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「東京都」タグ記事一覧

短信:「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されていました

このブログを始めて間もない頃に、当時ネット上で公開されていた「多摩川誌」(建設省関東地方建設局京浜工事事務所)を紹介しましたが、8年ほど前にこのサイトが廃止されてしまったことをお伝えしました。

最近になってFedibird(マストドン)に参加したのを切っ掛けに、右のような形でこのブログの過去記事を1日1回ずつ紹介しています。その一環で「多摩川誌」を紹介した記事を見返した折に、ふと「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)で公開されているのではないか、と思い立って検索を試みました。

その結果、以下の場所で「多摩川誌」が閲覧できることを確認できました。

多摩川誌 〔本編〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション


「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」に指定されているため、ネット上で閲覧するにはIDを取得してログインする必要があります。とは言え、現在の「デジタルコレクション」では全文検索にも対応しているため、従来のHTML並みの検索が行えるのが強みです。実際、「多摩川誌」を引用していたこちらの記事にページ数とリンクを追加する際にも、全文検索で容易に該当箇所を見つけることが出来ました。

また、「多摩川誌」には「本編」以外の別巻が付随していますが、これらも全て「デジタルコレクション」上で公開されていました。

従来のHTMLとは形が違うとは言え、再びネット上で閲覧できる場所を得たのは大きなメリットです。
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「【動画】多摩川台公園〜古墳と多摩川遊覧と浄水場〜」補足

これも先日来の「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)のリニューアルによって実現したことの一環ではあるのですが、当初アップする予定だった「その3」がまだ仕上がっていないため、こちらの短い記事を先に出します。

かなり前の記事で、現在の多摩川台公園内に位置する古墳群を、将軍就任前の徳川家定がそれとは知らずに訪れていたことを動画にして公開しました。その際に典拠とした史料について、その名前はわかっていたものの、それが収録されている史料集の名前を書き留めそこねていることを記しましたが、それから10年以上そのままになってしまっていました。

「デジタルコレクション」のリニューアルで全文検索が可能になったこと、また対象となった資料が大幅に増えたことから、あるいはこの資料も検索できるかも知れないと思い立ち、試しに史料の名称「玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録」で全文検索してみました。

その結果、該当する資料集が1件ヒットし、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」資料として登録さえ出来ればインターネット経由でも閲覧できることがわかりました。件の資料は

大田区史 資料編 北川家文書 1」(大田区史編さん委員会 編 1984年 東京都大田区刊)

でした。当該の史料は312ページから325ページにかけて掲載されており、かなり長大なものになっています。

この史料中の「御成御場所()絵図」は318ページ〜319ページの見開きに掲載されています。複数の小さな古墳が連なる様子が現在の地形とも大筋で合致するものとなっており、その上にどの様に道などを配置したのかがこの絵図によって良く理解できます。

なお、「玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録」の後続に掲載されている
  • 18 御成御用人足幷諸雑用取調帳
  • 19 亀ノ甲山御成諸人馬諸入用記録
も家貞の御成に関連する資料で、御成に際して働いた人や馬の動きが事細かく記録されているのがわかります。

何れにせよ、こうした市町村などの資料集も全文検索で探し出せる可能性が拡がった点は、郷土資料の使い勝手を飛躍的に向上させるものになったと言えそうです。勿論、これまで繰り返し書いてきたことですが、現状ではOCRの精度に制約がある以上、検索結果のみに頼った調査は慎むべきではあります。しかしそれでも、「デジタルコレクション」に収められている資料集であれば、居住地の最寄りの図書館では閲覧できない遠隔地の資料もこの様に探し出して閲覧できる可能性が拡がったのは大きいものがあります。
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「木賀の山踏」(竹節庵千尋)往路の「四ッ谷の数珠」

以前、「七湯の枝折」の「禽獣類」を取り上げている際に、「木賀の山踏(やまふみ)」(竹節庵千尋 天保6年・1836年、以下「山踏」)中の「雲雀」の記述について急遽検討する回を設けました。今回はその「山踏」から、往路の記述に登場する疑問点を分析してみたいと思います。「山踏」についての紹介は上記記事を参照下さい。

3月7日(グレゴリオ暦4月17日)早朝に江戸を発った千尋は、途中から駕籠を使ったこともあって一気に藤沢まで進んで一泊、翌朝も早く出発します。宿場を外れて松並木に差し掛かる辺りで日の出となり、その様子を歌に詠んだ続きの箇所の記述に、幾つかの問題があります。

平塚の手前少しの家居あり四谷木幡なんとの名ありこの所数珠玉又菅のたすき商へるなれは

堀の内道の四ツ谷にあらねとも

ひさくは数珠の玉たすきかも

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 402ページより、以下も含め強調はブログ主、以下「山踏」の引用は全て同書より)


「木賀の山踏」四ツ谷・小和田の位置関係
四ツ谷・小和田の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
また「今昔マップ on the web」も参照のこと)
東海道五十三次之内藤沢四ツ谷立場
歌川広重「東海道 五十三次之内」(蔦屋版東海道)中
「藤沢 四ツ谷の立場」(再掲)
Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Public domain.)

