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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ越し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ越しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ越されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ越し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ越し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。
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【小ネタ】将軍の炭風呂を沸かすのに必要な炭の量は?

前回までの「新編相模国風土記稿」に記された炭についての話を受けて、小ネタを少々。相模国には全然関係ありませんが。

Haichi1.jpg
江戸城の門と櫓の配置(内郭)
「西丸大奥」の文字が中央やや左手に見える
(By 甲良若狭 Tateita
- 原書房「図解 江戸城をよむ」より投稿者が作成。
CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons
ものと人間の文化史71 木炭」(樋口 清之著 1993年 法政大学出版局、以下「ものと人間」)には、「木炭史話」と題したエピソード集が併録されています。ここには雑誌のために書いたものから文化史的なトピックを中心に選りすぐったものを収めていることが「はしがき」に記されています。

その中に「炭風呂」と題した一稿があります。今は「炭風呂」と書くと木炭を湯に入れる方を指す様で、Googleで「炭風呂」で検索してもヒットするのはこちらの方です。が、この場合は炭で風呂を焚く方で、江戸時代の江戸城大奥の燃料が風呂も含めて炭であったという話です。何とも贅沢な話ですが、煙が出ないこと、そして防火上の必要があってのことであったと「ものと人間」では書いています。確かに多数の人間が狭い空間で共同生活を営んでいることから、その配慮が必要であったことは理解出来ます。

江戸時代、江戸城大奥の燃料は、炊事も、風呂も、暖房も、すべて炭であった。それは炭の無煙、無焔性と、温度の持続性によって、大奥の清潔と防火を考えたからであった。

江戸城大奥は、将軍の私邸であり、正夫人の住宅でもあるが、ここは男子禁制で、上は老女から下は端女(はしため)まで、多いときは二〇〇〇名からの女子が長局に住んでいた。そのうち、将軍の側妾に当たる御中﨟(おちゆうろう)はもちろんのこと、御目見得以上の女はいずれも、自分の部屋(四室一組)で炊事や入浴をしていた。この燃料もすべて炭であった。こんなに大量の炭は、伊豆天城山の御用林で焼かれたが、六貫五〇〇匁俵で年に一〇万俵、六五万貫の炭を焼いて、その中から冥加として差出す御用炭と、勘定所が民間から買い上げる佐倉炭や佐野炭で賄われていた。その中でも炊事に次いで大きい用途は、浴用燃料としての炭の消費であった。

(上記書212ページより)


因みに、65万貫は約2437.5トンに相当します。長局の2000名以外にも江戸城には様々な人がいた筈ですから、上記の数字を単純に頭割りにする訳には行きませんが、それでも1人当たりの炭の消費量も相当なものだったことになるでしょう。

そして、将軍が連日食前に必ず入浴していたことを記し、その入浴の折の一連の様子を事細かく書き記していますが、浴槽については

湯は今でいう五右衛門風呂の構造のもので、湯槽は方形、総檜造、流し場も檜の厚板張りで、二方の窓はガラス板がはめてあり、いわゆるギヤマン風呂であった。それは将軍入浴中は庭から御庭番(世にいう忍び衆で、服部半蔵に率いられる伊賀衆、甲賀衆を指す)が警備していて、浴室内で不慮のことがあってもすぐ庭から見えるように考えてあった。

(上記書213ページより)

としています。ただ、浴槽の大きさについては記載がありません。なお、1回の入浴に際して使われたものは全て使い回すことはせず、御小納戸の所得として払い下げられるとしています。当然沸かした湯も将軍が入浴したらそれで抜いてしまうのでしょう。

個人的に気になったのは、この将軍の「炭風呂」を沸かすのにどれだけの炭が必要だったのだろう、ということでした。そこで、お遊びでざっくりと概算を試みることにしました。無論、計算に必要な値を全て推量しての計算ですから、精度は全く期待出来ませんが。

まず浴槽の大きさから不明ですが、流石に地位の高い人の入る湯ですから、一般的な浴槽よりはやや大きめと想定します。現在造られている五右衛門風呂の浴槽の大型のものに、満水で490リットルという製品をネットで見つけました。当時もこれに近い容量があったと仮定し、400リットルとして計算してみます。

