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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その3)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回も継立について取り上げつつ、それ以外の沿道についての記述を見ていきます。



相州鶴間・武州鶴間の位置
相州鶴間・武州鶴間の位置関係
継立場の位置が確定出来ないため
ここでは仮に、武州鶴間側は「日枝神社」付近に
相州鶴間側は「鶴林寺」付近にマーカーを置いた
両者の距離は約1km
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
長津田まで途中の継立場を「継ぎ通し」ながら荷物を運んできた武四郎一行は、一転して比較的短い距離を継いでいきます。史料によって記載されている距離に多少幅がありますが、長津田から相州鶴間までは、「相州青山往還宿々控帳」(下記参照)に従うと1里10町(約5km)、武州鶴間から相州鶴間の間は、「新編相模国風土記稿」に従うと何と僅か5町(約550m)しかありません。この場合、長津田から武州鶴間の間は差し引き1里5町ということになります。但し、「日記」は8町(約880m)と記しています。何れにしても、国境を挟んで同じ名前を名乗る隣村同士だけに、村の中心となる集落同士でもさほど距離がないのは自明のことです。


この武州鶴間と相州鶴間との間の継立については、天保12年(1841年)に成立した「新編相模国風土記稿」に、次の様に馬と人足の場合によって継立場が異なることが記されています。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


武四郎は「日記」に継立の事実を示すのみで、その経緯などについては何も記していません。しかし、武州鶴間から相州鶴間の間の道筋には取り立てて急な坂などはなく、2つの村の間を流れる境川にも橋が架かっていて、荷運の困難となる要因がこれと言って見当たりません。その様な道筋で、こんなに短い区間で荷継が繰り返されるとなれば、その都度荷物の受け渡しや馬の載せ替え、更には駄賃の支払いが必要になるなど、荷主には要らぬ手間が増え、所要時間が長くなるなどの不便を強いられることになります。前回見た通り、この道中では武四郎の荷物を継立人足に運ばせていた訳ですから、荷主として多少なりとも違和感を感じていてもおかしくありませんが、「日記」にはその様な記述は一切ありません。

何故これ程までに短い距離を継ぐ様な運用が行われていたのでしょうか。ここでは「日記」を一旦離れ、他の史料を2点ほど見て、この2つの村の継立に何が起きたのかを類推してみたいと思います。1点めは、前回も一部引用しましたが、享保14年(1729年)の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページ)です。この史料は武州鶴間側の当時の名主家に伝わる文書で、相州鶴間が武州鶴間を相手取って訴訟を起こした際の一連の顛末が、双方の書状や裁許状などの写しによって明らかにされています。長大な文書ですので全文をここに掲載することは出来ませんが、裁判の経緯を掻い摘んで記せば、次の様になります。

  • 訴訟を起こした時点では、矢倉沢往還の継立を務めていたのは相州鶴間のみで、武州鶴間は務めていない(と、相州鶴間側が主張する)。
  • これに対して、当時何も夫役を担っていない(と相州鶴間側が主張する)武州鶴間にも継立役を負わせるべきとするのが相州鶴間側の主張。
  • 武州鶴間側は、既に武州木曽の定助郷を勤めており、また相州鶴間や長津田には歩行人足を出しているのだから、武州鶴間を無役とする相州鶴間側の主張は間違っていると反論。
  • 武州鶴間側の証人として武州木曽の名主が呼び寄せられ、武州鶴間側の主張通り、同村の定助郷を務めていると証言。


木曽一里塚碑
相州淵野辺村から境川を渡った先に位置する
府中方の小野路にも一里塚碑が残る
ストリートビュー
「今昔マップ on the web」で
同地の地形図の変遷を見る
武州鶴間が武州木曽の助郷を務める様になったのは、徳川家康の没後の元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へ遷座する際に、後の府中通り大山道を通過した時のことであることが、武州鶴間の反論でも、武州木曽の証言でも触れられています。武州鶴間から木曽までは直線距離でも8km以上も離れており、かなり遠方の村々まで助郷に駆り出されたことになりますが、この遷座の際はかなり大掛かりな行列を組んでいた関係で、隣接する村々だけでは人馬を補えなかったために、多少遠方の村にも助郷の要請が行ったのでしょう。その時の縁で、その後も木曽まで助郷を務めに行っていたことが、武州鶴間が矢倉沢往還の継立を拒否する根拠になっていた訳です。


また、武州鶴間は反論に際して自村を矢倉沢往還の「間の村」と表現しており、長津田や相州鶴間にも人足を出していると書いています。つまり、この時点では正式な「継立村」ではなかったことになります。この人足の出し方が、既に継立に近い運用であった様にも読めるのですが、何れにせよその様な事実があったとすれば、相州鶴間はその事実に目を瞑って訴訟を企てたことになり、その「勝算」を何処に見込んでいたのかが気になります。

こうした双方の申し立てを受けて、幕府の道中奉行や勘定奉行、更には江戸町奉行に寺社奉行が加わって、総勢10名の奉行が下した裁許は次の通りです。武州鶴間側の言い分が全面的に認められ、相州鶴間の訴えが退けられる判決となりました。

右御吟味被成候処、訴訟方相州鶴間村ゟ相手武州鶴間村ヲ一村之様申立、馬継不仕由申上候得共、相州・武州と国を隔候得、往古一村ニ而候とも、別村分り伝馬継候儀其所之例ニ而、古来ゟ相州鶴間村伝馬を継キ、武州鶴間村木曽村定助勤、其外江茂歩行人足継キ来り候間、訴訟方鶴間村申所難立、不及御沙汰候由被 仰聞、御尤に奉存候、依之有来り候通相州鶴間村伝馬継いたし、武州鶴間村定助・歩行人足(ママ)格〻可相勤旨被仰渡、双方奉畏候、右被仰渡候趣相背候ゝ、御科可被 仰付候、為後証連判一札差上ケ申所仍如件、

(上記書316ページより)


興味深いのは、ここで相州鶴間は武州鶴間とは元は1村であったという主張をしており、奉行もひとまずはその由緒を吟味した痕跡が見られることです。鶴間郷がやがて境川を境に分かれていった事情については、かつて武相国境を検討した際に少々検討しました。戦国期には既に別々の村となり、それぞれの領主によって収められていたであろうと考えられる鶴間が、享保の頃まで時代が下っても、なお奉行の面前でこの様な由緒を自村の主張の補強のために使っていたことになります。かつて同じ村であったという「義理」もあるのだから、ということになるでしょうか。自村の主張を少しでも正当化する意図が垣間見得ます。そうは言っても、享保の頃には既に別の村に分かれて独自の活動を行って久しいことが認定されてしまい、主張は認められずに終わるのですが、村のこうした由緒が時代が下っても影響を及ぼしていた一例と言うことが出来ます。

一方、相州鶴間としてはかなり無理のある訴訟であったにも拘らず、江戸の奉行所まで通う労力を掛けてでも敢えて訴えを起こすだけの動機があったことになります。それはひとえに、継立にかかる労力負荷が重荷になっていたということに尽きるでしょう。相州鶴間の継立は矢倉沢往還の東西方向だけではなく、八王子道の南北方向も担っていました。ですから、必ずしも矢倉沢往還だけの輸送需要だけのことではないかも知れませんが、2本の道の継立のために人馬を出す負担が過重になっていたからこそ、武州鶴間にも歩行人足を出すだけではなく、より本格的に継立役を分担して欲しいと考えた筈です。

当然ながら、その背景には矢倉沢往還の継立に対して、当時既に相応の輸送需要が存在していたことになります。その点で、この享保14年の裁許の一件は、当時の矢倉沢往還の継立の実情の一端を窺わせる史料であると言えます。

しかし、訴訟によって相州鶴間の訴えが否定されてしまったことで、武州鶴間はそれ以降も「継立村」となることはなくなった筈です。奉行の裁許が出たことを考えると、少なくとも相州鶴間側からこれを覆すのはかなり困難なことになったと考えられます。



次に、「新編相模国風土記稿」成立の3年前に当たる天保9年(1838年)に作成された「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307〜310ページ)には次の様に記されています。


人足之義

前鶴間ゟ向鶴間迄賃銭八文請取継立仕候、馬長津田ゟ向鶴間迄附越候、

(上記書307ページより、字下げも同書の文字数に従う)


ここで「前鶴間」と書いているのが武州鶴間、「向鶴間」が相州鶴間を指しています。一見すると、この記述は「風土記稿」とほぼ同様の運用を記述している様に見えます。しかし、上記引用箇所の少し手前で、長津田の次の継立場については

