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2月14日に、マップルから「MAPPLE法務局地図ビューア 」(以下「地図ビューア」)を公開した旨のプレスリリースが出されました。 この地図ビューアに最初にアクセスした時に表示されるダイアログでは次の様に説明されています。「MAPPLE法務局地図ビューア」はG空間情報センターで公開されている登記所備付地図データを「MAPPLEのベクトルタイル」に重ねた地図です。MAPPLEの地図と重ねることにより、不動産鑑定や土地家屋調査などの不動産関連業務、公共サービス、農業、林業、災害対応など街づくりに関する業務のDXや効率化につながります。詳しくはプレスリリース をご覧ください。
現状では地籍調査は全国的に見てもあまり進んではおらず、地図データ化出来ている地域は更に少ないのが実情の様で、神奈川県 下では地籍調査の進捗率が10%に満たない市町村も数多く存在しています。このため、残念ながら神奈川県 下ではこの地図ビューアでも「ベクトルタイル」が全く表示されない地域の方がかなり多くなってしまっています。とりわけ、新旧の東海道筋で地籍調査が進んでいない地域が多く、こうした地域ではこのビューアで得られる新たな情報は期待できません。 但し、比較的早い時期に地籍調査を完了して地図データが存在する地域では、その後の開発前の状況を現在の地図と重ねて見ることが出来ます。それによって、古い時代の街道や河道の位置関係をより高い精度で把握することが可能な箇所が存在しているのも事実です。 今回はそうした地域の中から、中原街道の地図データを見てみたいと思います。横浜市 緑区の鶴見川に架かる落合橋から瀬谷区 の新道大橋手前までの区間では地図データが揃っており、現在の様に片側2車線の道路へ拡幅される前の街道の位置関係がかなり見て取れます。八王子バイパス下川井インター付近の地図データ マーカーの指し示す先が旧中原街道の区画「道-33」(「MAPPLE法務局地図ビューア 」をスクリーンキャプチャ) 八王子バイパス下川井インター付近の1960年代の空中写真と地形図との合成(「地理院地図 」より) とりわけ興味深いのが、現在は八王子バイパスの下川井インターの建設に際して大きく台地を削ったために消滅してしまった区間が、地図データ上に残っていることです。「道-33」という名称になっている区画がかつての中原街道で、現在の下川井インター交差点のやや南側を登る坂道であったことがわかります。 「地理院地図」の1960年代の写真でも、かつての中原街道の道筋を現在の地形図と重ねて見ることが可能ですが、写真では周辺の建物や生垣の樹木の影になって判別が難しかったり、現在の地形図との測地のズレもあって精度という点では課題が残ります。今回の地図ビューアの持つ精度については更に検証は必要ですが、基本的には公図としての精度は保っていると考えられますので、空中写真と比較すると現在の道路等との位置関係が明確になりやすい特徴はあると思います。「梛の木石碑前」バス停付近の地図データ マーカーの指し示す先が旧中原街道の区画「道-537」(「MAPPLE法務局地図ビューア 」をスクリーンキャプチャ) 上記箇所付近の1960年代の空中写真と地形図との合成(「地理院地図 」) 下川井インターから中原街道をもう少し西へ進んだ辺りでは、現在の県道の脇の細い路地と、「道-537」と名付けられた区画が重なっていることがわかります。この路地が旧中原街道の名残です。1960年代の空中写真では、南側の林の陰が街道に被ってしまっているため、道筋を判読するのが困難になってしまっています。 中原街道は江戸へほぼ直線的に向かう道であると、江戸時代の文書などに記されていることが多いのですが、実際の街道は僅かながらS字状のうねりがあったことが、地図データに残る街道の区画から読み取れます。その大半は道路の拡幅によって消滅しているのですが、ごく一部にこの様な旧道の「名残」が残った箇所があります。この地点については、街道の北側が崖になっていたことによって道路拡幅後に旧道を残して崖の上からの道筋との接続を確保する必要があったのでしょう。結果的に旧道と拡幅後の県道との間にごく細長い敷地が残りました。 また、地籍調査時点での中原街道の道幅が、後の拡幅工事によって獲得した道幅と比較して、数分の1程度の幅しかなかったことも見て取れます。但し残念ながら、この記事執筆時点では地図ビューアに縮尺が表示されていないため、「道-33」で示される「道幅」がどの程度のものであったかを地図上で計測することが困難です。現在の地形図で計測できる道幅との比較で類推するしかありません。 更に、地籍調査もそこまで時代を遡るものではありませんので、これを元に該当する公図を取り寄せて計測を行ったとしても、その道幅が何処まで時代を遡って適用可能なものと言えるか、特に江戸時代当時の記録との比較に耐え得るものであるかは、他の史料などと照らして考える必要があります。「動物園入口」交差点付近の地図データ マーカーの指し示す先が旧中原街道の区画「道-12」 同じ位置の地図データに旧中原街道の区画と考えられる「1449-110」も見える (どちらも「MAPPLE法務局地図ビューア 」をスクリーンキャプチャ) 同じ位置の「今昔マップ on the web 」 実際、下川井インターの北東側の「動物園入口」交差点付近には、「道-12」という区画が見えています。この区画がかつての中原街道の位置にあることは確かですが、道としての幅はかなり拡がっていることがわかります。1960年代の空中写真と比較すると、必ずしもこの区画全体が道として使われていた様には見えていませんが、地籍調査の時点で既に拡幅のための用地が取得されていたのかも知れません。実際、この交差点の南西側でかつての中原街道は小高い丘を迂回する道筋が付けられていましたが、その道筋は「1449-110」と名付けられた区画として存在するものの、現在の県道に位置する区画も既に複数に分かれて存在しており、拡幅に向けての動きが地籍調査の結果に反映していることが窺えます。 上で記した通り、神奈川県 下では地籍調査の実施率が低いことから、今回の様な検討を行い得る地域は限られています。しかし、古い時代に調査が実施された地域では、この様な区画の変遷を辿れる可能性が秘められており、その点では今回の地図ビューアはこうした変遷を捉えやすく表示してくれるツールとなり得る存在であると言えます。まだ実験的な公開という段階ですが、今後の展開を見守りたいと思います。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-572.html マップルラボ「MAPPLE法務局地図ビューア」の公開を受けて
