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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その3:「白旗勘定」について)

当初の予定ではこの話題で複数回の記事を書く予定ではなかったのですが、藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」)中で紹介された「遠藤民俗聞書(ききがき)」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)の内容を検討するうちに、つい長くなってしまいました。既に「聞書」や「昔の生活」の方に入り込み過ぎて「藤沢の資料」から離れた内容になってしまっていますが、記事タイトルは基本的に前回を引き継ぎました。


前回引用した「聞書」の「三崎街道」の解説の中では、この街道が遠藤と藤沢の繋がりを深める役目を果たしていたことが窺える記述も見えています。その中に「白旗勘定」という言葉が出てきます。

米を売ったり、肥料を買い入れたりには、藤沢の白旗まで出かける。毎年七月の白旗神社の祭礼の時に勘定をする習慣が近年まであって、これを白旗勘定といった。

(「聞書」27ページ:再掲)


「昔の生活」では「白旗勘定」についてもう少し長く記しています。

金肥(カナゴエ)の購入先は多くは藤沢の白旗横町であった。白旗横町は(八王子街道の起点で)肥料問屋以外に農具商、種子屋が古くからあり、澱粉工場、精米所も出来ていた。

農家は肥料問屋から肥料を帳面につけておいて貰って来て、収穫した穀類(麦、豆等)を現物で肥料代として納入した。毎年七月二十一日が白旗神社の祭礼に当り、この日に支払をした。

これを白旗勘定といった。これは大正十年に廃止された。

(45ページ、ルビは直前の記述にある同一の単語に振られているものをブログ主が転記)



「白旗横町」と各街道の位置関係
「白旗横町」と各街道の位置関係(再掲)
1960年代の空中写真を合成
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

現在の白旗横町と厚木道の分岐点
行く手に白旗神社の鳥居が見えている
ストリートビュー

上の地図で示した通り、「白旗横町」は東海道藤沢宿から白旗神社(源義経を祀る)に向かう横町やその付近の集落を指す名称です。かつて「白旗横町」で代々米穀肥料店を営んでいた山本 半峯(悦三)氏による「白旗横町の今昔」(昭和54年・1979年 私家本、以下「今昔」)によると、

元来は、現在の藤長パン店の角を左折し、諏訪神社(小田急本町駅前)から大庭坂下までを白旗横町といい、諏訪神社がその中心であった。つまり旧東海道から白旗神社に向って入り、さらに横へ曲った町であるので白旗横町と誰れいうともなく唱えたものである。

ところで、かっては白旗横町を一括して横町と称していたが、第二次大戦後になって、諏訪神社を中心にした附近は諏訪町と称し、白旗横町は藤沢町田県道沿いの二百メートル位の間をいうようになった。

(「今昔」5〜6ページ)

としていますので、「白旗横町」の範囲については時代による変遷が多少あった様です。

「藤長パン店」は2015年頃には閉店し、現在は跡地でコンビニエンスストアが営まれていますが、厚木道はこの角から西へ逸れる道筋でした。「今昔」に従うと以前は厚木道をかなり先まで進んだ辺り(現在「修道院下」バス停がある辺り、その先の坂道が「大庭坂」)までを「白旗横町」に含んでいたことになりますが、何れにしても厚木道を経て藤沢宿へ向かってくる遠藤地区の人々は、最初に「白旗横町」に入ることになります。


「白旗横町」の様子について、「今昔」では

白旗横町の商売が盛んになったのは、幕末以後、明治・大正時代の約六十年位である。現在の藤沢町田線は、かって八王子往還道と呼ばれ、道の両側には農家にとっての営農必需物資である肥料・飼料・種苗・農具など、さらに農家の生産物である米・麦・雑穀などを取扱いまた売買もした。なかでも麦類の取扱数量は県内一であった。しかもその取扱う米穀肥料商が軒を並べ競い合っていた。

大正末期に戸数僅か二十数軒の中で、米穀肥料商が十軒近くもあったことは特筆しておかねばならない。思い出すまゝに店名を記録してみることにする。小林商店、神保商店、江戸屋森商店、水谷鴻輔商店、高梨商店、山本商店、飯塚商店、種藤古川商店などの他に峯尾精麦、飯塚澱紛など十指を数えることができる。しかし今も営業継続している店は、一、二軒しかない、うたた荒涼淋しい限りである。

(「今昔」6〜7ページ)

と書いています。遠藤地区の人々も、そこで干鰯や豆粕、油粕の様な「金肥」を買い求めてもと来た厚木道を帰っていったことになるのでしょう。その売掛を白旗神社の夏の祭礼の日に農産物で支払う習慣があったので、それを「白旗勘定」と呼んでいたというのです。

因みに、「昔の生活」では厚木街道の発展について次の様に記しています。

遠藤における厚木道の沿線には昔は人家がなかった。二間巾の道であったが、厚木町道であったのが県道となって、後に道路が整備され、バスが藤沢・用田間に開通すると北部遠藤では藤沢との交渉が多くなった。六地蔵はじめ沿道に商店や人家ができるようになり、戸数が増加するのは関東大震災以後である。

遠藤停留所は、遠藤の東北端で藤沢・厚本線の県道と茅ケ崎・長後線の県道の交叉する所にある。はじめ六地蔵と共に人家はなかったが、藤沢・厚木間のバスの開通で停留所が設けられ、遠藤停留所が略されて遠藤となり人家もふえた。

(「昔の生活」167ページ)


かつての遠藤村、後の小出村から見れば、厚木街道は村境を進む道であり、水利に有利な谷戸底に比べれば人家がなかなか建たなかったのも理解は出来ます。そして、「昔の生活」では藤沢との往来が増えてくるのはバス開通後の時代のこととしています。

しかし、厚木道を往来する乗合自動車の記録を探してみると、「神奈川県自動車案内」(現代之車社 編 大正10年)に「美榮堂自動車」という事業者の名前があり、ここが藤沢から用田までの間で1日3往復の乗合自動車を運行していたことが記されています。この乗合自動車事業が何処まで時代を溯るのか、明確な裏付けが見出せていませんが、以前箱根の富士屋ホテルが自動車事業を始めた事情を検討した際に参照した「全国自動車所有者名鑑 大正4年4月1日現在」(東京輪界新聞社 大正4年)の「神奈川縣」の項に挙げられている全176台の自動車の所有者の中には、藤澤町を含む高座郡の在住者が皆無です。従って、藤沢〜用田間の乗合自動車運行を行う事業者が登場したのは、少なくとも大正4年よりは後のことということになります。


年度名称幅員
明治20年吉野三崎間往還
從厚木町至大町村
[最廣]3.0間
[最狭]2.0間
(この間変動なし)
明治44年度吉野三崎間往還
從有馬村至藤沢町
[最廣]3.0間
[最狭]2.0間
(この間変動なし)
大正3年度吉野三崎間往還
※区間別廃止される
[平均幅員]2.40間
大正4年度與瀨三崎縣道[平均幅員]2.33間
(この間変動なし)
大正9年度厚木藤澤縣道[一般幅員]2.5間
[最狭有効幅員]1.5間
大正10年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.5間
(大正11年度なし)
大正12年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.2間8厘
大正13年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.2間
(この間変動なし)
昭和6年厚木藤澤縣道[一般幅員]4.52m
昭和7年厚木藤澤縣道[一般幅員]4.50m
[最狭有効幅員]3.60m
(この間変動なし)
昭和12年※この年から府県道が主要なもののみとなり、番号による呼称に変わる。厚木藤沢線は含まれていない模様
※[ ]内は表見出しから、単位は適宜補充
「昔の生活」では厚木道の幅員の変遷についても触れられていますが、「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎間県道」、あるいは「厚木藤沢県道」の幅員については、各年毎に作成された一連の「神奈川県統計書」にその幅員が記されてはいます。しかし、それらを追っても何時頃どの程度拡幅されたのか、意外に見え難くなっています。右の表にその変遷をまとめてみましたが、どちらかと言うと統計の集計方法の変更によると見られる数値の変動は目立つものの、大筋では拡幅工事が施工されたことによって幅員の数値が変動した様に見える箇所が現れていない様に見えます。唯一昭和6年(1931年)に「4.52m」に変更された箇所では、その前までの「2.2間(=約4m)」に比べて若干拡幅された影響が出ている様にも見えるものの、これだけでは明確に昭和6年に拡幅事業が行われたと断じるのは苦しいところです。ただ、大筋では目立った数値の変動が見えていない傾向から、県が厚木道を含む区間を県道として管理する様になってからも、拡幅事業にはなかなか着手されなかった様には見受けられます。

一方、昭和13年度の内務省土木局による「国道及重要府県道交通情勢調査表」では厚木道途上の海老名村河原口(現:海老名市河原口)と御所見村用田(現:藤沢市用田)で幅員4.5m、藤沢町内では同5.5mとされていますので、それまでにはある程度の拡幅が行われたことが窺えます。

何れにしても、「白旗勘定」が廃止されたのが大正10年頃ですから、「白旗勘定」という言葉が遠藤の地で言い伝えられている状況から考えて、物流量の問題はさておき、藤沢〜用田間を結ぶ厚木街道の上で乗合自動車が運行され、その通行量への対応が本格化するよりも前から、この厚木街道が遠藤と藤沢との物流で重要な役割を果たしていたと考える方が自然ではあります。