次に、沸かす前の水の温度と、適温になった湯温がどの程度だったかが数字として必要です。これも井戸水を使うか、それとも地表水を使うかで変わってきますし、後者の場合は季節変動もありますから振れ幅がかなり大きくなります。江戸には神田上水や玉川上水といった上水道を使って地表水を配水していましたから、現在の東京の地表水の平均水温が必要ですが、あまり適切なものがないのでこちらに掲載されている東京都の年間の上水道の平均水温を使うことにします。これによれば年平均16.2℃となっていますが、概算なので小数点以下を外して16℃の水を沸かすと仮定しました。風呂としての適温はこれも人によって異なりますが42℃くらいとすると、26℃上昇させる必要があることになります。

すると、大元の定義によって400リットルの水は400kgであり、これまた当初の定義に従って1グラムの水を1℃上昇させれば1カロリーですから、26℃上昇させるにはおよそ

400kg×26℃=10,400kcal

の熱量が必要ということになります(今はそれぞれの単位を違う形で定義しますが、概算ということで簡略な方法を採っています)。次の計算で必要なので、カロリーをメガジュール(MJ)に換算すると約43.51MJという数字になります。

一方、必要な炭の量を求めるには発熱量が必要ですが、こちら(リンク先PDF)に各種燃料の単位発熱量がまとめられているので、今回はこれに従います。これによれば、木炭の単位発熱量が1kgあたり15.3MJとされています。因みに、木材(薪)の単位発熱量はこれより少し低く1kgあたり14.4MJになっていますから、価格はともかく重量だけを見れば炭とそれほど差はないことになります。

そして、炭の発した熱が全て浴槽の水に移る訳ではなく、その一部は周辺の大気などを暖めて逃げていってしまいますから、その分を割り引く必要があります。それには風呂釜の「熱効率」が必要なのですが、当時の五右衛門風呂の熱効率がどの程度だったのかも不明です。一応、ここに薪燃料を使った風呂の熱効率を55%として計算した例がありまので、今回はこの数字を仮に使って計算することにしました。

すると、

43.51MJ÷0.55÷15.3MJ/kg≒5.17kg

という計算が出来ます。繰り返しますが仮定だらけの計算ですから精度は全くありませんが、おおよその目安にはなるかと思います。先ほどの熱効率の数字を拝借したページでは、前提とした数値に多少の差があるものの、薪で風呂を沸かす場合の必要量として約6kgという計算結果が出ていますので、薪と炭の単位発熱量の違いを考えるとそれほど隔たっていないとは思います。が、当時の五右衛門風呂の熱効率が果たしてこの程度で収まったかはかなり微妙なところですから、その分を踏まえるともっと炭が必要だったかも知れません。また、警備のために外から見える様に、当時としては珍しくガラス張りになっていたという浴室は、熱効率という点ではあまり有利とは言えませんから、これも炭の必要量を押し上げていた可能性もあるでしょう。

先ほど引用した「ものと人間」では1俵を6貫500匁(約24.375kg)で計算していますので、今回の計算では1俵で将軍の入浴5回分弱といったところになります。年間で78俵ほどの量ということにになりますね。なお、大奥の風呂は全て炭で焚かれていたとしていますが、風呂の数は200を超えていた(200ページ)としていますから、その全てを沸かすだけでも大変な量の炭が必要になったことは確かでしょう。ただ、炭の場合は熾火にすることが出来る関係で冷め難いのが特徴ではあったので、将軍以外の風呂では幾らかメリットもあったかも知れません。また、こうした保温効果の良さが炭で沸かした風呂を最上のものとする見立てにも繋がっていた様です(214ページ)。

「ものと人間」では、一般的な武士や町民の当時の燃料代の占める割合について、文政8年(1825年)の「刑罪随筆」(橋本敬簡著)や「柳庵雑筆」(栗原信充著)を拠り所に、炭代が全所得の3%程度、薪が8%程度と算出しています(197〜200ページ)。これで炭や薪が何俵くらい買えるかが問題ですが、残念ながら精確なところを明らかにしようにも炭俵の容量も不統一で、また炭の品質や年代などによる価格変動が大きく、目安を示すのが難しいとしています(116ページ)。とは言うものの、武家や商家であっても燃料の基本は薪の方であったことがこの比率からも見て取ることが出来ますから、将軍以下大奥に詰める女中衆まで炭で沸かした風呂で入っていたという江戸城の炭の消費が、多分に当時の燃料消費の実情からかけ離れていたことは確かでしょう。

火災への配慮からこの様な措置になったということは、恐らくは家康が江戸入りした当初から炭を使っていたのではないのでしょうが、その防火対策による維持管理コストは大変なものになっていた様です。その割に江戸城も幕末まで幾度となく火災に見舞われ続けていたのですが…。
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寛政3年・江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」

