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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その1)

前回の記事で紹介した通り、「国立国会図書館デジタルコレクション」が12月21日にリニューアルされました。

具体的なリリース箇所は、プレスリリースのPDFにある通り、
  1. 全文検索可能なデジタル化資料の増加
  2. 閲覧画面の改善
  3. 画像検索機能の追加
  4. シングルサインオンの実現
ですが、この中で最も大きいのは「全文検索可能なデジタル化資料の増加」でしょう。前回の記事で追記した通り、古典籍資料の崩し字のOCR結果は対象外となっているものの、それでも「5 万点から約 247 万点」と大幅に対象となる資料の点数が増えました。

そこで、今回はこれまで私がこのブログで取り上げた項目について、今回のリニューアルで新たな資料を見出すことが出来る様になったかどうかを試してみることにしました。


1つ目は、旧東海道が相模川を渡河する地点に明治時代に入って以降に架橋されては流失を繰り返した「馬入橋」です。その過程についてはまだ充分に史料を集め切れていない状態ですので、今回の全文検索拡充で何か新たな発見がないかに期待して、検索を試みました。

単純に「馬入橋」とだけ検索キーを指定すると630件もの資料がヒットします。これでは全てを確認するのが困難ですので、明治元年から明治45年の間に刊行された資料に絞り込むと、40件の資料がヒットしました。何れもタイトルをはじめ従来の項目を検索したのではヒットし得ない資料です。

これらを1つ1つ見ていく中で、これまで私が気付いていなかったものがかなりの点数見つかりました。但し、「国立国会図書館内限定」資料は閲覧出来ていませんので、今回は「ログインなしで閲覧可能」な資料と「送信サービスで閲覧可能」な資料のみを確認しています。

まず、「神奈川県県治一斑」と題された一連の資料が4件ヒットしています。それぞれ明治19年(1886年)明治20年明治22、3年明治27年のものです。これらの資料は神奈川県内の統計をまとめた資料で、「馬入橋」が登場するページは神奈川県内の主要な橋の名称、所在地、橋の主な材質(鉄か木か)、長さ、幅の各項目が一覧にまとめられており、馬入橋は4件とも「大住郡(須馬村馬入)/木/120間/3間」と記されている点が共通しています。

ここで問題となるのは、該当する馬入橋の架設時期と落橋した時期です。以前の私の記事でも触れた通り、馬入橋は明治16年(1883年)には木造トラス橋として架設されたものの、「明治工業史 土木篇」(工学会・啓明会編  1929年)によれば「架設後八九年にして流失」してしまったとされています。ここから判断すると、馬入橋は明治24~25年には落橋してしまっていたことになります。しかし、上記一覧では明治27年にも現存しているかの様に記されています。つまり、明治27年の「神奈川県県治一斑」と「明治工業史 土木篇」には齟齬があることになります。

この齟齬はどの様に解するべきなのでしょうか。そこを考える上では、ヒットした資料のうち一連の「官報」を見るのが良さそうです。なお、ここでは「馬入橋」の他に「馬入川」で同様に明治期の資料を検索した結果も含めています(以下「…」は中略、強調はブログ主)。

明治18年(1885年)7月7日(官報第604号):

◯水害續報…神奈川縣ノ水害續報ニ據レハ管下相摸川及酒勾川ハ去月廿九日己來强雨ノタメ出水甚シク爲ニ人家數戸流亡溺死者貳人アリ又馬入橋ハ本月二日落失セリ(神奈川縣報告)

明治18年(1885年)7月9日(官報第606号):

◯水害續報…神奈川縣 官報第六百四號ニ掲載セル神奈川縣水害續報中馬入橋落失トアルハ誤󠄁報ニシテ該橋ハ橋臺ノ損傷ニ止マリ一時通行ヲ差止メタルモ其ノ後修繕ヲ加ヘ既ニ開通セリ(神奈川縣報告)

明治25年(1892年)7月28日(官報第2725号):

◯暴風雨水害…神奈川縣ニ於テハ去ル二十一日午後七時ヨリ翌二十三日夜ニ至ルマテ强雨ノタメ…高座郡ニテハ相模川ノ增水殆ト一丈三尺ニ至リ渡船ハ總テ停止シ且ツ東海道筋馬入川架橋墜落ス…(神奈川縣)