課題は厚木街道を流れる物流量がそれぞれの時代でどの程度であったかというところですが、「聞書」や「昔の生活」は民俗調査の成果ですから年代を示す証言が乏しく、語られている農作業や生活の実情が果たしてどの程度時代を溯るかは必ずしも明確ではありません。その点は農産物の統計など他の史料を探る必要があるのですが、残念ながら「デジタルコレクション」上で見られる当時の統計は精々郡単位に集計されているものばかりで、村単位で集計されているものを見つけることは出来ませんでした。その様なデータが残っていないかは今後機会があれば探してみたいと思います。

少なくとも、上記の「今昔」にある様に白旗横町に商家が集中する様になったのが幕末からということであれば、それよりも前に既に「白旗勘定」の風習があったと考えるのは難しいところです。「白旗横町」という地名そのものは、「新編相模国風土記稿」の高座郡坂戸町の項(卷之六十 高座郡卷之二)の小名の中に見えてはいるものの、明治初期には道幅が僅か1間であったということから考えても、その時分にはこの横町に人や物資が集中する様な状況は想定されていなかったと見るべきでしょう。それでも元は自給自足が主だったという遠藤地区にとっては、白旗横町まで往復する機会自体は当初は多くはなかったにしても、貨幣経済が浸透していない地域としては少量の取引でも売掛にしてもらう必要があった、と読み解くべきかも知れません。

「白旗勘定」の様な風習は他の地域では見られなかったものなのか、それとも「白旗横町」に全く独自のものであったのか、その点を考える上では、「聞書」や「昔の生活」よりやや後発の民俗調査である「神奈川県民俗調査報告 17 (境川流域の民俗)」(神奈川県立博物館 編 1989年)の以下の記述が参考になりそうです。「境川流域」を調査対象地域としていることから、その中に遠藤地区は含まれていないものの、文献目録に「聞書」や「昔の生活」が含まれていることから、この項を執筆する際に両書が参考にされている可能性は高いと思います。但し、それ以外の地域の事例に触れられていたり、「白旗勘定」廃止後の動向も垣間見える点が両書に見えない部分と言えるでしょう。

肥料屋 肥料は人糞・緑肥・推肥・米糠・鶏糞などの他に金肥を購入した。 干鰯・油粕・豆柏も使った。 また、昭和のはじめには硫酸アンモニア・カリなどの化学肥料を使うようになった。これらの肥料は主として藤沢市の白旗横町の肥料屋から購入した。 白旗横町とは、 白旗神社が祭祠されているところからよばれた通称で、 17~18軒の殻屋・種屋・苗物屋・肥料屋などがあつまっていた。ここでの買いものも、やはり後払いが多く、品物をつかったあとでツケ払いする。 このため養蚕や稲の収穫があったあとに白旗横町の商人たちが周辺の農村を歩く姿がみられた。 このような支払いを総じて 「白旗勘定」 といった。

また、長後や保土ヶ谷にも(ママ)屋があって、 米穀類を出荷していた。 これらの店々は種や肥料がおいてあって出荷したときに求めることができた。 ときには米や大豆と肥料をかえてもらう、物々交換の形をとることもあった。またこれら金肥の他に人糞のくみあげは、それぞれの農家で懇意な家などに頼んでくみにいった。 リヤカーで厚木・横浜などにくみにいく。 野菜を売りにいって知りあったトクイ先などに頼んでくませてもらった。 こうしたときにはお礼としてキュウリやナスの2〜3本程度の野菜もおいていった。

カイコバライ 養蚕が終えたあとには魚代・日用品代などさまざまなツケを支払うことがあり、これをカイコバライといった。 そのため昭和初期に養蚕の値の変動の激しかった1時期は死活問題でたいへんな苦労をした。 それまでは「カイコバライ」 というと絶大な信用があったが、昭和2年から5年にかけての没落により、 一気に信用がうしなわれた。 そのころからツケウリもきかなくなったという。

(88ページ、「デジタルコレクション※」より)


やはり白旗横町以外にも、農村との流通の拠点として機能していた町があったと見るのが妥当な様です。また、大正10年頃から売掛を認めなくなっていった最大の要因は、やはり生産物による後納では対価を確実に回収できないリスクが高まってきたからなのでしょう。養蚕が奮わなくなるのは1929年(昭和4年)の大恐慌や化繊の登場によるもので、「白旗勘定」の廃止よりはやや後のことにはなりますが、こうした貨幣経済の変調によってそれまで貨幣経済の十分に浸透していなかった農村地帯にも次第に影響が及び、農村もそれまでの様には貨幣に頼らなくても良いという訳には行かなくなっていった、という動きが垣間見える様に思います。

その点を念頭に置くと、藤沢町の昭和初期の地誌である「現在の藤澤」(加藤徳右衛門著 昭和8年・1933年)で「白旗勘定」の廃止を「惜しい」と書く意味が見えてくると思います。

美しき慣習「白旗勘定」 今は行れず

我藤澤町には古來「白旗勘定」と稱して肥料商人と農家の間に不文律な最も美しき慣習が行はれた。其れは毎年七月廿一日白旗神社の例祭に當り近在の農家は大小麥を今日を晴れと其取引店に搬出し多きを誇りとせば商店また其の俵を店頭に積み上げ恰も俵の富士山が各店頭に現出し農作を物語ると同時に各店共に其多數を以て取引の擴大さを示すものとし誇りとした。斯くして一ヶ年の取引勘定は必ず決濟されて互に重荷を下すので極めて美しき慣習であった。この日農家は其の荷を馬に車に一家擧つて付隨し來り取引店に於て酒食の馳走を受くるものたれば各商店共に共臺所は天手古舞の有様でこれ等の人々は今日一日を飽迄お祭り気分に浸されて享樂に耽けるのである。而してこの美風も漸次經濟思想の惡化によりて決濟に異算を生ずると共に商店また店員待遇上の缺陷たりとして大正十年頃より商店自からこの例を廃止したるは惜き次弟である。

上記書729ページ、リンク先は「デジタルコレクション」※)


それまでは「白旗勘定」という風習によって、まだ必ずしも十分には貨幣経済が浸透していない農村コミュニティとの結節点として白旗横町が機能していた構図が、その廃止によって崩れてしまったこと、そしてそれによって商業地として発展してきた白旗横町と農村との関係も次第に良好なものではなくなっていくことを評して、徳右衛門は「惜しい」と書いたたのでしょう。

その意味では「白旗勘定」という言葉は、農村コミュニティが貨幣経済とやり取りする際の言わば「インターフェース」としての風習を、見えやすい形で示してくれる一例と言えるのかも知れません。今のところ同様の風習を指す言葉を私は知りませんが、恐らくは「白旗勘定」が廃止される大正10年頃までの時期には、他の地域でも同様の風習があった筈でしょう。

それでも、厚木道(や旧滝山道)が「白旗横町」という農産物や農村の生活物資の流通拠点とを結び付けるルートとして重要な役割を果たしていたことは、「白旗勘定」廃止後も変わらなかった筈です。それだからこそ、第二次大戦中に藤沢飛行場の滑走路によって断ち切られてしまった厚木道が戦後に復活するということが起きたのでしょう。

そして勘繰れば、「聞書」に記録された「三崎街道」という呼称も、あるいはこの道の重要性を少しでも強調するべく、より遠方に向かう道として「箔付け」したいという思いを、遠藤地区の人も持っていた証なのかも知れません。
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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その2)

前回紹介した藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」、別記ない場合は最新刊を指す)について、今回は同書で紹介された「遠藤民俗聞書(ききがき)」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)に見られた少し意外な内容について検討してみたいと思います。


「遠藤民俗聞書」遠藤地区の地図
「聞書」中の遠藤地区の地図
意外な内容とは、江戸時代の遠藤村の東から北を経由する「厚木道」について、他では見ない別の名前が「聞書」や「昔の生活」に記録されていたことです。まず、右に掲げた「聞書」冒頭の最初の地図(ページ数表記なし:柳田国男の「序」の次のページ)中、「厚木道」として知られている道筋の脇に右の様に「三崎街道」という名称が記入されており、「厚木道」の名称が記されていません。

そして、「聞書」の本文中でも次の様に「三崎街道」の名称が記されている箇所が見つかります。ここでも「厚木道」の名称は出て来ません。

遠藤は山・畠・田がつりあっているので、ほとんど自給自足の生活で、日常の暮しは楽であったようである。炭焼は以前は今よりも多く数軒はあったときいた。醤油しぼりをする人も芹沢にいて、フネや袋を持ってしぼりに来たという。醤油は秋にしこむと春にしぼりに来る。しぼってから一年くらいおいてから使用するという。味噌も自作で、三年くらいしこむとおいしくなるという。油は菜種子や胡麻をしぼるところまで持って行ってたのんだ。酒・砂糖・菓子・煙草の類の店もあったので酢などは買ったそうである。行商としては金物屋、いかけ屋が来た。かご屋、桶屋、屋根屋も以前からあったという。盆暮の買物にはかつぎざるをかついで、藤沢・厚木間の三崎街道を、歩いて藤沢に出たということである。かつぎざるをかついだ男親にくっついて子供も行き、買物の時の番の役をした。米を売ったり、肥料を買い入れたりには、藤沢の白旗まで出かける。毎年七月の白旗神社の祭礼の時に勘定をする習慣が近年まであって、これを白旗勘定といった。平生でも麦などをのせた手車をひいて、藤沢まで急いで行って帰って午前中はかゝるが、日に二回は往復したという。藤沢間の道はほかにもあったというが名が明らかでない。茅ケ崎にも出たようだが、藤沢が主だったらしい。いまはバスも便利に走っているので、平塚に買い物に出る人が多いということである。