相州鶴間迄壱里拾町

と記しており、相変わらず長津田から相州鶴間に継いでいた様にも読めます。つまりこれだけだと、武州鶴間から相州鶴間の間だけ継立を請け負っている様にも読めてしまいます。その点で、この文書の記述は相互に若干混乱している様にも見受けられます。

この文書が写しであることから、原本の記述がどうであったのか、精確なところを読み取るのは難しくなっています。しかし、記述の整合性が今一つ綺麗に均されていない様に見えることから、この「人足之義」のくだりは後から追記された可能性もあると考えられます。それであれば、その際に「相州鶴間迄壱里拾町」の一文は訂正を入れ損ねたものとも読み取れます。

こうした混乱からは、武州鶴間が増え続ける矢倉沢往還の継立に対して引き続き人足を出し続けてはいたものの、飽くまでも享保14年の裁許に則って対応していたことが窺えます。つまり、この時点でも武州鶴間はまだ「間の村」という認識でいたのかも知れません。ただ、「新編相模国風土記稿」の「下鶴間村」の記述では、継立先について特に表現が分けられている訳ではないので、「武州鶴間」も継立村の1つであるかの様に見えているということが言えます。

「日記」に話を戻すと、武四郎の武州鶴間と相州鶴間の記述では、継立場の規模等に差異があった様には見えません。実際には相州鶴間の方が八王子道の継立も請け負っていた関係で武州鶴間より多少なりとも規模が大きかった筈ですが、こうした記述になったところから考えると、武州鶴間の継立場も「間の村」が片手間にやる程度のものではなく、実質的に常設と見える様な風情の場所で運用がなされていたのかも知れません。

因みに、矢倉沢往還を往来する「大山詣で」の参拝客が増加してきたのは、大山講が隆盛した江戸時代の中期頃、宝暦年間以降と考えられ、享保14年の裁許よりは後年のことになります。「日記」では、武四郎は武州鶴間、相州鶴間とも「茶店」が存在したことを記していますが、武州鶴間も増大する「大山詣で」の参拝客を無視出来なかったことが窺い知れます。

また、相州鶴間には旅籠が数軒あった筈なのですが、、武四郎はその存在を記していません。見逃してしまった可能性が高いと考えられますが、一方で明治元年に「神仏分離令」が発令された影響で大山講も大きな影響を受けていましたから、沿道の宿泊施設もその動向を見極めて店仕舞いするなどの動きがあった可能性もあります。これも他の史料との照合が必要な箇所と言えるでしょう。



ところで、事情は定かではありませんが、武四郎はこの道中ではかなり先を急いでいた様です。日程を見ると、あるいは東京から京都へ還幸していた明治天皇が、何時再び東京へ行幸することになるのかわからなかったからとも思えますが、「日記」の文面からは当の武四郎にさほど「焦り」を感じるのが難しく、彼にとっては別段普段通りのペースで進んでいたのかも知れません。

「日記」には長津田で昼食を摂ったことが記録されています。初日の宿泊地は厚木ですが、赤坂からの距離は途中の経由地によっても変わって来ますが概ね12里以上になります。東海道を進んだ場合には初日には精々戸塚辺りで宿泊するのが通例であったことと比較すると、相模川を初日に越してしまう武四郎の行程は、当時としてはかなりの「強行軍」と言えます。因みに、赤坂から長津田までは8里あまりもあり、この日の行程の半分以上を進んでおり、厚木の渡しを渡る頃には日が暮れていますから、冬場で日が短いことを考慮しても、長津田での昼食は幾らか遅い時刻になった可能性はありそうです。

以前このブログでも何度か取り上げた渡辺崋山の「游相日記」(天保2年・1831年)では、途中宿泊した折に主人と深夜まで酒を酌み交わして翌日は遅く出発したこともあって、1日に進む距離が短くなり、荏田と下鶴間で宿泊したことが記されていますから、「日記」とは極めて好対照な道中だったと言えるでしょう。

武四郎の道中が日程的に余裕がないものであった分、道中の周景の描写は比較的薄めになったのではないかと思われます。自宅を出てから相州鶴間に到着するまでの間の記述には、各継立場の簡単な様子と脇道に関する記述が出る程度で、周辺の田畑や作物についての記述は一切現われません。相州鶴間に着いた所で初めて

地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。從是小松原、大松原等有中を正面さして一筋道。見むきもやらず左右處々に畑も見ゆれども何れも芋麥のよし也。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより)

という、周辺の田畑についての記述が現われます。

地味の良さは人足から伝え聞いた可能性もありますが、冬場で休耕中の田畑が多い分、土の状態が見えやすかったということかも知れません。食べているものが良くない様に見えるというのは、茶店などで休憩している旅人の皿の上を見たのでしょうか。麦は冬を過ごさせるものですから実際に栽培されているものを見ている筈と考えられますが、やはり冬場では栽培されているものも乏しいことから、同行する人足に話を訊いたのでしょう。

鶴間以西の矢倉沢往還
鶴間以西の矢倉沢往還のルート図に
数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの
矢倉沢往還のすぐ南側に引地川源流地が見えるほか
かつての谷戸と思しき窪地が南北方向に何本も並んでおり
何れも矢倉沢往還の近くに端を発しているのが窺える
矢倉沢往還の走る辺りが
相模原台地の地下水が地上に現われ始める地帯に
相当していることがわかる
(「地理院地図」上で作図したもの
をスクリーンキャプチャ)
相州鶴間の水田は境川と支流の目黒川沿いに集中しており、その西側は相模原台地の上に当たり、水田に必要な利水が確保出来ないために、畑が大きく広がっていました。「大和市史4 資料編 近世」のまとめるところによれば、下鶴間村の村の水田14町7反3畝2歩(約14ha)に対して畑が74町1反9畝12歩(約74ha)あり、全耕地面積の8割以上を畑が占めていました(35ページ)。更に、村の西側は「相摸野」の南端が大きく占め、「鶴間野」などとも呼ばれるこの地は、西隣の栗原村に差し掛かる地域まで入会地となっていました。

「日記」の記述は、基本的にはこうした土地利用の実状をよく反映していると言えます。「小松原」「大松原」とあるのが、武四郎の見た「相模野」の描写ということになるでしょう。とは言え、やはり先を急ぐ道中では周囲に細かく目を配るほどの余裕はなかったと思われ、まして土地勘のない村の実状について掘り下げたことを書くのは無理なことであったでしょう。人足が相手では、聞き出せる村の実情についての情報も、限られたものになってしまうのは避けられないところです。

この点は、崋山の「游相日記」と比較するとその違いが良くわかります。彼の道行きの目的の一つは、その途上の農産物などを視察することにありました。その分、武四郎に比べれば「相模野」についての予備知識もありましたし、前日までの道中に現地の人々に訊ねて仕入れた情報も持っていました。その分、武四郎の「日記」の記述よりも一歩踏み込んだものになっています。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

鶴間原出づ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よつて、柴胡(サイコ)の原ともよぶ。諸山いよいよちかし。

(「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)所収、327ページより)


崋山はこの地域の養蚕についてとりわけ関心を持っていたことが、桑と山桑(柘)の違いについて具体的に記しているくだりからも窺えます。また、別の場所で長津田や鶴間が養蚕を行っていることを記していることからも、この地が養蚕に積極的に取り組んでいることを知った上で周囲の様子を見ていると考えられます。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via
ウィキメディア・コモンズ.)
そして、崋山自身が俳諧に精通していたこともあり、「相模野」が「柴胡が原」とも呼ばれていることは承知であったのでしょう。崋山が旅した天保2年9月22日(グレゴリオ暦:1831年10月27日)はミシマサイコの花期(概ね8〜10月)としてはほぼ終わり頃で、運良く道端で咲く柴胡の花を見られたかどうか微妙なことから、「柴胡多し」の記述を字義通りの目撃情報として受け取るべきかどうかは一概に言えませんが、少なくとも崋山が「相模野」に差し掛かった折に「柴胡が原」のイメージを重ねて見ているのは確かでしょう。

