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「小田原電気鉄道」の延伸と「富士屋自働車」の自動車事業(その1)

前回は「小田原電気鉄道」の箱根湯本から先の延伸事業と松本安太郎の自動車事業創業に伴う同社の自動車事業参入について見ましたが、今回は「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の「小田原電気鉄道」の検索結果を元に、同社の鉄道延伸事業と、「富士屋自働車」と「小田原電気鉄道」の自動車事業の競合の経緯を追ってみます。今回は富士屋自働車創業時までの流れを分析します。


前回見た通り、箱根湯本から先の延伸事業は、決議後の「関東大水害」への対応や延伸計画の見直しで着工が遅れていました。計画見直しの経緯については、「箱根登山鉄道のあゆみ※」(昭和53年・1978年 箱根登山鉄道株式会社社史編纂委員会 編 箱根登山鉄道㈱発行、以下「あゆみ」)の「Ⅱ 小田原電気鉄道/4. 登山鉄道の先駆者/2) 技術派遣と設計の変更」の項(83〜91ページ)で詳しく解説されていますが、当初計画より勾配を緩めてアプト式を止め、また自然景観への配慮からよりきつい曲線で山肌に沿った路線とするなどの変更が行われ、大正2年(1913年)3月に鉄道院に変更願を提出して6月に認可されています。

当初の計画から様々な変更を余儀なくされたことから、予算も大幅に増加することとなり、当初の増資だけでは建設費が足りなくなる事態に追い込まれます。これを受けて、大正4年(1915年)の「官報」には立て続けに次の様な公示が掲出されます。

◯軌道財團

今般小田原電氣鐵道株式會社ヨリ所屬軌道國府津、湯本間既成線路ニ對シ軌道ノ抵當ニ關スル法律ニ依リ軌道財團ヲ組成シ豫メ其ノ公告ヲ申請セリ仍テ該軌道財團に屬スヘキモノニ關シ所有權以外ノ物權ヲ有スル者、差押、假差押若ハ假處分ノ債權者又ハ該軌道財團に屬スヘキ不動產ニ關シ賃借權ヲ有スル者ハ大正四年三月十九日迄ニ申出ツヘシ…

大正四年二月二十日

内閣總理大臣 伯爵大隈重信

(「官報 大正四年二月二十日」10ページ下段)

◯軌道抵當權設定登錄

本年二月二十日官報第七六四號ヲ以テ公告セル小田原電氣鐵道株式會社軌道財團ニ對シ軌道抵當權設定ヲ認可セシ處當事者ノ申請ニ依リ四月六日第一順位ノ抵當權ノ設定ヲ登錄シタリ

右軌道ノ抵當ニ關スル法律第一條ニ依リ公告ス

大正四年四月七日

内閣

(「官報 大正四年四月七日」21ページ下段)

小田原電氣鐵道株式會社追加事項

一委託會社

小田原電氣鐵道株式會社

一受託會社

株式會社日本興業銀行

一社債總額

金一百三十万圓

一各社債金額

金一千圓 金五百圓 金一百圓

一社債ノ利率

一箇年八分

一各社債ニ付キ拂込ミタル金額

各社債金全部

一社債償還方法及期限

大正四年四月十六日ヨリ向フ三箇年間据置キ其以降七箇年以内ニ隨時金額ヲ定メ抽籤ヲ以テ償還ス

一利息支拂方法及期限

每年六月十二月ニ前六箇月分ヲ利札引替ニ支拂フ

一擔保ノ種類目的物及順位

小田原電氣鐵道株式會社所有軌道財團第一順位ノ抵當權

一信託證書ノ表示

大正四年三月二日付信託證書

一物上擔保付社債ナルコト

物上擔保付社債

右大正四年四月二十八日登記

小田原區裁判所

(「官報 大正四年五月八日」付録2ページ上〜下段)


「軌道財団」という言葉がややわかりにくいですが、これは明治42年(1909年)に制定された「法律第二十八号(軌道ノ抵当ニ関スル法律、リンク先は「官報 明治四十二年四月十三日」の公布記事)」で定義されたもので、簡単に言うと鉄道の経営に必要な施設(線路、車両、駅をはじめとする各種関連施設とそれらを設置するために必要な土地など)を全部まとめて1つの「財団」と見做して抵当権を設定するものです。こうすることで、大きな担保物件としての価値を認めやすくして鉄道敷設に必要な多額の資金を確保しやすくするとともに、万一抵当権が実行されても担保物件が細分されて事実上鉄道経営が不可能になってしまう事態を回避するのが目的です。

早い話、この3つの公示によって、小田原電気鉄道の既存の路線を丸ごと1つの担保物件として多額の社債を発行する事態になった訳です。その経緯については「あゆみ※」でも

大正2年12月8日、200株以上の大株主幹事会を開催して、意見を求めた。その結果「営業上の収支に付十分の調査の必要あり」とする意見が大勢を占めたことから、益田孝、柳沢保恵、松下軍治、杉原栄三郎、二見亀三の5名を調査委員に選出し、その報告を待つことになった。調査は主に柳沢保恵が担当し、数か月にわたって実施された。その結果、「建設費予算増額已むべからざる」ことが報告され、大正3年6月24日の臨時株主総会において延長線建設資金にあてるべき社債の募集を行うことを決議した。

(91ページ)

とまとめられています。前回見た通り、当初は延伸の建設資金を増資によって賄う方針であった訳ですが、この社債発行は当初の方針を大きく転換するものであり、同社の財務上は一気に大きな負債を抱えることになりました。

前回見た小田原電気鉄道の貸自動車事業への参入は、こうした財務上の方針転換の前のことだったため、借入金の決議も比較的懸念なく行われたものと考えられますが、一連の社債発行に向けての流れの中で、追加の投資が行い難い見通しに変わっていったことになります。

一方、「富士屋自働車」の設立経緯については、富士屋ホテル社史に当たる「回顧六十年※」(昭和13年・1938年)で次の様なエピソードが紹介されています。これは富士屋自働車の設立について語られる際には高頻度で引用されるものです。

大正二年(一九一三年)夏季約三ヶ月間、富士屋ホテルに滞在した、マニラ駐剳の米國陸軍少佐ウイツトニー(Major Whitney)(少將に累進後退役となる)、は神戸にて陸軍運送船に乘込み歸任の爲め、ホテルより國府津驛迄の貸切自動車の註文あり、前夜に小田原電鐵會社經營の貸自動車を依頼せしが、出發時間は迫れども自働車は來らず、國府津發特急列車に乘り遅れては一大事とて、人力車を驅りて出發下山し、途中自動車の上り來るに出會ひ之れに乘り替へ、國府津驛にて辛うじて發車に間に合つた。三ヶ月間、非常なる滿足を以て滯在せし少佐も、出發に當り乘物の間に合はざるにより、極めて不機嫌となつた。斯くて少佐は船中より山口正造氏に書面を寄せ、自分が富士屋ホテル滯在中、非常なる心盡しの愉快は、出發の瞬間に全部を打消された。自動車の行違ひが斯樣な結果を來さしめたことは誠に遺憾である。自分は一流のホテルとしては、ホテル専屬の自動車を所有すべきだと思ふ、と懇篤なる勸告をせられた。之れが即ち富士屋自働車株式會社創立の動機である。

(99ページ)


その1」で引用した箇所はこの直後に続くのですが、問題の少佐の手紙は大正2年の夏休み終了直後のことですから、小田原電気鉄道が大株主幹事会を開催するよりは前のことではありました。しかし、「あゆみ※」によれば
  • 大正元年7月:主任技師長半田貢を登山鉄道の視察・調査目的で欧米に派遣
  • 大正2年1月:半田技師長帰国
  • 大正2年3月:鉄道院に「軽便鉄道敷設線路及び工事方法書変更願」を提出
  • 大正2年6月:鉄道院、変更願を認可
という経緯を辿っていることから、少佐の手紙が届いた頃には既に延伸建設費用が膨らんで当初の予算をオーバーすることが見えていたと考えられます。小田原電気鉄道が貸自動車業を始めた頃の様には追加投資を行い難くなっていたことは間違いなく、それが山口正造からの要請に後ろ向きな返答を返す背景の1つであった可能性は少なからずあるでしょう。

また、小田原電気鉄道が貸自動車業を開業当初にどの程度重視していたかという点も考慮に入れる必要があるかも知れません。

同社が神奈川県から貸自動車業の免許を得た大正元年9月12日は、翌日から3日間明治天皇の「大喪儀」が行われた日に当たっており、新聞各社は紙面をほぼ全面的に大喪関連に割いた関係でそれ以外の紙面が大幅に縮小されていました。その後も数日間は大喪関連の記事が優先的に取り上げられる傾向が続いています。このため、小田原電気鉄道の記事はほぼ掲載される余地がなく、こうした時期的な要因に因って貸自動車業の免許について適時に報道してもらう機を失したのは確かです。

しかし、大喪関連の報道がほぼ一段落した9月20日、「横浜貿易新報」2面に小田原電気鉄道についての記事がようやく掲載されたものの、その内容は延伸の進捗や強羅の開発事業についてで、自動車事業について触れられることは一切ありませんでした。会社の側が貸自動車業について取り上げなかったのか、それとも新聞編集部が紙面の制約から除外したのかは不明ですが、何れにしても貸自動車事業は鉄道事業や不動産開発事業に比べると重視されてはいなかったことが、こうした記事の扱いから見えてきます。これも、山口正造からの運転手教育の要望に小田原電気鉄道が前向きに反応しなかった要因の1つとして勘案する必要がありそうです。

