「横浜市」タグ記事一覧

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ越し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ越しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ越されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ越し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ越し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

生麦のツキノワグマ:「中空日記」より

今回の投稿で、当面更新をお休みすることになりそうです。申し訳ありませんが、またお逢いする日まで。

以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。

「中空日記」の著者は香川 景樹(かがわ かげき)、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。

その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる

また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、

今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら

にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし

いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ

たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに

せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命

あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す

わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし

月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん

(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)


生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
生麦(現:横浜市鶴見区生麦)はこのブログでも既に何度か登場しましたが、現在は埋立地によって海岸線から若干離れてしまったものの、当時は右図の通り海沿いの漁村でした。地形的には海岸から少し入った辺りに台地が迫り出してきてはいますが山岳地形ではなく、当時もツキノワグマの出没しそうな深い森が付近にある環境ではなかったと思われます。そうした環境下にも拘らず、このツキノワグマは10年程前に捕獲した母熊の腹を割いて取り上げたものであり、その際に胎児の喉の辺りを危うく鎌の刃先に掛けてしまいそうになり、その傷跡が月の輪の模様の辺りに残っているというのです。景樹はその傷跡を見て一首詠んだ訳ですね。この子熊は茶店の主が与えた芹や柿を食べていたほか、道を行く人の手から様々な残飯を与えられて食べていた様です。

本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。



浄土宗入蔵山究竟院慶岸寺
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
ストリートビュー
この「月刊『鶴見の歴史』」で紹介されている白熊(ツキノワグマのアルビノ)の方は、芸で当たりを取ったツキノワグマに感化された別の茶店の主人によって、何らかの伝手を使ってわざわざ生麦まで連れて来られたものでしょう。しかし、最初の茶店のツキノワグマが何故生麦にやって来ることになったかについては、今のところ「中空日記」に記すところが唯一の様です。当時の生麦の茶店の主が、わざわざツキノワグマを捕獲するために遠路はるばる深い森のある山へと向かったとは考え難いものがあり、やはりよその土地からツキノワグマが生麦にやって来たと解釈するのが妥当でしょう。とすれば、この母熊はどの辺りから来たことになるでしょうか。

念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。

ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]

ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。

本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。

元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。

上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。

(上記書162ページより)


この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。

江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「本綱熊生山谷」また「按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の()」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。

とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
箱根や丹沢から生麦までということになると、その間には相模川があります。まさか渡船が熊を渡すとは考えられませんので、母熊は橋のない相模川を泳いで渡らなければならなかった筈です。当時は相模川にはダムはなく、帆船が厚木付近まで遡上出来る程度には水嵩が豊富でしたから、泳いで渡るのもなかなか難儀であったろうと思われます。但し、小仏峠付近からであれば、相模川の様な大規模な河川を渡る必要はなかったでしょう。何れにせよ、母熊は数十キロに及ぶ道程を歩いて生麦まで来たことになりそうです。

また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。

何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。

もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

藤沢飛行場の空中写真:「地理院地図」から

以前Googleマップ上に誤って表示された「藤沢飛行場」について記事を書きましたが、その後折りに触れて「藤沢飛行場」を検索してこの記事を見に来られる方が月に数名ほどいらっしゃる様です。その「藤沢飛行場」に関連してごく簡単な追記を1件。

「地理院地図」では過去の空中写真を地形図に重ねて見る機能がありますが、当初は1970年代程度までに限定されていました。その後それ以前の空中写真の掲載を進めており、最近になって関東南部の1961〜64年の空中写真も地形図上で参照出来る様になりました。これを使って現在の荏原製作所藤沢藤沢事業所付近のその頃の空中写真を見ると、まだ廃止される前だったと思われる藤沢飛行場の滑走路や格納庫と思われる建物が写っているのが確認できます。また、滑走路の中ほどを横切る街道の存在もはっきりと写っています。右側の「機能」メニューには「計測」というツールがあり、これを使って地形図上の実距離を計測することが出来るのですが、これを利用して滑走路の凡その長さを測ると900m強あることが確認出来ます。

藤沢飛行場は1964年には廃止されますので、次の1974~78年の空中写真では荏原製作所の敷地となって滑走路は消滅しています(滑走路の敷地の一部は陸上競技用のトラックに転用されています)が、この2つの空中写真を比較すると、敷地内の南北の道路は飛行場であった時代の平行誘導路がそのまま利用されていることがわかります。