前回 に続き、、南詢病居士=京極高門(以下「高門」)の「湯沢紀行(春の家づと)」を読み進めていきます。今回も「近世紀行日記文学集成 一 」(津本 信博編 1993年 早稲田大学出版部、以下「集成」)に所収されている翻刻に従って読み進めます。歌川広重「六十余州名所図会 相模 江之島岩屋ノ口」 高門の「湯沢紀行」から 170年ほど後の姿 (「国立国会図書館 デジタルコレクション 」より) 酒匂川の川止めのために小田原で2日の滞留を余儀なくされた影響は、やはり後々の旅程に現れてきました。片瀬川を渡った高門は、そのまま江の島へと向かっているのですが、まさごのうヘ浜辺はる/\゛とみわたさる 舟をよびて江のしまにわたる
蓬島春闌日棹舩上遠林龍池聞気息神窟見淵深碑断千年旧竹願五字吟題望南海月一夜聴潮音
こゝを蓬萊洞といふ 徐( じょ ) 福の所にあそべりとつたふ
(「集成」108~109ページ、以下も含めルビも同書に従う)
「蓬莱洞」は江の島の岩屋洞窟に当たりますので江の島の奥まで往復したことになります。しかし、江の島の記述はそこで五言律詩を詠んだことまでで、すぐにそれより腰越竜の江などいふ所にいたる 七里が浜金( かね ) 洗沢稲村が崎を過て極楽寺星月夜などとひもて行てみなの瀬川をわたる 今の人あやまりていなせ川なみのせ川などゝいへり するがのまつち山をばたうち山といひすみだ川をはたうち川といひいほはらをいばらといひ大和のとみの小川をとびかはといふたぐひなり いにしヘ此所にて為相卿の詠に
塩よりも霞や先にみちぬらんみなの瀬川の明るみなとは
折にあふ面かげ幽玄に覚え侍り 泊( は ) 瀬の観音大仏などふし拝み雪の下といふ所に宿とひて夕餉( かれいひ ) す
(「集成」109ページ)
と先を急ぎながら鎌倉の各所を巡って雪ノ下の宿に着いたことを書いています。該当地不詳の「竜の江」(腰越の満福寺の山号「龍護山」か、「龍口寺」に因んだ話を聞き違えたか)や長谷観音の「はせ」の当て字に、高門がこれらの地についてあまり深い予備知識を持ち合わせていなかったことが窺えます。恐らくこれらの地を急ぎ足で巡りながら、口頭で伝えられた地名や由緒などをそのまま走り書きしたものなのでしょう。
稲瀬川の位置 (「地理院地図Vector」で作図したものに加筆 「地理院地図 」で該当箇所を参照) そうした中で「みなの瀬川 (稲瀬川)」についてはその名称の混同について自説を説いていますが、冷泉為相の短歌が念頭にあったが故でしょうか。為相の「塩よりも〜」の歌は「藤谷和歌集 (リンク先は「国文学研究資料館」の「館蔵和古書目録データベース」中の該当ページ:3〜4行目)」の中に収められているものですが、高門は若い頃からこれらの歌集に触れていた可能性が高そうです。先を急ぐ道中でも為相の歌が思い浮かぶほどに、高門の中ではこの地に因む重要な人物として彼の頭の中にあったということなのかも知れません。 更に、高門がこの帰路で少なからず焦りを感じていたことが窺えるのが、この夕食の後の行動です。
あすは鎌倉をたつべきなればくれぬ間にとて靏岡に参拝してみてぐらまいらする次に
世とともに森のしめ縄くりかへしいのる千とせは我君がため
三里長松澆露碧千間横檻映霞丹源公
昔日親創建我祖回思在近官
わかとを門祖定綱盛綱高綱など右大将家に供奉したりけることをおもひいでゝ侍り 建長円覚浄智春福の諸刹をとふ 各開山塔を礼す
…
山の名はとへどしら雲いはかねの松の柱も朽しふる寺
…
此寺の山陰に実朝公の御廟ありと問しほどにたづねてまいる 夕月ほのかにさしいでゝ落花みちふみ分がたし
散埋む苔地の華に夕月夜おぼつかなしやのこる古塚
かへさ木ぐらくてたど/\゛し あないもいかゞと雪の下のやどりにかへりて夜もすがらあらしを聞あかす
嵐吹花を一夜のかり枕明てふみみる雪の下道
(「集成」109~110ページ、…は中略)
京極高門が夕餉後に訪れた寺社 (「地理院地図」上で作図したものを スクリーンキャプチャ) 寿福寺の源実朝墓所 (Tarourashima - 投稿者自身による作品 , パブリック・ドメイン, Wikimedia Commons による)
高門が夕食を摂った時にはまだ日は沈んでいなかったことが、最初の「くれぬ間にとて 」という表現でわかりますが、その後日没で閉門してしまうまでの間に大急ぎで鶴岡八幡宮や建長寺、円覚寺、浄智寺、そして「春福」は恐らく「寿福寺」のことかと思いますが、鎌倉五山を可能な限り巡っています。鶴岡八幡宮では短歌と七言絶句を、それ以外の寺では(上記引用では省略しましたが)七言絶句を1首ずつ詠んでいます。更に寿福寺には北条政子の、そして源実朝の墓所とされる「やぐら」があり、周囲が暗くなる中を場所を問い合わせながら訪れ、1首詠んでいます。そこで日が暮れて諦めて宿に戻っていますが、雪ノ下から最も遠い円覚寺まで2kmはありますし、間には巨福呂坂の切通もあって平坦な道筋ではありませんから、その間の道筋も考えると体の弱い高門には相当にきつい寺社仏閣巡りになったのではないでしょうか。 この晩から天気が悪くなってしまった様で、雪ノ下の宿に戻って嵐の音で寝付けぬ一夜を過ごしたことを歌に詠んでいます。前々日も波の音で寝付けぬ一夜を過ごしていますから、どうもこの帰路は熟睡できない夜が多かった様です。 翌朝、まだ見残した箇所があるからと再び建長寺に立ち寄って再び七言絶句を2首詠み、更に法華堂(源頼朝墓所があるとされる)で和歌1首、報国寺と浄妙寺で七言絶句を1首ずつ詠みつつ金沢へと向かいます。いわゆる「鎌倉五山」には時間がない中でも曲がりなりにも一通り足を運んだことになります。雨ふりいでゝ道もしみつく計なり 朝比奈の峠坂( たうげざか ) といふを過て六浦( むつら ) の里なり 鳥井に正一位大山( おほやま ) 積( づみの ) 神宮と額あり 旧記には瀬戸の三島大明神とみえたるよし ある人の申き いにしへ伊豆より勧請しけるとなん 能因法師が神ならば神とよみしは伊予の三島にての事などおもひいでゝ
