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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その8)

前回まで「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見て来ましたが、今回は関連する話題をもう少し取り上げた上で、ここまでのまとめをしたいと思います。

相模原市のホームページには、「大沼の土窯つき唄」という仕事唄の歌詞と音声(MP3)が掲載されています。これは大沼新田で炭焼用の土窯を築く際に音頭を取るのに唄われていたものです。


大沼新田の明治39年測量の地形図
ほとりに「大沼神社」が建つ沼が大沼、東に小沼
(「今昔マップ on the web」)
大沼新田(現:相模原市南区西大沼・東大沼その他)は江戸時代には淵野辺村の一角で、水の得にくい相模野にあって地下に宙水があり、その上に「大沼」が出来て深堀川という境川の支流の源流地となっていた地域でした。今はこの大沼も、その東にあった小沼も埋め立てられて宅地と化していますが、現在の区画の形状にはかつての沼地の存在を窺う事が出来ます。

元は境川対岸の武州木曾村との入会地でしたが、元禄年間に知行替えによって代官支配になったのを切っ掛けに新田開発が行われ、宝永4年(1707年)に検地が行われて「大沼新田」が成立しました。しかし、土地が痩せていて耕作には不向きだった様で、「相模原市史 第二巻」では大沼新田の開発経緯について各種の文書を引いて解説した上で、次の様に記しています。

…上矢部新田村に比較すると、一戸あたりの平均所有反別は約三倍以上、一名あたりの耕作反別は約二倍以上となり、嘉永三年反別書上による場合は、なおこの二倍近くになるのである。これだけを見ると、大沼新田入植農民は恵まれているようにも見えるのであるが、大沼新田の場合はすべて見取り畑なのである。土地の伝承によると、開墾当初は肥料を与えなくても作物がとれたが、いく年かたつと土地が瘠せてくるのでそこを林畑として放置し、また新たに開墾したといっている。したがって嘉永六年(一八五三)の村高書上帳にも、烏山大久保領三九九石五斗九升一合中、本村出百姓分の四一石九斗七升三合は永荒引となって年貢の対象からはずされている。このように荒地が多かった上に、地味も瘠せていて、反収麦が四斗ぐらいしか収穫できなかった。田圃は大沼の池を利用したが雨が降らないと作れず、田植をしないで、ばら蒔きをする有様であった。

こんな状態だから、いきおい農間余業に頼らざるを得ず、養蚕や植林からの薪炭材の伐採その他が生業の主要なものとなっていた。

(上記書276〜277ページより、…は前略)


相模原市史 第二巻」では続いて薪炭材を得るために植林が進められ、麦蒔きが終わった農閑期に炭焼が行われていたとしていますが、その炭焼で使用する炭窯の構築については次の様に記し、その過程で「土窯つき唄」が唄われたことを紹介しています。

…庭の適当なところに深さ約一メートル、縦五メートル、横四メートルぐらいの矩形の穴を掘り、その中に一・五メートル(約五尺)に二・三メートル(約七尺五寸)の楕円を描いて、それに「ごず」(炭のくだけ)を五寸から一尺の厚さに敷き(これは土地の湿度の状態によって加減する)それに茅をのせる。そしてその上に一尺二寸に切った薪を二段に積み上げ、なおそれに「なぐり」(かさま・さしこみともいう)と称する細い薪を一〇把ほど一尺二寸から三尺ぐらいの厚さに積み重ねる。それらの全体には本町田・図師辺から買って来た粘土を約五寸ほどの厚さにすっぽりとかぶせる。ただ短辺の入口には積んだ薪のおさえとして二尺四、五寸の松その他の雑木の薪を立てかけて下には土管を置いて火口とし、反対がわには煙出しにする型をはめこんで置く。そして土がまつきがはじまる。部落のものがおたがいに奉仕しあって三〇人ぐらい集まり、手製の杵を逆手にとって、「おばばなーよ、どけえ行く、三升ざるをさげて、このえんやらやあ、よめの在所へ孫だきに、えーえんやーこのえんやらやあ」と土がまつき唄を謡いはやしながら周囲をめぐって、力をこめてつき固める。

(上記書277〜278ページより、傍点を下線に置き換え、…は前略、強調はブログ主)


この「相模原市史」に掲載された「土窯つき唄」は「木炭の博物誌」にも引用されています(154ページ)。歌詞が相模原市のホームページに掲載されているものと異なり、囃子詞も合いませんので、同一の唄か否かをこれだけでは判断出来ませんが、あるいは同じ節で歌詞を替えているだけかも知れません。なお、「神奈川県民謡緊急調査報告書」(神奈川県教育庁文化財保護課編 1981年)にも大沼の「土窯つき唄」は収録されていますが、炭窯の構築に際して唄われるとされているものは他には採録されていませんでした。

大沼新田の「土窯つき唄」の発祥を考える上では、同地で炭焼を行う様になる過程で、炭窯の築造技術がどの様に入って来たのか、特に土窯を使った炭焼が当初からのものであったのかどうかが気になるところです。ただ、前回まで見た津久井や宮ケ瀬の炭焼と比較した場合、少なくとも大沼新田の平坦な土地では横穴式土窯を掘れる様な斜面は存在しないことは明らかです。境川の河岸段丘面にはその様な斜面も存在しますが、ここは新田の地域の外にありますから、何れにしても横穴式土窯が津久井県から伝播してくる可能性は皆無だったと見て良いでしょう。他方、津久井の「ボイ炭やき」は手軽に大量に炭を焼くには良くても、単価が安くなることは避けられませんから、特に植林した林から炭材を伐り出せる様になった初期の頃にはそれほど豊富に炭材が採れたとは考え難く、あまり規模の大きくない大沼新田の炭焼には向いていなかったのではないかと思います。つまり、この地域に関しては当初から土窯を築いて炭焼を行った可能性の方が高いのではないかという気がします。それであれば、「土窯つき唄」はこの地で炭焼が開始されて早々に唄われ始めたのかも知れません。

もっとも、炭窯を造る際にはいざという時のためにも水が近くにあることが必要でしたから、大沼新田で炭窯の適地と言えるのは大沼から近い地域に限られていたことになります。「相模原市史」で炭窯が庭で造られていたと記すのも、水利の限られた土地では集落に近い場所で炭焼を行わざるを得ない事情もあったのでしょう。「木炭の博物誌」では炭窯を築く場所について「人家に近いところでは炭がまの煙が迷惑になる」(143ページ)としていますが、そこは事情を忍んで煙いのを耐えていたということでしょうか。

因みに、「相模原市史」は炭窯構築に必要な粘土を境川の対岸にある武州本町田村や図師村(どちらも現:町田市)から運んでいたとしています。富士山や箱根火山が過去に噴出させた火山灰土が分厚く堆積する相模原台地上では粘土が得難いことから、粘土層が露出している地域まで台地を降りて求めに行かなければならなかったのでしょう。炭窯の構築技術の変遷を考える際には、築造に必要な素材の有無も念頭に置く必要がありそうです。



愛甲郡の5ケ村の「御炭山」について見た際に、中荻野・下荻野両村が祀っていた「東照宮」を取り上げました。これらの村が神格化した家康を祀っていたのは、炭焼そのものへ成功を祈願するものと考えるよりも、家康がこの地に齎した恩恵への謝意に基づいたものと考えるべきでしょう。その点では、炭焼に関連した信仰の事例としてはやや特殊と言えそうです。

炭焼にもう少し直接的に関係しそうな信仰としては、「津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」(津久井郡文化財調査研究会編 1988年)が記す「山の神」が挙げられるでしょう。

信仰の対象は、山の神である。山の神は田の神が収穫が終わると山にのぼって山の神となると、言われるが、田の少ない津久井ではこうした伝説はない。山の神の縁日は一月十七日で、この日には「日待(ひまち)」を行い、山仕事に従事する者や猟師は山に入ることを禁じた。現在でも「山の神日待」を実施している地域があるが、最近では自治会の会合や新年会を兼ねて一年の計画をたてるという方法に変っている。また毎月の十七日に山入りを禁じている家もある。

山入りの行事は、二本の竹筒を水引きで結び中に酒を入れて山に供える。炭焼は、初山入(火入)の日と最終日(掃抜(はきぬき))には同じ行事をして簡素な祝を行う。

(上記書95ページより)


類似の信仰について記録がないか、神奈川県内の各市町史に付属する民俗編をざっと探してみたのですが、あまり記述を見出すことが出来ませんでした。ただ、意外にも「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」に同様の記述を見付けることができました。特に、縁日に山入りが禁忌されている点に共通する点が見られます。

山仕事をする人達は山の神を祀り、山の神様に仕事をさせていただいているという心持ちであった。毎月七日は山の神の命日だから山へ入ってはいけないといい、一般の人も薪採りで山に入る事をさけた。山の神の命日を八日だとする所や一七日とする所もあり江の島では八日・一八日・二八日は山に入るなといっている。

遠藤打越の炭焼きをしていた家では山の神のオヒョウゴを掛けて山講を行った。同じ遠藤神明谷には山の神の祠があり、二月一四日にオタキアゲといって正月の内飾りを燃やし、御馳走を供えた。また春は一月一七日、秋は一〇月一七日に山講を行い、この時薪や炭の値を決めた。部落によっては山仕事をする人々で太子講を持ち、一番年長者をカシラと呼んでカシラの家で寄合いをした。

(上記書335ページより)



藤沢市遠藤・打越の地形図と空中写真
現在も笹久保谷戸を中心に雑木林が残る(「地理院地図」)

どちらかと言うと炭焼に限定せず山仕事全般の神様という側面が強く、特に江の島では流石に炭焼は出来なかったでしょうから、木を伐る場合でも薪か木材だったでしょう。それでも、丹沢山地北部の津久井と相模原台地南端の藤沢市域に共通した信仰が見られることから、その間に位置する各村でも山仕事に従事する人たちの間で幅広く信じられていたものと思われます。ただ、こうした信仰が何時頃まで遡るのかといったことも含め、今回はあまり深く掘り下げることが出来ませんでしたので、機を改めて資料を集められればと考えています。



