折」の「禽獣類」を取り上げている際に、「木賀の山踏(やまふみ)」(竹節庵千尋 天保6年・1836年、以下「山踏」)中の「雲雀」の記述について急遽検討する回を設けました。今回はその「山踏」から、往路の記述に登場する疑問点を分析してみたいと思います。「山踏」についての紹介は上記記事を参照下さい。

3月7日(グレゴリオ暦4月17日)早朝に江戸を発った千尋は、途中から駕籠を使ったこともあって一気に藤沢まで進んで一泊、翌朝も早く出発します。宿場を外れて松並木に差し掛かる辺りで日の出となり、その様子を歌に詠んだ続きの箇所の記述に、幾つかの問題があります。

平塚の手前少しの家居あり四谷木幡なんとの名ありこの所数珠玉又菅のたすき商へるなれは

堀の内道の四ツ谷にあらねとも

ひさくは数珠の玉たすきかも

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 402ページより、以下も含め強調はブログ主、以下「山踏」の引用は全て同書より)


「木賀の山踏」四ツ谷・小和田の位置関係
四ツ谷・小和田の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
また「今昔マップ on the web」も参照のこと)
東海道五十三次之内藤沢四ツ谷立場
歌川広重「東海道 五十三次之内」(蔦屋版東海道)中
「藤沢 四ツ谷の立場」(再掲)
Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Public domain.)

まず、「四谷木幡」の位置が問題です。馬入の渡しを渡るのはこの次の記述に登場しますので、藤沢宿と馬入の渡しの間に位置することにはなります。その間の「四谷」と言えば、やはり田村通り大山道の分岐点に当たる「四ツ谷」ということになるでしょう。しかし、上の地図に見える通り四ツ谷は藤沢宿を出てまだそれほど進んでいない場所にあり、「平塚の手前」と言うにはちょっと距離があり過ぎる様に思えます。

「木幡」は更に難問で、少なくとも東海道沿いには「木幡」という地名は存在しません。何らかの誤記である可能性を織り込んで付近の地名を検討すると、「木幡」を「こはた」または「こばた」と読んだ場合に「小和田(こわだ)」が比較的近いことに気付きます。ここであれば四ツ谷からも比較的近く、両者を併せて呼んだことも理解できます。しかし何れにしても、まだ平塚まではかなり距離があることには変わりありません。

初日は品川宿の辺りから駕籠に乗ったことを記しており、2日目も大磯から駕籠を利用したことが記されていますので、藤沢から大磯までは歩いていたと考えられます。従ってこの地名は駕籠かきからの伝聞ではないことになります。もっとも、駕籠かきであれば地元の地理にはそれなりに明るいと考えられ、この様な曖昧な回答を返してくる可能性はあまりなさそうです。

この道行きは千尋独りだった訳ではなく、

亦連なる人は小山安宣ぬし、同じき内方、横井何某の息命常、予が妻をも具しつ。

(401ページより)

と同行者がいたことを最初の方に記しています。「四谷木幡なんとの名あり」の地名の精度が低いのは、「なん(なむ)」という推量が入っていることから考えると、同行者からの伝聞を記しているからなのかも知れません。



次に、この土地で「数珠玉」や「(すげ)のたすき」を売っていたという記述が気になります。該当地が田村通り大山道の分岐点であったとすれば、大山詣での参拝客を当て込んでその様な商いをしていたとしても不思議ではありません。ただ、この追分に茶屋があったことを記す紀行文はしばしば見られるものの、こうした土産物を販売する商いの存在を記しているものは珍しいと思います。少なくとも、私がこれまで読んだ紀行文・道中記はあまり本数は多くありませんが、その中ではこれが唯一の例です。

「人倫訓蒙図彙 6巻」数珠師図
「人倫訓蒙図彙 6巻」数珠師図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より該当箇所抜き出し)
この数珠玉やたすきは何処でどの様に作られていたものなのでしょうか。数珠については江戸時代には「数珠師」と呼ばれる専業の職人がいたことが、「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」(元禄3年・1690年刊)などに記述が見られます。しかし、江戸市中や京都上方、あるいは大きな寺社の門前町ならばさておき、大山までまだ道のりを残す地点で専業者が拵えるほどの品質の数珠が売られていたとは考えにくいものがあります。四ツ谷は大山詣での帰路に江の島や鎌倉へ向かう参拝客も多く通過する地であり、藤沢宿の遊行寺などへ向かう客の方をターゲットとして考えていた可能性もあるものの、藤沢の宿内まではまだ少し距離があり、やはり高級な品質の数珠を扱っていたとは考えにくいところです。


まして、「菅」で作る「たすき」とはどの様なものなのか、皆目見当がつきません。よもや和服の袖や袂をたくし上げるためのものをこんな所で売っているとは思えませんし、数珠とともに売っているものなのですから、この「たすき」も仏具のうちなのでしょうが、江戸時代のもので該当するものが思い当たりません。現在では髭題目を記した短冊を「おたすき」と呼んで販売している例はある様ですが、「山踏」のこれも該当すると考えるには、それが「菅」で作られている理由が不明です。

「菅」とは一般には「菅笠」や蓑、縄などを作る際に用いられる「カサスゲ」などのスゲ科の植物ですが、スゲ科には日本には269種、神奈川県内でも86種が自生していることを県立生命の星・地球博物館のページで紹介しています。池や川岸などの湿地に生えることから、付近の引地川沿いなどの秣場で容易に得られると考えられるものの、如何せん「たすき」がどの様なものかが不明なので、それをどの様に加工したのかも全く見当がつきません。