爰も又大山つみの神垣にあまくだります跡やへだてぬ
金沢の旅店にてひる過るまでやすらふ 兼好が詠草に比所にむかしすみし家のいたうあれたるにとまりて月あかき夜ふるさとのあさぢの庭の露の上にとよめり 兼好すみなれし所にや宿はいづくともしらず 神社などにてやありけらし それより称名寺をたづねけれどおぼつかなくて能化堂のほとりまでたどり行て筆捨松とかいへる木陰にしばしたゝずむ 雨にかすみて島々にもみえず 塩やくけぶりもなし
もしほやくけぶりも浦の遠島もたゞ春雨にかすむ夕浪
立かへりて称名寺に詣ず 楼門の金剛力士世にたぐひなき形像にて威神あり 本堂にのばりて念誦( ねんず ) す いとたうとし 経蔵文庫おもかげ斗のこれり 青葉の楓若ばやはらかにもえいづ みぬ人のためとてみつばよつば袖にこぎ入る
今も猶そめぬしぐれのふるごとを此一本の青葉にぞ思ふ
それより山路をはる/\゛分てくらきにほどがやのすくにいづ こよひは此所にやどりてあすは江府にかへらんとて人々よろこびあへり
(「集成」111~112ページ)
高門が訪れた金沢の名勝 (「地理院地図 」上で作図したものを スクリーンキャプチャ) 「新編鎌倉志」卷之八 能見堂所見図 (「国立国会図書館デジタル コレクション 」の 画像ファイルに矢印・説明加筆)」
「大山積神宮」が旧記には「三島大明神」と記されているというのは、現在の「瀬戸神社 」の主神が大山祇命( おおやまつみのみこと ) であることから、この頃にはその名を扁額に掲げていたのでしょう。後年の「新編武蔵風土記稿」でもこの扁額のことが記されています(卷之七十四「社家分村寺分村平分村」中の「瀨戸明神社」の項)。ここで短歌を一首詠んだ後、その近くの茶屋で昼休憩を摂りながら、吉田兼好がこの金沢の地に住んでいたことに思いを馳せてその場所が何処であろうかと書いています。一説ではこの地の上行寺 の境内で草庵を営んでいたとも言われており、「新編武蔵風土記稿」の同寺の項(卷之七十四「社家分村寺分村平分村」中)にも「吉田兼好寓居蹟」について記されていますが、高門はその説については知らなかった様です。「新編鎌倉志」も「兼好、遁世の後暫く此所に居たるとみへたり。今其舊跡さたかにしれる人なし。 」としているため、あるいは江戸時代初期には旧跡の地を上行寺境内とする説はまだ無かったのかも知れません。 その後称名寺に向かうつもりが道を間違ってしまって向かった先を「能化( け ) 堂」と書いていますが、その近くに「筆捨松とかいへる木陰 」があることを書いていますので、これは「能見( けん ) 堂」のことでしょう。「新編鎌倉志」では「能見堂」について「里俗は、のつけん堂と云。 」(以下も含め引用は卷之八、雄山閣版より)と記していますので、現地で訊いた名称を正しく聞き取れなかったのかも知れません。 ここからの眺めについて雨中のために藻塩焼きの煙も見えないことを言っているのは、「新編鎌倉志」に「此西の鹽燒濱を、釜利谷( カマリヤ ) と云。 」と記されていることに対応します。但し、以前も触れた通り「新編鎌倉志」の版本が世に出るのは「湯沢紀行」の翌年ですので、高門が何らかの方法で出版前の「新編鎌倉志」の内容に振れる機会がない限り、高門の藻塩焼きに関する知識は「新編鎌倉志」以外から得たことになる筈です。実際、「能見堂」の名前を間違っていたり、「筆捨松」について現地でその名を聞き及んだ様な記述をしていることからも、この時点では高門は金沢についてはまだ断片的な知識しか持ち合わせていなかったのではないかと思われます。また、「新編鎌倉志」が「金沢」に「カナザワ」とルビを振っているのに対し、高門は古来地元で呼び慣わされていた「かねざわ」とルビを振っている(111ページ)点も、高門と「新編鎌倉志」の関係を考える上では注目すべき点と考えます。 能見堂から称名寺 へは、「立かへりて 」と書いていることから一旦茶屋付近まで戻ったものと見られます。時間がない中敢えて遠回りになる道を辿らざるを得なかったのも、それだけ不案内な中で確実な道を選ばざるを得なかったからでしょう。今も残る仁王門を経て本堂に詣でた後、「経蔵文庫」を訪れて「おもかげ斗( ばかり ) のこれり 」と言っているのは、恐らくは今の「金沢文庫」のことと考えられます。「新編鎌倉志」でも金澤文庫舊跡 …其後は頽破して書籍皆散失す。一切經の切殘たる、彌勒堂にあり。
としていますので、「経蔵」としているのは残存している経典を指して呼んだものでしょう。 以前も書いた通り、高門は後に金沢八景の各所で短歌を詠んでおり、それが歌川広重の金沢八景図 に取り上げられています。洲崎晴嵐(洲崎神社)にきはへるすさきの里の朝けふり はるゝあらしにたてる市人
瀬戸秋月(瀬戸神社)よるなみの瀬戸の秋風小夜ふけて 千里の沖にすめるつき影
小泉夜雨(手子神社:小泉弁財天)かぢまくらとまもる雨も袖かけて なみたふる江の音をぞおむふ
乙艫帰帆(海の公園より内陸の寺前地区の旧海岸線)沖つ舟ほのかにみしもとる梶の をともの浦にかへるゆふなみ
稱名晩鐘(称名寺)はるけしな山の名におふかね沢の 霧よりもるゝいりあひのこゑ
平潟落雁(平潟湾)跡とむる真砂にもしの數そへて しほの干潟に落る鴈かね
野島夕照(野島夕照橋付近)夕日さす野嶋の浦にほすあみの めならふ里のあまの家々
内川暮雪(内川入江(能見堂の解釈)または瀬ヶ崎から九覧亭にかけての平潟湾(金龍院の解釈))木陰なく松にむもれてくるゝとも いざしらゆきのみなと江のそら
天明甲辰秋七月、擲筆山地蔵院現住來仙再刻
(「金沢文庫特別展図録 金沢八景―歴史・景観・美術 (以下「図録」)」1993年 神奈川県 立金沢文庫 166ページより、括弧内の該当地はWikipedia による)
その歌は「金沢八景詩歌案内子」という冊子に東皐心越の七言絶句と共に掲載されていますが、この冊子は横浜市立図書館デジタルアーカイブ でPDFの形で公開されています。この冊子について、「図録」では東皐心越の漢詩と無生居士(京極高門)の和歌を並べて収録したもの。框郭(18.4×12.3)を施した、表紙を含め全四丁の小冊子。『金沢八景案内子』と合綴されているものが多い。十八世紀には初版が刊行されていたようであるが、現存するものは天明四年(一七八四)の再刻本と天保十二年(一八四一)の再々刻本である。内容に異同はない。八景の詩歌として最も流布したもので、広重大判の「金沢八景」に刻まれる和歌もこれを出典とする。金沢八景の配列も多くはこれに従っている。