明治27年(1894年)8月14日(官報3338号):

◯風雨水害等…神奈川縣…馬入川滿水東海道筋馬入橋六十間餘流失次第ニ減水人畜死傷ナシ本月十一日午後十時十四分神奈川縣發

明治29年(1896年)9月10日(官報3962号):

◯雨水被害…神奈川縣…相模川厚木町ニテ一丈五尺、全町床下マテ浸水馬入橋八十間流失…一昨八日午後九時神奈川縣發


まず、3番めの明治25年の記事には馬入橋が落橋したことが記されています。これは「明治工業史 土木篇」の「架設後八九年にして流失」という表現から考えられる落橋時期と一致するので、木造トラス橋が失われた年月日を特定する記事と考えて良さそうです。しかし、そのわずか2年後と4年後に橋の一部が流失したとの報告が官報に掲載されています。その間に馬入橋は再建されたことになります。

この状況の理解を助けてくれる記事が載った資料が、全文検索でヒットした別の資料の中にありました。明治24年の「一馬曳二輪車試験行軍実施報告写」という資料で、これは当時の軍部が作戦遂行上重要と考えた東海道や大山道といった道路について、馬や車の通行が充分確保できるかどうかを実地で検証したレポートです。

第十日三月二十六日/晴 本日小田原出發藤澤ニ向テ行進ス本日ヨリハ東海道ナルヲ以テ道路平坦土質砂礫ノ硬固ナルモノニシテ車輌ノ運轉容易ナリ…行程中酒匂川馬入川アリト雖トモ堅固ナル橋梁ヲ架設シ唯馬入川橋梁流失セル部分二百五十米突ハ假橋ニシテ幅二米突ナルモ欄杆ヲ付シ車輛ノ通過ニ妨ケナシ

(合略仮名などは適宜カナに分解)


「神奈川県県治一斑」では馬入橋は全長120間(約218m)とされていましたが、この資料の「250m」はそれを超える長さとなっています。このことから、落橋したと考えられる明治25年の1年前の時点で、馬入橋は既に「仮橋」の状態に変わってしまっていたと考えられます。完成当初は3mの幅があったのに対し、仮橋に置き換わってしまった区間は2mに減じていたものの、車両の通行はどうにか可能な状態を維持していたとされていますが、既に木造トラス橋の姿は失われていたことになるでしょう。

更に、官報には明治18年にも馬入橋は橋台の損傷を受けたという報告が上がってきています。明治16年に木造トラス橋が竣工してからわずか2年しか経過していないことになるのですが、これほど近い時期にこの様な報告があったとなると、実際は報告が上がらない程度の小破は明治25年の落橋前までの間しばしばあったのかも知れません。

全文検索でヒットした資料の中には、明治26年に刊行された「凶荒誌」(梅森三郎 編 有隣堂)という書物もありました。日本の歴代の災害を時系列にまとめたものですが、その明治17年の項に

七月一日…神奈川縣多摩川、相摸川、酒勾川、洪水潰家百余戸溺死十一人負傷三十八人馬入橋落墜ス

と記されています。官報は明治16年7月2日から刊行が開始され、同年中には既に風水害によって架橋に損傷があった場合に掲載された事例があったことを考えると、「凶荒誌」の記す明治17年の官報には馬入橋の損傷や落橋に関する報告がヒットしていない点は齟齬である可能性があり、「落墜」という表現が正確かどうかは検証が必要です。しかし、これも多少なりとも馬入橋が損傷を受けた事例ということになるのかも知れません。そうなりますと、明治16年に竣工した木造トラス橋は早くも翌年から損傷を受けていたことになります。


この様に、損傷しては仮橋で通行を確保し続けていた経緯を踏まえて考えれば、馬入橋は明治25年以降も仮橋の状態で通行を何とか確保していたということになるのでしょう。そして、その仮橋も2年毎に大規模な損傷を受けては架設し直すという、極めて脆弱で負担の大きい運用を続けていた様子が浮かび上がってきます。