何れにせよ、小田原電気鉄道がスタートさせた貸自動車事業の質が富士屋ホテルにとって納得の行く水準に達していなかったことが、結果的に競合企業を出現させてしまうという、皮肉な事態を引き起こしたことには変わりはありません。以前の記事で見た酒匂橋の架替えに繋がる自動車交通の頻繁化の火種が、これによって点いたことになります。

もっとも、山口正造が富士屋自働車を起業するに当たって、「あゆみ※」が

山口正造が会社創設に当たって描いた構想は、単に貸自動車を走らせるということではなく、箱根全山に乗合自動車を走行させるというものであった。そしてその準備は着々と進められていた。

(124ページ)

と書くのは、創業当初の公示の内容と照らした時には疑問も感じます。小田原電気鉄道が貸自動車業のスタートに当たって見込んだ予算が6万円だったのに対して富士屋自働車がその10分の1以下の5,500円しか準備出来なかったことも去ることながら、大正4年に公示された会社の目的には、飽くまでも富士屋ホテルの送迎が主要な業務であることが明記されていた点は、少なくとも表向きでは乗合自動車業を目指していると受け取ることは出来ません。

そもそも、小田原電気鉄道が富士屋ホテルのある宮ノ下の前を通る様になることは富士屋自働車創業時には既に確定しており、貸自動車事業を起業すれば何れ鉄路の開業で山中への貨客の輸送で競合する関係になることは見えていた筈です。その点では正造の義父であり、富士屋ホテルの創業者で正造の上司でもある山口仙之助との関係も影響があったかも知れません。

仙之助は、足柄下郡温泉村(現:箱根町宮ノ下、堂ヶ島、底倉、小涌谷、大平台)の村長を初代から2期にわたって務めていたこともあります。その仙之助の村長在任中、小田原馬車鉄道が明治33年(1900年)に電化されて「小田原電気鉄道」に変わった直後に、村会との連名で要望書を提出しています。

拝啓 …然ルニ湯本ヨリ当村方ニ至ル間ハ依然旧躰ヲ改ムル能ハス、旅客ノ不便言フヘカラサルモノアリ、自分共ニ於テ日夕遺憾ニ堪ヘサル所ニ有之候、斯カル次第ニ付、此間ノ交通機関ノ設備方ヲ目論見居候モノ之レナキニアラサレトモ、新規設備ノ事ナレハ其成立ノ期モ予測シ得ヘカラサルノミナラス、自然御社ノ設備ニ対シ軌道ノ連続ヲ欠キ、形式規模ヲ異ニスルニ於テハ、到底完全ナル輸送ハ得テ望ムヘカラサル儀卜窃ニ懸念致居候、是故ニ当村方一同カ扁ニ希望スル所ハ、御社ニ於テ線路ヲ延長シ、此不便ヲ救済セラルヽノ一事ニ有之候、思フニ延長セラルヘキ線路ハ概ネ断崖絶壁ナレハエ事ノ困難ナルハ推察ニ堪ヘスト雖モ、当村方ニ於テハ可及限り工事上ニ対スル便宜ヲ供シ、可及限り其困難ヲ減スルニ勉ムヘク、又乗客数等ニ就キ懸念モ有之ナレトモ、卑見ヲ以テスレハ、当村方ハ函根浴場ノ中ニ於テ稍々中央ニ位スル所ナレハ、一朝交通機関ノ完備ヲ告クルニ於テハ、宮ノ下付近ハ勿論、木賀、大涌谷、若クハ芦ノ湯、姥子ニ至ル迄幾層ノ繁栄ヲ増シ、年々月々旅館ノ数ヲ加フヘキハ疑ヲ容レサル所ニシテ、随テ函根全躰の福利ヲ増進スルト共ニ、該延長線ニ対スル得失相償フノ日アルヘシト存候、右ハ村会一致ノ希望ニ有之候間、宜敷御採納被成下度、個請ノ至ニ御座候、敬具

明治卅三年五月廿三日

足柄下郡温泉村長

山口仙之助

同村会議長

安藤 兵治

 

小林安次郎/播磨与三郎/渡辺勘右衛門/細川 定吉/鈴木 庄蔵

(「箱根の山に挑んだ鉄路」2011年 青田 孝著 交通新聞社新書 136〜137ページ所収)

末尾には村長と村会議員の名前が並んでいますが、村長以下各人の経歴を確認すると、
  • 長 山口仙之助:富士屋ホテルの創業者
  • 村会議長 安藤兵治:宮ノ下の温泉宿「奈良屋」経営、富士屋ホテルには監査役として経営に参加
  • 村会議員 小林安次郎:宮ノ下の箱根名産漆器・寄木・白木地類製造小売「指物屋」経営
  • 上 播磨与三郎:宮ノ下の箱根物産卸問屋経営
  • 上 渡辺勘右衛門:大平台の漆器問屋経営
  • 上 細川定吉:大平台の「挽物屋」にて箱根名産漆器・白木地類・色付諸器物製造卸経営
  • 上 鈴木庄蔵:大平台の「根附庄」にて箱根名産漆器・白木地類・色付諸器物製造
何れも温泉村内で観光に関わる商いを営む人で占められていたことがわかります。こうした人たちが観光が主な産業である村への鉄道敷設を早くから強く希望していたことを示す史料と言えますが、仙之助がその先頭に立つ存在であったことから見ても、彼にとっては永年待ち望んだ鉄路がようやくホテルの近くまで延びて来ようという時期であったことは確かでしょう。


また、仙之助は明治19〜20年(1886〜7年)に塔ノ沢から宮ノ下にかけての「温泉道」を改修し、ホテルまでの便を確保するために自費を投じた人物でもあります。大正8年(1919年)に道路法が制定されるまでは道路の整備管理は地元の負担が原則でしたから、富士屋自働車創業当時はまだ、自動車が走れる様に道路を拡幅するなどの整備を行おうとすれば、共同で出資してくれる人が現れない限り、仙之助の様に多額の自己負担を覚悟しなければならない時代でした。実際のところ、富士屋自働車開業後には自動車以外にも道路整備などにも出費が必要であったことが「回顧六十年※」にも見えており、決して杞憂ではなかったことがわかります。

然るに神奈川縣當局は斯かる大型自動車を箱根に運轉するのは危險であり、且現在の道路では許可し難しと云ふので、第一號國道の曲角改修費及路面修繕費を縣に寄附し、 又木柵其他の危險防止施設を自費施工して、許可を得た。それでもまだ縣は、之が運轉者には二ヶ年以上箱根道路に運轉経験ある者に限り、且各車輛檢査證にその氏名を記入する等幾多の制限を附せられた。

(137ページ)


こうした経験を重ねてきた人物の目には、永年待った鉄路がようやくホテルの近くまで来そうな時期に、それと競合する可能性のある自動車事業を自分たちで立ち上げようという娘婿の提案に、おいそれとは乗り難いものを感じても不思議ではなかったでしょう。自動車事業の立ち上げに富士屋ホテル社長として仙之助が難色を示したのも自然なことと思われます。

また、仙之助からの指摘を待つまでもなく、正造自身も小田原電気鉄道の延伸事業の進捗については報道や土地収用の動向などから承知していたと思われますので、その様な中で新たな貸自動車業をどの様に位置づけるべきなのかは、当然考えざるを得なかったと考えられます。

正造の腹積もりとしては当初から事業を拡張して行く青写真を持っていた可能性もあるとは思いますが、その点について富士屋自働車開業当時の正造自身の考えを明かした資料は今のところ見つかっていません。しかし、少なくとも表向きは、起業当初はこうした事業環境を意識して、主たる事業内容は飽くまでも富士屋ホテルの送迎であると会社の目的に明記せざるを得なかったのではないかと思われます。

ただ、実際には会社の目的からホテル送迎中心の文言を削除するまで、会社設立から2年とは掛かっていません。正造が実際に事業を始めてみて初めて、ホテル送迎中心の事業内容では到底自動車購入や関連施設整備に掛かってくるコストを回収し切れないと察したのか、それとも当初からそれは織り込み済みで、対外的に事業拡張の必要性をアピールするべく「実績」を重ねる意図があったのか、その意図がどちらであったかを判断できる資料は今のところ見つかっていません。ただどちらにしても、経営の基本方針を大きく転換させるのに時間を要しなかったのは確かです。

それ以降は「その1」で見た通り、毎年の様に増資を繰り返しながら着実に経営規模を拡張していくことになります。大正8年(1919年)には現在のバスに当たる乗合自動車業にも参入を果たしますが、その経緯について「回顧六十年※」では次の様に記します。