今回は近代以降の事情については詳細に触れる余裕がありませんが、ここまでの話に関連して2点ほどエピソードを取り上げます。

1つは「佐倉炭」についてです。例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」の出品目録には、旧相模国域からは
  • 足柄上郡谷ヶ村
  • 同郡川西村
  • 津久井郡鳥屋村
  • 足柄下郡沼代村
からの炭の出品が見られますが、この最後の沼代村(現:小田原市沼代)の炭は「佐倉炭」と名乗っています。当時の神奈川県域からは他に武蔵国多摩郡桧原村の炭が同じ様に「佐倉炭」と称して出品されています。

元は下総国佐倉藩の取り仕切る炭であった「佐倉炭」が出品されるとすれば、元来ならば明治以降の行政区画で言えば千葉県ということになる筈で、実際千葉県庁の出品物の中にも「佐倉炭」が含まれています。しかし、旧相模国域や武蔵国域で生産された炭が「佐倉炭」と名乗る例が示されている点からは、この頃には既に「佐倉炭」が地域を示すものというよりも一種の「ブランド」として独り歩きを始めていたことが窺えます。実際、時代が下って大正14年(1925年)の「愛甲郡制誌」でも

林產製造の中見るに足るべきものは所謂「相模の白炭」で古來「幕府の御用炭」と稱せられ名聲頗る高いものがあつた宮ヶ瀨村、煤ヶ谷村、愛川村等の奥山に多くを產し里山では黑炭を多く產出する、製炭法の當否は炭質の良否、燒步に深い関係のあるのは云ふまでもないことで先年白炭、黑炭(佐久良炭)の製炭法の講習を各所で開催して以來着々好成績を擧げつゝある。

(上記書208〜209ページより、強調はブログ主)

の様に、「佐倉炭」がその本来の地名から離れて表記まで変わってきている例が見られます。

「木炭の博物誌」では、現在の「佐倉炭」の産地は茨城や栃木で、特に従来からの製炭法を維持しているのは茨城県鉾田付近のみとしています(207ページ)。こうした記述からは、江戸時代に名を馳せた同地の炭焼がその後関東一円に広まる過程で、その名を引き継ぎながらも製炭法の方は更に各地で改良を受けていったものと思われます。「内国勧業博覧会」の例はその様な動きが明治初期には既に存在し、更に「愛甲郡制誌」の例は、かつて「御用炭」を産出し、その「佐倉炭」の発祥に際して技術を輩出した側の土地でも製炭法を「逆輸入」する流れがあったことを示しているのかも知れません。

もう1点は、神奈川県内の各市町史を点検する過程で、炭焼を養蚕や製茶と結び付けている記述が幾つか見られたことです。何れも相模原台地の上に位置する各市の「民俗編」に見られ、特に「座間市史」が比較的詳細に事情を書き記しています。

炭は主に商品として出荷することを目的に焼かれたが、ヤマを持つ人が材料の木材を提供し手間賃を払って炭を焼いてもらうこともあり、これを「賃焼き」といった。このような炭は養蚕の温暖育、すなわち蚕室を温めることに用いられたが、窯で一回焼くと、一年分の燃料として使うことができたという。

(「相模原市史 民俗編」74ページより、対象は旧津久井郡との合併前の市域が対象)

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、特に、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして蚕室の保温を行った。こうした意味において、養蚕とヤマとの関わりは深かったという。大正時代になると、座間宿に石炭屋が出来て、練炭を売るようになり、燃料は木炭から練炭に変わっていった。また、昭和十二年(一九三六)に陸軍士官学校が移転し、ヤマが減ってしまったため、養蚕組合では一時、麻溝台・大沼・谷口(相模原市)あたりのヤマを買って、薪炭を取りに行ったこともあったという。

養蚕組合が一番最後まで炭を焼いていたというが、炭よりも練炭の方が安く手に入るので、養蚕用の燃料も徐々に木炭から練炭へと変わった。その後、養蚕組合でも、粉炭を買って練炭の製造を始め、レンタンブチと言って、練炭を共同で作ったという。」

(「座間市史6 民俗編」219~220ページより)

家庭用の炭は、たいていはゾウキ(補注:ハンノキなどの雑木を焼いて炭にしたもの)で、良質なカタズミ(補注:クヌギ・ナラ・カシを焼いた堅炭)は、養蚕やお茶作り用に使われた。深見あたりでは、とくにお茶作り用にホイロ(焙炉)で使う炭を買いに来る人が多かったという。

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、ことに、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして、蚕室の保温を行った。春蚕(はるご)の時期は、二眠くらいまでの稚蚕期には、蚕室の炉の中へ炭を伏せ込んで暖をとるため、炭の需要が高かったという。しかし、マイシン(埋薪)という、薪も一緒に伏せ込む方法が採られるようになってからは、炭の需要は減ったという。

(「大和市史8(下) 別編 民俗」434ページより、補注は同所の別の箇所を参照の上ブログ主追記)

炭の用途は火鉢などの家庭用と、養蚕での部屋の保温や茶揉みに使うものがあった。中心は養蚕用でああったため、蚕が始まる前は忙しかったという。

(「綾瀬市史8(下) 別編 民俗」137〜138ページより)

炭焼きもまた冬から春にかけての小遣い取りの仕事であったが、大正時代の養蚕の盛んな頃には需要も多く、七、八月を除いてどこでも冬の間だけでなく一年中焼いていた。その頃には年平均三〇俵位は必要だった。それ程養蚕をしなくても、製茶には一俵位必要だし、普通年に一五俵もあれば充分だった。」

(「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」332ページより)


高座郡は明治時代に入って神奈川県内でも特に養蚕の発展が著しかった地域の1つです。同郡の村々は江戸時代には冬場の農閑期に炭焼を行っており、相模国西部の山間の様に年間を通して炭を焼いていた訳ではありませんが、こうした地域が寧ろ明治時代以降の養蚕の隆盛に伴って、その下支えとなる燃料として炭を自給する様になる傾向を示したことになります。「相模原市史」の場合だけ少し傾向が異なりますが、これは大沼新田の雑木林がこの頃には広大になり、外販用の炭焼が盛んになったことが背景にあります。「座間市史」の記述には、同時期に廉価で入手出来る様になってきた石炭との競合が指摘されていますが、石炭の場合は閉鎖空間での燃料として用いるには脱硫したものを使う必要があることから、その加工の手間で必要となる労力や経費を合わせた時にはまだ自前のヤマで焼く炭にも分があったということでしょう。「大和市史」では堅炭を養蚕などに用いる傾向があったことを記していますが、これは長時間蚕室を暖める必要があるために火持ちの良い炭が必要だったからだろうと思います。

近代に入って化石燃料の利用が増えていった中でも、炭は家庭用としてだけではなく、産業用途としても引き続き使われる局面が多々あり、そうした背景の下でなお盛んに炭焼が続けられていた、ということになるでしょう。



当初は4回程度でまとまるかと想定していましたが、思った以上に書くべきことが増えてしまい、今回を含めて8回になってしまいました。改めて、ここまでの記事の一覧を掲げます。


「風土記稿」が愛甲郡の各村の炭焼を取り上げたのは、明らかに小田原北条氏や「御用炭」の由緒を重視したものと言って良いでしょう。山川編で取り上げられた足柄上郡や足柄下郡の炭焼は、相模国全体で炭焼の盛んだった地域を考えると必ずしも地域の選択が妥当であったとは言い難い側面もありますが、相模国も山岳地域を中心に江戸の膨大な炭需要を下支えする地域の一角であったことは確かです。特に穀類の生産に乏しい山間にあっては、炭が村の稼ぎの主力となっていた地域が多く、荒川番所や川村関所でも貢税の対象として重視されていました。

その炭焼も白炭と黒炭に大別され、更に「御用炭」の様に将軍の茶の湯に用いられるものや、鍛冶炭の様に当時の産業用途のものといった種類に応じて炭が焼き分けられていたことも、伝えられている文書類によって明らかです。宮ケ瀬で発掘された「横穴式土窯」や、同地で行われていたと言い伝えられる「ボイ炭やき」の存在からも、相模国で焼かれていた炭が単一なものではなく、必要に応じて炭焼の方法を変えていたことを窺わせます。ただ、現状では当時のその具体的な技術を明らかにするには、史料がまだ充分とは言えない様です。

また、小田原の旅籠・小清水からの発注に見られた様に、炭焼では一度に生産される量が膨大となり、その運搬に必要となる労力も大きく膨れ上がる傾向にありました。つまり、当時の物流にとっても主要な運搬品目のひとつであったことがわかります。その様な品目が「日本木炭史」が指摘する様に運搬し難い性質を持っており、足柄上郡24ケ村が駄賃稼ぎの横暴を訴えた際の文書からも、炭の運搬が陸運にとって「難題」となっていた状況が垣間見えます。江戸時代当時の物流や交通事情を考える上では、こうした荷物の性質についても勘案する必要があると言えます。

江戸時代の相模国の炭については今回でひとまずの区切りとします。後日何か追記すべきことがまとまったら改めて取り上げたいと思います。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その7)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回は、「風土記稿」で取り上げられた地域に隣接するかつての宮ケ瀬村周辺で大量に発掘された、江戸時代の炭窯遺構について紹介します。

宮ケ瀬ダムの建築に伴って水没することが確定した地域で大規模な発掘調査が行われた件については、以前漆を取り上げた時に紹介しました。今回もこの発掘調査の報告書の1つと、この発掘調査を受けて執筆された次の論文を元に今回の記事を組み立てます。更に、参考資料として津久井郡の民俗調査の一環でまとめられた資料を併せて参照します。

  • 神奈川県立埋蔵文化財センター調査報告21 宮ケ瀬遺跡群 2 ナラサス遺跡ナラサス北遺跡」 神奈川県立埋蔵文化財センター編 1991年 (以下「報告書」)
  • 近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)—宮ケ瀬遺跡群検出炭窯の歴史的背景を中心として—」 武井 勝著 「神奈川考古 第25号」(1989年5月 神奈川考古同人会)所収 251〜264ページ (以下「予察」)
  • 津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」 津久井郡文化財調査研究会編 1988年 (以下「文化財」)