今回は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された、ちょっと毛色の変わった2本の史料を気楽に紹介します(以下、ページ数のみの引用は何れも同書より)。

この2本の史料とは、松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」と、山田桂翁と名乗る著者(正体は不詳)の「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」からのもので、何れも寛政3年(1791年)に行われた「遠馬」ならびに「遠足」のことが記されています。同じ催し物の史料を2本「鎌倉市史」に採録した理由について、巻末の解説では双方に記された人物名に一部齟齬があり、どちらが正であるかを判別できなかったことを挙げています。ただ、どちらかと言うと「甲子夜話」の方が事前の準備のための触書が記されているのに対して「宝暦現来集」の方が結果についての記録が厚めなので、その点でも両者が採録されたことで当時の事情がよりわかりやすくなったと思います。


今「遠足」と書くと、小学校の児童たちがお出かけするイメージですが、この時の「遠馬」「遠足」は勿論その様なお気楽なものではありませんでした。「甲子夜話」では

一亥三月遠足遠馬左之通御鷹匠御鳥見え被仰付五日明七時吹上え相廻り七時半出立。

(215ページより)

と記し、同年の3月5日(グレゴリオ暦4月7日)の明け七時、つまり現在の時刻にして午前4時頃に江戸城内の吹上御苑をスタートしたことが記されています。なお、「宝暦現来集」では出発時刻を「明七ツ時三分」としていますので、現在の時刻にすると4時半頃に出発したことになります。

まず、この遠馬・遠足の距離を確認します。「甲子夜話」はそのルートについて

路程、自江都日本橋相州鶴岡十二里、又自日本橋大城大手御門十五丁、拠之往還二十五里。

(216ページより)

と注記しており、吹上御苑から日本橋に移動し、そこから鎌倉へと向かった様に書いています。復路でも日本橋から大手門を経て戻ったとしていますから、ほぼ同じルートを往復したものと思われます。


参考:大手門前から日本橋までのルート
Googleマップによる:
当時の距離を正確に算出したものではない)
「甲子夜話」は大手門から日本橋までの距離を「十五丁」と記しています。実際、現在の大手門から日本橋までの距離を地図上で測図すると1.5kmほどあり、記述とほぼ合うと考えられます。もっとも、江戸城の西側に位置する吹上御苑までが更に1kmほどもありますから、御苑から日本橋までの往復だけでも5km近くの距離があることになります。

そして東海道を日本橋から戸塚へ進み、そこから鎌倉道を進むことになります。戸塚の鎌倉への分岐は江戸方の吉田大橋の脇と、京方の八坂神社前の2箇所があり、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では後者の道筋が描いてありましたが、「甲子夜話」に転記された触書には

東海道:日本橋から戸塚・吉田大橋手前まで

吉田大橋脇から柏尾川沿いの鎌倉道
柏尾川の改修前はもう少し蛇行していた

戸塚・八坂神社前から鎌倉・下馬までの
鎌倉道
左記の10kmはこのルート中から
該当区間を計測

一戸塚宿中有之候板橋際より左え入、鎌倉道御通行に候。戸塚より先き野道横道えは縄張致し置、往来は相通じ可申候事

(217ページより)

という一文が入っていますから、この遠馬・遠足では前者の道筋が採られたことになります。まぁ、この場合は宿場に用がある訳ではないので、わざわざ柏尾川を2度も渡って迂回するコースを採る必要もなかったでしょう。日本橋からこの吉田大橋の手前まで、現道上で測図すると約43km、吉田大橋の分岐から八坂神社からの道が合流するまでが約1.4kmほどあります。

鎌倉道は鎌倉八幡宮の北西の巨福呂坂切通を経て鎌倉入りすることになります。鶴岡八幡宮が折り返し点とされているものの、「甲子夜話」に採録された触書に

一雪之下にて御支度所之儀、御本陣大石平左衛門方え被仰付畏候。尤被召上物之儀は御銘々様より御持参被成侯に付、御末々迄御支度之品差出に不及候旨被仰付一奉畏候。勿論粗末之儀無之様に仕、御買物等所直段を以差出、諸事念を入御宿可仕旨被仰渡畏候事

(217〜218ページ)

とあることから、実際は雪ノ下の大石本陣まで南下していた様です。八幡宮の前から大石本陣までは270mほど隔たっています。これも現道上で測図すると、大石本陣の前までで約10kmあります。日本橋からの通算では54.4km、往復では108.8kmほどの距離になります。「甲子夜話」の「二十五里」は、その点では寧ろ控え目に見積もられた距離ということになりそうです。