富士屋自働車株式會社に於ては、既に大正四年初頭、國府津駅を起點とする箱根全山の路線に乘合自動車運轉の許可を得、續て小田原熱海間の許可も得たのであるが、前述の如く貸切自動車の出現に因つてすら、非常なる迫害を蒙りたる次第にして、乘合自動車の如き民衆化されたる交通機關が現るれば、相當の困難なる社會問題の起るべきを豫想せずにはおられなかつた。幸か不幸か、箱根登山電車の敷設工事が始まつたので、是れが運轉開始と同時に乘合の運轉を始むれば無難であり、又電車の運轉開始は自動車の脅威なれば、是非共乘合の開始を必要とした。因て前期の如く大正八年六月一日より開始したのである。

(136ページ)


これ自体は後年の記述ですし、飽くまでも乗合自動車開業に向けての動きを書いていますから、これを富士屋自働車創業時にまで遡って適用するのは適切とは言えません。ただ、こういう判断をする人物であるならば、富士屋自働車創業時の経営環境についてもそれなり念頭に置いて判断していた可能性は少なくないと思えます。

ここまでかなり長くなってしまいましたので、小田原電気鉄道のその後の動きについては次回に廻します。
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松本安太郎の「エム・エフ商会」補足

このところ、大正時代に相次いで立ち上げられた小田原・箱根地域の貸自動車業について、「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)で見つかった資料をもとに様々検討を加えてきました。その過程で「その2」や「その4」で、松本安太郎の立ち上げた貸自動車業については、「回顧六十年」(昭和13年・1938年 富士屋ホテル編集発行)では「エム・エフ商会」の名で紹介されているものの、それ以前の資料で裏付けることが出来ていないこと、数少ない松本安太郎の事業を裏付ける資料でも彼の個人名が用いられていることから、「エム・エフ商会」の名称に疑問を感じていることを書きました。

その後続きの記事を書き進めるに当たって更に資料を探していたところ、「デジタルコレクション」に収録されていない資料で「エム・エフ商会」に繋がる名前が記されているものを見つけました。今回はこの資料を改めて検討して補足としたいと思います。

問題の資料を見つけたのは次のページです。

富士屋自働車パンフレット/乗車券コレクション - 湘南軌道二宮本社屋ジオラマ



ここに、次の2点の資料が掲げられています。因みに、国立国会図書館では後年の改訂版は所蔵されているものの、大正4年の版は所蔵されていませんでした。
  • 「箱根名所図絵」
    • 大正4年(1915年)ごろ
    • 製図者/吉田初三郎
    • 著作兼発行者/妹尾春太郎
    • 発行所/妹尾含翠堂
  • 「箱根地図」
    • 大正4年版 (1915年)
    • 著作者/小田原電気鉄道株式会社
    • 発行兼印刷所/堤印刷所
    • 発売元/妹尾春太郎

この2点の資料に「湯本ヨリ各地ヘノ自働車賃金表」と記した運賃表が掲載されており、そこに「小田原電氣會社」「富士屋ホテル」とともに「MF商會」の名が見えます。該ページでも指摘されている通り、2点の資料のこの運賃表は「蘆ノ湯」と「芦ノ湯」、「割增金」欄の「夜」「夜間」の表記の違い、及び誤植が1か所ある以外は全く内容が一緒で、双方に発行者もしくは発売元として「妹尾春太郎」という人物が関与していることから、この運賃表の出処は共にこの人物であろうと考えられます。従って、資料としては2点ですが出典としては1つとして数えるべきでしょう。

この妹尾春太郎という人物は、上記2点の資料の奥付では箱根湯本の住所が記されています。その後大正8年に「箱根印刷株式会社」を湯本で起業して取締役に収まったことが「官報」で確認でき、大正11年に「函嶺名勝写真帖」を編集発行していますが、この会社は翌12年末に清算を決議しています。その後から東京の「大参社」という印刷会社に同姓同名の人物が所在していることが「デジタルコレクション」上で確認できますので、あるいは「箱根印刷」を畳んだ後に東京に活動の場を移したのかも知れませんが、それまでは箱根湯本で観光案内の出版物を製作する事業を営んでいた様です。

松本安太郎が貸自動車業を起業した頃に、同じ湯本で春太郎が印刷業を営んでいたと見られることから、春太郎の製作している上記の観光案内に松本安太郎から直接情報を渡すことが出来る位置関係にあったと考えられます。「MF商會」の名前も直接的に春太郎に伝えられたものと思われ、その点ではこの記載自体に相応の信憑性を期待できるのは確かです。

しかし、他の資料ではなかなか見つからないこの名称を、何故松本安太郎がこの資料に掲載させたのか、春太郎の手に依らない他の資料で掲載されている事例が見つかっていない現時点では、確認することは不可能です。この2点の資料は「MF(エム・エフ)商会」の名称が使用されたことを確認できる現時点の唯一の事例と位置付けることになりますが、同時代の別の掲載事例を更に探し出す必要があります。

一方、「回顧六十年」の方は上記2点の資料よりはかなり後年に編集されていますので、2点の資料のうち少なくともどちらかを参照して、松本安太郎の貸自動車業の名称を「エム・エフ商會」と記した可能性が残っています。こちらも「回顧六十年」編纂時に参照した資料群の精査が必要ですが、私が「その2」で『「松本安太郎」が大正元年に創業したという商店の商号としては「エム・エフ商会」は今のところ他に典拠がなく、裏付けに乏しいと言わざるを得ません。』と書いた点は、まずは典拠を見出したことになりますので、ここは訂正が必要です。

何れにせよ、更なる資料の探索が必要な状況には変わりはありません。
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「小田原電気鉄道」の延伸と松本安太郎の自動車事業

当初の予定では「小田原電気鉄道」の自動車事業についてはごく手短に触れて終わりにする予定でした。前回までの記事では表題に「小田原電気鉄道」の名前を含めなかったのもそのためでした。

しかし、「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の検索結果を色々と眺めるうちに、「小田原電気鉄道」の「富士屋自働車」への影響の大きさも考えないといけないと思い直し、更に松本安太郎の開業後直ちに「小田原電気鉄道」が自動車事業に参入したタイミングについても検討すべく、改めて「デジタルコレクション」の「小田原電気鉄道」の検索結果をまとめてみることにしました。今回はまず、松本安太郎が貸自動車事業を始めた直後に小田原電気鉄道が自動車事業に参入した大正2年頃までの流れを追ってみます。


小田原電気鉄道の大正時代の最大の事業、それは何と言っても箱根湯本から先、箱根山中への鉄路の延伸でした。

「小田原電気鉄道」については後の「箱根登山鉄道」が社史を編纂・発行しています。
  • 箱根登山鉄道のあゆみ※」(昭和53年・1978年 箱根登山鉄道株式会社社史編纂委員会 編 箱根登山鉄道㈱発行、以下「あゆみ」)
  • 箱根登山鉄道グラフ90※」(昭和53年・1978年 箱根登山鉄道株式会社社史編纂委員会 編 箱根登山鉄道㈱発行)
そのほか、その開発の歴史について取り上げた書籍も数多く出版されています。

今回の記事は飽くまでも各事業者の自動車事業への参入直後の経緯を見るのが目的であるため、話が散逸しない様に委細は基本的に上記の資料に譲り、ここでは出来る限り各種の経営環境の動きに話の的を絞りたいと思います。

「小田原電気鉄道」の湯本から先の延伸については、当初の馬車鉄道が明治33年(1900年)に電化された直後から、それを希望する声が地元にありました。しかし、同社が山中に鉄路を伸ばす上で必要となる技術的な課題の解決に目処をつけて延伸を決定するまでには、それから10年後の明治43年(1910年)まで待つことになります。その間全く動きが無かった訳ではなく、他社からの鉄道敷設の出願と競合する形で出願するなどの経緯はありましたが、最終的に実際の鉄道敷設に繋がるにはここまで時間がかかったことになります。

この延伸決定については早い段階から財界の雑誌に掲載されていたことが「デジタルコレクション」の検索結果から見えてきます。

●小田原電氣鐵道擴張計畫

小田原電氣鐵道會社にては現在の國府津、湯本間の電車線路を延長し更に湯本より塔の澤、宮の下を經て宮城野村强羅に至る五哩間に軌道を布設し一層箱根遊覽者の便を圖り且つ貨物運輸及電力供給の途を開く計畫にて右計畫遂󠄂行の爲め現在の資本金八十七萬五千圓を二百二十萬圓に增加し同時に箱根電氣軌道會社と改稱することに内定し不日臨時總會を開きて之を附議する筈なり

(「銀行通信錄 第四十九卷 第二百九十一號※」明治43年1月15日発行 東京銀行集会所 87ページ下段)

◉箱根電車と別莊  小田原電氣鐵道會社にては曩に百三十二萬圓の增資を行ひ現在の線路を湯本より宮の下及小涌谷附近を經て强羅まで延長し尙ほ將來は芦の湖畔を經て東海道線に接續する計畫を决定せし以來箱根附近へ別莊地を選定するもの多しと云ふ。

(「工業雜誌 第三十貳卷 第四百貳拾九號※」明治43年2月10日発行 工業雑誌社 164ページ上〜下段)