なお、以前の記事で掲載した「今昔マップ on the web」上でも、右側のプルダウンメニューから「写真1961-64」を選択し、左側の「不透明度」のプルダウンメニューから「0%」を選択することで、この空中写真を表示させることが出来ますので、昭和29年の地形図と切り替えながら参照することも可能です。


1961〜64年の藤沢飛行場の空中写真(「地理院地図」より)

地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
もう少し具体的にこの空中写真の撮影年月を絞り込みたいところですが、それには右の様に「単写真」の撮影地点を表示させ、該当地点のマーカーをクリックすることで確認出来ます。初期状態では膨大な数のマーカーが表示されますが、「選択中の情報/単写真」右側のⓘボタンをクリックすると、「絞込み」というプルダウンメニューが現れますので、これを使って表示されるマーカーを年代によって絞り込むことが出来ます。マーカーをクリックした時に表示されるバルーン中のリンクから該当する写真を表示させることも出来ますので、地形図に重ねて表示されている写真が確かにその年月のものであるかを確かめることも可能です。この例ではすぐ南側の国道1号線藤沢バイパスがまだ工事中である様子が写っており、その特徴が一致すること(写真のコントラストは若干調整されている様です)から、確かにこの写真が地形図上で表示されていることがわかります。

余談ですが、地点によっては撮影時期の異なる写真が隣接して表示されている箇所もあります。以下の例は小田急線高座渋谷駅東側の境川付近の1961〜64年の空中写真ですが、東側では東海道新幹線の建設中の様子が写っているのに対し、写真の切れ目から西側ではまだ工事が始まる前の様子が写っています。東側では1963年、西側では1961年の写真が用いられている様です。


建設中の東海道新幹線の軌道が東側だけ写っている(「地理院地図」より)

何だか「地理院地図」の使用法についての記事みたいになってしまいました。「地理院地図」の空中写真は更に1945〜50年のものを地形図に重ねて閲覧出来る地域を拡げていっている様ですし、また最近になって左側のメニューが刷新されるなど、かなりこまめにアップデートが図られ続けています。また何か興味深い更新が見つかったら取り上げたいと思います。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

寛政3年・江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」

今回は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された、ちょっと毛色の変わった2本の史料を気楽に紹介します(以下、ページ数のみの引用は何れも同書より)。

この2本の史料とは、松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」と、山田桂翁と名乗る著者(正体は不詳)の「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」からのもので、何れも寛政3年(1791年)に行われた「遠馬」ならびに「遠足」のことが記されています。同じ催し物の史料を2本「鎌倉市史」に採録した理由について、巻末の解説では双方に記された人物名に一部齟齬があり、どちらが正であるかを判別できなかったことを挙げています。ただ、どちらかと言うと「甲子夜話」の方が事前の準備のための触書が記されているのに対して「宝暦現来集」の方が結果についての記録が厚めなので、その点でも両者が採録されたことで当時の事情がよりわかりやすくなったと思います。


今「遠足」と書くと、小学校の児童たちがお出かけするイメージですが、この時の「遠馬」「遠足」は勿論その様なお気楽なものではありませんでした。「甲子夜話」では

一亥三月遠足遠馬左之通御鷹匠御鳥見え被仰付五日明七時吹上え相廻り七時半出立。

(215ページより)

と記し、同年の3月5日(グレゴリオ暦4月7日)の明け七時、つまり現在の時刻にして午前4時頃に江戸城内の吹上御苑をスタートしたことが記されています。なお、「宝暦現来集」では出発時刻を「明七ツ時三分」としていますので、現在の時刻にすると4時半頃に出発したことになります。

まず、この遠馬・遠足の距離を確認します。「甲子夜話」はそのルートについて

路程、自江都日本橋相州鶴岡十二里、又自日本橋大城大手御門十五丁、拠之往還二十五里。

(216ページより)

と注記しており、吹上御苑から日本橋に移動し、そこから鎌倉へと向かった様に書いています。復路でも日本橋から大手門を経て戻ったとしていますから、ほぼ同じルートを往復したものと思われます。