この大石本陣で各人が持参した昼食を摂ってから復路に出発するということですから、本陣で多少一息ついたのでしょう。もっとも、競争相手がいることですからあまりゆっくりとはしていられなかったと思います。

「宝暦現来集」の方には遠馬に参加した8名の御馬方の名前と順位が記されているものの、「甲子夜話」も「宝暦現来集」も、遠馬の帰り着いた時刻については記していません。一方、遠足については双方の史料ともにもう少し仔細な記述が見られ、2人の著者の興味関心の主眼がどちらも遠足の方にあったことが窺えます。もっとも、「甲子夜話」の方は最初に帰り着いた人の名を「御鷹匠頭戸田五助組同心見習」の「戸川喜兵衛」とし、到着時刻を「七半三分」と記すのに対し、「宝暦現来集」は肩書は同じく「御鷹匠戸田五介組」の「市川喜兵衛」、吹上御苑に到着した時刻を「七ツ時七分」としているなど、双方の記述に幾らか食い違いが見えます。何れにせよ、現在の時刻に直すと午後5時過ぎ頃には江戸城に帰り着いたことになります。大石本陣での休憩時間や渡し場での停止時間などを勘案する必要がありますが、トータルで13時間ほどで江戸城←→鎌倉間の100km余りの距離を歩き切ったことになります。

一般的には、江戸日本橋を早朝に発って東海道を進んだ場合、初日の宿が保土ヶ谷か戸塚辺りになるのが当時の一般的な旅程でした。その倍以上の距離を1日で完歩した訳ですから、これはかなりの早足です。単純計算では8km/h弱の平均速度になりますが、これは途中の休憩時間等を除外していませんし、東海道には途中に権太坂や焼餅坂、信濃坂があり、鎌倉道も巨福呂坂切通などの上り下りがありますから、実際は平野部ではもう少し早く歩いていたでしょう。現在の100kmマラソンの記録ではこの倍くらいの速度で完走していますが、無論当時とはあらゆる点で条件が異なりますから、一概な比較は出来ません。

この時の歩行スタイルはあるいはジョギングに近かったのかも知れませんが、どの様なものだったのかはわかりません。ともあれ、最初に到着した喜兵衛について、「宝暦現来集」は

当日吹上御庭へ公方様被成侯に付、吹上へ罷帰、於広芝に道中歩行之体を上覧有之、御小納戸頭取亀井駿河(清容)守殿御達し、元馬場において、御酒肴御湯漬被之。

(219〜220ページより)

と記しており、その歩き振りを帰着後に将軍(家斉)の前で披露してみせたとしています。また、上位の者には褒美として酒や湯漬けを振る舞われたことが記されています。

この時には上記の喜兵衛の他、「宝暦現来集」の記すところでは全部で9人がこの遠足に臨み、うち喜兵衛を含む6名が刻限までに江戸城に帰り着いています。「宝暦現来集」の9人のうち、下位3名については品川宿への到着時刻は記されているものの、江戸城への帰還時刻は「不相知」としていますので、あるいはこの3人は完歩出来なかったのかも知れません。上位5人は年齢的には25〜30歳と「甲子夜話」は記していますが、何れも「御鳥見」や「御鷹匠」で、普段から鷹場などを歩いていて健脚が必要だった役職の人が遠足の参加を命じられた様です。

なお、上記の「甲子夜話」の引用中にも「野道横道えは縄張致し置」とあり、コースオフしてしまわない様に予め策が講じられていたことがわかりますが、それ以外にも沿道の各村々には馬のための水飲み場の用意、遠馬・遠足は右側を通行するため荷駄は左側を通行すること、道や橋の荒れている場所は出来るだけ普請を行い、支障のありそうな箇所では竹に赤紙を付けて目立つようにすることなどが、各村々への触書で指示されています。また、特に気になるのが当時橋がなかった六郷の渡しですが、

一六郷渡場にて船遅滞無之様、宿役人共出居、御渡船随分大切に致可申事

(217ページより)

と、可能な限り遅れのない様に配慮をすることが求められています。こうした触書が、遠馬・遠足の1ヶ月ほど前の2月10日付けで、沿道の各宿場・村々だけではなく、品川の長徳寺・妙国寺・海雲寺、鎌倉の建長寺といった、幕府の御朱印を受けていた沿道の寺にまで回覧されて、それぞれの域内の街道の準備に当たらせていたことがわかります。また、触書を出した翌日には役人が巡回して指示するという周到振りで、この遠馬・遠足がなかなか大掛かりに行われたことが窺えます。