現在の清川村宮ケ瀬の位置(Googleマップ
今更ながら、改めて宮ケ瀬村の位置を地理的な側面も含めて確認しておきます。昭和31年(1956年)に煤ヶ谷村と合併して清川村宮ケ瀬となったこの地域は清川村の北西側半分を占めており、宮ケ瀬ダムが出来る前は中津川渓谷沿いの河岸段丘上に中心集落がありました。旧煤ヶ谷村域からは辺室山中腹に端を発する川弟川(かわおとがわ)が流入して中津川(「風土記稿」では「布川」と称しています)に合流していますが、煤ヶ谷村の中心集落は小鮎川沿いに展開しており、煤ヶ谷から宮ケ瀬へ抜ける甲州道はその途中土山峠でこの2つの川の分水界を越えます。他方、宮ケ瀬村の北側は津久井県鳥屋村や青山村(現:相模原市緑区)等に接していますが、中津川沿い宮ケ瀬村の集落から鳥屋村への道は段丘崖に斜に付けられた比高差100m以上の急坂を登る必要がありました。この鳥屋村の中心集落も中津川には合流しない串川沿いに展開していますが、この集落の辺りは山中にしては意外に広い平野になっており、これはかつては串川に合流していた早戸川が河川争奪によって中津川に合流する様になったことによって下刻が進み、旧来の河川敷が取り残された結果出来た地形と見られています。

つまり、宮ケ瀬村は中津川渓谷の作り出す地形によって南北の村と分水界によって隔てられている場所に位置しており、村域から流出する中津川の急流が作り出した急峻な渓谷と相俟って「秘境」の様な景観を有する村となっていました。この地に新田義貞の家臣であった矢口信吉が落ち延びて密かに富を蓄えていたという落武者伝説が伝えられているのも、こうした地形と無関係ではないでしょう。

この水没域で大規模に行われた発掘調査では、かなりの件数の近世の炭窯跡が発見されました。特に、対象地域の北側に位置している「ナラサス遺跡」「ナラサス北遺跡」「上原遺跡」の3箇所で、計48基もの炭窯跡が発見されています。他に、これら3箇所からはやや離れた、宮ケ瀬村の本集落に近い「北原遺跡」でも、16基の炭窯跡が発掘されました。


1974〜78年頃の空中写真に見る該当地(「地理院地図」)
水没前の地形については
今昔マップ on the web」も参照のこと

「ナラサス」の地名は現在は
湖岸を走る道路に設けられたトンネルや橋に残る
(トンネル上部の扁額に注目)
遺跡はこの辺りから標高差100mほど下の湖水中
ストリートビュー

「報告書」では「ナラサス北遺跡」の位置や地形について次の様に記します。

本遺跡は、津久井郡津久井町大字青山字南山2145―46他に所在し、一部愛甲郡清川村宮ケ瀬字ナラサスにまたがり、宮ケ瀬遺跡群のダム水没区域内において最北に位置する遺跡である。

丹沢山塊に源を発する中津川は、宮ケ瀬の落合で早戸川と合流した後、流路を北東方面にとって流れるが、本遺跡はその合流点の北東約400mに位置する。ナラサス遺跡の北東に隣接する本遺跡は、中津川の浸食作用により形成された四段の段丘面のうち最上位(宮ケ瀬Ⅰ面)に立地し、同じ段丘面上のナラサス遺跡上段面とは南西部で中津川の支流によって形成された沢によって分断されている(第1・2図)。

遺跡の現地表面に見る地形は、標高230m前後の緩い傾斜の平坦地をなし、南側に流れる中津川の曲流部に当たる部分は浸蝕を受け若干オーバーハングした崖状を呈している。これに対し、関東ローム層上面での地形をみると、本遺跡は北から南方面へ比高差数mほどの緩斜面をなしており、南西部と北東部に比較的平坦な面が見受けられる。

(「報告書」311ページより、付図は省略)


カタカナで書かれているために外国語然として響く「ナラサス」という小字については、今回調べ得た範囲ではその由来を突き止めることは出来ませんでした。元文2年(1737年)の文書では「奈良さす」と記した例もあるものの、これも宛て字である可能性がかなり高そうです。ただ、「奈良」だけ宛て字とする語感からは「ナラ」に意味を含んでいる様にも見受けられ、あるいは「楢」に関連があるのかも知れませんが、これまた憶測の域を出ません。ともあれ、小字「ナラサス」は宮ケ瀬村の北辺で青山村と隣接し、中津川渓谷が北向きから東向きへ流れを変えた先の段丘の上にある地域でした。

「ナラサス遺跡」からは江戸時代前期と推定される炭窯が4基(うち1基は稼働痕跡がなく、構築中の状態で放棄されたと見られています)、「ナラサス北遺跡」からは江戸時代中期から後期と推定される炭窯が36基も見つかりました。「ナラサス遺跡」から出土した炭化物からは炭焼に使われた樹種として「ハンノキ属、クマシデ属、ブナ属、コナラ節、アカガシ亜属、ケヤキ、ナツツバキ属類似種」(「報告書」9ページ)が検出されており、これらの遺構が確かに炭窯であったことが確認出来ます。特徴的なのは、これら40基が何れも「横穴式土窯」であるということです。「ナラサス北遺跡」の炭窯について「報告書」は次の様に記します。

…ナラサス北遺跡においては合計36基の炭窯が検出された。わずか100mあまりの崖面に東西にひしめきあうようにして存在する。炭窯はいずれも、基盤層である関東ローム層をトンネル状にくりぬいて構築された、いわゆる横穴式土窯である。1基の炭窯において幾度となく炭焼きが繰り返されたことは、内部の土層の堆積状態によって明らかであり、使用に(ママ)えられなくなった炭窯は放棄され、新たに奥へ奥へと構築されていったことが、遺構の配置から考えられよう。

炭窯内部からの出土品は極めて乏しく、唯一9号炭窯の覆土中より出土した近世陶磁器の破片が、操業年代を類推する資料となろう(第11図)。この破片は肥前系の茶碗で、高台の外径4.8cmを測り、接合しない同一個体の破片1点が他に存在する。18世紀後半から19世紀初頭にかけての所産と考えられる。

炭窯の中には、炭化室の床面積が10㎡をこえる巨大なものも存在し、したがって規模は大小様々であるが、炭化室の最大幅が1.8m前後のものが多く、ことによると1間という単位で幅が設定されたことも考えられる(第33図)。

特定の地域に密集して炭窯が存在することは、宮ケ瀬地域内においてもこの地が炭焼きを操業するにあたって最適の諸条件を満たした場所であったことを物語っている。立地的には炭窯の構築された崖下約50mには中津川が流れており、川面を南から北に吹き上げる川風が、炭窯用部の燃焼効率を高めるうえで大きく寄与したであろうことは、想像するに難くない。また炭窯群の背後には鬱蒼とした雑木林が生い茂り、木炭の原料となる原木を容易に入手することが可能である。さらに炭窯群のすぐ西には、中津川の支流である小川が流れ、小さな沢を下れば水を確保することが可能である。以上の諸条件を満たした地であったからこそ、この地に固執して操業が繰り返されたのであろう。

(「報告書」340ページより、…は前略、付図は省略)


炭窯の設置に適した場所については、「木炭の博物誌」は「炭材を集めやすく、水に便利であること、風当りが少なく、乾燥地で岩石の少ない、緩やかな傾斜地」(143ページ)と記します。他方で、「文化財」でも適地の条件に「陽地で乾燥している所」を挙げるものの、「乾燥しすぎている所では冷却に時間がかかり、その反対は未炭化を生じる。」(54ページ)としており、乾燥してさえすれば良いとは考えられていなかった様です。その「文化財」も「強風の当たらない所」を条件の1つに挙げており、その点では「報告書」の指摘は必ずしも妥当ではない様にも見えますが、川から程近い、水を得やすい場所である程度乾燥した空気を得るには風通しが悪くても湿気が抜けませんから、程々の通風は必要だったとも言えそうです。


この「横穴式炭窯」については、「予察」では次の様に指摘しています。

まず、炭窯自体の特徴とそれに関する問題点について考える。第一に、宮ケ瀬遺跡群で検出された炭窯はいずれも土窯で、崖斜面のローム層や下部の礫層をトンネル状に掘り込み、奥に立上がりの煙道を掘る横穴式の簡単なものである(図2)。これは、県内や多摩地方などにおいて検出された炭窯が、一旦地山を掘り込み、その後床面・窯壁・天井部を構築するいわゆる半地下式の構造を呈するものとは根本的にことなっている。こうした横穴式の炭窯は全国的にも希少なものと思われ、管見したところでは青森県東津軽郡田町大平の「清水股沢」遺跡で発見された「ホリガマ」と称される炭窯(図4)と同形式のものではないかと思われる。このような希な構造を有する大型の炭窯が、宮ケ瀬遺跡群で数多く検出されるのは何に起因することなのか、時期差か地域差かによることなのか、横穴式の形態・構造を呈する炭窯資料を多く収集し、他の構造のそれと比較検討することが今後の課題となろう。

(「予察」262ページより)


「近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)」図2
「予察」図2(252ページ)
「近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)」図4
「予察」図4(262ページ)

こうした横穴を掘る炭窯は現在一般的に知られる炭窯とは大分異なる方式であることは確かです。これに関連して、「文化財」では次の様に、江戸時代の津久井県では鍛冶炭はそもそも炭窯を構築しない方式で焼いていたことを紹介しています。

津久井郡では昔から郡下一円で炭焼が行われていたものと思われる。その用途は、家庭用のほかに(なた)、鎌、庖丁(ほうちょう)、刀、槍などの鍛冶炭であったと言われる。鉈、鎌、などは農耕に製鉄器具が使用され始めてのことであるから相当に(さかのぼ)って鍛冶炭の生産がなされたものと思われる。神原家文書によると、正保五年(一六四八)子閏正月、津久井領の内牧野村名主次郎左衛門が代官に当てた青根山入妨げにつき牧野名主訴状に「炭釜五拾参口焼かせ」云々(別記)と、あることから青根山に於いて今から三四〇年前には木炭の生産がなされていたことがうかがえる。さらに津久井郷土誌によると、「古文書で見る限り当地の木炭は築窯(ちくよう)による白炭と、掘り窯による鍛冶炭(当地ではかんずみという)があり、明治になり大正時代となって鍛冶炭は種々改良され、現在の築窯による黒炭となったのである。鍛冶炭の製法について、鍛冶炭は地面を掘って下へ丸太を置き、炭木を横に並べて火をつける。一番上へもみそ(樅)の葉や枝ごみを置き、火をつけたままその上に土をかぶせる。大体炭になったら上から押しつけ消す。(中略)炭は軟かく、火持ちはよくないが、炭火への通気で火力の強弱を自在にすることができ、鉈、鎌、庖丁、刀槍などの鍛冶炭に使われた」と記述している。