参考:大手門前から日本橋までのルート
Googleマップによる:
当時の距離を正確に算出したものではない)
「甲子夜話」は大手門から日本橋までの距離を「十五丁」と記しています。実際、現在の大手門から日本橋までの距離を地図上で測図すると1.5kmほどあり、記述とほぼ合うと考えられます。もっとも、江戸城の西側に位置する吹上御苑までが更に1kmほどもありますから、御苑から日本橋までの往復だけでも5km近くの距離があることになります。

そして東海道を日本橋から戸塚へ進み、そこから鎌倉道を進むことになります。戸塚の鎌倉への分岐は江戸方の吉田大橋の脇と、京方の八坂神社前の2箇所があり、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では後者の道筋が描いてありましたが、「甲子夜話」に転記された触書には

東海道:日本橋から戸塚・吉田大橋手前まで

吉田大橋脇から柏尾川沿いの鎌倉道
柏尾川の改修前はもう少し蛇行していた

戸塚・八坂神社前から鎌倉・下馬までの
鎌倉道
左記の10kmはこのルート中から
該当区間を計測

一戸塚宿中有之候板橋際より左え入、鎌倉道御通行に候。戸塚より先き野道横道えは縄張致し置、往来は相通じ可申候事

(217ページより)

という一文が入っていますから、この遠馬・遠足では前者の道筋が採られたことになります。まぁ、この場合は宿場に用がある訳ではないので、わざわざ柏尾川を2度も渡って迂回するコースを採る必要もなかったでしょう。日本橋からこの吉田大橋の手前まで、現道上で測図すると約43km、吉田大橋の分岐から八坂神社からの道が合流するまでが約1.4kmほどあります。

鎌倉道は鎌倉八幡宮の北西の巨福呂坂切通を経て鎌倉入りすることになります。鶴岡八幡宮が折り返し点とされているものの、「甲子夜話」に採録された触書に

一雪之下にて御支度所之儀、御本陣大石平左衛門方え被仰付畏候。尤被召上物之儀は御銘々様より御持参被成侯に付、御末々迄御支度之品差出に不及候旨被仰付一奉畏候。勿論粗末之儀無之様に仕、御買物等所直段を以差出、諸事念を入御宿可仕旨被仰渡畏候事

(217〜218ページ)

とあることから、実際は雪ノ下の大石本陣まで南下していた様です。八幡宮の前から大石本陣までは270mほど隔たっています。これも現道上で測図すると、大石本陣の前までで約10kmあります。日本橋からの通算では54.4km、往復では108.8kmほどの距離になります。「甲子夜話」の「二十五里」は、その点では寧ろ控え目に見積もられた距離ということになりそうです。

この大石本陣で各人が持参した昼食を摂ってから復路に出発するということですから、本陣で多少一息ついたのでしょう。もっとも、競争相手がいることですからあまりゆっくりとはしていられなかったと思います。

「宝暦現来集」の方には遠馬に参加した8名の御馬方の名前と順位が記されているものの、「甲子夜話」も「宝暦現来集」も、遠馬の帰り着いた時刻については記していません。一方、遠足については双方の史料ともにもう少し仔細な記述が見られ、2人の著者の興味関心の主眼がどちらも遠足の方にあったことが窺えます。もっとも、「甲子夜話」の方は最初に帰り着いた人の名を「御鷹匠頭戸田五助組同心見習」の「戸川喜兵衛」とし、到着時刻を「七半三分」と記すのに対し、「宝暦現来集」は肩書は同じく「御鷹匠戸田五介組」の「市川喜兵衛」、吹上御苑に到着した時刻を「七ツ時七分」としているなど、双方の記述に幾らか食い違いが見えます。何れにせよ、現在の時刻に直すと午後5時過ぎ頃には江戸城に帰り着いたことになります。大石本陣での休憩時間や渡し場での停止時間などを勘案する必要がありますが、トータルで13時間ほどで江戸城←→鎌倉間の100km余りの距離を歩き切ったことになります。