(「聞書」27〜28ページ)


一方、「昔の生活」でも次の様に「三崎街道」についての記述が見られます。

藤沢宿を起点として、白旗横丁から、大庭・石川村を経て遠藤の境界線をつくりながら、長後からの大山道と合流して用田村の辻では平塚からくる中原街道と交叉して進み、海老名から相模川を渡る厚木街道の終点は厚木宿である。厚木街道も厚木の人からみれば藤沢へ出る藤沢道であった。厚木は県央部の交通の要所で、藤沢道の他に矢倉沢往還が通り、北へは甲州街道と通じ甲府盆地へ出る。厚木街道を用田の辻からまつすぐ北上すれば座間・上溝を経て御殿峠、片倉を通り八王子ヘと通じる生糸の道である。厚木街道は甲州街道ともよんだというが、その理由はこうした道を通じての交渉があったことを語り、養蚕、製糸業の盛な地帯を横断する道であった。

厚木街道は又、三崎街道ともよぶ人があった。今回の調査ではその理由を聞き取ることはできなかったし、いまでは三崎道とよばれていた事を知る人も少くなった。昔、海老名に国分寺のおかれていた古い時代に、相模の内陸部の国府から、三浦半島の三崎に通じる道の開けていたであろうことが、日本武尊の東征の道からも考えられる。しかし古代まで溯ることをしなくても、江戸時代に山と海の生産物の交易路としての働きをしていた事を三崎道のよび名はうかがわせるものである。

三崎道は、東海道の藤沢宿、保土ケ谷、戸塚の三点から分岐して三崎港へ通じる道をいう。三崎に通じる道は浦賀港への道ともかさなる。三崎は江戸初期に海関奉行所のおかれていた所、浦賀港は一七二〇年海関奉行所となってから急激に発達した港で、米・塩・酒・煙草・干鰯(ほしか)の問屋が軒をならべて仲つぎ貿易港として繁盛したと県史六に記されている。

(「昔の生活」166〜167ページ)


こちらでは基本的には「厚木街道」と呼ばれていることを記した上で、「厚木街道」の別称として「三崎街道」の名前を挙げつつも、「昔の生活」の聞き取り調査ではその裏付けを十分に得ることは出来なかった様です。しかし、この記述の中では「三崎街道」の持つ意味合いについて何とか積極的に評価しようとする記述になっています。

遠藤村に伝わる「三崎街道」に該当する道筋
旧遠藤村に伝わる「三崎街道」に該当しそうな道筋
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
実際には「聞書」「昔の生活」以外にこの道筋を「三崎街道」または「三崎道」と呼称している事例はなかなかありません。「昔の生活」の編集に携わったメンバーが手掛けた「藤沢市史 第7巻 文化遺産・民俗編」(以下「藤沢市史」)でさえ、「厚木道」が「三崎道」「三崎街道」と呼ばれていたことへの言及は見られません。「藤沢の資料」でもこの道は「厚木道」と記されていて「三崎道」と記された箇所はありませんでした。その他、「藤沢の地名」(1987年 日本地名研究所編 藤沢市刊)や「地図に刻まれた歴史と景観Ⅰ―明治・大正・昭和 藤沢市」(1992年 児玉幸多・古島敏雄監修・高木勇夫編 新人物往来社)など、藤沢市関連の地名や歴史を取り上げた書物も当たってみましたが、この道筋を「厚木道」と記すものはあっても「三崎道」と称するものは見当たりませんでした。

「昔の生活」では「三崎道」の名称から、古代の東海道との関連や、藤沢以遠と遠藤地区の繋がりを見出そうと思いを巡らせています。また、「三崎道」が「浦賀道と重なる」と解していることから、遠藤から藤沢宿へと入った後、「江島道」か長谷への「継立道」を経て鎌倉へ向かい、そこから「浦賀道」を経由して浦賀に至り、更にここから三崎へ達する「三崎道」へと入る道筋が想定されているものと思われます。「藤沢町政要覧」(大正11年・1922年 藤沢町編集)では

町の中央を東北より西南に貫く東海道を幹線とし、左右に分岐線を出す、三崎街道、八王子街道、厚木街道、大山街道は其重なる道路にして、何れも県道に属せり、而して三崎街道は東海道より藤沢停車場に至る主たる道路にして、遠方貨物の本町に入るの関門たり。

(「藤沢市史資料 第38集」藤沢市教育委員会編 1994年 所収 26ページより、「デジタルコレクション」※より)

とあり、ここで言う「三崎街道」が「江島道」を指していることがわかりますので、「昔の生活」が「藤沢町政要覧」を参照していれば、あるいは藤沢から「江島道」を経て鎌倉へ向かう道筋を意識していたかも知れません。

しかし、「聞書」や「昔の生活」、更には「藤沢市史」や「藤沢の資料」で遠藤地区と三浦半島との交易に触れられている箇所はありません。「藤沢の資料」の「1御所見地区」では古代の街道の位置についての検討が試みられていますが(31〜33ページ)、その中で掲出されている地図上では古代の主要な街道が厚木道と重なったり近接したりする様な道筋は描かれていません。「藤沢市史ブックレット8 古代神奈川の道と交通」(田尾 誠敏・荒井 秀規 著 2017年 藤沢市文書館)でも遠藤地区が検討の対象になっていない点は同様です。こうした状況からは、「聞書」や「昔の生活」で採録されている「三崎道」という呼称が、検討されている様な裏付けを持ったものであるとは判断し難いものがあります。「聞書」「昔の生活」以外に古代の交通との関連に言及する書物が見当たらないのも、裏付けを得にくい現状を反映しているとも受け取れます。

遠藤地区とその周辺では直接「三崎街道」に繋がる記録をなかなか見つけられなかったので、もう少し範囲を広げて「国立国会デジタルコレクション」上の全文検索で「三崎街道」等の名称を探してみたところ、「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎街道」「与瀬三崎県道」といった呼称を検出することが出来ました。

「吉野三崎間往還」については、明治34年(1901年)の「神奈川縣告示第百六十五號」の中で次の様に記されています。

明治三十四年三月神奈川縣告示第三十八號市郡連帶及市郡各部單獨ノ縣費ヲ以テ維持保存スル道路及河川海岸ノ名稱區域左ノ如シ

明治三十四年七月七日    神奈川縣知事 周布 公平

郡部縣費維持保存ノ道路線名及區域

一 吉野三崎間往還

相模國津久井郡吉野驛地内第拾六號國道ヨリ分岐シ同郡長竹村同國愛甲郡愛川村厚木町同國中郡相川村同國高座郡六會村藤澤大坂町同國鎌倉郡鎌倉町同國三浦郡田越村葉山村ヲ經テ同郡三崎町ニ至ル迄

(「神奈川県会史 第3巻神奈川県議会 編 1955年 所収 902〜903ページ、「デジタルコレクション」※から)


「白旗横町」と各街道の位置関係
「白旗横町」と各街道の位置関係
1960年代の空中写真を合成
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置(再掲

ここで示されている経由地の中には遠藤地区を含む小出村の名前も、その西隣に位置する御所見村の名前も出て来ないため、これだけではこの往還が「厚木道」を含むものか判然としません。しかし、この告示中の街道一覧の他の場所に

一 藤澤大和間里道

相模國高座郡藤澤大坂町吉野三崎間往還ヨリ分岐シテ同郡澁谷村ヲ經テ同郡大和村地内東京府境迄

(「神奈川県会史 第3巻」904ページ、「デジタルコレクション」※から)

とあることから、この里道が「滝山道」の道筋に相当することに気付きます。そして、上の地図に見る通り「厚木道」はこの滝山道から分岐していることから、「吉野三崎間往還」の区間の中に「厚木道」が含まれていることがわかります。「吉野」はかつての甲州街道の宿場の1つであった「吉野宿」(現:相模原市緑区吉野)を指します。

「与瀬三崎県道」の呼称については、大正2年(1913年)の「神奈川縣告示第二百三十號」に次の様な記述が見えます。

明治三十四年七月神奈川縣告示第百六十五號中縣費ヲ以テ維持保存スル道路ノ名稱及其ノ區域左ノ通改定シ大正三年度ヨリ之ヲ施行ス

大正二年十一月二十三日  神奈川縣知事 大島久滿次

郡部縣費維持保存ノ道路線名及區域

一 與瀨三崎縣道

與瀨停車場ヨリ津久井郡日連村串川村愛甲郡愛川村厚木町高座郡海老名村御所見村藤澤町鎌倉郡鎌倉町三浦郡逗子町葉山村ヲ經テ同郡三崎町迄

(「神奈川県会史 第3巻」907〜908ページ、「デジタルコレクション」※から)


これによって、「厚木道」の区間は神奈川県庁ではそれまでの「吉野三崎間往還」に代わって「与瀬三崎県道」の名前で呼ばれることになった訳です。「与瀬」とは「吉野」と同様、甲州街道の宿場の1つであった「与瀬宿」(現:相模原市緑区与瀬)を指しています。