津久井町鳥屋の荒井勇氏の談

鍛冶炭は枯らした栗の木を細かく割って、それを一定の場所に積み上げる。その上をスズ竹などで覆い、さらにその上に落葉などを乗せ、一番上を土で覆う。火を一方向からつけ、炭化したら押しつけて消すと出来上がる。江戸時代はほとんどこの製法の鍛冶炭であったようだ。この炭は火の起りが良く、使い良かった。明治時代になって現在の黒窯で焼いた軟かい松炭を使うようになった。

(「文化財」50ページより、傍点は下線に置き換え)


ここで記録されている様な炭窯を築かずに炭焼を行う方式については「木炭の博物誌」でも「ボイ炭やき」という名前で紹介しており、この方式で焼いた炭は「軟質で、もろく、火つきはよいが長持ちしない。そして細かくくだけた炭が多く、わが国では鍛冶炭、炬燵(こたつ)(うも)れ火、練炭・豆炭の原料などに使われていた。」(135〜136ページ)としています。津久井県の炭焼については先日紹介した通りですが、比較的廉価に生産していた鍛冶炭がこの様な方法で焼かれていたという証言は、当時の炭焼事情を考える上では重要な手掛かりとなりそうです。

「文化財」の記すこの「かんずみ」の製法が当時津久井県全域で行われていたのか、更には津久井県に隣接する地域にまで広がっていたのかは定かではありません。ただ、如何に渓谷で隔てられているとは言え、「ナラサス北遺跡」の位置が一部津久井県域にかかっており、すぐ隣が「文化財」で証言が紹介されている鳥屋村であることからは、この「横穴式炭窯」が出土した地域も通常は「ボイ炭やき」を行う地域と重なっていた可能性が高いのではないかと思います。

「予察」の指摘通り、神奈川県域での炭窯の発掘事例が少ない現状では、この地域に何故横穴式土窯が多数築かれたのかという疑問を解き明かすのは難しいのが現状でしょう。敢えて考えられるところを記しておけば、出土した炭窯が何れも土窯であることから、少なくとも「白炭」を焼くための窯ではなかった可能性が高いものと思います。「備長炭」に代表される「白炭」を焼く窯は石窯を使うのが基本で、これは最後の「ねらし」で一気に空気を送り込んで1000℃にも達する高温とする過程を含む関係で、黒炭を焼く様な土窯ではこの高温に耐え切れない虞があることによります。「報告書」を見る限り、こうした高温への対策のための石積みなどは炭窯跡から出土しなかった様ですから、焼かれていた炭は「黒炭」ということになるでしょう。

しかし、「黒炭」の一種である「かんずみ」を専ら炭窯を使わずに「ボイ炭やき」で焼いていた地域にあって、敢えてこの様な炭窯を造っていたということは、これらの炭窯では通常この地域から「かんずみ」として出荷している炭とは違う性質の炭を焼いていたのかも知れません。宮ケ瀬村の南隣の煤ヶ谷村では「御用炭」を焼いていたことは前回確認しましたが、その炭が白炭であったのか黒炭であったのかが確認出来る文書は残っていない様です。ただ、それが黒炭であった場合には、「かんずみ」の様な粗い炭が「御用」に耐えられるとは考え難いことから、炭窯を造って焼いていたのかも知れず、その場合に宮ケ瀬村の様な「横穴式土窯」が用いられていたではないか、という気もします。あるいは、かつての煤ヶ谷村域でも江戸時代には「横穴式土窯」が造られていたのかも知れません。

煤ヶ谷村とは違って宮ケ瀬村や津久井県の村々が「御用炭」を納めていたとする記録はないので、その様な「高級」な黒炭が焼かれていたとすれば、その旨の注文を何らかの形で請け取って焼かれていたことになるでしょうが、今のところその様な推察を裏付ける史料は見つかっていません。発掘された炭窯について、「予察」では次の様に記しています。

ところで、こうした歴史的状況において検出された炭窯の歴史的な位置付けは、どのように考えられるのであろうか。ナラサス遺跡で検出された炭窯については、元文2(1737)年4月の青山村との山論の際、その原因となった「奈良さすたいら」の畑内に構築された炭窯との関連が指摘できる。しかし、ナラサス遺跡の炭窯は宝永のスコリアとの関係から、1707年以前の年代が与えられており、時間的にずれが生じる。この矛盾をどう解決するのか今後の課題である。また、ナラサス北遺跡で検出された大規模な炭窯群は、当時の宮ケ瀬で炭の大量生産が組織的に行われたことを裏づける資料になるものと考えられるが、管見した近世文書にナラサス北遺跡の場所や炭窯群での炭焼きの内容を記したものがなく、推定の域をでないのである。

(「予察」263ページより)


とは言え、こうした多数の炭窯遺構が、この地域での炭焼が極めて盛んであったことを物語る存在であることには違いはありません。「予察」では宮ケ瀬村や煤ヶ谷村などに伝わる数々の文書を分析して当時の宮ケ瀬での炭焼について解き明かされており、この山深い秘境の渓谷に位置する村でも炭焼が江戸時代の主要な産物であったことが窺い知れます。この地域でどの様な炭焼が行われていたのかを考える上では、発掘された横穴式土窯はやや特殊な例ということになるのかも知れませんが、かなりの基数の炭窯が発掘されていることからは、ある程度の期間にわたって相当量の炭を量産していたことは確かです。その点で、これらの炭窯遺構から産出されていた炭が宮ケ瀬渓谷での炭焼の中でどの様な性質を持っていたのか、課題を投げ掛ける存在と言えそうです。


相模国の炭焼について、当初の予定よりも大分長くなってしまいました。次回相模野の炭焼と近世以降の動向を簡単に取り上げてまとめとする予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その2)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回はまず、「山川編」で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡の炭の産地について考える上で、相模国の炭の産地が他にどの地域に分布していたのかを確認するところから始めます。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には近世の産業にまつわる史料が集められていますが、その産業編第2部「林業と石材」中に「炭」にまつわるものを集めた項があります(846〜865ページ)。ここには全部で10件の史料が収められていますが、その表題や日付を一覧にすると次の通りです。

番号表題日付
120津久井県村々生産炭・木材等荒川番所五分一運上定値段定書延享4年(1747年)6月
121足柄上郡谷峨村炭焼運上等赦免につき請書寛延元年(1748年)8月
122足柄下郡米神村炭焼願につき根府川村故障無き届書天明4年(1784年)12月
123津久井県鳥屋村奥野山稼出し炭・材木等書上寛政2年(1790年)2月
124津久井県牧野村運上炭焼出し赦免願文化4年(1807年)3月
125愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳天保5年(1834年)8月
126足柄上郡仙石原村困窮につき炭焼願弘化2年(1845年)11月
127足柄上郡皆瀬川村・川村山北困窮につき平僧山にて炭焼願安政6年(1859年)8月
128駄賃付馬士不法につき足柄上郡内二十四カ村農間炭買主願書万延2年(1861年)2月
129津久井県与瀬村新規炭焼請書文久2年(1862年)10月
※「神奈川県史 資料編9 近世(6)」より各史料の見出しを拾い上げたもの。番号と日付は漢数字を算用数字に置き換え。

無論、「神奈川県史」に収録された史料は県下に伝わるものの全てではなく、県史編集者が必要性を考慮して見繕ったものが収められている訳ですから、ここで挙がっている文書の関与する土地だけが相模国内での産地として限定される訳ではありません。しかし、少なくとも主だった産地と考えることは出来るでしょう。この10部の文書の関与する産地としては、「風土記稿」で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡・愛甲郡の他に、津久井県の名前が文書番号120・123・124・129の4件で登場します。



荒川番所の位置(再掲)現在は津久井湖の水面下
「新編相模国風土記稿」卷之123太井村「荒川橋之図」
「風土記稿」卷之百二十三より「荒川橋之圖」
夏場には船渡しだが冬場で仮橋が架けられている
図の中央の大型の建物が荒川番所
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当図部分のみ抜き出し)
その最初の「津久井県村々生産炭・木材等荒川番所五分一運上定値段定書」(以下「値段定書」)は、荒川番所に納める運上金の価格を改定した際の文書です。荒川番所については以前も登場しましたが、「風土記稿」では

◯荒川番所 五分一運上取立の番所なり六畝廿一歩の地を除す相模川に臨て立てり、凡材木炭薪船筏ともに五分一の貢賦を此所にて收む、御代官手代一人、下役二人こゝに居て其事を掌どる、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八 太井村の項、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と紹介されています。相模川を舟運で下る荷物に対して賦課される運上金を取り立てるのが彼らの主な役目ですが、その対象品目の中に「炭」が含まれています。「値段定書」ではその筆頭に炭が取り上げられていて、相模川を下る品目の中でも主要な地位を占めていたことが窺えます。

この文書の中に「蓑笠之助」の名前が登場しますが、この人は富士山の宝永大噴火の後、酒匂川の土砂災害の復旧に義父である田中休愚とともに従事し、後に南町奉行所に取り立てられて幕臣となった役人です。工事の完了後の享保19年(1734年)に津久井県の大半が所領として与えられたため、それ以後荒川番所の管轄も彼の支配下に入ったことになります(寛延2年・1749年まで)。この「値段定書」はそれまでの運上金取立の運用を周辺の市場での価格動向に照して見直して勘定奉行に報告し、認可された結果が村方に通達されたものです。

その冒頭には「白炭」が2項目記されています。因みに「白炭」とは炭焼の最終過程である「ねらし」で一旦高温に曝して炭の純度を高めたもので、この行程で灰を被せて火を消すために炭が白っぽくなることからこの名で呼ばれます。タイミングを間違えると炭が灰になってしまうなど高い技量を要求される行程ですが、出来上がった炭は火持ちが良いことから高級炭とされます。