一般的には、江戸日本橋を早朝に発って東海道を進んだ場合、初日の宿が保土ヶ谷か戸塚辺りになるのが当時の一般的な旅程でした。その倍以上の距離を1日で完歩した訳ですから、これはかなりの早足です。単純計算では8km/h弱の平均速度になりますが、これは途中の休憩時間等を除外していませんし、東海道には途中に権太坂や焼餅坂、信濃坂があり、鎌倉道も巨福呂坂切通などの上り下りがありますから、実際は平野部ではもう少し早く歩いていたでしょう。現在の100kmマラソンの記録ではこの倍くらいの速度で完走していますが、無論当時とはあらゆる点で条件が異なりますから、一概な比較は出来ません。

この時の歩行スタイルはあるいはジョギングに近かったのかも知れませんが、どの様なものだったのかはわかりません。ともあれ、最初に到着した喜兵衛について、「宝暦現来集」は

当日吹上御庭へ公方様被成侯に付、吹上へ罷帰、於広芝に道中歩行之体を上覧有之、御小納戸頭取亀井駿河(清容)守殿御達し、元馬場において、御酒肴御湯漬被之。

(219〜220ページより)

と記しており、その歩き振りを帰着後に将軍(家斉)の前で披露してみせたとしています。また、上位の者には褒美として酒や湯漬けを振る舞われたことが記されています。

この時には上記の喜兵衛の他、「宝暦現来集」の記すところでは全部で9人がこの遠足に臨み、うち喜兵衛を含む6名が刻限までに江戸城に帰り着いています。「宝暦現来集」の9人のうち、下位3名については品川宿への到着時刻は記されているものの、江戸城への帰還時刻は「不相知」としていますので、あるいはこの3人は完歩出来なかったのかも知れません。上位5人は年齢的には25〜30歳と「甲子夜話」は記していますが、何れも「御鳥見」や「御鷹匠」で、普段から鷹場などを歩いていて健脚が必要だった役職の人が遠足の参加を命じられた様です。

なお、上記の「甲子夜話」の引用中にも「野道横道えは縄張致し置」とあり、コースオフしてしまわない様に予め策が講じられていたことがわかりますが、それ以外にも沿道の各村々には馬のための水飲み場の用意、遠馬・遠足は右側を通行するため荷駄は左側を通行すること、道や橋の荒れている場所は出来るだけ普請を行い、支障のありそうな箇所では竹に赤紙を付けて目立つようにすることなどが、各村々への触書で指示されています。また、特に気になるのが当時橋がなかった六郷の渡しですが、

一六郷渡場にて船遅滞無之様、宿役人共出居、御渡船随分大切に致可申事

(217ページより)

と、可能な限り遅れのない様に配慮をすることが求められています。こうした触書が、遠馬・遠足の1ヶ月ほど前の2月10日付けで、沿道の各宿場・村々だけではなく、品川の長徳寺・妙国寺・海雲寺、鎌倉の建長寺といった、幕府の御朱印を受けていた沿道の寺にまで回覧されて、それぞれの域内の街道の準備に当たらせていたことがわかります。また、触書を出した翌日には役人が巡回して指示するという周到振りで、この遠馬・遠足がなかなか大掛かりに行われたことが窺えます。


解説によれば、こうした遠馬・遠足は川崎大師辺りまでの間ではしばしば行われていたものの、流石に鎌倉までの長距離のものは珍しかったので、「甲子夜話」や「宝暦現来集」の様な記録が残ったのだろうとしています(600ページ)。日本橋から川崎大師までですと、片道20kmあまりの距離がありますので、往復では現在のマラソンの距離に近いコースでしばしば健脚を競っていたことになるのでしょう。こうした記録が見つかったらまた紹介してみたいと思います。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その4)

前回に引き続き、今回も「玉匣両温泉路記」の復路の足取りを追います。今回は、鎌倉の宿を出る所から江戸に帰り着くまでの道筋を見ます。

前の晩に鶴岡八幡宮から帰ったあと、夕月が沈み、雪の下の通りの静まった頃には寝入った様ですが、やはり江の島や鎌倉の寺社を隈なく巡って疲れが溜まっていたのでしょうか。翌5月7日(グレゴリオ暦6月17日)の朝は幾らか寝坊した様です。

夏のよ(夜)のふ(臥)すかとすれば、暁のかねに驚き、起出て朝がれ飯(餉)たべ、案内のをとこをたのみて、「きのふ見残したるかた(たづね)ん」と別をつげて出。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 210ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