まず、「四谷木幡」の位置が問題です。馬入の渡しを渡るのはこの次の記述に登場しますので、藤沢宿と馬入の渡しの間に位置することにはなります。その間の「四谷」と言えば、やはり田村通り大山道の分岐点に当たる「四ツ谷」ということになるでしょう。しかし、上の地図に見える通り四ツ谷は藤沢宿を出てまだそれほど進んでいない場所にあり、「平塚の手前」と言うにはちょっと距離があり過ぎる様に思えます。

「木幡」は更に難問で、少なくとも東海道沿いには「木幡」という地名は存在しません。何らかの誤記である可能性を織り込んで付近の地名を検討すると、「木幡」を「こはた」または「こばた」と読んだ場合に「小和田(こわだ)」が比較的近いことに気付きます。ここであれば四ツ谷からも比較的近く、両者を併せて呼んだことも理解できます。しかし何れにしても、まだ平塚まではかなり距離があることには変わりありません。

初日は品川宿の辺りから駕籠に乗ったことを記しており、2日目も大磯から駕籠を利用したことが記されていますので、藤沢から大磯までは歩いていたと考えられます。従ってこの地名は駕籠かきからの伝聞ではないことになります。もっとも、駕籠かきであれば地元の地理にはそれなりに明るいと考えられ、この様な曖昧な回答を返してくる可能性はあまりなさそうです。

この道行きは千尋独りだった訳ではなく、

亦連なる人は小山安宣ぬし、同じき内方、横井何某の息命常、予が妻をも具しつ。

(401ページより)

と同行者がいたことを最初の方に記しています。「四谷木幡なんとの名あり」の地名の精度が低いのは、「なん(なむ)」という推量が入っていることから考えると、同行者からの伝聞を記しているからなのかも知れません。



次に、この土地で「数珠玉」や「(すげ)のたすき」を売っていたという記述が気になります。該当地が田村通り大山道の分岐点であったとすれば、大山詣での参拝客を当て込んでその様な商いをしていたとしても不思議ではありません。ただ、この追分に茶屋があったことを記す紀行文はしばしば見られるものの、こうした土産物を販売する商いの存在を記しているものは珍しいと思います。少なくとも、私がこれまで読んだ紀行文・道中記はあまり本数は多くありませんが、その中ではこれが唯一の例です。

「人倫訓蒙図彙 6巻」数珠師図
「人倫訓蒙図彙 6巻」数珠師図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より該当箇所抜き出し)
この数珠玉やたすきは何処でどの様に作られていたものなのでしょうか。数珠については江戸時代には「数珠師」と呼ばれる専業の職人がいたことが、「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」(元禄3年・1690年刊)などに記述が見られます。しかし、江戸市中や京都上方、あるいは大きな寺社の門前町ならばさておき、大山までまだ道のりを残す地点で専業者が拵えるほどの品質の数珠が売られていたとは考えにくいものがあります。四ツ谷は大山詣での帰路に江の島や鎌倉へ向かう参拝客も多く通過する地であり、藤沢宿の遊行寺などへ向かう客の方をターゲットとして考えていた可能性もあるものの、藤沢の宿内まではまだ少し距離があり、やはり高級な品質の数珠を扱っていたとは考えにくいところです。


まして、「菅」で作る「たすき」とはどの様なものなのか、皆目見当がつきません。よもや和服の袖や袂をたくし上げるためのものをこんな所で売っているとは思えませんし、数珠とともに売っているものなのですから、この「たすき」も仏具のうちなのでしょうが、江戸時代のもので該当するものが思い当たりません。現在では髭題目を記した短冊を「おたすき」と呼んで販売している例はある様ですが、「山踏」のこれも該当すると考えるには、それが「菅」で作られている理由が不明です。

「菅」とは一般には「菅笠」や蓑、縄などを作る際に用いられる「カサスゲ」などのスゲ科の植物ですが、スゲ科には日本には269種、神奈川県内でも86種が自生していることを県立生命の星・地球博物館のページで紹介しています。池や川岸などの湿地に生えることから、付近の引地川沿いなどの秣場で容易に得られると考えられるものの、如何せん「たすき」がどの様なものかが不明なので、それをどの様に加工したのかも全く見当がつきません。

一方の数珠玉の方はどうでしょうか。「和漢三才図会」の「数珠」の項(巻第19「神祭附佛供器」)では

數珠功德經佛告曼珠(モンシュ)室利(シリ)法王子數珠之體種種不カラ文繁故畧テハルコト無量也菩提子水晶蓮子木槵眞珠珊瑚等皆各其次也

△按數珠修業ムルサラ懈怠之具釋氏必用之物如縉紳之(シャク)武士之刀今以水晶琥珀硝子(ヒイトロ)水晶菩提子、桑槐、黑柹、紫檀(シタン)、梅木等皆性不

「国立国会図書館デジタルコレクション」の中近堂版より、但し不明瞭な箇所は「デジタルコレクション」上の秋田屋太右衛門版や東洋文庫版の「和漢三才図会」(4、1986年 275〜276 ページ)を併せて参照、返り点なども同書に従う、「…」は中略、強調はブログ主)