小田原電氣鐵道會社 …因みに云ふ同社は湯本より凾嶺を越へ佐野若くは御殿塲迄の運輸業を營まんとの計畫にて、數年前より測量に着手し、其結果昨年(ママ)臨時株主總會を開き、愈右の計畫を實行するに决し、差當り湯本、强羅間約五哩の運輸を始むると共に、電燈電力の供給をも爲す筈にて之が經費に充つるため、百三十二萬五千圓の增資を行ひ、目下新株募集中なるが、今回の新工事に對する豫算を聞くに、湯本强羅間五哩の新線路建設費一哩平均十四萬圓計七十萬圓ボギー車十二臺の一車輛費九千萬圓(ママ)計十萬八千圓、電力增加六百馬力平均二百圓計十二萬圓、舊線路設備改良費七萬二千圓、現在の借入金十五萬圓、舊線路の變更專用橋梁の改築其他事業の擴張に伴ふ設備費合計二十五萬圓、以上總計百二十五萬圓を要するを以て、差引殘七萬五千圓は豫備費に供する計算なり。

(「財界 第十三卷第二號※」明治43年5月号 財務協会・財界雑誌社 31ページ上〜下段)


特に注目されるのが最初の「銀行通信録」の記事で、最後の数行からまだ総会での議決を経る前の「内定」情報が既に記事になっていることがわかります。「官報」には増資の件が公示されたのは以下の様に11月に入ってからと少し遅かったのと対象的です。

小田原電氣鐵道株式會社追加事項

一增加資本總額

金百三十二万五千圓

一資本增加決議年月日

明治三十四年(ママ:四十三年)一月二十九日

一各新株ニ付拂込タル株金額

金十二圓五十錢

右明治四十三年十一月七日登記

小田原區裁判所

(「官報 明治43年11月11日」27ページ下段)

それまでの動きがようやく形になったことから来る周囲の期待感の表れとも言えるでしょうが、小田原電気鉄道側としては、この延伸事業に多額の出資が必要となることから、少しでも早く情報を外部に流して周知を図ろうという思惑が働いた側面もありそうです。


小田原電気鉄道に湯本から先の免許状が下付されたのは翌明治44年(1911年)の3月1日でした。

◯通運

◯輕便鐵道免許狀下付 本月一日小田原電氣鐵道株式會社ニ對シ輕便鐵道敷設免許狀ヲ下付セリ其起業目論見ノ槪要左ノ如シ(鐵道院)

鐵道種別

軌道幅員

線路兩端

延長哩數

建設費

起業

電氣鐵道

四尺五寸

湯本 强羅

八哩余

八〇〇、〇〇〇

小田原電氣鐵道株式會社

(「官報 明治44年3月6日」10ページ下段)

ここにある通り、この区間の免許は「軽便鉄道」としてのものだったことがわかります。明治33年(1900年)に公布された「私設鉄道法」では民間の鉄道敷設を推進するには諸条件が厳し過ぎ、狙い通りに鉄路が伸びて行かない状況を改善する目的で、より簡易な条件で敷設を請願出来る様に、明治43年4月に「軽便鉄道法」が公布されました(リンク先はそれぞれの法律の公布を伝える「官報」)。「軽便鉄道法」公布自体は小田原電気鉄道が延伸を決定するよりは数ヶ月後のことになる訳ですが、

◉輕便鐵道法の制定 現在私設鐵道を敷設するには私設鐵道法に依るか若くは軌道條例に依りて出願すべく前者に依るとすれば逓信省限りにて解决するを得るも其手續煩雜の上に認否を决すべき調査容易ならず、後者は内務逓信の二省及鐵道院に亘りて是亦其手續容易ならず隨て或る產物を停車塲若くは市塲に出すが爲に莫大の經費を要しさりとて輕便鐵道を敷設せんには前二者の何れかに據らざるべからず是れ地方の富源を開發すべき所以に非らずとて鐵道院にては是等の敷設を簡易ならしむる爲に特に鐵道院限りにて認否を决し得べき輕便鐵道法なるものを起󠄁草中なりしが今回脫稿したれば一應取調の上多分來期議會に提出の運びに至るべしと云ふ

(「工業雜誌 第三十壹卷 第四百拾九號※」明治42年9月10日発行 工業雜誌社 237ページ下段)

と延伸決定の前年には既に法制定に向けた鉄道省内の動向が報道されていたことがわかります。恐らく小田原電気鉄道もこうした動きを察知して、軽便鉄道法が公布され次第新法に合わせた免許を申請するべく動いていたということになるのでしょう。

延伸区間が軽便鉄道法に基づいた免許になったことを受けて、会社の目的も同年7月にそれに沿ったものに改められました。

小田原電氣鐵道株式會社變更事項

一會社ノ目的

一 電氣ヲ動力トシ輕便鐵道法又ハ軌道条例ニ據リ鐵道ヲ敷設シ運輸ニ關スル一般ノ業務

 

二 電燈電力ノ供給其他電氣ニ關スル機械器具ノ製造販賣電氣ニ關スル一般ノ業務

 

三 娯樂場ノ施設又ハ家屋ノ建設土地賣買賃貸借ニ關スル業務

右明治四十四年六月三十日登記

小田原區裁判所

(「官報 明治44年7月10日」附録3ページ下段)


しかし、この後に続く「官報」で小田原電気鉄道が出した土地収用公告の申請は、大正元年まではこの延伸区間のものではありません。明治44年9月22日の官報で収容された「小田原町幸一丁目」の土地は恐らく車庫の新設のためと思われますが、明治45年3月22日の官報で収容された「湯本村字山崎」「字三枚橋」「大窪村大字風祭」などの土地はむしろ既設の小田原〜箱根湯本間に位置しています。続く同年4月9日の官報で収容された「大窪村大字入生田」なども同様です。

これは、明治43年8月に起きた「関東大水害」の影響で、小田原〜箱根湯本間の早川沿いの区間で橋や線路に甚大な被害を蒙ったことを受けて、水害を避けるべく早川から離れた場所に線路を敷設し直すことにしたためです。この水害は東日本の広範囲に甚大な被害を出しましたが、箱根についても例外ではなく、小田原電気鉄道に限らず各所に被害が及びました。その様子を伝える資料は「デジタルコレクション」では次の「グラヒック」誌の1件のみが見つかりました。

神奈川縣方面 …箱根(はこね)附近(ふきん)水害(すゐがい)(まこと)酸鼻(さんび)(きはみ)なり。八(ぐわつ)()大地獄(おほぢごく)硫黃(いわう)採󠄁集(さいしふ)區域(くゐき)中間(ちうかん)(そび)ゆる無間山(むげんざん)の一(かく)七十(じや(う))(ばかり)地辷(ぢすべ)りを(しやう)じ、土砂(どしや)急勾配(きふこうはい)落下(らくか)して()く/\巨岩(きよがん)土塊(どくわい)崩壊(はうくわい)しつ〻宮城野(みやぎの)(むら)地内(ちない)早川(はやかは)落下(らくか)して(その)水流(すゐりう)()()めしが、(あし)()(あふ)る〻大水(たいすゐ)(たちま)此處(こ〻)に一(だい)貯水池(ちよすゐち)(つく)り、水勢(すゐせい)(くは)はりて一()土砂(どしや)()つて(おと)せしかば、濁水(だくすゐ)大津浪(おほつなみ)山鳴(やまなり)をなしてドツとばかりに奔下(ほんか)(みや)(した)にては富士屋(ふじや)ホテルの發電所(はつでんしよ)()(なが)し、(だう)(しま)にては大和屋(やまとや)離座敷(はなれざしき)橫濱(よこはま)水電(すゐでん)工夫(こうふ)小屋(ごや)()み、(たふ)(さは)にては福住樓(ふくずみろう)大厦(たいか)崩落(はうらく)し、大倉(おほくら)別莊(べつさう)の一()(あら)ひて、(さら)小田原(おだはら)電鐵(でんてつ)線路(せんろ)破壊(はくわい)、十(すう)(めい)人命(じんめい)をも(うしな)ひ、(なお)飽󠄁()()らずして小田原(おだはら)方面(はうめん)暴威(ばうゐ)(たくまし)ふし品川(しながは)(「早川(はやかわ)」の誤)(むら)寶石樓(ほうせきろう)(かげ)(とゞ)めず()(なが)したり。

(「グラヒック 九月一日號(第二卷第十八號)※」明治43年・1910年 有楽社 13、16ページ、「品川」の傍注はブログ主)


箱根湯本以遠の延伸を決めてからわずか数ヶ月後の被災ということで、延伸議決時にはこの様な災害への対応が必要になることは当然想定外のことであった筈です。鉄道運行が途絶する様な水害に遭って、ひとまずは延伸より先に水害への対応を優先せざるを得なくなったということでしょう。

もっとも、後のことではありますが大正9年(1920年)に当時の鉄道院が熱海線を国府津〜小田原間で開業させたのに伴って、並行する小田原電気鉄道の国府津〜小田原間が廃止されたことを考え合わせると、小田原〜箱根湯本間は熱海線開業後も引き続き小田原電気鉄道の経営する路線として手元に残る資産だったことになります。その点で、将来も営業を続ける区間が災害に脆弱な状態のまま措くのは不味いという判断があって、その抜本的な解消を優先したのかも知れません。以前も当ブログで触れた通り同じ時期に国府津〜小田原間の酒匂川橋をはじめとする各橋も流失し運行に支障が出ていたと考えられる点を考えると、こちらの区間の各橋もなるべく早く復旧して全通させたかった筈ですが、それよりは将来が見込める区間で路線を付け替える方を優先させる判断が成されたとしても、その後の経緯を見ると理解は出来ます。