前日には江の島で案内の人を頼んでいますが、鎌倉では段葛に来たところで「さと人に、光明寺の道きゝてたどり行(203ページ)」と最初に光明寺に行く道を地元の人に訪ねていますから、ここでは案内は頼んでいないのでしょう。それに対して、この日は見残した寺を巡るのに宿で案内を頼んでいますから、この日の訪問先はこの案内を頼まれた人が選んだということになるでしょう。

「玉匣両温泉路気」五月七日の鎌倉での訪問先
五月七日の訪問先。括弧は前を通過したのみ
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ただ、書き出されている訪問先を見ると、大筋で最初に鎌倉西北の扇ガ谷、源氏山、山ノ内の寺社を巡ってから、再び鶴岡八幡宮の境内を抜けて鎌倉東北の二階堂の寺院を見ていますから、恐らくこの後金沢へ向かうことに配慮して巡る順番を考えているのではないかと思われます。もっとも、前日の記述でも訪れた順番の記述に混乱があったのですが、この日の記述でも例えば次の箇所には細かい順序関係に混乱がある様です。

海蔵寺へ行て、弘法の加持の水、十六の井と云を見るに、これも矢蔵の内に五升入の鍋埋(なべうめ)たるごとく、(よつ)づゝ四ッ並べたる。「浅き溜り水なれども、早魃(かんばつ)のとしにても(つく)ることなし」と云。藤ヶ谷(ふぢがやつ)の網引地蔵の前より五丁程山へのばれば、為相(ためすけ)卿のみ墓あり。この卿は冷泉(れいぜい)為家卿の御子なれば、哥読人(うたよむひと)はたづねをがむと(こそ)きゝしか。み墓のちりもはらひて有。をがみて又来りし坂を下り、山の間の細道をゆけば、長寿山(長寿寺)と額打たる寺あり。尊氏将軍のみ像有といへば、浅茅(あさぢ)の露払つゝ入てぬかづき奉る。この寺久しく僧はすまで、狐狸(こり)などの(すみ)けん、軒端も床も(あれ)にあれて物淋し。寺の裏にこの君のみ墓也と云五輪の塔あれども、都にて世をさり給ひたれば、爰に(ある)べきやうなし。みしるしまでに立たるものか。

新居の間魔堂をみて、円覚寺へ行に…

(「江戸温泉紀行」211〜212ページより)


この順序では、冷泉為相の墓を訪れたあと、山道を抜けて長寿寺へ出たことになっていますが、この区間の道の存在が怪しい上に、その次に出て来る円応寺(新居の閻魔)と円覚寺との位置関係で考えると、この区間を行ったり来たりしたことになります。やはり円応寺を見てから長寿寺へ訪れたと考える方が道順としては自然である様です。

他にも、宝戒寺を訪れた順番も荏柄天神社と大塔宮(鎌倉宮)の間に来ているのは、やはり位置関係の点で少々不自然です。正興は途中「小帒坂(巨福呂坂)」の茶屋で休憩した際に、鎌倉の絵図を買い求めている(214ページ)ので、後で位置関係については確認する手段があった筈ですが…。

他方、宿を出て最初に

辰巳(たつみ)の荒神のみ社をがみ、刀作りて世になりたる正宗の家の()と処を過、亀谷山寿福寺に行て、実朝卿の御廟所(ごべうしょ)の前にぬかづき奉る。

(「江戸温泉紀行」210ページより)

と、巽神社の前を過ぎた辺り、寿福寺の手前に正宗の工房があったとする点については、現在も鎌倉で続いている正宗の店の位置とは順序関係が合わない様に見えるものの、そのホームページには先々代の頃に現在地に移転してきたことが記されています。実際、寛政11年(1799年)2月の「鎌倉惣図江之島金澤遠景」(石渡八十右衛門、「鎌倉市図書館デジタルアーカイブ」へのリンク、リンク先PDF)では、「立山第三/壽福寺」と「辰巳荒神」の間に「マサム子ヤシキ」が記されており、この位置関係が正しいことがわかります。


あるいはもう少し鎌倉に留まって十二社辺りのの寺社まで見て廻るつもりだったのかも知れませんが、大塔宮まで来たところで天気が崩れて雨が降り出したので、鎌倉見物はここで打ち切って金沢への道を急ぎます。