と、菩提樹の実を最良とし、他に水晶、蓮の実、ムクロジ、眞珠、珊瑚、あるいは槐、黒柿、紫檀、梅の実など硬いものを上物としています。

「成形図説」巻之二十「薏苡」(ジュズダマ)
匿名 - ライデン大学図書館,
CC 表示 4.0,
Wikimedia Commons
一方、東洋文庫版の「人倫訓蒙図彙」(朝倉治彦校注 1990年 平凡社)の補注には

数珠師 『雍州府志』巻七、念珠の条に「京極道ニアリ、雑品木ヲ以テ之ヲ造ル。或ハ菩提樹ノ実、或ハ水精、琥珀之類、又婦人之用ル所ノ念珠百八箇、半ハ黒檀顆ヲ用イ、半ハ水精顆ヲ用ユ。是ヲ半装束数珠ト謂フ。又山伏之用ル所ノ其顆小匾ニシテ圭角有リ。是ヲ最多角数珠ト謂フ。各好ム所ニ随ツテ之ヲ有ス。之ヲ珠数屋ト謂フ」。一般にはズズダマの実、ムクロジュの実を使用した。『国花万葉記』に「寺町通南北所々に多し」とある。

(上記書302~303ページより、強調はブログ主)

とあり、「雍州府志」という天和2年〜貞享3年(1682〜1686年)に書かれた山城国(京都一帯)の地誌を引用して「和漢三才図会」に近い素材を各種挙げています。そして、一般論として水田の畦に自然に生えてくる「ズズダマ(薏苡(よくい)、ジュズダマ)(リンク先は「跡見群芳譜」)」の名が挙げられています。

付近の迅速測図(リンク先は「今昔マップ on the web」)などに見られる当時の土地利用を見ると、砂丘地帯に当たるこの付近では田畑が多く、林は何れも松林になっていました。特に小和田村の林は

一御林七ケ所    小和田村地内

但/字西出口山  壱ケ所/字浪山    同/字稲荷山   同/字伊勢山   同/字西蔵山   同/字東蔵山   同/字浜須賀山  同  木立松

反別四十壱町五反三畝十三歩半

木数三万五千弐百壱本

(「藤沢宿分間書上諸向手控」から、「藤沢市文化財調査報告書 第56集」2021年 藤沢市教育委員会 所収 (26)ページ、一部改行を「/」で置き換え、語順を意味に沿う様に入れ替え、以下「手控」)

と、村民が自由に利用できない松の「御林」が7箇所もあり、林の木を勝手に伐って利用するのは難しい環境にあったことがわかります。四ッ谷のあった羽鳥・大庭・折戸・辻堂の4ヶ村では、「手控」に記された「御林」は大庭村の「大庭山」(恐らくは大庭城址の「城山」を指すと思われる)の杉林のみで、その点では小和田村よりは自由度があったものの、松林では林床に生えてくるものも乏しく、ましてや水晶の様な鉱物資源を得られる土地ではありませんから、数珠に加工するための素材を得るには厳しい環境であったと考えられます。その点で、このジュズダマであれば四ッ谷や小和田周辺でも容易に入手できそうです。


しかし、本草学の書物では

●和漢三才図会(卷第百三「薏苡仁」の項):

本綱薏苡仁所在有之二三月宿(フル)(セ(ママ:ネか))二三尺葉粘黍(モチキヒ)五六月抽紅白花靑白色形如ニシテ珠子(スヽノタマ)而稍長小兒多以(イト)穿ニシテ貫珠(タハムレ)

一種 シテ而殻厚堅硬(カタキ)菩提子也米少粳𥽇也但可穿(ウカチ)念經數珠故人亦念珠

△按…其實靑白色滑カニ形團(チト)白絲三條略乾クトキハ則絲(ヌケ)上下通小兒貫以爲念珠

二種而一種売薄米多一種壳厚米少タリルニ念珠故曰菩提子菩提樹之()同名ニシテ而別也

「国立国会図書館デジタルコレクション」の中近堂版より、但し不明瞭な箇所は「デジタルコレクション」上の秋田屋太右衛門版や東洋文庫版の「和漢三才図会」(18、1991年 148〜150 ページ)を併せて参照、返り点なども同書に従う、「…」は中略、強調はブログ主)

●大和本草(卷四「薏苡仁」の項):

…又菩提子ト云藥ニ不俗用テ數珠トス實少ク味薄シ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)

●本草綱目啓蒙(卷之十九穀之二 「薏苡仁」の項):

…一種ジュズダマ一名ヅシダマ和名鈔スヽダマ豫州ズヾゴ東國ハチコク上總スダメ三州スヾダマ阿州ズヾダマ新挍正野邉荒廢ノ地ニ多シ春宿根ヨリ多ク叢生ス莖葉ハ薏苡ニ異ナラズ子大ニシテ白色光リアリ或ハ黑色或ハ黑白斑駁皆皮甚厚硬擊トイヘトモ破レズ實中ニ自ラ穴アリ穿テ貫珠(ジュズ)トナスベシ小兒採テ玩トス野人用テ馬飾トス是救荒本草ニ載スル所ノ川穀ナリ…