相州津久井県村〻五分一運上定直段左之通奉伺候

一 白炭 五俵

但壱俵四貫目入

此五分一運上炭壱俵

此代鐚五拾文宛

但定直段

鳥屋村・青野原村・青山村・寸沢嵐村・中野村・与瀬村・三井村・太井村ゟ出シ候白炭五分一定直段、前〻八貫目入壱俵付七拾文相極取立来候処、江川太郎左衛門(英彰)支配所之節ゟ四貫目入ニ而出之候間、八貫目入半滅三拾五文之積百姓共相願候得共、御吟味之上四貫目入壱俵五拾文定直段相極取立可申旨、御証文引付を以取立候付、猶又此度市場町〻問屋共方ゟ相場付取之吟味仕候処、直段難相増御座候間、是先御証文之通、荷物出次第書面之定直段割合ニ而取立候積、

一 白炭 五俵

但壱俵四貫目入

此五分一運上炭壱俵

此代鐚四拾文

但定直段

青根村・牧野村弐ケ村ゟ出シ候白炭、五分一運上之儀、右両村山奥ニ而外村ゟ道法弐里半余遠ク、至極難所附出候得共、只今迄外村之通鐚五拾文宛取立候処、右之通難所附出候付、貫目軽ク仕出、市場払方も下直候間、先格之通拾文引之積運上相納度由相願申候付、此度吟味仕候処、壱俵四貫目入と申名計りニ而、実三貫弐百目ならて無之段、相違無御座候、右弐ケ村之義古証文も外村ゟ拾文引之積り御座候、依之向後貫目之無差引四貫目入相定、壱俵鐚四拾文ツヽ之積り、荷物出次第書面之定直段割合ニ而取立候積り、

(上記書846〜847ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


「〜荒川番所五分一運上定値段定書」に登場する白炭の産地
この文書の「白炭」の項に登場する村々の位置
赤が50文/5俵の村、青が40文/5俵の村
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
同じ「白炭」の運上金の項が2つ出て来るのは、村によって金額が異なるからですね。ここで登場する村々の位置を地形図上でプロットしてみましたが、確かに青根村と牧野村は荒川番所から大分離れた場所に位置しているため、運び出す労力負荷が過大になることを配慮して手心を加えていることがわかります。前回も見た通り、それでなくとも炭の陸運には困難が伴う実情がありましたから、距離が延びればそれだけ積み荷の炭が輸送時の振動で損傷を受ける度合いが増えてしまうことになり、その不利は勘案しなければならないという共通認識が領主側にもあったことが窺えます。

とは言え、この文書の説明によれば、元は1俵が8貫(約30kg)で運上金が70文であったものが、韮山代官であった江川太郎左衛門の支配であった時(享保16年頃)に半分の4貫匁の俵に変更されています。その意図は良くわかりませんが、その際に運上金も半分の35文でという村々の願いは叶わず、50文になってしまった訳ですから、この時に運上金を吊り上げられたことになります。村方の願いが聞き入れてもらえなかったのは、白炭の取引価格が相応に上がっているのだから、という理屈でしょう。蓑笠之助はその運上金の価格が妥当であるかを最新の市場の動向と照して確認し、その定めの通りで今後も取り立てると決めた訳です。

「値段定書」では白炭に続いて「鍛冶炭」の運上金が定められ、荒川番所に近い村々は8貫入りの俵5俵につき(びた)86文、青根村と牧野村は白炭同様の手心を加えられて10文引きの76文となりました。なお、鐚86文の村は「鳥屋村・青野原村・青山村・寸沢嵐村・千木良村・三井村・又野村・太井村」と、白炭とは若干顔ぶれが異なっています。千木良(ちぎら)村は今の相模ダムの下流左岸、与瀬の東側に位置する村で、又野村は中野村の北側に位置しています。これらの村からは鍛冶で使う低廉な炭だけを産出していたことになります。地形面で他の村々と異なる、炭焼に不利な環境があったとは考え難いので、白炭の炭焼技術が不足していたということになるでしょうか。

文書は更に薪の運上金を定めていますが、ここでは青根村や牧野村の名前はなく、「三ケ木村・中野村・寸沢嵐村・三井村・若柳村・長井村・根小屋村・中沢村」に対して、やはり運上金を500束に対して永200文に据え置くことが定められています。一部の村は白炭を出している村と重複しているものの、こちらにのみ名前が記されている村々では炭焼を行っていなかったことになります。また、薪は大量に伐り出しても安くなってしまうので、相模川から遠い青根村や牧野村では険しい山中を長距離に亘って運び出す労力に見合わず、商品価値のある炭にしないことには割が合わなかったということになるでしょう。

実際、文書番号129「津久井県与瀬村新規炭焼請書」では、村内の御林の雑木を見立てて6貫の炭俵にして100俵分ほどの炭が焼け、金1両当たり炭21俵の価格になる見込みを報告し、御林の役人宛てに炭焼の用命を求めている文書です。無論、御林の木々は村方の一存で自由に伐ったり出来ないものでしたから、これは役人の方から求めがあって見積もりを出したということになるでしょう。山で稼ぐ村々にとっては、炭は現金収入に繋げやすい産品であったことが窺えます。

もっとも、文書番号124「津久井県牧野村運上炭焼出し赦免願」では、牧野村内の御林(「風土記稿」では全部で6箇所の御林が存在したことが記されている)の材木のうち不要になった分を炭に焼いて江戸で売り捌いて運上金を収める様に求められたものの、石窯を使って焼いたところが炭が多く粉になって売り物にならなくなってしまい、見込みよりかなり目減りしてしまったため、目論見通りの運上金を収められなくなってしまったことへの詫び状となっており、古くから白炭を焼いてきた筈の村でも必ずしも求め通りの炭を焼けるとは限らなかった様です。最初の荒川番所の文書は、そうした炭焼の技術の有無という観点から読むことも出来るのではないかと思います。因みに、この文書は下書きのためか後付けがなく、誰に対して宛てて出す予定であったかは不明です。

こうした村々がどの様な種類の木を炭に焼いていたかが窺い知れるのが、文書番号123の「津久井県鳥屋村奥野山稼出し炭・材木等書上」です。これは鳥屋村の名主・与頭・百姓代が領主・江川太郎左衛門の手代の求めに対して報告したものですが、どの様な事情があってこうした問い合わせを受けたのかは不明です。この文書では炭にする樹種の他に、板材にする樹種(4種)と、下駄に使う樹種(5種)が記されていることから、その使い分けに関心を寄せる様な動きが何かあったのでしょう。以前「椎茸」を取り上げた際に同じ鳥屋村の寛政5年の文書を取り上げましたが、年次が近いことから考えると、あるいは3年前のこの頃から既に打診があったのかも知れません。

この文書によれば、「白炭焼出稼来候木品」として「すろの木/ふなの木/もみじの木/はいた木/かしわ木/白ゑひす木/あらは木/ふじ木/ならの木/くぬき木/なたくま木/みねはり木/さくら木/うりの木/なゝかまと木/かつら木/はんの木/あつま木」と、全部で18種類もの木が書きつけられています。およそ丹沢山中の雑木林に生えてくる樹種は一部を除いて白炭にされていたと言って良さそうです。これに対して「鍛冶炭焼出稼来候木品」には「かつの木/すきの木/いも木/うつ木/なへくた木」と5種が書き付けられるに留まっており、白炭に比べて意外に樹種が少ないのが興味深いところです。何れにせよ、鳥屋村に限らず津久井県の他の村々が炭に焼いていたのも多かれ少なかれこれらの樹種であったと考えて良さそうです(以上、上記書853〜854ページ)。

これらの文書から窺える様に、津久井県の炭焼もかなり大掛かりに行われ、荒川番所を通じて領主への主要な貢税の対象とされていたことがわかります。「風土記稿」では津久井県を炭の産地として挙げていませんが、その取捨選択がどの様な判断に拠っているのかは良くわかりません。



相模国内の他の郡域はどうでしょうか。そこで気になってくるのが、「風土記稿」の三浦郡上山口村の項に、次の様に「炭竃」という小名が記録されていることです。

◯小名 △三頭美可志羅◯… △三國峠當村・櫻山・田浦三村に跨れる小山なり △石登以之能保利 △間門末加度 △正吟之也宇[糸巳]無 △唐木作加良紀左久 △新倉仁比久良 △蚫塚山安波比都可也末 △粟石 △寺前 △大澤 △星山 △高塚 △炭竃

(卷之百十 三浦郡卷之四より、…は中略、字母の拾えない漢字は[ ]内に旁を示した)



三浦郡葉山町上山口の位置(Googleマップ
確かに上山口村は以前取り上げた通り浦賀道の途上あり、南北に山が連なる内陸の村でした。南側の山の斜面には棚田が広がっていましたが、北側は森林になっていましたから、こうした所から産出する雑木を使って炭焼が行われていたとしても違和感はありません。

ですが、関連する史料を探してみたものの、この「炭竃」に該当する場所が上山口村の何処に該当するのか、そして実際に炭焼がそこで営まれていたのかを確認することは残念ながら出来ませんでした。「風土記稿」には地名が転訛して如何にも炭焼を行っていそうな村名に変わってしまった例も載っていることもありますし、また何らかの地形を炭窯に見立てた比喩表現である可能性も含めて考える必要があり、これだけでは同地で炭焼が行われていた痕跡と判断するのは困難です。強いて挙げれば、やや時代が下った明治初期の「皇国地誌残稿」の上山口村の項に

地勢

北及南ニ山ヲ負ヒ東西田圃ニ連ナリ運輸不便ナレドモ山林居多ニシテ薪炭乏シカラス

(「神奈川県郷土資料集成 第4輯 神奈川県皇國地誌残稿 上巻」1963年 神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 167ページ上段より)

とあるのがその可能性を窺わせるものの、「皇国地誌残稿」の地勢の項を眺めていくと多くの村で「薪炭」と書いていて具体的に炭焼を行っていることを書いていない村が多く、飽くまでも原木となる雑木林が多いことを表現しているだけかも知れません。もう少し他の裏付けが欲しいところです。



横須賀市秋谷の位置
江戸時代の「秋谷村」はこの他に同市子安を含む地域
Googleマップ
ですが、「新横須賀市史 通史編 近世」の283ページには、三浦郡秋谷村(現:横須賀市秋谷)の名主家であった若命(わかめ)家の「安政三辰年十二月」の日付を持つ文書から編成された表が掲載されています。ここには、当時この村から炭や薪が村の外に向けて販売されて幾らかの現金収入を得ていたことが示されています。この表の元になった文書から該当箇所を引用します。