しかし、飽くまでも「仮橋」であることから、何れは本設の橋を「復旧」させたい意向はあったのかも知れません。それが明治27年の「神奈川県県治一斑」でも従前のデータが維持され続けた理由なのでしょう。その後の馬入橋の本設の経緯についてはまだ充分な資料がないために明確ではない部分が多いのが現状ですが、これほどの頻度で馬入橋の修繕が必要な運用を長期間にわたって続けるのは、その労力や経費負担の面でも過重な状況であったことは想像に難くありません。

因みに、全文検索でヒットした資料には、上記の様な馬入橋の損傷に関するものの他に、馬入橋を経由したことを示すために名前が挙げられているものが数多く含まれていますが、それらの中に少し毛色の違うものがありました。

八月五日…午后一時出發と定む。三人道を大佛坂の切通しにとり、藤澤驛を經て、四時茅が峠(ママ:茅ヶ崎か)に夕食をなし、夕暮馬入橋に到る。時に月出て、天水の如し。今宵(こよい)はこゝに觀月の宴を開かんと、橋の中央に座をかまへ、雑談に時を移すに、吹く河風の涼しさ、骨まで()え渡る心地す。

(「運動界」第1号第5巻 明治30年(1897年)11月 運動界発行所、ルビも同書に従う、傍注はブログ主)


橋の中央に居座って月見がてらに夕涼みに興じるとは、仮橋で2間まで幅を減じていた馬入橋の上ではかなり邪魔になりそうな状況ですが、見方を変えればそのくらいに日没後の通行量は少なかったのでしょう。当時のスポーツ雑誌に記載された富士登山の行程を記した紀行文ですが、この様な思いがけない資料が出てくるのも全文検索ならではと言えるでしょう。

何れにしても、「馬入橋」の検索結果はこれまでにない多くの発見をもたらしてくれました。無論、郷土史の資料は国立国会図書館だけでは充分に網羅されておらず、地方のみに存在するものも数多くありますので、これで全てを発見できた訳ではないことは言うまでもありません。また、OCR精度による制約も引き続き存在しているものと考えられますが、それでもこれだけの大きな成果が得られるという点で、今回の全文検索のリリースは大きな進歩と言えそうです。

今回はひとまず「馬入橋」を検索した結果の分析のみに留め、次回他の検索結果をもとにもう1回レポートをまとめる予定です。

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「ルートラボ」終了対応:中原街道のルートに手を入れました

先日の「LatLongLab」の終了発表以来、「ルートラボ」で作成したルート図を「地理院地図」で作成した地図に差し替える作業を少しずつ進めています。「ルートラボ」では表現出来なかった複数ルートの表示や、「明治期の低湿地」や「陰翳起伏図」等との合成など、差し替えに際して多少情報を追加した地図もありますが、「ルートラボ」終了までの時間が限られていることもあり、基本的には作成したルート自体には手を加えることなくそのまま使用する方針で作業を進めて来ました。しかし、中原街道のルート図を差し替える段になって、少しルートに手を入れることにしました。

以前の記事で、「地理院地図」で過去の空中写真を重ねて表示させる機能について紹介しました。この機能を使って、中原街道の道筋のうち開発によって失われた区間について、多少なりともトレースし直してみる作業を、この差し替え作業を始める前から少しずつ進めていました。「ルートラボ」のルート図を差し替える作業を始めたことで、中原街道の作業は一旦中断せざるを得なくなっていましたが、この機に完成させて差し替えることにしたものです。

都心部から小杉付近までは1936年頃の古い空中写真を重ねることが出来ますし、そこから横浜市都筑区南山田町辺りまでは1940年代後半の空中写真が使えます。この区間では現在の国道1号線(第二京浜国道)や神奈川県道45号として大幅に拡幅される前の道幅が、都心部など一部先行して拡幅された区間を除いて見えています。


1936年頃の空中写真に見える、洗足池(東京都大田区南千束)の南を通過する中原街道(中心十字線、以下同じ)
東急池上線の洗足池駅との間が比較的空いており、将来この方向に拡幅されることがわかる
1940年代後半の写真でもまだ拡幅されていないことが確認出来る(「地理院地図」)


また、多摩川では昭和9年(1934年)に廃止された「丸子の渡し」に繋がる道筋がまだ見えており、右岸側(川崎市側)では堤防内がまだ田畑などに利用されていた状況を確認出来ます。今回の修正では基本的にこれらの道筋をトレースする様にしており、特に現在は失われてしまった道筋を特定するのに有効な手法と言えると思います。