(153ページより)
としています。この冊子が最初に出版された時期が不明であることによって、高門がこれらの和歌を詠んだ時期が明確に特定できていない状況が仄めかされています。実際、高門が何時どの様な経緯でこれらの和歌を詠んだのか、詳らかにする研究を私は今のところ見つけられていません。 「湯沢紀行」で詠まれた金沢での短歌は何れも後の「金沢八景詩歌案内子」のそれとは合致しません。従って高門は「湯沢紀行」の後改めて金沢を訪れて「金沢八景詩歌案内子」の8首を詠んだことになります。実際、「湯沢紀行」で詠まれた3首は何れも「八景」の「題目(「称名晩鐘」「瀬戸秋月」「内川暮雪」の様な)」に沿ったものにはなっていません。「金沢八景」に繋がる最初の例とされる三浦浄心の「順礼物語」は寛永年間(1624~44年)の刊行ですので、「湯沢紀行」はそれより60~40年ほど後にはなりますが、東皐心越の金沢八景の七言絶句は「新編鎌倉志」に則って元禄7年(1694年)に詠まれていますので「湯沢紀行」の後ということになります。浄心の著作に高門がどれほど触れていたかは未知数ですが、「湯沢紀行」に見える高門の知識がまだ断片的であることから考えると、高門が浄心の著述を念頭に置いていた可能性は薄そうです。その点も含め、この時点での高門はまだ「金沢八景」について詠ずるほどには金沢への思いを深めて訪れたのではなかったのではないかと思えます。 その一方で、高門が後年の「金沢八景」に繋がる知識を得ていた点が既にこの時点で垣間見えるのも事実です。この点について、「サムライの書斎 江戸武家文人列伝 」(井上 泰至著 2007年 ぺりかん社)では八景が和歌の世界に取り上げられるようになるのは、冷泉為相( ためすけ ) からで、後世への影響力も大であった。高門の紀行にも関東に地盤を持った為相と周辺の人物への関心がほの見える。金沢称名寺( しょうみょうじ ) 青葉の楓、鎌倉浄光明寺の為相塔、藤谷( ふじがやつ ) の屋敷跡、英勝寺近辺の阿仏尼( あぶつに ) 卵塔( らんとう ) に言及、みなのせ川・片瀬川では為相詠、極楽寺月影の谷・逆和( さかわ ) (酒匂)川では『十六夜日記』を想起している。それは又、高門が紀行を書く際、これら中世の歌文・紀行を範とした証でもあろう。鎌倉の名の濫觴鎌倉山稲荷・みなのせ川の同定には、『新編鎌倉志』からの孫引きではあるが、尭恵( ぎょうえ ) 『北国紀行』が、酒匂川の名の由来の考証には『海道記』が引かれている。
(上記書59ページ、ルビも同書に従う )
と、冷泉為相の影響を見出しています。小田原の浜辺で瀟湘八景に思いを至らせたのも、為相の影響が既にあったが故と考えて良さそうです。 とは言え、「湯沢紀行」の際には酒匂川の川止めの影響で日程が短縮してしまい、金沢には半日ほどしか滞在出来ずに保土ヶ谷へと去らざるを得なかった上に、折からの雨で遠景を楽しむことが出来なかったので、この時には金沢について思いを深めるにはあまりにも消化不良の旅路に終わってしまったのは確かでしょう。伊豆大島の噴火を見つつも瀟湘八景のことを考えてしまったのは、大島の実情についての情報不足と前回分析しましたが、2日も足止めを喰ったことへの焦りも大いに加わってのことだったかも知れません。 今回は「春の家づと」の部分の分析で終わってしまいましたが、何時か「湯沢紀行」の全文を目にする機会があれば、高門が江戸を発ってから箱根で湯治するまでの様子についても読み込んでみたいと思います。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-552.html 南詢病居士=京極高門「湯沢紀行(春の家づと)」より(その3:鎌倉&金沢八景)
前回 はメトロポリタン美術館のコレクションの所蔵するスチルフリートの「日本の風景と装束」に収録されている写真を何点か取り上げて検討を施しました。今回も海外のデジタルコレクションから明治期の写真を何点か取り上げてみたいと思います。 今回は「ニューヨーク公共図書館(New York Public Library) 」のデジタルコレクションから、日下部金兵衛の写真を何点か取り上げます。※「New York Public Library」は日本語版Wikipedia にある通り、名称に「Public」とあるものの設置主体はニューヨーク市ではなくNPO団体です。紛らわしい名称ですが、日本語では「ニューヨーク公共図書館」という名称で統一されている様ですので、この記事でもこの名称で通します。なお、略称としては「NYPL」を使います。
日下部金兵衛 はフェリーチェ・ベアトやスチルフリートの下で働いた後、明治13年(1881年)頃に独立して横浜で写真館を開設し、1912年(大正元年)に引退した写真家です。ほぼ明治期に活躍した写真家と言えますが、NYPLでは「Kimbei, Kusakabe (Japanese photographer, active ca. 1880-1900) 」と明治前期から中期にかけて活躍したという認識を持っている様です。この認識のズレがどこから来ているのかは不明です。日下部金兵衛の写真集の表紙 (Inlay and lacquer-work front cover depicting two musicians and a dragon mask entertainer [From The New York Public Library]) NYPLのデジタルコレクションには、現時点では日下部金兵衛の写真 が100点ほどアップされています。検索結果の中には写真ではなく、右の様な漆塗りの象嵌細工が混ざっていますが、これは金兵衛の出版した写真集の表紙として作成されたものの様です。菊の御紋や葵の御紋があしらわれた理由は不明ですが、わざわざ手の込んだ象嵌細工の表紙を付すほどということから考えて、海外からの渡航者向けにかなり高額で頒布したものと思われます。以下の写真もこの様な写真集の中に収められ、横浜を訪れた渡航者経由でNYPLのコレクションに加えられたものなのでしょう。 金兵衛の写真は何れも手彩色が施されています。ディテールまで何処までも緻密にカラーリングされている訳ではありませんが、モノクロでは何が写っているのか判別しにくい箇所では、撮影者による彩色が手掛かりになると思います。
