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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その4)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は鶴間以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



国分の位置
国分の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

かつての国分の継立は
「まんじゅう屋」という旅籠が取り扱っていた
現在のこの消防団の敷地の辺りにあったという
なお、当時の道筋は現在とは幾らか異なっている
ストリートビュー

武四郎一行が相州鶴間の次に荷を継いだのは国分(こくぶ)(現:海老名市国分南)でした。相州鶴間からは2里(約8km)の道程を歩いて、相模川に向かって長い坂を下り、目久尻(めくじり)川を渡って丘を越えた先に位置します。

前回検討した「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」には、相州鶴間が道中奉行らに提出した訴状に

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ瀬(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

とあり、更に

  長津田村        御伝馬継キ村

   此間壱里

 武州鶴間村         無役村

   此間弐町

 相州鶴間村         御伝馬継村

   此間三里

  厚木町         御伝馬継村

(何れも「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページより、)

と書いていたことが記録されています。これに従うと、享保14年(1729年)時点では相州鶴間は国分村を継立村として認識していないことになります。

この訴状の通りなら、訴訟当時の相州鶴間は厚木まで片道3里、往復で6里の道程を人馬が歩いて荷物を運んでいたことになります。これだけで往復でざっと6時間ほどの時間が必要です。更に、この間には「厚木の渡し」が挟まっていますから、往復では2回この渡しを渡らなければなりません。「その1」で検討した通り、この渡しは滅多に「川留」になることはないとは言え、舟の待ち時間が余分にかかる事になります。これではこの区間を担当した人馬は1日の仕事の大半をこの往復で過ごすことになります。

相州鶴間の負担の重さを多少なりとも軽減する上では、途上の村にも継立村を引き受けてもらうことは必要だったでしょう。その点で、後年国分村が新たに継立を引き受ける様になったことは、相州鶴間にとっては歓迎すべきことだった筈です。

もっとも、国分村が幕末に作成した文書では、かつては継立を行っていなかったことに触れられておらず、前々から継立村であったかの様な書き方になっているため、これらの史料の整合性の検討が必要になってきます。嘉永6年(1853年)に、国分村が戸塚宿の当分助郷に指名された際に、その免除を訴えた「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」という文書の中には、次の様なくだりが登場します。

江戸赤坂口ゟ相州矢倉沢往還、武州八王子宿ゟ相州鎌倉之横往来ニ而、四方一村ニ而人馬御継立仕、

(「海老名市史3 資料編 近世1」553ページより、以下も含め、傍注も同書に従う)


この記述では、国分村は矢倉沢往還の東西方向の継立のみならず、八王子方面から鎌倉方面へと抜ける道筋についても継立を行っており、相州鶴間と同様に辻に位置する村であるという記述になっています。こうした辻に位置する村が、当初は継立を請け負っていなかったとすると、例えば相州鶴間から国分村を経て八王子方面や鎌倉方面へ向かう荷物の様に、辻で向かう方向を変える荷物の取り扱いが困難になります。このため、この文書の記述通りなら、以前は継立を行っていなかった状況が考え難くなって来ます。

ただ、国分村は自村の継立村としての位置づけについて、やや誇張気味に書いている側面もありそうです。江戸時代も大詰めの慶応元年(1865年)に国分村が差し出した「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」という文書には、以下の様な記述が見られます。

…一躰当村之義、江戸ゟ内藤新宿継出、青山通り矢倉沢往還唱ひ、東海道沼津宿(駿河国)之脇往還ニ而、乍恐東照宮様(徳川家康)御神霊、久能山(遠江国)日光山(下野国)御改移之節御通行被為在候砌、厚木町(愛甲郡)ゟ当村御継込、夫ゟ靏間村御継立御用相勤来、既往還附中原(大住郡) 御殿相唱へ、御神霊様御宮跡今以暦然相残有之、就中、甲州道中荻野村(愛甲郡)ゟ継出相成、又一道ハ武州川越(入間郡)ゟ継出、八王子宿(武蔵国多摩郡)ゟ之往還、座間村ゟ当村継込、又一道東海道藤沢宿ゟ之往還、用田村ゟ当村継込、又壱道東海道平塚宿(大住郡)ゟ、相模川東通大谷村ゟ当村継込相成、又壱通東海道戸塚宿(鎌倉郡)往還深谷村ゟ当村継込、其外横浜表御開港已来、神奈川宿・程ケ(土)谷宿・戸塚宿其外鎌倉辺之往還仏向村(武蔵国橘樹郡)ゟ継出シ、瀬谷村(鎌倉郡)ゟ当村継込相成、御役々様方日々不絶夥敷御通行継場付、…

(「海老名市史3 資料編 近世1」606〜607ページより)


内藤新宿は甲州街道の宿場ですし、家康の遷座の際に通った道筋については前回見た通り矢倉沢往還ではなく府中通り大山道であり、更に中原街道の終点に位置する筈の中原御殿の話まで出てくるなど、国分村の役割を記す上で直接は関係のない街道筋の話を多く盛り込んでいます。村の高札を復活させる上でその重要性を強調する必要があったとは言え、この記述にはやや誇張された話が少なからず盛り込まれていることを念頭に置いて読むべきでしょう。

慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」麁絵図
慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」添付の麁絵図(国分村付近の部分)
(「海老名市史3 資料編 近世1」608ページより)
この文書に付属している麁絵図では、右の通り国分村を通過する道として、矢倉沢往還の他に「世谷(瀬谷、横浜市瀬谷区)」「深谷(綾瀬市)」「用田(藤沢市)」「大谷(海老名市)」「下荻野(厚木市)」「座間(座間市)」への道筋が引かれています。しかし、これらの道の重要度を勘案した描き方にはなっておらず、矢倉沢往還以外の道筋の交通量などはこの図からは読み取ることは出来ません。道の繋がり方も、座間や用田へ向かう道は確かに麁絵図の通り国分村に直接繋がっていますが、「迅速測図」で確認する限り、あとの道は途中で別の村の中で分岐して向かうことになり、これほどの本数の道が国分村に直接乗り入れている訳ではありません。


「新編相模国風土記稿」の国分村の項では、村を通過する街道について

矢倉澤道あり東西に通ず道幅二間、當村より東の方郡中下鶴間村へ二里、西の方愛甲郡厚木村へ一里の繼立をなす、

(卷之六十四 高座郡卷之六 雄山閣版より)

と矢倉沢往還のみを取り上げ、継立も矢倉沢街道上で行われている方についてのみ触れています。その点も考え合わせると、国分村の主張する南北方向の継立の取扱量は多くはなかったと考えるのが妥当でしょう。とすれば、国分村の継立はやはり享保14年よりは後になって成立したもので、国分村が文書に記す様な南北方向も含めた継立を取り扱う様になったのは、それ以降のことだった可能性が高いと考えられます。




国分村の継立の歴史に拘っているのは、武四郎が「日記」で記した国分村の状況についての記述を掘り下げる必要を感じているからです。この国分でも、武四郎は自分が目にしたり人足から聞いたと思しき沿道の様子を書き付けています。

此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。人家惣而畑作にして麁食(そしよく)のよし。夕喰〔食〕炊ぐを見るに割麥に半ば(くさり)の有る芋また大根を細く折て、それの雑炊てふもの煮る様に見ゆ。(わずか)江戸より一日路の地にてかくも異ることは、其女どもの着ものもまた()にして大に旅情を催たり。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従う)


「新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻、卷之六十四国分寺幷舊跡圖
「新編相模国風土記稿」卷之六十四 高座郡卷之四
「国分村」中「国分寺幷舊跡圖」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
まず「国分尼寺」ですが、「日記」は「有と(いふ)」という、伝聞を記した書き方になっています。ですから、これは継立人足など地元の人から聞いたことを記していることになります。実際、「国分」の名前が示す通り、この地には律令時代に「国分寺」が置かれ、幾度となく衰退と再興を繰り返しながらその宝物などが受け継がれてきました。

けれども、私が調べることが出来た限りでは、この「国分寺」が幕末から明治初期にかけて、尼僧を住職に迎えるなどして「尼寺」となっていた史実は確認出来ませんでした。明治元年時点の住職は「筧山」と称していましたが、尼僧であるという事実は確認出来ませんでした。また、天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では、まだ境内の建物は現存している様に描かれていますが、相模国分寺のサイトによればこのうち本殿や経蔵、山門などは幕末に失われているため、「日記」の明治2年の時点では既に右の「国分寺幷舊跡圖」の通りではなくなっていたものと考えられます。しかし、それでもこの寺は「相模国分寺」として存続していた筈です。

Sagami-kokubunji doushou.JPG
相模国分寺梵鐘
(By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品,
CC0, via Wikimedia Commons
従って、「日記」の「国分尼寺」は字義通りには受け取ることが出来ませんが、時代を遡れば、以前は国分寺と共に国分尼寺が存在しており、当時もそのことを伝える寺宝があったことがわかります。国分寺跡地の北方には国分尼寺の跡地が残っており、発掘調査で礎石や瓦などが出土しています。この跡地のある辺りの小名も「尼寺」と称し、その名残りを伝えています。

更に、現在も国分寺境内の鐘楼に架けられている梵鐘は、正応5年(1292年)に国分尼寺に寄進したものであることが刻印されており、国の重要文化財に指定されています。当然、「日記」当時にもこの梵鐘の存在は知られており、「風土記稿」の国分寺の項にも、この梵鐘の銘文が転記されています。