あした(朝)より空くもり、「ふらまし」とおもひしに、北風さと吹て雨ふりきぬ。案内のをとこはこゝより戻し、をしへたる道をいそぎ行に、小川ありて橋をわたせり。道行人(ゆくひと)にとへば、「滑川(なめりがは)なり」と云。青砥(あをと)(藤綱)ぬしのふるごとおもひ出し、このあたり見まほしくおもへども、雨風強ければ、只いそぎに急ぎ行に、朝比奈(あさひな)の切通しにいたる。

切通(きりどほし)は、極楽寺・小袋坂とは違ひ、十町あまり登り、同じほど下る。登り(つめ)たる処にはふせ家あれども、麓の里より昼(ばかり)来り物うる家にて、雨風の強ければとく帰りさりしと見えて人も居ず。休むべきやうなく、杖を(ひき)つゝ、かたみ(互)にものもいはず。

(やうやう)金沢の里近く来り、をりには家もあれども、門の戸さして音もなし。(六浦藩主)米倉殿の御陣屋の前を左にして行。追手は岩山に作り道して、十杖あまりものぼりて門をかまへ、枝しげりたる松生立(おひたち)て、見こみはいとよろし。又五六丁ゆきて帆かげみゆれば、「この里の入海ならん」といよいよいそげば、道の右に海をうしろにして作りたるよき家あり。かごのをとこの来るにとへば、「こなたは千代本、つぎなるは扇屋」と云。「東屋まではいか程あり」といへば、「左の家こそ東屋なれ」と、いひ捨てゆく。

(「江戸温泉紀行」219〜220ページより)


「玉匣両温泉路記」鎌倉→金沢の道筋
鎌倉→金沢の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

朝比奈切通の頂上付近には茶屋があったものの、昼間だけ麓から人が上がってきて営業している所だった様で、雨で店じまいしていて休憩することも出来なかった様です。お互いに会話もなく金沢まで降りてきて、六浦藩の陣屋の角を左に折れて町屋まで辿り着いても、そこでもどの家も門を閉ざしてしまっていて、通りすがりの駕籠かきに「東屋」の場所を尋ねると「その左の家だ」と言って去ってしまった、という訳です。

Kanazawa8 Hirakata.jpg
歌川広重「金沢八景」より「平潟落雁」
当時の金沢はこうした干潟が多数存在する内海だった
("Kanazawa8 Hirakata" by 歌川広重.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
六浦藩の陣屋の辺りは現在は住宅街となってしまい、その一角に米倉家の子孫の方が今でも暮らしているとのことです。図ではポイントがやや北寄りになってしまいまいましたが、ここから六浦道の曲がり角辺りまでが大筋で陣屋の敷地だったと考えて良いでしょう。「東屋」は時代が下って後に明治憲法の起草作業が行われた場所ですが、現在残されている石碑に東屋の位置を「金沢八景駅から100m」と刻まれている点をヒントに、「道の右に海をうしろにして作りたるよき家」という正興の記述を手掛かりにポイントしてみました。現在は金沢付近は大きく埋め立てられて当時とは全く様子が異なりますので、当時の海岸付近の地形のヒントに「明治の低湿地」の地図を重ねてあります。肌色になっている場所は干潟(一部塩田)で、当時は現在の国道16号の脇まで遠浅の海であったことがわかります。東屋はその海を背にして建っていたことになります。

正興が何故「東屋」の名を出したのかはわかりませんが、後で「てうりも江戸にまされるとて、それがためにとひ来る人多しときけば、(221ページ)」と書いているところを見ると、前々から評判を聞き知っていたということでしょうか。ともあれ、この東屋で雨宿りすべく門を叩きます。

雨風()つよく、この家も戸ざして(ある)を、おどろかせば、はしための三たり四人出きたり、

「さぞかしなづみ給ひつらん。雨衣ぬぎ、藁沓とりて上り給へ」

(たち)さわぎ、清らかに作りたるひとまへ案内したり。ぬれたる衣ぬぎ捨、茶たう(食)べたれば、すこしこゝち(心地)は直りたれども、

「このとこやみ(常闇)をば、いかにせん。おのれ、手力(たぢから)を(男)のおほみ神にならひ、岩戸引明(ひきあけ)ん」

とたわぶれつゝ、戸少し明て見れば、弐杖斗はなれて大川ながれ、板橋ふたつわたせり。継橋ともいふべきさま也。橋の下は波高く(ながれ)早し。この流を見て水上を考るに、程ケ谷、戸塚の間を流るべきやうにおもへども、