「東京近傍避暑避寒案内地図」(明治43年)7コマから
東京近傍避暑避寒案内地図」(明治43年 博愛館)
7コマ(部分)矢印、傍線追記
小田原電気鉄道の線路が早川に近い位置を
通っている様に描かれている
この経緯について、「あゆみ」では

この決議に先だって、同年(明治44年)5月26日、総理大臣西園寺公望、内務大臣原敬に路線一部変更の出願をした。同年9月28日、これが許可され、翌10月19日、工事施行願を神奈川県に提出した。

新路線は、大窪村風祭字富士山地内国道上既設線路を起点として、同村風祭―入生田を経て、湯本橋湯本字山崎、三枚橋を通過して字白石下の間である。現在の国道に接近した軌道がそれである。

大正2年8月、これが完成した。

(61〜62ページ)

としています。実際は三枚橋付近で早川を渡河する箇所をまだ解消できなかったのですが、大筋では現在の箱根登山鉄道の位置に近い場所に移されました。

その間、箱根の延伸は具体的な工事には殆ど着手せず、当初アプト式を想定していた急勾配区間の対応方法など計画の見直しを行っていました。

松本安太郎の貸自動車事業が起業した大正元年末というのは、そんな最中のことだったことになります。小田原電気鉄道が自動車事業も行うことを会社の「目的」に書き加えたことが「官報」に公示されたのは大正2年(1913年)2月26日の号で、松本安太郎の起業からわずか3ヶ月ほど後のことです。

小田原電氣鐵道株式會社變更事項

目的

一 電氣ヲ動力トシ輕便鐵道法又ハ軌道条例ニ據リ鐵道ヲ敷設シ及自働車ヲ兼󠄁用シ運輸ニ關スル一般ノ業務

 

二 電燈電力ノ供給其他電氣ニ關スル機械器具ノ製造販賣電氣ニ關スル一般ノ業務

 

三 娯樂場ノ設備家屋ノ建設土地賣買賃貸借ニ關スル業務

以上大正二年二月十二日登記

小田原區裁判所


これだけを見てしまうと、松本安太郎の動きに慌てて小田原電気鉄道が追随してきた様に見えてしまうのですが、「あゆみ」に掲載された年表※によれば、臨時株主総会で自動車事業営業の出願を決議したのは前年の明治45年6月25日、免許が下りたのが同年9月12日とされています。出願決議の翌日、「横浜貿易新報」2面にて総会が開かれたことが報じられ、必要となる資金6万円は借入金にて賄うことが議決されたとしています。

前回の記事で確認した通り松本安太郎が出願した免許が10月頃に下りたのと比較すれば、この辺りの動きはむしろ1ヶ月ほど早かったことになります。免許取得後の事業開始に向けての準備作業に小田原電気鉄道の方が時間が掛かったために、開業では松本安太郎に先を越されてしまったと見るべきでしょう。

こうして2つの事業者がほぼ同時期に並行して貸自動車業の創業を目指していたことから、何か共通の「動機」が存在した可能性を考えたくなります。その契機になりそうなものを探すと、同じく明治45年5月に神奈川県が「自動車取締規則」を改定していることに気付きます。これは小田原電気鉄道の臨時株主総会の1月ほど前ということになります。「神奈川県公報」にて公示されたのが5月10日、翌日「横浜貿易新報」7面にて条文の一部とともに報じられています。

この時期にはまだ国が統一的な規則を制定しておらず、各府県毎に自動車の普及状況に応じて規則が定められていました。神奈川県では横浜に自動車を持ち込んでくる外国人が多かっただけに制定時期が比較的早く、明治37年(1904年)8月に最初の規則が制定されています。


この明治37年の規則の中には、こういう条文が含まれています。

第三條 營業線路ノ道幅ハ四間以上タルコトヲ要ス但シ土地ノ狀况ニ依リ又ハ公安上差閊ナシト認ムルトキハ本條ノ制限ニ據ラサルコトアルヘシ

(「神奈川縣公報 第千百九號」明治37年8月16日 18ページ、「横浜市立図書館デジタルアーカイブ」所収)

幅4間(約7.2m)の道幅があるのは、明治以降に東京や横浜で新たに開発されたり拡幅された一部の街区のほかは、江戸時代から引き継いだ東海道など限られた道路しかなかった時代です。これは事実上、その様な幅広の道路が存在するごく限定されたエリアでしか自動車を走らせられないことを定めたものと言え、自動車を用いた事業を起業することが出来る地域に大きな制限が掛けられたことを意味していました。

これは、明治末期時点ではまだ自動車の走行を意識した道路整備が行われていなかったことが大きく効いています。警視庁の「自働車取締規則」の制定の前年の「貿易新報」(現:神奈川新聞)の記事では

自動車(じどうしや)營業(えいげふ)問題(もんだい)

古賀(こが)警保局長(けいほきよくちやう)(いは)自動車(じどうしや)營業(えいげふ)出願(しゆつぐわん)許否(きよひ)(つい)ては目下(もくか)警視廳(けいしちやう)(おい)(がい)取締(とりしまり)規則(きそく)制定(せいてい)(ちう)なるを(もつ)脫稿(だつかう)(うへ)熟議(じゆくぎ)結果(けつくわ)にあらざれば許否(きよひ)(いづ)れとも(かた)(あた)はずと(いへど)(いま)()()意見(いけん)としては從來(じうらい)(おい)ても自家用(じかよう)自動車(じどうしや)もある(こと)なれば絕對(ぜつたい)()れを許可(きよか)せずと()ふにあらず(たゞ)元來(ぐわんらい)()(くに)市街(しがい)歐米(おうべい)のそれの(ごと)完備(くわんび)せず一(てい)軌道(きだう)馳走(ちさう)する電車(でんしや)(つい)てさへ目下(もくか)死傷(しゝやう)事故(じこ)續出(ぞくしゆつ)する有樣(ありさま)なるを以て(まん)普通(ふつう)取締法(とりしまりはふ)(もと)()れを許可(きよか)するが(ごと)(こと)あらば路上(ろじやう)危險(きけん)()ふべからず(ゆえ)(この)營業(えいげふ)出願(しゆつぐわん)(たい)しては(一)道路(だうろ)幅員(ふくゐん)(二)軌道(きだう)存在(そんざい)する道路(だうろ)(三)速力(そくりよく)程度(ていど)(つい)(もつと)嚴格(げんかく)なる取締法(とりしまりはふ)(まふ)けん(かんが)へなるを(もつ)(もし)()ひて營業(えいげふ)開始(かいし)するものあるも事實上(じゞつじやう)營業(えいげふ)(あた)はざるに(いた)らん云々(うんぬん)

(明治39年・1906年11月29日 本紙2面より、「え」など変体仮名が用いられている箇所については適宜ひらがなに置き換え)

と、個人的な見解と断りながらも、自動車の走行出来る様な道路の整備がまだ全く進んでいない現状を踏まえると、事故防止のために厳格な規則を定めざるを得ない以上、自動車を使った事業が成立する余地がないという否定的な見立てが紹介されています。

それが、明治45年に改定された規則では次の様に改められます。因みにこの規則によって明治37年の規則が廃止されることが第16条に明記されています。

第九條 運轉ニ關シテハ左記ノ事項ヲ遵守スヘシ

二、乘用車輛ハ其ノ幅二倍半未滿ノ道路貨車ハ四間未滿ノ道路ヲ行進スヘカラス但シ特ニ所轄警察署又ハ警察官吏ノ承認ヲ受ケタル塲合ハ此限ニアラス

(「神奈川縣公報 第千七百五號」明治45年5月10日 18ページ、「横浜市立図書館デジタルアーカイブ」所収)


貨車、つまりトラックについては引き続き道幅が4間ある道路でないと原則的に走行できないと定められているものの、乗用車については車幅の2.5倍以上の幅員がある道路であれば通行できる様に緩和されました。第4条第8項で車幅は7尺(約2.1m)以内と定められおり、これは現在の乗用車でも滅多にお目にかかることはない幅ですが、それでも17.5尺(5.25m)ほどの幅がある道であれば走行できる様になったことになります。

当時の一般的な自動車の車幅に関する資料は多くありませんが、「Model T Ford Club of America」に掲載されているフォードモデルTの平面図では「5フィート5インチ(約1.65m)」とされていますので、約4.1mの幅がある道まで認可される可能性が生じたことになります。これでもまだ当時としては道幅は広い方に入りますが、明治37年(1904年)に竣功した宮ノ下〜芦之湯間の箱根新道の石碑(「足柄縣ブログ」による、同ページに箱根山中を走る乗用車の絵葉書あり)によれば、道幅2間3尺(約4.5m)とされており、フォードTくらいの横幅の乗用車なら規則の範囲内であったことがわかります。

こうした規制の緩和を受けて、箱根でも自動車を乗り入れさせることは可能になったという判断があって、松本安太郎や小田原電気鉄道が出願に動いた可能性は充分にありそうです。