武四郎は、道中通過する地域についてのこうした予備知識は、持ち合わせていなかったのでしょう。また、桑は冬場には葉を落とすことから、周囲に桑を植えている家や畑があることに気付き難い季節だったことは考えるべきかも知れません。もっとも、武四郎が人足との会話で比較的裕福な村であると知らされた際に、継立や養蚕など村の経済の支えになり得る稼業について話題にならなかったのかという点は気掛かりです。特に養蚕は、幕末の開国後にそれまでの幕府の方針が転換されて積極的な推進・援助策が打ち出される様になっており、天保の頃とは違って憚りなく取り組むことが出来る環境になっていた筈です。しかし、「日記」には養蚕については触れられずに終わっています。あるいはこうした産業には、武四郎の興味が向かなかったのかも知れません。



今回は結局鶴間周辺の記述についての分析で終わってしまいました。次回はもう少し先に進みたいと思います。

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上鶴間村以北の滝山道(その2)

滝山道の話は(その1)を書いてから随分と間が開いてしまいました。なかなかその先を調べる手掛かりが見つからないからなのですが、今回の継立の件を書いて一旦保留ということになりそうです。

前回も引用した「新編相模国風土記稿」の下鶴間宿の記述を改めて引用します。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


滝山道の方は前回見た通り引き続き相州高座郡内の各村々を通り抜ける道筋となっていました。しかし、それらの村々の中には継立の行き先である「武州多磨郡原町田村」はありません。つまり、継立はここで滝山道を離れ、境川を渡って武蔵国へと一足先に入ってしまうことを示唆しています。実際、「風土記稿」の各村々の記述では、何れの村も継立を行っていたとは記していません。

下鶴間→原町田の継立道
下鶴間→原町田の継立道
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込み加工したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
前回嘉永7年(1854年)の道標を兼ねた庚申塔のある三叉路を紹介しましたが、継立はここで東側の道へと進みます(「大和市史」第2巻第2編第4章「村の古道」による)。この先の道筋は「迅速測図」に描かれた道筋から判断すると、境川に沿って現在の鶴間橋まで降りてきたところで境川を渡り、その先で現在の都道56号線の道筋に沿って原町田へと向かいます。横浜線の開通に伴って道筋が分断されたため、現在の都道56号線はその手前で右折してしまいますが、かつての道筋はそのまま横浜線の線路に突き当たるまで残っており、横浜線を越えた先の細い路地を経て現在の都道47号線の道筋へと合流して原町田の継立場に入った様です。以上の道筋を「ルートラボ」上で描いてみたのが左の地図です。

さて、ここで問題は大きく分けて2つあります。1つは「継立はこの先何処で馬を継いだのか」という点です。そしてもう1点は、江戸時代の継立が当初からこの道筋を使っていたのか、変わったとすればそれは何時頃からで、何故なのかという問題です。「新編相模国風土記稿」は「八王子道」の継立と示唆していますから、何れにしても最終的には八王子方面へと送り届ける荷物を継いでいたと思われますが、その荷物が「八王子道」を進まずに別の方角へ向かったとすれば、何故その様な状況になっていたのかが課題です。

原町田村は現在のJR横浜線及び小田急線の町田駅周辺を中心とする地域で、現在は「町田駅」と称しているJRの駅も明治41年(1908年)の横浜鉄道開業の頃は「原町田」という名称でした。


原町田村は戦国時代には北の本町田村と1村で「町田村」と称していましたが、後に分村したことが「新編武蔵風土記稿」に書かれています。この「新編武蔵」では、原町田村で定期市が開かれていたことが記されています。

村の中央に東西へ通ずる街道あり、これを神奈川道と云、長八九町ばかり、又南北への往來あり、これ江戸への道なり、村内を經ること凡五町なり、…民間五十八軒、村の中央なる町の内に軒をつらぬ、土人農隙には男は薪を伐いたし、又は黑川炭を燒く、女は蠶を業とし、木綿糸を繰る、これらの物を每月二の日ことに村内にて市をなし、近鄕の人輻湊して賣買せり、

(卷之九十 多磨郡卷之二、雄山閣版より、…は中略)


「新編武蔵風土記稿」は「新編相模国風土記稿」と同じく昌平坂学問所の手によって編纂されたもので、起稿されたのは文化7年(1810年)、完成は文政13年(1830年)と実に20年もの歳月がかかっています。「新編相模」はそれに引き続いて編集が始められたのですが、恐らくはその間に編集方針が見直されたのでしょう。2つの風土記では記載されている項目に多少差があります。その違いのうち特に目立つのが街道や継立にまつわる記述で、「新編相模」の方では当時の相模国内の継立網をかなりの程度まで追うことが出来るレベルで記述されているのに対し、「新編武蔵」の方では残念ながらこうした網羅性が目指されておらず、特に脇往還の継立については記録されていない所が数多くあります。この原町田村もその1つで、「新編相模」では下鶴間村からの継立があると指摘されているにも拘らず、それを継いだ原町田村の記述にはその点が含まれていません。このため、下鶴間から原町田へと継がれてきた荷物が次にどちらに向けて送られたのか、わからなくなってしまっています。

先日紹介した「八王子千人同心の地域調査―武蔵・相模の地誌編さん―」(2005年 八王子市郷土資料館編)には、「新編武蔵」の地誌捜索に際して各村々に宛てて書上を提出する様に依頼した際に、どの様な項目について書くべきかを指示した「地誌捜索問目」が掲載されています(37〜39ページ)。言わば地誌書上の「テンプレート」なのですが、凡そ70あまりに及ぶ項目の中には

一村内 何方より何方迄の往来道有か、或ハ何地より何地江の伝馬継有か 継送ハ当村より何村々迄道法何里 但横道江継立候場所ともニ訳

(同書38ページ上段)

と、書上の項目として街道や継立に関するものも仔細に記述する様に指定されていたことがわかります。しかし、何故かこの項目の記述は各村で徹底できなかった様です。こうした状況が生じた理由についても今後改めて調べてみる必要はありそうです。

ただ、この「新編武蔵風土記稿」の「多磨郡」の部は先日も触れた通り八王子千人同心が地誌捜索を担当した郡の1つに当たります。そして、その草稿の一部が八木家文書として残っており、その中に原町田村の草稿も含まれていました。幸い、町田市域の草稿の翻刻が自費出版されていましたので、そこから原町田村の街道に関する記述を抜き出してみます。

街道 東より西するの一路 西森村野内にかかる事凡八九町にして 東金森村に至り神奈川往還なり △道巾九尺許 但原町田宿ノ内道巾ハ拾間許

南より北するの一筋ハ村内を経る事 凡五町許 道巾九尺許 北本町田へ懸り江戸街道なり △道幅九尺許

(「翻刻 八木家文書に見る「江戸時代の町田」―「新編武蔵風土記稿」の草稿」矢沢湊 2008年 32ページより)



現在の原町田4丁目付近の「神奈川往還」
ストリートビュー
明治時代以降の開発で道幅は却って狭まっている
「道幅10間」というと約18m、現在でもこれだけの道幅があればかなり広い歩道と自転車専用レーンを伴った2車線道路か、4車線の車道を確保することが出来る程の広さです。江戸時代の東海道でも主要な宿場での道幅は精々5〜6間といったところですから、10間というのはそれを遥かに凌ぐ、当時の江戸市中でさえなかなか見られない道幅です。

この記述が草稿であるだけに、本当にこんなに道が広かったのかという疑問も湧きますが、こちらのブログには幕末に撮影された原町田の写真が載せられています。これを見ると、右手の高札や左手の馬を繋ぎ留めるための柱の位置と両脇の家並みとの間に広い空間が空いており、道というよりも広場の様な景観が写っています。一緒に写っている人馬の大きさから見ても、確かにこの草稿の記述の通りの道幅があったことが確認出来ます。ここは現在の原町田3丁目〜4丁目に当たり、かつてはこの付近が中心地であったことが窺えます。

もっとも、これは継立場としての必要性からと言うよりは、やはりこの地で定期的に行われていた市のための広場として設けられた空間と考えるべきでしょう。接続されている道が9尺(約2.7m)と、継立が運営されていた道筋としてはやや手狭なので、そこまでの通行量があったとは考え難く、その継立のためのスペースとしては、他の街道の例と照らし合わせると不必要に広いと感じます。

この原町田の市については、上記の草稿を翻刻された矢沢湊氏が次の様に解説されています。

原町田村の成立について、造形美術家・三橋国民氏の研究を要約すると、三橋一族(土方・夏目・山村氏)は古来定住していた琵琶湖東岸付近から、主家(足利・上杉氏)の鎌倉下向に従って移住した。その後、関東各地の騒乱により最終的に一族は山内上杉氏の重臣大石氏の滝山城―沢山城に拠った。そして小武士団の長(三橋氏の祖先・新右衛門)は「一族の永世帰農」を、北条氏照に請願して認可を得たあと、永禄の初め頃に町田の原野へ一族は定着して、荒れ地を開梱しながら開村したものと見られる。更に一族の総意によって浄土宗勝楽寺が永禄十年(一五六七)に創建された。