一、炭六百俵

但 金壱両

代金拾二両

五十俵替

一、薪壱万七千五百把

但 金壱両ニ付

代金五十両

三百五十束

右之品々村方ニ而遣払之余り、右書之通他所売出仕候、…

(「相州三浦郡秋谷村(若命家)文書 上巻」横須賀史学研究会編 213ページより、…は中後略)


もっとも、基本的にはこれらの生産は村内での消費分が主で、外販分は飽くまでもその余剰分と書いています。貢税の対象とされることを警戒していたものと思われますが、基本的には漁業を主体に生計を立てる村では、農林産物にかけられる労力にも制約があり、山稼ぎを主体とする津久井県の様には大規模化することが難しい側面もあったと言えるかも知れません。因みに、同地では現在でも炭焼を続けている家が存在していますが、「三浦半島の史跡みち: 逗子・葉山・横須賀・三浦」(鈴木かほる著 2007年 かまくら春秋社)では現在の炭焼技術は明治時代初期に伝えられたものとしています(237ページ)。とは言え、若命家の文書からは同地の炭焼自体はそれ以前から続けられていたことがわかります。

こうした自家消費中心の炭焼が当時どの程度の村で行われていたのか、史料で裏付けるのは難しいところですが、必要に応じて伐り出して来た薪材の一部を炭に焼くといったことは幅広く行われていたのかも知れません。高座郡の相模野の一角を開墾した大沼新田・溝境新田・淵野辺新田でも、その乏しい産物を補うために雑木林を作り、一部を炭に焼いていた例もこちらに数え上げることが出来るでしょう(同地の炭焼については後日改めて取り上げます)。

次回は「風土記稿」山川編の記す足柄上郡や足柄下郡の炭焼について、その記述の問題点を取り上げる予定です。

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「慊堂日暦」の箱根行き以外の道中の記録について

先日来読み返していた松崎慊堂の「慊堂日暦」について、大雑把ではありますがひと通り目を通し終えました。その際に目に止めたケンペルにまつわる記述を元にして、前々回前回の2回で「はこねぐさ」についてまとめた訳ですが、この日記を読み返したもう1つの目的は、「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)に記された6回の箱根の記録の他に旅の記録が、特に相模国を経由した際の記録がないかを探すことでした。今回はその結果を簡単にまとめておきます。

結論から先に言うと、慊堂はあまり積極的に旅をする人ではなく、湯治目的の箱根行き以外は基本的に主君に随伴して遠征したり、講義などの目的があって出掛けたケースに限られる様です。そのためもあってか、相模国内を経由した旅の記録は、上記の6回以外では文政12年(1829年)3月9日に江戸を発って大坂へと向かい、同年10月25日に江戸へ帰り着いた際の1回のみということになる様です。

この往復は、主君であった掛川藩主・太田資始(すけもと)が大坂城代として赴任するのに随伴してのものです。日記では前年の文政11年11月22日の項に「この日、主君は大坂城総督を拝す」(「慊堂日暦2」223ページ、以下巻号とページ数は何れも平凡社東洋文庫版より)とありますから、それから諸々出発に向けて手筈を整え、翌春に大坂に向けて発った訳です。因みに当初の出発予定は7日だったものが、9日に延期されています。

往路は東海道を経由していますから、当然この時も箱根を通過しているのですが、「報告書」ではこの1回は数え上げられていません。これは恐らく、この往路の道中の記述がごく簡潔で、箱根に関する記事が殆どないことによるものと思われます。実際、3月10〜11日の記述は

十日 晴。夜、小田原に宿す。富岡の女、十束の女はみな轎にて往き、途にありて甚だ困しむ。

十一日 陰。関門を()たり。吏は帯びるところの妻孥(さいど)を検す。三島駅本陣(樋口伝左衛門、父は林平。朝日与右衛門はその冠賓なり。依田善六の父左二兵衛は林平の弟なり)。

(「慊堂日暦2」242ページより)

と、箱根の関を越えた際のことのみが記されています。因みに「轎」とは駕籠の様な乗り物を指しますが、この時は主君に帯同した家来の家族も随伴していたため、箱根の関所ではそのうちの女子の改めを受けた、と記している訳です。なお、平時駕籠を使うことが多かった慊堂自身もこの往路で駕籠に乗っていたと考えられ、記述が簡潔なのもその表れと思われますが、その点に関する明記はありません。

同月14日には領地である掛川に着いたものの、翌日三箇野橋(袋井〜見附間、太田川)の落橋の知らせを受けて出発が1日延期され、大坂城に着いたのは23日でした。以後慊堂は同地に滞在しながら多くの人と会い、時には揮毫に応じたりしています。日記には「◯大塩平八郎。天満組屋敷与力(よりき)盗賊方」(「慊堂日暦2」245ページ、3月末尾)「◯大塩平八郎。号は洗心洞、三十七八歳。」(「慊堂日暦2」308ページ、9月13日)と2度にわたって記されていることから、この滞在中に大塩平八郎とも会ったのかも知れません。

9月27日には主君の大阪城代の任が終了し、翌日には江戸に向けて出発していますが、雨季に川止めに遭うことを警戒したためか、この復路では東海道を経ずに中山道へと向かっています。この道中では「余は轎中にあり、ただ山を看るべからざるを苦しみ、」(「慊堂日暦3」4ページより)と書いていますから、やはり駕籠に乗っていて外の景色を見られなかったことが、道中の記述の簡素化に繋がったと見て良さそうです。途中木曽福島に数日滞在し、同地の領主に論語などを講義しています。また、慊堂は蕎麦が好物であった様で、日記には蕎麦を食したという記述が至る所で見られるのですが、同地で食した蕎麦について

十五日 …蕎麪(そば)条を進むれば甚だ佳し。ここに来ってしばしばこの味を享す、妙は言うべからず。

(「慊堂日暦3」6ページより、…は中略)

と、その味を賞賛しています。

下諏訪からは中山道ではなく甲州道中へと向かっているのは、少しでも江戸に早く着くための配慮でしょうか。通常の参勤交代とは違い、同伴した家来の数も多くはなかった様なので、沿道の施設が比較的小規模な甲州道中でもさほどの支障とはならなかったのかも知れません。何れにせよ、甲州道中を経由したことで復路は津久井県を経由することになりました。

甲州道中が相模国内を経由する区間はあまり長くなく、鳥沢を出発した一行は翌日には相模国を経て武蔵国に入ってしまいます。このためもあって、日記の記述もそれほどの文量にはなっていません。

二十三日 暁行して犬目駅に至れば天明(てんめい)なり。三十丁にて野田尻、一里にて鶴川駅、駅外の鶴川は左より来り、南行して桂川に入る。十八丁にて上の原駅、二十余丁にて諏訪村と曰い、関あれども呵せず。関の西を諏訪村と曰い、絹商駅あり。関外の下坂は頗る険しく、桂川は西より来り、猿橋に比すれば見るところ大を加う。小水が左より来るを界川と曰う、(かい)(さがみ)の界なり。界の東はすなわち津久井駅、石壁は嶄立(ざんりつ)し、桂水はこれがために屈曲し、反流するものの如し。路はまた曲屈して上り、上り窮まる処を関野駅(代官江川氏)と曰う。十六町にて吉野駅と曰い、駅は与瀬に距ること一里、駅外に間道あり、南して舟を桂水に下す。一村を経て、村外にて再び桂水を渡り、左行して崖を()ずれば険悪を極む。凡そ四丁にて与瀬に(いた)る。官道に比すれば近きこと六の四。与瀬よりまた山行すること半里、小原と曰う。小原より上れば小仏嶺、嶺頭より直ちに下れば、小仏駅を経て駒木野関に入るべし。余は南行すること五十町、高雄山寺に入って宿す。香廚(こうちゅう)は極めて草々にして、ただ一酌あり口によろし。

(みの)より(しなの)を経て(かい)に入り、千山万水、変態百出し、小仏嶺に至れば、すなわち山囲は忽ち開け、水勢は平流す。感じてこの詩をつくる。

中山の路千里、跛渉(ばつしよう)して高深に()む。折れて入る仙禽郡、回看す小仏岑。昂低(こうてい)の山に意あり、険易(けんい)の水に心なし。ただに峨漾(がよう)を窮むるのみならず、併せて世事を(そらん)ずるに堪えたり。

二十四日 早起すれば、寺の四辺はみな大木、木の間に鎌倉絵島を俯視す。禽声は啁哳(とうたつ)人間(じんかん)にて聞くところに非ず、寺僧に問えば知らず。寺北の飯綱祠は頗る壮厳、石階は百級に近く、香火は近郡の最たりと云う。山を下ること十余丁、右に降ることまた十余丁、琵琶瀑を観る。瀑は極めて小、高さは三丈ばかり、失心の人が来り浴すれば効あり。余は灌水癖あるも、早辰にて霜氷は地に満ち、地はまた陰峭、すなわち去る。北行すること十余丁、駒木野駅にいたれば、子肅は輿馬を整頓して()つこと久し。二里にて八王子駅、頗る繁盛、繭糸を売る者街に満つ。肉舗(三河屋)に就き野豕を食す。二里にて日野駅、玉川を渡り、二里にて府中に宿す。

(11〜12ページより)




原付で甲州街道を走ってみた(その28)与瀬-勝瀬-吉野
慊堂にとっては普段通り慣れない道筋だけに、往路に比べると甲州道中では多少文量が増えています。とは言え、基本的には宿場の名前とその間の里程を記すに留まっている区間が殆どで、相模国内では宿場の名称以外の記述は所謂「二瀬越え」の間道について触れているのが殆ど唯一となっています。もう少しゆっくり滞在することが出来ていれば、駒木野ではなく高尾山に宿泊した折の記述程度には委細が記された可能性があったでしょうが、結局相模国内は通過しただけのためか、漢詩を詠む際にも相模国のことに触れずに周囲の景観を詠み込んでいます。

この「二瀬越え」については、umegoldさんの動画による詳細なレポートがありますので委細はそちらに譲ります。その他、甲州街道の様子についてはumegoldさんの一連の動画が非常に詳しく解説されています。この区間の「新編相模国風土記稿」の記述については後日津久井県内の各村の記述をまとめる際に改めて取り上げる予定です。