とは言え、同じ時期に箱根湯本からの延伸事業と「関東大水害」の復旧工事で多額の投資が必要になっている最中、更に借入金を募ってまで自動車事業にも手を広げようというのは、かなりの積極策であったことは確かです。「あゆみ」ではこの辺りの動向について解説はされておらず、どの様な判断が働いて自動車事業への参画に繋がったのか、具体的に論じた資料は見つかっていませんが、こうした事業展開の背景として、同社の当時の首脳陣の顔ぶれを確認しておく必要はあるかも知れません。

  • 長 草郷 清四郎:足柄下郡湯本村
  • 専務取締役 中根 乕四郎:東京市日本橋区
  • 取締役 福原 有信:東京市京橋区
  • 上 清岡 邦之助:東京市芝区
  • 上 矢野 義徹:東京市芝区
  • 上 西村 秀造:東京市赤阪区
  • 上 周布 兼道:横浜市伊勢町
  • 監査役 神原 富文:足柄下郡小田原町
  • 上 益田 太郎:東京市日本橋区
(「銀行会社要録 : 附・役員録 17版」大正2年 東京興信所 編 を基本に、他の資料から居住地を拾って追記)

小田原・箱根地域に在住だったのは社長の草郷 清四郎と監査役の神原 富文だけで、あとは全員東京市や横浜市の在住だったことがわかります。草郷 清四郎も明治34年(1901年)に小田原電気鉄道社長に就任した後に現地に移住しましたが、和歌山県の出身で実業家として各種事業に携わる中で東京や福岡県に居住していた人物で、その点では他の取締役と基本的には変わらない出自であったと言えます。

こうした傾向は、小田原馬車鉄道が電気鉄道に切り替わる際に、会社の経営権を東京馬車鉄道に譲渡して電化事業で必要となる資金を調達したことが1つの契機となったと考えられますが、それによって小田原電気鉄道は経営地域は小田原・箱根に限定されつつも内実は東京に強く結びついた会社に変わっていたと言えます。

その分、東京や横浜で早くから走り始めた自動車という新しい乗り物についての情報を得やすい地域に在住する人物が、会社の経営の主力になっていたことになります。これらの人々が自動車事業について具体的に語っている資料を見つけることは今回は出来ませんでしたが、鉄道延伸という大規模なプロジェクトを抱えているにも拘わらず自動車事業にも参入を決断するほどの強い動機は、こうした当時の最先端の情報が入ってくる地域からの関与があって生まれた可能性は考えてみたくなるところです。あるいはかなり以前から自動車事業への参画は構想としてあり、神奈川県の「自動車取締規則」改正の機を窺っていたのかも知れません。

また、その点では松本安太郎も出自の毛色はやや異なるものの箱根には外部からやってきた人物であり、更に富士屋自働車を起こした山口正造も日光・金谷ホテルの創業者の次男が外遊を経て富士屋ホテル創業者の婿養子となった(「回顧六十年※」83〜87ページ)という点で、何れも小田原・箱根に外からやって来た人物である点が共通しています。小田原・箱根地域の鉄道や自動車といった近代化は、こうした外部から入ってきた人物によって興されてきた、と言うことが出来そうです。



次回はその富士屋自働車と小田原電気鉄道の自動車事業の間の影響について考えてみたいと思います。

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「富士屋自働車」と「エム・エフ商会」の自動車事業を巡って(その4)

前回に引き続き、「全国自動車所有者名鑑」(以下「―名鑑」)や「全国自動車所有者名簿」(以下「―名簿」)に掲載された、当時の箱根・小田原地区で貸自動車業を行っていた3業者の車両の動向と、それらの業者について「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)上で見つかる資料などを検証します。今回は前々回の「松本安太郎」の続きです。


松本安太郎の自動車事業について、前回までに確認した諸資料と照合した時に気になることを書いている本を見つけました。以下、やや批判的な記述になりますが御了承下さい。

箱根山の近代交通」(加藤 利之著 1995年 神奈川新聞社/かなしん出版、以下「近代交通」)では、「松本安太郎」が貸自動車業を始めた経緯について、次の様に記しています。

明治の末頃から、外国人がマイカーを駆って、箱根にやってくるようになった。その箱根で貸自動車業(今のハイヤー)を始めればもうかると考えた男がいた。

和歌山県出身の海軍軍人で、退官して奥さんの実家のある湯本に移り住んだ松本安太郎(昭和八年、六十八歳で没)である。「呉鎮(くれちん)(旧海軍呉鎮守府)の三羽烏」とうたわれたほど頭の良い男であったから、次の乗物が自動車であることを見通していたに違いない。

当時、小田原電気鉄道の終点湯本駅(今の旅館河鹿荘のところ)の周辺には、菊住(きくずみ)・鎌倉屋・(ひらき)屋・杉山の四軒の茶屋があり、全山三六軒の旅館の番頭さんが、この茶屋で客を待ち、電車からおりてくる客を案内した。このため、駅前には二〇〇台もの人力車が並んで客待ちしていた。

その茶屋の一つ菊住を松本の奥さんの実家が経営していた。大正元年、松本は菊住の隣にガレージを設け、幌型のフォード車三台をおいて、「箱根自動車株式会社」の名称で、貸自動車業を始めた。

(上記書109ページ)


昭和8年(1933年)没と書く点は「その2」で確認した「官報」の登記とも一致します。仮に没時の68歳が満年齢であったとすれば生年は1865年(元治元年〜慶応元年)、大正元年(1912年)に貸自動車業を始めた頃には47歳ぐらいであったことになります。

「デジタルコレクション」上で「官報」に限定して「松本安太郎」を検索すると、軍人への受勲や下賜金の辞令がかなりの数ヒットします。同じ時期に「海軍三等主張」の「松本安太郎」と「陸軍歩兵二等卒」の「松本安太郎」が出て来るなど、これらの中にも複数の「松本安太郎」がいたことを考えなければなりません(陸軍の「松本安太郎」は日露戦争で戦没したことも「官報」でわかりますので、明らかに別人です)が、少なくともこれらのうちの幾つかは、「近代交通」の書く通りであれば、後に退役して湯本に移る「松本安太郎」その人であったことになるでしょう。「官報」上に具体的な所属部隊等を明らかにする記述はありませんが、受勲の件数の多さから、確かにそれなりの評価を受けていた人物であったことが窺えます。

評価の高い退役軍人であったということであれば、少なからず恩給を受給していたと考えられますので、貸自動車業を始める上での財源の一助にはなったと考えられます。とは言え、恩給だけで当時の高価な自動車を3台も購入した上で貸自動車業を始められるほどの財力を得ていたとは考え難く、退役して湯本に移り住んでからも、何らかの経済的な活動によって更なる収入を得ていた可能性は高いだろうと思います。前回見た大弓や釣堀の店も、その様な経済的活動の一環であったと考えられますが、前々回も指摘した通りこれも自動車事業開始に必要な原資の蓄積に充分であったと言えるかは疑問です。

鐵道馬車待合

鐵道馬車御昇降の節󠄁私方にて御待合被爲遊候はゞ萬事御便利に付御休息の程願候

鐵道貨物取扱

は懇切賃錢低廉運送は迅速なり猶又箱根各温泉塲へ配達荷物も精々相働き可申候

湯本鐵道馬車待合所内

御休所

菊住房次郎

(下記書「前付の四」ページ)

同郡(足柄下郡)同村(湯本村)大字湯本六八八

菊住 福住房次郞

●待合、御休所、荷物運送取扱處

(下記書490ページ上段)


また、配偶者が湯本で代々茶屋を営む家であったことからも、それなりの資力はあったと思われます。「箱根温泉案内 増補訂正2版」(明治29年・1896年 森田富太郎 著 森田商店)には上左の様な「菊住」の広告が出ています。明治21年(1888年)に開業した小田原馬車鉄道の湯本駅の構内で、「菊住」が早くから待合だけではなく荷物の取扱も商っていたことがわかります。「菊住房次郎」の名前は「箱根温泉志」(明治26年・1893年 高橋省三編 学齢館)の「箱根塔之澤廣告」中にも登場しますので、もう少し前から営業を始めた様です。また、「百家明鑑:神奈川文庫 第五集」(明治33年・1900年 小幡宗海 編 神奈川文庫事務所)には上右の様にこの待合が福住家によって経営されていたことが記されています。因みにこの「福住房次郎」は、後に大正3年から10年まで湯本村の第11〜12代村長を務めており、同村の有力な人物のひとりであったことが窺えます(「神奈川県町村合併誌 下巻※」昭和34年・1959年 神奈川県 274ページ)。


その点では、娘婿の松本安太郎が最新の自動車事業に目を向けたことに対しても、早くから最新の交通機関に適応してきた福住家が理解を示したとしても不思議はありません。しかし、自動車事業に必要となる多額の投資に対して、福住家が応じることが出来たか、また実際に助力したかどうかは別の問題です。

さて、「近代交通」の問題点の1つは、上記の引用文中で「松本安太郎」が大正元年に設立したのが「箱根自動車株式会社」であるとしていることです。「デジタルコレクション」上で確認できた限りでは、「箱根自動車株式会社」の名前が登場するのは大正7年が最古で、それより前に遡ることは出来ません。このことから、少なくとも創業当初は法人格の必要な「株式会社」組織であったとは考え難いものがあります。