一方の数珠玉の方はどうでしょうか。「和漢三才図会」の「数珠」の項(巻第19「神祭附佛供器」)では

數珠功德經佛告曼珠(モンシュ)室利(シリ)法王子數珠之體種種不カラ文繁故畧テハルコト無量也菩提子水晶蓮子木槵眞珠珊瑚等皆各其次也

△按數珠修業ムルサラ懈怠之具釋氏必用之物如縉紳之(シャク)武士之刀今以水晶琥珀硝子(ヒイトロ)水晶菩提子、桑槐、黑柹、紫檀(シタン)、梅木等皆性不

「国立国会図書館デジタルコレクション」の中近堂版より、但し不明瞭な箇所は「デジタルコレクション」上の秋田屋太右衛門版や東洋文庫版の「和漢三才図会」(4、1986年 275〜276 ページ)を併せて参照、返り点なども同書に従う、「…」は中略、強調はブログ主)

と、菩提樹の実を最良とし、他に水晶、蓮の実、ムクロジ、眞珠、珊瑚、あるいは槐、黒柿、紫檀、梅の実など硬いものを上物としています。

「成形図説」巻之二十「薏苡」(ジュズダマ)
匿名 - ライデン大学図書館,
CC 表示 4.0,
Wikimedia Commons
一方、東洋文庫版の「人倫訓蒙図彙」(朝倉治彦校注 1990年 平凡社)の補注には

数珠師 『雍州府志』巻七、念珠の条に「京極道ニアリ、雑品木ヲ以テ之ヲ造ル。或ハ菩提樹ノ実、或ハ水精、琥珀之類、又婦人之用ル所ノ念珠百八箇、半ハ黒檀顆ヲ用イ、半ハ水精顆ヲ用ユ。是ヲ半装束数珠ト謂フ。又山伏之用ル所ノ其顆小匾ニシテ圭角有リ。是ヲ最多角数珠ト謂フ。各好ム所ニ随ツテ之ヲ有ス。之ヲ珠数屋ト謂フ」。一般にはズズダマの実、ムクロジュの実を使用した。『国花万葉記』に「寺町通南北所々に多し」とある。

(上記書302~303ページより、強調はブログ主)

とあり、「雍州府志」という天和2年〜貞享3年(1682〜1686年)に書かれた山城国(京都一帯)の地誌を引用して「和漢三才図会」に近い素材を各種挙げています。そして、一般論として水田の畦に自然に生えてくる「ズズダマ(薏苡(よくい)、ジュズダマ)(リンク先は「跡見群芳譜」)」の名が挙げられています。

付近の迅速測図(リンク先は「今昔マップ on the web」)などに見られる当時の土地利用を見ると、砂丘地帯に当たるこの付近では田畑が多く、林は何れも松林になっていました。特に小和田村の林は

一御林七ケ所    小和田村地内

但/字西出口山  壱ケ所/字浪山    同/字稲荷山   同/字伊勢山   同/字西蔵山   同/字東蔵山   同/字浜須賀山  同  木立松

反別四十壱町五反三畝十三歩半

木数三万五千弐百壱本

(「藤沢宿分間書上諸向手控」から、「藤沢市文化財調査報告書 第56集」2021年 藤沢市教育委員会 所収 (26)ページ、一部改行を「/」で置き換え、語順を意味に沿う様に入れ替え、以下「手控」)

と、村民が自由に利用できない松の「御林」が7箇所もあり、林の木を勝手に伐って利用するのは難しい環境にあったことがわかります。四ッ谷のあった羽鳥・大庭・折戸・辻堂の4ヶ村では、「手控」に記された「御林」は大庭村の「大庭山」(恐らくは大庭城址の「城山」を指すと思われる)の杉林のみで、その点では小和田村よりは自由度があったものの、松林では林床に生えてくるものも乏しく、ましてや水晶の様な鉱物資源を得られる土地ではありませんから、数珠に加工するための素材を得るには厳しい環境であったと考えられます。その点で、このジュズダマであれば四ッ谷や小和田周辺でも容易に入手できそうです。


しかし、本草学の書物では

●和漢三才図会(卷第百三「薏苡仁」の項):

本綱薏苡仁所在有之二三月宿(フル)(セ(ママ:ネか))二三尺葉粘黍(モチキヒ)五六月抽紅白花靑白色形如ニシテ珠子(スヽノタマ)而稍長小兒多以(イト)穿ニシテ貫珠(タハムレ)

一種 シテ而殻厚堅硬(カタキ)菩提子也米少粳𥽇也但可穿(ウカチ)念經數珠故人亦念珠

△按…其實靑白色滑カニ形團(チト)白絲三條略乾クトキハ則絲(ヌケ)上下通小兒貫以爲念珠

二種而一種売薄米多一種壳厚米少タリルニ念珠故曰菩提子菩提樹之()同名ニシテ而別也

「国立国会図書館デジタルコレクション」の中近堂版より、但し不明瞭な箇所は「デジタルコレクション」上の秋田屋太右衛門版や東洋文庫版の「和漢三才図会」(18、1991年 148〜150 ページ)を併せて参照、返り点なども同書に従う、「…」は中略、強調はブログ主)

●大和本草(卷四「薏苡仁」の項):

…又菩提子ト云藥ニ不俗用テ數珠トス實少ク味薄シ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)

●本草綱目啓蒙(卷之十九穀之二 「薏苡仁」の項):