三橋国民氏御所蔵の「明和四年(一七六七)原町田村古代旧絵図之写」(寸法縦27cm×横115cm)がある。…絵図の中央を左右に街道が通る。左は八王子方面、右は神奈川方面である。この街道は古来「巽(たつみ)街道」とも呼ばれ実際は北西から南東に走るのである。原町田村にはこの街道に沿って上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)の小名がある。上は浄運寺付近から北西の部分・下は勝樂寺付近から南東の部分で、中は上下に挟まれた浄運寺の東端から勝樂寺の参道迄の間であった。この中が「但原町田宿ノ内道幅ハ拾間許」の所であり、その距離は約三丁(約330m)である。ここに原町田村の殆どの村人が住居を構えていた。

(上記書131ページ、…は中略)


また、別の原町田の歴史や写真を紹介した書物では、秣場を巡っての争議に際して提出された訴状に記された由緒等を引いて、次の様に説明されています。

本町田村で「二・七の市」と呼ばれる市場が開かれていたので、これを分けてもらって市場を開設しようとした。しかし本町田村では、原町田で市場を開設することを承知しなかった。そこでときの領主北条陸奥守の家老、永野中将に市開設の訴願をして幾度かの話合いの結果、やっと本町田は「七の市」原町田は「二の市」と二つに分けて開設するということで解決し、天正十四年(一五八六)から市場が始まることになった。この件に関しても先きの「連署訴状」に次の如く記載されている。

「殊一月ニ市六市立申候所ヲ新町之者ハ古来之田地本町田村ニ捨置罷出候間、市之義ハ此方ニ立可申卜申上、六市なから原町田村ニ立置申候処二、本町田村之もの共、市ヲ望存知、又々間之原ニ罷出八拾年先きのへ申ノ年山屋を取立市を立可申計略仕候間、原町田村より陸奥守様御家老永野中将殿之申上候様ハ原町田村並ニ而又々山屋を立候へハ、馬草取場も無御座迷惑ニ奉存旨、猶森村木曽村入合草刈り場之由、三ヶ村一同御訴訟申上候処、双方被召寄対決之上、本町田之者市を望申候間三市返シ候者、山屋をやぶらせ可申由被仰付候間、原町田村へハ月頭之市ヲ望三市取後市ヲ三市本町田村に返シ、七拾七年先丙ノ亥之年山屋を引せ候て、干今両町田ニ三市ツ、立来り申候、月頭之市原町田村之取申儀右之証拠にて御座候事」。

(「絹の道・原町田」森山兼光 1983年 武相新聞社 98ページより)

幕府の農村商業停止方針に対して、原町田村は農村ではあるが、しかし市を開催して商業地として繁栄しているので、農間商いをさせて欲しいという「許可願書」がある。天保十四年(一八四三)七月の「農間商ひ渡世に付原町田村申上書」だが、この文中に「往古より月々六度之市場御聞済ニ相成」と記されていることを基に推測すると、文政末か天保に入った頃に、今までの「二の市」に「六の市」を加えて回数を増やし「二・六の市」とし、毎月六回開催するようになったのではないだろうか。

(同書100ページより)


つまり、この街場は戦国時代までは本町田(原町田の北方)の方で市が月6回(2の付く日と7の付く日)定期的に開かれていたものが、原町田が開墾された後にその半分を譲ってもらう形で市が開かれる様になり、やがて市が街道筋にあることが効いてそちらに賑わいが移っていったことになります。それであれば、それ以前はこの街場はほとんど存在しなかったと言って良く、同地で当初から継立が行われていた可能性はかなり低そうです。

また、継立がその様な道筋を辿っていたのであれば、継立以外の旅人などの往来はどうであったのかという問題も出て来ます。亀井野下鶴間での様子を伝える際に引用した「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」(天保9年の道中記と推定されている)は「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に収録されていてものですが、金沢文庫に収められているこの道中記の全文の翻刻は未出版である様です。「史料集(31)」には下鶴間での宿泊までの部分しか収められていないので、その先については原本を当たるしかないのですが、幸いなことに横浜市金沢区の生涯学習グループの活動でこの道中記を読む勉強会を催した際の記録がこちら(リンク先PDF)に公開されていましたので、今回はこちらを利用させていただくことにしました。

これによると、下鶴間で一泊した一行は翌朝6時に出発し、そこから1里ほど進んだところにあった「ケ成ノ宿場(地名不覚)」(上記活動記録による)で休憩しています。この道中記の著者が地名を忘れてしまったということなのですが、「かなりの宿場」という表現から考えると、この地が「原町田宿」であった可能性が高そうです。また、「宿場」という表現は同地で継立が行われていたことを示唆している可能性が高く、それであれば「新編相模」では八王子道沿いの継立が下鶴間村の先では記録されていませんから、やはりそちらの道を進んだのではなさそうです。但し、上記の「風土記稿」の草稿でも「原町田宿」という表記が見られるものの、同地の農間渡世を書き上げた享和4年(1804年)の史料が「翻刻 八木家文書に見る「江戸時代の町田」」や「絹の道・原町田」で紹介されていますが、これには旅籠など宿屋であったことを示す稼業が含まれていないので、街道の拠点としては飽くまでも立場としてのみ機能していたのかも知れません。これらの稼業の中では「酒そば」が2名、「草履草鞋」が1名いるのが、道行く旅人を当て込んだ稼業ということになるでしょうか。

原町田を発った一行は次に「小山村」で休息して腹拵えをしています。もっとも、「名物饅頭・うどん等相用、その風味至って宜しからず。 」と、かなり不満足な昼餉であった様ですが。小山村は相模国・武蔵国双方に存在するため、この記述だけであればどちらに来たのかを特定することは出来ませんが、原町田村で休憩したということであれば、その先で神奈川往還を進んだことになりますから、昼食を摂ったのは武蔵国側の小山村であったことになるでしょう。


馬場橋の位置(Googleマップ
このすぐ東に「下馬場」交差点がある
そして、この小山村の域内に「馬場(ばんば)」という小名があり、現在も交差点に地名が残っています。更に、この交差点のすぐ南を流れる境川にも、「馬場橋」という橋が架かっています(「下馬場」交差点のすぐ西側)。ここは原町田からは8km弱(約2里)隔たっていますので、継立を行うとすれば丁度良い距離感です。ここから八王子まで更に10km程あり、山間を越えていく道筋になることを考えると、その間で更にもう1回馬を継ぐ必要がありそうですが、少なくとも地名との照合や、上記の道中記の記述を考え合わせると、この小山村で継立を行っていた可能性が高そうです。

但し、「新編武蔵」では小山村の項では村内を通過する街道についても、そこで行われていた継立についても、全く触れられていません。辛うじて小名の最後に「馬場」の名が記されているのみとなっています。先ほどの草稿には小山村の分が含まれていませんので、元から街道や継立について記述されなかったのか、それとも草稿にはあったものが割愛されたものかは不明です。

中途半端ですが今回は一旦ここまでとして、次回改めて江戸時代の滝山道の下鶴間以北の道筋について考えてみたいと思います。

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【武相国境】まとめ

ここまでかなり時間をかけて武相国境を辿って来ました。今回は当座のまとめをします。まず、関連記事をひと通りリストアップしておきます。





大筋として、前半は峠村の例外を除くと武相国境が相模湾と東京湾の分水界をかなり正確に辿っていたということ、その西側の柏尾川や、東側の大岡川の流路に地殻変動の痕跡を見出す話を中心に据えました。境木で武相国境が東海道と交錯することから、鎌倉街道から東海道へと道筋が切り替わる話を地形との兼ね合いで展開してみました。もっとも、この区間については律令時代や戦国時代まで経緯の掘り起こしが充分ではなかったと感じていますので、そこは今後の宿題にしたいと思います。

他方、後半は境川を武相国境が辿る様になった経緯を歴史的に追い掛けてみました。実のところ、文禄3年の検地を契機に国境が定まったとされているものの、それ以前の実情については私も今回まとめてみるまで今ひとつ釈然としない所が多く、今回自分でまとめてみて多少は理解が進んだかな、とは感じています。