1. 江の島の通り 日下部金兵衛「江の島の通り」 (Street in Yenoshima [From The New York Public Library]) 撮影日はNYPLでは「1880 - 1899 (Questionable) 」とされており、事実上NYPLが金兵衛の活動時期以上には撮影日を絞れないことを示しています。 この構図の写真については、以前 ラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を検討した際にも長崎大学の「幕末・明治期日本古写真超高精細画像 」に収められているスチルフリートの写真を 取り上げたことがあります。このスチルフリートの写真も撮影時期不明とされているため、スチルフリートがこの写真を撮影した際に弟子として金兵衛が同行していたかどうかはわかりません。 更に、東京都写真美術館(以下「写美」)のコレクションには金兵衛がやや横にズレた位置から撮影した別の写真 (該当写真への直リンクが貼れないため、このリンクで表示された初期画面から6枚目の写真を選択下さい)が見つかりました。この「写美」の写真の撮影時期は「1880-1890年頃」とNYPLの写真よりは幾分狭い期間に限定されていますが、まだ十分に特定されているとは言えず、他の写真の撮影時期の特定などに使うには不足です。 これらの写真を比較すると、まずスチルフリートの写真では中央の参道の向かって右奥に見える洋風の高欄の建物が1軒なのに対し、NYPLの金兵衛の写真では3軒ほどに増え、更に左手前の建物も更新されて上の階に高欄を備えた障子窓が巡らされるなど、明らかに大きく変化しています。これらの差異から、時系列的には金兵衛の写真の方がスチルフリートの写真より後に撮影されたと判定できます。金兵衛の写真では他に、「江島神社」と記された扁額が鳥居の上に新たに掲げられたのがスチルフリートの写真との大きな違いです。 そして、金兵衛の撮影した2枚の写真同士を比較すると、「写美」の写真では向かって左手前の建物の軒下に提灯が並んでいたり、鳥居の上に笹と思しき草が括り付けられていることから、こちらの写真の撮影時は祭礼であったと見られます。対してNYPLの写真にはこうした飾り付けが見られませんので、別の日の撮影であることがわかります。また、「写美」の写真では左手に小屋の様な建物が見え、この小屋がスチルフリートの写真にも写っているのに対し、NYPLの写真ではその存在が見られなくなっていますので、NYPLの写真の方が後日に撮影されたと判断出来ます。 「写美」の写真とNYPLの写真の比較では、参道の石畳が組み替えられたと見えて、「写美」の写真までの参道に比べてかなりすっきりとした印象に替わっています。また、NYPLの写真を原寸大に拡大して良く見ると、参道には洋風の街灯が設置されているのに気付きます。 こうした一連の変更からは、江の島の弁財天が神社として再編された後、海外からの観光客が島に来訪する様になったことを受けて、その施設を彼らの文化の建築様式や好みに合わせて更新し続けていた様子が見えてきます。残念ながらどの写真も撮影時期が十分に絞れていませんので、どのくらいのペースで設備の更新が進んだかを窺うことは出来ませんが、島の入り口の景観が次第に変化していく様子をこれらの写真の比較で見出すことは出来ると言えます。
2. 江の島の眺め 日下部金兵衛「江の島の眺め」 (View of Yenoshima [From The New York Public Library]) こちらの写真もNYPLでは「1880 - 1899 (Questionable) 」とされています。ただ、同じ江の島での撮影であることを考えると、基本的には「江の島の通り」のロケに出掛けた折にこの「江の島の眺め」も撮影されたと考えるのが自然でしょう。ただ、先ほどの「写美」の写真で分かる通り、金兵衛は江の島には少なくとも2回以上はロケに出掛けている訳ですから、別のロケの際の撮影であった可能性も残っています。
「山二ツ」の位置(Googleマップ ) これは江の島の「山二ツ」と呼ばれる、奥津宮へと向かう参道途上の鞍部を、西側から撮影したものです。この辺りで南側の崖が切り込む様になっており、鞍部を見下ろす位置からその崖を見通すことが出来る場所です。金兵衛の写真にもその崖の上部が写っていますが、その部分に緑の彩色を載せていないことから、金兵衛もこの崖を認識していることがわかります。 江の島の入り口の風景の方は上で見た通り幾度となく撮影された記録が残っており、江戸時代の浮世絵でも片瀬の海岸から見た江の島姿が数多く描かれるなど、江の島は島の外から描かれたり撮影されたりする機会の方が圧倒的に多かったと言えます。これに対して、島の内部の風景の方は意外に見掛ける機会がなく、とりわけこの写真の様にこれといった施設がないポイントで撮影を試みているのは大変に珍しいと言えます。 江島神社の社殿など他に撮影されても良さそうな被写体を差し置いて、敢えて「山二ツ」を撮影しようと思い立った理由が何処にあるのかは推測するより他ありませんが、恐らくは金兵衛がベアトやスチルフリートの下で働くうちに西洋の人々がどの様な風景を求めているのか学んだ結果なのではないかと思われます。スチルフリートなども、前回見た通り神社の本殿・拝殿や寺院の本堂といった主要な建物に拘らずに被写体を選んでおり、こうした趣向を金兵衛も受け継いだのではないでしょうか。 現在はこの道筋の両側に土産物屋や食堂が立ち並ぶ様になったので、この写真ほどには見通しが利かなくなりましたが、そうなる以前の風景を伝えてくれる貴重な写真と思います。道筋自体の変化は殆ど認められませんが、彩色の使い分けから見ると今よりも生えている木が少なく、葛などが生える草原の様な植生が今よりも拡がっていたのではないかと推測できます。また、土産物屋と思しき小屋から道の上まで廂を掛けて観光客に日陰を提供しようとしている様子も写っています。