1936年頃の空中写真に見える、多摩川河川敷を丸子の渡しへ向かう道筋
その南側の土地は畑として利用されていると考えられる
大正年間に堤防が出来るまでは渡しのすぐ傍らまで集落があった(「地理院地図」)

それ以外の区間では1960年代前半の写真のみになってしまいますが、この時点でもまだ拡幅工事を施される前の状況が見られます。また、特に横浜市都筑区の勝田(かちだ)・茅ヶ崎付近(旧:武蔵国都筑郡勝田村・茅ヶ崎村)では港北ニュータウンの開発によって周囲の地形ごと道筋が完全消滅した区間があり、その道筋を追う上では重要な手掛かりを与えてくれます。他にも保土ケ谷バイパスをはじめ各所に開発による地形の消滅の影響を見ることが出来、時代を遡る上でのヒントを得ることが出来ます。


1960年代の空中写真に見える、横浜市都筑区茅ヶ崎一丁目付近のかつての中原街道
かつては尾根筋を上っていたと考えられ、西側に沢筋が見えているが
現在はこの辺りの地形は大きく変わっており、街道の痕跡は地形共々全く残っていない(「地理院地図」)

なお、これらの写真は何れもモノクロで解像度が現在のものと比べてまだ粗く、特に屋敷林や建物などの影が被ってしまっている箇所では道筋を見極め難くなってしまっています。その様な箇所では無理に写真をトレースせず、現在の地形図と照合して補っています。

また、これらの空中写真では当時の技術的な限界から多少の誤差を含んでおり、「地理院地図」で重ねて表示させる上では各種の補正作業が施されていることについては、以前の記事でも紹介したこちらの論文で説明されています。ただ、こうした補正作業を経ても誤差が完全には取り除けておらず、特に写真の辺縁部では以下の様に道筋など繋がらなくてはならないものが繋がらない箇所が見受けられます。


空中写真の繋ぎ目で中原街道が互いにズレてしまっている箇所
横浜市都筑区池辺町付近の中原街道や、それ以外の道筋もかなりズレている(「地理院地図」)

従って、以前の街道の位置をこの機能によって完全に特定することは出来ません。街道の線形などから総合的に判断するのに留めた方が良さそうです。それでも、道路拡幅後に不自然な形で残った歩道や脇道が、かつての街道の名残であることを確認する程度には有効に活用出来ると思います。

中原街道・空中写真トレース版
中原街道・空中写真トレース版
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この様な形でルートを引き直した結果は右の様になりました。街道の性格を考え、江戸時代初期に小杉(現:川崎市中原区小杉陣屋町)と中原(現:平塚市御殿)の2箇所にあった「御殿」の位置にマーカーを打ってあります。

なお、空中写真では既に道筋を付け替えられた後の状態になっている箇所(厚木基地南側と「廻り坂」など)では、過去の地形図を参考に概略で線を引いています。相模川の西側についても既に失われた区間が多いとされていますが、こちらについては原則的に現道を元に線を引いています。

また、今回併せて寒川町が「中原街道」のガイドを立てている「別ルート」の道筋を破線で追加しました。これは「田村通り大山道」の宿場でもある一之宮を経由せずに、大蔵村(現:寒川町大蔵他)の辺りから直接田村の渡しへと向かう道筋です。幕末の一之宮村に伝わる「一之宮村外二十七ケ村組合麁絵図面」(「寒川町史15 図録」78ページ所収)ではこの道筋を「中原宿往來」と記しており、この時期の一之宮村ではこちらを本道と考える例があったことがわかります。もっとも、実際は継立を運用する上では一之宮村の本集落を通る大山道を経由する必要があったと考えられ、多くの絵図では田村の渡しから大蔵村への道筋を大山道などよりも細く描くものが目立ちます。その様な事情を考え、今回はこの別ルートは破線で描き入れるに留めました。


墓地の傍を通る細い道に
中原街道であることを解説するガイドが
寒川町によって立てられている
このガイドから南側30mほどの路傍に立つ
地蔵菩薩立像(寛延2年・1749年)の
右側面には「□(「田」と推測される)村道」と刻まれており
「田村の渡し」へと通じる道であることが確認出来る
ストリートビュー
中原街道・空中写真トレース版一之宮付近
中原街道・空中写真トレース版一之宮付近
1960年代の空中写真と合成
この時点で既に工場の敷地などによって
道筋が失われた区間が少なからずある