…一種ジュズダマ一名ヅシダマ和名鈔スヽダマ豫州ズヾゴ東國ハチコク上總スダメ三州スヾダマ阿州ズヾダマ新挍正野邉荒廢ノ地ニ多シ春宿根ヨリ多ク叢生ス莖葉ハ薏苡ニ異ナラズ子大ニシテ白色光リアリ或ハ黑色或ハ黑白斑駁皆皮甚厚硬擊トイヘトモ破レズ實中ニ自ラ穴アリ穿テ貫珠(ジュズ)トナスベシ小兒採テ玩トス野人用テ馬飾トス是救荒本草ニ載スル所ノ川穀ナリ…

国立国会図書館デジタルコレクションより、強調はブログ主)

とされ、特に「和漢三才図会」の方は「菩提子」と呼ばれる種類の「薏苡」については念珠にすることもあるものの基本的には子供の遊び道具という認識を示しており、「本草綱目啓蒙」も数珠としての用途を書いた直後に子供の遊びに使われていることを挙げています。対して「大和本草」は数珠に俗用されることがあったことのみを指摘しています。こうした違いを踏まえ、江戸時代にジュズダマで作った数珠がどの様な位置付けであったか、更に当時の実情を書いたものを参照していく必要があります。

「和漢三才図会」や「雍州府志」が挙げる数珠の材料が何れも四ッ谷・小和田周辺では手に入りにくいと考えられる中、また大山詣でなどの道中の茶屋で販売して引き合いがあるのであればそれほど高価なものであったとは考えにくい中で、「山踏」の頃に四ッ谷で売られていた数珠が何を使って作られていたのかは、更に可能性を探してみるしかなさそうです。



そして、千尋がこの様子を見て詠んだ和歌にも問題があります。「堀の内道の四ツ谷」ではないけれど数珠玉やたすきを売っているのか、という意味になりますが、この「堀の内道の四ツ谷」とは何処のことでしょうか。

「江戸名所図会 7巻」堀の内妙法寺
「江戸名所図会 7巻」堀の内妙法寺
(「国立国会図書館デジタルコレクション」から)
「東都名所之内 堀之内千部詣」(歌川広重)
歌川広重「東都名所之内 堀之内千部詣」
(「ボストン美術館デジタルコレクション」から)

差し当たって「堀の内道」の候補となるのは、「妙法寺参詣道」かも知れません。多摩郡堀之内村(現:東京都杉並区堀ノ内)に位置していた日円山妙法寺は、江戸時代の後期に厄除けの御利益で知られる様になり、江戸から参拝に訪れる際に青梅街道から多摩郡本郷村(現:東京都中野区本町)の鍋屋横丁で分岐して堀之内村へ向かうこの道が使われる様になりました。

「山踏」の天保6年には、小田原藩士の千尋が江戸詰めになってから既に18年は経過していましたから、江戸 市中での諸事情にそれなりに明るくなっていてもおかしくはないと考えられます。妙法寺についてもその評判を伝え聞いていた千尋が、東海道筋の四ッ谷を詠む際にこの寺のことを思い出したのかも知れません。

ただ、妙法寺へ向かう途上で数珠などを売る店があったとしてもおかしくはありませんが、「四ツ谷」との兼ね合いが良くわかりません。千尋がこの様な歌を詠むからには、「堀の内道」や「四ツ谷」、更には沿道の数珠の店が当時それなりに世に知られていないと、読み手にその意を汲んでもらえなくなってしまいます。しかし、甲州街道の大木戸門があった四ツ谷(現:東京都新宿区四谷)からでは鍋屋横丁はかなり隔たっていますし、他に該当しそうな「四ツ谷」地名の場所は「堀之内道」の沿道には確認できませんでした。何れにしても、この歌に詠まれた場所や店については更に探してみなければなりません。

田村通り大山道の追分に当たる四ッ谷の様子を書いたものは必ずしも多いとは言えない中、「山踏」のこの箇所の記述は貴重な存在と言えるかも知れないものの、この様に疑問点が多く、当時の様子を窺い知る史料として使えるかどうかについては更に他の史料を探してみるしかありません。数珠などの販売がごく一時的なものであった可能性も考えられますが、ひとまずのメモとして書き留めておく次第です。

「山踏」については後日改めて別の場所について取り上げたいと思います。
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相模国の香蕈、高座郡の初茸と松露 補足

今回は以前の記事で書き漏らした点を2つほど補足します。

まず、前回、相模国の椎茸を取り上げた際に、各種の菌譜が毒きのこへの懸念を背景に製作されたことを指摘しました。それに絡んで以前の記事を使うつもりだったのをうっかり落としてしまったので、改めてここで触れ直します。

足柄上郡川西村の「男女妙薬 食物くい合いろは歌」を以前紹介しましたが、その中でもきのこに中った際の対処について記した箇所が2つほど見つかります。

  • ト:鳥。きのこ。うをにゑいたる ことあらば/紺屋のあいを のみて妙薬
  • 一きのこにゑたるには 竹がわせんじのむべし 竹がわなくば竹がわのぞうりをせんじて用めべし 妙也

(「山北町史 史料編 近世」1361、1364ページより、ルビは一部省略、歌中の改行は/に置き換え)