「吉野三崎間往還」の方は、後年の「横須賀市史」※(横須賀市史編纂委員会 編 1957年)の中で(274〜275ページ)、明治17年(1884年)には「吉野三崎間街道」の名前が「県統計書」の「道路ノ坪数及延長」の表中に現れること、更に明治20年(1887年)には神奈川県知事から郡役所に対して発せられた訓令の中で「吉野三崎間往還」の名が登場することが指摘されています。このことは、「神奈川縣告示第百六十五號」の明治34年以前からこの呼称が神奈川県庁の関連役所内では使用されていたことを示唆しています。しかし、「吉野三崎間往還」または「与瀬三崎県道」の様な呼称が神奈川県関連の資料(統計表など)以外で一般に用いられる例は、以下の「デジタルコレクション」の全文検索で見出される例を見る限り、やはり明治34年よりは後に出版された資料の中です。

  • 愛甲郡誌」(村瀬米之助 著 明治43年・1910年 竹村書店)

    吉野三崎間往還(靑山村より愛川村迄)二里十九町二十九間/(愛川村より荻野村迄)一里三十四丁四十四間/(厚木町より有馬村迄)一里九丁二十五間」(27ページ)

  • 帝國地名辭典 上卷」(太田爲三郎 編 明治45年・1912年[購求年] 三省堂)

    (「サガミ-ノ-クニ(相模国)」項中[交通]の中で)「…吉野三崎間街道(津久井郡吉野より厚木・藤澤を經て三崎に達す)…」(709ページ)(「カナガワ-ケン(神奈川縣)」の項中にもこれに近い記述あり)

  • 神奈川県誌」※(大正2年・1913年 神奈川県)

    (「第五節 交通及土木/三 橋梁」中)「其の他國縣道に沿へる、多摩川、中津川及び相模川の流域に於て、渡船に依り交通に便しつゝある者は左の五ヶ所とす。/…/岡田渡船|吉野三崎間往還|中郡相川村高座郡有馬村|同(相模川)|約一二〇(間)|仝(明治)十二年十一月許可/反田前渡船|同(吉野三崎間往還)」|津久井郡吉野町同郡日連村|同(相模川)|約五〇(間)|仝(明治)十二年四月許可(169ページ)

  • 三浦郡志」(神奈川県三浦郡教育会 編 大正7年・1918年 横須賀印刷)
    • 「葉山村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は海岸に沿ひて南北を縱貫す。縣道より分岐して横須賀市及衣笠村に至る里道堀内及一色に在り。兩道は一色の中央に於て一致し、上山口を經て木古庭に入り、衣笠村及横須賀市に達す。」(94ページ)
    • 「逗子町」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は鎌倉より名越の隧道を過ぎて久木に入り、町の西部を貫きて葉山村に入る。逗子、金澤間の縣道、逗子、田浦間の縣道は本郡東西の海岸を連絡し、與瀨三崎縣道に合す。」(101ページ)
    • 「南下浦村」の[交通]の項)「三浦縣道は菊名の海岸に於て、西に折れて高臺に上り、三崎町引橋にて與瀨三崎縣道に合す。」(115ページ)
    • 「三崎町」の[交通]の項)「半󠄁島の東部海岸より來れる三浦縣道は町の東北部にて、西部海岸より來れる與瀨三崎縣道に合し、町の中央を貫通して三崎港に達す。」(120ページ)
    • 「初聲村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は長井村より入り、天王坂を越えて南に過ぎ、三崎町に於て東部海岸の三浦縣道に合し三崎港に至る。」(140ページ)
    • 「長井村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は武山村より入り、本村の東部を過ぎて初聲村に通ず。本村の主要街區は皆縣道より離れ、西部の海岸地方にあるが故に、縣道より此等海岸地方に至る里道を生ず。」(146ページ)
    • 「武山村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は西浦村より來り、西部の海岸を通じて長井村に入る。横須賀市深田に起れる豐嶋武山縣道は衣笠村より村のほゞ中央を通じ、林に於て與瀨三崎縣道に合す。」(149ページ)
    • 「西浦村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は葉山村より來り、長者崎の鞍部を通じ、海岸の絶壁に沿ひ、秋谷に入り、芦名、長坂を經て武山村に入る。平坦なり。」(154ページ)
  • 相模国分寺志」(中山毎吉・矢後駒吉 著 大正13年 海老名村)

    「今海老名耕地の條里につきて詳記すれば、此の耕地を眞直に東西に横ぎる四條の著明なる道路がある。北にあるものを東京厚木縣道(俗に一大繩といふ)と云ひ、次は中新田の村道(東半部は欠く)をなし、次は大谷今里の村道(一部用田(「藤澤」の書き込みあり)厚木縣道)をなし、南にあるものを元吉野三崎縣道(一部は今藤澤厚木縣道)をなして居る。」(203ページ)

  • 炉辺叢書 9 相州内鄕村話」※(鈴木 重光 編 大正13年・1924年 郷土研究社)

    (「相州内鄕村/位置」項中)「そのうち吉野三崎往還が村の中央を通ずる樣になり、道志川には鐵橋が架せられ、全く面目を一新し、大正五年(ママ)には此往還が與瀨三崎縣道と改稱せられ、與瀨に通ずる釣橋が相摸川に架けられてから、更に/\趣を改めたものである。」(2ページ)

  • 大島家史と其郷土誌」※(大島正徳 編 昭和8年・1933年)

    「…同年(注:大正二年)十一月二十三日假定縣道矢倉澤往還は武相縣道と改稱、厚木横濵間里道は愛甲縣道となり、鶴峯溝間里道、御所見座間間里道の縣費支辨を廢し、與瀨三崎縣道(從來厚木町、相川村經由、有馬村に通ぜしもの、)及び埼玉縣道(從來厚木町より依知を經由して麻溝村に通ぜしもの)を本村經由に變更された。/大正九年四月一日道路法に依り村内を經由する左記路線。/厚木東京線、(從來の武相縣道)、厚木横濵線、厚木藤澤線(從來の與瀨三崎縣道)座間戸塚線、厚木調布線、座間寒川線、厚木戸塚停車場線。/を縣道に認定され、同十二年四月一日更に座間茅ヶ崎線を縣道に認定された。」(294〜295ページ)

  • 郷土神奈川 第1巻第6号(6)」※(昭和17年・1942年6月 神奈川県郷土研究会)

    (「津久井郡に於ける信玄道」長谷川一郎 著 記事中)「明治時代に至りては甲州街道の分岐点吉野町を起點として三浦三崎に到る相模国を縱貫する道路を總稱して「吉野三崎往還」と云つてゐたが、中央線與瀨驛の設けられしよりは現在の名稱を「縣道與瀨愛川線」と云つてゐる。/以上は所謂「信玄道」に關する歷史上の變遷である。」(22ページ)

  • 藤沢志稿 : 市勢振興調査結果報告書」※(昭和30年・1955年 藤沢市総務部市民課)

    (第2図 藤沢大富町略図中)「吉野三崎間仮定県道/役場より村岡境まで8丁」(江島道ではなく長谷へ向かう鎌倉道に記されている)


「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎県道」の具体的な道筋を示した地図などの情報は今回見つけることは叶いませんでした。しかし、上記の各資料から、与瀬から厚木へは「津久井道・信玄道」を経由すること、当初吉野起点であったものが与瀬へと移されたのは、明治34年(1901年)の官設鉄道(後の中央本線)開業に伴って与瀬駅(現在の相模湖駅)が設置されたことに伴うこと、厚木からは「岡田の渡し」を経て有馬村(現:海老名市有馬)から厚木道へと入るものの、その道筋は変遷があったことが窺えること、藤沢から鎌倉へは「江島道」ではなく長谷へ直接抜ける「鎌倉道」が選ばれていたこと、そして三浦半島内では葉山からそのまま三浦半島の西岸に沿って南下して三崎へ向かう道筋を経ていたこと、などが見えてきます。

この名称は大正9年(1920年)4月1日に発せられた「神奈川縣告示第百二十二號」(リンク先は「現行神奈川県令規全集 : 加除自在 第2綴 改版」昭和11年・1936年 帝国地方行政学会)によって「神奈川県道厚木藤沢線」と再び改称されますので、この時点で大正2年の県令で定められた一連の名称は廃止されたことになります。「吉野三崎間往還」は約12年間、「与瀬三崎県道」の名称は約7年間だけ有効だったことになるため、公的に「三崎」の名称が冠されていたのは都合20年足らずの期間だったことになります。

どの様な理由でこの様な呼称が使われていたのかを直接的に表明している資料には今回は行き当たりませんでした。個人的な見解ですが、あるいは道路の整備に県費を支出する法的な整備がまだ進まない時代には、これらの道筋の整備に県費の出動を少しでも促すためには、より遠方の拠点間を結ぶ主要な道筋であることを庁内に示す必要があったためではないか、と考えています。これらの呼称が大正9年に廃せられたのも、前年の大正8年の(旧)道路法制定によって県道の法的な裏付けが出来たことで、当時の道路交通の実情に合わない呼称を敢えて用いる必要が失われたためではないかと思われます。