「さきにかの(うまや)通りたるころ、かほどの大川(あり)とはおもはざりし」といへば、光興ぬしの、「我思ふも同じことなり」とて、通ひに出たるをとめにとへば、

「川にはあらず。橋のこなたも同じ入海にて、今引汐(ひきしほ)なれば、あなたへ流行(ながれゆく)也。あげ汐の時を見給へ、あのごとく、こなたへ流れ来る」と云。

「けふは朝より時こそしらね。何どきならん」といへば、

「まだ(ひつじ)の下り(午後三時)なれども、このさきは山道なれば、かごならでは(こえ)がたし。其かごだに、けふはなければ、早くとも泊り給ひて、雨やまば所の八景見て、明日とく程ケ谷へ越給へ」といふ。

「何さま、(かはき)たる衣又くたし、しらぬ山道、夜をこめてまよひゆかんより、爰に宿からまし」と、こゝろさだめぬ。

(「江戸温泉紀行」220〜221ページより)


この「東屋」に入って茶を啜ったところで多少落ち着いたところで、多少部屋が暗かったので光を入れようと障子を開けてみれば、窓の下に大きな川が流れている様に見え、保土ヶ谷宿を貫流する帷子川や戸塚宿と並行して流れる柏尾川の下流だろうかと考えた訳ですね。しかし、ここまでの道すがら、これほどの大きな川が流れる土地ではなかったことから、その疑問を宿に問いてみたところ、「川ではなく、引き潮の入海です」という答えが返ってきた、という流れです。

これも、前回同様に「潮汐計算」や「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」のページで潮位を計算してみました。どちらも「金沢」という項目がなかったので、比較的至近にある「横須賀」や「横須賀長浦」を選択しています。「潮汐計算」のページでは干潮時刻が15時44分、「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」では14時07分と、計算結果がやや大きく開きましたが、基本的には干潮という点では一致していると見て良さそうです。勿論、金沢は江戸時代末期以降大きく埋め立てられたり、付近では長浦で運河が開削されるなど、潮位変化に少なからぬ影響を与える地形の改変が数多く行われていますので、計算結果には少なからず影響があると考えるべきでしょう。

時刻を聞かれて「未の下り」という答えが返ってきましたが、当時は不定時法で時刻を見ますので、夏至に近いこの時期は現在の15時よりはもう少し遅い時間を指していたと見るべきでしょう。その時分になってもまだ引潮であったことになります。

まだ日が高いとは言え、雨の中を歩いてきてようやく落ち着いたこともあって、この先能見堂の辺りの山越えを夜通しで進む気にはならなかったのでしょう。この日はこのまま東屋に泊まり、称名寺の鐘を遠くに聞きながら一献を上げています。翌朝は八景を見て廻っていますが、

「案内なり」とて、「こゝにみゆるは何のけしき、かしこは何」とて、八景をしへたれども、月、(かり)、或は雪など、其をりに見るならば、けしきこと(異)ならましを、青葉しげれる時に「雪よし」といふも、ふさはしからぬ心地す。

(「江戸温泉紀行」223ページより)

確かに、夏至の近い頃に「瀬戸秋月」や、まして「内川暮雪」などと言われても、さっぱり風情が違ってしまってピンと来なかったのは仕方のないところかも知れません。

この後早めの昼食を済ませ、金沢から保土ヶ谷への道を経て東海道に復帰し、川崎で一泊して江戸へと帰り着いています。「浦島寺」に立ち寄ったのはこの日の途上でした。

ひと通り「玉匣両温泉路記」の道筋を追ってみましたが、一部には記憶違いかと思われる順序の混乱なども見られ、著者の素性がはっきりしないことも相まって、他の史料と擦り合わせて検討する必要は少なからずあると言えそうです。しかし、沿道の各地域の記述には興味深い点も少なからず含まれており、引き続き当時の地域史料の1つとして読みたい紀行文であると思います。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

NEXT≫