「日記」の該当箇所には過去形が使われていませんので、書き損じでなければ武四郎は「国分尼寺」を「現存」するものとして書いたことになります。察するに、この箇所は、かつての国分寺や国分尼寺の歴史について、継立人足などから伝え聞く過程で、何かしら説明の混乱があったか、あるいは武四郎が取り違えたことを反映したものではないかと思います。現在の国分寺山門に上がる石段は県道40号からやや奥に入った場所に位置していますが、当時の矢倉沢往還はこの石段に近い場所を通っていたとされています。それであれば、当時は矢倉沢往還を進む旅人からも、国分寺の石段や山門などが見えたと思われます。あるいは武四郎一行が矢倉沢往還を進む途上で国分寺の失われた山門の跡を眺めながら、この寺のことが人足との間で話題となったのかも知れません。




次に、「日記」ではこの村が畑作中心で食べ物に恵まれておらず、腐りかけの大根を雑炊にして夕食にしていたと書いています。着ているものなども含め、村がかなり困窮している様子が伝わりますが、この記述を何処まで当時の実情を描いたものと考えるべきなのでしょうか。

確かに、当時の国分村に困窮する村民が少なからず存在していたことを示す文書が複数存在しているのは事実です。「海老名市史3 資料編 近世1」には、弘化3年(1846年)の「凶作救済金滞分半金容赦願」という文書が掲載されています(536〜537ページ)。天保4年(1833年)に始まった「天保の飢饉」の救済のために無利息で貸与された金30両の夫食(ふじき)貸しが半額ほど返済した所で滞納する事態となり、挙句に先代の名主が潰れてしまい、全財産を売却して債務弁済に充てる始末になっています。この文書は残りの債務のうち半額を免じてもらい、残りを10年で弁済させてもらえる様に、新たな名主以下村役人が借主である領主に宛てた願書です。最終的にこの額を完済出来たかどうか、後年の証文が掲載されていないので不明ですが、村の困窮振りを示すこの様な文書が書かれてから「日記」の20年あまり後の間に倒幕という大きな社会の混乱があったことを考えると、事情はさほど変わってはいなかったのではないかと考えられます。また、翌年には国分村の組頭であった伝右衛門が家出してしまったために、領主から村人に対して伝右衛門の家財を交代で見廻る夜番が指示されたことを示す文書も伝わっています(同書539〜540ページ)。この村組頭の出奔も、やはり村の困窮と関係があるのかも知れません。

更に、上記で紹介した嘉永6年「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」の別の場所には、次の様な記述が見られます。

当村方先年家数百三拾四軒御座候所、追々潰百姓弐拾弐軒出来、当時百拾弐軒

(上記書553ページより)


村の家数が134軒から112軒と22軒も減ってしまったのは、明らかに「天保の飢饉」の影響でしょう。当分助郷を断るこの願書で本当は一番強調したかった箇所ではないかと思われるのですが、控えめに後ろに近い箇所で触れるに留められているのは、当時の村々でこの飢饉の影響を逃れた所が殆どななかったからではないかと思われます。

一方、国分村のこの様な困窮の最中にも、相応に財力を保有した家があったのも事実です。上記の「凶作救済金滞分半金容赦願」ではかつての名主家が潰れたことが記されていますが、この頃の名主家の当主は代々「善六」を名乗っていましたが、この家が国分村の名主となったのは天保年間のことです。初代の善六は享保年間に僅かな家財を譲り受けて本家から独立して、元文年間から「穀渡世」、つまり米穀商を行って財を成します。やがて、国分村の領主となった佐倉藩堀田家に対して度々融資をしています。そして、その融資先は幕末には国分村内のみならず、江戸や藤沢宿で商売を立ち上げる商人へも行われる様になっており、その財力が大きくなっていたことが窺えます。

国分村には善六の他にも3軒、寛政から文政年間に米穀商を立ち上げた家があり、幕末には少なくとも4軒の米穀商が存在していました。天保8年に一時これらの米穀商が営業停止にされた際に解除を求める嘆願書が提出されているのですが、この中に名を連ねた米穀商の中では、国分村の4軒が最多でした(以上、「海老名市史」通史編・資料編 及び「幕末の国分村」池田 正一郎著 1979年 自費出版を参照)。

以上を勘案すると、「日記」の当時、国分村にはまだ「天保の飢饉」によって疲弊した名残りが色濃く、それが武四郎と同行した継立人足の証言や、武四郎自身が目の当たりにした国分村の夕餉の様子や着ているものに表れていたのでしょう。その限りでは、「日記」の記述は国分村の当時の実情をよく伝えているとは言えるでしょう。しかし、当時の国分村には困窮の最中にも村内外に金を用立てるだけの実力を持った家が存在し、村を支えていたのも事実です。その点では、「日記」に記された国分村の様子を、あまり拡大的に適用し過ぎない様に注意して取り扱うべきでしょう。

また、丘陵地にあって水田より畑が多い国分村に、名主を筆頭に米穀商が4軒もあり、特にその1軒がとりわけ力を持っていたということは、村内よりも村の外部で生産された米穀の流通によって富を蓄えていた可能性が高く、それには村を通過する交通路の存在が不可欠だった筈です。特に、相模川の水運と陸路の結節点であった厚木や、その手前に拡がる広大な水田地帯である海老名耕地との間を繋ぐ道筋、つまり矢倉沢往還の存在が重要だったでしょう。