こうした背景を鑑みるに、「聞書」の調査時には、あるいは話者にはこの「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎県道」と呼ばれていた期間のことが念頭にあったのかも知れません。当時の調査カードが残っていれば、「三崎街道」の呼称がどの様な機会に聞き取られたのかを確認したいところです。ただ少なくとも、既に県道の呼称としても実質的に廃止された後にも、更に「三崎街道」の呼称を好んで使いたがる人が、その多寡はともかく遠藤地区に存在していたことの記録であることは揺るがないところなのでしょう。

とは言え、一般的にはこれらの呼称がその後も継続的に使用され続けている状況は確認出来ません。藤沢市のその後の各種資料でも取り上げられていない状況から見ても、「厚木道」について「三崎街道」という呼称を用いるのは、神奈川県の告示が有効だった期間の道路行政をはじめ当時のこの道の諸事情を指す場合以外では、適切ではないと言うべきでしょう。少なくとも、「昔の生活」に見られる様に「三崎街道」という呼称について古代からの交通を連携させて考察するのは、妥当ではないと言えます。

もっとも、「三崎街道」という呼称を挙げた話者の思いについては、もう少し考えてみる必要はありそうです。その点に関連して、更に検討したい記述が「聞書」や「昔の生活」に見えるのですが、今回も長くなりましたので「その3」に廻します。

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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その1)

このところ毎年1冊のペースで藤沢市文書館から発刊されている「歴史をひもとく藤沢の資料」(以下「藤沢の資料」)のシリーズですが、昨年は長後地区が取り上げられ、私のブログではその中から長後を経由する滝山道について重点的に記事にしました。今年は7巻目として「遠藤地区」が刊行されましたので、早速中身を確認してみました。

今回の「藤沢の資料」も同シリーズのこれまでの巻と同様の構成になっています。遠藤地区の資料の目録を収録したCD-ROMが付属するのも一緒です。
  • 画像で見る遠藤
    • 遠藤地区とは
    • 遠藤村と寶泉寺
    • 「丘が招いた」もの
    • 空から見た遠藤地区
    • 旧小出村・御所見村の旧地形と史跡図
    • 遠藤村の字境と集落立地
    • カメラが捉えた遠藤地区
  • 遠藤の歴史をひもとく
    • 地誌に見る遠藤の寺社
    • 数値で見る遠藤
    • 地図・絵図目録
    • 遠藤村の成り立ちと藤元寺・寶泉寺
    • 江戸時代の寶泉寺とその役割
    • 遠藤民俗聞書―丸山久子と藤沢の民俗
    • 遠藤の暮らしと行事
    • 「丘が招いた」もの―北部・西部開発から「健康と文化の森」へ
  • 遠藤の歴史資料
    • 各資料群の概要
    • 藤沢市文書館資料目録(遠藤地区)」(CD-ROM収録)について
    • もっと詳しく知りたい人へ
    • 藤沢市行政区画変遷表
    • 藤沢市および周辺行政区画変遷図

(「藤沢の資料」5ページ目次より、以下引用明記ないものは何れも同書より)



藤沢市遠藤の位置
Googleマップ
「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」遠藤地区変遷図(6ページ)
遠藤地区変遷図(「藤沢の資料」6ページ)

藤沢市の遠藤地区は現在は慶應義塾のSFCキャンパスが存在する地区と紹介するのが通りが良いでしょうか。東側は工業地帯として区画整理が施されましたが、SFCキャンパスを含む西側は藤沢市内では比較的農地や緑地が残っています。この地区について、「藤沢の資料」は次の様に記しています。

遠藤地区は1955(昭和30)年の北部合併時に、高座郡小出村大字遠藤を編入した地区である。近世村(旧村)である遠藤村を継承する地区であるが、しかし旧村の区域とは必ずしも同一の関係ではない。

近代の行政村は、複数の近世村(旧村)を統合することで成立したが、明治初頭の区番組制の時代の遠藤村は、亀井野村、石川村、西俣野村とともに「第18区10番組」、大区小区制の時代は「第18大区10小区」を構成するなど、現藤沢市域との関係が深かった。だが、1884(明治17)年の連合戸長役場制に際して芹沢村、行谷村、堤村、下寺尾村と五ヶ村連合を組織したことで、1889(明治22)年施行の町村制にあたって小出村の大字の一つになった経緯がある。

小出村は戦後の「昭和の大合併」にあたって、大字遠藤は藤沢市、それ以外は茅ケ崎市に分かれる分村合併を選択する。ただし、遠藤南部の字丸山については大字芹沢および堤と部落会(町内会)を構成していたことが考慮され、一部が遠藤から切り離されての合併になった(図中:紫)。

藤沢市はしばらくの間、本庁および遠藤をはじめとする合併町村から引き継いだ6つの支所(1968年9月に行政センター、1973年4月に市民センターに改称)の管轄単位を、広域の地区区分として用いていた。しかし、湘南台や善行など、開発によつて新たな生活圏が形成されたため、生活実態にあわせた新たな区割りが必要になった。そこで、1975(昭和50)年に現在の「13地区」の区割りが提示された。この「13地区」は、歴史的経緯や都市計画区域、河川などの自然条件をもとに、大字にとらわれない形で編成されたもので、支所時代の遠藤地区から湘南ライフタウンに含まれる字矢向・丸山・大平・滝ノ沢と南原・中原の南部、永山の西部(図中:緑)が湘南大庭地区へ、字田方の南部と永山の東部(図中:黄色)を六会地区に割譲する代わりに、北部第二土地区画整理事業で一体的に開発された、旧六会村を起源とする石川5丁目と石川6丁目、字大山・近藤山(図中:橙色)が編入される。こうして、現在の遠藤地区が成立した。

(7ページ、一部括弧内省略)


こうした経緯から、今回の「藤沢の資料」の内容でも、特に現代に入ってからの開発事業に関する部分では、新たな区割りに含まれる江戸時代の石川村に属する地域の記述も含んだものになっています。ただ、近世以前の記述ではその当時の村の範囲を基本とした記述になっている様です。

遠藤付近の藤沢厚木道
遠藤付近の藤沢厚木道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
このブログでは江戸時代の相模国の街道の状況を「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)などを手掛かりに取り上げてきていますが、「風土記稿」の高座郡遠藤村の項(卷之六十一 高座郡卷之三)では、この村を経由する街道は挙げられていません。実際は遠藤村の東から北にかけての境には藤沢から厚木に抜ける厚木道が通っていたと考えられます。事実、遠藤村の「皇国地誌村誌」の残稿には

道路

厚木街道 東南東本郡石川村より本村字十四枚ニ来り東より北の村界を千弐百弐拾七間幅弐間半西北隅字西大平より本郡打戻村字慶蔵法印塚へ通す

(「藤沢市史料集(11) 村明細帳 皇国地誌村誌」藤沢市文書館編 100ページより)

と遠藤村の境を厚木街道が通っていたことを記しています。なお、私のブログではこの道については以前「藤沢飛行場」を貫通する道として紹介したことがあるものの、遠藤村周辺の区間は今のところ取り上げたことがありません。

「風土記稿」にこの道についての記述が見られないのは、村との関係が薄かったからでしょうか。「藤沢の資料」でも厚木道に関する記事は含まれておらず、付属のCD-ROMに収められている遠藤地区の資料の一覧でも厚木道に関係がありそうな資料の名称は含まれていませんでした。但し、後に旧遠藤村が小出村から分離して藤沢市と合併する選択をしたことが「藤沢の資料」に見えますが、その際には、この厚木道が藤沢と旧遠藤村の関係を繋ぐ存在であったとも考えられます。

この厚木道の道筋を地形図や(あざ)界図(「藤沢の資料」17ページ)上で見ると、遠藤村の北側の地域は「ヤト(谷戸)」と呼ばれる複雑な谷が幾筋も付いており、相模川水系に属する小出川の源流地となっています。またその南東側の「北原」と呼ばれる字の一帯は、村の中では比較的高台にありながら引地川水系の支流である小糸川の源流があり、一帯に湿地が多く耕作が困難であったため、その克服に排水目的で「悦堂堀」と称する用水路が慶長年間に掘られました。厚木道はこうした遠藤村内の谷筋や湿地を、尾根筋を伝いながら「く」の字状に迂回するルートを経ていたことがわかります。


悦堂堀の位置。マーカーの位置は以下の2枚の写真の撮影地点
現在はその大半が埋め立てられ中学校や体育館の敷地となっている
西側に小糸川の源流付近の河道が見えている(「今昔マップ on the web」より)

2000/09/15 藤沢・遠藤 悦堂堀の景観
遠藤・悦堂堀の景観(2000年ブログ主撮影)
2000/09/15 藤沢・遠藤 悦堂堀ガイド
遠藤・悦堂堀ガイド(2000年ブログ主撮影)

因みにこの「悦堂堀」を建設した悦堂和尚は、当地の曹洞宗普蔵院太源派直末寺院である寶泉寺の7代住職でしたが、「藤沢の資料」では江戸時代の記述はこの寶泉寺に関するもので占められました。これは同寺に残る資料の点数が900点と豊富で、遠藤地区の近世までの資料の大半を占めることを反映しているものと思われます。

その点では、この巻では私のブログの関心領域に関連しそうな記事がなかなか見当たりませんでした。その様な中で、「遠藤民俗聞書―丸山久子と藤沢の民俗」の項には藤沢市の民俗研究の推移が記されており、これが私のブログで取り上げた事柄に意外な接点が見出だせる内容になっていました。