解説によれば、こうした遠馬・遠足は川崎大師辺りまでの間ではしばしば行われていたものの、流石に鎌倉までの長距離のものは珍しかったので、「甲子夜話」や「宝暦現来集」の様な記録が残ったのだろうとしています(600ページ)。日本橋から川崎大師までですと、片道20kmあまりの距離がありますので、往復では現在のマラソンの距離に近いコースでしばしば健脚を競っていたことになるのでしょう。こうした記録が見つかったらまた紹介してみたいと思います。

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「慊堂日暦」の箱根行き以外の道中の記録について

先日来読み返していた松崎慊堂の「慊堂日暦」について、大雑把ではありますがひと通り目を通し終えました。その際に目に止めたケンペルにまつわる記述を元にして、前々回前回の2回で「はこねぐさ」についてまとめた訳ですが、この日記を読み返したもう1つの目的は、「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)に記された6回の箱根の記録の他に旅の記録が、特に相模国を経由した際の記録がないかを探すことでした。今回はその結果を簡単にまとめておきます。

結論から先に言うと、慊堂はあまり積極的に旅をする人ではなく、湯治目的の箱根行き以外は基本的に主君に随伴して遠征したり、講義などの目的があって出掛けたケースに限られる様です。そのためもあってか、相模国内を経由した旅の記録は、上記の6回以外では文政12年(1829年)3月9日に江戸を発って大坂へと向かい、同年10月25日に江戸へ帰り着いた際の1回のみということになる様です。

この往復は、主君であった掛川藩主・太田資始(すけもと)が大坂城代として赴任するのに随伴してのものです。日記では前年の文政11年11月22日の項に「この日、主君は大坂城総督を拝す」(「慊堂日暦2」223ページ、以下巻号とページ数は何れも平凡社東洋文庫版より)とありますから、それから諸々出発に向けて手筈を整え、翌春に大坂に向けて発った訳です。因みに当初の出発予定は7日だったものが、9日に延期されています。

往路は東海道を経由していますから、当然この時も箱根を通過しているのですが、「報告書」ではこの1回は数え上げられていません。これは恐らく、この往路の道中の記述がごく簡潔で、箱根に関する記事が殆どないことによるものと思われます。実際、3月10〜11日の記述は

十日 晴。夜、小田原に宿す。富岡の女、十束の女はみな轎にて往き、途にありて甚だ困しむ。

十一日 陰。関門を()たり。吏は帯びるところの妻孥(さいど)を検す。三島駅本陣(樋口伝左衛門、父は林平。朝日与右衛門はその冠賓なり。依田善六の父左二兵衛は林平の弟なり)。

(「慊堂日暦2」242ページより)

と、箱根の関を越えた際のことのみが記されています。因みに「轎」とは駕籠の様な乗り物を指しますが、この時は主君に帯同した家来の家族も随伴していたため、箱根の関所ではそのうちの女子の改めを受けた、と記している訳です。なお、平時駕籠を使うことが多かった慊堂自身もこの往路で駕籠に乗っていたと考えられ、記述が簡潔なのもその表れと思われますが、その点に関する明記はありません。

同月14日には領地である掛川に着いたものの、翌日三箇野橋(袋井〜見附間、太田川)の落橋の知らせを受けて出発が1日延期され、大坂城に着いたのは23日でした。以後慊堂は同地に滞在しながら多くの人と会い、時には揮毫に応じたりしています。日記には「◯大塩平八郎。天満組屋敷与力(よりき)盗賊方」(「慊堂日暦2」245ページ、3月末尾)「◯大塩平八郎。号は洗心洞、三十七八歳。」(「慊堂日暦2」308ページ、9月13日)と2度にわたって記されていることから、この滞在中に大塩平八郎とも会ったのかも知れません。

9月27日には主君の大阪城代の任が終了し、翌日には江戸に向けて出発していますが、雨季に川止めに遭うことを警戒したためか、この復路では東海道を経ずに中山道へと向かっています。この道中では「余は轎中にあり、ただ山を看るべからざるを苦しみ、」(「慊堂日暦3」4ページより)と書いていますから、やはり駕籠に乗っていて外の景色を見られなかったことが、道中の記述の簡素化に繋がったと見て良さそうです。途中木曽福島に数日滞在し、同地の領主に論語などを講義しています。また、慊堂は蕎麦が好物であった様で、日記には蕎麦を食したという記述が至る所で見られるのですが、同地で食した蕎麦について