国立国会図書館デジタルコレクションより、強調はブログ主)

とされ、特に「和漢三才図会」の方は「菩提子」と呼ばれる種類の「薏苡」については念珠にすることもあるものの基本的には子供の遊び道具という認識を示しており、「本草綱目啓蒙」も数珠としての用途を書いた直後に子供の遊びに使われていることを挙げています。対して「大和本草」は数珠に俗用されることがあったことのみを指摘しています。こうした違いを踏まえ、江戸時代にジュズダマで作った数珠がどの様な位置付けであったか、更に当時の実情を書いたものを参照していく必要があります。

「和漢三才図会」や「雍州府志」が挙げる数珠の材料が何れも四ッ谷・小和田周辺では手に入りにくいと考えられる中、また大山詣でなどの道中の茶屋で販売して引き合いがあるのであればそれほど高価なものであったとは考えにくい中で、「山踏」の頃に四ッ谷で売られていた数珠が何を使って作られていたのかは、更に可能性を探してみるしかなさそうです。



そして、千尋がこの様子を見て詠んだ和歌にも問題があります。「堀の内道の四ツ谷」ではないけれど数珠玉やたすきを売っているのか、という意味になりますが、この「堀の内道の四ツ谷」とは何処のことでしょうか。

「江戸名所図会 7巻」堀の内妙法寺
「江戸名所図会 7巻」堀の内妙法寺
(「国立国会図書館デジタルコレクション」から)
「東都名所之内 堀之内千部詣」(歌川広重)
歌川広重「東都名所之内 堀之内千部詣」
(「ボストン美術館デジタルコレクション」から)

差し当たって「堀の内道」の候補となるのは、「妙法寺参詣道」かも知れません。多摩郡堀之内村(現:東京都杉並区堀ノ内)に位置していた日円山妙法寺は、江戸時代の後期に厄除けの御利益で知られる様になり、江戸から参拝に訪れる際に青梅街道から多摩郡本郷村(現:東京都中野区本町)の鍋屋横丁で分岐して堀之内村へ向かうこの道が使われる様になりました。

「山踏」の天保6年には、小田原藩士の千尋が江戸詰めになってから既に18年は経過していましたから、江戸 市中での諸事情にそれなりに明るくなっていてもおかしくはないと考えられます。妙法寺についてもその評判を伝え聞いていた千尋が、東海道筋の四ッ谷を詠む際にこの寺のことを思い出したのかも知れません。

ただ、妙法寺へ向かう途上で数珠などを売る店があったとしてもおかしくはありませんが、「四ツ谷」との兼ね合いが良くわかりません。千尋がこの様な歌を詠むからには、「堀の内道」や「四ツ谷」、更には沿道の数珠の店が当時それなりに世に知られていないと、読み手にその意を汲んでもらえなくなってしまいます。しかし、甲州街道の大木戸門があった四ツ谷(現:東京都新宿区四谷)からでは鍋屋横丁はかなり隔たっていますし、他に該当しそうな「四ツ谷」地名の場所は「堀之内道」の沿道には確認できませんでした。何れにしても、この歌に詠まれた場所や店については更に探してみなければなりません。

田村通り大山道の追分に当たる四ッ谷の様子を書いたものは必ずしも多いとは言えない中、「山踏」のこの箇所の記述は貴重な存在と言えるかも知れないものの、この様に疑問点が多く、当時の様子を窺い知る史料として使えるかどうかについては更に他の史料を探してみるしかありません。数珠などの販売がごく一時的なものであった可能性も考えられますが、ひとまずのメモとして書き留めておく次第です。

「山踏」については後日改めて別の場所について取り上げたいと思います。
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緑IT事務所「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」について、他

先日、twitter上に「今昔マップ on the web」の谷謙二さんのこんなツイートが流れてきました。

リンク先の「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」にアクセスすると、こんな地図が表示されました。

「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」初期画面
「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」初期画面

右下の「i」アイコンに、この地図についての説明が仕込んであります。

当サイトは、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』に記載された村(または宿、町、新田等)の大まかな位置を示し、国立国会図書館デジタルコレクションにおける該当ページへのリンクを提供するものです。

各村の位置情報は以下の方法で作成しました。

  • 風土記稿本文と迅速測図を参考にして現代の地名を比定
  • CSVアドレスマッチングサービスを用いて地名から緯度経度を取得

現在地の比定および位置情報の信頼性について一切の保証を致しません。

データはLinkData.orgで新編武蔵・相模国風土記稿 村データとしてCC-BY-SAライセンスで公開しています。


この地図を製作した緑IT事務所のニュースによれば、この地図が最初に公開されたのは2016年1月のことであり、また当初は「新編武蔵風土記稿」のみに対応していた様です。最初の公開から3年以上経過していますが、上記のツイートが流れて来るまで、私はこの地図の存在には気付いていませんでした。「新編相模国風土記稿」に対応したのが何時頃のことかは確認出来ませんでしたが、現在は両方の風土記稿を網羅した状態になっている様です。