他方、相模国を経由しない道中の記録としては、文政10年10月28日に佐倉藩へ出発したものがあります(「慊堂日暦2」127〜129ページ)。これは同藩主堀田正睦(まさよし)向けに講義を行っていたよしみから佐倉へ招かれたものの様で、往路は八幡から舟で中川関を経て白井で一泊し、29日に佐倉に到着しています。その後11月5日まで佐倉に滞在して同地の藩士などに会っていますが、その間に「印旛湖」(印旛沼のことと思われる)を訪れてその風景を賛美しています。帰路では千葉を経由して千葉寺や佐倉藩の海防所を視て、舟で江戸へと戻っています。

また、天保12年(1841年)6月15日には再び舟で江戸橋から木更津へ渡り、そこから陸路で富津へと向かっています(「慊堂日暦6」121〜122ページ)。18日には江戸へ戻ろうとしたものの、舟が出ずに22日まで滞在しています。帰る直前には浦賀奉行と会っていますが、この頃には浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わっていたために、その巡視の過程で房総半島に渡っていたものの様です。この木更津・富津行きが、松崎慊堂にとって事実上最後の「旅」となりました。




迅速測図上の「石経山房跡」付近
東側を南北に流れる沢が「羽沢」で水田になっていた
※地図の「不透明度」を100%に切り替えると現在の地形図に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)
ところで、松崎慊堂は日記中で居宅について「荘」「山荘」などの表記を用いていました。と言っても江戸からさほど離れた場所にあった訳ではなく、現在の渋谷区広尾3丁目の辺りに広がっていた田畑の中に建てた荘で隠居がてら弟子に講義を行いつつ、桜田にあった児舎や主君などの元へも出掛けて講義をしていました。山荘の東側には「羽沢」が流れていて、そこには水田が開かれていました。江戸町奉行の支配下に当る地域でしたが、その外縁に近いこの付近は農村となっていた訳です。「羽沢」の地名は昭和22年の地形図でも確認出来ますが、その後は新番地表記の施行に伴って消滅した様です。

この農村も明治時代に入ると市街化が進み、現在の一帯はマンションなどが建ち並ぶ高級住宅街に様変わりして当時を偲ばせる様な景観の残る区画はありませんが、浅い谷地形の底にかつての羽沢に沿って「いもり川」と呼ぶ緑道が通っているのが、その名残と言えそうです。以前「はげいとう」のことを取り上げましたが、慊堂が時に様々な作物を植えたりしていたのも、こうした田畑の中であったということは、当時の景観を考える上では記憶に留めておくべきでしょう。
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相模国の香蕈について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

津久井県鳥屋村・青根村の位置
津久井県鳥屋村と青根村の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
前回に続き、「新編相模国風土記稿」で取り上げられた「香蕈」、すなわち椎茸について取り上げます。今回は、江戸時代以降の相摸国域での椎茸生産の実情を見ていきます。

江戸時代から相摸国域内の各地に伝わる文書のうち、椎茸の栽培に直接関わる文書としては、寛政5年(1793年)7〜8月の「津久井県鳥屋村奥野山にて江戸豊田屋安右衛門椎茸作りにつき約定証文」(「神奈川県史」上の名称)が挙げられます。津久井県鳥屋(とや)村(現:相模原市緑区鳥屋)は青根村(現:相模原市緑区青根)の東に隣接していますが、間に丹沢の高い尾根によって隔てられており、青根村が道志川沿いにあるのに対して鳥屋村は中津川渓谷に面する位置にあります。

相定申証文之事

一此度当村奥野於稼山椎茸作度旨御望付、日向通はんの木丸ゟ西郡境迄、東南ゑんさき登尾峯通ゟ宮ケ瀬村境まて、当丑ゟ来ル卯年迄拾五ケ年季相定申候、山代金之儀金拾四両也、只今慥請取申所実正御座候、椎茸作木之儀そろの木壱ケ木限候得共、山内御制木槻・杉・檜・柏右四木之儀、何様之小木・小苗等迄大切可被成旨規定致候上、木伐被(繕)置候場所茸出候時節、村内之者大人勿論、子共・童たりとも決為取申間敷候、若右躰之族御座候ゝ急度吟味可致候事、

一□道具并薪木之儀、御入用次第御伐出可被成候事、

前書之通売渡申候処相違無御座候、若横合ゟ六ケ敷申候者出来致候ハ江御苦労御掛ケ申間敷候、尤此上何用之儀出来仕候共、壱日も休山為致申間敷、為後日村役人・百姓代加印を以売渡申候、仍如件、

寛政五年七月日

相州津久井県鳥屋村

(百姓代2名、組頭7名、名主2名加印署名省略)

江戸両国和泉町

豊田屋

安右衛門殿

相定申証文之事

一此度私共村方奥野稼山内ニ而椎茸作稼致度付、その一ケ木限御望付、村中談事合ニ而、荒川御番所御役人石田八十六様へ御窺申上、其上ニ而及相談、右之木品為御伐取可申筈相極申候、年季之儀当丑ゟ卯年迄十五ケ年季相定、山内道筋等取(繕)草切金として、金子十四両請取申所実正御座候、御入山可被成候、

一御制木之杉・檜・柏・槻四木之□生立之小苗等ニ而も、随分御大切可被成候、

一椎茸出来候荷物御差出被成候節、荒川御番所御窺之上御運上之儀青根村同様御心得可被成候、

一小屋木等之儀御制木之外、何れ木品成共御勝手次第御拵可被成候、

一椎茸木御膳被置候場所へ、村中者一切立入申間敷候、若椎茸出候節姿取申もの御座候ゝ、村役人急度相糺可申候、

右之通規定致候処少相違無御座、為其村役人・百姓代加判、仍如件、

寛政五年八月

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」843〜844ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え)


この文書からは幾つか当時の椎茸生産にまつわる事情が見えてきます。まず、この椎茸生産は江戸の商人がスポンサーとなって「山代金」の名目で14両を支払って始められています。この14両は「山内の道筋等を取り繕う草切り金」と説明されていますから、山中に入ってホダ木を伐り出す際等に必要な道を付けるのに使われたのでしょう。当然、産出した椎茸は江戸へ持って行って販売する目的で作っていたことになります。「そろの木」とはイヌシデなどの木の別名ですが、この時はこの木をホダ木として使ったのでしょう。他方、山中では他にケヤキや杉、桧、柏を材木として育てているので、これらには間違っても手を付けない様に取り決めている訳です。また、それ以外の薪木については要望があれば伐り出しても良いこと、ホダ木を置いた場所には関係者以外は近付かせないことが取り決められています。


荒川番所のあった辺りは現在津久井湖の底に沈んでいる
道志川の合流地点よりは下流にあるが
中津川の合流地点よりは上流に当たるので
鳥屋村からここに届け出るには
青野原方面へ峠を越えて行く道筋を経たことになる
また、後段の証文の最初と3番目の項目に荒川番所の名前が出て来ます。そして、その3番目の項目では「青根村と同様に」と青根村の名前が登場します。番所では相模川を下る各種の荷物に対して運上金を課していましたから、鳥屋村で産出した椎茸についても江戸へ搬出する際には番所を通して運上金を支払う様に取り決められた訳です。見方を変えれば、この時には既に青根村も椎茸の生産を行っていて、運上金を荒川番所に納めていたということになります。「風土記稿」の津久井県の稿が八王子千人同心から昌平坂学問所に納められたのが、以前取り上げた通り天保7年(1836年)ですから、40年以上前には既にこの様な運用が確立していた、と言えるでしょう。ただ、具体的にいくら徴収されることになっていたのかはわかりません。

鳥屋村にしてみれば、右の地図に示した様に荒川番所まで一山越えて荷物を運び出す手間が課せられたことになりますから、その点では道志川に沿って下れば良い青根村に比べると若干厳しい道程になったと言えそうです。

一方、椎茸生産に直接関与するものではありませんが、「津久井町史」では椎茸生産について解説する際に、延宝6年(1678年)9月の「青根村きのこ山御林山守厳守請書」という文書を紹介しています。

きのこ山御林之覚

一かんの川きのこ山御林伐荒シぞう木計

一かまたてきのこ山御林くろ木まざり

右之御林堅ク相守可申候、為後日如件

延宝六年午九月

青根村 (以下山守4名、名主1名、組頭6名加印署名省略)

(「津久井町史 資料編 近世2」123ページより、次の注も同じ)


「津久井町史」では、この文書に見える「きのこ山」について

きのこ山 元禄年間(一六八八〜一七〇四)「津久井領諸色覚書」には、かなだて松茸山・神ノ川松茸山、天保年間(一八三〇〜四四)『新編相模国風土記稿』では、釜立山・神之川木之子山とし、二か所の御林を記している。

と注を付し、更に「通史編 近世・近代・現代」で「風土記稿」の「香蕈」の記述を取り上げて「それにちなんだものだったのかもしれない」と記しています。また、鳥屋村にも「松茸山」があり、これも同じく「きのこ山」だったのではないか、と解釈しています(以上210ページ)。

この考察の通りなら、この地域での椎茸の生産は江戸時代の比較的早い時期から行われていたことになりますが、当初は「半栽培」でさえなく自生するものを採集していただけだったかも知れません。また、「きのこ」という名称では必ずしも椎茸に限定されていたのかもはっきりしませんが、前回取り上げた様に、椎茸が比較的識別しやすいと考えられていた点では、「きのこ山」で産出するきのことして考えられる候補としては椎茸が最有力ということになるのでしょう。

もっとも、荒川番所に運上金を納めていたと記すにしては、これらの村で収穫された椎茸に対して、領主が何らかの貢税を課した痕跡が、同村や津久井県全域に伝わる明細帳上に見出だせないのが気になります。また、この2点の史料と「風土記稿」の記述以外に、江戸時代の相模国の椎茸生産を裏付けるものが見つけられませんでした。無論、未公開・未発見の文書に当時の椎茸について何らかの情報が盛り込まれているものがまだあるのかも知れませんが、私が調べることが出来た範囲ではこの2点が全てでした。これまで見てきた様に、足柄上郡・足柄下郡や津久井県の様な山がちな村々には漆や柿渋をはじめ、様々な産品に貢税が課されていました。そうした中で椎茸が貢税を免れていたのは、いささか不自然です。