十五日 …蕎麪(そば)条を進むれば甚だ佳し。ここに来ってしばしばこの味を享す、妙は言うべからず。

(「慊堂日暦3」6ページより、…は中略)

と、その味を賞賛しています。

下諏訪からは中山道ではなく甲州道中へと向かっているのは、少しでも江戸に早く着くための配慮でしょうか。通常の参勤交代とは違い、同伴した家来の数も多くはなかった様なので、沿道の施設が比較的小規模な甲州道中でもさほどの支障とはならなかったのかも知れません。何れにせよ、甲州道中を経由したことで復路は津久井県を経由することになりました。

甲州道中が相模国内を経由する区間はあまり長くなく、鳥沢を出発した一行は翌日には相模国を経て武蔵国に入ってしまいます。このためもあって、日記の記述もそれほどの文量にはなっていません。

二十三日 暁行して犬目駅に至れば天明(てんめい)なり。三十丁にて野田尻、一里にて鶴川駅、駅外の鶴川は左より来り、南行して桂川に入る。十八丁にて上の原駅、二十余丁にて諏訪村と曰い、関あれども呵せず。関の西を諏訪村と曰い、絹商駅あり。関外の下坂は頗る険しく、桂川は西より来り、猿橋に比すれば見るところ大を加う。小水が左より来るを界川と曰う、(かい)(さがみ)の界なり。界の東はすなわち津久井駅、石壁は嶄立(ざんりつ)し、桂水はこれがために屈曲し、反流するものの如し。路はまた曲屈して上り、上り窮まる処を関野駅(代官江川氏)と曰う。十六町にて吉野駅と曰い、駅は与瀬に距ること一里、駅外に間道あり、南して舟を桂水に下す。一村を経て、村外にて再び桂水を渡り、左行して崖を()ずれば険悪を極む。凡そ四丁にて与瀬に(いた)る。官道に比すれば近きこと六の四。与瀬よりまた山行すること半里、小原と曰う。小原より上れば小仏嶺、嶺頭より直ちに下れば、小仏駅を経て駒木野関に入るべし。余は南行すること五十町、高雄山寺に入って宿す。香廚(こうちゅう)は極めて草々にして、ただ一酌あり口によろし。

(みの)より(しなの)を経て(かい)に入り、千山万水、変態百出し、小仏嶺に至れば、すなわち山囲は忽ち開け、水勢は平流す。感じてこの詩をつくる。

中山の路千里、跛渉(ばつしよう)して高深に()む。折れて入る仙禽郡、回看す小仏岑。昂低(こうてい)の山に意あり、険易(けんい)の水に心なし。ただに峨漾(がよう)を窮むるのみならず、併せて世事を(そらん)ずるに堪えたり。

二十四日 早起すれば、寺の四辺はみな大木、木の間に鎌倉絵島を俯視す。禽声は啁哳(とうたつ)人間(じんかん)にて聞くところに非ず、寺僧に問えば知らず。寺北の飯綱祠は頗る壮厳、石階は百級に近く、香火は近郡の最たりと云う。山を下ること十余丁、右に降ることまた十余丁、琵琶瀑を観る。瀑は極めて小、高さは三丈ばかり、失心の人が来り浴すれば効あり。余は灌水癖あるも、早辰にて霜氷は地に満ち、地はまた陰峭、すなわち去る。北行すること十余丁、駒木野駅にいたれば、子肅は輿馬を整頓して()つこと久し。二里にて八王子駅、頗る繁盛、繭糸を売る者街に満つ。肉舗(三河屋)に就き野豕を食す。二里にて日野駅、玉川を渡り、二里にて府中に宿す。

(11〜12ページより)




原付で甲州街道を走ってみた(その28)与瀬-勝瀬-吉野
慊堂にとっては普段通り慣れない道筋だけに、往路に比べると甲州道中では多少文量が増えています。とは言え、基本的には宿場の名前とその間の里程を記すに留まっている区間が殆どで、相模国内では宿場の名称以外の記述は所謂「二瀬越え」の間道について触れているのが殆ど唯一となっています。もう少しゆっくり滞在することが出来ていれば、駒木野ではなく高尾山に宿泊した折の記述程度には委細が記された可能性があったでしょうが、結局相模国内は通過しただけのためか、漢詩を詠む際にも相模国のことに触れずに周囲の景観を詠み込んでいます。