私のブログでは、江戸時代の相模国内の村の位置を示す際には、現在の住所として残っている地名であれば「Googleマップ」上でエリアを示す地図を埋め込むなどの手法で紹介してきました。ただ、これは飽くまでも現在の住所であり、江戸時代の村の範囲を厳密に示すものとは必ずしも言えません。明治時代以降に様々な要因によって範囲が変わってしまっている例は数多あり、飽くまでも目安として示しているつもりです。この地図で示されている位置もその点では同じと言って良く、その点で上記説明にある断り書きは理解出来るものです。

初期状態の小縮尺では、地図上で相互に重なってしまう村の数が丸数字で表示されていますが、左上の「+」をクリックしてズームインしていくと、次第に表示される村の名前が増えてきます。それらの村名をクリックすると、バルーンの中にリンクが表示され、

「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」鵠沼村のリンクを表示させた状態
「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」鵠沼村のリンクを表示させた状態

このリンクをクリックすると、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている風土記稿の該当ページが表示されます。

国立国会図書館デジタルコレクション「新編相模国風土記稿」鵠沼村の該当ページ
国立国会図書館デジタルコレクション「新編相模国風土記稿」鵠沼村の該当ページ

「新編武蔵風土記稿」では内務省地理局のものを、「新編相模国風土記稿」では鳥跡蟹行社の方を参照している様です。「国立国会図書館デジタルコレクション」には、他に雄山閣版初版の風土記稿が収められていますが、そちらを参照する場合でも、ひとまず該当する村がどの巻に収められているかを確認することで、検索の一助になります。

「地理院地図」の様に、地図をブログなどの記事中に埋め込んで表示させる様なインターフェースは準備されていない様なので、今のところこのブログから直接該当箇所を表示させる様な使い方は出来ませんが、江戸時代の村々のおよその位置関係を知る上では非常にわかりやすいと思います。私のブログでは特に「新編相模国風土記稿」の参照回数が特に多いことから、右の「リンクツリー」の「参考資料」に、「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」へのリンクを追加しました。



12月16日にYahoo!ブログのサービスが終了し、同サービス中の全てのブログが閲覧出来なくなりました。私のブログの記事中からは、5つほどYahoo!ブログへのリンクがありましたが、このうち期限までに移行を済ませたのは1件のみでした。この1件については既に移行先へのリンクの付け替えを済ませましたが、残りの4件については移行されなかった場合に備え、該当記事のウェブ魚拓を取得させていただいておりました。近日、これらのリンク先の変更を行います。
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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その3)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回も継立について取り上げつつ、それ以外の沿道についての記述を見ていきます。



相州鶴間・武州鶴間の位置
相州鶴間・武州鶴間の位置関係
継立場の位置が確定出来ないため
ここでは仮に、武州鶴間側は「日枝神社」付近に
相州鶴間側は「鶴林寺」付近にマーカーを置いた
両者の距離は約1km
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
長津田まで途中の継立場を「継ぎ通し」ながら荷物を運んできた武四郎一行は、一転して比較的短い距離を継いでいきます。史料によって記載されている距離に多少幅がありますが、長津田から相州鶴間までは、「相州青山往還宿々控帳」(下記参照)に従うと1里10町(約5km)、武州鶴間から相州鶴間の間は、「新編相模国風土記稿」に従うと何と僅か5町(約550m)しかありません。この場合、長津田から武州鶴間の間は差し引き1里5町ということになります。但し、「日記」は8町(約880m)と記しています。何れにしても、国境を挟んで同じ名前を名乗る隣村同士だけに、村の中心となる集落同士でもさほど距離がないのは自明のことです。


この武州鶴間と相州鶴間との間の継立については、天保12年(1841年)に成立した「新編相模国風土記稿」に、次の様に馬と人足の場合によって継立場が異なることが記されています。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


武四郎は「日記」に継立の事実を示すのみで、その経緯などについては何も記していません。しかし、武州鶴間から相州鶴間の間の道筋には取り立てて急な坂などはなく、2つの村の間を流れる境川にも橋が架かっていて、荷運の困難となる要因がこれと言って見当たりません。その様な道筋で、こんなに短い区間で荷継が繰り返されるとなれば、その都度荷物の受け渡しや馬の載せ替え、更には駄賃の支払いが必要になるなど、荷主には要らぬ手間が増え、所要時間が長くなるなどの不便を強いられることになります。前回見た通り、この道中では武四郎の荷物を継立人足に運ばせていた訳ですから、荷主として多少なりとも違和感を感じていてもおかしくありませんが、「日記」にはその様な記述は一切ありません。

何故これ程までに短い距離を継ぐ様な運用が行われていたのでしょうか。ここでは「日記」を一旦離れ、他の史料を2点ほど見て、この2つの村の継立に何が起きたのかを類推してみたいと思います。1点めは、前回も一部引用しましたが、享保14年(1729年)の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページ)です。この史料は武州鶴間側の当時の名主家に伝わる文書で、相州鶴間が武州鶴間を相手取って訴訟を起こした際の一連の顛末が、双方の書状や裁許状などの写しによって明らかにされています。長大な文書ですので全文をここに掲載することは出来ませんが、裁判の経緯を掻い摘んで記せば、次の様になります。