もっとも、ここではきのこに「ゑ(い)たる」、つまり「酔う」という言い方なので、その点ではあまり症状の重くない中毒を考えていたのかも知れません。「紺屋のあい」、つまり藍染めに使う藍や竹の皮が効くとしている訳ですが、前者については「和漢三才図会」の「藍」の項に「汁 殺百虊毒及蜂蜘蛛斑蝥砒霜石等」(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)とあり、また後者については同じく「和漢三才図会」の「竹筎(ちくじょ)」の項に「俗云竹甘膚(アマハダ)…治嘔啘吐血鼻衂(ハナチ)五痔腸曀傷寒勞復婦人胎動小兒熱燗」(同じく「デジタルコレクション」より)などと書かれています。いろは歌にある効能とは必ずしも合っていませんが、あるいはこうした漢方処方の知識が断片的に民間に伝承し、ものによっては変化が加わったのかも知れません。

何れにせよ、きのこ毒も蛇毒と同様に、江戸時代当時には山中の村で暮らす人々には主要な懸念の1つではあったことが、この「いろは歌」からも窺えると思います。



一方、前回の記事では、菌類が神奈川県のレッドデータブックに取り上げられたのは2006年版が最初であることを記しました。先日高座郡の初茸と松露を取り上げた際には、このレッドデータブックの内容については触れていませんでした。

豊島屋本店の「三品漬」で必要となる初茸と松露のうち、2006年版のレッドデータブックでは松露が次の様に記されています。

ショウロ Rhizopogon rubescens (Tul. & C. Tul.) Tul. & C. Tul. (ショウロ科 Rhizopogonaceae

県カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類

判定理由:生育環境が減少傾向にあるため

生育環境と生育型:春、海岸のクロマツ林床の土壌中に子実体を形成。マツの根に外生菌根性。

生育地の現状:海岸沿いのクロマツ林が減少している。

存続を脅かす要因:管理放棄、自然遷移

県内分布:横浜市、藤沢市茅ヶ崎市

国内分布:各所のクロマツ林

標本:(省略)

特記事項:本種は、かつて県下では湘南海岸などに多産し、産業的にも収穫されて銘菓の材料などに用いられていたという。人手が入り管理されていた海岸沿いのクロマツ林が減少したことにより、本種の発生は著しく減少したものと考えられる。他方、本種は、撹乱地を好むということも知られており、新たに造成された公園などに発生することがあり、国内移入の可能性も否めない。里山のような人間生活と自然とが調和した環境を象徴する種であり、今後、本種の生育環境が再現されることが望まれる。本属は、現在ではハラタケ目イグチ科に置かれるが、ここでは腹菌類として旧来の分類学的所属を適用した。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書 2006」2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 157〜158ページより)


銘菓の材料などに」という記述が「三品漬」や同じ豊島屋本店の「松露羊羹」を指していることは確かでしょう。前回触れた通り、現状では菌類の神奈川県内の分布に関しての研究の蓄積が乏しく、判定に難儀する中で、こうした食用のきのこについては過去の生産事例なども参考にした様です。松露の場合は単に松林があるだけでは生息環境の十分条件とはならないことを重く見たということになるでしょうか。

一方、同じく「三品漬」で必要となる初茸については「神奈川県レッドデータブック」では取り上げられていません。「日本のレッドデータ検索システム」では、ショウロについては神奈川県を含む9府県が何らかの絶滅カテゴリーに指定しているのに対して、ハツタケについては京都府と愛媛県が「準絶滅危惧種」カテゴリーに指定しているに留まっており、この比較を見る限りでは、ハツタケの生息環境はショウロほどには切迫した状況にはなっていないと判断している府県が多いと言えます。もっとも、現状では菌類をレッドデータ判定の対象としていない都道府県もあるので、今後菌類の地域分布の研究が進んできた時にどの様な判断になるかはまだ流動的とも言えそうです。

また、ハツタケの生息環境をもう少し詳しく調べてみると、ハツタケもショウロほどではないにしても比較的「若い」松林に好んで発生する傾向があり(例えばこちらのページやWikipediaなど)、その点では上記のレッドデータブックの記述にある「人手が入り管理されていた海岸沿いのクロマツ林が減少」という事情は、ハツタケの生息にも影響があるのではないかとも思います。少なくとも藤沢市から茅ヶ崎市にかけての砂丘地帯が宅地化される中ではこうした環境が失われてきたのは確かで、その観点ではより局所的に見た時には分布域に影響なしとは必ずしも言えないのではないかと思われます。

なお、「三品漬」で初茸、松露とともに必要となる防風、すなわちハマボウフウですが、これについては「神奈川県レッドデータブック」には記載されておらず、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)に

ハマボウフウ Glehnia littoralis F.Schmidt ex Miq.

ふつうは草丈は30cm以内、茎、葉柄、花柄ともに長軟毛が密生する。葉の縁は軟骨質で淡色、ごく低い不規則な鋸歯となる。萼歯は錐状で明瞭。花弁は無毛。果実は長さ1cm程の倒卵形。すべての隆条は細毛に覆われた厚い稜となる。花期は5〜7月。北海道本州、四国、九州、琉球;朝鮮、中国、台湾、サハリン、オホーツク海沿岸に分布。県内では三浦半島や湘南海岸の砂地に普通。

(同書1086ページより)

と解説されていて、こちらも県全体では今のところ特に心配されている種ではありません。しかし、鵠沼郷土資料展示室運営委員であった渡部 瞭氏によれば、

湘南砂丘地帯の特産物として、辻堂駅の開業当時、ハマボウフウ(学名:Glehnia littoralis)と共にホームで売られたと聞く。ハマボウフウも一時姿を消し、1979(昭和54)年4月17日に伊藤節堂会員が鵠沼海岸のサイクリング道路で再発見したことが『鵠沼』9号に紹介されている。現在、辻堂の愛好者団体「湘南みちくさクラブ」が復活に熱心に取り組み、成果を得ている。