3. 金沢の眺め 日下部金兵衛「金沢の眺め」 (View of Kanasawa [From The New York Public Library]) 参考:スチルフリート 「KANASAWA TEAHOUSE.」(再掲) (「日本の風景と装束 (Views and Costumes of Japan) 」メトロポリタン美術館 より))
前回の記事で取り上げたスチルフリートの金沢の写真に程近い場所からの1枚です。この写真も撮影時期は上の2枚と同様の表記になっています。 金兵衛の写真の中央に、海中に突き出た弁天社の姿が見えています。その奥に3階建ての建物が見えていますが、これが恐らくはスチルフリートの写真の中央に写っている茶屋の位置であろうと考えられます。しかし、スチルフリートの写真では2階建ての家屋であることから明らかに建物は更新されており、金兵衛の写真はスチルフリートの写真よりかなり後の時期に撮影されたものであろうと思われます。金兵衛の写真の撮影場所(推定) (地理院地図 ) 金兵衛の写真の撮影場所は、弁天社の位置関係などから考えて、右の地図の中心線の辺りであろうと推測できます。現在は京浜急行の金沢八景駅に隣接するエリアで民家の裏手の林となっており、金兵衛の写真の手前側に写っている松とは異なり広葉樹が密に生い茂っている様ですので、現在は金兵衛の様に弁財天の辺りを見通すのは困難になっていると思われます。 金兵衛の他の写真についても、後日機会があれば改めて取り上げる予定です。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-531.html 日下部金兵衛の写真:NY公共図書館デジタルコレクションから
最近は主に海外の美術館や博物館で、パブリック・ドメインになっている絵画や写真について、逐一許可を求めなくても自分のブログなどで利用出来る運用としている所が増えてきました。アメリカのメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art) もその様な美術館の1つで、ここにも日本の美術や写真などが多数コレクションされています。 その様な絵画や写真の中に、私の関心領域に重なるものがないかを捜していて、スチルフリートの「日本の風景と装束(Views and Costumes of Japan) 」という写真集を見つけました(以下「写真集」、以下の「写真集」の写真は何れもメトロポリタン美術館のコレクションサイトのもの。)。※Raimund von Stillfried はドイツ語圏のオーストリア出身の写真家ですから、ドイツ語流の読みに寄せるのであれば、Wikipediaの記事タイトルの通り「シュティルフリート」と表記する方が良さそうです。ただ、彼の撮影した写真がこれまで紹介される際には「スチルフリート」と表記されることが多かった様です。私の以前の記事でも「スチルフリート」と表記しましたので、今回も「スチルフリート」で統一します。
「写真集」扉ページ 「1862」と手書きで記されている 「写真集」はメトロポリタン美術館のサイトによれば1872年(明治5年)の成立とされています。一方、メトロポリタン美術館の所蔵するこの写真集の扉ページには、チャコペンの様なもので「1862」と表記されており、「写真集」の所有者が本来の成立年の10年前に成立したと思い込んでいたことが窺えます。しかし、スチルフリートが「写真集」を作成する会社を興すのが1871年のことですから、それより前に「写真集」が成立したというのはあり得ません。「写真集」には斬首刑になった男性の首が晒されている様子が収められているのですが(volume 1, plate 32)、この写真の右上に見える札に「壬申三月」と日付が記されており、これは1872年に相当しますので、やはりこれ以前には成立年は遡らないことになります。 「写真集」にはvolume 1に50枚、volume 2に50枚の合計100枚の写真が収められています。一部の写真はこれまで出版されてきた明治初期の写真集などに収めて紹介されてきたものを見たことがありますが、こうして「写真集」丸ごと一覧するのは初めてですし、何より何れの写真とも高画質で大きく引き伸ばして細部を確認出来るのが大きいです。volume 1は主に装束や東日本の、volume 2には主に西日本の写真が収められるという区分けになっていますが、中には撮影地を判断し難いものも含まれています。今回はまず、神奈川県 内の数ヶ所の写真について、現在との変化が興味深いものを取り上げてみたいと思います。※メトロポリタン美術館のサイトでは、「写真集」の個別の写真への直接のリンクは用意されていない様です。何枚目の写真に該当するか、サイトでの表記に従ってキャプションに記しますので、それを手掛かりにサイト上で繰って下さい。この記事に収めた写真は横幅1000ピクセルに縮小し、記事には横幅320ピクセルのサムネイル画像を表示させています。
1. 龍口寺 「写真集」の龍口寺の写真 (volume 1, plate 21) 現在の龍口寺(ストリートビュー ) 中央付近に髭題目の石碑が見える
「写真集」には「KATASSEHTEMPLE.」と銘打たれた写真が1枚掲載されています。左の一段高い所に設置された髭題目の石碑の台座に「龍口」の文字が刻まれていることから、この寺が片瀬の龍口寺と判断出来ます。この髭題目の石碑は現在も存在していることが確認できますが、ストリートビューで側面を確認すると「高祖五百五十遠忌」とあることから、日蓮没後550年に当たる1832年(天保2年)に建立されたものと見られ、写真撮影時点で確かに存在していたことが裏付け出来ます。 それに対し、現在はこの髭題目のすぐ脇あたりに仁王門が建立されており、右側の門前の建物(障子に「御休泊」とあるのが見えることから旅籠と見られる)が消失するなど、かなり様子が様変わりしていることが窺えます。2. 清浄光寺(遊行寺) 「写真集」の清浄光寺の写真 (volume 1, plate 22) 現在の清浄光寺冠木門(ストリートビュー )