この「二瀬越え」については、umegoldさんの動画による詳細なレポートがありますので委細はそちらに譲ります。その他、甲州街道の様子についてはumegoldさんの一連の動画が非常に詳しく解説されています。この区間の「新編相模国風土記稿」の記述については後日津久井県内の各村の記述をまとめる際に改めて取り上げる予定です。

他方、相模国を経由しない道中の記録としては、文政10年10月28日に佐倉藩へ出発したものがあります(「慊堂日暦2」127〜129ページ)。これは同藩主堀田正睦(まさよし)向けに講義を行っていたよしみから佐倉へ招かれたものの様で、往路は八幡から舟で中川関を経て白井で一泊し、29日に佐倉に到着しています。その後11月5日まで佐倉に滞在して同地の藩士などに会っていますが、その間に「印旛湖」(印旛沼のことと思われる)を訪れてその風景を賛美しています。帰路では千葉を経由して千葉寺や佐倉藩の海防所を視て、舟で江戸へと戻っています。

また、天保12年(1841年)6月15日には再び舟で江戸橋から木更津へ渡り、そこから陸路で富津へと向かっています(「慊堂日暦6」121〜122ページ)。18日には江戸へ戻ろうとしたものの、舟が出ずに22日まで滞在しています。帰る直前には浦賀奉行と会っていますが、この頃には浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わっていたために、その巡視の過程で房総半島に渡っていたものの様です。この木更津・富津行きが、松崎慊堂にとって事実上最後の「旅」となりました。




迅速測図上の「石経山房跡」付近
東側を南北に流れる沢が「羽沢」で水田になっていた
※地図の「不透明度」を100%に切り替えると現在の地形図に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)
ところで、松崎慊堂は日記中で居宅について「荘」「山荘」などの表記を用いていました。と言っても江戸からさほど離れた場所にあった訳ではなく、現在の渋谷区広尾3丁目の辺りに広がっていた田畑の中に建てた荘で隠居がてら弟子に講義を行いつつ、桜田にあった児舎や主君などの元へも出掛けて講義をしていました。山荘の東側には「羽沢」が流れていて、そこには水田が開かれていました。江戸町奉行の支配下に当る地域でしたが、その外縁に近いこの付近は農村となっていた訳です。「羽沢」の地名は昭和22年の地形図でも確認出来ますが、その後は新番地表記の施行に伴って消滅した様です。

この農村も明治時代に入ると市街化が進み、現在の一帯はマンションなどが建ち並ぶ高級住宅街に様変わりして当時を偲ばせる様な景観の残る区画はありませんが、浅い谷地形の底にかつての羽沢に沿って「いもり川」と呼ぶ緑道が通っているのが、その名残と言えそうです。以前「はげいとう」のことを取り上げましたが、慊堂が時に様々な作物を植えたりしていたのも、こうした田畑の中であったということは、当時の景観を考える上では記憶に留めておくべきでしょう。
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『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』の補足など

今回は以前の記事の簡単な補足を。

以前『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』を書いた際に、twitter上でこんなやり取りをしていました。


この際のツイートが一昨日になってリツイートされたりtogetterでまとめられたりしたのを切っ掛けに、私も改めて以前書いた自分のブログの記事を読み返しました。この記事をまとめた折にはまだ「第1回内国勧業博覧会」の出品目録が「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているのに気付いていなかったので、引用した文献の内容をソースに当たってみるという作業をしていなかったのですが、今回読み返すに当たってはそれら出品目録もチェックしてみました。

該当する箇所を書き出してみます。
  • 礦石 (一)相摸國足柄上郡谷ケ村 ◯砥石 (二)靑色 
    (平山村 古瀨左十郎
  • 陶土 (一)薄靑色、大住郡戸川村 (二)白色 (三)アヅキ色 ◯砥石 (四)薄靑色 
    (仝村 桐山金藏
  • 砥石 (一)荒砥、武藏國多摩郡五日市村 
    (仝村 平山藤吉
  • 砥石 (一)淡黑色相摸國愛甲郡小野村 
    (仝村 小瀨村三司
  • 砥石 (一)剃刀砥、津久井郡吉野驛 
    (仝驛 吉野十郎
  • 砥石 (一)荒砥小淵村中村榮助 
    (仝村 中村吉間多

(以下出品目録引用は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)