(「鵠沼を巡る千一話/第0014話 鵠沼といえば松」より)

とあり、やはりかつての産地に限れば必ずしも安寧な状況とは言えない様です。

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「東海道五十三次細見図会」に記された南湖の名物をめぐって

以前、松崎慊堂の「慊堂日暦」に記された梅沢や南湖の立場で出されたものを取り上げたことがありました。今回はその記事の補足です。

東海道五十三次細見図会:藤沢
歌川広重「東海道五十三次細見図会」より藤沢
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
東海道五十三次細見図会:藤沢より南湖付近拡大
左の図の右上辺りの拡大
「南古立ば」「名物/あんこう/ふぐ」と記されている
その左手には「なんごの浦」の字も見える

「東海道五十三次細見図会」という、歌川広重が弘化年間(1844〜47年)に描いた画集があります。縦位置の図の上半分に各宿から次の宿までの道程を俯瞰的に眺めたものを描き、下半分には街道で見られる旅人の風俗画を描いています。「国立国会図書館デジタルコレクション」ではそのうちの7点が公開されているのですが、そのうちの「藤沢」の図に、「南古立ば」「名物/あんこう/ふぐ」と記されているのが確認出来ます。

更に、その左側には砂浜に「なんごの浦」と書かれ、海上には漁船らしき船が5〜6艘描かれています。南湖の立場で出されているこれらの魚がこの浦から水揚げされてきたものであることを強調するかの様な構図になっています。「慊堂日暦」の記述と考え合わせると、幕末には南湖の立場が鮟鱇を売りにしようとしていたことは確かな様です。

東海道五十三次細見図会:大磯
「東海道五十三次細見図会」より大磯
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
東海道五十三次細見図会:大磯より梅沢〜前川付近拡大
左の図の上部拡大
右手に「梅ざハ 立ば」と記されている辺りには
名物の記述はなく
左手の「前川」の辺りには
「めいぶつ/うどん/そばきり」と書かれている

もっとも、この「東海道五十三次細見図会」に記された名物には、その取捨選択に奇妙な部分も見えてきます。「大磯」の図では、梅沢の立場については名物について何も記していませんが、その先の「前川(「国立国会図書館デジタルコレクション」の画像では「川」の上の字が虫喰い状態になっているものの、地理的な位置関係や僅かに見えている字の一部から「前」の字と判じて良いと思います)」について「めいぶつ うどん そばきり」としています。しかし、前川の蕎麦や饂飩について殊更に持ち上げている道中記などはあまり目にしないと思いますし、少なくとも梅沢の鮟鱇ほどに知られた存在であったと言えるかは疑問です。

実際はこの「東海道五十三次細見図会」のシリーズは完結しなかった様で、現在知られているのは日本橋から小田原までの10点に留まっているとのことです。「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているのはそのうちの7点ということになるのですが、日本橋に近い各宿の図に記された名物には大森の「麦わら細工」、蒲田の「和中散」、鶴見橋の「米饅頭」、神奈川宿青木町の「亀の甲せんべい」、境木の「ぼたもち」と、比較的妥当と思われる品の名前が並んでいて、この辺りまではさほど不自然さを感じさせるものはないと思います。強いて言えば、「川崎」の図(「国立国会図書館デジタルコレクション」には収められていないので、「日本銀行貨幣博物館」の図で確認しました)に生麦の名物として「すしや」と記されているのが比較的珍しいのですが、この地は古くからの漁師町ですから、ここで寿司屋が営まれていたとしても納得できるところです。

それに対して、「戸塚」の図には名物に関する記事が見えず、藤沢以降の記述は上で見た様な状況になっている訳です。次の大磯までの距離が短い「平塚」の図には名物の記述が無いのは理解できますが、馬入の渡しを渡った先の「八まん町」のあたりに「これより中山道くまがへ(熊谷?)江出る道有」と、この図に記すにしては奇妙な道案内が見えます。平塚新宿から北へ分岐する道を指していることから、恐らくは平塚道のことを言っているのだろうと思われるものの、それであれば厚木か、精々八王子を行き先として示すべきところでしょう。生憎と「小田原」の図は未見ですが、江戸から離れた地域の俯瞰図上の記述に疑問を感じるものが散見される傾向がある様に見受けられます。


こうした俯瞰図に記す内容については、広重自らが書き記したというよりは、広重に絵を依頼した版元側から指示があったと見るべきでしょう。元よりそれほど大きくない図に比較的広い地域の情報を書き込む訳ですから、どの情報を書き込むか、その取捨選択が重要になってきます。この「東海道五十三次細見図会」を出版したのは「村鉄」という版元です。この版元について詳しいことはわかりませんが、上記の様な状況から考えると、どうも俯瞰図に記す名物などについて版元側が充分に取材を行っておらず、それが記載内容に反映してしまっている様に見えます。穿った見方をすれば、取材が行き届かなくなって企画倒れになったために、画集が中途で途絶してしまったのではないか、という気さえします。

南湖と梅沢の位置
南湖と梅沢の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)

従って、梅沢の鮟鱇について記載がない中で南湖の鮟鱇が記されている点についても、梅沢の鮟鱇が衰退したと見たり、南湖の鮟鱇が梅沢を凌駕するに至ったと判断したりすることは出来ないと見るべきでしょう。前川の蕎麦切り・饂飩についても、その点で繁栄の度合いを推し量るのが、この絵図だけでは難しいと言わざるを得ないと思います。