もっとも、文禄の時点で良くわからなくなっていた律令時代の国境が、現代から見返して明瞭になるとしたらそれは文禄の時代に見落とされていたものがあったことになるので、それが具体的に見出されない限り、恐らく今後も「律令時代の国境は本当はどちらだったのか」という問いに答えが出ることはないと思います。今となっては「文禄時点で何故あの様な判断に至ったか」という問題を解くのが精々でしょうし、またそうすべきなのだろう、と考えています。



さて、ここまで見てきて、まだ私の中ではあまり上手く解けていない問題が2つ残っていると感じています。一連の記事のまとめの代わりにそれらを記して差し当たりの締めにしたいと思います。

1つ目は「峠村や境川の様な事例があったにも拘わらず、それ以外の区間では何故律令制の時代に引かれた国境が後世まで温存されたのか、あるいは維持されたと考えられているのか」という問題です。少なくとも、多摩丘陵内の国境が律令時代以降に変更されたことを伝える記録はありません。

無論、この区間は比較的明確に分水嶺を辿ることが出来る、という地形上の特徴はあります。それに比べると町田付近では分水「嶺」と呼べる様な明確なピークがなく、歴史的に辿ると小山田荘がその区域で境川筋までを所領としたと考えられることが、同区間の国境の混乱に手を貸したと思われるという説明をしました。しかし、それより西の小山・相原付近では境川の分水嶺は比較的明瞭で、そこが所領の細分化などによって国境に複数説が立つ状況となり、太閤検地を経て境川筋に国境が再定義されたと説明してきた訳ですが、では同様の状況が何故多摩丘陵内では起きなかったのかの説明がないと、片手落ちになってしまいます。

電子国土:武相国境柏尾川付近
柏尾川付近の武相国境。
各河川は国境から離れる方向へ流れる
私としては、これも地形面の特徴の違いから説き起こすことも一応可能だろうとは考えています。相模国内では相沢川よりも東の境川の各支流は大半が武相国境付近に端を発して国境から離れていく方向へ向かっています(北へ向かうほど国境と並行する所が増えますが)。武蔵国内の帷子川・大岡川の本支流についても同様のことが言えます。このため、分水嶺の他に付近に国境として有力な「線」がなかったと言うことが出来ると思います。

電子国土:武相国境相原付近
相原付近。境川と分水嶺が近接する
しかし、小山・相原付近では境川の分水嶺から発する支流が殆ど無く(一応ごく小さな沢はあるものの、現在では大半が暗渠になっています)、分水嶺と境川が比較的近い位置で並行して進むので、境界線たり得る「線」が並行していたことが国境の混乱の背景にあった…という言い方は一応可能だろうと考えています。

ただ、それが歴史上の事象にどう影響したかを具体的に挙げるとなると、事例が乏しいのが実情です。榛谷御厨が二俣川から保土ヶ谷にかけての帷子川流域に展開したらしいというというのが目ぼしい所で、その意味では榛谷御厨と国境を挟んで展開していたと思われる渋谷氏や俣野氏の所領について、あまり詳しいことがわかっていないのが厳しいところです。

また、律令時代の国境が近世に変更された事例を、武相国境以外から拾ってその変更の原因を比較してみることも重要と思います。

例えば良く知られている所では、江戸の街の拡張と利根川下流域の大規模な改修事業の進展に伴って、江戸時代初期に下総国の葛飾郡の一部が武蔵国に編入された事例があります。これなどは、元は武蔵と下総の辺境の地に過ぎなかった江戸の発展史を考える上では興味深い事例ではありますが、国境の変更という観点で考えると、江戸の拡張によって国境が変更に至った様な事例は他に類を見ないのではないかという気がします(私が不案内なだけかも知れませんが)。幕府の所在地でなければこの様なことは起こらなかったのではないか、ということです。

それ以外の事例としては、「境川(その6)」では「領域支配の展開と近世」(杉本史子著 山川出版社)にある児島湾の事例を紹介しましたが、こうした事例毎に原因を洗い出して整理することで、近世まで受け継がれた律令時代の国境がどの様な意味合いを持っていたのかを解き明かす切っ掛けに出来るのではないか、と思います。もっとも、私自身が他の地域の事例に不案内なので、現時点ではとてもそこまで手が出せませんが。



もう1つの問題は「そもそも、何故武相国境は相模湾と東京湾の分水嶺を綺麗に辿っていたのか」という問題です。今回の一連の記事で紹介した様に微視的に見れば、なるほど確かにこの筋に従って国境があったとしても不思議ではない様に思えてきます。律令時代にあっては口分田が集落の構成の重要なバックボーンになっており、それらが国郡制という枠組みの中でまとまっていく上では、灌漑などの関係で流域内の上流と下流の集落が関係を深めていくということは充分に考えられ、それが結果として流域単位のまとまりを生み出した…と解説が出来れば実に収まりの良い綺麗な説明が成立します。


甲相国境と相模川の交差する付近地理院地図


道志川と国境の交差する辺り地理院地図
しかし、実際は相模国内でさえ、国境は必ずしも流域界とイコールではない箇所があります。例えば、相模川の本流は甲斐と相模の境でその名を変え、その上流では「桂川」と称します。その名を変える地点に合流する川の名前は「境川」、甲相国境はこの合流地点から暫くの間、この境川を辿っています。


他にも、相模川の支流にも道志川をはじめ甲相国境と交差するものが複数あります。道志川では月夜野付近で川筋を国境が進む区間もあります。


相駿国境と鮎沢川の交差する付近地理院地図
また、その南では山北町内の世附(よづく)に端を発する世附川の流域界を国境が走り、甲相駿の国境が交わる所に「三国山」があるのですが、その世附川が現在の丹沢湖を経て合流する酒匂川(鮎沢川)は駿河国内、富士山麓に端を発し、現在の御殿場線駿河小山駅の東側で国境を越えています。この様な地形があるため、古くから箱根山を迂回するのにこの川筋が使われ、「矢倉沢往還」として今に伝わる訳です。勿論、旧東海道線である御殿場線もまた東名高速道路も、この地形を利用して箱根を迂回するルートを採った訳ですね。


武蔵国と上野国境付近。利根川筋を進む地理院地図
山深い地域の国境を武相国境の様な洪積台地の比較の対象にするのは相応しくないでしょうか。ということであれば、隣の武蔵国で比較しても良いでしょう。武相国境を別にすると、上記でも触れた様に下総国との境は東京湾に河口を持っていた利根川(現中川)でした。江戸時代に上記の様に国境が変わりましたが、国境の変遷先も江戸川(旧江戸川)ですし、今でも多くの区間で利根川の本流や分流を国境が走っていた痕跡を埼玉県境に見出すことが出来ます。関東平野ではむしろ利根川の様な大きな河川の畔の方が辺境化する傾向が強かったとさえ言えるかも知れません。

そして、改めて武相国境を眺めてみると、その両側に相模川と多摩川という、利根川ほどではないにしても比較的大きな河川が2本あり、特に多摩川の方は明治時代に至って東京府と神奈川県の境として使われる様になりました。つまり、近隣に国境になってもおかしくない規模の川があったのに、律令時代には相模川も多摩川も精々郡境となるに留まり、国境になったのはその間の丘陵地帯だった、ということになります。

では、何故相模川や多摩川は国境にはならなかったのでしょうか。個人的には、「相模川や多摩川は律令時代の土木技術でも何とか手懐けて周辺の土地を利用することが出来たものの、利根川流域はもはや手に追えなかったために律令制の中では辺境化してしまった」という線で説明する方向になるのではないか、と予想はしているものの、これもまた裏付けが乏しいところです。多摩郡が広大な未開の地を抱えていたにも拘わらず、多摩川の段丘上に当たる府中に国府が置かれているなど、多摩川の中流域が重用されていたことが窺える状況はあるものの、利根川流域について私がまだ不案内なので、そこまでの説明がまだ出来ません。寺伝に推古天皇36年(628年)の創建と伝わり、発掘調査でも奈良・平安時代の遺構が出土している浅草寺が武蔵と下総の国境に位置しているなど、反証になりそうな事例も考慮に入れなければなりません。

電子国土:相模国中心部
相模川下流に律令時代の国府・郡衙・寺社が集中する
相模国内の河川の多くは南流する
ただ、相模川に関しては、河口に近い大住郡に一時期国府があったと「和名類聚抄」に記録され(後に余綾郡に移ったと考えられている)、今でも一之宮(寒川神社)や四之宮(前鳥神社)が存在し、最近ではそこからそう遠くない位置に高座郡衙が発掘されるなど、ここが相模国の中心地であった証拠が多数存在します。海老名に相模国の国分寺が存在したことも、こうした「証拠」の1つに入れることが出来ますね。前鳥神社の付近で発掘された遺跡は大住郡に国府があった頃の関連施設と推定されていますし、海老名にも国府が存在したという説も存在しますが、何れにしても相模川本流を近傍に望む位置である点は共通しています。