また、「近代交通」でも富士屋自働車の創業に至る経緯として宿泊客から受け取った抗議の手紙がきっかけになったことを記しています(同書112〜114ページ)。「近代交通」の巻末にはこの経緯の出典と言うべき「回顧六十年」(昭和13年・1938年 富士屋ホテル編集発行)の名前はありませんが、「富士屋ホテル八十年史※」(昭和33年・1958年 富士屋ホテル編集発行、リンク先に「エム・エフ商会」の名が出ている)など、「回顧六十年」を参照して記述したと考えられる文献も名前を連ねていますので、間接的にせよ「エム・エフ商会」の名前は見ている筈です。しかし、それでも「近代交通」では同書が示す「エム・エフ商会」を松本安太郎の商店の商号としては採用していないことになります。

松本安太郎の商店が創業時から「箱根自動車」の商号を使おうとしていた可能性を考えたくなる当時の記事が「デジタルコレクション」上で見つかるのも確かです。

箱根自動車營業開始

國府津湯本宮の下元箱根一帶の道路に沿ひ兼󠄁て自動車旅客運搬營業出願の處此度神奈川縣知事の認可を得たるに因り十一月十六日より愈々試運轉を開始し營業所を仮りに湯本福住樓に置き來年夏期迄には是非共四臺の自動車を以て營業に從事する計畫の由

(十一月七日東洋新報)

(「自動車 第壹巻 第壹號※」大正元年十二月一日刊 日本自動車倶楽部横浜支部 10ページ「雜錄」欄より)

この記事の出典元である「東洋新報」の大正元年11月という日付からは、この記事が松本安太郎の商店の開業にまつわる経緯を記している可能性は少なくないとは言えます。実際、「横浜貿易新報」(現:神奈川新聞)の大正元年11月8日の記事に

箱根方面

自働車(じどうしや)運轉(うんてん) 箱根(はこね)湯本村(ゆもとむら)(あざ)(たき)(まへ)松本(まつもと)安太郎(やすたらう)()ねて其筋(そすぢ)小田原(おだはら)湯本(ゆもと)(かん)(およ)湯本(ゆもと)箱根(はこね)(かん)賃貸(ちんかし)自働車(じどうしや)運轉(うんてん)出願中(しゆつぐわんちう)なりしが去月(きよげつ)許可(きよか)となりたれば今回(こんくわい)ベーヂーデトロイト四(にん)(のり)(りやう)にて愈々(いよ/\)運轉(うんてん)開始(かいし)したるが賃貸料(ちんかしれう)湯本(ゆもと)小田原(おだはら)(かん)(きん)(ゑん)とは高價(かうか)なり

(3面)

とあることからも、「自動車」誌の記事も松本安太郎の商店を取材したものである可能性は高いと言えます。

但し、「自動車」誌の記事には「松本安太郎」の名前や住所などがなく、営業所が福住楼に置かれ、台数も3台ではなく4台と書くなど、松本安太郎開業後の事情と異なる点が複数記されている点をどう解釈すべきかという課題は残っています。また、この記事では「箱根自動車」とはしていますが「箱根自動車『株式会社』」とは書いていませんので、法人化する予定があったかどうかについては書いていない点も注意が必要です。因みに、「横浜貿易新報」の記事には上記引用の通り「箱根自動車」の名称はありません。


そして、「デジタルコレクション」上で大正元年から6年までの資料中に「箱根自動車」と書いているものは、上記の「自動車」誌の記事だけです。「デジタルコレクション」の全文検索の網羅性の制約はあるとは言え、現時点では松本安太郎の商店が「箱根自動車」の商号を掲げて貸自動車業を営んでいたと言える史料が見つかっていないのが実情です。

前々回挙げた大正元年から7年までの当時の記録からは、松本安太郎が自身の個人名以外で営業を行っていたことを裏付けることは出来ません。更に

大正六年十二月十二日の横浜貿易新報は「箱根と自動車」の見出しで次のように報じている。

箱根・国府津間の交通機関として旅客遊覧者の乗用自動車は、宮之下富士屋自動車会社の十六台、小田原電鉄の五台、湯本松本の四台等二十五台なるも年々多数の乗客を見るに至り本年の如きは各地共に運転回数を増加せるも不足を告げたり、

(「箱根温泉史―七湯から十九湯へ」1986年 箱根温泉旅館協同組合編 ぎょうせい 105ページより)

とあることから見ても、松本安太郎の貸自動車業は、大正7年の「箱根自動車株式会社」設立までは主に経営者の個人名で営業を続けていたと見るのが、妥当ではないかと考えます。

※2024/04/18追記:松本安太郎の貸自動車業の名称については、「松本安太郎の「エム・エフ商会」補足」を併せて参照下さい。



「近代交通」にはもう1点問題があります。上記の引用のもう少し後には

神奈川県西部では最初の自動車会社だったから、車が故障すると横浜の業者に修理を頼まなければならなかった。翌年、小田原電気鉄道が貸自動車業を始めたので、簡単な修理は小田原で出来るようになったが、依然、修理費がかさみ経営は苦しかった。まことに、創業者の苦心がしのばれる。結局、「武士の商法」に終わり、大正八年頃、富士屋自働車株式会社に身売りしてしまった。「自働車」と書くと、「自動車」の誤植と思うだろうが、富士屋自働車の社名はこうなっていた。

(上記書111ページ)

という記述があります。しかしこれも前々回見た通り、松本安太郎はむしろ大正7年に「箱根自働車株式会社」に取締役の1人として参加していることが「官報」で確認できることから見れば、史料と噛み合わない記述と言わざるを得ません。

その上、前々回及び前回確認した保有車両の移動先でわかる通り、「箱根自動車」から「小田原電気鉄道」に移った車両は全部で6両あるのに対して、「富士屋自働車」に所有が移った車両は1両も見当たりません。富士屋自働車社長の山口正造が、箱根自動車の清算に際して、公的な記録の残らない形で何らかの手助けをした可能性は残るものの、少なくとも富士屋自働車の資産に箱根自動車の資産が大々的に付け加わる様な動きがあったことを裏付ける資料が見つかっていないのが現状です。


「近代交通」のこれらの説は、例えば「箱根湯本・塔之沢温泉の歴史と文化」(2000年 箱根湯本温泉旅館組合 編 夢工房)でもほぼそのまま採用されています(180〜182ページ、「4 大正時代の箱根湯本・塔之沢温泉」、同章は岩崎宗純氏担当)。同書の「参考文献」にも「近代交通」が掲げられていますので(395ページ)、この箇所についてはほぼ「近代交通」に依ったと考えて間違いないでしょう。


「近代交通」の著者である加藤利之氏は箱根町立郷土資料館の館長を務められた方です。その役職からは同資料館の管理する資料や町内関係者などに容易にアクセスできる立場にあったことが、松本安太郎の経歴について独自の情報を得る背景にあったことは容易に推察できます。実際、「近代交通」巻末の「資料提供及び協力をいただいた方々」には50名ほどの氏名・組織がリストアップされています(221ページ)。特に松本安太郎の海軍出自に関する話などは、残存資料の乏しさから考えても、子孫などの縁故者からの聞き取りや提供資料がなければ容易に明らかにならない事実でしょう。少なくとも、現時点では「デジタルコレクション」の検索で見つかる一連の資料では、彼の自動車事業開業前の経歴について明らかに出来るものはありませんでした。

しかし、同書の松本安太郎の商店や会社の消長についての記述は、確度の高い史料との齟齬が見えることから、改めて精査が必要であると考えます。少なくとも「官報」に掲載された法人登記に関する情報は、当時の法的な根拠があるものですから、もしそこから読み取れる事実と異なる実情があったとするならば、そのことを裏付ける別の史料が必要です。ですから、まずは基本として「官報」などの資料から読み取れる事実を優先的に考察すべきではないでしょうか。

但しこれらの瑕疵は、「近代交通」が「松本が経営したこの会社こそ、記念すべき箱根山の最初のハイヤー会社であった。」(111ページ)とする評価が、揺らいでしまう程の問題ではありません。松本安太郎の商店や「箱根自動車株式会社」がどの程度の売上を上げていたのかの記録はありませんが、結果としては短期間で消滅してしまった松本安太郎の貸自動車業は、やはり成功したとは言い難いものがあります。とは言え、彼が小田原・箱根地域の自動車事業の先鞭をつけた存在である点には、違いは無いでしょう。



ここまで「小田原電気鉄道」の自動車事業については触れずに来てしまいましたが、次回はこの点について、同社の他の事業との兼ね合いで改めて分析してみたいと思います。

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「富士屋自働車」と「エム・エフ商会」の自動車事業を巡って(その3)

前回の記事に引き続き、「全国自動車所有者名鑑」(以下「―名鑑」)や「全国自動車所有者名簿」(以下「―名簿」)に掲載された、当時の箱根・小田原地区で貸自動車業を行っていた3業者の車両の動向と、それらの業者について「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)上で見つかる資料などを検証します。今回は当初の予定では前回に引き続き「松本安太郎」を取り上げる予定でしたが、こちらはもう少し調査が必要となったため、今回は前回「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)で見出した「―名鑑」や「―名簿」以外の当時の車両の一覧の分析だけ公開します。