とは言え、南湖の立場について当時の詳しい事情を伝える史料が乏しい中では、「慊堂日暦」と共に南湖の鮟鱇の存在を伝えてくれることには変わりなく、その点では引き続き貴重な存在であると言えます。勿論、下半分に描かれた旅人の風俗を描いた絵はどれも如何にも広重らしいユーモアに満ちたものばかりで、今ではそちらの方を主に鑑賞され、評価されている錦絵というべきなのでしょうが。

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高座郡沿岸の初茸と松露について:「新編相模国風土記稿」から

前回からまた少し間が開いてしまいましたが、「新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は初茸と松露を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯靑頭菌和名、波都多介、◯高座郡鵠沼・辻堂・茅ヶ崎三村の邊に多く生ず、又松露も此邊に多し、

  • 高座郡図説(卷之五十九 高座郡卷之一):

    ◯靑頭菌波都多介、鵠沼・辻堂・茅ヶ崎三村の邊に多生す、又松露も此邊に多し、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


山川編の記述と高座郡図説の記述は初茸の名が「靑頭菌」と記され、松露については初茸の序でに書き添えられている形になっている点まで共通しています。他方、ここで名の上がった3村の記述も
  • ◯鵠沼村(卷之六十 高座郡卷之二):

    村民農隙には魚獵を專とす船役永錢を納む、此邊松露初茸を產せり、

  • ◯辻堂村(同上):

    此地漁獵の利多し又松露初茸を產す、

  • ◯茅ヶ崎村(同上):

    此邊松露初茸を產し、又魚獵の利多し、

この様に完全に共通化しています。

元より、「風土記稿」では高座郡図説で産物として挙げられている品目が少なく、特に陸上に産するものは他に亀井野村の「柴胡」だけという状態でした。「山川編」では更に数点が書き加えられているとは言うものの、そうした中で高座郡の産物として数え上げられた初茸や松露は、なかなか「貴重な存在」ということになりそうです。

坂本浩然「菌譜」初茸
坂本浩然「菌譜」(天保6年・1835年)より
「初茸」(左ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
坂本浩然「菌譜」松露
同じく「菌譜」より「松露」(左ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

初茸にしても松露にしても、松林の中で生えるきのこです。現在のきのこの図鑑では概ね
  • ハツタケ Lactarius hatsudake Tanaka(395ページ)

    傘は径5〜10cm、表面は淡紅褐色、淡黄赤褐色などで、濃色の環紋があり、湿れば多少粘性を帯びる。ひだは淡黄色でワイン紅色を帯び、密。柄は長さ2〜5cm、表面は傘とほぼ同色。子実体は傷つくと暗赤色の乳液がにじみ出て、やがて青緑色のしみに変わる。古くなるとほぼ全体が青緑色となる。夏〜秋、アカマツ・クロマツなどの林内に発生。

  • ショウロ Rhizopogon rubescens (Tul.) Tul.(526ページ)

    ショウロ属。子実体は地中生、卵形〜扁球形、白色で径1.5〜3cm、手でこすると淡赤褐色に変色する。また表面には淡紫赤色根状菌糸束をまとう。地上に露出した部分は黄褐色で皮層の厚さ200μm。グレバは不規則な迷路状小室をなし、初め白色のち黄褐色。腔室内壁に子実層を形成する。担子器は4〜8胞子を座生、胞子は長楕円形である。秋と春の2度、主として海岸や湖畔のクロマツ林内の砂地に発生。

(「山溪カラー名鑑 日本のきのこ 特装版」今関六也・大谷吉雄・本郷次雄編著 1988年 山と溪谷社より)

の様に解説されています。

江戸時代にはきのこの図譜が「菌譜」の名で幾つか作られており、「国立国会図書館デジタルコレクション」で「菌譜」を検索すると、当時の写本が複数種公開されています。上掲の坂本浩然の「菌譜」はそれらの中で比較的絵図の状態が良い点を評価して掲示しましたが、掲載されているきのこの点数も豊富で、かなり体系的にきのこを調べていたことが窺えます。

この「菌譜」にも様々解説が掲示されていますが、ここでは例によって本草学の書物が初茸や松露についてどの様に記しているかを見てみましょう。「大和本草」では

[和品]初タケ 秋山野の松樹ある地に生す味よし脆鬆にして毒なし其うら綠靑の色の如し

[和品]松露 松林の中白沙に生す冬春の間雨後に生す松氣あり味美く性かろし毒なし病人食して無害然生物なれは瀉痢には不可食ほしたるは無害其形圓し大なるは如梅子傘莖なし黃白三種あり皮の中純白にして柔軟なるを上品とす俗に餠松露と云其次は淡白脆鬆なるあり其次は黃黑なり是下品なり一日をへては味をとる新をよしとす歷日易敗れ不可食白き新く大なるをとり洗て沙を去煮てもやきても食す又沙ともに切て爲片と日に干し遠きに寄す味よし鹽に藏るも佳し山に生するは毒あり不可食或曰松露は猪苓茯苓の類也と非なり菌類なり一說に麥蕈とす松露は松林に非れは生せす是與麥蕈不同麥蕈は不生松林且非有松氣者

(どちらも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナをひらがなに置き換え、返り点は省略)

どちらも「和品」、つまり日本独自のものと判じている点が特徴です。但し、松露も初茸も実際は日本国外にも分布していることが確認されていますので、この点は必ずしも正しくない様です。