また、高座郡は境川と相模川の間の台地に沿って南北に大きく伸びた形をしていますが、大住郡や余綾郡は比較的小さな郡にまとまっています。当時は一定の人数の集落を単位にしていましたから、人口密度が高い所ほど郡面積が小さくなる傾向にありました。つまり、律令制制定後の相模国にあっては、この相模川右岸の河口付近が最も人口密度が高かったことを意味しており、これも相模国の中心地であったことの傍証になり得ます。

相模川の西岸やその西側の金目川(花水川)の流域には、今でも水田が広く残っており、この広大な平野に早くから水田が開かれた可能性はかなり高そうです。裏を返せば、それに比べて細谷戸が中心でまとまった水田が出来難い多摩丘陵は、相模国の中心からは「扱い難い」土地と見做されていたのではないか、という気がします。

それでも、境川の下流や引地川、あるいは目久尻川などの相模川の下流で合流する支流は、何れも相模川と並行する様に南流する傾向が強いことから、陽当りが比較的良好でかつ利水に恵まれた土地がまとまっていると言えます。こういう地域が相模国側に属し、それより北側が武蔵国に属しているのは、何やら示唆的な感じもします。後に榛谷御厨を開拓する榛谷氏が牧の経営から身を起こした秩父氏の流れを引いているのも、もしかするとこの帷子川の流域に秩父の牧と地形面での共通点を見出したからなのかも知れません。

無論、これもまだ裏付けが乏しい中での私の想像に過ぎません。しかし、関東平野の南部にあって、周囲とは異なる丘陵内の分水嶺を辿るという武相国境の特徴は、その地形が過去の歴史に与えた影響を色々と考えさせてくれる、良い題材ではあると思うのです。



今回を以って「武相国境」のシリーズはひとまず終わりますが、今後新たに書き留めたいことが出て来た時に、その都度追記していきたいと考えています。最後までお付き合い戴きまして、誠にありがとうございました。

<了>


※このアイコンの付いた地図3点は、何れも 国土地理院の電子国土Webシステムの色別標高図にマーカーや河川名を追加したものを用いました。


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【武相国境】境川(その6)

先日来、当ブログのアクセスログに、「武相国境」のキーワードで検索されて来られる方が記録されることが多くなっております。アクセスどうもありがとうございます。この武相国境のシリーズもそろそろまとめに入る所まで来ましたので、もうしばらくお付き合いをお願い致します。

前回までに、現在の相模原市町田市境の武相国境周辺の歴史を大雑把に辿って来ました。今回は、戦国時代の終わりから江戸時代にかけて、現在の位置に武相国境が定まった頃の様子を見ていきます。

ここまでの歴史を辿るに当っては、「相模原市史」(昭和39年刊)「町田市史」(昭和49年刊)を主に参照、引用してきました。併せて必要に応じて「神奈川県史」の通史編(昭和56年刊)も参照しています。しかし、これらの市史・県史の何れでも、更には「東京百年史」(昭和48年刊)でも、検地と武相国境の変遷の関連を論じた箇所を見出すことは出来ませんでした。以前引用した様に、

当時(注:奈良〜平安時代)おそらく南多摩丘陵の尾根づたいや山巓(さんてん)見通し線などで相摸国との国界が定められ、現在の境川線より丘陵内部に入っていたと思われる。

(「町田市史 上巻」280ページ)

武相国境が境川を隔ててかぎられたのは、「武蔵通志」によると、文禄三年(一五九ニ)であって、それまでは境川が高座川と呼ばれたように、川の両岸は相州高座郡であった。千二百年以前の天平時代においてはもちろん相模国で、おそらく国境は多摩丘陵であったと思われる。

(「相模原市史 第一巻」299ページ)

と、古代の記述では国境の変遷が示唆されているのに、近世の段になるとその解説が成されないという、些かアンバランスな状態になっている訳です。

因みに、この「相模原市史」で指摘されている「武蔵通志」は河田(たけし)が明治22年頃に編纂した地誌ですが、未出版で東京都公文書館に行かないと見られない様です。閲覧する機会が出来たら改めて確認したいと思います。ただ、参照・引用される機会はかなり多い様です。

元より、こうした地方公共団体が作成する公的な市町村史や都道府県史の場合、様々な観点で議論が残っている事項についてはなかなか触れられない面があるとは思いますが、それはさておき武相国境に関して近世の記述が成されていない理由を探ってみましょう。まず問題なのは、肝心の江戸時代初期の検地の記録が、境川周辺に関しては残っていないことが挙げられます。「角川地名大辞典」では

文禄3年の洪水を契機に検地が行われ境川が武蔵・相模の国境とされたため、相模国相原村と武蔵国相原村(現東京都町田市)に二分され、上相原村とも称した。

(14.神奈川県「相原村(近世)」の項より)

としていますが、実際は外部の記録によって、徳川家康が江戸入りした後、所領となった関八州で検地を進めていたことが知られているのみで、その際の結果を記した当時の検地帳は、境川筋に限らずそもそも現地に残っていること自体が希少です。境川周辺の武相国境付近は徳川家康の江戸入り後早々に直轄領化されたものの、検地はやや遅れて行われたことがわかっていますが、その実態については充分に検証が出来ない状況にあります。

もう1点は、江戸時代において「国境(くにざかい)」がどの様な意味を持っていたのかについて、その研究が深まってきたのが上記市史が書かれたよりも後年であることが影響しているのではないかということです。そもそも、律令時代の支配体制は崩壊して久しく、国衙も郡衙もない中では国境にも郡境にもあまり意味はなかった筈ではないかと考えたくなりますが、実際は豊臣秀吉が天正19年(1591年)に全国の国絵図と御前帳(検地帳)を大名に命じて提出させ、これを禁裏に献納しており、実態はともかく枠組みとしては律令時代からの国郡制に倣っていることがわかります。しかし、

日本近世史研究のなかでは、七〇年代に入り、国家史研究の立場から国絵図・御前帳が注目され始めた。国郡という単位に立脚し、天皇の叡覧に供すという名目のもとで徴収された天正十九年絵図と御前帳が、関白政権というかたちをとった豊臣政権の性格を考える上で重要なものとしてクローズアップされてきたのである。ひとり豊臣政権のみならず、近世国家を考えるにあたって、領主制の視点だけでは捉えきれない先行国家の国制の枠組みが、いかに社会や国家の編制に影響を与え、当該期の権力がそれをどのようなかたちで機能させようとしたかという点が盛んに論じられ、国家論・朝幕関係・身分編制など諸分野の研究を刺激し、進展させた。こうして、近世初期を中心とした、政治史的観点からの国絵図・郷帳(国郷帳)の実証研究が緒に就いたのである。

(「領域支配の展開と近世」杉本史子 山川出版社 1999年 154ページ)

つまり、こうした研究が更に深まってくるのは70年代以降で、「相模原市史」や「町田市史」が書かれた時期よりも後のことです。その点では、特に津久井郡域を合併して政令指定都市化した相模原市の場合、市史の編纂から既に50年近くが経過していることもあり、武相国境の件に限らず編纂当時には明らかではなかった知見を加えて増補を行うことが検討されても良いのではないか、とも思います。

文禄3年の検地はこの天正19年の国絵図・御前帳提出よりも後のことですから、この検地の結果が反映されたのは慶長10年(1605年)頃の国絵図・郷帳作成の時だったと考えられます。天正の国絵図は残念ながら見つかっていません。また、慶長の国絵図については「江戸幕府撰慶長国絵図集成」(川村博忠 編 柏書房 2000年)が出版されているものの、

本書は江戸幕府が数次にわたり収納した国絵図および日本総図のなかから、現在確認されている慶長国絵図のすべてと江戸時代初期の日本総図を収録した資料集成である。

(同書 凡例より)

とされつつも、実際にこの本に収録されているのは
  • 和泉国
  • 摂津国
  • 小豆島
  • 越前国
  • 周防国
  • 長門国
  • 阿波国
  • 筑前国
  • 豊後国
  • 肥前国
  • 肥後国
そして
  • 奥州羽州全図
  • 日本中洲絵図
  • 山陰山陽四国九州絵図
  • 慶長日本図
これで全てです。相模・武蔵の慶長の国絵図は未発見ということの様です。