  • 訴訟を起こした時点では、矢倉沢往還の継立を務めていたのは相州鶴間のみで、武州鶴間は務めていない(と、相州鶴間側が主張する)。
  • これに対して、当時何も夫役を担っていない(と相州鶴間側が主張する)武州鶴間にも継立役を負わせるべきとするのが相州鶴間側の主張。
  • 武州鶴間側は、既に武州木曽の定助郷を勤めており、また相州鶴間や長津田には歩行人足を出しているのだから、武州鶴間を無役とする相州鶴間側の主張は間違っていると反論。
  • 武州鶴間側の証人として武州木曽の名主が呼び寄せられ、武州鶴間側の主張通り、同村の定助郷を務めていると証言。


木曽一里塚碑
相州淵野辺村から境川を渡った先に位置する
府中方の小野路にも一里塚碑が残る
ストリートビュー
「今昔マップ on the web」で
同地の地形図の変遷を見る
武州鶴間が武州木曽の助郷を務める様になったのは、徳川家康の没後の元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へ遷座する際に、後の府中通り大山道を通過した時のことであることが、武州鶴間の反論でも、武州木曽の証言でも触れられています。武州鶴間から木曽までは直線距離でも8km以上も離れており、かなり遠方の村々まで助郷に駆り出されたことになりますが、この遷座の際はかなり大掛かりな行列を組んでいた関係で、隣接する村々だけでは人馬を補えなかったために、多少遠方の村にも助郷の要請が行ったのでしょう。その時の縁で、その後も木曽まで助郷を務めに行っていたことが、武州鶴間が矢倉沢往還の継立を拒否する根拠になっていた訳です。


また、武州鶴間は反論に際して自村を矢倉沢往還の「間の村」と表現しており、長津田や相州鶴間にも人足を出していると書いています。つまり、この時点では正式な「継立村」ではなかったことになります。この人足の出し方が、既に継立に近い運用であった様にも読めるのですが、何れにせよその様な事実があったとすれば、相州鶴間はその事実に目を瞑って訴訟を企てたことになり、その「勝算」を何処に見込んでいたのかが気になります。

こうした双方の申し立てを受けて、幕府の道中奉行や勘定奉行、更には江戸町奉行に寺社奉行が加わって、総勢10名の奉行が下した裁許は次の通りです。武州鶴間側の言い分が全面的に認められ、相州鶴間の訴えが退けられる判決となりました。

右御吟味被成候処、訴訟方相州鶴間村ゟ相手武州鶴間村ヲ一村之様申立、馬継不仕由申上候得共、相州・武州と国を隔候得、往古一村ニ而候とも、別村分り伝馬継候儀其所之例ニ而、古来ゟ相州鶴間村伝馬を継キ、武州鶴間村木曽村定助勤、其外江茂歩行人足継キ来り候間、訴訟方鶴間村申所難立、不及御沙汰候由被 仰聞、御尤に奉存候、依之有来り候通相州鶴間村伝馬継いたし、武州鶴間村定助・歩行人足(ママ)格〻可相勤旨被仰渡、双方奉畏候、右被仰渡候趣相背候ゝ、御科可被 仰付候、為後証連判一札差上ケ申所仍如件、

(上記書316ページより)


興味深いのは、ここで相州鶴間は武州鶴間とは元は1村であったという主張をしており、奉行もひとまずはその由緒を吟味した痕跡が見られることです。鶴間郷がやがて境川を境に分かれていった事情については、かつて武相国境を検討した際に少々検討しました。戦国期には既に別々の村となり、それぞれの領主によって収められていたであろうと考えられる鶴間が、享保の頃まで時代が下っても、なお奉行の面前でこの様な由緒を自村の主張の補強のために使っていたことになります。かつて同じ村であったという「義理」もあるのだから、ということになるでしょうか。自村の主張を少しでも正当化する意図が垣間見得ます。そうは言っても、享保の頃には既に別の村に分かれて独自の活動を行って久しいことが認定されてしまい、主張は認められずに終わるのですが、村のこうした由緒が時代が下っても影響を及ぼしていた一例と言うことが出来ます。

一方、相州鶴間としてはかなり無理のある訴訟であったにも拘らず、江戸の奉行所まで通う労力を掛けてでも敢えて訴えを起こすだけの動機があったことになります。それはひとえに、継立にかかる労力負荷が重荷になっていたということに尽きるでしょう。相州鶴間の継立は矢倉沢往還の東西方向だけではなく、八王子道の南北方向も担っていました。ですから、必ずしも矢倉沢往還だけの輸送需要だけのことではないかも知れませんが、2本の道の継立のために人馬を出す負担が過重になっていたからこそ、武州鶴間にも歩行人足を出すだけではなく、より本格的に継立役を分担して欲しいと考えた筈です。