一方、「本草綱目啓蒙」では、松露について次の様に書き記されています。

麥蕈シヤウロ 中山にても松露傳信録と云ふ一名麥丹蕈菌譜地腎広東新語松乳淸俗松菰同上海邉松下砂中に生す故にハマシヤウロと云形圓にして馬勃の如にして涎あり春末より夏に至り盛に生す白色にして柔軟なるを上とす米シヤウロと云又子バリとも云卽モチシヤウロなり乆を經て黑くならず粉となりて飛ぶ乾す者は其肌甚だ密なり一種外黑く内黃なる者を栗シヤウロと云ふ一名麥シヤウロ豫州雲州乆を經れは色黑く堅くなる黑色に變したる者は食ふべからず

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称を除きカタカナをひらがなに置き換え、以下も取り扱いは同一)


実際に「国立国会図書館デジタルコレクション」の該当ページを見るとわかりますが、通常は各項目の表題が1文字分上に繰り出された状態で書き始められるのに、この項に関してはその様になっておらず、前項の香蕈(しいたけ)から繋がっている様に書かれています。更に初茸に至っては、玉蕈(白しめじ)(この項も明確に別項として書き始められていませんが)について論じている中途から

紫蕈ムラサキシメジ…シメジの色深紫なる者なり ハツタケに充つるは穏ならず ハツタケは雲南通志の靑頭菌吳蕈譜の青紫なり一名ア井ダケ備前備中ア井ヅル勢州ア井ヅリ江州アヤヅリ同上マツナバ周防マツミミ北國松樹下草中に生す黃赤色にして微紫を帯ぶ手に觸るれば藍色に變ず尾州の産は蓋に青斑あり方言アヲハチ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、弟子によると思われる書き込みについては省略、…は中略)

この様に続けて記されています。

本草綱目草稿「香蕈」付近
「本草綱目草稿」より「香蕈」等の記述のあるページ
(「国立国会図書館デジタルコレクション」の画像に
矢印・傍線等追記)
「本草綱目啓蒙」は小野蘭山の講義録を弟子がまとめて世に送り出したものですが、その講義の元になったと思われる「本草綱目草稿」でも、初茸や松露の項は香蕈の項から独立していない節が窺え、蘭山自身がその様に講義していたものを弟子が忠実に書き取ったと考えられます。ただ、何故蘭山が初茸や松露をその様な扱いにしたのかはわかりません。「草稿」のこうした書き方からは、きのこの各種に対してまだ十分に分化したものとして捉え切れていなかった様にも見受けられますが、この辺りは蘭山がきのこについて他に書き記したりしたものを更に検討する必要がありそうです。

とは言え、江戸時代には既に初茸や松露が食されていたことは確かです。寛永年間に初めて出版された日本初の料理専門書と言われる「料理物語」でも

〔はつたけ〕汁、に物、やきて…〔せうろ〕汁、さしみ、に物

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、…は中略)

と、大まかではありますが初茸や松露の調理法が記されています。また、幕末の江戸・京都・大坂の風俗を書き記した喜田川季荘の「守貞漫稿」には、

松茸賣 山樵直に賣之或は八百屋商人も賣之江戸は松茸甲州より出るのみ稀なる故に此商人無之

初茸賣 是は亦山樵及び菜蔬賣能く賣之京坂はつたけ無之江戸のみ賣之京坂の松茸盛にして江戸初茸は小行也

(「類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿」明治41年・1908年 国学院大学出版部、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、原著も同コレクションにて公開済み、強調はブログ主)

とあり、初茸が江戸では入手困難な松茸の代わりにもてはやされていたことが窺えます。

では、相模国高座郡の3つの村で採れた初茸や松露は、何処でどの様に消費されていたのでしょうか。「続江戸砂子 温故名跡志」(菊岡沾涼 纂、享保20年・1735年)の卷之一「江府名産」の項には

◯小金初茸 下総國葛飾郡小金の邊所々より出ル…相州藤沢戸塚邊より出る初茸ハ下総よりはやし…

早稲田大学古典籍総合データベース」所収の影印PDFより翻刻、森林総合研究所 九州支所 旧特用林産研究室「ハツタケの話」を翻刻の参考として使用、…は中略

とあることから、どうやら相模国で採れた初茸の多くは江戸へと送られ、「初茸売」の様な街商の手よって売られていたのでしょう。松露についても同様のことが言えるかも知れません。

上記の3村は何れも東海道に接する位置にあり、更に鵠沼村の付近には藤沢宿や江の島の様に参拝客が多く訪れる地がありますので、これらの宿泊地で旅人相手に提供されていてもおかしくなさそうに思えます。しかし、「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(2007年 藤沢市文書館編)にまとめられた90編あまりの道中記・紀行文では、これらの地域で初茸や松露を使ったと思われる料理が提供されたことを示すものは見当たりません。無論、他の道中記や紀行文に記載事例が見つかるかも知れませんが、旅人にこれらのきのこを使った料理を提供することは稀であったのかも知れません。

その様なこともあり、「風土記稿」以外には、鵠沼・辻堂・茅ヶ崎で採れたという初茸や松露について委細を伝える史料がなかなか見つからないのですが、藤沢宿にはかつてこれらを使った銘菓がありました。この銘菓は「三品漬」と呼ばれ、藤沢宿に幕末の嘉永年間に開業した豊島屋本店が製造・販売していたものでした。