新編武蔵多磨郡正保図より
「新編武蔵風土記稿」正保改定図より

新編相模高座郡正保図より
「新編相模国風土記稿」正保改定図より
但し、上記の図中「日本中洲絵図」の武相国境付近を見ると、国境の線と境川と思しき川筋の線が重なって描かれ、更にその両側に「相原」の地名が書かれており、確かにこの時期には既に武相国境が境川筋に定まっていたことが窺えます。この本はかなりの大判本で重量があり、コピー機に載せると本を破損しそうなので断念しました。代わりに「新編相模国風土記稿」の高座郡の図と、「新編武蔵風土記稿」の多摩郡の図から、正保年間(1645~48年)改定図の境川付近を拡大したものを引用します。

ところで、全国的に見ると国境を巡っては、例えば児島湾の干拓を巡って備前・備中の国境論争があったことが上記「領域支配の展開と近世」でも紹介されており、特に藩領では国境を巡る対立が後々まで続いていたことが窺えます。しかし上記でも触れた通り、境川周辺は何れも家康が直轄領とした訳ですから、この時点では所領を巡る諍いとは無縁の地になっていた筈です。従って、文禄3年の検地で国境が境川筋に決められたと言っても、それは飽くまでも現状追認が本来の目的であった筈でしょう。それが何故国境の変遷と結び付けられて語られているのでしょうか。

これを、同じ頃に武相国境が定まった、鎌倉郡峠村の例と併せて考えてみましょう。峠村の場合、元は人が定住しておらず、空白地帯の様になっていた所に出来た集落を、天正検地が追認した格好であることを、この時に解説しました。

境川周辺に関してはそれとは対照的に、これまで見てきた様に周辺の所領が細分化される等の経緯を経たため、所領関係が錯綜する傾向があったことが窺えます。こうした中では、後から当地を所領としたためにそれまでの経緯について明るくない領主にとっては、それまでの経緯については甲乙付け難いと判断せざるを得ないでしょう。そして、その様な状況に白黒をつけるには、過去の経緯はさておき現状で確定させる、という手段を採らざるを得なかったのではないでしょうか。

となると、文禄3年に国境が定まる以前は、境川筋と境川北側の分水界の両説が併存し、どちらとも言い難い状況に陥っていた可能性が高そうです。そこを改めて検地することによって、境川両岸に存在していた集落が独立した村としての性格を強めていることが確認され、結果として改めて境川筋に国境が定められたのではないか、と思います。

橋本・香福寺:鬼瓦の三鱗
香福寺本堂の鬼瓦に残る三鱗の家紋
正三角形のものは傍系が用いた
新編相模高座郡元禄図より
「新編相模国風土記稿」元禄改定図より
こうした経緯もあってか、相原の地はやがて正保3年(1646年)に分村し、橋本村や上九沢村、小山村が独立します(小山村については元は別の村だったものが一時期相原と合併していたのだろうかと「新編相模国風土記稿」では判じていますが、こうした経緯も錯綜した所領のやり取りの過程で起きた可能性は高いと思います)。その様子は、上記「新編相模国風土記稿」の2つの高座郡の図中でも変化になって現れています。

うち、橋本村はこの頃から八王子通り大山道の宿場町として発展していくことになるのですが、この地がそれ以前から集落を形成していたであろうことは、同地の香福寺(建長寺67世の蔵海性珍(応永18年(1411年)没)が開山と伝わる)、瑞光寺(戦国時代創建と伝わる)、神明大神宮(永禄12年(1569年)創建と伝えられる)と、室町時代から戦国時代にかけて創建されたとする寺社が複数存在することから窺えます。殊に香福寺には樹齢400年以上とされる高野槇が本堂前に聳え、この地に根差す古刹であることを物語っています。また、本堂の瓦などに後北条氏傍系の家紋である正三角形の三鱗(みつうろこ)が見られますが、これは前回触れた通り相原が油井領であったことに関連があります。油井領の当主は後北条氏の関東進出後、八王子を本拠とした北条氏照に引き継がれました。滝山城、後には八王子城を擁した氏照が、北条氏一族の本拠地である小田原との連絡路の途上、この橋本の地を中継の要地としていたことは充分考えられます。


両国橋の位置Googleマップ
「橋本」の地名はこの宿場が「両国橋」の畔から街道筋に連なっていることに由来するとされていますが、橋本の宿場はこの両国橋の南側、つまり現在の相模原市側にのみ展開していました。宿場が栄えたのは江戸時代になってからですので、この傾向が果たして戦国時代以前からのものであるかどうかはわかりません。しかし、橋の北側には町田街道との辻があり、交通の要衝となるのであれば双方の街道に沿って集落が拡がっても良かった筈ですが、そうならなかったということは、あるいは当初から集落が南側にしか作られなかったのかも知れません。この付近での境川は川幅はそれほどありませんが、かなり深い場所を流れていることから、あるいは氏照に思う所があって集落を境川の片岸のみに固めさせたと考えられなくもありません。何れにせよ、「両国橋」の名が付いたのは境川筋が武相国境に定まった後のことであることは明らかですが、橋本の集落はそれ以前から既に境川の南側にのみ展開し、武相国境がそれを追認する形で確定された可能性もありそうです。

橋本・瑞光寺山門
瑞光寺山門
もっとも、「新編相模国風土記稿」では瑞光寺の開基について

開基は瑞光月心と傳ふ俗稱を勘十郎と云ふ、天正十四年十月三日死す、武州多磨郡下相原村の民、五左衛門の祖なり

(卷之六十七 橋本村の項 雄山閣版より、強調はブログ主)

と、境川対岸の下相原村の人間であることを伝えています。集落としては分かれていても、実際は相原の地の中で少なからず交流があったことを窺わせる事例で、単に同じ地名を共有する以上の関連があったからこそ、「元は同じ村」ということが末永く言われ続けているのでしょう。

という訳で、現在の町田・相模原市境に当たる武相国境は、文禄の検地によって現在の位置に定まったとは言えるものの、それ以前は必ずしも境川の分水界に確乎として認知されていたのではなく、時代の変遷の過程でどちらとも定め難くなっていたと考える方が当時の実情に合っているのではないかというのが、ここまで紙幅を尽くして書きたかったことです。

次回は橋本の寺社の写真集を挟み、その次に三浦半島の付け根から延々辿ってきた武相国境全体のまとめ…と当座の完結に続けます。

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【武相国境】境川(その5)

前回は平安末期に登場する小山田氏の動きから、武相国境が混乱する要因の1つになったのではないかという話をしました。今回は同じく境川筋に展開した、横山党の諸氏の動きから話を始めます。

…と、いきなり横山党の名前を出してしまいましたが、「町田市史」では同氏について次の様に説明しています。

市内の小山田荘を除く小山・相原・山崎・成瀬等の地は、横山党の勢力下にあった。嫡流横山氏は元来八王子市内の横山、船木田荘を拠点とし、かねてから隣接する町田・相模原市域へその勢力をのばしていた。

横山孝兼には多くの子供があり、嫡男時重は散位権守、粟飯原(あいはら)氏を名のり、二男孝遠は藍原二郎大夫と称し武州相原にその居を構えた。その子孫は市内に勢力を伸ばし、孝遠の子義兼は野部三郎といって矢部に住し、その子兼光は山崎に居した。また孝遠の孫、鳴瀬(なるせ)四郎太郎も成瀬に居住したらしい。三男忠重は甲斐国古郷を領した。後年その子孫保忠・忠光父子は、和田の乱で横山氏と運命を共にする。四男経孝は小山、あるいは小倉を称し、小山および津久井小倉にその居をおいたものと思われる。その他女子は秩父重弘の妻として小山田有重を生んだ女をはじめ波多野・荻野・渋谷・平子等に嫁している。

ところで相原・小山の地名が境川をはさんで市内および相模原市にわたっていることよりすれば、両方にまたがる地帯が、かれらの所領であったものと思われる。

(「町田市史 上巻」384ページ)


上記文中に現れる「船木田荘」について、別の本から引用して補足すると、

…当地域(注:多摩地区)では、由比牧・小野牧などを中心とし、その周辺の山地部を含めた広大な地域が摂関家領の船木田荘 となった。そして、その立荘には、武蔵国府の在庁官人であった小野氏の系譜を引く横山党の横山氏が関係していた。こうした西武蔵の武士団の長が、当地域の開発を主導し、軍事力を背景に政治的にも活躍して、牧の荘園化にも深く関与していたのである。