そう考えると、享保14年には矢倉沢往還の継立村ではなかったこの村が、幕末に書かれた文書では自村について誇張気味に交通の要衝であることを力説するまでに変わっていった背景に、この米穀商の存在があることが見えてきます。無論、この道を往来する大山詣での参拝客の増加も影響した側面もあるでしょうが、あと1里進んで「厚木の渡し」を渡れば厚木の大きな街に入ってしまう位置付けでは、旅籠の集客では苦戦する可能性が高く、そこだけでは利点が十分ではなかったのではないかと考えられます。

「日記」の記述ではその様な村の有力者の存在が見えてきません。国分村の主要な集落はこの矢倉沢往還の周辺にあり、名主家などもこの集落内にあったと思われますが、あるいは武四郎は裕福な家々にはあまり目を向けていなかったのかも知れません。



今回も国分村について解説して終わってしまいました。次回は厚木から先の「日記」の記述を分析する予定です。

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三浦郡の「草綿」:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物一覧から、今回は三浦郡の「草綿」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯綿布和名、毛女牟◯大永の初、三浦郡に種を植しより郡中に多くして三浦木綿と稱美す、此名、文祿中の文書にも見ゆ、今尙播殖すれど郡名の稱は聞えず、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯草綿毛女牟と稱し木綿の字を用ゆ、されども木綿は波無夜にして和產なし、今諸國栽る所のものは草綿なり、【見聞集】曰、三浦に六十計の翁あり、語りしは大永元年武藏國熊谷の市に西國の者木綿種を賣買す、買取て植ければ生たり、皆人是を見て次の年熊谷の市に買取植ぬれば四五年の中に三浦に木綿多し、三浦木綿と號し國に賞翫す、夫より關東にて諸人木綿を着ると語る云々、又高座郡河口村總持院所藏文書曰、遠路爲御音信代僧殊三浦木綿被指越祝着候云々、壺の御印あり、今も郡中に播殖すれど三浦木綿とて稱美する事は聞えず、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


山川編が「綿布」と書くのに対して三浦郡図説は「草綿」と記す点と、山川編の記述が三浦郡図説に比べるとかなり簡略化されている点に違いがあるものの、基本的にはどちらもかつて「三浦木綿」と称されて賛美されていたこと、「風土記稿」の編纂された頃には綿の生産は引き続き行われているものの「三浦木綿」と称して賛美されることはなくなったことを記しています。


海老名・総持院の位置
南側を矢倉沢往還が通っており
北には有鹿神社が位置している
Soji-in 2015-10-04 2.jpg
総持院本堂
("Soji-in 2015-10-04 2"
by Araisyohei - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)

三浦郡図説の記述の中に「高座郡河口村」と記されていますが、高座郡に属する村で「総持院」が存在する村の名前は「河原口村」(現:海老名市河原口、他)で、「風土記稿」の同村の記述の中にも

◯總持院 海老山滿藏寺と號す、古義眞言宗京東寺寶菩提院末…【寺寶】△東照宮御判物一通文祿中、名護屋御陣中に住僧木綿を献ず、其御返翰なり、△谷全阿彌奉書一通前と同時の書なり、文中爲御音信、從六箇寺、三浦木綿十端進上云々、按ずるに、六箇寺其指所、今考べからず、

(卷之六十五 高座郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)

とあることから、「風土記稿」の三浦郡図説のこの箇所は誤記と考えて良いでしょう。鳥跡蟹行社版の該当箇所でも「河口村」になっているので、恐らく元にある誤記と考えられます。山川編の「文祿中の文書にも見ゆ」がこの総持院に伝わる文書を指していることは言うまでもありません。

「風土記稿」の三浦郡各村々の記述には、綿の生産に関する記述を見出すことは出来ません。他方、三浦郡図説の「草綿」に関する記述は、文中に「見聞集」の引用を含んでいるとは言え、各郡の産物に関する記述の中では最も長いものになっています。過去の産物について記しているものとしては波多野大根の例がありましたが、こちらの例では香雲寺の文書に記述があることだけを記していました。「見聞集」については各村の記述で紹介されなかったため、図説で引用文を掲載せざるを得なくなり、この様な記述になったのでしょう。

そこで、今回はまずこの「見聞集」の記述について検討するところから始めます。「風土記稿」が「見聞集」と略記するこの書物は「慶長見聞(けんもん)」を指します。これは江戸時代初期に三浦浄心が著した随想集で、浄心が見聞きしたものを書き留めるという構成になっています。もっとも、事実誤認と思われる記述や、三浦浄心に仮託して後世の人間が書いたとする説もあり、この文献の信憑性については議論の残るところがあります。ただ、三浦浄心自身、戦国期には三浦郡に本拠を持っていた一族の末裔ですから、三浦郡で見聞きしたものは彼の領内でのことであったと言え、その限りでは整合性が取れています。「風土記稿」に引用されているのはこの「慶長見聞集」の巻の三「関東衣服昔に替る事」の中の一節です。「風土記稿」に引用された箇所と一部重複しますが、多少の文言の差異も見られますので、その前後を含めて一通り書き出してみます。