この「別ルート」も現在では工場の敷地になったり区画整理が行われたりしたことによってかなりの区間が失われており、1960年代の写真を頼りに線を引き、その時点で既に失われていた区間については大筋での推定をしています。

中原街道について後日仔細に検討する機会を持ちたいと考えていますが、この図についてもその機会に改めて見直したいと思います。それまでの暫定的な図とお考え下さい。

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【図録紹介】「ひらつかの村絵図を読む」(平塚市博物館)

今年も相変わらず思う様に活動出来ない中、最寄りの図書館で入手出来る資料の範囲で記事を書いてきました。県内各地の博物館などで興味深い催し物が色々と行われていることは折に触れて情報を得ていましたが、何れも出掛けることは叶わずにいます。

そうした中で、昨年秋に平塚市博物館 で興味深い特別展が催されていたことを、つい最近になって知りました。

2017年度秋期特別展 ひらつかの村絵図を読む(2017年10月21日〜12月17日、リンク先は当時の機関報のPDF)


このブログでは「新編相模国風土記稿」中の街道に関する記述を拾い上げる作業を行っていますが、生憎と大住郡の分が未完成になっています。それはひとえに、「風土記稿」中の大住郡の街道に関する記述を拾い集めて同じ道について書かれていると考えられるものを照合していっても、なかなか思う様に繋がらない箇所が散見されるからで、何か他の史料を照合しながら記述を検証しないと整理が付かない状態になっています。特に、大住郡内各村の道の位置関係が具体的にわかる地図が必要ですが、地形図と言えるものは明治初期の「迅速測図」が最古で江戸時代まで遡ることは出来ません。無論、道の位置はそれほど容易には変え難いものですから、「迅速測図」もある程度の参考にはなるものの、人力車等の出現に合わせて道を付け替えたりしたケースもあるため、これだけを典拠にするのは問題があります。

市町村史などの江戸時代の史料集には絵図が付属しないことが多く、付属しても精々数枚程度で、多数の絵図をまとめたものを見ることがなかなかありません。ある程度高精細で大判のカラー印刷が必要になることから、コスト面の制約をクリア出来ないのが要因としてはあるのでしょう。神奈川県立図書館で検索した限りでは、相模国域では
  • 相模原市(旧市域:かつての津久井郡域含まず):

    「相模原市史 第5巻付図」(1965年、村絵図10点)

  • 足柄上郡山北町:

    「江戸時代がみえる やまきたの絵図:山北町史 別冊1」(1999年)

  • 旧津久井郡津久井町(現:相模原市緑区内):

    「ふるさと津久井 第3号:特別号『津久井の古地図』」2002年

が見つけられた程度でした。神奈川県域に拡げても、他に
  • 川崎市:

    「絵図でめぐる川崎-失われた景観をさぐる-」(2010年)

を挙げることが出来るのみです。

その点で、平塚市のこの特別展の様に村絵図をまとめて参照出来る機会は、何処の市町村のものであってもなかなか貴重です。幸い、この特別展では図録も製作されており、大住郡の街道についても何かヒントが得られるかも知れないと期待を持って取り寄せてみたところ、かなり充実した内容で有益な資料として活用出来るものとなっていたので、ここで紹介することにしました。因みに、図録の巻末の主要参考文献の一覧には上記の川崎市の図録の名前も挙げられており、今回の特別展開催に当たって何かしらの示唆を得ているものと思われます。

この図録の目次は次の通りです。

  • 第1章 描かれたひらつかの村々
  • 第2章 川へのまなざし
  • 第3章 裁許絵図
  • 平塚市域の近世略年表
  • 平塚市域迅速測図
  • 平塚市域の近世村
  • 平塚市域54か宿村の合併

まず、第1章に収録された絵図の村名又は領域名を一覧にしてみます。複数の村絵図が採録された村もありますので、ある程度の区別のために年代を添えることにしました。表題の脇に「江戸時代」「明治時代」とのみ記されているものは、本文中から凡その年代が推定されている箇所を採用しています。絵図の中には、相給で複数の領主がいる村のうち1人の領主の分のみを描いたものも含まれています。配列は図録の掲載順です。