当然ながら、その背景には矢倉沢往還の継立に対して、当時既に相応の輸送需要が存在していたことになります。その点で、この享保14年の裁許の一件は、当時の矢倉沢往還の継立の実情の一端を窺わせる史料であると言えます。

しかし、訴訟によって相州鶴間の訴えが否定されてしまったことで、武州鶴間はそれ以降も「継立村」となることはなくなった筈です。奉行の裁許が出たことを考えると、少なくとも相州鶴間側からこれを覆すのはかなり困難なことになったと考えられます。



次に、「新編相模国風土記稿」成立の3年前に当たる天保9年(1838年)に作成された「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307〜310ページ)には次の様に記されています。


人足之義

前鶴間ゟ向鶴間迄賃銭八文請取継立仕候、馬長津田ゟ向鶴間迄附越候、

(上記書307ページより、字下げも同書の文字数に従う)


ここで「前鶴間」と書いているのが武州鶴間、「向鶴間」が相州鶴間を指しています。一見すると、この記述は「風土記稿」とほぼ同様の運用を記述している様に見えます。しかし、上記引用箇所の少し手前で、長津田の次の継立場については

相州鶴間迄壱里拾町

と記しており、相変わらず長津田から相州鶴間に継いでいた様にも読めます。つまりこれだけだと、武州鶴間から相州鶴間の間だけ継立を請け負っている様にも読めてしまいます。その点で、この文書の記述は相互に若干混乱している様にも見受けられます。

この文書が写しであることから、原本の記述がどうであったのか、精確なところを読み取るのは難しくなっています。しかし、記述の整合性が今一つ綺麗に均されていない様に見えることから、この「人足之義」のくだりは後から追記された可能性もあると考えられます。それであれば、その際に「相州鶴間迄壱里拾町」の一文は訂正を入れ損ねたものとも読み取れます。

こうした混乱からは、武州鶴間が増え続ける矢倉沢往還の継立に対して引き続き人足を出し続けてはいたものの、飽くまでも享保14年の裁許に則って対応していたことが窺えます。つまり、この時点でも武州鶴間はまだ「間の村」という認識でいたのかも知れません。ただ、「新編相模国風土記稿」の「下鶴間村」の記述では、継立先について特に表現が分けられている訳ではないので、「武州鶴間」も継立村の1つであるかの様に見えているということが言えます。

「日記」に話を戻すと、武四郎の武州鶴間と相州鶴間の記述では、継立場の規模等に差異があった様には見えません。実際には相州鶴間の方が八王子道の継立も請け負っていた関係で武州鶴間より多少なりとも規模が大きかった筈ですが、こうした記述になったところから考えると、武州鶴間の継立場も「間の村」が片手間にやる程度のものではなく、実質的に常設と見える様な風情の場所で運用がなされていたのかも知れません。

因みに、矢倉沢往還を往来する「大山詣で」の参拝客が増加してきたのは、大山講が隆盛した江戸時代の中期頃、宝暦年間以降と考えられ、享保14年の裁許よりは後年のことになります。「日記」では、武四郎は武州鶴間、相州鶴間とも「茶店」が存在したことを記していますが、武州鶴間も増大する「大山詣で」の参拝客を無視出来なかったことが窺い知れます。

また、相州鶴間には旅籠が数軒あった筈なのですが、、武四郎はその存在を記していません。見逃してしまった可能性が高いと考えられますが、一方で明治元年に「神仏分離令」が発令された影響で大山講も大きな影響を受けていましたから、沿道の宿泊施設もその動向を見極めて店仕舞いするなどの動きがあった可能性もあります。これも他の史料との照合が必要な箇所と言えるでしょう。



ところで、事情は定かではありませんが、武四郎はこの道中ではかなり先を急いでいた様です。日程を見ると、あるいは東京から京都へ還幸していた明治天皇が、何時再び東京へ行幸することになるのかわからなかったからとも思えますが、「日記」の文面からは当の武四郎にさほど「焦り」を感じるのが難しく、彼にとっては別段普段通りのペースで進んでいたのかも知れません。

「日記」には長津田で昼食を摂ったことが記録されています。初日の宿泊地は厚木ですが、赤坂からの距離は途中の経由地によっても変わって来ますが概ね12里以上になります。東海道を進んだ場合には初日には精々戸塚辺りで宿泊するのが通例であったことと比較すると、相模川を初日に越してしまう武四郎の行程は、当時としてはかなりの「強行軍」と言えます。因みに、赤坂から長津田までは8里あまりもあり、この日の行程の半分以上を進んでおり、厚木の渡しを渡る頃には日が暮れていますから、冬場で日が短いことを考慮しても、長津田での昼食は幾らか遅い時刻になった可能性はありそうです。

以前このブログでも何度か取り上げた渡辺崋山の「游相日記」(天保2年・1831年)では、途中宿泊した折に主人と深夜まで酒を酌み交わして翌日は遅く出発したこともあって、1日に進む距離が短くなり、荏田と下鶴間で宿泊したことが記されていますから、「日記」とは極めて好対照な道中だったと言えるでしょう。