見しは昔。關東にての體裁。愚老若き頃までは、諸人の衣裳、木綿布子なり。麻は絹に似たればとて、麻布を色々に染め、わたを入れ、おひへと云うて上着にせしなり。布は出所多し。木曾の麻布は信濃にて織り、手作りは武藏に詠めり。奥布、信夫(しのぶ)文字摺は忍郡(しのぶこほり)にて織る。氣布(けふ)の細布は油中折に、(くだん)の布は兎の毛にて織ると云々(しかじか)。此説樣々に記せリ。(さて)又我若き頃、三浦に六十ばかりの翁あり、語りしは、大永元年の春、武藏の國熊ヶ谷の市に立ちしに、西國の者木綿種を持來りて賣買す。是を調法の者かなと、買ひとりて植ゑつれば生ひたり。皆人是を見て、次の年又西國の者持ち來るを、三浦の者共、熊ヶ谷の市に出でて買ひ取り、植ゑぬれば、四五年の内三浦に木綿多し。三浦木綿と號し諸國に賞翫す。夫より此方關東にて諸人木綿を着ると語る。然る時は木綿、關東に出來始まること、大永元年より慶長十九年、當年までは九十四年此方と知られたり。

(「袖珍名著文庫 巻25」1906年 富山房版より、「国立国会図書館デジタルコレクション」より引用、振り仮名は一部を除き省略)


上記の通り、浄心が領内の古老に聞いたとするこの由緒を何処まで史実として受け入れるべきかは悩ましいところですが、ひとまずこの記述の意味するところをもう少し掘り下げてみたいと思います。当時の木綿の生産の実情については、次の本を参照しました。

苧麻・絹・木綿の社会史」 永原慶二 2004年 吉川弘文館


それによると、日本では14世紀末から15世紀にかけての頃から朝鮮や中国との交易で木綿を大量に輸入する様になり、特に戦国期に入ってくると防寒性に優れた木綿が兵衣として重視されたことも相俟って、朝鮮の内需を脅かす程になって輸出に制限をかけ始めます。日本の木綿の国産についての史料が登場するのは、こうして海外からの木綿の輸入が困難になってくる応仁の乱の頃からである様です(215〜230ページ)。そして、同書では

おそらく日本の国内における木綿栽培は、九州からはじまったであろう。しかしそれはかつて稲作が北九州から逐次東方に広まっていったのと同じような足どりをとったわけではあるまい。そうではなく、ほとんど同時的に、三河をはじめとする各地に併行して種子が伝わり、そこここで綿作が行われるようになったのではないか。その際、北陸・東北方面が立ちおくれていたことは事実だが、全体として国内木綿の栽培の開始と広まりを、江戸前期中心に見る通説的理解は訂正される必要がある。実際はそれよりも早く、一六世紀中における展開の度合いを、これまでよりは高く評価すべきであると考えられるのである。

(上記書261〜262ページより)

と、戦国時代の間に国内の木綿生産が急速に展開したことを、各地に伝わる史料を検討して明らかにしています。

「見聞集」に登場する熊谷(現:埼玉県熊谷市)について、「苧麻・絹・木綿の社会史」は、

越生から東北方向にさして遠くない熊谷(くまがや)(現、埼玉県熊谷市)には、一五八〇年(天正八)ころ、木綿売買の「宿(しゅく)」(取引所)があった。同年一二月一二日付の成田氏長印判状(『新編武州文書 上』大里郡三号)には、

熊谷の町に於て、木綿売買之宿、長野喜三所にて致すべきの由、申し付くべき者也

の文言が見える。成田氏長は小田原北条氏の傘下にあって当地方を支配していたのであるから、実際は、北条氏の政策によって、木綿取引の「宿」が指定されていたといってよい。この熊谷の「宿」にもちこまれる木綿の産地や、そこに集まってくる商人の本拠地などについては、残念ながら知る手がかりがほとんどない。

(上記書241~242ページより、ルビも同書に従う)

と記しており、戦国時代後期には木綿の集散する一大拠点としての地歩を確立していた様です。天正年間となると「見聞集」の記す大永元年より60年近く後年ということになり、その頃から既に熊谷が木綿の主要な宿となっていたかが気になりますが、これについても同書ではこの「見聞集」について

戦国時代、熊谷周辺の地域では、すでに木綿の生産が進みだし、熊谷の市では木綿取引も開始されていたから、「西国のもの」も種子を運んできたにちがいない。

(上記書243ページより)