  • ◎平塚宿・平塚新宿(文化8年・1811年)
  • ◎南原村(文化文政期以降)
  • ◎南原村(文化8年以降)
  •  新土村(江戸時代年代不詳)
  •  入野村(明治時代年代不詳)
  •  飯島村(明治時代年代不詳)
  •  寺田縄村(寛文5年以降・近代後筆あり)
  • ◎松延村(明治時代年代不詳)
  • ◎大神村(文政13年・1830年)
  • ◎大神村(文化文政期)
  • ◎岡崎郷八ヶ村(江戸時代年度不詳)
  • ◎丸島村(明治4年・1871年)
  • ◎真田村(元禄元〜5年)
  •  真田村(明治8年・1875年)
  •  南金目村(明治8年・1875年)
  • ◎北金目村(江戸時代年代不詳)
  •  北金目村(江戸時代年代不詳)
  •  北金目村(江戸時代年代不詳)
  •  北金目村(明治時代年代不詳)
  • ◎北金目村(江戸時代年代不詳)
  • ◎広川村(江戸時代年代不詳)
  •  片岡村(明治時代年代不詳)
  •  土屋村(明治時代年代不詳)
  • ◎土屋村(天保7年・1836年)
  • ◎中原御林(文化文政期以降)


「ひらつかの村絵図を読む」第1章に採録された村絵図の対象地域
第1章に採録された村絵図の対象地域
「中原御林」は除いているが、平塚宿・須賀村以北
中原村・四之宮村以南の比較的広い地域が
描かれている
(図録80ページ「平塚市域の近世村」に着色して作成)
図録の凡例には、展示資料の中に図録に採録されなかったものもある旨の記載があり、また今回の展示に供されなかった絵図もあると思われますので、これが平塚市域で見つかっている江戸時代の村絵図の全てであるとは言えないでしょう。とは言え、平塚市域の江戸時代の村絵図をこれだけまとめて見られる資料が出来たこと自体、喜ばしいことです。

また、上の一覧で村名の前に付した◎は、一緒にトレース図が添えられているものです(以下の一覧も同様)。原図だけでは判読が難しい所が多いですから、全部ではないにしてもかなりの枚数の絵図にトレース図が添付されているのは大いに役に立ちます。

第1章の中では北金目村の5枚が最多ですが、こうした絵図は村の状況を領主などに説明する必要がある度に描かれていたことがわかります。明治時代に入ってから描かれたものも混ざっていますが、その描き方は基本的に変わっておらず、明治に入ってもしばらくは旧来の方法で絵図を作成することによって村内の事情を把握していたことが窺えます。寺田縄村の江戸時代の絵図に明治時代の後筆があることも、江戸時代の絵図が明治時代に入っても利用し続けられていたことを意味しています。

因みに、「風土記稿」の編纂に当たり、昌平坂学問所は文政7年(1824年)頃から各村に村明細帳を提出する様に求めており、その際に村絵図を添える様に指示しているのですが、今回の特別展に展示された絵図にはこの時に描かれたと考えられるもの(正本の方を提出するので、残っているとすれば控ということになりますが)は含まれていませんでした。これが残っていれば、「風土記稿」と照合させるには最良の史料ということになるのですが、実際にはなかなかその様な絵図を見掛けることがありません。

第2章は治水や利水に関係する絵図がまとめられており、その性質上から複数の村に跨がる絵図が多くなっています。以下の一覧では、掲載されている絵図を拾い上げましたが、関連する文書が他に数点掲載されています。絵図の名称だけでは描かれている地域がわかりにくいものは、適宜解説を加えました。絵図の名称は図録によるもので、必ずしも絵図そのものにこの名称が記載されているとは限りません。