「写真集」では「FUJISAWA.」とだけ銘打たれていますが、惣門の奥に続く坂道の様子から、清浄光寺の「参道四十八段(いろは坂) 」のものと同定できます。また、門の両側に設えられた鉦の灯籠も、現在惣門の両側に残っているものと同じであり、清浄光寺のサイトにある通り天保13年(1842年)に設置されたものであることから、この写真撮影当時に存在したことが裏付け出来ます。 他方、現在の惣門は「冠木門( かぶきもん ) 」と呼ばれるシンプルな形状のもので、写真のものとは明らかに異なっています。もっとも、写真を良く見ると門の足元は門柱が2本立てられているのみで、惣門の形状は屋根以外はそれほど隔たりは無いと見るべきなのかも知れません。「写真集」の清浄光寺境内 (volume 1, plate 23) 現在の清浄光寺中雀門(ストリートビュー )
「写真集」の次のページには、同じく「FUJISAWA.」と銘打たれた清浄光寺境内の写真が載せられています。ここに写っている「中雀門 」は安政6年(1859年)の建立で、関東大震災での被災にも拘らず組み直されて現在まで伝えられている建造物ですので、この写真には建立後13年ほど経った頃の姿が写っていることになります。隣の黒門ともども、この辺りの様子は今と殆ど変化していない様です。 但し、その黒門の隣は現在は植え込みになっていて建物などはありませんが、写真ではその位置にかつては何らかの建造物があったことがわかります。建物の様式からは何らかのお堂であった様に見受けられますが、委細は不明です。 それにしても、先ほどの龍口寺もそうですが、清浄光寺でも中心の被写体とされているのは門ばかりで、お寺の中心的な存在である本堂の写真がありません。これは「写真集」全体を通じて見られる傾向で、寺社での撮影が多い割に本堂や本殿・拝殿の写真が多くありません。こうした被写体の選択にも何か意味があるのか、考えてみるべきポイントがありそうです。スチルフリート自身の選好によるものなのか、あるいは当時のカメラのレンズの制約が関係するのか、彼の他の写真を見ていくことで明らかになる部分があるかも知れません。3. 金沢八景 「写真集」の金沢の茶屋の海側からの光景 (volume 1, plate 16) この写真の表題は「KANASAWA TEAHOUSE.」とされています。茶屋を撮影したものと考えられますが、海沿いに石垣で土台を組んで家屋を建てているその特徴がはっきりと捉えられています。後背には小高い山が迫り、この辺りでは平場があまり広くないことが窺えます。 一見すると海上に船を浮かべて撮影したかの様にも見える写真です。しかし、この頃の写真は露光に時間が必要で、現在の様にはハイスピードなシャッターを切ることは不可能です。今なら高速シャッターでブレを抑え込む手が使えますが、当時はその様な手が使えない以上、船上の様に波で揺れてしまう場所から対岸を狙うような写真は、よほど水面が穏やかでも至難の業だったでしょう。実際、この写真でも水面を良く見ると、船または水鳥が通過した時に残したのであろう航跡が左から右へと白く写っているのがわかります。水面に映る茶屋などの反映も、細かい波があったことが見て取れます。撮影地と考えられる弁天社(現在の琵琶島神社)の位置(「今昔マップ on the web 」より、「迅速測図」表示) つまり、この写真の撮影ポイントも陸地だったと考えられます。このことから、対岸からこの風景を撮れそうな場所を絞り込むことが出来そうです。この近辺で海の中に突き出る様な形で陸地が作られていたのは、現在の「琵琶島神社」が最も有力な候補と言えそうです。上の「迅速測図」上では「弁天社」が該当しますが、北側の対岸の後背には今の瀬戸神社がある小山もあり、この付近を撮影した可能性が高いのではないかと思います。 この付近の様子については、以前の記事 で「玉匣両温泉路記( たまくしげふたついでゆみちのき ) 」を取り上げた際に、箱根からの帰路の途上で金沢に立ち寄り「東屋」に宿泊した折の記述について解析を試みました。スチルフリートが撮影したのが「東屋」であったかどうかは写真だけでは判断が付きませんが、窓の下に大きな川が流れている様に見えたという原正興の記述は、確かにこの写真に写っている茶屋の様な建物の位置であればあり得る話です。 「写真集」の他の写真についても、今後機会があれば取り上げてみたいと考えています。
追記(2021/12/16):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-530.html スチルフリート「日本の風景と装束」から:メトロポリタン美術館コレクションから
先日の「LatLongLab」の終了発表 以来、「ルートラボ」で作成したルート図を「地理院地図」で作成した地図に差し替える作業を少しずつ進めています。「ルートラボ」では表現出来なかった複数ルートの表示や、「明治期の低湿地」や「陰翳起伏図」等との合成など、差し替えに際して多少情報を追加した地図もありますが、「ルートラボ」終了までの時間が限られていることもあり、基本的には作成したルート自体には手を加えることなくそのまま使用する方針で作業を進めて来ました。しかし、中原街道のルート図を差し替える段になって、少しルートに手を入れることにしました。以前の記事 で、「地理院地図」で過去の空中写真を重ねて表示させる機能について紹介しました。この機能を使って、中原街道の道筋のうち開発によって失われた区間について、多少なりともトレースし直してみる作業を、この差し替え作業を始める前から少しずつ進めていました。「ルートラボ」のルート図を差し替える作業を始めたことで、中原街道の作業は一旦中断せざるを得なくなっていましたが、この機に完成させて差し替えることにしたものです。 都心部から小杉付近までは1936年頃の古い空中写真を重ねることが出来ますし、そこから横浜市 都筑区南山田町辺りまでは1940年代後半の空中写真が使えます。この区間では現在の国道1号線(第二京浜国道)や神奈川県 道45号として大幅に拡幅される前の道幅が、都心部など一部先行して拡幅された区間を除いて見えています。1936年頃の空中写真に見える、洗足池(東京都大田区南千束)の南を通過する中原街道(中心十字線、以下同じ) 東急池上線の洗足池駅との間が比較的空いており、将来この方向に拡幅されることがわかる 1940年代後半の写真でもまだ拡幅されていないことが確認出来る(「地理院地図 」) ※この記事に埋め込んだ「地理院地図」の各地図では、左下に「選択中の情報」欄が表示される様に設定しました。ここに表示されている「空中写真・衛星画像」の各項目をクリックすることによって、該当する空中写真の表示・非表示を切り替えることが出来ます。