としており、既に大永年間には熊谷で木綿が取引される市が立っていたということになる様です。

三浦半島〜熊谷間の直線距離
三浦半島〜熊谷間の直線距離
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
興味深いのは、三浦半島からこの熊谷の木綿市まではるばると出かけていることです。直線距離でも三浦半島から熊谷までは100kmあまりも隔たっており、往復には何日も掛かる距離であることは確かです。一貫して陸路を進んで往復したのか、あるいは熊谷から最寄りの利根川の河岸を経由して水運で三浦半島との間を行き来したのかは定かではありませんが、どちらにせよその往復だけでも相当に経費と時間を要することは確実でしょう。となれば、それだけの支出を裏付けられる程の動機を熊谷の市が持っていたことになると思われます。

その熊谷が木綿の集散地としての地歩を固めていたとすれば、当然三浦郡から熊谷へと往復したのも、元々その木綿を求めてのことではあったと考えるのが妥当でしょう。遠征した当人が木綿の種を持ち込んでいる商人がいることまで考えていたかどうかはわからないまでも、そこまでの労力を負っても木綿を買い出しに遠征しなければならなかったということです。

これが幕府が置かれていた鎌倉時代のことであれば、あるいは鎌倉公方が鎌倉に本拠を置いていた頃までであれば、権力の中枢地である鎌倉を中心に商人たちも数多く集っていた訳ですから、相模国には入らない商品を求めて遠征を強いられる様な状況はなかなか考え難かったかも知れません。しかし、鎌倉公方が古河へと転出してしまったのは享徳3年(1454年)、従って大永元年は鎌倉から有力な権力の中枢が居なくなってしまってから40年以上が経過した頃に当たります。他方で、後に関東一帯を治める様になる小田原北条氏は大永元年には2代目の氏綱の頃ですが、この時にはまだ「北条」を名乗る前で関東一円に乗り出す前の時期です。つまり、大永元年という年は鎌倉が衰退する一方で、小田原が新たな中枢として力をつける前の中間期であったということになります。そういう時世の中では、有力な商人たちは既に鎌倉を離れて新天地へと移ってしまっていたでしょう。

これを三浦郡から見れば、かつてであれば鎌倉を中心に集まってくる産物をあてに出来たものが、より遠方の市へと足を伸ばさなければならない状況へと変わってしまっていたということになります。「慶長見聞集」の記す通りならば、これは当時の鎌倉の衰退を背景に遠征を強いられる事態へと追い込まれてしまっていたことを裏付ける証言ということになるのかも知れません。また、その様な状況でも敢えて木綿を求めに遠く熊谷まで向かったとすれば、そこには領主であった三浦氏の求めがあったとも考えられ、更には遠征に際しての援助をしていたとしてもおかしくなさそうです。

こうして見て行くと、「慶長見聞集」のこの「三浦木綿」についての記述は、信憑性についてその是非を考えるには更に他の史料による検証が必要とは言えるものの、少なくとも当時の実情に照した時に矛盾を生じる様な記述ではなく、相応に筋の通ったものであると言えそうです。


野比・最宝寺の位置
「新編相模国風土記稿」卷之百十五「最寶寺境内圖」
「新編相模国風土記稿」卷之百十五より
「最寶寺境内圖」(雄山閣版より)

そして、「風土記稿」が記す総持院の文書にある通り、この「三浦木綿」が徳川家康や谷全阿彌に贈られ、その返礼が奉書として残されていることからも、「三浦木綿」がその後贈答に用いられるに質を高めていったことは確かです。三浦郡で生産された木綿を高座郡の寺院がわざわざ手に入れて贈っているくらいですから、生産を始めてからさほど日が経っていないと考えられるにも拘わらず、外部から評価される程にまで急速にその品質を上げることに成功していたことになるでしょう。「苧麻・絹・木綿の社会史」では更に

なお三浦木綿については、相模三浦郡野比(のび)(現、横須賀市野比)の最宝寺(さいほうじ)に宛てた按察(あぜち)法橋具明の年欠五月二三日付文書に、

志として木綿卅端進上の趣、具さに披露せしめ候処、遠路合期せざるの時分、誠に似て懇志之至りに思召され候……

という文言が見える。おそらく京都に居た具明の主筋に、最宝寺側から三浦木綿三〇端が送られたことの礼状であろう。『舜舊記(しゅんきゅうき)』(吉田一族梵舜(ぼんしゅん)の日記)一五八五年(天正一三)の一二月一三日条にも「幸円弟子関係ヨリ上、ミヤケ(土産)に木綿一端送之」とある。

(上記書243ページより)

と、やはり木綿が贈られた記録が紹介されています。この文書は「風土記稿」の野比村の項(卷之百十五 三浦郡卷之九)には掲載されていませんが、これも当時の「三浦木綿」の質の高さを示すものと見て良いでしょう。

こうした「三浦木綿」が、「風土記稿」が編纂された頃には既にその名が称えられることがなくなってしまったと記されている訳ですが、その前に次回戦国時代の「三浦木綿」について気掛かりな点を取り上げるところから、次回に続きます。

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「吾妻鏡」頼朝の出産祈願の記事を巡って

【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その4)」で、源頼朝が建久3年(1192年)に北条政子の出産祈願のために相模国内の計28社に神馬を奉納した吾妻鏡の記事を紹介しました。その時ふと気になったことをメモします。