何時頃から作られ始めたものか、服部清道氏によると

かつて東海道旅行物語は藤沢名物として三品漬と防風、松露、初茸、甘藷をあげたが、それは明治、大正時代のことである。防風、松露、初茸は鵠沼や辻堂の名産として江戸時代以来ひろく知られていた。わけて松露と初茸とは海岸の砂地に繁茂した墨松林のたまものである。豊島屋の「松露ようかん」はそこに着目した産物であったろうが、いま地産の松露は絶滅してしまった。防風もほとんど見られず、初茸もはえなくなっている。喜多屋の銘菓「砂雅美」は、このように荒廃した湘南海岸の往昔をしのばせるものがある。

三品漬は、その名だけが残って、その実体は伝わっていない。古老の幾人かにたずねたが、明答は返って来なかった。ところが、先人はそれを明瞭に書き残して置いてくれた。

平野孫七郎は享和、天保(一八〇一〜一八四三)のころ、藤沢宿坂戸町の年寄として町政につくしたが、記録の上でも多くの手記を残している。「東坂戸町内記録帳」はその一つであるが、その中に三品漬の一項がある。それによると、三品漬は文政の末(一八二九)ころ、伊勢屋久左衛門が松露、初茸、防風の三品を砂糖漬に仕出して売り出したもので、その当座は殊のほかよく売れたということである。これなどは名物の二重奏として賞賛にあたいする江戸時代藤沢商人の智恵であった。

(「藤沢名物今昔」より、「藤沢風物」No.20(1973.12)藤沢風物社 所収 18ページ下段より)


この記事はかつて刊行されていた藤沢のミニコミ誌に掲載されていたものですが、服部氏は藤沢市の市史編纂と並行して藤沢に伝わる史料の収集と整理を行い、「藤沢市史資料」(全40卷、1957頃〜1990年 藤沢市教育委員会刊)という形で刊行していた人ですから、この「東坂戸町内記録帳」もその一環で見たのでしょう。残念ながらこの史料はまだ翻刻されたものがなく、私も未見ですが、この史料の伝える通りとすれば、「伊勢屋久左衛門」が最初に三品漬を作ってから豊島屋本店が創業するまで約20年経っていますから、その子孫が後に豊島屋本店を興したということになるのでしょうか。何れにせよ、江戸時代後期に始められたものである様です。


この三品漬と思われる品は明治10年(1877年)の「第一回内国勧業博覧会」でも出品されていたことが確認出来ます。「三品漬」という名前ではありませんが、初茸の砂糖漬けと共に松露・防風、そして冬瓜の砂糖漬けを出品した「久保田善助」氏は、当時の豊島屋の主人です。この初茸の砂糖漬けが並んでいるのは素麺や食パンなど加工食品類の部であり、この初茸の砂糖漬けが加工食品として認識されて分類されていることがわかります。


「三品漬」の名前はその後「大日本鉄道地誌」(大河内亀松編 明治43年・1910年 大成社)や「鎌倉・江の島名勝旅行の友」(武藤琴美 大正10年・1921年 旅行之友社)といった明治から大正にかけての旅行案内書に、藤沢の代表的な銘菓の1つとして挙げられているのを確認出来ます。服部氏の挙げる「東海道旅行物語」(村田峰次郎 昭和7年・1932年 博美社)もそうした案内書の1つと言えるでしょう。

更に「藤沢郷土誌」(加藤徳右衛門 昭和8年、復刻版:昭和55年 国書刊行会刊)では、「藤沢の名物」として
藤沢郷土誌「豊島屋本店」広告
「藤沢郷土誌」に出稿された
「豊島屋本店」の広告

◆藤澤名物 三品漬/藤澤東坂戸 豊島屋本店/久保田喜助

(上記書419ページ、一部改行を/にて置き換え)

と紹介され、豊島屋本店については

豊島屋本店

東坂戸に在り、久保田喜助氏の經營たり。同家は藤澤斯界の老舗にして藤澤名物三品漬の創始者たり。また菓子料理の鼻祖たるものたり。

(同書425ページより)

と記されています。更に巻末には右の様な豊島屋本店の出稿した広告も掲載され(広告4ページ)、この頃にはまだ「三品漬」が作られていたことがわかります。なお、豊島屋「本店」と名乗っているのは、暖簾分けして同じ屋号を名乗る菓子店が鎌倉にあるからで、そちらは今では「鳩サブレー」などで有名になっていますね。

鵠沼・辻堂・茅ヶ崎村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ
「明治期の低湿地」と「数値地図25000(土地条件)」を合成)


現在の藤沢・豊島屋本店(ストリートビュー
これら3つの村が展開していた地域は、以前も紹介した様に、海岸付近の砂丘が広がる地帯であり、そこで消長を繰り返す松林が初茸や松露の産地でした。更には「三品漬」で使われたもう1つの植物である防風(恐らくハマボウフウのこと)も、そうした砂丘環境を好む生態を持っており、「三品漬」はそうした「白砂青松」の生んだ銘菓ということが出来るでしょう。

しかし、今ではこれらの地域も宅地化が進み、砂丘上の松林が消えたことで、これらのきのこや植物が発生する環境が失われてしまいました。こちらのブログによれば、「三品漬」も戦時中の砂糖の配給化や、初茸の入手が困難になったことなどから作られなくなってしまったとのことです。今でも豊島屋本店では松露を練り込んだ「松露羊羹」の製造を続けていますが、これがかつての白砂青松だった頃の、藤沢から茅ヶ崎にかけての海辺の砂丘の姿の名残ということになりそうです。

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