私のブログで以前相模国の「炭」生産の諸実情を取り上げた際、「その8」で炭焼と関わりの深い信仰として挙げられるものがないかを調査しました。その際津久井郡と並んで「山の神」信仰の記録が見出せたのが「藤沢市史」の「第7巻 文化遺産・民俗編」(以下「民俗編」)で、遠藤地区の打越や神明谷の事例が挙げられていました。

この「民俗編」の成立に繋がる同地の民俗調査の経緯が、「遠藤民俗聞書」の項にまとめられていました。まず、「遠藤民俗聞書(ききがき)」(以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)については次の様に紹介しています。

『遠藤民俗聞書』(以下・『聞書』)は、純農村の姿をとどめていた遠藤の暮らしや慣わしを記録した民俗調査報告書である。1961(昭和36)年3月、藤沢市教育委員会から刊行された。企画から調査、執筆、編集を全て担当したのが、柳田國男のもとで民俗学を学んだ丸山久子(1909―1986)である。

『聞書』は、丸山にとって藤沢市での最初の仕事であった。

巻頭には、柳田が序文(口述・丸山久子)を寄せている。柳田は、相模の内陸部には未だ不明な点が多いことを指摘し、「神奈川県の中でも東京の中心からわずか二三時間の行程の区域に、戦後十数年経った今日、まだこんなところがあろうとは考えていなかったことであった。」と述懐する。そして、「これは遠藤の地にとってはよい記念となろうし、たまたまこの地を選んではじめた女の人たちの仕事が、地元に同情者をえて、このような形で世に残ることは、あながち小さい出来事とばかりは云えないと思う。」と結んで、丸山たちの功を讃えている。

当時の民俗学は村落を対象とすることが多く、東京に隣接する神奈川県は民俗調査が進まず、成果物も少なかった。藤沢では、1932(昭和7)年に江島神社に奉職した清野久雄が、島民から島の言い伝えや行事の間き書きをしている。その一部は、雑誌『旅と伝説』・『方言』などに発表されたが、『江の島民俗誌』として刊行されたのは『聞書』と同年の1961(昭和36)年である。それ以前に編まれた民俗誌は、1943(昭和18)年に山川菊栄が村岡を舞台に著した『わが住む村』の一冊にすぎない。無名の人々が伝えてきた生活文化は、ほとんど顧みられることはなかったのである。民俗調査の報告書が藤沢市の刊行物となるのも、『聞書』が初めてのことであつた。

(44ページ、「…」は中略)


この記述に従えば、遠藤は藤沢市域の民俗調査という点では初期に属する調査地であったことになります。この遠藤の地が民俗調査の対象となった理由については、調査員たちが日帰り出来る地であり、かつ主要な交通路から外れているために都会の文化の影響が比較的少ないと考えた旨、丸山が「聞書」のおわりに記しています。しかし、人手や時間の制約から充分な調査が行えず、遠藤の中でも僅かな調査地に限定されたこと、その後「聞書」の補充調査が丸山の下で郷土史や民俗学の連続講座を受講した受講生たちによって遠藤で再び行われ、「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)として結実したこと、そしてその際に調査に従事したメンバーで「民俗編」の執筆に取り組んだことが記されています。

そこで、「聞書」と「昔の生活」を取り寄せて内容を確認してみることにしました。炭焼と関連する信仰について、更なる情報が得られる可能性を感じたからです。その結果、以下の様な記述を見出すことが出来ました。

「聞書」:

  • 薪は昔は藤沢や茅ケ崎などに出荷したこともあり、炭焼業も四、五軒あってやはり藤沢、江ノ島方面に出した。現在では炭焼は上庭に二軒あるだけ、薪も炭もともに村内の需要を満たすこともできない状態である。(17ページ)
  • 山の神については、八日は山に入ると山の神がおこるといって入らない。また二月十七日は特に山の神のいかりを恐れて山に入ることはしないという話である。(51ページ)

「昔の生活」:

  • 山仕事をする人達は山講を行っていた。この時炭や薪の単価を決めた。今は山講は行われていない。(26ページ)
  • 山仕事

    農閑期の一月から二月頃にかけて副業として山の仕事をする人もありました。北部と西部の部落に十軒位あって、雑木を切って薪や炭を作り藤沢や茅ケ崎に出荷していました。(現在は無い)

    山仕事としては、木を切ったり枝をおろしたり根直しをしたりする先山(さきやま)と代採した木を山から搬出するダシと、木材を板や角材に晩く木挽(こびき)とありますが、遠藤ではほとんどが先山で、先山の仕手をする人を杣(そま)と呼びます。杣の人達で山講があり、頭をオヤダマと呼び月一七日、秋十月十七日に講を行っていました。毎月八日は山の神の命月だから山へ入ってはいけないといって山の仕事は休みました。

    炭焼き

    炭焼業も四、五軒あって藤沢の町場や江島方面に出荷しました。(昭和三十六、七年頃まで上庭にあった二軒の家では焼いていた)材料はくぬぎ、なら、かしの堅木や松、杉等で松炭は柔らかくはこりやすかったので鍛治屋に歓ばれました。養蚕や茶の製造には欠かせなかったので、養蚕の盛んな頃は冬の間だけでなく一年中焼きました。

    炭の焼け具合は、煙の臭や色で見分けて火を止めるのですが、なかなかむずかしいもので、下手な人が焼いた炭はくすぶってよくありません。

    賃焼きといって、木はお客さんの家の木でかまどを貸して焼く事もあります。代金は一かまいくらと決めて焼いた炭を代金として置いていく事が多かった様です。一かまで五俵か六俵位焼けます。(89〜90ページ)

  • 山講 一月十七日と十月十七日に行われていた。山の仕事をする人、山の木を扱う人、炭を焼く、薪切りなど山仕事をする職業の人の集まりが山講である。当番の宿(やど)は廻り持ちで、この日にお賽銭をもちよって集る。山講の日には、オヒ(ママ)ウゴを掛けて、皆で会食しながら、薪の一束は幾ら、など賃金やその他の仕事のことも決めて古くからある帳面に記録をする。それを連盟が承認する。

    山の神のオヒョウゴ(掛軸)は、神奈川県立博物館に寄贈されているが、この記録によれば、集まってくる講中の人の部落名は、笹久保、神明谷、中町(慶応三年)で遠藤全域にわたっている。

    山の神はうるさい神様だから、女の神様らしいといい、十七日は山の神の日だから、山に入るじゃない」と言って、どこの山でも入らなかった。(259ページ)

  • 屋敷神

    神明谷戸の長田光一氏宅内の山の神は、石の小祠で、天明五、十一月十七日と刻まれている。祭は二月十七日の山の神の日に行ない、以前は神明谷戸の稲荷社といっしょに山の神もまつられていたが、道路の幅を広くするとき、社を移すことになり、町内のものだから、山の神も移すようにいわれたが、古い言い伝えに「ちようま」という先祖がたてたからというので、個人の家の屋敷神として今はおまつりしている。祭の日には、「山の神の命日だからお茶をあがりに来てください」と近くのナカイ、ニイヤの家の人をよぶ。赤飯、煮〆、酒と菓子を供えてから、オタキアゲをして、御馳走を食べる。子供衆には、「山の神のセエトでゴックウ(御供)だから」と言って、菓子をくるんでやる。

    毎月八日の日は、「今日は八日だから、山へ行かない方がよい」といって山仕事はしなかった。正月四日のウナイゾメの時には、ダイノコンゴウを供え、山の神の祭りのとき、オタキアゲをして燃す。毎朝お詣りしないことはないという。(271ページ、273ページに写真あり)


これらを見ると、「聞書」が編集された昭和30年代初期には薪や炭の需要と供給が下火になっていく時期に重なっており、山仕事に関連する民俗も「過去のもの」になりつつあった状況が窺えます。その様な事情も相まって、遠藤地区で必ずしも主要な産業ではなかった山仕事についての記述も、それほど多くはならなかった様に見受けられます。

その一方で、「山講」が単なる宗教的な集いではなく、単価設定を取り決めるなど同業者組合的な側面も併せ持ったコミュニティであったこと、薪や炭の出荷先として遠藤村内の養蚕や製茶用途への供給の他に、藤沢や江の島での需要に応えていたことなど、新たな側面も浮かび上がってきました。基本的には農閑期の副次的な稼ぎという側面が強かったとは言え、「山講」に関与した地としてヤト地形を抱える遠藤北部の字が挙げられていることから、これらの地域では谷戸の尾根筋が山仕事の場として定着していたことが窺えます。

無論、飽くまでも民俗調査ですので、歴史的資料と照合する場合は調査時点で確認できた習慣が何処まで時代を遡るものか特定し難い点に注意する必要はあります。例えば養蚕や茶葉生産は明治以降に盛んになる傾向がありますので、それ以前の事情が変化ないものと言えるかどうかは、当時の事情と改めて照らし合わせて考えないといけません。それでも、時代による変動を受けにくい習慣、例えば上記で繰り返し登場する山仕事の禁忌日の習慣などは、かなり昔から続いていたものである可能性が考えられます。実際、屋敷神の祠や表具に記されている年代が江戸時代後期のものであることから、その頃には既にこうした信仰が定着していた可能性が高くなります。そして、衰退期の取材にも拘らず禁忌日がこれだけ繰り返して採集される慣習であったことから、相当に拘束力の強いものであったと見て良いでしょう。