まず、その吾妻鏡からの引用を改めてここに転記します。

建久三年八月九日条:

九日 己酉 天晴れ風静かなり。早旦以後、御台所御産の気あり。御加持は宮法眼、験者は義慶坊・大学房等なり。鶴岡、相模国の神社仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。いわゆる、

  • 福田寺酒匂
  • 平等寺豊田
  • 範隆寺平塚

  • 宗元寺三浦
  • 常蘇寺城所
  • 王福寺坂本

  • 新楽寺
  • 高麗寺大磯
  • 国分寺一宮下

  • 弥勒寺波多野
  • 五大堂八幡、号大会御堂
  • 寺務寺
  • 観音寺金目
  • 大山寺
  • 霊山寺日向

  • 大箱根
  • 惣社柳田
  • 一宮佐河大明神

  • 二宮河勾大明神
  • 三宮冠大明神
  • 四宮前取大明神

  • 八幡宮
  • 天満宮
  • 五頭宮

  • 黒部宮平塚
  • 賀茂柳下
  • 新日吉柳田

まづ、鶴岡に神馬二疋上下。千葉平次兵衛尉、三浦太郎等これを相具す。そのほかの寺社は、在所の地頭これを請け取る。景季、義村等奉行たり。巳の剋、男子御産なり。

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」より引用、強調はブログ主)


この28社が何処に当たるかは大半がほぼ解明されています(廃寺含む)。こちらのサイトではその一覧がまとめられていますが、未確定なのは「八幡宮」(現在の平塚八幡宮)の次に記された「天満宮」のみになっています。

しかし、私がこの一覧を見ていておや?と思ったのは、

国分寺一宮下

と記されていることでした。相模国分寺が「一宮下」にある様に記されています。これは何を意味するのでしょうか。


相模国分寺跡上空写真(再掲)
以前も取り上げましたが、相模国の国分寺は律令時代に現在の海老名市域内に建立されました。平安時代末期になって朝廷の権力が弱体化するにつれ、各国の国分寺も衰退を免れなかった様で、源頼朝も荒廃した国分寺の再興に尽力したことが吾妻鏡に次の様に記されています。

(文治二年(1186年)五月)廿九日 …また神社佛寺興行の事、二品(頼朝)日來思しめし立つの由、かつは京都に申さるるところなり。かつは東海道においては、守護人等に仰せて、その國の惣社(そうじゃ)ならびに國分寺の破壊、および同じく靈寺顚倒の事等を注さる。これ重ねて奏聞を經られ、事の(てい)に随ひて修造を加へられんがためなり。

(読み下しは「全譯 吾妻鏡」貴志 正造訳注 新人物往来社 1976年による。ルビも同書に従う。…は中略)

(建久五年(1194年)十一月)廿七日 … 近國一ノ宮ならびに國分寺、破壊を修復すべきの旨、仰せ下さる。

(読み下し同上)


北条政子の出産祈願は、この2つの国分寺修復に纏わる記事の間に来ますので、建久3年当時の相模国分寺は最初の修築を受けている可能性が高いものの、ここに相模国の一宮である寒川神社が含まれていたかどうかは定かではありません。相模国の総社は六所宮(現在の大磯・六所神社)ですから、そちらの方が修築の対象になったのかも知れませんし、荒廃が確認されなければその時には修築は行われていない可能性もあります。

この寒川神社から律令時代の国分寺跡までは、直線距離で8km以上も隔たっています。国分寺は鎌倉時代以降も再び荒廃し、現在の国分寺は律令時代の国分寺の南東の丘の上にあった薬師堂跡に移されていますが(時期は不詳ですが、戦国時代に焼け残った薬師堂を現在の丘陵上に移して再興したとされています)、移動距離は200mほどと取るに足りませんので、寒川神社からは同様に大きく隔たっていることになります。

その様な地が「一宮下」と呼ばれていたというのは、この距離を考えるとどうも不自然です。このため、鎌倉時代には寒川神社の近くに国分寺が移築されていた、という説もあります。

…かく見てくると、寺社の下の漢字はいずれも地名を現わしていること確かである。従って国分寺の下の「一の宮下」も国分寺の所在を示すものと考えて差支えない。(…)一ノ宮が寒川にあることが明白であることから考えると、国分寺はこの付近にあったということがいえると思われる。正に相模国の国分寺の所在を明示した文献は実にここに至って初めてであるということが出来る。

(「鎌倉期における相模国分寺」池田 正一郎、「えびなの歴史 海老名市史研究 第9号」海老名市史編集委員会 1997年11月 32ページより引用、…は中略)



現在の寒川神社前(ストリートビュー
もっとも、相模国分寺の移転を確実に裏付けるような他の史料や移転先の国分寺跡などは存在しないのが実情ですし、仮に移築されたのが正しいとしても、それが何故戦国時代の頃には再度海老名の地へと戻っていたのかもわかりません。実際のところ、上記の論文では各社の補足を何れも地名であると判じており、その実例として