更に、文政9年(1826年)3月の「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」には

一土地相応之産物 蚕・麦・小麦・粟・稗芋ニ御座候、

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 449ページより)

と記されていて、同村の産物として挙げられている品目中には椎茸を意味するものが含まれていません。この「地誌御用取調書上帳」とはまさに「風土記稿」の編纂の初期の段階で各村から提出させ、昌平坂学問所が現地での地誌探索を行う手掛かりとした文書です。そこに椎茸を意味するものが記されていないにも拘らず、完成した「風土記稿」では田代村が椎茸の産地の1つとして挙げられている訳です。そうなると、どの様な経緯で昌平坂学問所が田代村を椎茸の産地の1つとして挙げるに至ったのかが、江戸時代の相模国の椎茸生産を考える上では課題になってきます。

そこで、もう少し時代を下って明治時代以降の史料も点検してみることにしました。まず、例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」では、相模国域からは「足柄上郡矢倉澤村」から「香蕈」が出品されたことが確認出来ます(他に武蔵国多摩郡域と横浜で仕入れられた遠州の椎茸が出品されています)。そして、この矢倉澤村の椎茸は花紋賞を受賞しており、

品質厚くして香氣强し眞に上等の香蕈なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と高く評されています。矢倉澤村は「風土記稿」では椎茸の産地としては挙げられていませんでしたから、「風土記稿」の完成以後に生産を始めたのでしょう。それに対して、「風土記稿」で挙げられた6村の名前は「第1回内国勧業博覧会」の出品者の中に見出すことは出来ませんでした。

一方、明治初期に手掛けられて未完に終わった「皇国地誌」の残稿のうち、愛甲郡田代村の分に「物産」の項があり、そこでは明治9年(1876年)の調査結果が網羅的に記されています。実はこの一連の「皇国地誌残稿」では、少なくとも神奈川県下で残っているものに関する限り、その大半で「物産」の項が空欄になっていたり欠落したりしているため、これまで私が「風土記稿」の産物を検討する際には殆ど参照してきませんでした。空欄化しているのは恐らく、元から物産の項には別途行われた産物調査の統計を転用する予定であったからで、この田代村の稿はそれが実施された時の状態が表されていることになります。実際「風土記稿」で挙げられた椎茸の産地の6村のうち、「皇国地誌」が残っているのは田代村の他には宮ヶ瀬村、煤ヶ谷村、角田村ですが、この3村については後欠などによって「物産」の項が含まれていません。

この田代村の「物産」では、単に農産物だけではなく、草鞋や釘、鍬といった道具類までおよそ村で1年間に生産された全てのものが入っていると見られ、しかもその終わりには

但大抵村内各家の自用に消費す 其内繭絲織物竹木薪炭米穀茶川魚等は武州八王子驛及高座郡上溝村或は東京厚木町等へ輸送す

明治九年一月一(ママ)調

(「神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻)神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 604ページより)

と、村外へと販売されたものだけではなく村内で自家消費するものまで含んだことが付記されています。しかし、その様な一覧であるにも拘らず、この中には「椎茸」を意味するものが含まれていません。この明治9年の調査の質によっては遺漏の可能性もないとは言えませんが、素直に受け取ればこの年の田代村の椎茸の収穫はゼロであったことになります。「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」の記述と合わせると、あるいはこの村の椎茸生産はあまり継続的なものではなかったということになるのかも知れません。

更に時代を下って、大正14年(1925年)に著された「愛甲郡制誌」(愛甲郡教育会編)では

木炭燒製の外樹皮、柴草、蔓、椎茸、山葵等の產出も相當ある其の產額は別表に示す通である。

(千秋社1987年復刻版 209ページより)

と、椎茸を山野の産品の有望な品目の1つとして挙げています。しかし、その別表である「林野産物 大正十二年現在」では「椎茸(乾燥シタルモノ)」の生産高が「六八斤/二二〇円」と記されています。同じ表では」柴草(生ノモノ)」は「七〇、〇〇〇貫/二、一〇〇円」となっており、柴草の方が生産高が遥かに大きくなっています。

この傾向は「足柄上郡誌」(大正12年・1923年 足柄上郡教育会編)でも同様で、

林產物の主たるものは木炭にして年額二十五萬圓餘に達す、產地としては三保村を第一として寄村、北足柄村、淸水組合之に次ぐ。其の他杉、扁柏松等なり。以上の外食用品としては椎茸山葵の栽培を奨勵しつつありて北足柄村神繩村淸水村寄村方面に栽培せられつつありて、其の成績も亦良好なり。

(名著出版1975年復刻版 356ページより)

とやはり椎茸を奨励しているとしながら、大正10年の統計では「菌類 椎茸 一五七斤 一三二圓」に対して「柴草 一一、二五〇〇(ママ)貫 一、七八六圓」と、椎茸の生産高は柴草に遠く及ばない量に留まっています。

実は神奈川県の林業統計で椎茸の生産量が記録される様になるのは戦後間もなくになってからで、それ以前の椎茸の欄は何れも空白になっていました(「神奈川の林政史」神奈川県農政部林務課編 1984年)。今の椎茸栽培ではホダ木に種菌を植え付けて繁殖させる方法を採りますが、こうした手法が開発され始めるのは明治の末頃から、現在と同じ手法が編み出されたのは昭和18年(1943年)まで時代を下ってからです。つまり、こうした技術開発が進んで各栽培家に普及してくるまでは、椎茸栽培の成果がなかなか上がらなかった訳です。上記の「愛甲郡制誌」や「足柄上郡誌」の統計はそうした状況を示しており、各地で期待はかけられていても、質はさておき量の面では乏しいものだった、と言って良いでしょう。

そうなると、翻って江戸時代の「風土記稿」に記された各村の椎茸生産についても、少なくとも量的にはあまり多くを期待できないものだった、と見る方が良さそうです。ここまで「農業全書」に記された様な江戸時代の椎茸の生産を「半栽培」と書いたのは、当時はまだ椎茸をはじめとするきのこが胞子で増える菌類であることが理解されておらず、飽くまでも椎茸が生えそうな木を伐ってきて湿気に晒す方法しかなかったことを反映する意図でした。この様な技術的な制約がある中では、安定した収量を確保するのはやはり困難であったのでしょう。それであれば、領主が椎茸に対して何らかの貢税を課さなかった理由も説明が付きます。

もっとも、そうした状況にあっても江戸の商人が14両の「山代金」を払ってでも鳥屋村に椎茸の栽培を依頼した事実からは、そこまでしてでも椎茸を確保したかった意図が感じられます。私見ですが、丹沢の山奥に位置する村にこうした依頼が来た理由は、恐らくは江戸からの「近さ」にあるのではないかと考えます。「本草綱目啓蒙」では他にも産地は各国にあるとしながらも、椎茸の名産地として紀州熊野の名を挙げていました。「日本山海名産圖會」では

香蕈(しいたけ) …

日向(ひうが)の産をを上品とす多くハ熊野邊ゟも出せり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、変体仮名は通常のひらがなに置き換え、ルビは一部を除き省略、…は中略)

と、熊野の他に日向産を良品としています。何れも江戸からは遠く、特にこれらの地域から生椎茸を江戸に届けるには、陸路、海路何れでも日数が掛かり過ぎて相当に難しかったでしょう。

これに対して、丹沢の山中からであれば、荒川番所の通過などにかかる時間を考えても一両日程度で江戸に届けることが可能ですから、そういう地域で少量でも生椎茸が出れば江戸で希少品として商売する機会が望めます。依頼主の「江戸両国和泉町 豊田屋安右衛門」については詳しいことを掴めませんでしたが、恐らくはその可能性に賭けたのではないかと思います。「風土記稿」に記された各村についても状況は似たようなものだったのではないかと思われます。もっとも、約40年後の「風土記稿」には鳥屋村の名前が椎茸の産地としては挙げられなかったところを見ると、その「賭け」の成果もあまり思わしくなく、結局撤退を余儀なくされたのかも知れません。他方、「風土記稿」に青根村の名が載ったということは、そうした中で比較的継続的に椎茸生産が行われていたことになります。

こうなってくると、「風土記稿」が何故こうした品目を相模国の産物の1つとして挙げたのかが疑問として浮かんできます。その裏打ちになりそうなものとして、以前桃を紹介した際に取り上げた、八王子千人同心の塩野所左衛門轍(適斉)が編んだ「津久井県紀行詩集」(天保6年・1835年)を確認してみました。あるいは彼の賛美した光景の中に椎茸生産の様子が入っているかも知れないと推測したためです。その「青根山」の項では

大室(オゝムレ)山頭高萬尋、暮春三月雪猶㴱、西北都留南足柄、更雙州タリ百岑

青根村最是山村也、官山釜立山・神之川・子山矣・高峰ニハ袖平峯・君谷峰・切橋峰・糠又峯・及沢塞山・神之川山・燒山嶽等、総青根山、最タル者謂太室山、南足柄上郡、西神之川、続甲州都留郡道志村、巽鳥屋村、联、北牧野横峯亘峯、実山村

(八王子史談會翻刻版 1928年 39〜40ページより、送り仮名を上付、返り点を下付文字にて表現、強調はブログ主)

と、「木の子山」の名前を挙げていることから、「津久井町史」の指摘するこの山の名称については塩野適斉が伝え聞いていたことは確かです。また、この村が周囲を高い山で囲まれた只中にある様に感銘を受けていることも窺えます。しかし、青根村で産する椎茸についての記述はありませんでした。

八王子千人同心の一行が青根村での椎茸生産について何らかの情報を得たのは、恐らくはこの地に地誌探索で訪れた折である可能性は高そうですが、それを具体的に裏付けることは今のところ出来ていません。ただ、他の郡に先行して完成し、昌平坂学問所に届けられた八王子千人同心の手による津久井県の稿が、その後の昌平坂学問所の地誌編纂に際して多少なりとも影響した可能性は考えられ、青根村以外の5村の椎茸生産についても、津久井県の稿を点検した後に調べ直して追記したのかも知れません。田代村の書上には入っていなかった椎茸生産が「風土記稿」では書き加えられたのも、そんな影響によるものではないかという気がするのです。「風土記稿」に取り上げられた産物の一覧を考える際には、そうした経緯も加味して見る必要があると言えそうです。
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