遠藤笹久保谷戸内の様子
記事アップ時点では公園整備前の状態が写っている
ストリートビュー
近年、遠藤笹久保(やと)の内部が公園として整備されましたが、ここは元は谷戸田であった所が永年保全され、景観が維持されてきた地域です。周辺には林が残されていますが、遠藤の山仕事が行われていた頃はこうした林で薪や炭を生産していたことになるでしょう。

今回の遠藤地区の「藤沢の資料」は、このブログにとっては「聞書」や「昔の生活」の様な未見の資料の存在への「気付き」を用意してくれる存在になりました。実は「聞書」や「昔の生活」からは、遠藤の山仕事に関する民俗以外にも意外な記述を見つけたのですが、既にかなり記事が長くなっていますので、この続きは次回に廻します。
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短信:「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されていました

このブログを始めて間もない頃に、当時ネット上で公開されていた「多摩川誌」(建設省関東地方建設局京浜工事事務所)を紹介しましたが、8年ほど前にこのサイトが廃止されてしまったことをお伝えしました。

最近になってFedibird(マストドン)に参加したのを切っ掛けに、右のような形でこのブログの過去記事を1日1回ずつ紹介しています。その一環で「多摩川誌」を紹介した記事を見返した折に、ふと「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)で公開されているのではないか、と思い立って検索を試みました。

その結果、以下の場所で「多摩川誌」が閲覧できることを確認できました。

多摩川誌 〔本編〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション


「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」に指定されているため、ネット上で閲覧するにはIDを取得してログインする必要があります。とは言え、現在の「デジタルコレクション」では全文検索にも対応しているため、従来のHTML並みの検索が行えるのが強みです。実際、「多摩川誌」を引用していたこちらの記事にページ数とリンクを追加する際にも、全文検索で容易に該当箇所を見つけることが出来ました。

また、「多摩川誌」には「本編」以外の別巻が付随していますが、これらも全て「デジタルコレクション」上で公開されていました。

従来のHTMLとは形が違うとは言え、再びネット上で閲覧できる場所を得たのは大きなメリットです。
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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その3:「箱根の蕎麦」補遺)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索で新たにヒットする資料をもとに、何か新たな発見があるかどうかを試す記事を、「その1」及び「その2」で公開しました。その記事を公開した頃には、「その3」はすぐにアップできるだろうと考えていました。ところが、その予定で調べ始めた題材では予想外に多くの資料が「デジタルコレクション」上でヒットし、その検証作業にかなりの時間を要する状況に陥ってしまいました。

そこで今回は予定を変更して、別の題材で「デジタルコレクション」上を探索して新たな発見がないかを探ることにしました。今回は、以前こちらの記事で検討した箱根地域の「蕎麦」について、明治以降の動きについて記された資料が更に見出せないかを検討します。


まず、以前の記事では明治時代の中頃から「宮城野蕎麦」の名で呼ばれる様になったことを示す資料を何点か紹介しました。これを踏まえて、「デジタルコレクション」上で「宮城野蕎麦」で全文検索を試みたところ、全部で61件の資料がヒットしました。うち2件が「国立国会図書館内限定」資料ということでネット経由でのアクセスが難しいため、残りの59件について何か新たな知見が得られる資料がないかを確認しました。

この61件を出版日の古い順に並べると、以前の記事でも紹介した「箱根温泉志」(明治26年・1893年 学齢館刊)と「箱根温泉案内」(全文検索でヒットするのは明治29年・1896年の増補訂正2版だが一部漢字や送り仮名の変更を除き実質的に明治27年の初版と同一文章、森田富太郎 著 森田商店刊)が最初に並びます。国立国会図書館未蔵の更に古い資料に出現する例があるのかも知れませんが、この明治26年頃が「宮城野蕎麦」の呼称が現れ始めた時期ということになりそうです。

以下、ヒットした資料には当然ながら旅行案内書が多く、一部に紀行文の類が混ざるといった傾向になっています。こうした旅行案内書が「宮城野蕎麦」の名称の流布に一役買った可能性が考えられます。

何点かの紀行文のうち、実際に蕎麦を注文した際の様子を記しているものとしては、「矢立之墨 : 探勝紀文」(下巻、微笑小史 著 明治39年・1906年 大橋義三刊)が挙げられます。注文をしてから蕎麦を打ち始めるので時間がかかるため、その間を散策する様に案内されているのに、それを知らずに小一時間待たされた、という経験が綴られています。この頃はまだ蕎麦打ちの間を繋ぐための別の料理などを供してはいなかったのかも知れません。

木賀(きが)(うへ)數丁(すてう)宮城野(みやぎの)あり、淸流(せいりう)(のぞ)みて(もう)けし一(てい)名物(めいぶつ)宮城野蕎麥(みやぎのそば)()(しか)して(その)家法(かはふ)たるや(卜は(すこ)仰山(げうさん)なれど)(かく)のあつらへを()きたる(のち)(はじ)めて製造(せいざう)()りかゝると()ふなれば、(これ)(あぢ)はゝんと(おも)(ひと)は、()(いく)つばかりと(めい)じおき、其邊(そのへん)時間(じかん)(あまり)(あそ)びし(のち)立寄(たちよ)るべき都合(つがふ)なるに、一(かう)(これ)()らざりし()め、正直(せうじき)()たさるゝ一時間(じかん)(あま)り、(その)(なが)(こと)打立(うちた)ての蕎麥(そば)よりも()ほど(なが)かりし、


一方、前回の記事では大正年間に入って小田原電気鉄道(現:箱根登山鉄道)の強羅乗り入れやケーブルカーの敷設、更には路線バスの開業に伴い、箱根地域の交通事情が様変わりしていくに連れて、宮城野蕎麦も影響を受けた可能性について示唆しました。この点について、まず「東京近郊写真の一日」(松川二郎 著 大正11年・1922年 アルス刊)に次の様な記述があるのに気付きました。

大涌谷(おほわくだに)から早雲山(さううんざん)山腹(さんぷく)(とほ)つて、二十(ちやう)ばかりで上强羅(かみがうら)()る。この上强羅(かみがうら)下强羅(しもがうら)との(あひだ)斜面(しやめん)に、强羅公園(がうらこうゑん)がある。小田原電氣會社(をだはらでんきぐわいしや)遊客(いうかく)誘引(いうひん)目的(もくてき)で、()なりな費用(ひよう)勞力(らうりよく)(とう)じて(つく)つた高山公園(かうざんこうゑん)である。…

入口(いりぐち)(まへ)宮城野蕎麥(みやぎのそば)出張店(しゆつちやうてん)や、汁粉屋(しるこや)などもある。


これに従えば、強羅一帯が新たに開発されて観光客の流れがそちらへと向かうのに合わせ、宮城野蕎麦もその流れに合わせて支店を出したことになります。但し、この強羅の店舗については他に記している資料を見出すことが今回は出来ませんでした。著者の松川二郎はこの様な旅行案内書の著述が多数あり、「その2」でも何冊かの旅行案内書の著者として名前が出ましたが、「宮城野蕎麦」でヒットした資料の中でも複数の著書が見つかりました。それにも拘らず強羅の宮城野蕎麦については他に記述を見出せないことから、あるいはこの強羅の店舗については短期間の営業に留まったのかも知れません。

箱根名所圖繪-4版(吉田初三郎-妹尾春太郎)4ページ部分
「箱根名所圖繪」4版中、強羅〜宮城野付近拡大
(「デジタルコレクション」)
箱根名所圖繪-4版(吉田初三郎-妹尾春太郎)6ページ部分
同左小田原駅周辺拡大
(「デジタルコレクション」)

また、「デジタルコレクション」で公開されている「箱根名所圖繪」(四版、吉田初三郎 製圖, 妹尾春太郎 著 大正11年・1922年 箱根印刷刊)では、絵図中に「宮城野そば」が営まれていた場所が「宮城野橋」の袂であったことが示されているほか、裏面の解説では「木賀温泉」の項の中で

宮城野は木賀から四丁餘で、名物宮城野蕎麥がある。「宮城野のそばのうまさやほとゝぎす」とは初三郎君の一句である。

と絵図を製作した吉田初三郎の俳句を添えて紹介しています。

「デジタルコレクション」で公開されているのはこの「四版」のみでしたが、ネットを検索してみたところ、「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」で公開されている「七版」(昭和2年・1927年)と「日本民営鉄道協会」の広報誌「みんてつ Vol.52(2015年冬号、リンク先はPDF)」の「八版」(昭和5年・1930年)が見つかりました。この3つの版を比較して確認したところ、3版何れにも「宮城野そば」が地図中に記されていることがわかりました。一方、絵図の左下には後に東海道線になる「熱海線」が描かれていますが、「四版」では小田原駅から先の線が未開通であることを示す斜線を含んだ線で描かれているのに対し、「七版」と「八版」では開通後であることを示すゼブラ模様に描き替えられています。また、図中の「宮城野」から「板里温泉」に向かう道に「七版」以降にバスの絵が描かれており、この道に新たに路線バスが開通したことを示していると考えられます。これらの更新箇所から、「箱根名所圖繪」は箱根地域の観光案内情報をかなり適時的に更新していたものと考えることが出来ます。地元の出版社が数年おきに更新を加えて刊行を続けていた絵図の各版に共通して「宮城野そば」が記されていることから、「宮城野蕎麦」は「八版」が刊行された昭和5年頃には引き続き宮城野の地で健在だったと解釈できます。