一ノ宮から四ノ宮までは地名を冠した明神名でやはり前者と同じく宮社の所在を表していると考えられる。…この筆法でいえば三宮の冠大明神の冠も地名たること疑いを入れないと思われるが、該当地がない。

(同書31ページ)

としています。しかしながらこの「冠大明神」は相模国三宮である比々多神社に伝わる由緒によれば天長9年(832年)に淳和天皇より賜ったとされる神号です。従って、飽くまでも地名であるとするこの論文の指摘はやはり必ずしも当たっておらず、「五大堂」に「号大会御堂」と記されるなど、もう少し緩やかな意味をもって各社の名称を補足したものだと解釈する方が妥当でしょう。

そこでもう一度この一覧を良く見ると、各社の並びが妙にバラバラであることに気付きます。一方が他方の別当という関係にあった平塚の範隆寺と黒部宮が、そもそもどうしてこんなに一覧の最初の方と終わりの方に分散して書かれているのか、他にも大磯方面の寺社が最初の方と終わりの方に分かれて出て来るのは何故か、ここをヒントにして何か考えられることがないか、自分なりに検討してみました。

源頼朝自身が建立に尽力したお膝元の鎌倉・鶴岡八幡宮が、この一覧から外れて筆頭に上がっているのはある意味当然でしょう。しかし、その鶴岡八幡宮と対等の地位にあった一宮、寒川神社は六所宮以下の5社とセットになって、この一覧の中ほどより後半に出て来ます。また、頼朝が「二所詣で」を繰り返していた「大箱根」、つまり箱根権現はその直前と、やはり一覧の後半に位置しています。従ってこの一覧は、必ずしも各寺社の序列に従って記されたものではないことがわかります。ただ、当時の主だった(と考えられる)寺社がむしろ後半に出て来るのは、この一覧のひとつの特徴だと言えると思います。

そして、この一覧に載っている総勢28社に神馬を奉納して安産祈願を依頼したとされている訳ですが、それだけの馬を用立てて遠方にまで送り届けるとなれば、物理的にかなりの時間が必要な筈です。「早旦」、つまり朝早くに産気づいて「巳の刻」、すなわち午前中には産まれた訳で、産気づいてから慌ててこれらの各社に馬を送っても、鶴岡八幡宮以外は到底間に合わないでしょう。そもそも懐妊がわかってから出産までそれなりに日数があることを考え合わせると、この一覧に載っている各社に神馬を奉納したのは実際は「建久三年八月九日」よりも前ではなかったでしょうか。

とすれば、この一覧は北条政子の懐妊を知った頼朝が、出産が近づくに連れて次第に募る不安を抑えるべく祈祷の依頼先を増やしていった順番なのかも知れません。実際、出産前月には

(建久三年七月)三日 癸酉 今曉より御臺(政子)所いささか御不例。諸人走り參ず。若宮別當法眼(圓曉)護身に候ぜらると云々。

 … 

八日 戊寅 御臺所御不例の事、すでに復本せしめたまふ。これただ御懐孕(ごくわいよう)の故の由、醫師三條左近將監これを申すと云々。

(読み下し同上)

と政子が体調を崩したりしていますので、頼朝が不安を募らせるだけの状況はあった様です。

そして、これだけの寺社に奉納する馬を用立てるために必要な時間を考えても、相応の日数に分散して奉納が行われたと考える方が自然だと思います。寧ろ一覧の後半に主要な寺社の名前が現れるのは、当初は普通の安産祈願を行うべく比較的社格の低い寺社に頼んでいたところが、増大する不安にやはり主だった寺社にも頼まなければと思い直した結果なのではないか、という気がします。もし全ての寺社に一括して奉納が行われたのであれば、もう少しこの一覧は整理されたものになったと思えるからです。

平塚・黒部宮
現在の黒部宮(再掲)
以上のことを考え合わせて「国分寺」に併記された「一宮下」を解釈するならば、これは当時の国分寺の位置を意味するものではなく、国分寺が当時何らかの形で寒川神社の支配下にあった、ということを意味しているのではないかとも思えます。平安時代末期に荒廃していた国分寺の再建に当たって、何らかの後ろ盾が必要になっていたために、寒川神社の配下に入ったということなのかも知れません。あるいは既に当時荒廃していた国分寺が、一時的に一宮の堂宇の一つを借り受けて「避難」してきていた可能性もあり得ますが、後に元の所在地に戻っていることから考えても、恒久的に移転してきていたのではないのではないかと思います。恒久的な移転だったのであれば、数年後の修築も寒川神社の付近で行われ、その地で国分寺が受け継がれた可能性が高くなるでしょう。

また、比較的早い時期から祈祷の依頼を受けていた平塚範隆寺に対して黒部宮が後から追加される形になっているのも、同様の理由で祈祷の加勢の依頼を本宮が受けたからではないか、という気もするのですが如何でしょうか。


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