武四郎の道中が日程的に余裕がないものであった分、道中の周景の描写は比較的薄めになったのではないかと思われます。自宅を出てから相州鶴間に到着するまでの間の記述には、各継立場の簡単な様子と脇道に関する記述が出る程度で、周辺の田畑や作物についての記述は一切現われません。相州鶴間に着いた所で初めて

地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。從是小松原、大松原等有中を正面さして一筋道。見むきもやらず左右處々に畑も見ゆれども何れも芋麥のよし也。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより)

という、周辺の田畑についての記述が現われます。

地味の良さは人足から伝え聞いた可能性もありますが、冬場で休耕中の田畑が多い分、土の状態が見えやすかったということかも知れません。食べているものが良くない様に見えるというのは、茶店などで休憩している旅人の皿の上を見たのでしょうか。麦は冬を過ごさせるものですから実際に栽培されているものを見ている筈と考えられますが、やはり冬場では栽培されているものも乏しいことから、同行する人足に話を訊いたのでしょう。

鶴間以西の矢倉沢往還
鶴間以西の矢倉沢往還のルート図に
数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの
矢倉沢往還のすぐ南側に引地川源流地が見えるほか
かつての谷戸と思しき窪地が南北方向に何本も並んでおり
何れも矢倉沢往還の近くに端を発しているのが窺える
矢倉沢往還の走る辺りが
相模原台地の地下水が地上に現われ始める地帯に
相当していることがわかる
(「地理院地図」上で作図したもの
をスクリーンキャプチャ)
相州鶴間の水田は境川と支流の目黒川沿いに集中しており、その西側は相模原台地の上に当たり、水田に必要な利水が確保出来ないために、畑が大きく広がっていました。「大和市史4 資料編 近世」のまとめるところによれば、下鶴間村の村の水田14町7反3畝2歩(約14ha)に対して畑が74町1反9畝12歩(約74ha)あり、全耕地面積の8割以上を畑が占めていました(35ページ)。更に、村の西側は「相摸野」の南端が大きく占め、「鶴間野」などとも呼ばれるこの地は、西隣の栗原村に差し掛かる地域まで入会地となっていました。

「日記」の記述は、基本的にはこうした土地利用の実状をよく反映していると言えます。「小松原」「大松原」とあるのが、武四郎の見た「相模野」の描写ということになるでしょう。とは言え、やはり先を急ぐ道中では周囲に細かく目を配るほどの余裕はなかったと思われ、まして土地勘のない村の実状について掘り下げたことを書くのは無理なことであったでしょう。人足が相手では、聞き出せる村の実情についての情報も、限られたものになってしまうのは避けられないところです。

この点は、崋山の「游相日記」と比較するとその違いが良くわかります。彼の道行きの目的の一つは、その途上の農産物などを視察することにありました。その分、武四郎に比べれば「相模野」についての予備知識もありましたし、前日までの道中に現地の人々に訊ねて仕入れた情報も持っていました。その分、武四郎の「日記」の記述よりも一歩踏み込んだものになっています。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

鶴間原出づ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よつて、柴胡(サイコ)の原ともよぶ。諸山いよいよちかし。

(「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)所収、327ページより)


崋山はこの地域の養蚕についてとりわけ関心を持っていたことが、桑と山桑(柘)の違いについて具体的に記しているくだりからも窺えます。また、別の場所で長津田や鶴間が養蚕を行っていることを記していることからも、この地が養蚕に積極的に取り組んでいることを知った上で周囲の様子を見ていると考えられます。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
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ウィキメディア・コモンズ.)
そして、崋山自身が俳諧に精通していたこともあり、「相模野」が「柴胡が原」とも呼ばれていることは承知であったのでしょう。崋山が旅した天保2年9月22日(グレゴリオ暦:1831年10月27日)はミシマサイコの花期(概ね8〜10月)としてはほぼ終わり頃で、運良く道端で咲く柴胡の花を見られたかどうか微妙なことから、「柴胡多し」の記述を字義通りの目撃情報として受け取るべきかどうかは一概に言えませんが、少なくとも崋山が「相模野」に差し掛かった折に「柴胡が原」のイメージを重ねて見ているのは確かでしょう。

武四郎は、道中通過する地域についてのこうした予備知識は、持ち合わせていなかったのでしょう。また、桑は冬場には葉を落とすことから、周囲に桑を植えている家や畑があることに気付き難い季節だったことは考えるべきかも知れません。もっとも、武四郎が人足との会話で比較的裕福な村であると知らされた際に、継立や養蚕など村の経済の支えになり得る稼業について話題にならなかったのかという点は気掛かりです。特に養蚕は、幕末の開国後にそれまでの幕府の方針が転換されて積極的な推進・援助策が打ち出される様になっており、天保の頃とは違って憚りなく取り組むことが出来る環境になっていた筈です。しかし、「日記」には養蚕については触れられずに終わっています。あるいはこうした産業には、武四郎の興味が向かなかったのかも知れません。



今回は結局鶴間周辺の記述についての分析で終わってしまいました。次回はもう少し先に進みたいと思います。

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