ちなみに船木那翔の呼称は、荘園領主側の文書や記録類に登場するもので、在地では横山荘と呼ばれていた。…このことを裏づけるように、『新編武蔵国風土記稿』には横山荘という郷地名は登場するが、船木田荘については、郷荘としての記述は一切みあたらない。

(「地域開発と村落景観の歴史的展開―多摩川中流域を中心に」原田 信男 編 思文閣出版 2011年 142ページ、…は中略)

従って、横山氏も前回登場した小山田氏同様、牧の経営管理から興り、多摩郡内を南下して勢力を広げてきた在郷氏族ということになります。


町田市の範囲(Googleマップ
西側の東西に細く伸びた地域が相原・小山
現在の町田市域では、最も西寄りの地域の相原町が粟飯原氏の所領だった地域と考えられています。また、その東隣の小山町と小山ヶ丘(住居表示変更に際して旧相原町を一部編入)を合わせた地域が小山氏の所領でした。勿論、現在は土地の改変や区画整理に伴う市境の変更などによって当時の状況とは合わない部分が多くなっていますが、相原町や小山ヶ丘の付近では北側の市境がほぼ境川の分水嶺を通っており、粟飯原氏や小山氏らの所領がこの線を意識していたことが窺えます。つまり、この地域では当時まだ境川の分水嶺が武相国境と見做されていた可能性が高くなるということです。

なお、それぞれ南の相模原市域に同じ名前の地域が見出せますが、相原の方はその後橋本や川尻といった村が分村していったため、現在の地図上からは当時の所領との関連性は追い難くなっています。また、小山の東隣には同じく横山党の矢部氏が、やはり境川の両岸に所領を構えていたのですが、今はその地名は相模原市域のみに残っています。境川の北側の矢部は室町期には「小山田保下矢部郷」と記された資料が残っており、その頃までに小山田庄に取り込まれていたことが窺えるものの、その経緯については不明です。

しかしながら、粟飯原氏・小山氏をはじめとする横山党一族は、建保元年(1213年)に和田義盛が執権北条義時の挑発に乗って合戦に臨んだ際に共に挙兵し、敢え無く敗れてしまいます。和田義盛の妻は横山時重の娘であり、更に義盛の子である常盛の妻は時重の子である時広の娘という、深い姻戚関係にあったために出兵した訳ですが、これによって領主を失った横山荘は大江広元に与えられています。その後横山荘の一部は九条家や一条家領として譲られたり、天野氏をはじめ鎌倉幕府後期の御家人に分け与えられたりしているのですが、「町田市史」ではその天野一族の中での所領争いの例を紹介した上で次の様に解説しています。

以上によってわかるのは、第一にこの地が武蔵国由比本郷といわれて横山荘内と記されていないことから、横山荘内の少なくとも一部は国衙領に編入されて北条氏の直接支配下に入ったと考えられること、第二に鎌倉末期の南多摩地域の農村には、…旧来の在家の中からより小規模な在家農民が分立しはじめており、農民層の成長が認められること、第三に分割譲与によって御家人の所領が細分された結果、血を分けた兄弟姉妹の間でさえ激しい相続争いが行われたこと、第四にかれらは幕府の仲裁・保証によって和解に達してもなお郷や村のみならず在家や炭竃(すみがま)まで分割するという一層錯綜した領有関係に追い込まれ、したがって幕府の裁定に決して満足しえなかっただろうことなどである。現在の八王子市域におけるこのような状態は、隣接する町田市域内も同様に群小の在地領主層の錯綜した所領に分かれていったことを想定させる。

(「町田市史 上巻」414〜415ページ、…は中略)

つまり、この地域では鎌倉時代の末期までには、早くも領主の所領関係も領民も分散化する傾向が現れていた、ということです。

こうした傾向は恐らくその後も続いていたと見え、やがて戦国時代になって後北条氏が小田原から関東へと支配を伸ばした頃に作成された「小田原衆所領役帳」では、「油井領」の1つとして「粟飯原四ヶ村」が挙げられています。「相模原市史」では同市域に属する江戸時代の「上相原・橋本・小山・下九沢」をこの4ヶ村に含まれると判じていますが(第二巻532ページ)、この4ヶ村が現在の町田市域の相原や小山までを含んでいるかどうかは定かではありません。しかし、この頃には相原は分村化が進んでいたことは確かな様です。特に橋本は八王子と小田原を結ぶ街道沿いにあり、江戸時代には宿場が栄えた地区ですが、戦国時代に既に同地に瑞光寺や神明大神宮が建立されていることと併せて考えると、その頃には既に同地が独立した街場として発展しつつあった可能性は高そうです。

下小山田:大泉寺山門
大泉寺山門。
小山田氏始祖である有重を祀る
ところで、横山党が和田合戦で壊滅的なダメージを受けるよりも少し前、小山田一族であった稲毛氏や榛谷氏が、畠山重忠の乱で重忠を陥れた首謀者として相次いで謀殺されるということが起き、その煽りで小山田氏の所領も大きく縮小を余儀なくされた様です。その後の変遷については詳しいことはわかっていませんが、「町田市史」ではこの地域に主要な街道が通っていたことから直轄領へと組み込まれた可能性が高いとした上で、

南北朝時代の末から室町中期にいたる文書や金石文には、小山田荘の代わりに小山田保と記されている。保というのはがんらい国司の免判によって認められた一種の私領であったが、のちには「限り有る国保は勿論の公領也」(『吾妻鏡』文治三年四月廿三日条)といわれるように国衙領の一単位を意味しているから、小山田荘が小山田保とよばれるに至ったのは、それが南北朝末期には国衙領に編入された事実を明示するものであるといえる。したがって、小山田氏没落後の小山田荘は、やがて国務をつかさどる得宗家の支配下におかれ、のちには行政区画上の名称まで保と改められたのであろう。

(「町田市史 上巻」409ページ)

と指摘しています。なお、小山田氏の一部は甲斐国の郡内谷村に本拠を移し、戦国期には武田氏のもとで活躍することになります。


大和市下鶴間「公所浅間神社」
周辺には「公所」を冠する施設が他に数件残る
Googleマップ
なお、武相国境との兼ね合いでは、相原や小山同様に境川の両岸に跨って広がる「鶴間」の地についても併せて見なければなりませんが、同地については南北朝時代まで下らないと記録がなく、所領がどの様に移ってきたのかが良くわからないのが現状です。「大和市史」では鶴間の域内に「公所(ぐじょ)(現在は「ぐぞ」と読む)」という地名があり、南の上和田地区の「久田(くでん)(「公田」に通じる)」「善光名(ぜんこうみょう)」「外記名(げきみょう)」といった地名とともに、この一帯が国衙領であった可能性を指摘しているものの、裏付けが乏しいことを論じています。1つだけ言えるのは、「新編武蔵風土記稿」の「鶴間村」の項には

永祿の頃は小山田彌三郎が知行する所にして、十六貫二百七十二文のよし【小田原家人所領役帳】に見へたり、又其比は小山田庄に屬せしことをも記したれど、今は其唱を失へり、

(卷之九十 多磨郡之二、雄山閣版より引用、強調はブログ主)

とあり、「新編相模国風土記稿」の「上鶴間村」の項では

又境川の對岸、武州多磨郡にも鶴間村あり、土人傳へて古は是も當國に屬して彼是一村たりしを、後國界變易して境川を限り、武州に屬せしより地域兩國に分れしなりと云ふ、其年代傳なくして知由なけれど、【北條役帳】に小山田彌三郎が采地の内、小山田庄鶴間と見えたれば既に此頃國界革りしと識るべし、小田原北条氏割據の頃は關兵部丞領す

(卷之六十七 高座郡之九、雄山閣版より引用、強調はブログ主)

と論じられていることから、戦国時代には既に境川筋で村が分かれ、一部が小山田庄に含まれていたことによって、事実上境川が武相国境になっていた可能性が高いということのみです。

こうした各地の所領の変遷にあまり深入りすると話の流れが見え難くなってしまいそうですが、武相国境との関連では、小山田氏や横山党の進出によって所領化された境川流域は、やがて度重なる相続の細分化や領主の交代などを経たことによって、ますます国境の見極めが難しいものになっていった、ということになるのではないかと思います。この様な状況のもとで戦国時代の末期に豊臣秀吉や徳川家康がこの地に登場してくる訳ですが、次回は彼らの行った検地とそれに伴う国境について見たいと思います。

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