以前の記事では箱根の交通事情の変化で宮城野蕎麦が衰退している可能性を考えていましたが、これらの資料の存在から見ればそれは正しくなく、単純にその頃の資料を見つけ損ねていただけということになりそうです。


但し、今回見つかった資料から宮城野蕎麦の存続した時期を特定可能であるかと考えた際には、今回ヒットした結果のみで判断できない問題があります。明治から大正の頃の資料では、先行する資料と明らかに酷似した文章が掲載されているケースが少なくありません。他の文献をそのまま引き写して終えている資料の場合は、果たして実地の取材を経ているのか疑わしいことになるため、その時期まで存続したことを示す史料としては採用しにくい側面があります。最低でも凡例や序文などに編集方針がどの様に記されているかを確認しながら取捨選択し、他の史料との矛盾が出て来る場合は年代特定のための史料としては採用しない判断が必要です。

今回ヒットした資料中、最も年代が新しかったものは「鄙びた湯・古い湯治場※」(渡辺寛 著 昭和31年・1956年 万記書房刊)で、

宮城野蕎麦がおいしかつたが今はつくつてくれない。

と宮城野蕎麦がこの頃までに廃止されたことを伝えています。廃止されたことを伝える資料は今のところ他に見つかっていませんが、これを最後に「宮城野蕎麦」の名を記す資料が見当たらないため、遅くともこの頃には作られなくなっていた可能性が高いと考えられます。

それに対し、この次に年代が新しい「温泉案内※」(運輸省観光部 編 昭和25年・1950年 毎日新聞社刊)では木賀温泉の名物として「宮城野蕎麦」の名が挙げられていますが、その「例言※」を見ると、

一、本書は大正九年の初版以來版を重ねた、鉄道省編纂「溫泉案内」を改版したもので、これによつて日本の重要な観光資源の一つである全國の溫泉をあまねく紹介するものである。

一、改版に当つては、昭和十五年の最終版をもとゝしたが、その後全國的に大きな変動があつたので、内容は殆ど全面的に書き改め、挿入の地図、カットも新規に描き直し、写眞は最近撮影のものを掲げた。

一、改版の資料は、当該地方からの報告を主とし、一部実地調査によつてこれを補つたが、なお遺漏なきを保し難い。これは資料收集後の変動等と共に、大方の示教を得て、他日の完璧を期したい。

と、必ずしも実地の取材を主としていないこと、元にした版が10年前のものであることを書いています。こうなると、この「温泉案内」に記されている事実が全て出版年の昭和25年のものと言い切れるか疑わしくなってしまい、「宮城野蕎麦」もこの頃まだ存続していた裏付けとしては使えないことになってしまいます。その前の資料は昭和14年(1939年)まで遡るため、この辺りの年代の資料の点数は必ずしも多いとは言えません。これらのことから、今回の検索結果からでは「宮城野蕎麦」の廃止された時期の特定は出来ないと判断せざるを得ませんでした。



一方、箱根の蕎麦については必ずしも「宮城野蕎麦」の名前が使われているとは限らないので、他のキーワードでも検索を試みることにしました。しかし、「箱根」にしても「蕎麦」にしてもあまりにも一般的な単語過ぎて、全文検索では膨大な件数の資料がヒットしてしまいます。もう少し件数を絞り込むために使えそうなキーワードとして、蕎麦を供する店の名前として登場した「洗心亭」を含め、「洗心亭 箱根 宮城野」で全文検索を試みたところ、全部で269件の資料がヒットしました(うち「国立国会図書館内限定」資料が48件)。

もっとも、「洗心亭」はかつての赤坂離宮の庭園に存在した四阿の1つにも名付けられていたのをはじめ、全国各地に旅館や庭園の四阿などの同名の施設が存在しました。江の島とその対岸の片瀬「すばな通り」沿いにもかつて「洗心亭」という名の旅館があり、ヒットした資料の中にもこの旅館の記事が複数見つかりました。一方の「宮城野」は仙台方面の地名や相撲部屋とも重なる名称です。このため、この269件には箱根の蕎麦店に関する記述がないものが大半を占めました。この様に、指定しようとするキーワードがこれから調べようとする対象物を必ずしも一義的に指すものではない場合は、それらを複数組み合わせても関連のない資料が多数ヒットしてしまいます。検索するキーワードをどの様に選定するかは、ある程度意に沿った検索結果を得る上でのテクニックということになりますが、今回は多少多めにノイズを拾う結果になっても広めに検索結果を得る方を選択しました。

三府及近郊名所名物案内 3版(日本名所案内社)洗心亭広告
「三府及近郊名所名物案内 3版」
(大正10年・1921年 日本名所案内社)
に掲載された広告
(「デジタルコレクション」)
それでも、以前は「洗心亭」の名の登場する資料を1点しか見つけられませんでしたので、今回は以前よりは関連する資料を見つけ出すことが出来ました。右の「洗心亭」の広告もそのうちの1つで、「箱根宮城野/名物そばや/洗心亭」とごくシンプルなものになっています。同じページに木賀や宮ノ下の温泉宿の広告が掲載され、そちらには電話番号が掲載されているのに対し、洗心亭の広告には電話番号が掲載されていないことから、当時はまだ洗心亭が電話を引かず、専ら直接来店する客を相手に商いを行っていたことが窺えます。

もっとも、本文中ではそもそも近郊の温泉を含んだ名所の記述はごく僅かで、箱根の名物についての記述さえ見られません。今回の検索で「洗心亭」の広告をヒットしたのはこの1件のみで、特に積極的な広告戦略を採った様には見えないお店が、何故自分の店について特に何も書いてくれない書物に敢えて広告を出稿することを決めたのか、意図を掴みかねる1冊でもあります。

一方、「桂月全集 第12巻 詩歌俳句書簡雑篇※」(大町桂月 著 大正12年・1923年 桂月全集刊行会)に掲載された大正11年5月24日の書簡の中では、

御殿場より自働車を呼び長尾峠を越えて箱根山中に入り候。實は長尾峠より富士を望むが主眼なりしが、雲の爲に見えず失望いたし候。あとは附屬的也。ケーブルカーに乗り、歸路宮城野の洗心亭に小酌いたし候。同行は小笠原松次郎氏、長男芳文。

と記されています。

「小酌」と書くことから、この席では当然お酒が出て来たものと考えられますし、蕎麦だけではなく酒に合う料理も出されたものと考えられます。この頃には洗心亭が必ずしも蕎麦だけを商う店ではなくなっていたことが窺い知れます。


また、「靑年敎育研究 第2卷第9號※」(靑年敎育研究會編 昭和8年・1933年9月)所収の「文部省主催兒童生徒校外生活指導講習會に就いて(靑年敎育課)」では、同年の8月10〜19日に、宮城野小学校を会場、対岸の洗心亭を宿舎として講習会を催したことが記されています。後方のページでは「夜間の研究協議會(洗心亭にて)※」 とキャプションを付した写真が掲載されており、洗心亭内のかなり大きな広間で会合を催している様子が写っています。この写真から、当時の洗心亭がかなり大人数を収容できる広間を擁していたこと、更に「宿舎」という表現から宿泊施設を備えた料亭の様な営業形態へと変化していたことが窺えます。宮城野の地で商いを継続するための経営努力の結果と見るべきでしょうか。

箱根の宮城野にあった「洗心亭」についての記述が見られる資料は、今回の検索で見つけることが出来たのは以上の3点でした。上記の通り、検索に指定するキーワードで充分に資料を絞りきれていない中での結果ですので、引き続き他のキーワードなどで検索を試みる価値はありそうです。

因みに、箱根の蕎麦の存続期間を探るために別のキーワードで検索を試みてヒットした資料の中に、「日本山岳案内 第6集※」(鐵道省山岳部 編 昭和16年・1941年 博文館)があり、その「木賀温泉」の項に

宮内旅館があり蕎麥が名物である。

と、「洗心亭」以外に箱根で蕎麦を供していた旅館の名前が登場します。「宮内旅館」自体は明治初期の資料から木賀温泉の旅館として名前がしばしば登場していることが確認できましたが、この旅館が蕎麦を出していたことを記しているのはこの資料のみです。一方でこの資料の「宮城野より明星ケ嶽を經て明神ケ嶽※」の項でも

宮城野は裏街道の宿場で蕎麥が名物である。

とやはり蕎麦を名物として取り上げています。これも、太平洋戦争開戦直前頃の事情を適時的に反映したものと言えるかは、更に他の資料と照合して確認する必要があります。



今回の「デジタルコレクション」の検索で新たに見つかった一連の資料からは、箱根の蕎麦がこれまで私が想定していたよりも長きにわたって存続していたことがわかりましたが、具体的に何時頃まで存続したのか、またどの様な事情で消失へと向かったのかを理解するのに繋がる資料は見つかりませんでした。無論、今回の限られた検索の試みだけではまだ見つけ損ねている資料があるかも知れませんし、そもそも郷土史の史料に関する記述が国立国会図書館の蔵書だけで網羅される訳でもありません。寧ろ、今回の結果を更なる史料の探索の手掛かりとして考えるべきなのでしょう。

なお、今回取り上げる予定だった題材については、次回こそ記事にまとめられればと思っていますが、まだ作業量が多く、もうしばらく時間が必要かも知れません…。
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