※2020/08/04追記:「地理院地図」のリニューアルに伴い、ブラウザによってはメニューが大きく表示され過ぎてしまう状態になったため、メニューが表示されない設定に切り替えました。
また、多摩川では昭和9年(1934年)に廃止された「丸子の渡し」に繋がる道筋がまだ見えており、右岸側(川崎市 側)では堤防内がまだ田畑などに利用されていた状況を確認出来ます。今回の修正では基本的にこれらの道筋をトレースする様にしており、特に現在は失われてしまった道筋を特定するのに有効な手法と言えると思います。1936年頃の空中写真に見える、多摩川河川敷を丸子の渡しへ向かう道筋 その南側の土地は畑として利用されていると考えられる 大正年間に堤防が出来るまでは渡しのすぐ傍らまで集落があった(「地理院地図 」) それ以外の区間では1960年代前半の写真のみになってしまいますが、この時点でもまだ拡幅工事を施される前の状況が見られます。また、特に横浜市 都筑区の勝田( かちだ ) ・茅ヶ崎付近(旧:武蔵国都筑郡勝田村・茅ヶ崎村)では港北ニュータウンの開発によって周囲の地形ごと道筋が完全消滅した区間があり、その道筋を追う上では重要な手掛かりを与えてくれます。他にも保土ケ谷バイパスをはじめ各所に開発による地形の消滅の影響を見ることが出来、時代を遡る上でのヒントを得ることが出来ます。1960年代の空中写真に見える、横浜市 都筑区茅ヶ崎一丁目付近のかつての中原街道 かつては尾根筋を上っていたと考えられ、西側に沢筋が見えているが 現在はこの辺りの地形は大きく変わっており、街道の痕跡は地形共々全く残っていない(「地理院地図 」) なお、これらの写真は何れもモノクロで解像度が現在のものと比べてまだ粗く、特に屋敷林や建物などの影が被ってしまっている箇所では道筋を見極め難くなってしまっています。その様な箇所では無理に写真をトレースせず、現在の地形図と照合して補っています。 また、これらの空中写真では当時の技術的な限界から多少の誤差を含んでおり、「地理院地図」で重ねて表示させる上では各種の補正作業が施されていることについては、以前の記事でも紹介したこちらの論文 で説明されています。ただ、こうした補正作業を経ても誤差が完全には取り除けておらず、特に写真の辺縁部では以下の様に道筋など繋がらなくてはならないものが繋がらない箇所が見受けられます。空中写真の繋ぎ目で中原街道が互いにズレてしまっている箇所横浜市 都筑区池辺町付近の中原街道や、それ以外の道筋もかなりズレている(「地理院地図 」) 従って、以前の街道の位置をこの機能によって完全に特定することは出来ません。街道の線形などから総合的に判断するのに留めた方が良さそうです。それでも、道路拡幅後に不自然な形で残った歩道や脇道が、かつての街道の名残であることを確認する程度には有効に活用出来ると思います。中原街道・空中写真トレース版 (「地理院地図 」上で作図したものを スクリーンキャプチャ) この様な形でルートを引き直した結果は右の様になりました。街道の性格を考え、江戸時代初期に小杉(現:川崎市 中原区小杉陣屋町)と中原(現:平塚市 御殿)の2箇所にあった「御殿」の位置にマーカーを打ってあります。 なお、空中写真では既に道筋を付け替えられた後の状態になっている箇所(厚木基地南側と「廻り坂」など)では、過去の地形図を参考に概略で線を引いています。相模川の西側についても既に失われた区間が多いとされていますが、こちらについては原則的に現道を元に線を引いています。 また、今回併せて寒川町が「中原街道」のガイドを立てている「別ルート」の道筋を破線で追加しました。これは「田村通り大山道」の宿場でもある一之宮を経由せずに、大蔵村(現:寒川町大蔵他)の辺りから直接田村の渡しへと向かう道筋です。幕末の一之宮村に伝わる「一之宮村外二十七ケ村組合麁絵図面」(「寒川町史15 図録」78ページ所収)ではこの道筋を「中原宿往來」と記しており、この時期の一之宮村ではこちらを本道と考える例があったことがわかります。もっとも、実際は継立を運用する上では一之宮村の本集落を通る大山道を経由する必要があったと考えられ、多くの絵図では田村の渡しから大蔵村への道筋を大山道などよりも細く描くものが目立ちます。その様な事情を考え、今回はこの別ルートは破線で描き入れるに留めました。
墓地の傍を通る細い道に 中原街道であることを解説するガイドが 寒川町によって立てられている このガイドから南側30mほどの路傍に立つ 地蔵菩薩立像(寛延2年・1749年)の 右側面には「□(「田」と推測される)村道」と刻まれており 「田村の渡し」へと通じる道であることが確認出来る (ストリートビュー ) 中原街道・空中写真トレース版一之宮付近 1960年代の空中写真と合成 この時点で既に工場の敷地などによって 道筋が失われた区間が少なからずある
この「別ルート」も現在では工場の敷地になったり区画整理が行われたりしたことによってかなりの区間が失われており、1960年代の写真を頼りに線を引き、その時点で既に失われていた区間については大筋での推定をしています。 中原街道について後日仔細に検討する機会を持ちたいと考えていますが、この図についてもその機会に改めて見直したいと思います。それまでの暫定的な図とお考え下さい。
※2020/08/04追記:本文中にも記しましたが、「地理院地図」のリニューアルに伴い、埋め込み地図上でメニューの表示が大きくなり過ぎてしまったため、メニューを非表示化したものと差し替えました。
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https://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-512.html 「ルートラボ」終了対応:中原街道のルートに手を入れました