  • ◎金目川通り堰位置図(享保6年以降、最上流の北金目村より最下流の平塚宿間の金目川流域)
  • ◎南原村巡見絵図(天明8年・1788年)
  •  掛渡井図(江戸時代年代不詳、南原村)
  •  上平塚境悪水吐圦樋図(江戸時代年代不詳)
  •  拾弐ヶ村麁絵図面(明治時代年代不詳、広川村・公所村・根坂間村・河内村・入野村・入部・久松村・長持村・友手村・徳延村・松延村・山下村)
  •  片岡村・飯島村堤絵図(江戸時代年代不詳)
  •  大堤決壊図(江戸時代年代不詳、南金目村他)
  •  土屋村堤防決壊図(明治3年・1870年)
  • ◎相州大住郡土屋村之内字庶子分寺分金目川通堤切所之絵図面(明治元年・1868年)
  • ◎岡崎郷田地用水絵図(江戸時代年代不詳)
  • ◎岡崎郷田地用水絵図(江戸時代年代不詳)
  • ◎相模川絵図(江戸時代年代不詳、大神村及び高座郡倉見村・宮山村)
  •  須賀・柳島本浜入会浜略絵図(明治8年・1875年)
  •  相模川河口絵図(享保13年以降、須賀・柳島村)

第1章の北金目村の5枚の絵図でも、隣の南金目村に築かれた金目川の大堤が描かれるなど、治水が主関心事になっている村が少なくなかったことが窺えます。現在の平塚市域には、東の境を相模川が流れ、西側の広範囲を金目川水系の流域が占めていますが、この第2章に集められた資料は大半が金目川水系に関するもので、相模川に関するものは最後の3枚だけでした。これが果たして今回の特別展の対象になった絵図がたまたまそういう傾向を持っただけなのか、それとも平塚市域に残っている治水・利水関係の絵図の分布がその様な傾向を持っているのかは、これだけでは判断出来ません。江戸時代に相模川よりも規模の小さな金目川水系に関する絵図や文書が多くなる傾向があったとすれば、その理由が何処にあるのか、興味を惹かれます。

第3章では複数の村の間で争われた裁許の判決として作成された絵図がまとめられており、必然的にこちらも複数の村を含む絵図が並んでいます。以下の一覧でも文書類は対象外としました。

  • ◎金目川通堤川除普請裁許絵図(貞享元年・1684年、金目川以北、玉川以西の全28村の位置が描かれる)
  •  金目川通組合縮図(明治14年・1881年、前図の対象域に南金目村が加わる)
  • ◎五ケ村用水裁許絵図(宝永7年・1710年、入山瀬村・西海地村・矢崎村・大句村・城所村)
  • ◎平塚村・大磯村浦境争論裁許絵図(元禄5年・1692年)
  • ◎川幅改定絵図(貞享3年・1686年、南金目村他)

2番目の絵図は最初の絵図に示された広域の治水組合が明治時代まで存続していたことを示すためのものですから、最初の絵図と一組のものと言えます。つまり、ここには全部で4つの裁許絵図が示されているのですが、その年代は何れも江戸時代初期と言って良く、第1章の絵図のうち年代がはっきりしているものが何れも江戸時代後期から明治時代にかけてのものである点とは好対照になっています。無論、この場合も展示された絵図にたまたま共通していた特徴かも知れませんが、村同士の諍いを治めてもらうために起こした裁判の記録という性質から、後年まで末長く保管されやすかったことが、絵図の古さとなって現れているのかも知れません。

また、裁許の性質上、絵図の作成された年月がはっきりしている上、絵図に表現された事項の信頼度も高いと期待されることから、史料としては特に有効なものと言えます。そのためか、ここでは4枚の絵図全てにトレース図が添えられ、関連する文書が併せて展示されるなど、前2章に比べて幾らか手厚い解説が施されています。

因みに、この4枚の裁許絵図の中でも3枚は治水や利水に纏わるものであり、特にこれらの問題に取り組む上では絵図の製作は必要不可欠であったことが窺えます。

これらの絵図はそれぞれに目的に合う様に描かれていることから、雑多な情報を1枚の絵図に集約する様な描き方はされていません。ですので、私の様に村内の街道の位置関係を探しているなど、絵図本来の目的とは合致しない情報は必ずしも記されるとは限りません。主要な道であっても太い線で描くだけで道の名前などは含まれていない可能性も高く、私の目的がこの図録によって十分満たされるかどうかはまだ未知数です。とは言え、こうした絵図をまとめて参照する機会が少ない中では、この図録は貴重な存在であることには変わりありません。私のブログで未完のまま措かれている箇所が完成するのが何時になるのかは定かではありませんが…。

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「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。


小浜藩主の居城であった小浜城址の位置Googleマップ
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。

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