今のところ、「―名鑑」または「―名簿」を「国立国会図書館サーチ」で検索しても、大正4年、5年(1915、16年)と12年(1923年)の3冊しかヒットしません。「―名鑑」の方を編集発行した「東京輪界新聞社」については、他の出版物が一切見当たらず、この2冊の「―名鑑」にも編集経緯を記した箇所がないため、大正6年以降、もしくは大正3年以前にも「―名鑑」が編集発行されていたかどうかについては、情報が一切ありません。

これに対して、「―名簿」の大正11年12月付の「」には

全國自動車所有者名簿は當會設立以來每年調査に從事し、當局も之に對して多大の好意と便宜とを與へられし事は當會の感謝に堪へざる所也。而して本年度版は從來東京之部地方之部を合本とてし(ママ)製本せし爲購求者に取りて一層の便宜を與ふることや疑ひ無かる可し。

(ページ番号なし)

とあり、大正12年以前にも「東京の部」と「地方の部」に分けた状態で同様の「―名簿」を毎年作成していることを記しています。

この版を作成した「帝國自動車保護協會」は大正7年(1918年)7月に機関誌「月刊 自動車※」を創刊しています(後に「自動車及交通運輸」に改題)。編集の「加賀松之助」はこの直前に雑誌「実業の世界」の広告担当を外れたことが同誌上で報告※されていますので、恐らくこの頃に結成された団体と思われます。そして、上記の2分冊の形で「―名簿」が発行されたことが、同誌の大正9年(1920年)9月号の広告※に掲載されています。更に、翌年から毎年「―名簿」を発行していることが一連の「自動車及交通運輸」誌の検索結果から窺い知れます。

しかし、「デジタルコレクション」は勿論、「国立国会図書館サーチ」上で全国の図書館を含めて「帝国自動車保護協会」で検索をしても、大正12年版以外の「―名簿」は1件もヒットしません。「日本の古本屋」でも当該書の情報が出て来ないなど、現在は極めて入手困難な資料になってしまっている様です。

このため、「―名簿」の他の版を使って当時の各社の保有車両の動向を確認することは、現状では全く見通しが立ちません。

しかし、前回「神奈川県ト自動車」(大正9年 曽我紋蔵 著 横浜自動車協会、以下「県ト車」)と「神奈川縣自動車案内」(大正10年・1921年8月20日印刷 現代之車社編集発行、以下「県案内」)にも、神奈川県内限定ではありますが保有車両の一覧が掲載されていることを確認しました。前回は「箱根自動車株式会社」の保有車両の動きをこれらの資料を使用して確認しましたが、今回は「富士屋自働車」と「小田原電気鉄道」の保有車両の動向を確認します。

事業者車体番号
(自動車番號)
「県ト車」
大正8年11月30日現在
「県案内」
大正10年6月1日現在
「―名簿」
大正12年1月10日印刷
富士屋自動(働)車株式會社190
196
197
201
202
204
205
206荒井豊吉/貨新倉松藏
207
208
209
260
261
262
263ゼー、シー、グアスイス(空欄)
351柳元春平むつみ自動車
352柳元春平むつみ自動車
353
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
414ジーデルオロ
415安川辰五郎
451
452
453
454
455
456
457(空欄)株式會社倉田組鐵工所
458大貫榮太郎大貫榮太郎
459(空欄)(空欄)
460ウヰリアム、ハリスウヰリヤム、ハリス
473(空欄)(空欄)
474ビー、アールバツチソン(空欄)
537フランシス、シーヘウン(空欄)
538
539幌 乘
540幌 乘
545幌 乘
701
702
703
704
705
706新井田茂七
737
741幌 乘
742幌 乘
770塚田勝次郎
940
941
942
404859
小田原電氣(鐵道)株式會社139箱根自動車株式會社箱根自動車株式會社
154エツチ、ペント東神運輸自動車株式會社
155
156磯子自動車藤本小太郎
159
256箱根自動車株式會社箱根自動車株式會社
280箱根自動車株式會社箱根自動車株式會社
388
389
390
391
392(空欄)
401
402
403
404
405
482箱根自動車株式會社箱根自動車株式會社
483箱根自動車株式會社箱根自動車株式會社
484箱根自動車株式會社箱根自動車株式會社
577(空欄)吉川文藏(營)
578ダブリユー、ルーミス(空欄)
579(空欄)(空欄)
588(空欄)鐵道院
589櫻井勘一(空欄)
590(空欄)
591(空欄)
592(空欄)
593(空欄)
594(空欄)
595(空欄)
596(空欄)
799(空欄)
1001
1002營(予約)
1003營(予約)
1004營(予約)
1005營(予約)
1006營(予約)
1018
1019
1020
1021
1022
131942


この一覧から、「―名簿」だけでは見えなかった事情が何点か浮かび上がってきました。

まず「富士屋自働車」と「小田原電気鉄道」の保有車両の台数の推移ですが、前者は大正8年時点で既に40両に達していたのに比べ、後者は13両と大きく遅れを取っていたことがわかります。大正10年時点でも48両に対して19両と差はむしろ広がってしまっています。その後大正12年までに「小田原電気鉄道」が大きく台数を積み増して差を詰めてきていた、という流れであったことがわかります。

この台数の推移については、「小田原電気鉄道」が手掛けていた他の事業との兼ね合いが大きく影響していると考えられますが、この点については後日の記事で改めて検討したいと思います。

次に個々の車両の出処を見ると、基本的には新車を導入したと見られる車両が多いものの、中古車両を購入したり、保有車両を売却したりという動きが意外に多いことが見えてきます。中には206号や156号の様に、3冊の資料相互に所有者が異なっており、転売を繰り返していたと見られる車両も見受けられ、当時既にこうした中古車両の転売が盛んになっていたことが窺えます。

特に「小田原電気鉄道」が「箱根自動車」の車両をはじめ、中古車両を積極的に導入していることがわかります。これは「富士屋自働車」との車両台数の格差を埋める上で、少しでもその費用を抑える目的と考えれば理解できます。また、「富士屋自働車」が大正10年3月に会社の目的を書き換えて「一前各號ノ目的ノ執行ニ伴フ附帶事業及其執行ニ因リ得タル財產利用及處分」(官報 大正10年6月17日)という項目を追加したのは、こうした自動車の売買によって多少なりとも利益を得るケースがあったということなのかも知れません。

その割に、車体番号(自動車番号)が「飛び番」になっていく箇所が少なく、中古車両が既存車両と「連番」になる様に買い求めるケースが多い様に見える点が興味深いところです。既存車両との連番に拘った理由ははっきりしませんが、メンテナンス効率を上げる上で部品等の仕様がバラバラになってしまわない様に車種をなるべく統一するなど、両社が必要とする仕様の車両が得やすい条件があったのではないかと思われます。

これが成立するには、複数の同一車種の車両が同時に登録されることによって連番となる様な運用が存在することが必要ですが、当時の「内務省令自動車取締令」の「第5条」には

營業用又ハ自家用ノ爲自動車ヲ使用セムトスル者ハ主タル使用地ノ地方長官ニ願出テ其ノ檢査ヲ受クヘシ

商品トシテ自動車ヲ所持スル者ハ自動車所在地ノ地方長官ノ檢査ヲ受クルコトヲ得

檢査ニ合格シタルトキハ檢査ノ證明ヲ爲シ車輛番號ヲ指示ス

(「県案内」3ページ)

とあることから、自動車の輸入業者が在庫の車両の検査を受けた時点で車両番号が発番されていた可能性があることになり、それであればその番号を手掛かりに同一車種を探す手掛かりに出来ることになります。また、こうした事情があったのであれば、中古車両の選定時に、今回検討した「―名簿」の様な車両一覧を手掛かりに出来ることになり、こうした「―名簿」の様な出版物の需要の1つは、中古車選定の手引としての役割だったのではないかとも見られます。


そんな中で、特に「富士屋自働車」から放出された「206号」は「県案内」では「貨」の表示がある点が興味深いところです。これは「貨車」つもりトラックなどの荷物運搬用の車であることを示しています。「―名簿」でも一部の車には「(貨)」と表示されているものの、「―名簿」の206号には「(貨)」の表示はありません。同様の表示が「富士屋自働車」に留められた「538号」にも見られます。

少なくとも現状では、「富士屋自働車」が貨物運輸事業を行っていたことを示す資料は見ていませんし、今回見られた僅かな台数では同社の事業として積極的に行っていたと考えることは出来ません。あるいは燃料やタイヤ等運行に必要な物資を各地の営業所などの拠点に配達するなど、事業上必要な物資を輸送する目的で使用する車両であったとも考えられますが、今回の資料の範囲では判別し切れません。

因みに、「富士屋自働車」の車両一覧のうち、「県案内」には「乗合自動車」用であることを示す「乘」の表示が数台に見られますが、「小田原電気鉄道」の一覧には見当たりません。ただ、上記一覧以外の車両で明らかに乗合自動車として使われていたという情報があるにも拘わらず「乘」表記がないものを発見したため(この車両については後日別記事にて取り上げる予定です)、「県案内」が確実に該当車両を網羅しているとは言えない可能性が高く、この情報からは保有車両の種類の傾向を推し量ることは出来そうにありません。



冒頭に記した通り、次回改めて松本安太郎について更に取り上げたいと思います。

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