この出品目録は出品者単位でまとまっているにも拘らず、掲載順序が出品物によって分類されており、同一人物が複数の出品を行った場合に、そのうちの最初の1つに合わせて分類されるという順列になっており、特定の出品物に関して出品者を探そうとすると、他の場所も探しに行かなければならないという、少々厄介な構成になっています。ただ、神奈川県から出品された砥石については、その後の追加分も含めて確認した限りでは、この6点ということになりそうです。

これに対し、以前の記事で引用した文章では「秦野市戸川、厚木市小野、相模原市藤野町、山北町谷ケ、川崎市中原区」と一覧が記されていました。このうち、津久井郡吉野駅と小淵村はどちらも相模原市藤野町(当時、現:相模原市緑区吉野・小渕)に属していますので、最初の4地点については上記の引用中の5町村と照合出来ます。しかし、最後の「川崎市中原区」に該当する村(何れも橘樹郡に属する小杉村、上丸子村など約20ヶ村)からの出品は記載されておらず、代わりに現在東京都あきる野市域に当たる「多摩郡五日市村」の出品が記載されています。

この点について、引用した記事を執筆された生命の星・地球博物館学芸員の田口公則様にメールで確認させて戴いたところ、御自身でもこの一覧を確認されて疑問を持たれたものの、私信でやり取りをした際に中原区の名前がとある文献(失念されたとのこと)に掲載されていたと指摘を受けて、引用した様な表記とした旨のご回答を戴きました。

この出品目録は限られた期間に受け付けた出品物をかなり限られた時間内に出版物とするために、後日に補遺を2度にわたって出版し、更に正誤・出品取り消し等の修正一覧を最終巻にまとめるなど、相当に慌ただしい編集を経て世に出たものです。従って、目録に出品物の遺漏のあった可能性がないとは言えないのですが、その出典が果たしてどの様な性質のものであったのか、砥石が出るのが珍しい土地であるだけに気掛かりです。


五日市の位置(「地理院地図」より)
五日市ということであれば、ここは秋川渓谷の麓に当たる地であり、奥多摩の山地南部に当たります。この地域の地質図(リンク先PDF)ではこの地域の地質は砂岩や凝灰岩の地層から成っている様です。「内国勧業博覧会」の出品目録では五日市村の砥石に「荒砥」と記されていますが、これには目の粗い砂岩や凝灰岩が主に用いられることと考え合わせると、確かに地質の特徴と合いそうです。


これだけでは物足りないので、「内国勧業博覧会」出品目録から別の話題を取り上げてみます。

こちらのページの左上には「銕砂」という表記が見えます。
  • 銕砂 (一)三浦郡金田村(二)秋谷村 
    (金田村 菱沼三郎兵衛
  • 銕砂 (一)鎌倉郡極樂寺接地七里ヶ濱 
    (大鋸町 森小十郎
  • 銕砂 (一)公鄕村字猿(島誤植ヵ) ◯白土 (二)字馬門 
    (仝村 石渡忠八

この一覧で「銕砂」が何のことかお気付きになった方もいらっしゃると思います。砂鉄のことですね。七里ヶ浜の砂浜が砂鉄を多く含んでおり、かつてはこれを研磨剤に使っていたことは以前紹介しました。


横須賀市秋谷の位置

三浦市南下浦町金田の位置

「内国勧業博覧会」ではこの七里ヶ浜の他、三浦半島の金田村(現:三浦市南下浦町金田)、秋谷村(現:横須賀市秋谷)、そして猿島(現:横須賀市猿島)からも出品されています。これらの出品者が具体的に何処で砂鉄を採集したのかは不明ですが、何れも海岸に砂浜が伸びる地であり、七里ヶ浜とも近いこともあって何らかの相関性を考えたくなるところではあります。確かに今でも三浦半島の砂浜では砂鉄が多い箇所が多く、砂浜が黒っぽいのが七里ヶ浜と共通する特徴となっています。

この相模湾や東京湾岸の砂鉄については、1950年代の研究論文がPDF化されて公開されているのを見つけました。その後の研究が存在するのかどうかは不明ですが、これに従えば、比較的近い地域から海岸付近に運ばれ、それが海岸付近の湾流や風の作用で砂浜に堆積したものということになる様です。こうした作用が古くから存在したのであれば、七里ヶ浜がかつて砂鉄の供給地であったのと同様、三浦半島に点在する砂浜も、あるいは中世には同様に砂鉄の供給地として機能していたのかも知れません。
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